義の刃足る己が身を   作:黒頭巾

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風韻

194年、梅雨。

 

「関将軍!孫策軍七万が江夏へ、袁術軍二十万が南陽へ、交州諸侯ら十万が零陵へ侵攻を開始しました!」

 

「そうか」

 

鈍い。

襄陽の執務室で隣に立っている張遼は、迫った危機を目の前に全く動じない関籍を見て、そう感じた。

 

しかしその鈍さは、目の前の兵からすれば頼もしさを伴って写る。

 

何事にも動じることのない、天眼を持った大将として。

 

「よ……せ、籍やん」

 

真名を呼ぼうとして派手に蹴っ躓き、張遼は咳払いと共に言い直す。

真名を預けられていながら、未だ一回足りとも口にできない乙女心が、そこにはあった。

 

一回呼んでしまえば二回目は容易い。されどその一回が踏み出せない。

 

男女の付き合いは、そんなことの繰り返しであろう。

 

「はい」

 

百足衆ではない伝令兵が退室した時を見計らって言葉を発した張遼に何かを察したのか、疑問を湛えた黒い眼がこちらを捉えた。

 

張遼はその視線を受けながら樽のような経常の椅子に腰を下ろし、机に上半身を横たえる。

別段彼女には確した意図があるわけではない。が、敢えて言うならば自分が気を楽にしているのだからあなたも気を楽にして聞いてくれ、と言ったところだろう。

 

張遼は堅苦しい雰囲気が、苦手だった。

 

「敵さんは、ぎょうさん来たもんやな」

 

答えはない。別にいつものことだから、張遼は特に気にすることはない。

関籍もまた、答えを返さねばならないと案ずる必要もない。

 

張遼が喋って、時々関籍が相槌を打つ。これが副官になって以来、変わらない二人の接し方だった。

 

「まあ、ウチらは負けへんやろ。郭嘉も江陵におるし、有力な将も各地に飛ばしたんや。用意も周到、兵站も確保しとる。悲観的に見ないで気楽にやってこうや」

 

「はい」

 

最初の頃こそ――――即ち、和連討ち取りの功を他者に譲ったところを見咎めて興味を持ち、副官にしたあと直ぐは馬鹿なのではないかと思った。

 

反応が鈍いのである。

命を助けられたという恩と、奥ゆかしさからくるそこそこの好意をもって話題を振っても打てば響くといったような答えは返ってこないし、時々無反応に見えるほど考え込むことがあった。

 

いや、今から見れば『考え込むことがあった』と言えるが、当時は『無視したのだ』と思う方が強かっただろう。

 

だが、言葉の節々に込めた諧謔は介していたし、時々本質を抉るような鋭さを見せることがあった。

これらを長い目で見続けた張遼は、判断を下したのである。

 

馬鹿ではない。寧ろ敏い。勘がいいとすら、言える。

が、鈍い。鐘に革を何回も貼ったかのように、鈍いのだ。

 

張遼でなければとっくに『こいつは馬鹿だ』と判断していたくらいの鈍さをせっせせっせと掻い潜り、真贋を見極める。

 

磨けば光ると思った彼女は、見極めた自分の目を信じて磨きはじめた。

 

磨かれ、将として一流の彼女の姿を見続た関籍は、次第に人として大きくなったのである。

 

「はい、肩の力抜きや」

 

椅子から立ち上がって関籍の背後に周り、大きな肩を何回か叩いた。

僅かながらも、強張っているような風がある。

長年の付き合いであるところの張遼は、その僅かな強張りも目ざとく捉えることができていた。

 

「文遠殿」

 

「ん?」

 

「行きましょう」

 

僅かに慌てたように身を起こした関籍を、張遼は不思議な顔をしながら追った。

下駄が床に当たって一種の音曲のような律動をもって音を奏でると、早足で歩いたことによって陣羽織がはためく。

 

淡い紺。縁に煌めく金糸の刺繍。

ほとんど無地に近いからこそ、縁に縫い付けられた金色が目立った。

 

通さぬ腕の袖先にふわりとついた白絹はあるが、その両袖は翼のような雰囲気を与えるが故に『陣羽織の一部』というよりは『陣羽織についた何か』といったふうに周りからは見られている。

 

「籍やーん、ちっと待たへん?」

 

関籍の一歩は、自分の一歩と半分。

自然、関籍に早歩きをされた場合は小走りにならざるを得なかった。

 

下駄の奏でる音曲は速まり、少し忙しないような印象を与えるものになる。

いつもならこの音曲で気づくのだ。そして、歩調を緩める。

 

「む」

 

「やーっぱ緊張しとるやろ?」

 

今回は言われるまで気がつかなかった。

つまりは、いつもと違って人の様子にまで目を配っている分の余裕がないのだろうと、張遼は察したのである。

 

「勝ちに驕らず、負けに憂えず。一戦一戦に人事を尽くせば負けへんよ、籍やん」

 

「………そうですな」

 

普段は仕事を最低限こなして酒を飲み、飲みながら関籍の執務室に乱入することを常としている彼女だが、ここぞという時には頼りになった。

ようは息抜きがうまいのであろう。

 

「ほな、襄陽は魯粛と霍峻に任せてはよ行こや」

 

「軍師は何故、魯粛を信任するのでしょうか?」

 

本拠の守りについたのは、霍峻と魯粛。

荊州牧となった時に新規に登用した将と、徐州からふらふら流れてきた富豪の豪族の二人である。

 

霍峻は篤実な男であり、物静かでありながら苛烈と言う――――謂わば、小さな関籍のような男であった。武勇はそれほどでもないが、将としての一面が似通っているのである。

 

そして、魯粛。

 

このすらりと背の高い女を一言で表すならば、『超一流の問題児』だった。

 

『荊州はいい土地です。ですが主はそれを活かす術を知らない。考えたこともない』

 

魯粛は開口一番にこう直言した。

 

出会い頭に無知であると批判された主を見て、ほとんどの家臣が怒った。

何故土地を捨ててきた奴なんぞに一州を過不足なく、むしろ富ませている州牧が批判されねばならないのか。

 

だいたいの家臣の共通した思いが、これだった。

 

そして関籍はとりあえず魯粛に一郡の内政の指揮を執らせてみることに決めた。

見どころがあるなと思ったこともあった。

しかしそれ以上に、その直言ぶりが琴線に触れたのである。

 

『名君でなくとも、明君であることは確かなようですね』

 

特に礼も言わず、魯粛はさっさと任地である新城郡に去った。

関籍は今まで見ない型の人材であることに満足し、家臣たちは不満を持った。

 

郭嘉は笑っていたが、これは例外である。

 

『新城郡は最早、私を必要としないでしょう』

 

一年ほどで任地から帰ってきた魯粛は、新城郡を見違えるほどに発展させていた。

 

灌漑や整地を繰り返し、一種芸術的なまでの行政区に整備していたのである。

 

関籍はこれに対し、喜び、労った。襄陽郡の内政の指揮を任せようとすらした。

 

『その前に一つ進言を聞いていただきたい』

 

ところがその任を拝命する前に、魯粛はやらかす。

 

快く進言を聞く姿勢を示した関籍に対し、彼女はつらつらと言った。

 

『荊州は豊かです。民も皆、主の治世に伏しております』

 

これは通り一辺の世辞のようなものである。

これが世に蔓延る世辞と違うのは、事実であることくらいであった。

 

関籍は魯粛を直言の士と思っていただけにこの世辞は意外だったが、別段咎めはしなかった。

 

話を円滑に進めるためには、こういった世辞の類も必要だということを理解していたからである。

 

が。

 

『豊かさを以って揚州を併呑し、揚州を併呑したのちは交州へ版図を広げ、巴蜀を平らげ、漢中へ攻め上がり治を施しましょう。

その後は江東の地の恵みで力を貯め、中原の騒乱に乗じて長江を渡るのです。こうすれば渡り終える頃には主は帝王の座に在ると断言できます』

 

平然とした顔でさらりと漢を無視した言を吐いた魯粛を前に、関籍は押し黙った。

感心している家臣を見て内心が複雑化したものの、家臣には寛容な男である。軽く嗜めて襄陽郡の内政の指揮を託した。

 

それ以来、関籍は魯粛を避けていた。

 

魯粛は郭嘉とは馬が合っているようだし、口に出しては咎めないが、郭嘉が何とかしてくれることを望んでいたのである。

 

されど、問題行動は収まらない。忠誠心はあるようなのだが、どうにもこうにも苦手だと言うのが、関籍の本音だと言えた。

 

 

主人を神にしたい郭嘉と、帝王にしたい魯粛。

 

張遼から見れば『関籍を押し上げたいのだろうな』ぐらいしか察せなかったが、人としての型が似ていることくらいはわかっていた。

 

故に彼女は、こう答える。

 

「似とるからちゃう?」

 

「どこがですか」

 

吐き捨てるように言い残し、再び歩幅が大きくなった。

怒ってはいないが、不快なのだろう。

 

「……まあ、ウチとは似ても似つかんから安心しぃ。別に籍やんを何にしようとも思わへんから」

 

「拙者は漢帝国の臣下です。それ以上でもそれ以下でもありません」

 

「わかっとる、わかっとる」

 

早足に歩いてすぐさま追いつき、宥めるように背中を叩く。

 

ナタで薪を真っ二つにしたような単純さを持つが、反面気難し屋なところもある関籍をうまいこと舵を取れるのは、彼女だけだった。

 

「あなたならば、わかっていただけていると思っております」

 

「うん、うん」

 

真逆の気質が何だかんだで噛み合っている。

なのに、一度足りともズレたことがない。

 

そんな不可思議さを持つ二人組は、その日のうちに襄陽郡を発った。


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