数週間経過した。
相変わらず放課後は白猫の相手をして帰宅するという日常を過ごしている。
月村さんは時折やってくる程度で白猫を撫でて、ボクと軽く話してから一緒に帰宅する、といった具合である。
この程度の距離感が一番いいのかも知れない。頭の中で"彼女"を思い浮かべて、ソレを振り払う。
彼女とは違う。それこそ月村すずかは"すずか"ではないのだ。一緒だけれど、全く違う。そんな事は重々理解している。ソレこそボクが"俺"では無くなったのだから。
数週間を猫と時折月村さんと過ごして気付いた事もある。月村さんがこの猫と戯れるのは決まった曜日であるという事。確か習い事か何かをしていた……のだっけか。
ともあれ、そんな決まった曜日ではない今日は月村さんはボクと行動を共にしない。それは嬉しさ二割、悲しさ八割だ。
嬉しさを感じているボクはこれ以上彼女との関わりを嫌っていて、悲しさを感じているボクはやっぱり彼女を求めているのだろう。
友人以下、知り合い以上。なんとも微妙な立ち位置だけれど、ボクにとってこの立ち位置が好ましいのだ。
放課後になり、カバンの中に子猫のオヤツを確認したボクは立ち上がり教室を出ようとする。
「あ、香取さん」
「月村さん?」
嬉しさを表面上に出さずに、なるべく平静を保って呼びかけに応える。こうして平静を意識していなければニヤケ顔で彼女に応えている事だろう。我ながらソレは変態染みている。
「今日は私行けなくて」
「習い事だっけ? 仕方ないんじゃないかな」
適当な答えを選択しつつ、なるべく素っ気なく応える。何度も言うけれど、仲良くなりたくはないのだ。いや、仲良くはなりたい。出来る事なら彼女と一緒に過ごしたい。けれど、"俺"といた頃の彼女の事を考えると、やはり仲良くしてはいけないのかも知れない。
「それだけ?」
「う、うん……ごめんね?」
「何の謝罪かわかんないけど。まあ猫には伝えておくよ」
素っ気無い対応に悲しそうな表情をしている彼女をこれ以上は見ていられない。根本的にボクの責任なのだけれど。
軽く上げた手を振り、教室を後にする。
日常的に話しかけられる訳ではない彼女と話した事でボクのテンションは少しだけ上昇している。話せるだけで嬉しく感じるボクは意外に安っぽい性格なのかも知れない。
その他大勢の生徒達に紛れて、少しだけニヤける。靴を履き替えて、頬をマッサージ。いつもの様に平静を表情にして、歩き出す。
帰宅していく生徒達の声に紛れて、子猫の声が聞こえた。また木の上に登って降りれなくなったのかも知れない。
苦笑を浮かべてボクは足を進める。
進めていけば、いつもの場所に笑う声が聞こえた。まだ離れているというのに、随分と大きな笑い声だった。
心臓がざわめく。心に灯っている炎が揺らめく。
わざと、大きな足音を鳴らしてボクはようやくいつもの場所へと到着した。
上級生が三人、そこには居た。
笑いながら、何かを蹴り飛ばしていた。
口の中が乾く。身体中が熱くなり、息が詰まる。
「何を、している?」
ようやく出てきた声で三人は気付いたのかコチラを向いた。
最初は驚いた様な顔でコチラを見ていた三人はボクが下級生だと分かると楽しい事を止められた事の怒りをコチラに向ける。
「なんだよお前!」
「オレたちのかってだろ!」
「それともおまえもやるか?」
遊びの延長線。無邪気の代償。ドレにしても、ボクの怒りを抑えるに至らない。
怒ってはいた。けれど、ドコか冷静な部分もあった。それこそ魔法は使ってはいけない、という魔導士的な側面と一般人を殺してはいけないというヒーローの感情。
長く、息を吐き出した。溜め息にも似たソレを吐き出したボクは自分に苦笑をする。
悪を滅する為でもなく、魔導士同士の戦いでもない。これは子供の喧嘩なのだ。
だからこそ、ボクは彼らを指差して、まるでヒーローみたいに言葉を宣言する。
「アンタらに正義を刻んでやるよ」
「何言ってんだ!」
魔法で碌に強化もせずに走り出す。
殴られても関係ない。的確に顎を狙い拳を振るう。鳩尾に目掛けて拳を振るう。腿に蹴りを放つ。
殴られる。関係ない。
「痛ッテぇな!」
「なんだよ、コイツ、急に来て」
「おい、逃げるぞ!」
ああ、逃げろ逃げろ。畜生め。
殴り殴られの実に不恰好な喧嘩が幕を閉じた。喧嘩というのも憚られる、そんな稚拙な戦い。荒事専門だった前世とは違い、荒事に関与したことのないボクにとって初めての行為だった。
結果論で言えば、的確に狙う事は出来ても身体が反応してくれない。
そんなどうでもいい事を考えて、溜め息を吐き出した。口の端が切れたのか親指で拭うと血が付着した。
地面に視線を向ける。
幾らか汚れていたが白かった毛並みが少しの赤と土で汚れている。喧嘩の始まりまで上下していた腹部はもうその動きを見せていない。
膝を折り曲げて、恐る恐る触れる。熱く、ヌルリとした感触。その奥は熱を失った様に冷たい。回復系の魔法を覚えていれば、と後悔してしまう。
力が無かった。関わったのが悪かったのか。ボクが助けてしまったから。ボクと関わったから。
頭の中で前世がフラッシュバックして歯を食い縛る。息が詰まった様に呼吸が上手く出来ない。
やっぱり、ボクは彼女を諦めるべきだ。きっとまた……。
目頭が熱くなり、視界がぼやける。ポタリと手に熱い液体が落ちた。
子猫だったものに触れている手とは逆の手で目を拭う。溢れるソレを無理矢理止めようとする。
ボクに泣く権利など無い。泣くことなど許されているものか。
止まらないソレがもう落ちない様に袖で拭っていると手にザラついた感触が触れる。
「にぃ」
「なんだよっ、生きてたのかよ」
思わず出てしまった言葉。胸に抱き締めれば温かい。生きている。生きている。
先ほどまで溢れていたソレが熱に絆されてまた流れた。
ザラついた舌で濡れた頬が舐められる。少しの間、ボクはこの熱を放す事が出来なかった。
何も考えずに、という訳もいかず、ボクは子猫を持ち帰った。
泥と猫の血で汚れた制服を見て母さんは慌てていたが、猫と格闘したのだと冗談めいて言えば納得されてしまった。我が親ながら脳内お花畑具合が半端ではない。
汚れた猫と一緒に風呂場に居るボクは温めのお湯を張った桶の中にいる子猫を凝視する。
帰るまで、というよりは泣き止んでから異変に気付いたボクは子猫の身体を弄った。モフりたい一心ではなく、単純な疑問である。
猫の身体に、怪我は無かった。
確かに死んでいた猫。ヌルリとした感触も覚えている。現実である様に猫には泥と血が付着している。
間違いなく、猫は怪我をしていた。けれど、今の猫は怪我をしていない。ましてやお湯の中に入れても痛みを訴える様子もなかった。
そもそも痛みを訴えるというならボクに抱き締められていた時点で訴えるべきだろう、猫よ。
浴槽の縁に両腕を乗せ、そこに顎を乗せながら子猫を見やる。コチラの気持ちも知らずに洗われた白い猫は桶の中でご満悦。
「ホント、猫又か何かか? お前は」
手を伸ばし、尻尾を触ろうとしたら避けられた。このやろう。
ムキになるのも馬鹿馬鹿しいので浴槽の中で寛ぐ。深い息が溢れて瞼が重くなる。寝ることはしないけれど、ボンヤリと思考に浸る。
確実に死んでいた猫。
その猫は今は元気にお湯で遊んでいる。
何故?
考えても答えは出ない。果たして何の因果なのだろうか。
お湯を手に溜めて顔に掛ける。軽く顔をマッサージするようにムニムニと頬に触れる。
「え?」
思わず声が出た。
浴槽で立ち上がり、バスルームを出て脱衣所にある鏡で自分の顔を改めてみる。
黒い髪。赤い瞳。湯船で温められたからか少し赤らんだ肌からは湯気が出ている。
口を大きく開けて、指で頬を伸ばして、何度も確認する。
そんな訳がある筈が無い。いや、ある筈なのだ。少なからず、痛みは絶対にある筈だ。
「ははっマジか……もしかして、俺が原因だったのか?」
思わず呟いてしまった以前の言葉。
灯ってる炎が盛る様に心臓が熱くなる。燃料を入れるように鳴り響く鼓動。乾いていく口の中。
小さい猫の鳴き声だけが鼓膜を揺らした。