艦娘と銀鷹と【完結済】   作:いかるおにおこ

61 / 68
Good-bye my precious things

〈グレートシング・アビスの第二形態?〉

 

 自分の耳を疑う小森提督は、しかし無線連絡の相手の赤城がふざけた冗談を言うはずがないことを知っている。おまけにいまは命をかけた大決戦の最中だ。

 

〈一度活動を停止したのですが、装甲が剥がれて船体から赤黒い色をした腕が無数に生えているんです!〉

〈落ち着いて!〉

〈機械から生物が湧き出ているんです! そんなばかな、あんなのありえない、あれが深淵の力だっていうの?〉

〈赤城ちゃん! いま生きているのなら大丈夫! 大事なのはそいつを倒すってことよ、敵は倒せそう?〉

〈わかりません。まだ艦娘の攻撃が届く位置にいますが、倒しきれるかどうか……〉

〈キメリカル・セイバーズ第一から第三艦隊の総力を集めるんだ。シルバーホーク隊も頑張ってもらう。それできっと勝てる。こっちでも調べてみる、なにかわかったら連絡するよ〉

〈……提督、私たちが勝つって信じてくれますか?〉

〈信じるよ。私たちが勝つ〉

 

 深淵の力の暴走かな、と紅玉がこぼす。無線機を下ろした小森提督はそっと振り返って紅玉の顔を見た。

 どこか紅玉の顔は青ざめている。なにかまずいことが起きているのだと直感した小森提督は、できるだけ最悪の事態を想像した。

 

「グレートシング・アビスは、元の巨大戦艦に深淵の力を注ぎ込んだものだって言ったよね」

「ええ」

「深淵の力を取り込むことで基礎能力の大幅な上昇が見込める。注ぎ込めばそうするほど。でも、そうするとあるリスクを負うことになる」

「さっき言っていた暴走のことですか?」

「うん。たぶん、いまのグレートシングはベルサーが動かしていないんじゃないかな。たぶんベルサーの人たちは死んでるよ」

 

 人類の敵の側に立たされ、深淵の力を使って深海棲艦を作り上げてきた紅玉が言うのだから妙に重厚な説得力がある。小森提督は巨大戦艦の中で起きたことを想像した。

 グレートシングの艦橋――おそらくは艦首の側にあるのだろう――にてベルサー星人が戦闘指示や操舵、砲の管理を行っている。その動力源は宇宙技術のものではなく深淵の力で、度重なるダメージのせいで暴走、艦橋内部を侵食していく。

 

「深淵の力ってのは感情エンジンを持っている者にとって結構ヤバイものなんだ。艦娘が深淵の力の塊にでも触れたら、それこそ深海棲艦化しかねない」

「じゃあ普通の人間が触れるとどうなるの?」

「死ぬよ。あっというまに。霊的なものに耐性のないやつがどうやって生き残れるっていうんだい?」

 

 赤黒い(もや)のようなものがグレートシングの内部に広がっていくのを小森提督は想像する。

 艦橋にいるベルサー人は赤黒い靄に呑まれ、息絶えていく。まるで炎に巻かれた生物が死を免れないように――それならいったい何者がグレートシング・アビスを稼働させているのだろう?

 

「なんか言いたいみたいだね、小森さん」

「グレートシングの中に人がいないのなら、一体誰があれを動かしているのだろうと思ったんです。人がいないのなら機械が動くはずが、もしかすると非常時に動くAIとか?」

「誰っていうか、誰でもないよ。深淵の力が意思を持ったんだ」

「意思って?」

「深淵の力がベルサーの人を飲み込んで、その意識を吸収しているだろうから……まずいな、このまま地球を滅ぼそうとするはずだよ。ベルサーの人は地球が用済みで消し飛ばそうとしてたんでしょ、その意志はたぶん飲み込まれてコピーされていると思う」

「じゃあなんとかして倒さないとダメってことね」

「けど深淵の力が暴走してるのなら、もしかすると艦娘じゃ太刀打ち出来ないかもしれない。シルバーホークだって巨大戦艦とは違う次元の敵を相手にするんだ、全く歯がたたないかもしれない。シーマとは違うだろうけど、ある種の機械と生命の融合体なんだろうね」

 

 足元から凍りつくような感覚。小森提督は自分が息をしているかどうかもわからなくなった。

 深海棲艦たちの力の源である深淵の力。恨みつらみや怒りに哀しみ――そんな後ろ向きですさまじいポテンシャルを持った感情の力が機械(グレートシング)の体を手に入れてしまった。

 機械と生命的感情の融合。ある種のキメラ。合成生物。キメリカル・セイバーズが対峙しているのはあまりにもおぞましいものなのではないか――小森提督は背筋が凍りつくのを覚えながら、そっと無線機に手を伸ばした。

 

〈みんな聞いて。いま戦っているグレートシング・アビスについて、紅玉から情報をもらった。推測レベルでなにも確定はしていないけど。赤黒い腕を出しているって話だけど、それは深淵の力の暴走だと考えられるみたい〉

〈こちら赤城。提督、私たちが知りたいのは敵の強さです。このまま戦って勝てるのか、勝てないのならなにをすれば勝てるのか、教えてください!〉

〈赤城ちゃん……いい、暴走した深淵の力はベルサー星人を呑み込んで殺してしまった。地球を壊そうとしたベルサーの意思を継いでるから、奴が勝てばこの星は終わってしまう!〉

〈!〉

〈深淵の力に触れれば艦娘も深海棲艦化するリスクがある。絶対に不用意に接近しないで。相手はもうベルサーでも巨大戦艦でもない。深海棲艦でもない。だから……みんなには全力を出してもらうしかない。お願い、戦って!〉

〈わかりました。艦載機発艦用意! ここで戦えるのは私たちだけ、なにがなんでもアレを止めます!〉

 

 赤城の力強い声。激しい戦闘の音をかき消すほどの艦娘たちの怒号。気持ちだけなら誰にも負けない。そんな気迫を小森提督は肌で感じ取った。

 

「大丈夫だよ紅玉さん。あの子たちなら勝てる」

「ん?」

「深海棲艦でもなければベルサーでもない。そんなのを相手に一歩も譲る気持ちがないんだ。だから勝てる」

「小森さんがいうなら、まあ、そうなんだろうね。……そろそろ準備する?」

 

 紅玉は机の上のヘッドギアを持って揺らして示す。

 ただの人間がシーマとの対話を実現するための装置。使えば精神崩壊を引き起こして二度と戻れないかもしれない危険なアイテム。

 小森提督は笑顔で頷くとふたつあるうちのひとつをかぶり、椅子に深く座って深呼吸する。

 彼女が目を落としているのは机の上の小さな封筒だった。遺書。勝って帰ってくる艦娘たちに向けての最後のメッセージ。遺書が遺書として機能しないのが一番良いに決まっている。だが現実はそう都合よく展開するわけがない。

 深く息をはいた小森提督はゆっくりと目を開ける。いつも座っている場所。いつも見ている光景。もうここに仲間たちが集まってお話をするなんて出来ないかもしれない。

 そんなのは怖い。耐えられない。自分から進んでそうするだなんて自殺行為に等しい。しかし。小森提督は臆する心を握りつぶしてヘッドギアを深く被る。そして彼女は口の中で呟いた。これが人生最後の台詞になるかもしれない。だが言葉を飾るつもりは毛頭ない。

 

「……頼んだよ、みんな」

 

 

 

 

 

 

 ざわ、と悪い予感が全身を駆け巡る。

 そんな不快な感覚に赤城は目を細めながら弓を構えて矢をつがえる。狙いはグレートシング・アビス。発艦させるのは爆撃機だ。

 となりには加賀や龍驤、鳳翔たち空母組。第一から第三艦隊の艦娘たちがひとつに固まって即席ながらも大艦隊を組んでいた。空母艦娘を中心に配置して防御する、輪形陣めいた陣形。

 砲を備える艦娘たちは揃って空に向け絶え間なく砲撃していく。艦娘たちの砲撃音は近くにいれば鼓膜をおかしくしそうなほどにけたたましいが、グレートシング・アビスの攻撃はそれを上回っていた。

 赤黒い靄のような腕は無数の砲を掴んで砲撃している。ほかにも腕自体から赤黒い砲弾を放っているが、それが立てる「声」は鼓膜ではなく心をぎゅるりと握り潰すかのようなおぞましいものだ。

 怨嗟、慚愧、悔恨、哀愁――考えつく限りのネガティブな言葉、その印象を凝縮したような声だ。そんな声が機関砲のように繰り出される砲撃音であるのだから、この場にいる艦娘たちが怒号をあげねば自分を保てなくなって当然のことだった。

 

 赤城はその声をどこかで「見た」覚えがあった。

 声を見るとは道理の通らない話だ。共感覚の持ち主であれば出来るかもしれないが、赤城にはそんなものはない。だがどこかで「見た」覚えがあった。

 どこだ? どこであの声を見た? 艦娘としての生を受けてからこれまでのどの時期にあんな声に触れた?

 

「……はじめてアイアンフォスルと会った時だ」

 

 前触れ無く赤城は思い出した。初めてのシルバーホークとの邂逅。ベルサー巨大戦艦との交戦。そして赤城はバーストビームに焼かれ死の淵に立たされた。

 死に瀕した時、赤城はよくわからない場所に立っていた。どこまでも広がる海。彼女は自分の意志とは無関係に海に沈み、そこで「感情の塊」に触れていた。

 形容しきれないほどの感情の渦――いま、キメリカル・セイバーズが対峙しているものはあれと同じ、人智の及ばぬところにあるものだと赤城は確信した。

 

「クソが、こんなの、勝てるのかよ」

 

 弱音を吐いたことのない摩耶ですら、グレートシング・アビスの「声」に圧されている。他の艦娘たちも直接的なダメージよりは精神的な圧迫に屈しつつあるように表情を歪めている。

 自分では気づかないうちに赤城も戦意を失いつつあった。航行する体に力が入りにくい。艦載機を続々と発艦させるのも妙にけだるい。目の前の敵がどうしても倒せないものであるかのような錯覚を覚えていた。

 

 だが赤城はそんな状況でも膝をつかず、心を熱く燃やして戦う艦娘の姿を認めた。第三艦隊旗艦を務める長門だ。膝を曲げつつ全速航行してグレートシング・アビスの砲撃の雨をかいくぐり「声」を押し返すかのように怒号を上げて奮戦している。

 

「みんな諦めるな! 奴の装甲はすべて剥がれている! ならこちらの攻撃は通るはずだ! こんな声に屈するな! ここで止められるのは私たちだけなのだ! 武器を手に立ち上がれ、この星を守るんだッ!!」

 

 長門の激しくも温かい応援は赤城の心に染み渡った。

 ひびの入った陶器が時を巻き戻して修復されるかのように、失いかけた熱意を取り戻した赤城は再び矢をつがえる。近くでは摩耶も戦意を取り戻して「ぶっ殺す!」と言葉を荒げて砲を向け、ぶっ放している。

 爆撃機、彗星。乗り込んでいる妖精は全員が戦闘経験が豊富の頼れる仲間たちだ。

 弓を限界まで引き絞ってから発艦。光をまとって彗星4機1編成が顕現し、レジェンドの設置バーストの援護を受けながらグレートシング・アビスめがけて飛行する。

 

 

 

 シルバーホーク隊もグレートシング・アビスを撃破するために奮闘していた。戦意を喪失させるようなおぞましい「声」に耐えながら操縦していく。

 オリジンはレジェンドとネクストを連れた3機1編隊、フォーミュラとヴァディスが2機1編成を組んでいる。アムネリアはキャプチャーした空母棲姫を切り離し、単機でグレートシング・アビスと対峙していた。

 オールドは「声」のせいでズキズキと頭が痛むのに顔をしかめながら、それでもトリガーを引き続ける。艦娘たちを狙う「腕」は攻撃を加えれば破壊できる。ならば艦娘たちの援護のために破壊するのは当然のことと言えた。

 だがグレートシング・アビスの腕はいくら破壊しても新しいのが生え、キリがないイタチごっこを展開しているのが現状である。グレートシング自体にダメージは与えられているようなのだが、見たこともない新種の敵が相手である。どれだけダメージを与えたかは全く分かるはずがない。

 

(こりゃ、ちょっとまずいかもしれねえな)

 

 人間の五感を伝って精神攻撃をするグレートシング・アビス。負の感情の渦を耐えられるのは深海棲艦など人間ではないものに限られる。

 その中にはアンドロイドであるアダムも含まれている。彼が搭乗するアムネリアはグレートシング・アビスの一番近くに位置し、容赦無いボムの投下やウェーブの連射を浴びせかけている。しなる腕が払い落とすように動くが、どれも紙一重のところで回転をかけながら回避していく。

 

(海上じゃ艦娘たちも頑張ってくれている。だがこの状況が続けばこっちが不利だぞ)

 

 気をしっかり持つことがグレートシング・アビスの精神攻撃に対抗する唯一の手段だ。下で長門がやったように鼓舞するのも良いだろう。

 だがそれは終わりのない綱渡りのようなものだ。しかも時間が経てば経つほど綱は糸のように細っていく。落ちれば戦闘続行が困難になるのを意味している。

 心を曲げられないように怒号を上げながらオールドはグレートシング・アビスの背中を飛び越すように飛行、ウェーブとボムの雨を浴びせると反転、右舷の船体の真ん中めがけてウェーブを撃ちまくる。

 僚機のレジェンドとネクストは艦娘たちの護衛に回っているが、オリジンの援護に力を割く余裕はない。長年の経験とカンを総動員して自身に迫る砲撃の雨をかいくぐり、海中めがけて急降下。すぐに急浮上してグレートシングの底部を狙って攻撃する。

 

(空母棲姫とかいう、俺を深海棲艦化しようとしたあいつが戦えるのなら、状況は少し楽になっているのかもしれないのにな)

 

 海中から飛び上がった時、空母棲姫がオリジンを見て「あ」と目を丸くしたのをオールドは見逃さなかった。かつて自分が鹵獲しようとした機体が目の前を飛んでいたのは、彼女にとってどんな気持ちなのだろう。

 そんな好奇心はすぐにどこかに飛んでいった。

 空母棲姫は負っていたダメージが重すぎて一切の戦闘行動が取れないでいた。加えて艦娘たちへの敵意がなりを潜めていることを受けて、金剛と長門は空母棲姫の保護を作戦行動に加えることに同意している。だから大艦隊の中心で守るように振舞っているのだ。

 もしも――という都合の良い仮定の話はやめよう。教え子ふたりにも口を酸っぱくして言っていたことだった。

 この状況は自分たちだけで乗り切ってみせる。ダメージだって十分に与えられている。あとはもう根比べだ。どちらが先に膝をつくか勝負しようぜ、でかぶつ!

 

「おらあっ、死にやがれ!」

 

 怒号を上げながらオールドがトリガーを引き続ける。コクピットの中はオールドの図太い声で満たされている、はずなのに、グレートシング・アビスの「声」が上塗りしていくように侵食していく。

 これまで長い時間を戦いの中で過ごしていたオールド。そんな彼の経験にない敵がいま、じわじわと彼や仲間たちを侵しつつあった。

 

「ちくしょう、もう二度とあんな思いをするのはゴメンなんだよ――」

 

 オールドにとってグレートシングは絶対に忘れることのできない敵だった。

 彼と交際していた女性パイロットが過去に交戦したグレートシングによって倒され、戦死している。そんなグレートシングが異形の姿となっていることにも腹が立つし、心を蝕む声を聞いて頭のなかがぐつぐつと沸騰しているような錯覚も覚えている。

 そんなところでオールドは強烈な衝撃に目を細めた。グレートシング・アビスの赤黒い腕がオリジンを叩き落としたのだ。ハイパーアームをもってしてもその衝撃を和らげきることは出来ず、あまりの衝撃で姿勢制御もままならず、オリジンはそのまま海中へ突っ込んでしまう。

 

〈オールド!〉

〈おっさん死ぬな!〉

〈大丈夫だぜ。レッド、ブルー、すぐに戻るから泣くんじゃねえぞ!〉

 

 無線相手に怒鳴りこむオールド。しかし彼は海中でオリジンの動きを止めた。第六感が進んではならないと声を大に訴えたのだ。

 はたして、オールドはブレーキを全開にしてオリジンの動きを止める。直後、海面から何かが勢い良く飛び込んできた。人間だ。人の形をした何かが海中に飛び込んでいる。

 

 

 

 その時、オールドは言葉を失った。認めたくない現実、あってはならない出来事がそこに広がっていたのだ。

 10を超える艦娘たちが海に沈んでいる。その様子を見たオールドの脳裏にある言葉がよぎる。

 轟沈。戦闘で限界以上のダメージを負った艦娘は航行不能となる。船魂の加護で水面に浮くことの出来る彼女たちは、しかしその本体である船魂が弱り切ってしまい、水底まで沈みきるしか道はなくなってしまう。

 

(嘘だ、そんな、ばかな)

 

 いまにも叫びだしたいが彼の身体はなにもかもが硬直していた。オリジンの操縦桿も動かせず、なにか言おうとすれば声にならない息が漏れ、だがしかし彼の心の激しい部分はめちゃくちゃに動いていた。

 激怒と混乱の中にあるオールドは、全天球モニターからあるものを目にした。

 艦娘たちは動いている。底へではなく、光さす海面へ。全身に傷をつけ、赤い霧が尾をひいていても、それでも戦意を失っていない。彼女たちは死ぬまで戦い続けるつもりなのだ。

 

「――ぬあああああっ!!!」

 

 ついにオールドは自分の身体を封じ込めるショックを弾き飛ばした。

 一気に加速して海面を突破。直後に赤黒い「腕」が雨のように降り注ぐのを避けつつ上昇。

 迫る「腕」をウェーブで破壊しつつグレートシング・アビスへ突撃していく。

 

「いい加減に死にやがれっ!!」

 

 あわや衝突というところで右回転しつつ機首を下げ、キスするほどの距離から大量のボムを投下。

 露出した機械部分から溢れ出る赤黒い靄はオリジンの猛攻を受け、まるで血を流すかのように液状化して海へと落ちていく。

 それを目にしたオールドは名状できない大きすぎる嫌悪感に襲われた。この世の恨みつらみをすべて積み込んだかのような、あまりに大きな負の感情が、あの液状化したものに対して感じたのだった。

 

(あれには触っちゃいけねえ、もし触ったら空母棲姫に侵食されたのと同じことが起きちまう)

 

 瞬時にあたりを見回すオールドは「腕」が空を埋め尽くしているのを見た。

 赤黒い腕は上にも下にも満ちている。シルバーホークの攻撃や艦娘の砲撃ではじけ飛んだ腕は爆発し、赤黒いきりのようになって漂っている。

 オリジンが海中に叩きつけられる前は、腕を破壊してもそんなことにはなっていなかった。オリジンが再び海上に上がるまでにグレートシング・アビスはなんらかの変化を起こしていたことになる。

 いや、それは「進化」なのではないか――オールドは宿敵の姿をした霊的な存在、ある種の合成生物(キメラ)を相手に、ここで倒さねばならないと決意をさらに強くした。

 もしも地球αでグレートシング・アビスを倒すことが出来なければ宇宙にこの災厄を撒き散らす存在になってしまう。そうして手がつけられないほどに成長して、いつかはダライアスを滅ぼしてしまうに違いない。

 

〈赤黒い液や霧に触るなよ! 触ったら深海棲艦の仲間入りだ!〉

 

 キメリカル・セイバーズの全員に伝わるように無線機に向けて大声を上げ、オールドはグレートシング・アビスの背部めがけて上昇する。

 そこでは生えた腕が絡まり続け、ひとつの巨木のような様相になりつつある。その太さや長さを顧みれば、この腕を一振りすれば艦娘たちを一掃できるに違いない。そんなものを作り上げられるのなら使わない手はないだろう。

 

〈オールドだ! 全員聞こえるか!?〉

〈こちら長門。どうしたオールド?〉

〈グレートシング・アビスが背中に大きな腕をつくろうとしている! こいつをどうにかしないと艦娘は全滅だ、おじさんがなんとか壊すぞ!〉

〈承知した。私たちの命を預けるぞ〉

 

 長門の後ろから「がんばって!」と艦娘たちの声が重なる。任せとけ、とオールドは返しつつグレートシング・アビスに近づいていく。腕が生えては絡まっては大きくなり続ける、一撃必殺の切り札を破壊するために。

 

 

 

 艦娘とシルバーホークと深海棲艦が手をとるチーム「キメリカル・セイバーズ」と、彼女たちが対峙する最後の敵「グレートシング・アビス」の戦いは棒立ちで砲撃の撃ち合いをしているわけではない。なにも移動しないのであれば、それば防御を捨てたのと同義である。

 お互いに同じ方向に、時には行き違うように航行し、狙いを絞らせないように動き、お互いに当てるつもりで攻撃を仕掛けている。

 グレートシング・アビスが用意する一撃必殺の「豪腕」生成を阻止するべく動くオリジンもまた、航行するグレートシング・アビスに張り付くように飛行している。その上で迎撃されるのを回避したり、機を見ては急接近してボムの雨を降らせるなどと攻防が繰り広げられている。

 だがオリジンのアーム強度はすでに3割を切っていた。戦闘を続行すれば墜落してもおかしくはない状態である。

 それでもオールドの闘志は衰えることはない。グレートシング・アビスに一番近いところにいるということはあのおぞましい「声」を間近に聞いていることになる。その影響は確かに受けているが、いまの彼にはそれを上回る気持ちが輝いていた。

 自分のため、仲間のため、この世界の人々のため――その思いは形にはならないが、例えるなら歌のようなものになっている。心のなかの歌が自分を導いている。

 

〈っ、アダム! 加勢してくれるのか!〉

〈一番の脅威はここですからね! 簡易シミュレーションでは2機がかりでも完全破壊は困難という結果は出ていますが、脅威を弱める程度は出来るはずです〉

〈わかった! キャプチャーした空母棲姫はどうしてるんだ!?〉

〈いまはコントロール制御を外しています。あれはこちらへの敵意を喪失しているので、アムネリアで束縛する必要がないんです〉

〈オーケーだ。この腕はキャプチャーできねえのか?〉

〈あまりにも負の感情が強すぎる。不可能ではないかもしれないけど、キャプチャー後のリスクが大きすぎる〉

〈前のオリジンのように侵食されたらたまったもんじゃねえよな〉

〈そうです。地球αの言葉を借りるなら、あれは凶悪な瘴気とでも呼ぶべきもの……霊的存在をキャプチャーできるように調整されているとはいえ、大きなリスクを背負うのは避けるべきです〉

 

 無線連絡を交わしつつ、グレートシング・アビスの無数の腕が繰り出す砲撃を躱していくオリジン(起源)アムネリア(創生)。ベテランの人間と、それ以上のパフォーマンスを見込まれたアンドロイド。ふたりとふたつのシルバーホークは猛攻を躱して猛攻を仕掛けていた。

 2機の活躍によって巨木のような腕の成長スピードは落ち込んでいく。オリジンよりもアムネリアの攻撃のほうが効果は高いようで、オリジン単機で攻撃していた時よりも明らかに効果は高く現れている。

 しかし豪腕が大きくなるのを阻止できているわけではない。

 グレートシングが用意する一撃必殺の武器は確かに成長を続け、艦娘らに向けて大きく振るうために構えの姿勢に移行している。赤黒い腕はもはやグレートシング・アビスと同じくらいの大きさにまで成長し、いつ振るってもおかしくない状態にあった。

 

〈おっさん早くなんとかしろ!こっちは艦隊の護衛で手が離せないから、おっさんが頼りなんだぞ!〉

 

 無線ごしのブルーの声は焦りを帯びていた。見ればレジェンドもネクストも、フォーミュラもヴァディスも、艦娘たちに降り注ぐ無数の腕を破壊して回っている。

 

〈わかってら! でもな、完全に阻止するってのは出来ねえ! だからブルー、そっちでもカバーしてくれないか!?〉

〈だから無理だって言ってるじゃないかよ! 艦娘を見捨てろって!?〉

〈んなこと言ってねえ! 腕が振るわれる瞬間になんでもいいから火力を集中させろって言ってるんだ! ブラックホールボンバーを使えるように、通常の艦載機だって撤収させたほうがいい!〉

〈そういうことか! この無線はみんなに聞こえてるけど、改めて伝えるぞ。空母艦娘はすべての通常艦載機を着艦させてくれ! 敵のデカい一撃を抑えるためにブラックホールボンバーを起爆させる、そのための準備を進めておいてくれ。加賀、おい加賀! 聞いてるか!?〉

〈聞こえているわ。他の子も聞こえている。全機撤収、すみやかに帰還して……ブルー、少しうるさいわ〉

 

 そりゃ悪かったな! とまったく悪びれずにブルーが返す。そんなやりとりを聞きながらオールドはある確信を持った。

 もうグレートシング・アビスのおぞましい「声」に怯んでいる仲間はいない。いるのかもしれないし、それを隠している者もいるかもしれない。だが仲間同士でいつものように声をかけあえられるのなら、なにも心配することはないに違いない。

 

〈まずいですオールドさん〉

〈どうしたアダム!?〉

〈腕が、腕が振るわれます!〉

 

 グレートシング・アビスが成長させた巨大な腕。それによる一撃必殺の準備が整ってしまった。

 船体を右に直角に旋回させ、ぐぐぐと力をためた腕を振るう。豪風を巻き起こしながら目にとまるほどの遅さで、しかし勢いはどんな嵐も肩を並べられないほどにすさまじい。赤黒い靄を台風よろしく纏い、艦娘たちに向けていく。

 

〈させるかっ!!〉

〈オールドさん!!〉

 

 グレートシングの腕の「根本」の近くにオリジンを寄せるオールド。迎撃の砲撃を受け、アーム強度が底をつきそうだと警告が機体内に鳴り響いても、最大限に接近しての攻撃をやめることはなかった。

 

〈危険です、下がって!〉

〈この局面じゃシルバーホークの一機失おうがなんだろうが関係ねえ! 下じゃてんやわんやで補給作業だってできやしねえ!! それにいまのおじさんたちは不思議パワーの加護を受けてるんだぜ、機体を失おうが爆死しようがしばらく経てば鎮守府で復活できるんだ!〉

〈ですが戦力の低下が――〉

〈ここであの子たちを守らねえでなにが――どうして仲間だぜってツラができんだよ!! いいかアダム、さっきから見てりゃアムネリアのパフォーマンスなら、こんなクソみたいなクジラ野郎にも十分対抗できる! 自分を信じろ! でも無茶はするな、アムネリアはこの戦いの切り札なんだ!!〉

 

 アダムはなにも返さなかった。

 彼の中の人工知能がどんな判断をしたのか、どんな解釈をしたのか、どんな理解をしたのか、オールドには知る術はない。

 他人の心を読み取れるものがいればエスパーを名乗れるが、アンドロイドの心を読み取れるものはなんというのだろう? 頭の片隅にそんな疑問が湧いてしまった時には、オールドはある警告アナウンスを聞いた。

 

 アーム強度、ゼロ。

 

 直後、すさまじい衝撃が機体下部から迫り、オリジンは姿勢制御を失って海へ落ちていく「豪腕」ではない別の腕がひとりでに穴を開けて砲撃し、そこから容赦なくオリジンを追い詰める。

 深淵の力が凝縮されている攻撃を受ければ侵食は免れない。侵食を受けた艦娘の艦載機が撃墜され、喪失すれば、それは復活できるのだろうか? オールドはそんな疑問を抱いて、すぐにそれが些細な問題だと鼻で笑った。

 

 自分は軍人だった。いつまでも前線に出て戦い続けて、退役するに至った。それまで生き残っていたのはおめでたいことかもしれない。しかし言い方を変えれば、それは「奇妙」な出来事であった。

 いまここで本当に死んでしまうとしたら、実はまったく頷ける話ではないのか――オールドはそう思い、全天球モニターからオリジンが火を噴いて墜落しているのを改めて確かめると、そこに奇妙なものを見た。

 

 コンピュータのモニターがなにかを表示している。

 諦めから操縦桿を手放し、衝撃から視界不良を起こしていたオールドは、着水までの数秒間でその表示を目で追い――

 

 

 

 

 

 

 オールドッ!!

 ――最後の機を着艦させた龍驤は、少し離れた場所にオリジンシルバーホークが着水して爆散したのを認めてしまった。周りの爆音で聞こえないはずなのに、オリジンが爆発した音が妙に龍驤の耳に刺さっていた。

 落下していたとき、アーム無しにグレートシング・アビスの攻撃を受けたオリジンが、いつかに空母棲姫に侵食されたように形を変えつつあったことも見てしまっていた。

 あれだけ強く侵食を受ければ、鎮守府で機体と妖精が復活するまじないがかき消されてしまっているのではないか――不安を覚えた龍驤は、しかし目の前の現実に、心をネガティブに向けることを許されないでいた。

 

 全機着艦を終えた空母艦娘たちが空母棲姫をかばうように位置して身構えている。空母棲姫を守る理由は、この戦いが終わった先のことを考えてのことだった。

 人類の説得が通じてステージ2の深海棲艦をもうひとつ仲間にすることができれば、それは人類側の大きな戦力増強につながる。金剛も長門も考えをひとつにして、空母棲姫の防衛を作戦行動の中に組み込むことにしていた。

 

 そうだ。

 いまは悲しむべき時ではない。不安になる時でもない。

 背負う未来のためにすべきことを成さねばならない。

 

「なあキミ、うちらが守ってやるからね」

 

 後ろから空母棲姫の肩に触れた龍驤はそのまま前に出ると、小さな身体を大きく広げて身構えた。彼女の、彼女たちの前方には赤黒い腕が迫りつつある。触れるまでもう10秒は切っている。

 ちょうどその時無線越しに「ブラックホールボンバー起爆」という旨の連絡が入った。ヴァディスシルバーホークに搭乗するヒストリエのものだ。

 

 直後、艦娘たちに迫る赤黒い巨大な腕の動きが極端に鈍る。極小の超重力が極大の豪腕を押しとどめている。だが超重力の森羅万象への影響を妨げることは出来ない。空は歪み、ねじれ、海もその例外ではない。

 

〈みんな、取り舵で離脱するネー!〉

〈アームが超重力から私たちを守ってくれる。だが海流だけはどうにもならない! 全速力で退避だ!〉

 

 金剛と長門がキメリカル・セイバーズの全艦娘に指示を出す。すぐに実行に移るが、しかしどうにも上手く航行できないでいる艦娘が多かった。ブラックホールや豪腕から逃れようとするのなら、引きずり込まれるように影響を受けた海流の抵抗をまともに受けてしまうのだ。

 

「これじゃアカン、少ししか逃げられへん!」

「……空母棲姫が心配ね。あの損傷具合からみて、全力航行なんて出来るはずがない」

「でもうちらじゃどうしようも――」

「そうね。私たちだけでは……龍驤さん、それでも心配は要らないわ。空を見て」

 

 隣の加賀に示されて空を仰ぐ。

 そして龍驤はアムネリアが空母棲姫を「連れていく」のを見た。空母棲姫とアムネリアの間には不透明なロープのようなものがあって、それのせいで空母棲姫がふわりと浮いていく。

 アムネリアがキャプチャーボールを撃ち込んだ相手は決まって痙攣してから「浮いて」追従していた。空母棲姫はどう転んでも戦力に転用できないのを理由にグレートシング・アビス戦には連れていなかったが、こうして一時撤退するにはとても都合が良かった。

 

「加賀さん! 私の手をとって!」

「龍驤さんはこっちです! さあ!」

 

 前を行く榛名と霧島が空母艦娘ふたりに手を差し伸べている。さらにその先を球磨と吹雪が行っていた。

 軽い船ならば突破するのは容易いのかもしれない。そんなことを思いながら、龍驤は霧島の手をとって航行の支えにした。

 霧島も榛名もライトニングクロウ戦で中破状態まで追い込まれたが、航行するのに支障が出るほどのダメージを負ったわけではなかった。第二艦隊は少しずつだが、確実にグレートシング・アビスの赤黒い豪腕から逃れつつある。それは第一・第三艦隊もそうだった。

 

(確実に逃れられるのは空母棲姫だけやな。他のシルバーホークに牽引してもらえれば絶対に助かるんやろが、それよりはあのアホみたいにデカい腕を止めたり、脅威度を減らしてもろた方が戦力の運用としてはええんやろな)

 

 そんなことを考えながら龍驤は力強く前に進み、しかし足取りが急に軽くなって前につんのめりそうになる。

 ブラックホールボンバーの効力が弱まったのだと悟るが早いか、龍驤たちめがけて赤黒い豪腕が迫っていく。超重力で時間を稼いでいたのに逃げ場はどこにもない。

 

(うせやろ? 結構な時間を稼いでいたはずや、なのにここで仕舞いやと――)

 

 来たる衝撃に身構える龍驤。そんな彼女は、顔を覆った腕の先に3機のシルバーホークが横並びで編隊を組んでいたのを認めた。

 レジェンドとネクスト、フォーミュラ。3機はどれもバースト機関を搭載したシルバーホークである。だがバースト機関をもってしても、深淵の力を暴走させたグレートシング・アビスに対抗できているようには見えなかった。

 

(――なにしとんのや、早く逃げな!)

〈レッド、ヴェルデ! バーストビームの通常照射でバーストリンクを繰り出すぞ!〉

〈おう! バーストリンクなんて久しぶりだな! 腕がなるぜ!〉

〈こちらレッド、バーストリンクに向けてカウントする! 3、2,1――〉

 

 真ん中に位置するネクストがまっすぐにバーストビームを通常照射する。同時に左に位置するレジェンドが合流させるようにバーストビームを通常照射し、右に陣取るフォーミュラも合流させるように照射させている。

 するとシルバーホーク一機を呑む程度だった大きさのバーストビームが2倍、3倍とその大きさを膨れ上がらせていく。こぉあああ、と照射音も爆発的に大きくなって鼓膜を激しく刺激し、蒼白く巨大なバーストビームはあまりにも眩かった。

 赤黒い怪物めいた豪腕と、極端な眩さで世界を白と黒に分ける蒼白い巨大なバーストビーム。ふたつは激突し、そのまま鍔迫り合いの形になる。

 バースト機ではないオリジンしか発艦させていない龍驤でも、バースト機の弱点は知っていた。バーストビームは無尽蔵にいくらでもいつまでも照射できるものではないということだ。

 銃火器が現代に近づくにつれて自動化しても弾倉に入っている分しか発砲できないように、バーストビームもまた照射できる限界がある。それまでに豪腕を処理できなければ、キメリカル・セイバーズは大打撃を受けることになる。

 

「が、頑張れ! 負けるなシルバーホーク! 頑張れ、頑張りや! いけえーっ!!」

 

 夢中になって龍驤は叫んでいた。

 一時撤退の、回避のための航行を続けながら、自分のシルバーホークとパートナーを失いながら、龍驤はたまらず応援を送っていた。

 それがバーストビームと豪腕の合戦に加勢することにならないのを知っている。理解もしている。だが龍驤は叫ばずにはいられなかった。応援せずにはいられなかった。

 

「……やりなさいブルー! そこで決めて、打ち勝ってみせて!!」

 

 龍驤の隣の加賀も無線機に向けて口を大きくしている。彼女がそんなふうに大きな声を出したのは、アイアンフォスルに赤城がやられてしまった時くらいではなかったか――龍驤は加賀が声援を送っていることに前向きな驚きを抱いていた。

 

「ヴェルデ! 頑張ってその腕をどうにか、どうにか押しのけて!!」

 

 空母艦娘が集まっているのでフォーミュラの発着艦担当の瑞鳳も龍驤の近くにいる。瑞鳳もまたシルバーホークに向けて声を荒げて応援している。

 レジェンドの発着艦担当の赤城も、ヴァディス担当の祥鳳も、アムネリアの鳳翔も声援を送っている。龍驤の手をひく霧島も、そのとなりの榛名も、他の艦娘も、空を割る勢いで声援を送る。

 それが力にならないと、支えになるはずがないと分かっているのに。それでも彼女たちの心は叫んでいた。

 

 

 

 はたして。

 三条のバーストビームからなる合体攻撃は、グレートシング・アビスが繰り出した一撃必殺の豪腕を砕いた。赤黒いそれは霧のような液を撒き散らして宙を舞う。

 すぐに霧のような噴射は止まったが、しかし艦娘たちの都合の良いようにことは運ばなかった。

 砕かれた豪腕がそのまま巨大な(ひょう)よろしく艦娘たちを襲ったのである。

 うせやろ? 迫る赤黒い塊を前に龍驤はそう呟くことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 砕かれた赤黒い豪腕。それは艦娘たちに降り注ぎ、甚大なダメージを与えていた――そのことをアダムは認めた。

 彼はアムネリアで空母棲姫を連れ、そのまま空に退避することで難を逃れていた。全天球モニターから海面を見れば、グレートシング・アビスが繰り出した一撃必殺の豪腕は海を汚染することなく沈んでいたようだった。艦娘たちが深海棲艦化するリスクは極めて低いと断言できた。

 断言できないのは彼女たちの無事だった。皆が着衣を大きく損傷し、大破状態であるのは間違いなかった。誰もが緑や銀の膜(アーム)を展開していないことから、全艦娘のアーム強度はゼロにされてしまったことも間違いなかった。そんな艦娘たちの無事を確認するように、ヴァディスが海面スレスレをゆっくり飛行している。

 これではこちらが絶望的に不利ではないか――率直な直観を口にしたアダムはグレートシング・アビスへと目を移す。

 

 なにかがおかしかった。

 大きな鯨の船体が少しだけしぼんでいるように見えたのだ。

 あれだけ大きな腕を作り出して一撃必殺の攻撃としたのだから、それに費やした深淵の力は計り知れないものに違いない。

 そのせいで小さく見えるようになったのか? アダムは自身がアンドロイドたる所以の部分をフル稼働させる。頭部に用意された演算装置が音を立ててひとつの解を導き出そうとしている。

 

 

 

 勝てるかもしれない。

 いまのグレートシング・アビスは、先まで全方位に激しい攻撃を展開していたような力強さがない。その証拠に息切れしたかのように、いまとっている行動といえば左右に舵を切りながら飛行しているだけだ。

 であればいまのグレートシング・アビスは無防備な状態では? その可能性は大いに考えられるのでは? この絶望的劣勢を覆すことができるのでは――そこまで考えて、アダムはふたつの方法を導き出していた。

 

 勝てるかもしれない。

 ひとつはアムネリアのオール・ナッシング機関のリミッター解除(リリース)を施して、機体性能を何倍にも引き上げる方法だ。だがそうすればこの一帯は文字通り「消滅」するかもしれないし、もっと間違えればこの星は間違いなく滅んでしまうだろう。

 あまりにもリスクや失敗の代償が大きすぎる。だがもうひとつの方法は極端なリスクを背負うことがない。

 

 勝てるかもしれない。

 キャプチャーしている空母棲姫をαビームのエネルギー源に変え、グレートシング・アビスの一番脆い箇所――激戦で著しく損壊した頭部――に叩きこむ。

 どれほど強力とはいえ、αビームなら空に向けて撃てば星や艦娘が傷つき果てることはない。

 それにαビームやキャプチャーボムはキャプチャーした敵の性能や本質によって威力が左右される。かなりの手負いとはいえ、ステージ2の深海棲艦をαビームに転用すればとんでもない威力のものを放てるだろう。それにいまの空母棲姫は厄介な瘴気の塊ではない。侵食されるリスクは殆ど無い。

 

 勝てるかもしれない。

 だがキメリカル・セイバーズの面々が守り、次の戦いへ備えようとしたものをαビームに転用してよいのか? これは北方棲姫のように、地球αでの戦争における平和の象徴となるのではないか? それを蹂躙する真似をして良いのか?

 アダムは決断した。

 迷う部分が無いわけではない。だが彼はアンドロイドで、人情やジョークを解する能力があっても、優先させるべき事柄の順位を順守する。そういうふうにできている。

 

「空母棲姫、とあなたは呼称されています。あなたの名前を便宜的にこれにしたいのですが、死んで頂けますか?」

「……」

 

 負っている重傷がひどくなっているのか、空母棲姫はなにも答えない。畳み掛けるようにアダムは拡声器ごしに呼びかけていく。

 

「この絶望的状況を打開するためには超大出力のαビームが必要です。これを放つためにはキャプチャーした捕獲対象をエネルギー転用する必要があります。つまりあなたを、空母棲姫をエネルギー転用し、グレートシング・アビスにぶつける、というプランを実行に移します」

「……サイショニイッタ(最初に言った)ワタシヲツカエト(私を使えと)

「え?」

ベルサーノセンカンヲシタガエテ(ベルサーの戦艦を従えて)アオイホウニツカッテイタノヲ(蒼い砲に使っていたのを)、……ミテイタワ(見ていたわ)

「同意してくれるのですね?」

「ソウヨ。デモ、アナタハアマイノネエ(あなたは甘いのねえ)テキニナサケヲカケルナンテ(敵に情けをかけるなんて)

 

 なにも返せないアダム。

 すぐに自分が死ぬと分かっているのに、それでも空母棲姫は前向きな調子で笑っていた。

 

「……さようなら。思っていたより親切な方でしたね」

 

 空母棲姫は応えない。アムネリアの機首の前に、静かに、蒼白い巨大な塊が生成されていく。それはアムネリアを軽く呑み込むほどの大きさまで膨らんでいった。

 どのベルサー巨大戦艦を用いてもこれほどまでに大きなエネルギー塊は作れないだろう。アダムはグレートシング・アビスとヘッドオンする(真正面からつっこむ)ように飛行する。

 このαビームを叩きこめばすべてが終わる。何度も演算した。これほどのエネルギー塊から得られるαビームならば、グレートシング・アビスを撃破できる。

 

 はずだった。

 

 力の抜けたような航行から一転。

 グレートシング・アビスは何度も右に回転するとそのまま機種を上げて高度を上げていく。速度は加速度的に上昇し、そのまま宇宙へ突き抜けることもなくピタリと停止。ゆるりと反転する。

 アダムがいるコクピットからは全天球モニターで外の様子を見ることが出来る。アムネリアの機械処理で蒼白いエネルギー塊の向こう側の様子も視覚データとして全天球モニターに投影されるが、そこでアダムが見たのは予想外のものだった。

 

 ドリルミサイル。

 の、ようなもの。

 崩壊寸前であった鼻先の発射口は、ドリルミサイルの発射で完全に崩壊して海に落ちていく。

 

(いや、あれは……ドリルミサイルではない)

 

 アダムはそう確信した。

 回転をかけながら海に向けて放たれたそれは赤黒い靄をまとっていた。内側から湧き出るように、急速に靄の量と濃度を増したそれは巨大な杭のように見えた。

 

(アムネリアが脅威度の算出を終えた――な、これは!?)

 

 海中を深く突き進み、地殻を食い破り、星の中心で爆発する――グレートシング・アビスの狙いはそれなのだとアダムは確信した。アムネリアのコンピュータが赤黒い杭の脅威度を算定してモニターに表示しているが、それによれば「地球αを破壊するのに十二分の威力を秘める」とあった。

 いまのアムネリアは、アムネリア自身を軽く呑み込むほどの大きさのエネルギー塊を保持している。対する赤黒い杭はそれを凌駕する大きさに成ってアムネリアに、艦娘たちに、この星に迫っている。

 

(これは……打ち勝てるのか? 空母棲姫を糧にしたαビームで?)

 

 αビームのトリガーに指をかけているが、アダムは引ききってはいなかった。まだなにか他に良い方法があるのではないか、グレートシング・アビスを撃破するのを優先させるべきなのか――アダムの思考回路は文字通り焼き切れつつある。

 

〈しっかりしろアダム! ここではお前が頼りなんだ!!〉

 

 レッドの声が無線越しに。直後、アムネリアの直下からバーストビームが通常照射された。レジェンドがアムネリアの下に位置どっているのだ。

 ヴァディスは加勢しようにも出来ない状況だ。通常のショットでどうにかなるものではないし、ブラックホールボンバーはアームを喪った艦娘たちをすべて犠牲にしてしまう。そのまま艦娘たちの無事を確かめてもらう他ない。

 

〈そうだぞ! 私たちも協力するから、諦めるな!!〉

〈言っておくが俺はまだ諦めてねえからな、鯨を壊してドリルも壊して、あの子たちもこの星も救うんだよ!!〉

 

 ブルーとヴェルデの声もアムネリアのコクピットに響き。直後、アムネリアの右からネクストが、左からはフォーミュラがバーストビームが通常照射していく。

 三条のバーストビームはひとつところで衝突し、バーストリンクを起こして極大の蒼い光条(リンクドバースト)を作り上げ、赤黒い杭に真っ向からぶつかっていく。

 先の豪腕をも破壊したリンクドバーストは極大の杭を押しとどめ、しかし内側から溢れ続ける深淵の力が杭を成長させているのか、徐々にリンクドバーストが圧されてしまっている。

 

〈皆さん……ありがとう、いま行きます!!〉

 

 思い切りαビームのトリガーを引く。

 アムネリアの機首にある極大のエネルギー塊が収束し、直後に轟音を立てて極太の蒼い光の束が空に向けて放たれて。

 その太さはグレートシングの船体を軽く飲み込んでしまうほど。しかし立ちふさがる極大の杭は、そんなαビームと同等の大きさを誇っている。

 最初はリンクドバーストを押し上げるように、しかしそれすら飲み込んで糧にしてしまったαビームは極大のくいと激突する。直後、アムネリアのモニターが非常警告を表示した。

 

 αビームが干渉されている。このままだと押し負ける可能性がある。

 

 そんな旨のことをアムネリアのコンピュータは告げている。

 仲間になってくれたかもしれない空母棲姫の命を糧にしたαビームと、3機のシルバーホークバーストからなるリンクドバーストを合わせても、グレートシング・アビスが放った赤黒い極大の杭に対抗できない。

 またしてもアダムは絶望的な現実に直面する。しかしアダムにはある策があった。しかしそれに踏み切れば、この星が崩壊するかもしれない。そこまで失敗しなくても、辺り一帯は文字通り「消滅」するかもしれない。

 

〈やるしかない……オール・ナッシング機関、リミッターリリースに踏み切ります。よろしいですね!?〉

〈信じている。共に戦った時間は短いが、アダム、私はお前を信じている。信用に足る奴だと思っている〉

〈私だって大丈夫さ! この馬鹿でかいドリルミサイルもあの腐れ鯨も倒せるんならやっちまえ!〉

〈言いたいことだいたい言われちまったよ。ま、俺もだいたい同意だよ。信じてるぜ、アダム〉

 

 レッドも、ブルーも、ヴェルデも、同じ気持ちでアダムを見つめている。そのことにある種の嬉しさを覚えたアダムは、押してはならないボタンを押し、同時に仮想キーボードをコクピット内に出現させ、空いている手で激しくタイピングを始める。

 仮想キーボードはアダムにしか見えていない入力装置だが、アダムが浮かんでいるキーを打てばアムネリアのコンピュータに入力が出来る仕組みになっている。

 いまのアダムはαビームのトリガーを思い切り引き続けながら、コンピュータに直接入力してオール・ナッシング機関の暴走を防いでいる状態だ。

 

〈オール・ナッシング機関、リミッターリリース!〉

 

 無線に向けて宣言。アダムはコクピット内に表示される多数のウィンドウに目をやりつつ、制限を解除されたオール・ナッシング機関の可動に関しての手動入力制御を行う。

 その結果はすぐに現れ始めた。αビームが赤黒の極大の杭を押し始めたのだ。リンクドバーストによる支援もあってαビームと極大の杭の干渉合戦は、αビームが押し始めている。

 

〈アダム! あいつ、バーストビームも撃つ気だ!〉

 

 ヴェルデが言うようにグレートシング・アビスは急転回してキメリカル・セイバーズに背を向け、全速力で距離をとってから再び回頭。船体のを傾け、頭部に設けているバースト砲を稼働させ、自身が放った極大の杭に撃ちこんでいく。

 激しくなるビーム合戦。ここで負けてはならない。負けてしまえば地球αは消滅し、いつかはダライアスも深淵の力の脅威にさらされるだろう。それだけは、そんなことはあってはならない!

 

〈やらせません! オール・ナッシング機関のリミッターをもう一段階だけ解除します!〉

 

 アダムが宣言し、仮想キーボードの操作を続けると、アムネリアの全天球モニターはウィンドウで埋め尽くされてしまった。

 白い画面を黒い文字が滝のように流れていく。アダムはそれをすべて理解し、適切なコンピュータ入力を続けて制御を試みる。

 実在しないキーボードはカタカタと音を立てない。しかしアダムの思考回路はヂリリ、と妙な音を立て始めていた。彼の処理能力の限界が近づいている。これ以上オール・ナッシング機関のリミッターリリースをするなら、スーパーコンピュータは必要な勢いだ。

 

 蒼と赫の光の束はお互いに押し、押され、どちらも譲らないでいる。

 例えるならば、それは神話の時代に語られた巨人がお互いにつかみ合って力比べをしているようなものだ。

 ふたつの光の束はどちらも勢いと輝きを増し、世界の色を白と黒だけに染めていく。この星を、そして宇宙の明暗を分けるこの激突は激しさを増しながら、しかし確かに終わりに近づいていた。

 

 ギリギリの綱渡り。落ちればキメリカル・セイバーズの消滅。下手を打てばこの星そのものが消滅してしまう。

 存亡をかけた光の束の激突。アムネリアが勝てば生き残り、グレートシング・アビスが勝てば滅びの歴史に新たな記述が増えることになる。

 それでも。

 消滅、というあまりにも大きすぎるリスクと現実にアダムは臆しない。

 仲間のシルバーホークパイロットたちも一歩も引かない。

 故にαビームは加速度的に勢いを増し。極大の杭を覆う赤黒い靄に、植物の根がはるように蒼い光がビキビキと刻み込まれ。そんな現象が起こり、次の瞬間にはそこがαビームに呑まれている。

 極大の杭もバーストビームも、グレートシング・アビスをもαビームは呑んでいくだろう。そんな確信をさせる勢いが、激しさが、そこにあった。

 

〈やったぞ! やった、αビームが押している!〉

〈ああ。……この戦い、もらったな〉

 

 ブルーとレッドはトリガーの力を緩めずに、しかし穏やかに会話を交わす。その後ろではヴェルデは明るい声色で勝利を喜んでいた。

 

 疾風迅雷の勢いのまま。

 すべての希望をかけた極大の蒼い光の束は。

 機械の体を持った深淵の力を呑み込み。

 この星を滅ぼすほどの災厄を文字通り「消し去った」。

 

 キメリカル・セイバーズの最後の戦いは、彼女たちの勝利に終わった。もしも女神というのが実在するならば、きっと彼女たちに満面の笑みを向けていることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 グレートシング・アビスを消し去ったαビームは無事に収束し、オール・ナッシング機関の暴走も起こることはなかった。

 しかし暴走しないように制御に集中していたアダムの思考回路は支障をきたしていた。人間で言うところの極度な疲れがアダムにのしかかり、まともに操縦が出来ない状態であった。

 そんなアダムとアムネリアを支えたのはヴァディスである。ヴァディスはシルバーホークが標準で備えている重力錨(グラビティアンカー)――宇宙戦艦とシルバーホークを繋げるのに必要な固定装置――でアムネリアをつなぎ、牽引するようにゆっくり飛行している。

 

〈あなたのおかげでみんな助かったわ〉

〈艦娘は……無事だったんですね? 侵食は? 深海棲艦化のリスクを負っている者は?〉

〈いないわ。あの腕の激突でみんながアームを喪失したけど、でもアームは最後まで艦娘たちを守ってくれていたみたい〉

 

 アムネリアを牽引するヴァディスのコクピットで、ヒストリエが静かに穏やかに語る。アダムはそんな態度がちょうどよいと感じていた。機能が低下している状態で大きな声で話しかけられれば聴覚センサーに制限をかけてしまうに違いない。

 

〈60秒後に艦娘たちと一緒に帰投するわ。空母艦娘がみんな大破しているから、着艦も補給もできない状態だしね〉

〈そうですね。……この戦いに勝てて本当に良かった。でも――〉

〈でも?〉

〈――オール・ナッシング機関はいまもこうして存在する。それだけでシーマを刺激しているのに、敵を倒すためにオール・ナッシング機関のリミッターリリースをしてしまった。もしかすると、シーマはこの地球を滅ぼしに来てしまうんじゃないかって、そう考えていました〉

〈確かにそうかもしれない。でも小森提督がどうにかしようって言っていたわ。だから、たぶん大丈夫よ〉

〈根拠は?〉

〈うーん。小森提督はね、自分が言ったことを実現させるために頑張っていたの。アムネリアの開発に反対していた艦娘がいたのは知っている?〉

〈ええ〉

〈その中には熊野もいたの。第三艦隊所属の子だけど、分かる?〉

〈ええ〉

 

 あまり直接に話をしたことはないが、アダムのデータベースに熊野の情報はあった。

 最上型4番艦、熊野。その船魂を継いだ艦娘。前向きで明るく、育ちの良いような言動がよく目立っていた。最上型3番艦の船魂を受け継いだ鈴谷とはある種の姉妹関係にあり、関係は良好であるように見えた。

 小森提督のところに属する前は、戦死している青海提督の所属であった。その頃から瑞鳳を含めて3人で仲良くやっていたらしい――などなど、処理速度が低下した「頭」でアダムは情報を確かめる。

 

〈私もその場に居合わせていたけど、小森提督は瑞鳳と鈴谷を連れて熊野を説得していたの。アムネリアを開発することはオール・ナッシング機関をこの世に蘇らせることと同じで、それがシーマなんていう未知の敵を呼び起こすのなら、そんなのない方がマシだって反対していたのよ〉

〈反対の理由としては正当ですね。そこを小森提督がどうにか説得した?〉

〈そうよ。真摯に……上官の命令に従え、だなんて頭ごなしに言わないで、きちんと計画を提示して納得がいくまで説明して、脅威を最小限に抑えられるって説いていたの。熊野はずっと反対していたけど……でも、小森提督の真摯な態度に折れたみたいだったわ〉

 

 部下を指揮する能力はお世辞にも高いとは思えなかったが、きちんと向き合うための努力を重ねられる人物らしい。アダムは小森提督に対する評価を改め、話を本筋に戻そうと口を開く。

 

〈なら、シーマがやってきても大丈夫そうだ、と?〉

〈そう思うわ。私はね〉

〈私もそう思えてきましたよ。……あの、ヒストリエさん。お願いがあるのですが〉

〈なにかしら?〉

〈スリープモードに入ります。擬似五感がどうにも不調に対する不快を示していて、パフォーマンスがかなり劣悪になっているようです。非常時以外は連絡をしないようにお願いできますか〉

〈分かったわ。港についたら知らせる、おやすみなさい〉

〈ありがとうございます。それではまた〉

 

 アダムの方から無線連絡が切れる。ヒストリエは小さく息をつくと改めて前を向いた。

 この戦いで失った戦力は意外にも少なかった。それが彼女の率直な認識だった。地球αを訪れる前、ベルサーとの大規模な戦いがあれば、敵味方ともに大きな損失を被ることは珍しくなかった。

 脆弱なはずの人の姿をしていても、艦娘はその身に宿す船魂に守られているのだろう――傷つき血を流し、それでも前に進んでいく生き残りの艦娘たちを見て、ヒストリエは感慨深く息をついた。

 

 この時、ヒストリエの耳には艦娘・金剛の報告が聞こえている。妙に特徴的な話し方をする金剛の報告に偽りはなく、あるがままの状態を告げている。これに応える小森提督もまた、涙ながらに返していたようだった。

 

〈こっちの被害は全員の大破で、だけど敵は全滅させられたデース!〉

〈うん、うん。そっか、よくやってくれたよ……ありがとう、ありがとう。金剛ちゃん、そのまま西に進んで東京の港に帰投してね。十分に休んでから鎮守府に戻ってね〉

〈了解ネー!〉

〈ぐすっ、うん、元気でよろしい! それとね、龍驤ちゃん、聞こえる?〉

 

 話し相手を変えるつもりらしい。心底から疲れた様子で「なんや」と返ったのをヒストリエは聞いた。この無線通信はヒストリエだけでなく、すべてのシルバーホーク乗りや艦娘たちに聞こえている。

 

〈よう! 龍驤、おじさんがいなくて寂しかったんじゃないのか?〉

〈なななっ、オールド!? 生きとったんか!?〉

〈おじさんが簡単にくたばるわけねえだろ。でもまあ、結構ヤバかったんだけど、でも助かったんだ。紅玉のお陰でさ〉

 

 よかったよぉ、と龍驤は鼻をすすりながら声を震わせた。ヒストリエもまた、オリジンが墜落した瞬間を目にしている。心の底から安心して、体の力が抜けてしまった。

 

〈なにがあったんや? 侵食を受けて大丈夫……なわけあらへんよな〉

〈いまのシルバーホークは紅玉に強くしてもらってるだろ? 付喪神っていう幽霊の力を強くして、深海棲艦にも攻撃が通るようにしたって話はわかるよな?〉

〈ああ、んで?〉

〈シルバーホークは霊的な進化を遂げたってわけだ。で、深淵の力の侵食攻撃ってのも霊的な攻撃だろ? それにオリジンは一度だけ侵食されたことがある。つまりだな、免疫ができたってわけだ〉

〈なんやそれ、病気の話してるんとちゃうで〉

〈ははっ、まあ、病気ってのも間違いじゃない。シルバーホークは深淵の力の侵食をある種のコンピュータウイルスと認識して、その免疫があるってんで完全に排除しちまったんだ。霊的な攻撃に対するセキュリティソフトをインストールしていたようなもんさ〉

〈……やっぱどう考えても笑えてくるわ。でもま、オールドもオリジンも無事にそっちで復活できたみたいで良かった。良かったで、ほんまに……〉

 

 喜びと涙に声が震えるのを抑えられない龍驤は、自分からマイクを切ったようであった。それを確かめてから、彼の教え子であるレッドとブルーがめでたい、めでたいと声をかけていく。

 こうして平和な帰還をして、この作戦は終了する。長かったこの作戦は幕を引き、地球α上のすべてのベルサー勢力は撃破された。

 人類と深海棲艦の戦争状態は解決はしていない。地球外の文明が介入したことで、お互いにいびつな進化を遂げてしまっている。しかし。状況は少しは良くなった。少なくとも、今後に星の存亡がどうのこうのという状況は起こらないだろう。

 

 あるとすれば、それはシーマが襲来したとき。

 ヒストリエが心から作戦終了を快く迎えられないのはそのせいだった。

 いったいどのタイミングでシーマはやってくるのだろうか? この戦いが終わればシルバーホーク乗りたちがダライアスに帰還するとして、そのあとでシーマは地球αに来てしまうのだろうか? そうなれば対抗できる武力がなくて滅ぼされてしまうのでは?

 嫌な想像がヒストリエの頭を駆け巡る。奴らは、シーマの脅威は、本当に小森提督だけに任せられるのだろうか? 説得が失敗したフォローはどうするのだろう?

 

〈……みんな、落ち着いて聞いてね〉

 

 ヒストリエにとっては不意打ちのようなタイミングだった。小森提督が少し落ち込んだ声でキメリカル・セイバーズの全員に言葉を向けている。

 嫌な予感しかしなかった。ヒストリエはそうっと上を見上げる。全天球モニターはパイロットの視界をすこしも妨げることはない。

 曇りがかった空の上。色が同化していて視認しづらいが、そこに青色の半透明ななにかが浮いている。

 十字架のような形をしてたたずみ、時折、鼓動するかのように「なにか」の中にあるものが動いている。――生物なのか? ヒストリエは青色の半透明ななにかから目が離せないでいた。

 

〈シーマが現れたのをたったいま確認した。キメリカル・セイバーズのいる海域のちょうど真上にいる。計画通り、これから私はシーマとの対話をやってみる。刺激しないように、静かに航行していて。……私を信じてくれる?〉

 

 小森提督に返った言葉は揃っていない。しかし、艦娘たちもシルバーホーク乗りたちも、小森提督にこの状況を託すつもりでいたことを伝えた。

 どうしてもこの状況をいまのキメリカル・セイバーズで乗り切ることは出来ない。艦娘は深く傷つき、シルバーホーク消耗しきってロクに戦える状態ではない。そんな彼女たちがシーマと戦うなど不可能である。

 この状況を切り抜けられる力を持つのは小森提督しかいない。その思いを、キメリカル・セイバーズの面々は伝えていく。その言葉の数々に小森提督は圧倒されたようになにも返せず、しかしどうにか喉を震えさせていく。

 

〈あ、ああ。ありがとう。……それじゃあ、いってきます!〉

 

 それきり小森提督からの言葉はない。

 キメリカル・セイバーズも話さない。

 奇妙な沈黙。奇妙な空間。地球にひどく接近した、青い半透明のシーマは、強くその存在感を空に滲ませている。

 まるでクリオネのような形をした、物静かで不気味な印象の。半透明の体に頭部と心臓らしき機械部分を内蔵し、それはまるで頷くかのように動いていた。

 「説得」が始まったのだ。〈最初のふたり〉のTi2がやったのと同じことを小森提督は為そうとしている。

 特殊なアンドロイドだから為せたことを、ただの人間が真正面からぶつかっていく。果たして説得に成功し、クリオネのようなシーマに帰ってもらうことはできるのか?

 

 ヒストリエは願った。

 彼女はなんの宗教も信じていない。だから、彼女が願いを捧げるのは神や仏のようなものではない。いままさに困難に立ち向かおうとする小森提督に願う。どうか空に浮かぶクリオネを説得できますように――

 

 クリオネの形をしたシーマはしばらく動かないでいた。

 大きな動きこそしないものの、時に頷くような動きをして、時に空の一点を見つめている。なにをしているのかは誰にも分からないが、ただひとつ分かっていることがある。小森提督は必死に説得しているのだと、キメリカル・セイバーズの全員が分かっていた。

 だが、クリオネのシーマは降りてきてしまった。そのままキメリカル・セイバーズたちに近づき、数キロ離れたところで停止する。半透明の肉体から見える頭部は間違いなくアムネリアシルバーホークを見つめていた。恐怖にヒストリエは凍りつき、操縦桿に手をかけたまま動けない。

 

 見つめていた。冷たい視線で。

 見つめている。腕にあたる部分を震わせながら。

 見つめ続けている。なにかを決したように振り返って。

 

「……やったというの?」

 

 静かに、なにも言葉を発さずに、ただ静かにクリオネのシーマは去っていく。

 遠くなる半透明のクリオネ。その青さは空に紛れて――見えなくなってしまった。

 宇宙からの来訪者は静かに地球に立ち入り、同じくらい静かに帰っていった。

 あっけない幕切れは、これ以上ないほどに小森提督が説得に成功したことを物語っている。最初に「やったあ!」と声を大きく出したのは誰だろう。それがわからないほどにキメリカル・セイバーズの全員が歓喜の声をあげた。

 まだ人類の平和を取り戻せてはいないが、それ以上に過酷な現実をはねのけてみせたのだ。感極まって喜び、楽しみ、嬉しく思うのは当然のことだった。

 

〈俺たちよくやったよな、な?〉

〈そうね。私たちは頑張って……この困難なミッションを成し遂げたのよ〉

 

 親しげに語りかけるヴェルデにヒストリエは穏やかに返す。すぐにヴェルデが調子よく騒いでいたが、いまくらいはそうさせてやってもいいか、と心のなかで笑った。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 キメリカル・セイバーズが小森提督の鎮守府に戻ったのは、ベルサーとの大決戦から3日が経った後だった。東京で、というよりは大本営が催した宴会に艦娘もシルバーホーク乗りも、そして北方棲姫ももてなされ、成し遂げた功績を讃え――これからの深海棲艦との戦いに期待が寄せられていた。

 

 そして大本営は、否、実質的なリーダーである鵤元帥は、キメリカル・セイバーズの解散を宣言した。小森提督から「人類が平和を取り戻した世界とシーマについての提言」を受け、シルバーホークを惑星ダライアスに帰還させる手筈が整っている。

 シルバーホークがこの地球に訪れたのは時空震と呼ばれる現象のせいだったが、その正体はベルサーが用いていた新たな規格のワープ装置であった。いまはもうその解析は完了していて、ダライアス宇宙軍の操作によって確実な帰還ができるという。ここに関しての心配は無用だった。

 さらに鵤元帥は、ベルサーと深海棲艦の連合を相手する際にどうしても必要だった「地球外のテクノロジーの破棄」を宣言した。これがあれば再びシーマが地球にやって来る可能性がある。そしてシーマはなにをしでかすかわからない。災厄を呼び寄せるのならない方が望ましい。

 

 

 

 こうしてキメリカル・セイバーズは小森提督の鎮守府の近海で解散することが予定されていた。

 頼れるシルバーホークを、もっと一緒にいればより安全にもっと多くの深海棲艦を倒せる強大な戦力が離れていくことは惜しいが、キメリカル・セイバーズの面々はそれを主な理由に表情を暗くしているのではなかった。

 

 鎮守府近海を空母艦娘たちが航行する。万が一の事態に備え、護衛のために比叡と榛名と霧島がついているが、彼女たちは戦いに赴くのではない。シルバーホークの帰還を見送るためにここにいる。

 

〈なあ龍驤〉

〈ん?〉

〈おじさんがいなくなって寂しくなるだろ?〉

〈あほ、うちを子供扱いするのもたいがいに――たいがい、に……ぐすっ〉

〈……おじさんも寂しいよ。できることなら戦いとか関係なしに、ずっとそばに居てバカみてーなやり取りをしていたいさ。でも、事情が事情なんだ。ある種の運命ってやつかもしれない〉

〈オールドの口から運命なんて聞くとは思わへんかったわ〉

〈おじさんだってそうさ。こんな年になればセンチメンタリズムなんて消えてると思ってたが、蓋をあけりゃどうも違うみてえだ〉

〈女の子にだってそんなもんはないよ。特に戦う女の子には――って思っていたんやけどなあ。ぐすっ、これじゃ説得力のかけらもあらへんわ〉

 

 別れの時まであと少しというのに、龍驤と発艦されたオリジンに乗るオールドはそんな軽い調子の言葉を絶やさない。唯一、平時と違うところがあるとすれば、それはふたりが涙ぐんだ声をしているくらいしかない。

 

〈そういや龍驤〉

〈ん?〉

〈小森提督は旅に出たんだったな。いい加減に疲れたから温泉旅行にでも行きますって〉

〈せやせや。ったく、それならうちらも誘えっていう話や〉

〈ホントだよなー。……もうそろそろだ、龍驤〉

〈……うん〉

〈世話になった。礼を言うよ、ありがとう〉

〈うちだって! うちだって、言い切れないくらい、感謝しとるんや。……ありがとうな〉

 

 一度オリジンが龍驤に手で触れられる距離まで近づき、龍驤はそっと機首のあたりに手を載せた。

 いまのシルバーホークはどれも学校で使われる机くらいの大きさしかないが、時空震で帰還した時に元のサイズに戻るであろうというシミュレート結果は出ている。その前にこういう経験ができるのは実は珍しいんじゃないか、と龍驤は冗談を言うように心のなかで思った。

 

〈おじさんは龍驤より先に死んじまうだろうけど、でも、忘れないからな。お前もおじさんを忘れるなよ?〉

〈アホ、なんで宇宙人なんて珍しいもんを忘れられんねん〉

〈それをいうならおじさんにとっちゃ龍驤だって宇宙人だろうがよ。……じゃあな〉

〈さよならオールド。元気でなー!〉

 

 最後の最後までふたりは笑っていて。

 静かに上昇していて去っていくオリジンに龍驤は涙を流しながら手を振った。

 そうしている空母艦娘たちは多い。祥鳳も瑞鳳も大声で別れの挨拶を叫びながら泣いているし、瑞鳳は泣き叫んですらいる。

 赤城も加賀も寂しそうに手を振ってレジェンドとネクストを見送っている。静かに去っていくシルバーホークの一番後ろについているのはアムネリアだった。

 

〈さようなら鳳翔さん。短い間でしたが、一緒に戦えて良かったです。私の初任務のパートナーが貴方でよかった〉

〈私も嬉しかったですよ。……さようならアダムさん、さようなら〉

 

 艦娘たちと宇宙人の間には「またね」という言葉はない。そんな言葉がはさまる余地などどこにもない。そのことに龍驤はどうしようもない物悲しさと、心に寒い風が吹くのを覚えた。

 6機のシルバーホークは遠い空を目指して飛び、前触れも予兆もなく起きた稲妻に打たれたと同時に消え去ってしまった。

 暗雲のひとつもないのに落ちる稲妻。あっという間に消えてしまったシルバーホーク。遠く見える場所で起きた出来事は、すべてウソや幻であったと言われても納得してしまいそうなほどに現実味がなかった。

 

(でも……でも、宇宙人たちと過ごした日々は本物や。あれは嘘でもない、まやかしでもない。うちらにとってのかけがえのない宝物や。せやろ、みんな……)

 

 心のなかで語り変えた龍驤の隣に鳳翔が近づく。外見だけ比べれば少し年の離れた姉妹といっても不思議ではないが、いまのふたりはなにか心のなかで繋がっている――龍驤はそんな直感を抱いた。

 

「龍驤さん。私は彼らのことを忘れませんよ」

「せや、忘れようと思ってできるもんじゃあらへんわ」

「……残念に思うのは、空母棲姫を結局は仲間にできなかったこと、ですね」

「あれは仕方がなかった。仕方のない犠牲やった。それに元はうちらの敵や、もとより情けをかけるってのが間違いなんや」

 

 ためらいがちに鳳翔は頷き返す。彼女はなにか言いにくそうに龍驤の横顔を見つめていた。

 

「なんや?」

「オールドさんには……つらい嘘をつかせてしまいましたね」

「……あいつが鎮守府で復活したあとで見てしまったって聞いたよ。例の機械に繋がった小森提督がつらそうに絶叫していたって。シーマとの対話ってのは、うちらが思っていたより壮絶で、とても苦しいものだったらしいんよ。……まだ、金剛は提督のところに見舞いにいっとるんやろ、かわいそうやで、ホンマに」

 

 結論から言えばシーマとの説得は「成功」はしていた。だがその代償は確かに存在している。小森提督は植物状態に陥り、命を繋ぐための機械とチューブに繋がれて眠り続けているのだ。

 金剛の嘆願によって、小森提督は施設の整った大病院ではなく、彼女が在籍していた鎮守府に特別な部屋を設けて安置させることになっている。

 その準備が整うまで小森提督は近くの施設が整った病院で眠っている。金剛は毎日欠かさず見舞いに行き、その日の出来事を語りかけている――そんな話を比叡から聞いた龍驤は、悔しそうにうつむいた。

 

「ホンマに……小森提督はアホみたいな奴やな」

「龍驤さん?」

「アホみたいや、なんでそんな危険があるって分かって、あんな明るい態度を取れていたんやろうな。……やっぱ、アホなんやろうなって、うちは思うよ。アホやないとあんなことできるわけあらへんやろ」

 

 小森提督は「遺書」を残していた。

 執務机の上の封筒にあったのは一枚のメモ用紙。そこには簡潔に、遺書とは呼べないような内容が記されていた。

 

 ――ウソをついてごめんなさい。シーマとの対話はそんなに危険がないように喋っていたけど、あれはウソです。ダライアス軍で説得に成功した人は3年ほど帰らなかったといいます。私もたぶんそれ以上の時間を危険な状態で過ごすことになりそうです。

 遺書って書いているけど、これもウソです。私は死にません。だから目が覚めるまでは埋めたり燃やしたりしないでください。みんなが無事に帰っていることを願っています。みんなといっしょに戦えて嬉しかったです。

 また一緒に戦えるように頑張ります。その時までみんなも頑張ってね。またね!――

 

 それを読んだ金剛が泣き崩れていたのを龍驤は覚えている。目に、脳に焼き付いてしまったあの光景は一生忘れることなんて出来ないだろう。

 共に戦った時間は短いとはいえ、ダライアスに帰還するシルバーホーク乗りたちに余計な心配や心残りをさせる訳にはいかない。泣きながらも金剛は艦娘たちに伝え、唯一事情を知ってしまったオールドに協力を持ちかけてすらいた。

 小森提督に助けられた金剛はそうして恩を返し続けている。そのことに龍驤は清々しい気持ちと物悲しい気分を同時に味わう。少し先が見えないような暗さだが、夜明けの紫色が少しずつ満たしていくような――そんな奇妙な、悪くはない気分だった。

 

「真っ直ぐな方でしたね、小森提督は」

「せやな。真っ直ぐなアホやった。うちらにあんなこと相談できるわけもなかったし、内心、苦しくて苦しくて仕方なかったと思うんや。……元気になって目が覚めたら、本当に温泉旅行に連れてってやろうや」

「ええ。ついでに海の平和を取り戻して、小森提督への贈り物にしましょうか」

「うん! ……そういえば今日やったかな、新しい提督が着任するのは?」

 

 頷き返す鳳翔。せやったか、と龍驤は前を向き直した。

 水平線の向こうに彼女たちの鎮守府が見える。そこで彼女たちを明るく待っている小森提督はもういない。

 

(違うやろ。少しお休みしているだけや。また元気に笑ってうちらを支えてくれる、そう信じとるよ)

 

 龍驤は笑っていた。

 どれだけ先かわからない未来の話だが、小森提督が復活してくれるのを心から楽しみにできている。やっと前向きな気持ちになれたと、心のなかでホッと息をついた。

 

「大本営で学んでいた提督候補の方がいらっしゃるはずですよ」

「だったら指揮能力については申し分なさそうやな。なんせうちらの前の提督はただのデータアナリストあがりやったもんな!」

「ふふふっ。でも、新しい提督も、小森提督みたいに明るい人だったら嬉しいです」

「そりゃあうちもそう思っとるよ。……気がかりなのは金剛やな、新しい提督に馴染めるかどうか、ホンマに不安やわ」

「大丈夫ですよ。金剛さんは、小森提督が悲しみそうなことはしないです」

 

 せやな、それなら大丈夫やな。

 その言葉に龍驤は素直に納得できた。金剛や鳳翔との付き合いはとても長い。お互いのことはよく分かる自信がある。

 きっと金剛は鎮守府で元気に新しい提督を迎えるだろう。もう新しい提督が着任する頃合いだ。あの鎮守府に住み着いて協力してくれている北方棲姫に腰を抜かすかもしれない。

 いろいろ想像した龍驤は、これから先の戦いに向けての意識を燃やしていく。小森提督が目覚めるころには平和な海を、穏やかな世界を見せてやろうじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

「……うん、これで掃除はFinish! どこを見ても Cleanliness! So Good!」

 

 シルバーホークがダライアスに帰還していた頃、金剛は執務室の掃除に精を出していた。

 今日は新しい提督が着任する日だ。彼が――もしかすると彼女かもしれないが――気持ちよく執務室に入ってこられるようにと金剛は雑巾を絞り、窓をふいていく。

 ここには小森提督との思い出がたくさんある。多くが些細な日常の風景であったが、どれもこれもかけがえのない大事なものだ。

 そこに新しく着任する、顔すら見たことのない提督がやってくるという事実を、金剛は前向きに捉えられていた。小森提督が密かに金剛に託していた一通の手紙が、金剛を立ち直らせるきっかけとなったのだ。

 

 ――みんなを騙すような言い方をしてごめんね。どうか許して欲しい。それでもひとつだけ金剛ちゃんに願うことがあります。みんなが笑顔になれるような、そんな明るい金剛ちゃんのままでいてくださいね――

 

 金剛の寝室、その机の引き出しにあった白い簡素なつくりの手紙。それを読むまでの金剛は人が変わったように無口で、なにも食さず。小森提督が眠る病院に見舞いにいっていたが、その足取りは重く、表情はいつも泣き出しそうに歪んでいた。

 小森提督が植物状態となり、深く眠り続けている現実に打ちひしがれた金剛は、ある種裏切られたという気持ちも覚えていた。だが、小森提督が金剛に宛てた手紙が、彼女が持つ本来の明るさを取り戻していったのだった。

 

「そろそろ新しい提督がやってくる時間ネー。……小森提督、私は、私たちは、いつまでも待っているデス、だから、So……早く帰って来てほしいデース。私に Excepting You(お待ちしていました) って、言わせてネ!」

 

 誰もいない執務机に向けて金剛は笑う。小森提督が目覚めてもここに戻るかどうかはわからない。だが、いつか彼女が無事に目覚めますように――静かな祈りを胸に、執務室のドアがノックされた音に金剛は向き直った。

 

 

 失礼する。

 静かな男の声だった。

 白い軍服の長身な男。清潔感のある顔立ち。細く形の良い相貌が金剛を見つめる。

 不安そうな視線だが堂々とした姿勢をしているのは、部下たる艦娘たちに舐められないようにするためか。そんなに肩肘張らなくていいのにな、と金剛は微笑みながら、新しい提督を柔らかく見つめ返す。

 

「はじめまして。今日からこの鎮守府の提督となる、春木という。よろしく頼む」

「ヨロシクオネガイシマース!」

「うむ。君の名前は?」

「金剛デース! 英国生まれの帰国子女ネー!」

「――ははっ、なかなか面白いな、君は。はは、そうか、これがキメリカル・セイバーズなのだな。先のCS作戦では人類の、地球の存亡の危機を救ってくれたのだったな。感謝の言葉が浮かばないよ」

Don’t mention it!(どういたしまして) でも、感謝しているっていうなら、一緒にお茶会をして欲しいデース! 紅茶は苦手デスカー?」

「好物だよ。これからいろんな準備や視察をしなければならないが、そのあとでお茶会を始めよう。それでいいね?」

 

 Yeeeees! 金剛は満面の笑みを浮かべて春木提督の手を握る。少し驚いて僅かに顔を赤くした春木提督は、それでも金剛の目を見つめて頷いた。

 

「君の仲間たちも一緒に誘おう。……人の上に立つのは初めてなんだ、君たちのことは知っておきたい」

「Okay! それじゃ鎮守府の案内をするデース、Follow me!」


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。