艦娘と銀鷹と【完結済】   作:いかるおにおこ

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繋がる気持ち。にじり寄る滅び

 先に策定されたブラックホールボンバー使用シークエンスに「潜水艦娘のいる戦闘領域での使用を禁ずる」と追加されたのが、昨日のことだったはず。瑞鳳はそんなことを思いながら入渠施設で一息ついている。

 温かい風呂に体を休めても、心まではほぐれることはない。となりで陽気に話しかけてくる鈴谷を、瑞鳳は心の底から羨ましく思った。

 

 

 

 2日前に初めてブラックホールボンバーが地球上で使われた。そして昨日も、今日も、何度かブラックホールボンバーが使われている。

 森羅万象を歪め、捻る。光を、音を、風を、海を、敵を、味方を、なにもかもを引きずり込む超重力の場の威力を目の当たりにした瑞鳳は、その時からシルバーホークとそのパイロットに対して距離を置きたいと考えていた。

 パイロットの妖精ふたりは、あまりにも恐ろしい威力を秘めた力をふるうことになんのためらいも見せない。常識の違い。価値観の違い。相手はなにも意識することなく振舞っているのだろうが、瑞鳳にはそれがとても衝撃的だった。

 しかし現実問題として、いままでの関係を崩す事はできない。平静を装いながら、瑞鳳は板挟みになり、何度も過酷な出撃を繰り返していた。

 

 陽気なヴェルデと、冷静なヒストリエというふたりのパイロットの妖精。彼らが悪い人物でないことは分かっている。しかし、瑞鳳にとってそれとこれとは話が別の問題なのだ。

 いまになって思えば、現行の全ての戦闘機を凌駕するスペックを持つシルバーホークは、その存在自体が危険極まりない代物であった――瑞鳳は顎のあたりまでお湯に顔を沈め、思案を続ける。

 

 

 

 そもそも。

 最初にシルバーホークを手にした小森提督は、それの危険性を見抜かなかったのだろうか。

 シルバーホークの力を借りて深海棲艦たちとの戦いに全て決着をつけた後の世界。そんな世界のその後を予見しようとしなかったのだろうか。

 万能宇宙戦闘機だなんて呼ばれる代物が一機あっただけで世界の軍事バランスは大きく崩れてしまうに違いない。全ての戦いが終わって平和な世界を取り戻せたとしても、シルバーホークがある限り争いはなくならないだろう。

 強大な力を手にすれば、人はそれをふるってなにかを得ようとするのが常だ。

 個人的な闘争、テロリズム、国家間戦争――深海棲艦との戦いが終わった後の世界は、おそらくそんなものが蔓延するに違いない。シルバーホークがあるならばなおさら。ならば、私たちの戦いとは、一体なんのために?

 

 

 

「あのさあ……瑞鳳、どうしちゃったの? なんか具合でも悪いの?」

 

 となりから声をかけられた瑞鳳は慌てて振り向く。緑色をした長い髪を濡れさせた鈴谷が浴槽に落ち着いている。豊かな身体が浮いているのをわずかに羨ましく思った瑞鳳は、しかしため息をついてしまった。

 

「なんか私がバカみたいなこと言ってるように見えるから、そういうのやめてくれる?」

「ゴメン、そんなつもりじゃなかったの」

「悩みごとがあるなら相談のるよ? ほら、こう見えて口が固いのは瑞鳳も知ってるっしょ」

 

 前の鎮守府にいた頃、瑞鳳はプライベートなことを鈴谷に相談していたことがある。慣れない人間の体の使い勝手といえば語弊があるが、とにかく、人間の体に慣れていなかった頃にいろいろなコツや折り合いのつけ方を学んでいたのだ。

 

「……鈴谷は考えたこと、ない?」

「なにを?」

「戦いが全部終わった時のこと。一応、艦娘は、二度と戦えないように『解体』されるじゃない」

「あー……艤装適正を取り外される処理だっけ」

「なんでそうするか、考えたことは?」

「まあそりゃ、深海棲艦が滅べば、次に脅威になり得るのは艦娘くらいのものじゃん? だったら艦娘の戦う適正を取り外すのは正しい選択だと思うけど。……また人同士の争いが始まるのはイヤだし、そんなのに加わるのも、イヤなんだ」

 

 私もそうだよ。瑞鳳は呟くように返すと天井を見上げる。無地の橙色はよく湿っていた。

 

「で? そんなことを考えてたの?」

「……艦娘だけが敵と戦っていたならまだいいよ。でも、いまは、シルバーホークもいる。あれは妖精であれば、訓練さえすれば誰でも乗ることができるものだって分かるでしょ?」

「んあ、あー、そうだね」

「それにシルバーホークを研究することでいろんな装備を作り出せる。現に、艦娘用アーム発生装置なんてのが作れてしまっている。この先もっと有用でブラックホールボンバー以上に危険なものが開発されるかもしれない。シルバーホークは平和な世界にあってはならないものだと思うの」

「科学の平和利用ってやつを信じないクチなんだね」

「その科学を武器として振り回そうとしたのが私たち(在りし日の軍艦)なんだよ」

「まあねえ……ま、せっかく取り戻した平和を乱そうってする奴がいるなら、ケチョンケチョンに懲らしめてやらないとね」

 

 爽やかな笑みを浮かべながら鈴谷は語る。態度こそ少し悪い、おちゃらけた感じの言動が目立つ彼女だが、その性根は心優しい――改めて瑞鳳はそう感じた。

 

「それが瑞鳳の悩んでいたことなの?」

「うん……シルバーホークの能力は、通常戦力としての現行の戦闘機よりもずば抜けて高いってのは分かるよね」

「なんだっけ、ターミネーターだかラプターだかってのが最強なんだっけ? それよりも強いってわけだ。ま、あんな動き見せられたら頷けるもんだけど。それに前に見たビデオでブラックホールボンバーがどんなもんか見たけど、ありゃヤバいよね……正直引くわー」

「うん……シルバーホークが一機でもあれば世界の軍事バランスは変わってしまうわ。それほどまでに危険な存在なの。私はそう思う」

「でも瑞鳳、そんな未来の話を持ちだして『シルバーホークを使うのはやめよう、破棄しよう』だなんて提督にでも言うつもり?」

 

 違うけど――瑞鳳は答えにくそうに返し、続きの言葉を言えなかった。

 

 

 鈴谷の言うとおり、いまの戦局でシルバーホークの破棄を提案するのは下策の極みだ。シルバーホークに助けられている局面はとても多かったし、昨日から極端に増えている。

 ブラックホールボンバーの驚異的な威力は、フォーミュラが搭載していたビデオカメラが一部始終を記録し、提督や基地の艦娘ら全員が見ている。この基地の駆逐艦娘は睦月型の睦月と如月の2名だが、そのどちらも映像を見終わった後に著しく体調を崩してしまっていた。

 

 ブラックホールボンバーの効果や威力は深海棲艦も遠くから観測していたらしく、これひとつだけで全滅しないよう、複数の侵攻ルートをとって攻め込んできている。一点に戦力を固めて押しつぶす作戦から切り替えたのだ。

 控えめに言って、猛攻。先のブラックホールボンバーが全滅させた大多数の敵と同等以上の軍勢で、艦娘らを滅ぼさんとしていた。

 まともにやりあえば一瞬で全滅してしまうのが目に見える絶望的な状況が連続したが、それらを覆したのがシルバーホークであり、これが運用するバースト機関とブラックホールボンバーであった。

 フォーミュラとヴァディスはなぜか深海棲艦への攻撃能力を有している。強力な特殊兵装の他にも素の武装で渡り合うことが出来るが、艦娘がまったく戦わなくてもいい、ということにはならない。

 一番脅威度の高いところでシルバーホークが戦い、敵の数を大きく減らしたところで、別のルートを使って侵攻をかけてくる。その迎撃にあたるのが南西諸島基地の艦娘らだった。

 待ち伏せが容易にできそうな小島が連なる場所では伊19が魚雷を用意して息を潜め。大々的に侵攻する敵艦隊には扶桑と山城という強力な戦艦娘と、彼女たちを睦月型のふたりが先導して支える。

 戦いに次ぐ戦いで、艦娘はどうしても消耗を強いられる。結果、夜遅くに瑞鳳と鈴谷が特殊な風呂に浸かるに至った。朝からずっと続いた猛攻だが、敵は夜戦に踏み込むことはなかった。多大なリスクを背負ってまで攻めこむことはないと判断したのだろう――と瑞鳳は推測する。

 

 

 

「先のことなんてくよくよ考えても仕方がないじゃん? つーか核より酷いもんじゃないって考えたほうが気持ち的に楽じゃない? それよりもさ、次に来る敵のことを考えたほうがいいって」

 

 深く考え事をしていた瑞鳳は鈴谷の声にハッとする。

 鈴谷はいいよね、あんまり深く考えなくって――そう言おうとして瑞鳳は口をつぐんだ。

 そんなことを言えばサイテーの極みだ。それに鈴谷も「平和な未来」に不安を抱いているはずだ。それを隠して自分を勇気づけてくれているのに。自分を恥じた瑞鳳は別の言葉を喋ることにした。

 

「……そうだね。相談のってくれて、ありがとう」

「素直な感謝の言葉って嬉しいねえ。そうだ、もうすぐ時間でしょ?」

「ああうん、もう3分くらいかな」

「瑞鳳がまだなんか悩んでるなら、ケンちゃんにマッサージしてもらえば?」

「け、ケンちゃん? もしかして料理人の拳三郎さん?」

「うん。夜の0時までつぼマッサージを開くことにしたんだって。料理だけじゃいまのキツい状況を支えるのには足りないんだって提督に申請して、許可が出てさ」

 

 そんな話は初耳だ。きっと昨日の出撃の時にそんなやりとりがあったに違いない。瑞鳳はあたりをつけると、そうなんだ、と嬉しそうに返した。

 頑張っているのは提督だけでも、艦娘だけでも、妖精だけでもない。この基地では唯一の一般人な料理人だって、過酷な状況に立ち向かう努力をしようとしている。それも自分から。

 

「なになに興味あんの?」

「それもそうだけど、嬉しくって」

「嬉しい?」

「あの人も積極的に頑張ろうって姿勢を見せてくれてるってこと。それが嬉しくって」

「なるほどね。で、興味あんの? ないの?」

「あるっちゃあるかな……でも痛いでしょ?」

「そのぶん効くんだよこれが。おじさんくさいこと言うけどさ、この体って若いからちょっとは無茶してもいいと思ってたんだけど、なかなか体には響いているらしいんだ」

「つぼが痛かったんだね」

「特に肩こりとかがひどかったみたいでさ。足の指の付け根あるじゃん、そこの辺りをこう、ゴリゴリってやられてすげー痛かったんだよね」

 

 

 重巡洋艦、あるいは航空巡洋艦としての鈴谷でそう言うのだから、艦載機発着艦で肩の辺りを大きく動かす自分はどうなるのだろう。ちょっとした恐れを覚えながらも瑞鳳は頷き返す。

 

「瑞鳳もやってもらいなって。次の出撃の時なんて、体がスーッと軽くなるような気分になるからさ」

「そうね。あがって体を拭いたら行ってみようかしら。どこでやってるの?」

「食堂の座敷のとこだよ。小さいけどケンちゃんが特設会場みたいな感じで作ってて、青いのれんやパーティションで区切ってるからわかりやすいと思うよ」

「うんうん。それじゃ行ってみるよ。鈴谷もそろそろ時間だよね?」

「あと10分ちょっと……うん、鈴谷もケンちゃんに揉まれたいし。ちゃんと交代してくれるよね!」

「わかったわかった。それじゃ、あとでね!」

 

 

 

 

 

 

 入居施設からあがった瑞鳳は、白い寝間着の着物に身を包んで廊下を歩く。鈴谷に教えられた場所を目指しているのだ。

 料理人の拳三郎がつぼマッサージをしているというのは、この目で見るまでは完全に信じ切れない部分もあったが、それでも瑞鳳の足は食堂へと向かっている。

 時刻は夜の11時を過ぎたあたり。まだ1時間近くは拳三郎は起きている予定のはずだ。つぼマッサージを終えれば明日のためにすぐに寝るのだろうか――そんなことを考えながら、瑞鳳は食堂に足を踏み入れる。

 

 明かりをあまりつけないようにしている廊下と同じく、食堂も床やテーブルがどこにあるかを把握できる程度に最小限の照明しかつけられていない。そんな食堂の座敷部分の片隅に青いのれんと灰色のパーティションで区切られた4畳ほどの空間があった。

 

「け、ケンさん?」

「瑞鳳さん! どうしたんですか、どこが具合が?」

 

 のれんの奥から拳三郎がヌイっと顔を出す。人のいい笑顔を浮かべているが、どう見ても料理人や按摩師のようには見えない顔だ。黒髪のオールバックにとても恐ろしい精悍な顔つき。

 かなりの経験を積んだアクション俳優か、大物のやくざものかくらいしか判断がつかないような、恐ろしい顔をしている。結構な長身に筋肉質な体というのも、第一印象で圧倒させるのを手助けしてしまっている。

 白い作務衣のようなものを身に着けていて、黒エプロンと割烹着の印象が強かった瑞鳳はある種の新鮮さに目を見張った。あとは恐ろしそうな風貌がなければ立派な按摩師に見えそうなのだが、これが彼の個性なのだから仕方がない。

 

「調子が悪いわけではないのだけど、鈴谷に教えてもらったものだから。どんな感じのものなのかなって」

「そうでしたか。では、足つぼでも試してみましょうか?」

「はい! それじゃ、お願いします!」

 

 スリッパを脱いで座敷に上がる瑞鳳。のれんをくぐって目にしたのは、ぶあつい白の布団だった。ふわふわしていて暖かさそうな印象を受けた瑞鳳は、後ろの拳三郎から「うつ伏せになってください」と声をかけられ、それに従った。

 

「寝間着、失礼しますね」

「あ、はい。あんまり痛くしないで、ね?」

 

 努力はします、と困ったように拳三郎が返す。そろりと足元の袖をまくられ、瑞鳳の小さな足が布団の上であらわになる。

 すこし冷たいような、温かいような、そんな感触が瑞鳳の足に触れる。ひゃっと小さく声を上げた瑞鳳は次の瞬間に自分でも出せそうにないと思っていた声を出してしまう。

 

「ああっ、あががっ!!」

「効くでしょうこれ、ここが肩こりで、これが目なんですよ!」

「でででっ!! ちょっとケンさんいだ、いだだ!! 痛いって!!」

 

 足の人差し指と中指の付け根をゴリゴリ押される瑞鳳。目のつぼということはきっと眼精疲労だとかに効果があるのだろう。

 水平線の向こうに目を凝らしたりしているし、逆光の中でにらみをきかせたりもする。確かに見るという行為が瑞鳳の体を消耗していた節はあるが、こんな激痛が走るまでに酷使しているとは思わなかった。

 

「どうですか、これ!!」

「ちょっと待ってって!! 痛いって!! だああーっ、ストップストップ!!」

 

 布団をバンバン叩きながら瑞鳳が泣き叫ぶ。そこで我に返ったかのように拳三郎はつぼを押す手を止め、大丈夫ですかと声をかけた。

 

「大丈夫なわけないじゃない! 痛いって言ってるのに!!」

「ああすみません、その、なんだか気分が盛り上がっちゃって」

 

 サディズムでも持ちあわせているのだろうか。次はやさしくお願いね、と瑞鳳は疲れを隠さずに伝える。

 

「ところで瑞鳳さん、なにか悩んでいることがあるのですか?」

「え? いきなりどうしたんです?」

「こうやってつぼを押していると、なんとなくですが、相手の気持ちが分かるんですよ」

 

 テキトーなことを言っているようではなかった。拳三郎のこうした特技に舌を巻きながら、瑞鳳はつぼを押される痛みが少しずつ快感に変わっていくのを自覚する。これなら次の作戦は軽い体で出撃できそうだ。

 

「僕に話せることなら、相談でも愚痴でも聞きますよ」

「……誰にも言わないって、約束してもらっていい?」

「もちろんです」

 

 様々なつぼを押しながら拳三郎が真摯に返す。その声に安堵しながら、瑞鳳は静かに口を開いた。

 

「……私ね、青海提督と離れたくないんだ」

「ええ」

「深海棲艦と戦っている間は、ずっと提督と一緒にいられる。でも、戦いが終わって平和になったら、艦娘は提督とは一緒にいられなくなる。平和な世の中に物騒で危険のあるものは要らないでしょう?」

 

 鈴谷には話さなかったもうひとつの悩みごと。瑞鳳はそれを話すことにした。

 瑞鳳の言葉に拳三郎はなにも返さない。黙々と足つぼを刺激し、小さく喘ぎながらも瑞鳳は言葉を続ける。

 

「ったた、でも言いたいことはそうじゃないの。全部の深海棲艦を倒して、艦娘に用がなくなるようになっているのは、心の底から喜ばしいことだと思ってる。いま不安に思ってるのは、昨日からめちゃくちゃな数で押し寄せている深海棲艦のことなんだ」

「ええ」

「もしもこの基地が敵の手に渡ったら、きっと提督はクビにされてしまう。どれだけ頑張ったとしても、公には誰も青海提督のことを謳わなくなる。あいつはダメな奴だったって、そう言われてしまう」

「大本営の方々は結果しか顧みないのですか?」

「厳しい話だけど、過程とかが良かったって、最後には勝っていないと……それに、結果だけを大事にするのは大本営の人たちだけじゃない。私たちが守っている普通の人々だってそうなの」

「確かに、言われてみればそうかもしれません。そんな人がきっと多いでしょうね、安らかに暮らせる穏やかな世界はまだ取り戻せないのか、と」

「深海棲艦があんな酷い数で押し寄せてこなかったら、青海提督がひどく苦しまずに済むのにって。私たち艦娘が頑張って支えられるのにって。でも、現状は、どれだけ頑張ってもこの基地を守り通せるか怪しい。最悪の事態がすぐそこまで迫り得る、危険な状態なの」

 

 それは拳三郎も分かっていることだ。現状がどれだけ危険か、その危険が最悪の事態――基地の壊滅と乗っ取り――を引き起こす可能性がどれだけ高いか。不安と死の影が誰にでも等しく平等ににじり寄っている。

 

「瑞鳳さんは、それが恐ろしいのですか?」

「半分そうなんだけど。もう半分は、提督が責任を取らされてクビになるとか、もっと酷いことをさせられるかもしれないってこと。それが怖いの」

「……責任者ですからね。なにがあっても、どれだけ理不尽なことがあっても、文句を言われるのはそんな人たちでしょう」

「わかってる。でも……さっき言ったけど、私は青海提督と一緒にいたいんだ。だから、いま来ている敵は絶対に倒してみせる。強くそう思ってるんだけど、でも、今日だって防衛ラインを突破されそうなことが何度もあって、とても不安なの」

 

 深海棲艦に防衛ラインを突破されることは、南西諸島基地が陥落することを意味している。拳三郎にだってそのことは理解できていた。

 そうなってしまうのがほぼ確定してしまえば、非戦闘員である拳三郎はもちろん、艦娘も撤退することが決められている。そう命じたのは他でもない青海提督だった。戦略的撤退。いたずらに戦力を喪失しないための一手。

 

「そうはさせないって頑張ってる。でも、相手が勢いなり作戦なりで一枚でも上をいけば、この基地を手放さないといけない。……こういうギリギリの状態で戦うのって、とても厳しいの。鈴谷みたいな言い方をすれば『マジつらくてやってらんない』って感じかな」

「……僕には瑞鳳さんがどんな気持ちで戦っているのか、まったく想像もつかないです。想像すら出来ないほど、厳しいものだと思います。でも。僕は瑞鳳さんや仲間の艦娘を自分なりの方法で精一杯支えたいと、そう願っています」

 

 ひときわ強くつぼを押す拳三郎。痛みにあえぐ瑞鳳は、しかし、拳三郎の真摯な告白に心を打たれていた。普通の人間なら黙ってしまうかして会話にならないだろう。だが拳三郎は臆することなく自分の気持ちを伝えている。

 

「いま押したつぼは、足の機能に関係する場所です。瑞鳳さんたち艦娘や、青海提督がしっかりと戦えるように。僕は元気の出る料理をつくる。疲れが取れるようにこうしてつぼを押していく。僕に出来ることはこれしかない。でも、このふたつで、支えていきたい。いや、支えます」

「わかった。……ケンさん、最後にどちらが立っているか、まだわからないけど。でも、一緒に戦おう」

「っ……はいっ!!」

 

 拳三郎は泣いていた。彼の声には涙をこらえる色があった。瑞鳳も涙をこらえている。つぼを押される痛みだけではない。つらいことを話し、戦えない者の覚悟を耳にし、あまりにも強く心を打たれていた。

 

 

 

 

 

 

(……こりゃ、今日は揉んでもらうのはナシにしよっかな。熊野とつぼの揉みあいでもしよう。つぼの本が本棚にあったはずだし)

 

 食堂から顔を覗かせていた鈴谷はそっと離れる。

 行き先は自分と熊野にあてがわれている部屋だ。最短距離で行くためには、提督がいる執務室の前を通る必要がある。濃い緑色の寝間着に身を包んだ鈴谷は軽快な足取りで階段をのぼっていく。

 鈴谷が階段をのぼりきるのと前後して、執務室から大きな物音がした。どんがらがっしゃーん。そんなかわいらしい擬音とは無縁の、いくつも連続してものが落ちたような、そんな印象を鈴谷は受ける。

 提督、なにやってんのー――お気楽な調子を装ってドアを開けようとした鈴谷は「これに触れてはいけない」と強く感じた。なにか運命的なものが邪魔をしている。触れるべきではない。触れるべきではない。触れてはならない。だが、鈴谷は好奇心を抑えられないでいる。

 

「……あなたは、まさか……エクザイル? いつの間にサイレントラインが? ……なんですって? ……ええ、はい……そんなバカな」

 

 誰と話しているのだろう。執務室のドアに聞き耳を立てる鈴谷は、青海提督が余裕を欠いた応対をしているのを聞いて不安を覚えた。いったい提督はどこのだれとどんな話をしているのだろう?

 

「……わかりました。それなら、すぐにお願いします。……自分も、覚悟はできていますから。死ぬのは艦娘の子たちではない。自分だけでじゅうぶんです」

 

 聞いてはいけなかったことではないのか。鈴谷はある種の確信を抱くと、足音を立てないように廊下を歩く。いまあったことは忘れよう。なにかとてつもなく危険な、あるいは秘密の、聞いてはいけなかったことなのだ!

 廊下の窓からの月明かり。これに照らされる鈴谷の表情は恐れと驚きと焦りにまみれて。入渠施設の風呂でよく洗われた体は、いまや全身が汗でびっちょりと濡れていた。


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