「小森提督。君の協力に感謝する」
東北の海を守る鎮守府。その執務室で小森提督は、直立するいかつい男の後ろの窓に視線を投げる。
ガラスの向こう側では夜のとばりがおり、きらりと輝く星が静かに自己主張を始めていく。流れ星が落ちたような気配すらあった。
「……おい、聞いているか?」
「っ、はい。こちらこそ、ご厚遇いただき感謝の言葉もありません」
「補給やら食事やらの準備をさせてもらうのは、こちらの感謝の意を示すようなものだ。つまり、当然のこと、というわけだな。して、こうしてふたりきりで話すのはいつ以来だろうな」
「もう半年も経っています。いや、7ヶ月は経っているかと」
「なるほど、見違えるわけだ」
口説き文句でないことはすぐに分かった。見た者を震え上がらせるような顔をして女を口説く男がこの世のどこにいるのだろう? バカらしくなるような自問を鼻で笑った小森提督は、すこし間をあけてから自信たっぷりに頷いた。
どこか魅力も感じさせるような小森提督の態度に、しかし恐ろしい風貌をした男はなにも動じない。
体は大きく、かなりの筋肉質で、威圧的に逆立っている黒髪。そんなものでも白い軍服を着れば軍属の者なのだと広く認識させるのだから、制服の力はすごいな、と小森提督は思う。
否、危険な戦場から帰還した艦娘らに「もっと強くなって、あの程度の敵など追い払ってしまえ!」などと強く言い放ってしまう人間を、歴戦の提督と呼ぶ以外にあるだろうか?
「……しかし、アレはなんなのだ」
「アレ?」
「君の切り札だよ。オリジンシルバーホークといったな、アレの姿は最後に確認した報告書とはかなり変わっていた。深海棲艦の機への擬態を目的としたカラーリング変更ということでもないようだが」
「巌提督、それはその――」
「言い訳は要らない。真実を述べてくれ。小森提督、君はなにを隠している?」
「――オリジンシルバーホークは、特殊な深海棲艦からの接触を受け、侵食されています」
「……侵食?」
「あれは本質的に深海棲艦になりつつあります。残念ながら、パイロットの妖精も、同様の状態にあります」
なんということだ。巌提督と呼ばれた男はただただ絶句していた。
巌賢友。彼は最初期から艦娘を指揮していた人物で、五十路という年齢からくる経験から堅実な戦果をあげていた、対深海棲艦の分野における重要な人物だ。そんな彼が驚くことしか出来ないのは、実に様々な理由があるのだが、ひとつも小森提督は察することができないでいた。
「巌提督?」
「……このことはどこかに報告したのか?」
「大本営に。
「サイレントライン! ……それならば
「シルバーホークの力を借りて、鎮守府の鼻先まで押し寄せてきた深海棲艦を撃退した後からです」
「そうだったのか」
「……エグザイルは、私たちを名指しして『あなたがたなら深海棲艦の殲滅が出来るかもしれない』と言っていました。このことは誰にも、どの艦娘にも話していません」
そうだったのか。再び巌提督は溜息をつくと、自分の椅子にゆっくり座り込んだ。自分が見聞きしたものが信じられないと言わんばかりに目を開き、閉じ、そして深いため息をつく。
「それで? 大本営にはどういう名目で赴くのだ? そもそも君はどうやって艦娘をも騙している?」
「艦娘には察してもらっています。なにか逆らうことの出来ない大きなうねりの中に私たちがいる――そう、思ってもらっています。大本営の方は、エグザイルが根回ししているはずです」
「ふむ……しかし、どうにも解せないことがある」
「?」
「そんなことをどうして俺に話した? ここでも適当に騙し通せばよかったはずだ。……それをしなかった理由はなんだ?」
「私にとってあなたが、あまりにも『大きすぎる』からです」
小森提督も、巌提督も、お互いに軽く睨み合っていた。
巌提督の険しい目つきは、恐ろしいヤクザでさえ震え上がらせるかのような圧力がある。だが小森提督は一歩も退かない心を秘め、真っ向から対抗していく。
「……あきこも、大きくなったものだな」
「だてに半年も提督をやってはいませんよ」
「あの時と比べれば、いや、あの頃から素質はあったというわけだ。震えながらでも俺にきつく反抗できたのだからな。……座るといい、秘書艦の席はあけてある。しばらく昔話でもしようじゃないか」
「あの、金剛さん」
「What? どうしたです、ブッキー?」
「いまの鎮守府に来る前は、この鎮守府で働いていたんですよね?」
「Yes! でも、あまり愉快な思い出はないけどネー……」
静まり返った食堂。もう夜の8時をまわっていれば、他の艦娘は誰もいなかった。
巌提督の鎮守府の食堂には、吹雪と金剛しかいない。ほとんど自炊するような形で、ふたりはカレーを作って食している。
赤い福神漬を山のように盛った金剛の言葉を、吹雪はただじっとして待っている。
「ブッキーは、どのくらいの話を聞いていましたカー?」
「え?」
「私がこの鎮守府にいた時の話ネー。どういうお話を、ブッキーは――」
「ここの提督がとても厳しかったことと、そのせいで金剛さんがここでうまくやっていけなかったこと、くらいしか聞いていないです」
「――だいたいそのとおりネ。もう半分くらいは、心のなかで整理がついているから……ちょうどいい機会だし、食べながらお話するデース」
「そんなの悪いですよ。だって、金剛さんにとって、面白くない話でしょう?」
「だけど……でも、ブッキーは私の大事な仲間ネ。だから、こう、こういう大事なお話を聞いてもらいたいなって、思うデース。ブッキーが嫌がっているのを無視して話したいってことじゃ――」
「私も金剛さんが大事な仲間だって思ってます。金剛さんのこと、もっと知りたいです」
「Thanks、ブッキー。それじゃ話すデース……」
カレーはまだお互いに半分ほど残している。吹雪が食べながらきちんと話を聞けるように金剛はゆっくり話すことにした。
「ブッキーは自分がどこで生まれたか、ちゃんと覚えてるデース?」
「私は……私は、大本営の艦娘錬成所です。素材となる人体に、船魂を植え付ける……金剛さんもそこですよね?」
「Yes、艦娘はみんなそこで生まれて、ある程度の
「いまから半年前っていうと、だいたい春が始まるか冬の寒いのが終わるくらいですね」
「
一息つくように水とカレーを入れる金剛。すでに吹雪は食事を終えていて、水差しをもって金剛と自分のコップに冷水を注いでいく。
「Oh、ブッキー、thanks!」
「いえ、お気になさらず。それで、ついていけなかったって、どういうことなんですか?」
「うーん……ここの巌提督がとても厳しい人なのが理由デース。私は紅茶だとか、仲間と楽しいおしゃべりをしたり……そういう、自分のための時間がないと、うまく実力は出せない体質ネ。……悪く言えば、艦娘の
そんなに自分を悪くいうことはないだろうに、と吹雪は困惑の表情を浮かべた。明るい調子で、ひどく落ち込むようなことを口走る金剛は、まるで別人のようであった。
なんだかそれが恐ろしいことのように思ったし、こんな悲しそうな金剛の顔は見たくない――極端に表情に出さないように、吹雪は顔に力を入れる。
だが。吹雪はあることに気がついてしまった。いつもの日常の出来事だから注目などしていなかったが、小森提督の鎮守府は他のものに比べてかなり艦娘に「ゆるい待遇」をとっている。
空母寮の艦娘は非番の時には主に格闘ゲームをやっているし、あったまった龍驤が「なんやその4D、4D、4Dは! 無敵で反撃したいからって4Dばっかやないか赤城いいぃ!!」なんて大声をあげることなど日常茶飯事だ。
金剛型の四姉妹が時折ティーパーティを開いて多くの艦娘をもてなすことも、他の鎮守府から見れば異様な光景に映るのかもしれない。いやきっとそうに違いない――小森提督の艦娘を大事にするというスタンスは、他の提督のそれと比べれば異質なのだ。
「巌提督はとても有能な人物だって聞いていて、彼の下でちゃんと戦いたいって話はしたよね、ブッキー?」
「はい」
「……必死に追いつけるように努力したし、心のゆとりなんて要らないように振る舞おうとも頑張ったデス。でも、巌提督は、お前なんか要らないって突きつけてきマシタ……」
ひどい言葉のはずが、金剛は明るく話している。そのことに吹雪は戸惑いを覚えて、そしてはっとしたように口を開けてしまった。
金剛はなにかをこらえるように表情を歪ませている。しかしその口から放たれる言葉はやけに明るい調子だ。……涙を必死にとどめているのだ、と潤んだ目を見た吹雪は、目を離してはいけないと強く思った。
「……そんなこと言わないで欲しかったのに、私、なにをしても、全然うまくいかなくて……
「金剛さん、つらいなら話さなくても――」
「必死に訓練もしたし、提督が気に入るように振る舞ったりして、でもダメだったデース。……そこに現れたのが、小森提督ネ」
「――まだデータアナリストをしていた頃の?」
「Yes、陰ながら私を観察していた小森提督は、巌提督に時間を私に与えるように要求したデース。時間さえあれば私の性能を十分に発揮できるようになるって言い切って。巌提督は三日間の猶予を与えて、私をマトモに出来なきゃクビだって言い渡したネ」
「なるほど……小森提督はなにをしたんですか?」
なにもしなかったネー、と金剛が懐かしむように言うのを聞いて、吹雪は大声を上げなから目を丸くしてしまった。まったく想像のしていないことを当時の小森提督はやっていた――なんの訓練もさせなかったというのは悪質なジョークであって欲しい、と吹雪は心のなかで呟いた。
「そんな、なにもしなかったって、本当ですか?」
「くだらない嘘なんてつかないネー! 小森提督と一緒にお喋りしたり、ティーパーティしたり……特別な訓練だとかはなにもしなかったデース」
「でもそれじゃ、実力なんて発揮できな――」
「できましたヨ? 小森提督は私をちゃんと見ていてくれてたから、試験の演習でばっちり回復できたことを見せつけてやったデース!」
その時のことを思い出してか、嬉しそうに涙して金剛は強く語る。悲しいばかりではなく、こんな爽快そうなこともあったのだと分かって、吹雪は心のなかでホッと息をついた。
「巌提督は、その後どうしたのですか?」
「とても怒っていたデース。自分が艦娘をうまく扱えなかったことに怒っていたのか、たかがデータアナリストの若造な小森提督のことが気に入らなかったのか……でも、いろいろ複雑な感情があったのは、想像出来るネー」
「金剛さんは、その後、巌提督とお話をしたことは?」
「あんまり……あれからお互い気まずくなって、あれこれ忙しくなって、小森提督が提督になったって聞いて、転属願を出して……だから
「ですよね。ねえ、金剛さん」
そこまで言って吹雪は言葉を区切った。
本当にこれは口にして良いことだろうか。迷いが暗闇を落とすような錯覚を覚えながら、しかし吹雪は意を決して問いかけることにした。金剛と自分はお互いに良い仲間のはずだ。だったら少しくらい踏み込んだことを口にしても――
「What?」
「いまから巌提督に会いに行きませんか?」
「ええーっ!? そんな、どうしたデース、ブッキー?」
「だってお互いにもやもやしたままって、気分が晴れやかじゃないって思うんです」
「そりゃまあそうネ……でも、巌提督は、私を邪魔者だとかそういう――」
「でも金剛さんは巌提督が好きなんですよね。いまでも。だって、こんな話をしているのに、一度も巌提督を悪く言わなかった。ね?」
金剛にとって巌提督は「自分の能力を引き出す努力を怠った無能な上官」どころか「多大なストレスを与え続けて自壊寸前まで追い詰めた極悪人」である。
そのことを金剛の語りから吹雪は見抜いていたが、同時に、金剛が巌提督を強い調子で叩く発言をしなかったこともわかっていた。
きっと心のなかでは、巌提督を慕う気持ちがどこかにあるのかもしれない。最初に自分を認めてくれたかもしれない上官。自分の性能を最大まで発揮して人の未来を救う提督。なにかを踏み間違えなければ、きっと。そう、吹雪は考えを巡らせた。
「……確かに、まだ巌提督を諦めてるとは言いがたいネ。でも、いまの提督は小森提督だし、それに私の恩人は小森提督デース。私は、小森提督のために――」
「だったら! ちょっとお話をしにいってみませんか? もしかしたら巌提督も、金剛さんになにか言いたいこと、あるかもしれませんよ!」
「……わかったデース。でも、ひとりで行くのは怖いネ。ブッキー、一緒に来てもらえますカー?」
「もちろんです!」
「
執務室。
小森提督は引き締まった表情で巌提督との会話を続けていた。話題は昔話――小森提督と巌提督と金剛の関係のことであった。
「前から聞きたいことがあったのだが……あの時、金剛になにをさせていた?」
「訓練とかはなにもしていませんよ。当時の彼女の調子が悪かったのは、明らかに過度なストレスが原因だったので、それをほぐしてあげられるように振舞っていました」
「具体的には?」
「紅茶のお茶会でもてなしてもらうとか」
「……そうだったのか」
「私も聞きたいことがあるんです。どうして巌提督は、あの時の金剛ちゃんのことを、気にかけてあげなかったのですか」
あの時君は鬼や悪魔にも劣る畜生だと言わなかったか――とドスの効いた調子で巌提督は返す。そこまでは言っていません、と小森提督は否定し、聞き方を変えることにした。
「……どうして巌提督は、明らかに様子がおかしかった金剛ちゃんに目を配ってあげられなかったのですか」
「あげなかった、ではなく、あげられなかった、と言い直したか」
「はい」
「……理由は、いまの君なら、なんとなくでも分かるはずだ」
心当たりはあった。
いまの小森提督は――提督という立場になった彼女には、巌提督の言わんとすることがわかっていた。
提督の仕事は、担当した鎮守府が受け持つ海域を防衛することと、深海棲艦の支配海域を狭めることにある。そして大本営は各鎮守府に一定期間に一定量の戦果をあげることを提督たちに義務づけている。
小森提督は、提督になった最初のころにとても圧迫される思いをした。一定量の戦果、つまりはノルマを達成しなければ
このことが原因で、巌提督は金剛のことをきちんと見てあげられなかったのかもしれない――小森提督は思ったことを口にした。
「……そうだ、それもある。戦いの役に立たない艦娘がいるなら、そのことが上に発覚すれば、とんでもないことになるだろう」
「巌提督は自分の首が飛ぶことを恐れていたのですか」
「半分はそうだ。もう半分は、あの金剛を怖がっていた……のだと思う。うまくこの気持ちを言い表すことは出来ない。ついでに言うなら、小森提督、君のことも怖かった」
「私と、金剛ちゃんが?」
「あの時まで俺は艦娘を半分は人間扱いしていなかった。君はひとでなしと言うのだろうが、艦娘は、ルーツを辿れば、敵方の亡命者がもたらした技術から生まれ出たものだ。素材に人間が使われていたとしても純粋な人間として見られるわけがない。それに艦娘たちは最初に思っていたよりも従順な性格をしていることが多かった。このことが俺にこう思わせたのだ――」
――艦娘は人間ではない。人の平和を守るために作られた兵器なのだと。
それは誤解とはいわない。だが。小森提督ははっきり声を出して言うだろう。それは誤解だと。
「巌提督。……それは、誤解です」
「いまの俺なら分かっている。だが、人間のように好意をもって接してきた
「金剛ちゃんは、高い戦果を出していたあなたの鎮守府に着任できることを喜んでいたんです。そう教えてくれていました」
「そうだったのか。……とても悪いことをしたと、そう思っているよ」
とても落ち込んだ声だった。いかつい、見た者を震え上がらせるような風貌からは、まったく想像できないほどの声だった。
「あの後、俺は力が入らないでいた。提督としての業務になんの意気込みもいれられないでいた。あの金剛には見限られ、君が提督として独立したことに、途方も無い衝撃を受けていた」
「……」
「そんな俺の姿を見た艦娘が、気遣うように声をかけてくれたんだ。さっきも言った、一番付き合いの古い、飛龍と蒼龍のふたりだ」
データアナリスト時代にそのふたりの姿は何度も見たことがある。
背は少し低いながらもとても豊満な体つきをした、やや古い言い方になるが、トランジスタグラマーという言葉がよく似合う艦娘であったと小森提督は思い出す。どちらも鮮やかな色をした和服が目について、そして性格はとても人に対して穏やかであった。
「彼女たちは俺を心配してくれていた。その時になってようやく分かったし受け入れられたんだ、艦娘は純粋な人間ではないが、間違いなく
「……そう、だったのですか」
「あの時の俺はひどい誤解をしていた。不当にあの金剛の心を傷つけてしまった。……俺が申し訳なかったって言ったとしても、あいつは俺を許さないだろう」
「そんなことないです」
「どうしてそう言い切れる?」
「初めの頃、金剛ちゃんはあなたを慕っていたんです。ひどい扱いを受けて、自力じゃ立ち上がれないまでになってしまったけど、でも、あの子は純粋な人間とあまり変わりがないと思います。自分の誠意をぶつければきっと相手に届くって信じているような。そんな感じの子なんです」
「なるほど。これまでの時間を共に過ごしてきただけあって、説得力はあるな。……だが、直接会うのは、いまの重要な時期では控えるべきだ。いつか必ず、手紙を書いて送ろう。そのくらいならあいつも頷いてくれるはずだ」
誰に対しても厳しかったはずの巌提督がこんな一面を見せた――小森提督はそのことに喜びを感じながら、執務室の扉がノックされたことに意識を払った。
「提督ゥ、失礼するネー!」
「金剛ちゃん?」
ノックの返事も待たずに勢い良く扉を開けて入ったのは、間違いなく戦艦娘・金剛型一番艦、金剛であった。
だが彼女は小森提督ではなく、巌提督のもとへ一直線に駆け出すと、その勢いのまま飛びついていった。――
「こら、金剛、お客さんの前だぞ」
「そーなの? って、女性の軍人さんネー」
「小森あきこ提督だ。……して、小森提督。彼女が金剛の第二艦だ」
巫女装束めいた制服や体つきは、小森提督がよく知る金剛のそれとなんら変わるところはない。顔立ちだってほとんど変わることのない美少女である。美味しそうなドーナツを連想させるような髪型や振る舞いもよく似ている。
「あー……はじめまして、かな?」
「Yes! I'm happy glad to meet you! どうぞよろしくデース!」
「うん。さっきの海戦は、うちの艦隊の子たちと一緒に戦ってくれたんだよね。ありがとう」
「こちらこそ危ないところを助けてくれて、本当に感謝してるデース。silver hawk って戦闘機にもネー」
話し方も感情表現の仕方もそっくりだった。自分がもう一人いる――そんな状況に立たされれば自分はどんな反応をするのだろう。そんなことを自問した小森提督はひどく近似した答えを見つけてしまった。
あけっぱなしの執務室の扉の向こうに金剛が立っていた。手にしていたお盆を取り落とし、幾つかの茶碗が割れて、木板が熱く湿っていく。
ひとつ間が空いて絶叫に近い悲鳴。
執務室に絶望が響く。小森提督の金剛が浮かべている表情は悲しみや怒りがごちゃ混ぜになったように歪んでいる。
悲鳴をあげながら金剛は走り去っていく。その直後に吹雪が現れて、切迫した様子で小森提督の名を呼んだ。
「吹雪ちゃん! いまの金剛ちゃんは!?」
「ごめんなさい! 私が巌提督に会いに行こうって言わなければ――」
「ううん気にしない!! どっちに行ったか分かる?」
「――あっちだから、たぶん、港の方です!!」
「オッケー、私が追いかけるから、吹雪ちゃんはみんなのところに戻って体を休めること! 明日は早いからね、さっさと寝るんだよ!!」
わかりました、という吹雪の返事を耳に。後で大事な話をしよう、と巌提督の言葉を耳に。小森提督は頷いてから勢い良く執務室を飛び出していった。
軍港。暗い海は、きらめく星空の光を返していなかった。波が打ち寄せる音が一番良く聞こえるほどギリギリの位置に立っていた金剛を見つけた小森提督は、全速力で走って心臓が叫んでいるのを深呼吸で落ち着かせ、思い切り叫んだ。
「金剛ちゃんっ!」
びくりと体を震えさせた金剛は、おそるおそる後ろを振り向いた。
不安そうに揺れる表情は小森提督を捉えると一瞬凍りつき、氷がとけだすように崩れていく。
小さな唸りは大きな嗚咽になり、駆け出そうとして足がもつれ、それでも倒れずにまっすぐに小森提督へ向かって走っていく。突撃にも似たそれを小森提督は真っ向から抱きとめた。
「提督、テートクゥ!」
「金剛ちゃん。気持ちは、落ち着いた?」
「Noデース、もう少しだけ、こうさせてほしいネ……」
分かったと答える代わりに小森提督は抱きしめる力を強めた。金剛は泣くばかりであったが、次第に言葉と分かる声を上げつつあった。
「……どうして」
「?」
「どうして、選ばれたのが、認められなかったのが、私じゃなかったノ……」
金剛の頭をぽんぽんと軽く叩いた小森提督は、言わんとしていることをなんとなく察しつつあった。
第二艦計画。同じ艦娘をもうひとりつくる計画は着実に進行しつつある。その成果の一つが、小森提督と金剛が目にした「もうひとりの金剛」だった。
もうひとりの金剛は、どう見ても巌提督との関係は良好だった。小森提督が知る金剛とはまるで正反対のようで、奇妙な運命を肌に感じながら、それでも金剛を落ち着かせようとゆるく力を入れる。
「……テートクゥ、私が言ったこと、覚えてますカ?」
「うん?」
「巌提督のことは嫌いになっていないって。最初に彼のところに着任すると聞いて、とても高い戦果をあげている人のところなら、きっと私も大活躍できるって、本気でそう思っていた――って」
「うん、覚えてるよ」
「だけど巌提督に認められなくて、小森提督に助けられて、こうして戦い続けて。とても幸せだったけど、でも、本当は、巌提督に認められたかったんだって、やっと本当の気持ちが分かったネ……」
そっか。小森提督はそれだけ言うと、金剛に自分の顔を見上げさせる。
彼女の顔は赤くなっていて、涙や鼻水が小森提督の軍服を汚している。そのことを小森提督は意に介さぬように、金剛の両頬に手を添えた。
「ねえ金剛ちゃん、私じゃ、私じゃあ、ダメかな」
「What?」
「金剛ちゃんを認める人。私じゃ、ダメかな」
「……そんなことないデース。小森提督に認められて、私、とても嬉しかったネ……」
「巌提督ほどすごい人じゃないし、いまだってちゃんとした実力があるかっていったら自信はない。でも、私は金剛ちゃんがとてもすごい艦娘だって知ってるよ。信じてもいる。……金剛ちゃんは、私が。私が、信じてる。認めてる。だから私に、ついてきてほしいな」
金剛の返事はない。だが彼女が何度も頷いているのを小森提督はきちんと認めていた。
そのまま金剛は小森提督に強く抱きつく。やさしく抱いて迎える小森提督は空を見上げる。曇り空になりつつあって、もしかすると明日は強い雨になるかもしれない。それでも空に瞬く星々は、たしかにそこにあった。
「明日は早いよ。みんなのところに戻ろう?」
「Yes……ねえ、提督ゥ」
「うん?」
「今日は一緒に寝てほしいネ。それと……それと、このことは妹たちにはsecretでお願いシマース」
「わかった。それじゃ、いこうよ」