天下無双   作:しるうぃっしゅ

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董卓の章
九話  魔王董卓


 漢という国は一度滅びを迎えている。

 それを漢王朝の皇族であった劉秀―――光武帝が再興して現在に至っていた。

 

 都は洛陽。第十二代皇帝でもある劉宏が君臨しているが、彼には実質的な権力というものは無いに等しい。

 この時代、宦官と呼ばれる者達によって劉宏は殆ど傀儡として操られている状態だった。

 そのため政治は宦官―――特に十常侍とも称される宦官の思うが侭の状態が現状だ。彼らは私服を肥やすことしか考えておらず、当然そんな人間が頂点にいれば政治が上手く回らないのは必然。

 黄巾賊が反乱を起こしたのも、宦官によって漢朝が腐敗の極みに達したからだ。

 

 さて、傀儡となっている劉宏には幾人かの子供がいる。

 とはいっても、病弱のために幼くして死んだり、事故で亡くなったりという不幸も多く―――本当にただの事故だったのかは定かではないが―――現在は二人の子供しかいない。

 

 長男でもある劉弁。今年で十六を迎える後継者候補。

 もう一人が劉協。今年で十三を迎える―――皇女である。

 

 本来であるならば、劉弁が劉宏の後を継ぎ、十三代皇帝となるのは当たり前といえば当たり前の話だ。

 

 だが、彼は悩んでいた。

 劉弁は、特に優れた才能を発揮しているわけではない。武芸も政も、人を惹き付けるカリスマというべき魅力も。どれ一つとして常人の域をでない。

 それでも皇帝としてやってはいける―――こんな時代でなければ、の話だ。

 宦官のよって政治はまともに機能せず、民が苦しむ世の中。不正が罷り通るのが常識となっているこんな時代では、劉弁では乗り越えることは不可能だ。劉宏とて、自分の無能さを知っている。政治を変えようと努力はしたものの、あくまでも努力で終わってしまった。宦官の持つ権力は既に途方もないものになっていたのだ。

 

 だが、劉協ならばどうか。

 彼女ならば可能性が万に一つでも見えてくる。

 まだ十三になったばかりという幼い身でありながら、彼女の才は次元が違った。

 本当に自分の娘なのか、と疑いを持つほどだ。

 武においても政においても。何よりも民の気持ちを理解する優しさを持っている。さらには、自然と周囲に人間が集まってくる異様なまでのカリスマ性。どれか一つとっても歴史に名を残すことが出来る才能を持った少女だった。

 恐るべきことに、彼女はその異才が兄である劉弁に憎まれ、宦官に刃を向けられることに気づくほどに聡明だ。父である劉宏であるからこそ、彼女の才に気づいたものの、他の人間―――宦官にも悟られていない。もしも気づかれたら自分が不幸な事故に会う可能性も考慮していたからだ。

 劉協は、無邪気な顔で、静かに牙を研いでいる。宦官達を黙らせるだけの力を得ることができるその日まで。

 

 だが、幾ら才能があるからといって、劉協に皇位を継がすのは様々な困難がある。

 基本的に皇位の継承権は長男が持つ。ましてや、劉協は女人。長男を差し置いて皇帝になるなど漢の歴史を見てもありえないことだ。

 

 さらには、劉協は幼い頃には母を亡くしている。つまりは後ろ盾が何も無い。

 決して優秀とは言えない霊帝にとっては超えねばならない壁が多すぎる。

 それでも、彼は自分が出来る最後の仕事だと考え、劉協を次の皇帝にするべく動き出そうとした。

 

 劉協ならば、或いはこの腐りきった漢朝に新しい風を入れてくれるのではないか。

 そういった淡い期待が劉宏の頭から決して離れなかったからだ。

 

 年端もいかない実の娘に、途方もない重荷を背負わせることに苦悩しながらも、劉宏は逡巡を振り切り―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 黄巾の乱が平定されてから僅か一週間。

 漢の中心である洛陽にて、世を変えようと動き出す者たちがいた。

 

 漢の大将軍何進は、この日の夜。

 とある一人の武将を宮中に招きいれていた。

 

 大将軍とは名ばかりで、親戚の宦官の取り成しで妹を皇妃にあてがい、現在の地位までのぼりつめた男だ。

 武将として優れた力もない、指揮も取れない。平然と賄賂を受け取り、私腹を肥やす。

 このような男が大将軍の座に居座り続けることができるのが、今の漢朝の腐敗ぶりを端的に現しているとも言えた。

 そんな丸々と肥え太った何進の前に跪いている一人の女性―――と、表現するにはまだ若い少女がいる。

 

 金色に輝く髪を後ろでまとめあげ、先端だけ軽くカールがかかり、空中にて躍っている。

 女性としては平均的な身長と体格。蒼い瞳に健康的な白い肌。引き締まった顔立ちは、可憐さと苛烈さの相反した雰囲気を見るものに与えてくる。

 金の装飾が施された白い鎧と、同じく汚れ一つない純白の外套を羽織った少女に、大将軍何進は一時とはいえ目を奪われた。入り口から何進の前に歩んできて、そして跪く。言葉にすればそれだけだが、その所作のあらゆるところに気品が見え隠れしている。宮中にいるどの者よりも、彼女の動きは美しい。そう表現するしかない何かが、少女にはあった。

 

「司隷校尉。袁本初―――参りました」

 

 漢に代々勤めてきた功臣。宦官とも渡り合えるほどの大きな権力を持つ一族袁家の当主。

 袁紹本初。それが少女の名前であった。

 

「袁紹殿。よくぞ参られた」

 

 何進は、脂ぎった視線を袁紹へと向ける。

 若く可愛らしい袁紹の肉体の隅々まで嘗め回すような何進に、流石に不快さを感じるものの、それを表情に出すわけにもいかない。特に何進の視線は、袁紹の白い太股あたりを刺すように見つめてきているが、眉を僅かに動かす程度ですませた彼女を褒めるべきだろう。

 もっとも、背中にはあまりの気持ち悪さに鳥肌がたっていたのだが。

 そんな袁紹の内心がわかっていない何進は、生理的に受け付けない気味の悪い笑みを浮かべて、袁紹を迎え入れた。

 

「この度の黄巾賊の反乱では、貴殿には礼を申さねばなるまい。よくぞこの洛陽の平穏を保ってくれた」

「お言葉ではありますが、私はさしたる武勲をたててはおりませぬ」

「この洛陽の守護は、誰にでも頼める任ではない」

「……大将軍の威光のおかげかと。私はただ兵をまとめていただけに過ぎませぬ」

「はっはっはっは。よく出来た御仁であるな、袁紹殿は」

 

 名門袁家の後継者として生きてきた袁紹にとって、何進のような相手は非常にわかりやすい。

 適当な美辞麗句を述べておけば、機嫌をよくする。非常に手玉に取りやすく、彼らが何を考えているのか手に取るようにわかってしまう。

 

「さて、袁紹殿。貴殿に報告しなければならないことがある」

「……何かございましたか?」

「盧植将軍の件は既に聞いているか?」

「はい。つい先日」

 

 盧植という名前を耳にした袁紹の口元がきつく結ばれた。 

 特に親しい知り合いというわけではなかったが、現在の漢朝では誠実で、信用ができる数少ない人間だったことを知っていたからだ。

 黄巾賊を討伐した三将軍の一人として活躍した彼だったが―――反乱平定より数日後には、罷免されてしまったのだ。

 

 表向きは、黄巾賊と裏で繋がっていたため、ということになっているが、そんな訳が無い。

 朱儁や皇甫嵩ほどではないが、十分な武功をあげたものの、彼の配下には身分の低いものが多かった。そのためか、恩賞が功績に比べて随分と少なかったらしい。それに対して、盧植は部下のために上奏をしようとした結果、無実の罪を背負わされたという。元々彼は、宦官に賄賂を贈ることがなく、それを不満に思っていた宦官達の手によって罷免されてしまったというのが真実だ。

 

「あの盧植殿に対して実に許しがたい。貴殿もそうは思わぬか?」

「はい。今回の件には納得がいっていない者も多いかと」

 

 何進の問い掛けに、袁紹も力強く頷く。

 戦場で命をかけて戦った者達に、あまりにも酷い仕打ちだ。

 事実、盧植の件に関しては、口には出さないものの不満を感じている者が大多数であった。

 

「奴らは黄巾の平定に追われている間も、私財を貯えていた。この宮中でさえも、我が物顔で専横する奴らをこのまま野放しにはできぬ」

「確かに。このままでは……」

「そうだ!! やつらがのさばっては、この国が再び混乱に陥るだろう!!」

 

 既に漢朝にとっては未曾有の危機に瀕しているが、宮中にいる何進ではそこまでの危機感を持てないのだ。

 中華を統一した秦でさえも滅びた。その原因となったのは宦官である。

 長きに渡って続く漢朝が、同じ失敗を繰り返すことは許されない。

 

「この袁紹。漢朝に大恩ある袁家の出自。漢朝に仇名す宦官の専横は決して許せませぬ」

「貴殿の忠節、誠に見事。そんな貴殿に、話しておかなければならないことがある。近こう寄れ」

 

 出来るだけ何進に近づきたくないというのが袁紹の本音だったが、仕方なしと割り切って距離を詰めていく。

 耳に何進の吐息がかかり、ぶるりっと身体を震わせたが、我慢だと心の中で必至になって呪文のように唱え続ける。

 

「……既に殿下は崩御されておる」

「―――なっ!?」

 

 想像もしていなかった発言に、さしものの袁紹が声をあげた。

 確かに最近は公の場に顔を出していなかったが、まさか劉宏が亡くなっているとは―――袁紹とて思ってもいなかったことだ。しかしながら、皇帝崩御の情報が流れていなかったのは、英断だったともいえよう。

 黄巾賊との戦いの最中に、そのような情報が広まりでもしたら、恐らくは未だ反乱を平定することは出来ていなかったはずだ。それどころか、下手をしたら多くの官軍が敗走していたかもしれない。

 

「一つ、お聞きしても?」

「構わぬ。何が聞きたいのだ、袁紹殿」

「殿下の崩御……あまりにも突然ではないか、と」

「うむ。私もそれが気になって独自に調査していたが……十常侍が薬と偽った怪しげな薬を殿下に処方していた所を見た者がいる。確証はないが、恐らくは……」

「っ!!」

 

 ギリっと歯が軋む音が部屋に鳴り響く。

 恐れ多くも、皇帝たるお方に牙を剥くとは、なんと愚かなことを。そんな想いが袁紹の胸の内を覆う。

 宦官のあまりの専横に、目の前が暗くなる。吐き出す息がやけに熱く感じた。

 宮中を好き放題にしていることは認識していたが、まさか漢の皇帝をも毒殺するなど天をも怖れぬ所業。

 

「もはや一刻の猶予もない……恐らく十常侍は、協皇女を新しい皇帝へと祭り上げるだろう。殿下の今際の際の遺言と偽って」

「まだ幼い劉協様ならば、容易く自分たちの傀儡にできると判断してのことでしょう」

 

 都にいる誰一人として劉協の本性に気づいていないがために、彼女を操り易いを誤解している。

 十三歳の小娘の演技に気づかない愚か者と言うべきか、或いは海千山千の者達を騙し通せる小娘の才を褒めるべきか。

 もしも彼女の本性に気づくものがいたならば、後者を選ぶはずだ。

 

 また、ここまで何進が焦るのにも理由がある。

 このままでは間違いなく十常侍は、劉協を新皇帝とするだろう。だが、彼にとってはそれは最悪の結果だ。

 何故ならば、劉協の兄である劉弁の母に当たる人物は―――何進の妹に当たる人物だからだ。つまりは実は何進は、劉弁の叔父に当たるのだ。もしも、劉弁が皇帝となれば、何進は皇帝の叔父という立場を手に入れる。そうすれば、宮中での彼の立場や地位、発言権は今の比ではなくなる。十常侍でさえも、飲み込むだけの立場を得られるのだ。

 

 つまりは、十常侍にとって、それが最も避けたい状況。

 何進にこれ以上の権力をもたせないためにも、劉協を擁立しようとしているということだ。

 

 そんな状況の中で、黄巾の乱が平定された。

 戦争が終われば、皇帝崩御を隠す理由も無くなる。

 何進が口に出したとおり、一刻の猶予もないとはこういう理由である。

 

「私は漢朝に仕えた身として、この国の行く末を憂えている。今こそ、この国に寄生する輩を排除せねばならぬ。血の粛清を今こそ行う時がきたのだ!!」

「―――御意。微力なれど、この袁本初。何進様とともに宮中の澱みを一掃する覚悟があります」

「感謝するぞ、袁紹殿!! 貴殿の力があれば、必ずや成功するだろう」

「お任せください。何進様―――何時、発たれますか?」

「……明日。内通者によれば、明日は十常侍が皆集まるという。そこを狙い一網打尽とする」

「はっ!!」

 

 ようやく宮中に巣くう宦官を排除できる。

 明日には自分が漢という国を自由に動かすことが出来る権力を握れるようになると信じて疑わない何進に背を向け、戦の準備のために外套を翻すと入り口へと足を向けた。

 だからこそ、何進は気づかない。袁紹のとてつもなく冷たい微笑に―――最後まで気づくことは無かった。

 

   

 

 

  

  

 

  

  

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 何進と袁紹の密会の翌日。

 十常侍が集まるという情報通り、確かに夜になると彼らが宮中へと姿を見せた。

 それを確認した何進と袁紹は、遂に軍を動かす。

 

 袁紹直属の兵士は、宮殿に突入するや否や敵対する者達を躊躇い無く斬り捨てて行く。

 特に宦官を優先的に粛清していくなか、騒ぎを聞きつけた警備兵が次々と集まってくる。

 その多さに眉を顰めるのは袁紹だ。確かに宮殿には多くの兵隊がいるが、これは幾らなんでも多すぎる。彼女の予想を超えた兵の数に些かの計算違いだったことを認めねばならない。

 だが、それでも袁紹が考えていた最悪を超えてはいない。ならば、十分に対処が可能である。

 

「今こそ、漢に巣くう害虫を裁く時だ!! 恐れるな!! 怖れるな!! 迷うな!! この私、袁紹本初を信じて突き進め!!」

 

 怒号と剣戟が響き渡る宮殿で、袁紹の声は不思議と透き通り、兵士達の迷いを打ち砕く。

 怒涛の勢いで宮殿の警備にあたる兵隊達を蹴散らし、宦官達の息の根を容赦なく止めていった。

 

 だが、奇襲であるにも関わらず敵の動揺は少ない。

 それを見抜いた袁紹は、そのからくりを察した。

 

「……なるほど。私達は泳がされていたわけだ」

 

 正確に言うならば、泳がされていたのは何進。

 内通者を通じて、劉協を擁立するという情報を流せば、それを阻止しようと何進は必ず行動に出る。

 さらには十常侍が全員集まるという好機も合わされば、間違いがない。

 後は前もって控えさせていた十常侍直属の兵士達で包囲殲滅する。何進ほどの大物なれば、そう簡単には政治的には処罰は出来ない。しかし、今この状況であれば先に宮殿に攻撃を仕掛けてきた何進を始末するのに何の問題もないわけだ。

 虎の巣に飛び込んだ何進と袁紹。もはや打つ手は無いように思われた。

 

 ―――もしも、この袁紹本初が相手でなければ、だが。

 

 ふっと苦笑した袁紹が剣を抜き、迫ってきてた敵兵をまとめて撫で斬りにする。

 そんな彼女に呼応して、袁紹の兵士達は敵兵を見る見るうちに押し返し始めた。

 名門袁家の直属兵。その力はただの官軍兵では相手にもならない。個人の力量があまりにも違いすぎるのだ。

 数で勝る警備兵を次々と撃破していく袁家の兵士に、顔を青くしていた何進は、現金なもので相手を蔑む笑みを口元に浮かべながら高笑いをする。

 

「くっはっはっは!! 無礼者どもめが!! 所詮はこの大将軍何進様の前では、貴様ら雑兵など塵芥に過ぎぬわ!!」

 

 その声を聞きつけた敵兵が、狙いを何進に定めて長槍を両手に握り締めて踏み込んでくる。

 ふんっと鼻で笑った何進は、袁家の兵の後ろに回ろうとして―――とんっと軽い音を残して背中を押された衝撃を受けた。

 

「―――はっ?」

 

 茫然とした呟き。

 それが仮にも大将軍にまでのぼりつめた何進の最後の言葉となる。

 背中を押されて前に突き出された彼は、ただの一介の雑兵の槍に貫かれ、大量の血を吐いた。

 一体何が起きたのか理解できない何進だったが、ギギっと機械のように首を後ろに向けて、自分を押し出した犯人を見ようとした何進の瞳に映ったのは―――。

 

 どこか冷たい表情で何進を見下す、袁紹本初の姿だった。

 

「―――閣下の死を無駄にするな!! 漢の存亡、この一戦にあり!!」

 

 自ら剣を片手に敵兵に斬りかかる袁紹に従い、彼女の兵は恐ろしい熱量を持って進撃を開始した。

 その光景をかすれる視界で見届けていた何進は、死の間際に自分がとんでもないことをしたのだと、ようやく気づく。

 目の前の女は、少女の姿をしただけの何かは―――十常侍よりも遥かに恐ろしい怪物だということに。

 

「……袁、紹……き、さまは……」 

「漢朝の腐敗に貴方が関わってはいないとは言わせません、何進殿。実に残念ですが、ここでお別れです。ですが、ご安心を……漢の汚辱を我が手で全て雪いで見せましょう」

 

 袁紹の剣が煌くたびに、兵士が血を流し倒れてゆく。

 彼女の剣は特別に速いというわけではない。力強いという訳でもない。まるで敵兵から袁紹の剣に当たりに来ているようにも見える不思議な剣技だ。一太刀で確実に敵を沈めていく袁紹の姿は、華があった。見惚れる美しさがあった。魂を惹き付ける魔性があった。

 

 死の淵に立っていながらも―――いや、死の淵に立っているからこそわかることもある。

 ただの小娘と侮っていた袁紹本初もまた、この時代における乱世の申し子なのだと。

 かつて見た、異質。曹操孟徳に匹敵しかねない、生まれながらの王の資質を持つ者。

 

 それを解き放ってしまった後悔を抱きながら、大将軍何進はここに生涯を終えた。

 

 

 

 漢朝を食い荒らした原因の一人に冷たい眼差しで一瞥。もはや何進には目もくれず、袁紹と彼女の直属兵は一直線にある場所に向かう。

 劉宏の子供でもある、劉弁と劉協の私室だ。

 はっきりいって今の袁紹がやっていることは漢朝への反乱である。逆賊扱いされてもおかしくは無い―――というか、逆賊なのだが。

 今のこの状況をひっくり返すには、どうしても劉弁か劉協のどちらかが必要なのだ。どちらかを皇帝として擁立し、十常侍を始末する。最低でもどちらかを行わねば、袁紹としても身の破滅だ。

 

 袁紹は兵を連れて、劉弁の私室になだれ込むが、そこには人の気配が無い。

 劉弁が自分から逃げ出すとは思えない、となれば、宮殿の騒ぎを聞きつけた十常侍のだれかによってかどわかされたと見るべきだ。劉弁がいない以上、恐らくは劉協も同様。

 

「……皆のもの!! まだ皇子は遠くに行っていないはずだ!! 捜せ!!」

 

 宦官に先んじられたことに歯噛みをしながら、袁紹は歯噛みする。

 相手の危機察知能力を甘く見ていたことを反省しながら、袁紹もまた皇子の探索にあたった。 

 袁紹は言葉に出した通り、皇子達は遠くまで離れていないと読んでいた。だが、王たる資質を持つ彼女の想像を超える者が十常侍にはいた。そう―――袁紹の想像を超える臆病者が。

 だが、臆病者だからといって侮るべきではない。そういうものこそ、死の香りには敏感なのだ。

 十常侍の一人は早い段階で、それを嗅ぎとって宮殿を脱出し、洛陽から西へと逃げ出していく。それに気づくには袁紹でさえもしばしの時間を必要とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 洛陽からそう離れていない森を疾走する馬車の一群。

 舗装されているとはいえ、速い速度で駆け抜ける馬車は激しく揺れている。

 そんな馬車の中で、宦官達は凄まじい形相で怒りの言葉を吐き出し続けていた。

 

「くそっ……何進だけならば容易く返り討ちに出来たものを!!」

「袁家の小娘が、まさか何進につくとは……」

「青二才が、このような愚かな真似を!!」

 

 怨嗟の念を口に出しながら、宦官達は洛陽から逃げ出す羽目になった原因の、袁紹に恨み言をぶつけ続けている。

 袁紹が予想したとおり、この度の狙いは何進を葬るための罠だった。

 彼が動かなければならない状況をつくりだし、何進が送り込んできていた内通者を金で買収し、こちらの狙い通りの情報を渡す。後は今宵、罠にかかった鼠をしとめるだけ。その筈だったのが、宦官にとって予想外だったことが、袁紹を引き込んだことだ。しかも、彼女の執念とでもいうべきか、動かせるだけの兵をこの反乱に投じている。

 宦官達にも袁紹の情報が回ってこなかったということは、ごく最近袁紹は何進に協力することになった状況のはず。そんな状況でありながら、あれだけの数の兵を投入できるのは、ある意味異常ともいえた。漢朝に反乱を起こすというのに、それを可能とするのだから生半可な求心力では兵はついてこないだろう。

 

 だが、宦官達はまだ負けたわけではない。

 

 何故ならば、彼らの手元には皇子劉弁と皇女劉協がいるのだから。

 

 宦官のぎらつく欲望の視線が、隅にいる二人の少年少女を貫いた。

 劉弁は、実に素朴な顔をしている。本当に皇族なのかと疑いたくもなるが、それは霊帝の血をい色濃く継いだため。

 一方の劉協は、十三歳という幼い年齢と比例した小柄な身体。長い黒髪と可愛らしい顔立ちは、将来数多の権力者に求婚されるのは想像に容易い青い蕾。今でもそちらの方面の方々には凄まじい人気だ。

 そんな劉協は禁断の果実を思わせる危うい魅力を醸しだしている。

 

 傍で縮こまっていた劉弁は、何が起きているのかわからずに脅えた目で宦官達を見ていた。

 対して劉協も兄である劉弁にしがみつくようにして震えていた―――外見だけの話だが。

 内心では目まぐるしい速度で思考を繰り返している。

 

 本来ならば劉協は反乱に参加して十常侍を討ってもよかった。

 だが、反乱を起こした者の名前を聞いて、宦官達と逃亡する選択を選んだのだ。

 大将軍何進。彼は、兄である劉弁の叔父にあたる人物。恐らくは、彼に協力したとしても、意味は無い。確かに宦官達は掃討できるだろうが、間違いなく何進は劉弁を皇帝へと押し上げるだろう。その後、危険な芽である劉協が無事である保証はない。

 ならば、今はまだ雌伏の時だと判断して、劉協はこの逃亡劇に付き合うこととした。

 内心で深いため息をつきながら、外面は脅えた演技をしつつこれからの苦難をどう乗り切ろうか考えに没頭する。  

 

「くっくっく。だが、奴もまだまだ青い!! 劉弁様と劉協様がこちらの手にある限り、奴らは逆賊よ!!」

「そうだ。いずれあの青二才を、死んだほうがマシだと思わせる目にあわせて見せ―――」

 

 息巻いていた宦官を遮るように、馬車が突如として急停車をした。

 突然の停止に、馬車にのっていた宦官達が転がりながらも、慌てて立ち上がり馬車から降り立つ。

 彼らの目の前に広がっていたのは夜の闇を侵食するほどに多くの光を照らす篝火。

 少なくとも千や二千ではきかない兵士達が居並んでいた。あまりの多さに肝を冷やす宦官達。

 

 まさかこの方角へ逃げることを予測していた袁紹の伏兵なのか。

 流石にこれだけの数の兵から逃げられるわけがない。宦官が引き連れてきた兵士は精々が数十名。戦いにすらならないだろう。宦官子飼いの兵士達もまた、目の前の敵の数に顔を青ざめさせていた。

 

「十常侍の皆様。ご無事で何よりです。私めは李儒と申します。そしてこちらは、董将軍の軍にございます」

「なん、だと? 董……?」

 

 袁紹の兵ではないことに胸を撫で下ろす宦官は、軍の前面に出ている、文官姿の細目の男に見下す視線を送る。

 だが、細目の―――李儒と名乗った男は、その視線に怯みも、不快感も抱きはしない。

 逆に彼の浮かべている笑みには、どこか不吉さを感じ取っていた。一言で言うならば、蛇。そう表現するにぴったりな男であった。

 

「乱も平定され、涼州への帰還を申し付かっておりましたが、なにやら禁中にて不穏な影ありと噂されておりましたので、この地にとどまっておりました。今宵の宮殿の騒ぎを聞きつけ、こうして兵を引き連れ参った次第であります」  

「なんと!! これぞ天の助け!!」

 

 宦官は李儒の説明を聞き、喜びの声をあげる。

 これだけの兵がいれば、間違いなく袁紹を討ち取れるはず。

 有り得ない幸運に喜悦を浮かべる宦官と劉弁。しかし、劉協は、李儒の笑みと背後の軍に嫌な予感がとまらなかった。

 このまま彼らを引き連れて都に戻って果たしていいものかどうか。

 そんな劉協の心配をよそに、宦官達は自分たちが助かることに一片の心配もしていない。

 

「李儒とやら。董将軍をこちらに。火急の用がある!!」

「逆賊何進と袁紹が、皇子と皇女のお二人を亡き者にしようとしたのだ!!」

「奴らを討つために、董将軍の力が必要なのである!!」

 

 次々と言い立てる宦官に、李儒は手に持っていた木簡を軽く握り締め、喚きたてる宦官達へ順番に視線を送る。

 その様子はまるで宦官達の話を聞いていないようにも見えた。それどころか、何やら別の物事を考えているのではないか、と劉協は訝しむ。

 そんな時、突如として篝火の河が、二つに割れた。

 割れた中心から騎馬に乗った一人の男性がゆっくりと進み出てくる。

 

 男とは思えない長く美しい白髪。

 血のように赤い瞳で、宦官達に囲まれる皇子と皇女の姿を睥睨している。到底武人には見えない傷一つ、染み一つ、日焼け一つしていない白い肌。鎧もまとわずに、豪勢な服で己を着飾り、腰には辛うじて一刀だけ剣を差していた。

 

 白髪の男が歩み出てきた瞬間、李儒の表情が変化する。

 どこか機嫌を伺う卑屈な笑みへと変わり、宦官達の前とは平然としておきながら躊躇いも無く平伏した。

 背後の兵士達も同様。頭を地面にこすりつける様は、異様にも見える。

 

 男性の視線が劉弁を貫いていたが興味を僅かにも見せず、次に劉協へと移った。

 男と視線が交錯したと同時に、少女の身体がビクンっと反応する。

 

 白髪の男性の瞳には何も無い。一切の感情が見られない、完全な虚無。

 人を人と見ていない。ただのモノとしか見ていない、いかれにいかれた狂人の瞳。

 冷静に、冷徹に、確実に。この世の全てに価値を見出していない化け物。

 関わってはならない。劉協の第六感が、これまで宮中で会って来た誰よりも危険な怪物だと告げてくる。

 この男に比べれば、十常侍も何進も赤子のようなものだ。完膚なきまでに、あらゆるものを破壊する。破滅そのもの。

 

 演技ではなく、ガクガクと震える己の身体を抱きしめながら、劉協は目の前の魔人の視線に恐怖で竦んで動けなかった。

 

「……お前らは、いらんな」

 

 温度を感じさせない声で、男は腰の剣を抜く。

 篝火の光を反射させた白銀の刀身が、きらりっと輝いた。

 そして、男は喚き散らしている宦官の一人に近づくと、無造作に一太刀を振るう。

 パシャっと赤い華が咲く。容易く宦官の一人の首を落とした男性は、その場で湧き出る血の噴水を眺めながら、返り血を拭う。斬られた宦官の身体がぐらりとゆれ、地面に倒れて鈍い音をあげた時、凍った時が動き出した。

 

「き、きさまぁ!?」

「ま、待て!! 思い出したぞ!! そやつは、その男は!! 涼州の董卓!!」

 

 宦官の一人が叫んだ男の名前。それに誰もが顔を引き攣らせた。  

 董卓仲穎。漢朝の威光が届かない西方にて、力であらゆる民族を従わせた武将。

 その武勇は並ぶ者無しとまで言われ、今の漢朝において最強とも噂される。ただし、彼の残虐性もまた並ぶものは無く、西方では魔王とまで呼ばれている男だ。

 

 董卓の正体を知った宦官の誰もが震え上がり、その場から動けなかったが、流石というべきか彼らが連れてきた護衛の兵士達は即座に行動を開始した。

 敵の大将が手の届く所にいるなど、愚策にも程がある。董卓を人質とすれば、この囲みも突破可能と判断した兵士達の動きは素早い。宦官が直属の護衛とするだけはあって、彼らの力量は相当なもの。そんな兵士達が一直線に董卓へと襲い掛かるが―――そこに一陣の疾風が吹く。

 

 黒い風が董卓の前に現れ、手に持っていた得物で一閃。

 剣も鎧もまとめて叩き切って、数人の兵士もまた血飛沫を上げて地面に転がっていく。

 目の前に佇むのは、董卓を庇うように立ち塞がる黒の甲冑をまとった一人の武人。

 手には三メートル近い、不可思議な形の矛。吹き寄せる血風が、董卓へと迫っていた兵士達の鼻をくすぐるも、それと同時に自分が死ぬという予感。

 兵士達の予感を証明するかのごとく、黒い武人は手に握り締める武器を軽々と振るい、兵士達を惨殺していく。

 あまりの圧倒的な強さに、宦官達は愕然と目を見開いた。

 

 強すぎる黒い鎧の武人。それを見ていた宦官の一人が、恐怖を滲ませて一歩後退する。

 

「黒い鎧の、武人だと? まさか……まさか!? まさか!!」

 

 董卓の名前を知っていた宦官が再び叫ぶ。

 頬を引き攣らせ、恐怖で唇を震わせて。

 この世の終わりを前にしたかのような宦官の様子に、他の者たちでさえ只事ではないと勘付く。

 

「黄巾の乱にて、数多の武威を示した天下無双―――呂布奉先っ!!」

 

 そして、宦官の口から発せられた名前は、この場にいる人間に絶望を植え付けるには十分すぎる衝撃だった。

 人々の願望がうみだした、飛将軍。漢人も異民族も等しく滅ぼす天下無双。

 少なくとも黄巾の乱が起こる前まではそう考えていた噂。だが、伝説は確かに存在し黄巾の乱平定に多大な功績をもたらした。初めは呂布の功績をきいて笑い飛ばすことしか出来なかったが、黄巾討伐を指揮した三将軍は皆同じことを報告し、従軍した者は皆、天下無双の称号に偽りはないと語る。

 

 そんな化け物が、目の前にいて兵士達を蹂躙していく様子は確かに、呂布奉先はとてつもない怪物だと納得するしかなかった。一分もかからずに護衛の兵士数十人を物言わぬ骸と化す。その原因となった呂布奉先は、手に持っていた自分の得物を軽く一振り。刃についていた血糊を払い落とす。

 

「……つまらぬ。この程度で、精鋭を名乗るか。話にもならぬわ」

 

 顔が見えない兜の奥から、しゃがれた声が漏れる。

 追随を許さない武を示した伝説を前にして、残された劉弁と劉協―――そして、僅かばかりの人数の宦官。

 これまで見たこともない異端の二人を前にして、誰一人として声を発することが出来なかった。

 下手なことを言えば自分が死ぬ。この場の雰囲気が、何よりも雄弁にそれを伝えてきている。

 劉協もまた、他の者たちと同様であった。確かに彼女は異才である。しかしながら、まだあまりにも幼い。人外ともいえる董卓を前にして、脅えたとしても無理なかろう話だ。ましてや、彼の傍には威圧感を撒き散らす伝説の武人。

 何も出来なかったとしても責めるものはいないはずだ。

 

 だが、劉協は唇を力一杯噛み締める。

 駄目だ、と。このまま沈黙を保てば、恐らくは劉協の予想通りの結果になるだろう。

 

 董卓は、地位や名誉を欲してこの場にいるわけではない。

 義心に駆られ、漢朝の腐敗の原因である十常侍を斬ったわけでもない。

 帝の血統にも敬意を微塵も払わない董卓は、一体なんのためにここにいるのか。それがわからない劉協だったが、このままでは危険だという己の直感に従って、腰がひけている宦官や劉弁を庇うように一歩足を踏み出した。

 

 董卓と呂布の圧力を前にして、その一歩を踏み出せるものはなかなかいない。

 少女の勇気に、李儒は素直に驚きを抱く。

 

「控えおろう、董卓!!」

 

 可憐な少女が発したとはおもえない、苛烈さを伴って森中に響き渡る。

 

「先帝亡き、今!! 我が兄、弁皇子は皇帝となられるお方である!! 董仲穎、貴殿は帝に叛する者か!! 五材を持って臣下の礼をとる者か!?」

「勇。智。仁。信。忠。臣たる将に求められる五材か」

「いかにも!! 勇なれば即ち犯すべからず!! 智なれば即ち乱すべからず!! 仁なれば即ち人を愛す! 信なれば即ち欺かず!! 忠なれば即ち二心なし!!」

 

 手を董卓にかざし、真っ向から睨みあう劉協と董卓。

 その勇気に董卓軍の誰もが驚き、心の中で賞賛を送った。臣下である彼らでも、あそこまで堂々と董卓と向かい合うことはできないからだ。しかも、十三歳という幼い少女がそれを為した。

 対照的だったのが、残された宦官と劉弁だ。機嫌を損ねれば殺されかねない相手に対してここまで堂々と説教をかますなど、信じられない。それは勇気ではなく、蛮勇であると断じた。

 

「……小賢しい、小娘だ」 

 

 にらみ合う劉協と董卓。

 操り易しと判断していた幼い少女の本性。董卓の虚無にも負けじと佇む彼女に、宦官も劉弁も言葉もない。

 二人の対峙に割ってはいるように、ズシンっと地を揺らして足を踏み出したのは黒い鎧の巨人。

 天下無双の呂布奉先は、手に握る巨大な矛の切っ先を劉協に向ける。

 

「教えてやろう、小娘。戦場において、貴様が誇りにする帝の血など何の役にもたたないことを。そして、戦場において最も速く死ぬのは、蛮勇な者からだ」

 

 呂布は、片手で軽々と巨大な矛を天へと掲げる。

 その光景を見て誰もがまさか、と思った。仮にも皇帝の血族である劉協に刃を向けるだけではなく、彼が放つ殺気は本物で、このままでは躊躇いなく刃を皇女に振り下ろすことは明白であった。

 キラリっと矛が光を反射する。呂布が放つ殺意は、甲冑をまとっていてなお、溢れてあまりあった。

 物理的な衝撃をももたらす呂布の圧力に、乱れる呼吸。それでも劉協は逃げ出しはしなかった。

 自分が死なないとは思っていない。だがらこそ、ここで逃げ出せば皇族としての誇りも失ってしまう。そんな予感じみた想いに囚われていた。

 

「―――逝ねぃ、小娘」

 

 振り下ろされる刃。

 寸分違わず呂布の得物は、容赦なく劉協の頭に叩き込まれ、幼い彼女の身体を真っ二つに両断する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おいおい。こんな逸材を、そんな簡単に殺すなんて勿体ないぜ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――はずだった。 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギィンっと激しくも耳障りな音。

 呂布が放った必殺の一撃は、劉協の背後から繰り出された刃に防がれていたのだ。

 自分が命を拾ったことが信じられないのか、目を見開いて頭上で交差している矛と奇妙な形をした武器を仰ぎ見る。

 劉協を救ったのはこれまで見たこともない不思議な代物だった。

 

 槍のような先端。だが、それだけで普通の剣よりも長く分厚い。さらには、その切っ先を補助するように巨大な三日月の刃が反り返っている。慌てて背後を振り返ってみれば、柄もまた長い。全てを合わせれば四メートル以上にもなる超重兵器だ。呂布が使っている矛にも驚いたが、この武器はそれ以上に驚かされる。

 

 そして、もっとも注目すべき点は―――常人では持ち上げることすらできないであろう武器を、馬上にのった青年が片手で持っていたことだ。さらには、ふわぁっと戦場において有り得ないことに欠伸までしている始末。

 戦争には行ったことない劉協だが、眼前の青年の異質さだけは理解出来る。

 

 さらに、ここで初めて董卓の生気のない瞳に、興味という色が混じったことに誰も気付かなかった。 

 

「……何者だ、小僧」

 

 ギャリンっと刃同士を高鳴らせ、呂布は己の武器を引き寄せた。

 

「おっと、危ないな」

 

 青年は、弾かれた拍子に馬ごと後方へ数歩たたらを踏む。

 そして馬上から、軽々と飛び降りると頭をガシガシとかきながら劉協の前に進み出てきた。

 

 劉協は突如として現れた青年をまじまじと見つめる。

 宮中のものかとも考えたが、一度見た相手は忘れない特技を持つ彼女の記憶にはない。つまりは、そういった関係の人間は薄い。ただし、呂布の言葉から推測するに董卓の手勢というわけではないようだ。

 

 短く切られた銀の髪が、やけに眩しく光を放っている。

 呂布には及ばないものの、劉協が見上げねばならないほどの背丈。

 文官かとも考えたが、その割には巨大な武器を片手で持つなどと言う荒技をやってのけている。

 ただの優男ではないのは、それだけで劉協には理解出来た。

 

 劉弁も宦官も、銀髪の青年の姿に眉を顰める。

 今度は一体どこのものだ、と。怪しんでいるようだった。

 

「あ、あの―――」

「よくわからん状況だったが、助けに入って大丈夫だったか?」

「は、はい。助かりました」

 

 劉協が何者かと問おうとした途中で、青年が割っては入って問いかける。

 皇女と知らないせいか、やけに乱雑な言葉遣いだったが、劉協にはそれを咎める気にはなれなかった。逆に、青年のそんな言葉遣いが新鮮で、少しだけ嬉しくなってしまう。

 

「小僧。貴様、何者だ? そやつらの手下か?」

 

 呂布なる者が、青年を油断せずに睨み付け、矛を向けてくる。

 手加減なしの殺気が荒れ狂い、波となって打ち寄せてきた。息を呑む気配に、宦官と劉弁は腰を抜かして座り込む。劉協は辛うじて耐え切れたものの、今にも背後の者達と同様に地面に座り込みたくなる。だが、彼女の前にいる青年は全く気にも留めた様子もなく、軽々と受け流していた。

 

「おいおい、名乗るときは自分からって教えられなかったか?」

 

 さらには平然とこんなことまで言ってしまう青年は、周囲の者達を慌てさせた。

 伝説を前にして余裕を崩さない青年に、呂布は些か機嫌を損ねたのか、彼の筋肉が怒りで膨張していく。

 

「よか、ろう。冥土の土産に我が名を持ってゆけ」

 

 矛をぐるりっと頭上で回し、勢いよく振り下ろし空中でピタリと静止させると―――。

 

「我が名は呂布。呂布奉先なり!!」

 

 ビリビリと空気を打ち震わし、森に眠っていた鳥が飛び立っていった。

 騒がしくなる周囲とは裏腹に、青年は呂布の名に流石に驚いたのか、目を大きく開いて眼前の黒い甲冑の戦士を呆然と見つめた。そこにあったのは、恐れか、怖れか。武人である限り、呂布奉先の名前は畏怖と崇拝の対象にもなっているのだから青年の表情も当然。だが、劉協は青年の姿に違和感を拭えなかった。青年が呂布に向けているのはどう見ても恐怖ではない。単純に驚いているだけ、そうとしか思えなかった。

 

「呂布、奉先……だ、と?」

「然り。我の前に立つということは、貴様の命が終わると同義」

 

 燃えるような殺意を漲らせ、呂布は高らかに宣言を続けた。

 

「安心しろ、小僧。痛みもなく、一瞬で終わらせて―――」

 

 呂布の言葉を遮る轟風が吹き付けた。

 森も。大地も。空も。人も。何もかも。

 森羅万象が怖れ戦く。あまりにも超越的すぎる覇気がバチリっと音を立てて世界ごと包みあげる。

 呂布が漲らせた気配など、そよ風。そう称してもおかしくはない。そこまで桁が違う得体の知れない圧力。

 劉協は、ばくばくと高鳴る胸なり。乱れる呼吸を必死になって落ち着かせる。目の前で立ちのぼる、尋常ならざる気配に恐怖以上の高揚感を覚えた。

 

 死をも怖れぬ董卓軍の兵士でさえも、その場から逃げ出すように後退する。

 董卓は何も語らずに、興味深そうに呂布と青年の対峙を傍観していた。

 

 

 が―――。

 

 

 

 誰も彼もが理解出来ない結果だけが、そこにはあった。

 

 パシャリっと吹き出る鮮血。

 地面に転がる黒い甲冑。そして、巨体。赤い血の池に浮かぶ臓物。 

 

 物言わぬ骸となったそれは―――天下無双。呂布奉先の身体だった。

 

 頭から股間までを一刀のもとで切り裂かれたという結果のみ。

 この場にいた全ての人間が、その結果だけしか見ることは出来なかった。

 

 それを為したであろうと、予測できる人物。

 銀髪の青年は、誰の目にも止まることなく一歩を踏み出しており、何時の間にか振り下ろしていた己の武器をゆっくりと肩に担ぐ様は―――ただただ圧巻の一言。

 彼がどうやってこの光景を作り出したのかわからない。それでも、人間としての生存本能が痛いほどに警告を繰り返す。

 この人間には関わるな。戦うな。この者こそ本当の死神なのだ、と。

 

 青年は血の海に沈んでいる、もはや物言わぬ肉体となった呂布を見下ろしながら―――。

 

「―――奇遇だな。俺も、呂布奉先と名乗っているんだが?」

 

 方天画戟を握り締め、珍しく不機嫌に言い捨てた呂布の名を騙る銀。 

 この場の人間が、その発言の意味を理解するまで暫しの時間を要することになるが―――やがて森の中に多くの人間の怒号にも似た驚愕の叫び声があがった。

 

 李儒でさえ、驚愕と恐怖を隠しきれずにいる中。

 ただ一人。董卓だけは、不気味な笑みを口元に浮かべ嗤っていた。

 

 

 

 

 天下無双。呂布奉先。

 乱世の魔王。董卓仲穎。

   

 

 

 

 後の世にて董卓の乱とまで言い伝えられる悲劇を巻き起こす、破滅と破壊の象徴である二人の初めての邂逅であった。

 

 

 

 

 




これにてストックは無くなりました。
どなたか三極姫普及委員会を一緒に頑張りましょう!

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