背水の陣で命を捨ててくる黄巾の者達は恐ろしいほどに手強かった。
多くの戦を生き抜き、太平道に全てを捧げた狂信の民は、官軍の軍勢を一時とはいえ押し留めることに成功する。
圧倒的な兵数の差。武器の質の差がありながら、それでも彼らは一歩も退くことは無く突撃を緩めない。
だが、そんな黄色の軍勢を切り裂く二つの異色の兵士達がいた。
官軍の中にいてなお、異彩を放つ軍。官軍全体から見れば小数に過ぎない人数で構成されている部隊。
紅の鎧を身に纏い、死を恐れぬ黄巾賊をも易々と穿ち貫く騎馬部隊。
曹仁子考は躊躇いも逡巡もない愚直ともいえる特攻を仕掛け、それを冷静な曹洪子廉が補助に走る。彼女達の反対側からは、戦場でありながら冷たい空気で周囲を圧する夏侯惇元譲が突撃し、挟撃にて黄巾の軍勢を壊滅させた。
それを演出するのは司令官でありながら、己の部下とともに前線で戦い続ける銀髪の魔人。
曹操孟徳は、敵である黄巾賊さえも魅了されかねない危うい笑みを浮かべながら、戦場の一画を支配していた。
それと同様に、大海を思わせる蒼い鎧を纏った騎馬部隊。
黄巾の軍を貫いていく光景は荒れ狂う大河を連想させた。
兵士の誰もが洗練された身のこなし。それは一人一人が、官軍の兵士では相手にならない者達ばかり。曹操率いる部隊と互角にも渡り合えるほどの精鋭だった。
冷静冷徹に黄巾を屠る曹操軍とは異なり、焼き尽くすような熱を持って敵の命を刈り取っていく。
彼らを従えるのは孫呉の王たる孫堅文台と、その後継者孫策伯符。
この二部隊が、死をも恐れぬ黄巾賊の進撃を止め、逆に押し返しつつある。
もしも、彼女らがいなければ官軍は瓦解してもおかしくはないほどの攻勢であった。
そして曹操と孫堅の間を守護するように小さな部隊が配置されている。
手勢は二百に及ぶかどうか。劉備玄徳率いる義勇軍。
彼の背後には当然官軍が配置されているが、戦場においての最前線も真っ青な場所だ。
しかしながら、彼らには死への恐怖は無い。逆に誰もが笑みを浮かべていた。
死をも超越して笑みを浮かべれたのは、彼らの前に立つ二人の武人がいたからだ。
軍神。関羽雲長。
燕人。張飛翼徳。
黄巾の乱にて既に四海において名前を轟かせた二人の一騎当千。
官軍でさえも憧憬を抱くものが少なくない、嘘偽りなき英雄英傑。
戦線がぶつかりあった瞬間。
関羽の青龍エン月刀が翻り、二桁にのぼる黄巾賊をまとめて薙ぎ払う。
張飛の蛇矛が数人をまとめて貫き弾き飛ばす。
見ている光景が夢か幻かと勘違いしかねない、一騎当千の猛者が黄巾軍の進撃を押し留めた。
また、官軍の兵士とて飾りではない。
確かに平和に慣れきった彼らではあったが、黄巾の民が幾多の戦を乗り越えて兵士と名乗るに相応しい存在になったのと同様に、官軍の兵士も黄巾との戦場を生き抜いてきたのだ。
単純な兵士の質という点では、良質な武器を使用している官軍に軍配があがるのは当然。
それを死をも恐れない心意気だけで互角以上に渡り合っている黄巾賊が驚異的なのだ。
それを理解していた張宝とてなにも策を弄さなかったわけではない。
最終決戦が始まる前に彼は幾つかの手を打っていた―――が、全てが失敗に終わっていたのだ。
まるで張宝の思考を読まれていたと思わせる手腕を、官軍の誰かが見せ付けていた。
それを行ったのは曹操孟徳なのだが、張宝にはそれを知る由はない。
官軍と黄巾賊。
二つの軍の差は圧倒的なまでの武将の質の差。
歴史に名を残す化け物達が、官軍には笑ってしまうほどの数が存在したのだから。
張宝は、己の力不足に嘆きながら痛いほどに手を握る。
彼の目の前で次々と信徒達が命を落としていく。
蒼天の死を願い。黄天の到来を願い。
本来ならば、彼らは鍬を手に持ち畑を耕す。国の土台を支えるもっとも重要な民だった。
そんな彼らが鍬の変わりに剣を握り、戦場にて命を散らす。
こんな地獄のような景色を創った原因は誰か。他ならない自分なのだ。
張宝が噛み締める唇から血が垂れて、地面に吸い込まれていった。あまりにも強く噛みすぎたがために、知らず知らずのうちに食い破っていた。
信徒達は死を恐れず戦い続けている。
それでも、官軍を撃破することはできなかった。
黄巾の怒りを、嘆きを、憎悪を持ってしても、官軍を支える人外の域に達した怪物達はそれらをそよ風の如く受け流して、殲滅していく。
戦いが始まって幾分かの時が流れ。
張宝は、既に戦の趨勢が決まったことを理解していた。
もはや何が起ころうとも、奇跡が起きたとしても覆しようがない勝敗の結果。
黄巾の民の悲壮な覚悟をも打ち破る官軍の強さ。死に体だと思っていた漢朝の底力を見誤っていたのかもしれない。
何時しか、戦いは黄巾の撤退戦へと変化していた。
だが、果たしてこの戦いを撤退戦と認めて良いのかどうか、見ている人間がいたならば疑問に思ったかもしれない。
黄巾の誰一人として背中を見せていない。決死の形相で、迫り来る官軍と戦いながら退いている。
次々と殺されていく同胞を見る張宝の目が、蒼天を見上げた。
雲一つない蒼い空。まだ蒼天は死なぬ、と空が語っているような声を張宝は聞く。
兄である張角。弟である張梁。そして、自分。
三人で始めた戦いは気がつけば、数十万の人の想いを背負うものになっていた。
多くの民を犠牲にしながら、結局何を為すこともできずに死ぬことが、張宝にとっては許しがたい苦痛に感じる。
太平道は腐りきった漢朝を終わらせることは出来なかった。
ただ、乱世をもたらしただけで終焉を迎えたのかもしれない。
しかし、違うっと首を振った。これは始まりにしか過ぎないのだ。この後に続く誰かが、きっと新たな世を導いてくれる。
乱世とは英雄をうむものである。
秦の始皇帝然り。
漢の高祖劉邦然り。
「……だが、もはや死にゆく我にはどうでもいいことだ」
手に持っていた長刀を今一度力強く握り締める。
張宝の周囲の空間が熱されたように温度を上げていく。並の者では近づくことすら躊躇う、強大な覇気。
太平道を導いてきた指導者の最後の一人として、彼には最後の仕事があった。
出来るだけ、多くの民をこの場から離脱させること。死ぬのはその後でもできるのだから。
これまで散っていった同胞の願い。想い。無念。
この場で戦っている同胞を意思を背負う地公将軍張宝は、黄巾の乱によって産み落とされた最後の魔人と化す。
だが―――。
「……蒼、天が……割れ、た?」
愕然と張宝が呟いた。
一瞬だが彼の目が捉えたのは―――蒼い空が両断された幻としか言えない光景であった。
▼
「ああ、すげぇな。流石は曹操ちゃん。あそこまで見事に兵を動かせる奴なんざ、見たことがない」
カラカラっと戦場らしからぬ楽しげな声に、周囲の兵士達は無言で通す。
曹操への手放しの称賛に、陳宮だけは眉を顰めている。先日の曹操と呂布が二人で酒を呑んでいたところを発見されて以来、どうにも陳宮の曹操を見る目は厳しかった。だが、そんな陳宮でも呂布の言葉に納得するしかないほどに、曹操孟徳の用兵術は目を見張るものがある。。
本陣を防衛する兵士達と一緒に呂布は、遠目に黄巾賊と官軍の大激突を傍観していた。
遠くからだからこそ曹操の用兵を理解できるが、あれを目の前でやられてしまったら相手はたまったものではない。
決して書を読み学んだだけではない、用兵の才。敵を、戦場の空気を、時間さえも計算にいれて兵士を手足のように操る曹操の指揮に、自然と目を奪われる。
また、見るべきなのは曹操だけではない。
孫堅率いる孫呉の軍も、個々の能力が圧倒的だ。それに加えて彼らを率いる孫堅の指揮も実に見事。
単純な軍を操る技量は曹操に及ばずとも、それでも黄巾を相手にするには十分すぎる。
このまま放っておいても勝敗は明らかだ。間違いなく官軍に戦いの天秤は傾く。
だが、こんなに美味しい戦場を黙って指をくわえたまま見過ごすわけにもいかない。
何よりも、あれほどの化け物達の狂乱の宴を見せ付けられて、黙っていられるほど呂布も大人しくはない。
「……久しぶりに、本気で行くかねぇ」
さして大きな声でもなかったというのに、周囲の人間達の表情が固まった。
何を言っているのだ、この男は。言葉に出すならそれしかなかった。
呂布の何でもないような一言を信じるのならば、張梁の時も、高昇の時も―――手を抜いていたということになる。
伝説に違わぬ武人振りを見せ付けていながら、あれでも本気ではなかったというのか、と。
兵士達は呂布を疑いながらも、心の底から湧き出てくる恐怖に脅えていた。
この男ならば。呂布奉先ならば、決してそれも有り得なくはない。
そう思わせてしまう凄味が、彼には存在していたのだから。
「……待て、呂布。まだ行くな。幾らお前でもまだ危険すぎる。もう少し待てば、絶好の機会が―――」
「なぁ、陳宮。お前の心配もわかるが、今回は俺に任せておけ」
「しかし……」
呂布は隣で馬首を並べている陳宮の頭を優しく掴み、くしゃくしゃと軽く撫で上げる。
最近はすることが無くなった、まだ彼女が幼い頃によくしてあげた行為だ。
安心させるように何度か撫でた呂布は、口角を深く吊り上げて、獰猛に笑った。
「呂布奉先に勝る者無し。それが例え―――万を越える相手だったとしても」
最後にポンっと陳宮の頭を叩くと、呂布は馬を走らせた。
十年来の友の不安げな視線を背中に受けて―――。
「……さてっと」
命じられるがままに戦う官軍。
大儀のために戦う黄巾。
そんな戦馬鹿達が眼前の大地を埋め尽くすように広がっている。
彼らを見る呂布の目は冷たい。
狂人達が目の前で繰り広げる命の削りあい。
鼻につく血臭。臓物の香り。大地を埋め尽くす黄巾と官軍の死体。
まともな人間ならば耐えられない。これが乱世。命の価値が塵の価値しかない世の中だ。
「―――呂布、奉先!! 推して参る!!」
ならば、何の価値もないその命。
呂布奉先の名を轟かせるための礎となれ。
呂布の狂気染みた歓喜の名乗りに、走らせている馬が一際高く鳴き声をあげた。その嘶きに驚いた周囲の官軍の目も気にせず、方天画戟を蒼天に向かって一直線に突き上げる。
そして―――蒼天が割れた。
この世の終わりを連想させる天空の光景に、ぽかんっと口をあけて空を見上げる兵士達。
しかし、そんな彼らを嵐と勘違いする強烈な風が吹き付ける。
背筋を凍えさせる悪寒と、恐怖。戦場を支配し、塗り替えていく暴風が吹き荒ぶ。
まるで幼子が明かり一つない夜の世界へ取り残された時のような孤独感。
風の後には音が来た。
戦場を揺らす巨大な地響き。大地が脅え、恐れている躍動に似ていた。
揺れは大気を打ち震わし、戦場の空気さえも打ち砕く。
呂布奉先という名の黒い乱世が、官軍の兵士達が散った空間を疾駆し、黄巾の大軍勢に喰らいついた。
方天画戟の切っ先が、数人の黄巾賊を貫き絶命させると、片手で軽々とそれを放り捨てる。十数人の敵を巻き込みながら投げ捨てられた死体には目もくれず、声なき咆哮をあげつつ黄色の大海原を黒い雷光となって消滅させていく。
たった一人の人間が。撤退を開始しているとはいえ万を超える軍勢とぶつかりあい、だが―――次々と蹴散らしていく姿は夢幻の如く。
両手で握りなおした方天画戟が勢いよく振り回す。
三日月状の刃が、周囲にいた黄巾賊数十人をまとめて斬り殺した。
血が。顔が。腕が。胴体が。足が。脚が。無情にも宙を舞っていく。
馬に呂布の意思が宿ったのか、呆れるほどの黄巾賊を前にしても脅える様子すら見せない。
逆に四肢を最大限まで利用して、時には踏み潰し、時には蹴り飛ばし、呂布の道を切り開く手伝いをしていた。
振り下ろした方天画戟が、数人の人間を惨殺し、おまけに大地にも巨大な破壊痕を刻み込む。
瞬きする間に数十人の黄巾が斬り殺され、突き殺される。数十秒にも満たぬ間で、呂布の後方には千を超える死体と、茫然としている官軍が取り残された。
黒い乱世は、暴虐を尽くしながらも美しく狂い咲く。
その光景は、戦いに非ず。
中華に語られる、戦いに非ず。
万民が知る、戦いに非ず。
一人の人間が、万を超える軍を相手を凌駕する。
人が長い間かけて生み出した、策も。軍も。何もかも。
単騎で全てを否定する暴虐の化身。
文字通りの万夫不当。
武に―――いや、暴において彼に勝る存在はなし。
天下無双の呂布奉先。
ここに在り。
「な、なんだ、ありゃぁ。あれが、天下、無双かよ。冗談きついぜ……」
脂汗を流しながら劉備玄徳は頬を引き攣らせた。
言葉で表現できない化け物を前にして、彼の笑顔も消え失せている。
「呂布、奉先……。これが、生きる伝説か!!」
関羽雲長は、己の未熟さを嫌というほどに思い知った。
見えていたと思っていた背中は幻で、手も届かない遥か彼方に伝説はいたのだ。
「怪、物め……」
張飛翼徳は、一対一であるならば関羽が四海最強だと信じている。
相手が人であるならば、だが。
あれは既に人の枠組みを超えた黒い乱世そのものだった。ならば人が勝てる道理はあるわけがない。
「……やはり、お前は。お前は、危険だ!! 呂布奉先!! お前は、曹操孟徳の覇道を妨げる最大の障害となるっ!!」
両目を見張り、夏侯惇元譲はギリギリと激しい音を立てて歯をかみ締めた。
強いなどという表現では収まり切らない。曹操が称した、乱世の化身というのはあながち間違いではなかった。いや、そうでなくてはならないのだ。あんな化け物が、人であって良い筈がない。
己が生涯でただ一人主と認めた曹操の為に、夏侯惇はアレを自分の手で必ず殺すという確固足る決意を胸に抱いた。
「―――有り、得ぬ。なんだ、アレは。一体何なのだ、アレは!!」
司馬懿仲達は、自分が完璧に読み間違えていたことに漸く気づいた。
呂布のことを最大限までに警戒していたが、それはあくまでも人としての範疇。
しかし、今まさに黄巾の軍勢を穿っている存在は、既にその域を容易く超えている。
駄目だ、駄目だ。アレは駄目だ。司馬懿仲達という人間は、呂布奉先と名乗るナニカを決して受け入れることは出来ない。
それを理解した彼は、呂布を討つべき為の手段を思考し始めた。
「これほどの、ものか!! 呂奉先!!」
孫策伯符は、自分の目指す頂の高さに愕然と声をあげた。
先日味わった呂布の力の片鱗は、あくまでも片鱗にすぎなかったのだ。
彼の本当の力は、孫策の想像を遥かに超えている。手に持っていた長剣を握る手が小刻みに揺れ続けていた。
しかし―――。
「―――ふ、ふははははははは!! そうだ、呂、奉先!! それが貴殿だ!! 貴殿の前では全てが無意味!! 無価値!! だが、不思議だ!! この胸の高鳴り、私は貴殿に心の底から惹かれているぞ!! 魅かれているぞ!!」
誰もが我を忘れ、息を呑む。
あらゆる人間を死に至らしめる暴神の行進を狂気と狂喜をもって眺めるのは曹操孟徳ただ一人。
新雪の肌を赤く染め上げ、どこか陶然と。艶やかに。戦場にいることを忘れているのか、両腕を大きく広げ、己を強く抱きしめる。それはまるで遠く離れた呂布を抱きしめたかのようにも見える動作だ。
そこにあったのは、四海になだたる猛者をも恐怖させる天下無双に懸想している、乱世の覇王の姿だった。
恐怖も。憎悪も。畏怖も。嫉妬も。怨恨も。悲哀も。
天下無双。呂布奉先に向けられるあらゆる負の感情を一笑に付す程の熱烈な愛情で吼え称える銀髪の覇王。
激しくも苦しい胸の動悸に狂おしい熱を感じながら、曹操孟徳は、黄色の大海を塗りつぶしていく黒き死神を見つめ続けていた。
数え切れない死体と、生者が存在する戦場において、それは一人だった。孤独だった。孤高だった。
完全であり、完成された個人。究極にして至高。遥かな天空より兵も武人も見下ろす最強の名を欲しいがままにする乱世の化身。彼は敵も味方も寄せ付けない。たった一人で戦場を支配する黒い乱世は、疲れも見せずに黄巾の兵士を方天画戟で蒼天の果てへと導いていく。
雲一つなかった蒼天に、雲が見え始めた。
血を運ぶ狂風が、何処かから雲を運んできたのだ。
吹き荒れる暴風の到来を雲の流動が告げ、天空だけではなく、地上に訪れる余波だけで風塵を巻き上げる。
凪いでいた空に、呂布の殺戮を祝福するかのごとき気流が回り始めた。
宙を舞う風は、まるで大雨の後の河を流れる濁流。空気を、大気を切り裂き轟々と音をあげる。
天下無双を中心として蒼天までも脅かす、嵐を巻き起こしながら砂塵が散っていく。
方天画戟を真上に掲げる姿は、鎌首を擡げた龍を思わせる。
黄巾も官軍も、名だたる武将の心を押し潰す。
嵐の中心を駆ける呂布奉先を騙る、一人の武人。
「―――遠からんものは音に聞け!! 近くば寄って目にも見よ!!」
狂う。狂う。武が狂う。
狂う。狂う。暴が狂う。
「我こそは―――天下無双!! 呂布、奉先也!!」
黄巾があげる断末魔をかき消す、呂布の名乗りが世界に響く。
肺の中の空気を全て吐き出し、呂布の名を高々に轟かせる。
ギチギチと音をあげる四肢の筋肉を動かし、方天画戟を縦横無尽に走らせた。
長く鋭い切っ先が。三日月の刃が。
恐怖に竦む黄巾を被った兵士―――いや、民を貫き、裂き、断ち、砕き、潰し、穿ち、斬り、撃ち、削り、滅ぼす。
嵐の中心。いや、既に嵐そのものになった呂布は、近づくだけであらゆる命をすり潰していく。
恐怖そのものである呂布に剣を振るう者もいた。
抗って生き抜こうとする者もいた。
だが、剣戟の音は響かず。
黄巾賊の誰も彼もが、方天画戟の速度を視認できず。
自分達が死んだと認識する間も与えず、屍の山へと積まれていく。
しかし、ここに集った黄巾は勇者だった。
暴神を前にしても背中を見せることは無い。恐怖に震えていたのだとしても。それでも彼らは自分達に出来ることをやりとげようとしていた。例え一矢も報いることが出来ずとも、彼らは確かに勇者の称号を得るに相応しい者達であった。
勇者の群れを方天画戟で貫く黒い閃光。
吹き飛ばされた人間が、宙高く舞い上がり、四方の彼方へと叩きつけられていく。
僅かな緩みも見せずに呂布は、黄色の大海原を潜りきった。
漆黒の鎧は返り血で濡れ、彼の後方には原型をまともに残さない死体の山が幾つも作られている。
黄巾の総大将。
張宝の姿を確認した呂布が、馬蹄の音をさらに高く、力強く鳴らし、一直線に疾風と化す。
戦場を渡る漆黒の武人の姿を遠目で見た張宝は、その正体を一瞬で看破した。
あれこそが、弟でもある人公将軍張梁と討ち取った伝説の武人呂布奉先なのだと。
いや、アレが呂布でなければ官軍はあのような人ならざる者を二人以上抱えていることになる。
そんなわけが無い。万を超える軍を単騎で押し通る怪物が二人もいてたまるか。
言葉には出さない張宝の本音。
人馬一体となった紫電雷光の弾丸が張宝へと迫り来る。間に割って入ろうとした黄巾の兵士は蹴散らされ、切り裂かれ、壁はおろか盾の役目すら終えずに散っていく。
「呂布!! 奉先か!!」
張宝は長剣を振りかざし、瞬く間に間合いを詰めてくる呂布を鋭い眼光で貫いた。
駆け抜けてくる呂布の姿が放つ重圧で本来の姿の数十倍にも見える光景を目の当たりにして、得体の知れない怖気に襲われた。だが、それ以上に歓喜が勝った。何故ならば、もはや勝敗の行く末は明らか。自分の首はこのまま乱戦のうちに名も知れぬ者達に討たれ、一生を終えるのだと内心で予想をしていた。
しかし、まさか最後の最後で、呂布奉先という伝説と真正面から戦えるとは望外の喜び。
黄巾を率いた地公将軍張宝。彼もまた、性根は武人であったのだ。
「―――我が死出の花道!! 貴様の首で飾らせて貰うぞ!!」
黒雷の呂布を迎え撃つために、張宝もまた馬首を走らせる。
両者が間合いを詰めていき、その光景を見ていたすべての人間が固唾を呑んで見守った。
黄巾の想いを背負った張宝の圧力は凄まじい。かつての張梁を思い出させる重圧を放ちながら、恐ろしい形相で長剣を振りかざす。それは見ている官軍はおろか黄巾の者でさえ、心胆を寒からしめるに値する圧である。
今の背水を背負い、黄巾の想いをまとった張宝は、名だたる名将である関羽や張飛とも渡り合える領域に達していたと判断しても過言ではない。
互いの得物を、天にかざしたまま振り下ろす。
張宝の長剣が。呂布の方天画戟が。同時に己の敵へと斬戟を見舞った。
二人の丁度中間にて、両者の得物が勢いよく激突し、激しい金属音を高鳴らせ―――は、しなかった。
風も。音も。衝撃も。光さえも置き去りにして―――天下無双の刃は張宝の肉体を腹部から見事なまでに両断していたのだ。
ずるりっと馬上から落ちていく張宝の肉体。
そして、彼の手から零れ落ちる、真っ二つに叩き切られた長剣。
大地を染め上げている血の池に、パシャっと音をたてて黄巾の乱が生んだ最後の魔人の骸が沈んでいく。
ここに黄巾最後の将軍は、地に墜ちた。
▼
黄巾との最後の決戦より数日。
長きに渡って戦い続け、疲労がたまっていた兵士達は、己が生き残れたことに喜び、酒宴を楽しんでいた。
だが、何時までもそうしているわけにもいかないのが現実で、彼らは自分の荷物をまとめている。乱を平定したのならば、もはや軍は解散であるからだ。
しかし、解散の前にやるべきこともある。
多くの者達がこのために戦ってきたと言っても良い、論功行賞が行われているところだ。
ある一定の階級の者達が一堂に集められ、都から駆けつけてきた中央官吏を出迎えた。
戦後の陣に迎えられた官吏は、疲労が見える兵士達にねぎらいの言葉をかけることもなく、戦功があったものへの恩賞を読み上げていく。
次々と読み上げられていく中、官吏がコホンっと咳払いをする。
彼の視線の先には曹操孟徳の姿があるが、官吏が彼女を見る目には様々な感情が込められていた。
もともと宮中での評判は宜しくない曹操。だからこそ、遠方へ飛ばされているのだが、その理由がまた漢朝に勤める者の間では結構な評判になっている。
都にて役人を務めていた曹操は、ある日と法律を破ったある男を捕縛した。だが、その男は力を持っていた宦官の親戚。処罰すれば、曹操自身も進退が危うくなる相手だった。普通の役人であれば無罪放免にするところ、曹操は法に則った処罰を下したのだ。
それは都の官吏ならば誰であろうと知っていること。
この官吏もまた、曹操の噂を聞いたことがあり、どんな人物かと見てみれば花も恥らう可憐な少女。
驚くなというほうが無理な話だ。
「曹孟徳!! 貴殿の功を讃え、済南県の相に任ずる!!」
「有り難き幸せ。謹んでその任をお受けいたします」
曹操が恭しく拳礼を返す。
その後も様々な者達への恩賞が読み上げられていく中、曹操はこの場に彼女が探している人間がいないことを確認。
恩賞の読み上げが続くなか、誰の目を憚ることなく踵を返した。
曹操が探していた人物。即ち呂布はそこから少しだけ離れた場所にある草原にて寝転がり蒼天を見上げていた。
普段は被っている兜も傍らにおいて、珍しくも素顔を曝け出している彼を見て、呂布だと見破れる人間はそうはいない。
基本的に呂布は陳宮の配下ということになっている。
張梁を討ち、高昇を討ち、張宝を討った彼はこのたびの乱平定の論功行賞の第一位であることは誰の目にも明らか。
相当な恩賞を期待できるだろうが、それら全てを陳宮に丸投げしていた。
基本的に呂布は地位も名誉も欲してはいない。
今回の戦で彼自身の目的でもある呂布奉先の名は知れ渡っただろう。
これまではただの伝説に過ぎなかった呂布の武威を、これだけ多くの人間に示すことができたのは大きい。
彼らは故郷に帰って隣人に、友に、家族に伝えるはずだ。
呂布奉先とは、伝説通りの武人であったことを。
だが―――。
「……まだ、足りんよなぁ」
空に向かって手を伸ばす。
力強く握り締め、大きく開くものの、蒼天を掴みあげることは出来はしない。
暖かい太陽の光に眼を細めながら、それは深いため息を吐いた。
「―――何が足りないのかな、呂布殿?」
太陽の光を背中に浴びて、逆光となっている少女が一人。
緊張も恐怖も何も無い、実に気軽な声がかかる。
この陣営で、呂布にここまで平然と話しかけることができる人物は数えるほど。
それを考えると、この声の持ち主は誰かあっさりと判明する―――それ以前に声で丸わかりなのだが。
「……論功行賞はどうした?」
「なに。私の番が終わったのでな。抜け出してきた」
寝転がっている呂布の頭のすぐ傍で、腕を組み、赤い外套を風にたなびかせて仁王立つ銀髪の魔人が、楽しげに笑いながら見下ろしている。
「おいおい、いいのか? 上から目を付けられるぜ、曹操ちゃん」
「曹操孟徳は曹操孟徳の心にのみ従う……といいたいが、上から睨まれるのも慣れているから気にする必要はない」
「なんだ、あんたは意外と上からのうけが悪いの―――よく考えたら良い訳が無いな」
今の漢朝では、如何に上司の機嫌を取るか。賄賂を贈るか。
そういったことが重要視される。
曹操が媚びへつらったり、賄賂を贈ったりする姿をどうやっても想像することができない。
「それで、だ。先程の質問を答えてもらっていないのだが、何が足りないというのだ?」
「ちっ……忘れてなかったか」
「舌打ちとは酷いな。繊細な私の心が傷ついてしまうぞ?」
「新しい冗談か。あんたほど丈夫な人間を俺は知らんぜ」
はははっと乾いた笑い声が草原に響く。
面倒くさい相手に聞かれてしまったと考えながら、寝転がったまま曹操を見上げる。
そして、気づく。仁王立ちしている曹操のほぼ真下から見上げているということもあり、そうなれば曹操の短い丈で隠された下着が見えるのは―――必然。
以前酒を呑んだときとは異なり、白と蒼の縞々。
まさか呂布の希望に添ったわけではなかろうが、彼の好みにピンポイントで直撃する下着の色だった。
穴が開くほどじっと下着を見つめる呂布の視線に気づいた曹操が、先日とは異なり余裕の笑みを口元に浮かべる。
「まさか乙女の下着を黙って見ておきながら、ただで済むと思っているのか、呂布奉先殿?」
「……いや。見たのは悪いと思うけど、そんな無防備なあんたも悪いと思うがね」
「なるほど。確かにそうだ。しかし、傷心の私は、ついつい口が滑ってこのことを誰かに言ってしまうかもしれないな」
「……誰かって誰だ?」
女人の下着を覗き見る武人。呂布奉先。
そんなことで伝説に名を刻まれでもしたら死んでも死に切れない。
むしろ、死んだ後あの世であの人にもう一度殺される。それは間違いない。
「例えば―――陳宮殿とか」
「……俺が悪かった」
計算どおりなのか、勝ち誇った表情の曹操が少しだけ憎らしい。
呂布の生活は陳宮に全て頼っている。住居も御飯も武器や馬の調達も、基本が全て陳宮頼みだ。
戦が無い時は家で食べるか寝るかの生活が出来ているのは陳宮のおかげ。そんな生活をしていても、陳宮は特に文句も言わずに働いている。もしも彼女が機嫌を損ねたら甚大な被害に陥る。
呂布からしてみれば、万の兵と戦うよりもよほど困った事態になってしまう。
「では、その対価として先程の質問に答えてもらおうか」
「そこまでして聞く価値がある質問だとは思えんが……まぁ、いいか」
曹操の下着を未だ、じっと見つめながら呂布は続ける。
「たいした理由があるわけじゃないぜ? 俺の名前を。呂布奉先の名を、歴史に刻むにはまだ足りないってなだけの話だ」
「……ふむ。私はそうは思わないが。呂布奉先の名は既に伝説。この四海において、知らぬ者は無し―――」
「ああ、違うんだ。曹操ちゃん……あんたが考えているのとは少し違う」
真剣な表情の呂布に、曹操の胸がトクンっと高鳴る。
もっとも肝心の呂布は曹操の縞々下着を見上げ続けているのだが。
「俺が望んでいるのは歴史に呂布奉先の名を刻むことさ」
「歴、史? 貴殿が亡くなった後もその勇名を語り継いでいかせたい、ということか?」
「ああ、そうだ。それも十年や五十年なんて単位じゃない。千年、二千年。それだけの気が遠くなる年月の果ての彼方にも、この時代に呂布奉先という名の人間がいたのだと。歴史に語り継がれる名を残したいのさ」
「二千……それはまた、随分と壮大な目的だ」
何を馬鹿な、と普通の人間だったならば切って捨てたかもしれない。
だが、曹操は呂布の目的を受け入れた。受け入れてなお、彼ならば出来ると考えてもいた。
曹操は、呂布が自分の名声を気にしているとは思えない。地位も名誉も金も、一切興味を示そうとしない地面に寝転がっている青年が、一体何故そこまで頑なに呂布奉先の名を歴史に刻もうとしているのかわからない。
曹操には数多の想像をすることしかできないが、静かに首を振った。
彼がそれを望んでいるのならば、止めることは決して出来ない。
他の人間が幾ら言葉を紡いでも、無駄にしかならないだろう。
いや、本当のところ、曹操孟徳は―――呂布の道を見届けたくなった。
自分の手元に置くよりも、彼の思うがままに歩き続ける道を見てみたい。
その果てに、曹操の覇道に立ちふさがるのならばそれもまた良し。
その時は曹操孟徳の全てを賭けて雌雄を決するのみ。
「貴殿と別れるのは、心を裂かれるように痛いな」
「ああ。俺もだ」
「……凄まじく嘘くさいな、貴殿の言葉は」
「おいおい。酷いやつだ。俺のこの純粋な瞳を見てみろよ」
「私の下着から目を一時も逸らさない貴殿は確かに純粋と言えるかも知れない」
「おう。それだけ曹操ちゃんが魅力的なのさ」
「ふむ。今まで数多の男から口説かれてきた我が身。美辞麗句には慣れているが、貴殿の口から紡がれる言葉には心が躍る」
自分のなだらかな丘陵を描く胸に片手をあてて、ほぅっと艶めかしい吐息を漏らす。
そんな二人だけの世界を壊すように、彼方が人の声で騒がしくなってきたところを見ると、論功行賞が無事に終わったのだろう。
「―――貴殿とはまた会いたいものだ。出来れば味方として」
「そうだなぁ。曹操ちゃんと戦うのは骨が折れそうだ。俺も祈っとくぜ」
優しい色を視線に乗せて、寝そべる呂布を愛でた後、曹操孟徳は背中を向けて去っていく。
遠ざかっていく後ろ姿を見送っている呂布は―――。
「あー、ところで曹操ちゃん。恥ずかしいなら我慢せずに言うべきだな」
「―――っ。まったく、貴殿はやはりよくわからない男だ」
驚異的な精神力で羞恥心を表に出していなかったが、実のところ下着を見られて恥ずかしくて仕方がなかった曹操。
逆行で見えにくかったが、顔を朱に染め上げていたことに呂布は気付いていた。
そんな曹操を見送った呂布のもとに、入れ違いに陳宮がやってくる。曹操が去るのが、陳宮が訪れるのが後一分でも異なっていたら鉢合わせていたのだが―――呂布はその幸運を天に感謝した。
「ここにいたか。探したぞ」
「んー。ああ、お疲れさん。論功行賞終わったのか?」
「特に問題なく。珍しく特に不満もなかったぞ」
「ほー。そりゃ珍しい」
相変わらず寝っ転がりながら、先ほどまで曹操がいた場所に今度は陳宮が佇んでいる。
生憎と彼女は下着が見えるような服装ではないため、特におもしろみを感じられない呂布は、大人しく体を起こした。
「さて、と。当分は戦は起きないだろうから、羌族か匈奴の侵入に困っている地域でも回ってみるかねぇ」
「……いや、そうとも言い切れない」
呂布の台詞に難しい顔をした陳宮が彼の意見に待ったをかける。
「黄巾の乱が平定されたばかりだぜ? さすがにすぐには何かが起きるとは思えんが」
「……一つだけ、気になることがある」
「気になること?」
あの陳宮が、ここまで渋い顔をするのも珍しい、と考えながら続きを促す。
「……董、卓という人物を覚えているか?」
「董卓?ええっと、ちょっと待て」
どこかで聞いたことがある名前だと気付いた呂布は、必死に頭を回転させて記憶を掘り起こす。
以前聞いたことがあるのは確かで、それがいつだったか思い出せない。
南か東か西か北か。どこかを放浪していたときに確実に聞いたことがある名前だ。
考え込んだのは十秒程度。それでようやく思い出した。確か―――。
「思い出した。羌族と戦っていたときに見た覚えがあるな。よくわからん奴だった記憶があるが……」
「そうだ。得体の知れない、曹操孟徳とは異なる怖さの雰囲気を持つ異質な武将。董卓仲穎」
「で、その董卓がどうかしたのか?」
「……黄巾賊の討伐に出ていたらしいが、特に戦らしい戦をしていない」
「いや、別にそれは普通じゃないか」
呂布の問い掛けに、陳宮自身も確信を抱いていないせいか口ごもる。
「あの董卓が、勝ちもせず負けもせず。黄巾討伐に出ていながら戦いもしない。それが納得がいかない。恐らくは戦力を減らしたくなかったのだろう」
「そりゃあ、気持ちはわからんでもないな。戦は金がかかるしなぁ。恩賞が確実に期待できるかどうか、今の漢朝だと怪しい。それを考えたら……」
「ああ、それなら良い。だが、董卓は黄巾の乱が平定されたというのに涼州に帰還しようともしていない。兵を増やしながら都に向かっているらしい。」
「……おいおい、本当か?」
「ああ。私の情報網が今朝送ってきたばかりだが、信憑性は高い。恐らく―――都で何かをしでかす気だ」
大体の予想がついてはいるが、あえてぼかす陳宮。
それを汲み取った呂布が、へぇっと興味深そうに口元を歪めた。
「戦の匂いがするな。こいつは、都に顔を出す価値があるかもしれん」
「……無駄足になるかもしれないが。とにかく行ってみるぞ」
勢いよく立ち上がると西方の空をじっと眺める。
呂布の視線の先―――都の方角は黒い雲に覆われていた。
それはまるで、これからの漢朝の未来を指し示すような、不吉を漂わせていた。
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夜の帳が世界を包んでいる時分。
薄暗い森に囲われた、人が決して近寄ろうとしない未開の奥地。
野生の動物しか見当たらないそんな場所に、小さなあばら家があった。
その家のすぐ傍に置かれてある巨大な石に腰を下ろし、空を見上げているのは一人の少女。
いや―――はたして、コレを少女と表現してもいいものかどうか。
小柄な、とてもこんな森の奥地にいてはいけないとても小柄な少女だった。
夜の闇の中でさえも煌く白銀のような長い髪。右目は緑柱石のように輝き、左目は紅玉の如き赤く輝いている。染み一つない美しい肌と、整った容貌。天上の世界に住まう天女だと勘違いしてもおかしくはないだろう。文官が着るような金色の刺繍がしてある真っ白な服を纏う様は、侵さざるべき不可侵の気配を自然と発している。右手に持っていた白扇を握り締め、僅かに眼を細めた少女は、静かに夜空に浮かぶ瞬く星を見つめている。
「どうなされました―――孔明様?」
あばら家から出てきたもう一人の少女が気ぜわしげに声を掛ける。
年齢的には―――孔明と呼ばれた少女よりも幾分か年上に見えるもののそれでも少女という単語の年齢から抜けることは無い。孔明と同じく、不可思議な瞳の色をしているのが印象的だ。右の瞳は紫水晶の如き色合いで、左の瞳は緑柱石と似通っている。淡い緑の長髪と、孔明とは対照的な甲冑を着込んでいた。さらには人目を引くのが頭でピコピコと自己主張をしている猫の耳が二つと腰から生えている猫の尾。到底作り物とは思えない、それは人外の証明に他ならなかった。
そんな猫耳少女に答えようとしない孔明だったが、やがて持っていた白扇を夜空の一画へと向ける。
「アレを見よ、姜維」
「……あの星が何か?」
「消えてはならぬ巨大な三つの星に囲まれるようにして煌く凶星。長き時を生きる私とて、あのような星を見たことは無い」
師である孔明の言葉に、姜維は耳を疑った。
万象全てを知る師のこのような台詞を聞いたことが無かったからだ。
「あの星を背負うものは、本来ならばこの世の歴史を紡ぐ筈の三つの巨星さえも飲み込み、戦乱の世を作り出す。まさしく禍つ大凶星。天と地を乱す、人を外れた人―――化生の類よ、アレは」
「……それほどの、者ですか」
「私が人を導く義理などないが、このままでは人は光なき世を進むことになるやもしれん」
「それでは、孔明様!?」
師の言葉に、ぴょこんっと猫耳を震わせて姜維は思わず声を荒らげた。
「うむ。この者を見届けた後、私も表舞台に立つときが来たようだ」
開いていた白扇をパチンっと閉じた後―――伏龍諸葛亮孔明は、陶然と己の弟子に微笑んだ。