天下無双   作:しるうぃっしゅ

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七話  呂布と曹操

 

 

 孫堅と孫策の姿を見送った呂布と曹操だったが、どちらともなく顔を見合わせて苦笑する。

 独自の情報網を持つ曹操だからこそ、孫堅達の名前を知っていたが、四海においてあの二人の名前はまだそれほど広まってはいない。だからこそ、呂布も孫策の名前を知らなかったのだ。

 ただでさえ、孫堅達がいるのは南方。一言で言ってしまえば田舎の方なのだから、そちらで勇名を馳せていても中華の中心である北方では無名であって然り。

 

「ところで、こんな夜更けに出歩いてどうかしたのかな、呂布殿?」

「ん。あぁ、あんたを探してたんだよ、曹操ちゃん」

「私を?」

 

 奇襲をくらった時でさえ平然としているだろう曹操が、キョトンっとする様が普段との落差が激しく非常に可愛らしくさえあった。

 方天画戟を片手で持ち、もう片方の手に持っていた大き目の徳利を曹操の目の前に掲げる。

 

「あんたとは一献是非にと思ってたんだが。今夜の都合は悪いかね」

「……なんと」

 

 呂布の思いもかけない提案にまるで百面相のように、変化していく曹操孟徳の表情に、してやったりと呂布は内心で自分の行動の成功に喜んだ。

 この銀髪の魔人とは一度話をしてみたいという欲求はあったが、ただ誘っただけでは面白くない。

 そういうわけで、突然の奇襲をしかけていたが、どうやらその効果はあったみたいで、自分が誘われたことに暫しの間驚いていたが―――やがて満面の笑顔で頷いた。

 

「それは嬉しい誘いだ。私も呂布殿とはゆっくり話をしてみたいと思っていたが……どうやら相思相愛みたいで嬉しいな」

 

 裏の無い曹操の発言に、今度は呂布が虚をつかれる番であったが、そういった冗談めいた求愛の言葉は陳宮で慣れている。

 もっとも彼女の言葉には不思議な力がこもっており、一言二言話しただけで魅了するような怪しさがあった。

 

「さて、どこで飲もうか。できれば静かに飲める場所がいいんだが」

「ふむ。であるならば、私の幕舎はどうだろうか? そういったことに煩い者がいるが、確か今夜は席を外しているはずだ」

「そりゃいいねぇ。俺のところは喧しいのが一人いる」

「はっはっは。きっと貴殿のことを心配してるが故にだろう」

「それはわかっているんだがなぁ……」

 

 まるで十年来の友のように気軽に会話をしながら、曹操の幕舎へと歩みを進めるが、そこまで遠い場所ではなく僅か二、三分程度で到着する。

 幕舎の大きさに自分のところとは大違いだと感嘆しながら、曹操とともに近づいていくと一人の女性―――いや、少女の年頃だろうか、慌てて駆け寄ってきた。

 

 美しく長い黒髪を後ろで縛っている。

 迷いの無い瞳。感情を見せない表情。しかし、それが少女の美を引き立たせていた。

 可愛らしいというよりは美人と評したほうが相応しい。

 曹操よりも随分と背が高く、女性としては長身にあたる。孫策伯符と同程度だろうか。

 手にもつ長槍が異彩を放ちながらも、彼女の立ち振る舞いから只者ではないことが一目でわかる。

 

「……ん?」

 

 よくよく見れば、どこかが曹操に似通っていた。

 顔の造りや、目元など。曹操と瓜二つとまではいかないまでも、彼女を連想させるイメージを受ける。

 ただし、曹操孟徳の覇王の雰囲気までは似通ってはいない。だが、少女が纏う武人としての空気はそこらの者と一線を画す。

 

「そ、曹操様!? 供もつけずにどちらへ!?」

「なに。すぐそこまでだ。誰かを連れて行くまでもないと思ってな」

「し、しかし……何かあっては……。あれ、こちらの方は?」

 

 訝しげに氷の表情のまま、隣に立つ呂布へと視線を送る。

 黒い甲冑と兜の武人。即座に官軍で噂になっている呂布奉先ということを察した少女の視線がさらに鋭くなった。

 主に害を為す相手ならば例え呂布だろうが斬り捨てる。そんな覚悟を秘めた少女の瞳に、ぞくりっと呂布の遊び心が刺激されつつあった。

 

 全くどうしてこの軍は自分を怖れも恐れも畏れもしない武人が多いのだろうか。

 どしようもないほどに、呂布の心が躍る。心が震える武人が、あまりにもこの場所は多すぎる。

 

「落ち着け、子廉。呂布は私の客人だ」

「……それは失礼致しました」

 

 曹操の屈託の無い笑顔を向けられ、子廉と呼ばれた少女はようやく呂布への視線に敵意がなくなった。

 だが、どんなことにも対応できるように、警戒だけは解いていない。

 武人としてなかなか将来性に溢れた少女に自然と口元が綻ぶ。

 

「この娘の名は曹洪。字は子廉。歳の割には落ち着きがあって頼りになる」

「……歳の割にはと言われても、幾つかわからんので何とも言えん」

「それもそうか。確か今年で十七になるのだったか?」

「はい。呂布殿。曹子廉と申します」

 

 見かけ同様に元々口数が少ないのか、言葉少なに自己紹介をすると口を閉ざした。

 それと同時に十七、ということに表情に出さずに驚きを隠すことに苦労した呂布は、曹洪の全身を軽く見渡す。

 随分と大人びている少女なのは間違いない。特に胸元が、曹操とは桁外れに違っている。恐ろしいまでの戦力差を見せ付けて、曹洪は静かに佇んでいた。

 

「というか、俺はお前の年齢の方が知りたい」

「なんだ、呂布殿? 私に興味があるのか? だが、女性に年齢を聞くのは少々頂けないな」

「……曹洪殿の年齢をあっさりと答えたお前がそれを言うのか?」

「子廉はまだまだ若いから問題ないのだ。私とてそこまで若かったら躊躇い無く答えるさ」

 

 肩をすくめる曹操に対して、呂布はああっと口に出すと。

 

「なんだ、三十路に近いのか? 安心しろ全然見えん」

「失敬な!? まだ十九歳だ!!」

「……お前も気にする歳じゃないだろう」

 

 反射的に怒鳴り返してきた曹操に、ため息一つ。

 まだ二十にもなっていないのに拘る理由がいまいちわからない呂布だった。ちなみに陳宮に同じことを聞いたら本気で怒られるのだが―――二十代を半ば越えた彼女には死活問題なのだろうか。

 

「あれ、子廉? 孟姉見つかったの!?」

 

 やけに甲高い声が響き、新たな乱入者が現れた。

 赤い鎧をまとった幼い少女。長剣を背に、駆け寄ってくる姿は何故か子犬を連想させる。

 三人のもとまで近寄ってきたのは、曹仁子考。

 どこかで見た顔だと頭を悩ませた呂布は、数日前に曹操と初めて出会ったときに、彼女の背後に控えていた人物だということを思い出す。朱儁に妹だと紹介していた少女で、名前は―――。

 

「曹、仁殿だった……か?」

 

 うろおぼえではあるが、記憶のなかの断片を繋ぎ合わせて、曹仁の名前を思い出すことに成功した。

 突然名前を呼ばれた曹仁は、黒尽くめの甲冑の武人を見上げながらしばし考え込む。

 曹仁は兜で顔を隠す前の呂布を知っている数少ない人間だが、それ以降顔合わせをしてはいない。そのため、目の前の武人が呂布だと気づいていなかった。

 それに勘付いた曹操が曹仁の耳元で、この者が呂布奉先だ、と囁く。

 

 曹仁は呂布の爪先から兜の先まで視線をいったりきたりさせると―――。

 

「お、お前が呂布奉先だってこと、私は気づいていたんだからなー!!」

「……ああ、うん」

 

 曹仁の雄叫びに、呂布は黙って頷いた。

 この場で一番小柄ながらも、そして一番平坦な胸を力一杯反らし呂布と相対する曹仁を見てどう対応すればいいのかいまいち彼にもわからない。

 

  

「気にするな。子考は何時もそのような感じだ」

「……そうか。いや、曹操ちゃんのところは良い武将が揃っているのだな」

「本心からの言葉か、呂布殿?」

「……勿論だ」

 

 赤い瞳でじっと見つめてくる曹操から、ついつい視線を逸らしてしまった呂布。

 シンっと静まり返る三人とは異なり、曹仁だけは胸を張って喜んでいる。伝説の武人に褒められたことが嬉しいのか、彼女の表情は満面の笑顔だった。

 

「ま、まぁ。私はこれから呂布殿と少々話がある。外の警備は任せても良いか?」

「……わかりました」

 

 呂布と二人で話をするということに危険と警戒を最大限まで高めるが、主である曹操の言葉に異論を唱えるわけには行かない。内心では不満ありありといった様子の曹洪だったが、表情にはあまり出ていないところを見た呂布が、本当に彼女は十七歳なのかと疑いをもつほどであった。 

 

「ええ、孟姉!? 呂布と二人っきりなんて危ないよ!?」

 

 曹洪とは対照的なのが曹仁である。

 目の前に呂布がいるというのに、平然とこんな発言をしてしまうのは、器が大きいのか何も考えていないのか。

 

「なに。二人が心配することは何も無い。むしろ私が呂布殿と二人っきりで話をしたいと願っていたのだから」

 

 ぽんっと曹仁の頭に手を置いてわしわしと撫でる。

 髪が乱れてしまったが、そんな曹操の手の心地よさに曹仁は夢見心地だった。

 尻尾があったならば、千切れるんばかりに振っているのは間違い無い。嬉しさ爆発。それを身体全体から滲ませていた曹仁を置き去りに、曹操と呂布は幕舎の入り口の布をかき上げて中へと入っていく。

 

 内部は他の幕舎と変わりがなく、戦場らしい簡素な造りとなっていた。

 見栄に拘る武将ならば、豪勢に飾ったりもしているが、少なくとも曹操にはそういった趣味は見られないようだ。

 

 二人は腰を下ろすと、一息つく。そして気づいた。

 酒は持ってきたが、肝心の盃がない。駄目元で曹操と一献やるという目的を持ってやってはきたが、今先程の思いつき故に、大切なところが抜けている。

 しまったなっと考え込んだ呂布に気づいたのか、曹操は近くの整理されてない荷物に手をかけた。

 立ち上がるのが面倒だったのか、四つん這いになって荷物をごそごそと漁る姿は、どうにも昼間に兵士達に見せている毅然とした曹操孟徳と同一人物とは思えない。

 しかも丁度呂布へと腰を向けているのだが―――元々曹操の服装の下半身部分の丈は非常に短い。

 辛うじて下着が見えることを防いでいるのだが、四つん這いになれば、その丈の短さが災いするのは当然で―――。

 

「むぅ……どこにしまったか。確かここらへんに入れておいたと思ったが」

 

 なかなか見つからないのか荷物のあちらこちらに手を入れて探っている。

 

 床に投げ出されている両足。白く眩しい太股。そこが続く丸い尻の曲線。

 細く、長く、きめ細かい肌にをした下半身が誘うように揺れている。

 彼女の肌と同色の純白の下着が、ちらちらと呂布の視界に入ってくることに、どうするべきか悩む。

 このまま眼福と思って見続けるべきか。それとも気づいていない曹操に忠告するべきか。

 

「……なぁ、曹操ちゃん」

「ん? もう少し待ってくれないか。多分もうすぐ見つかるとは思う」

「いや、それよりも一つ言って良いか?」

「ああ。別に構わないが……?」

 

 四つん這いのまま振り返った曹操が、何事かと首を捻る。

 

「白、好きなんだな。俺も好きだが、次は縞々を頼む」

「……はっ?」

 

 一体何を言ってるんだこいつは、と何の脈絡も無い呂布の発言に眉を顰めた曹操だったが―――呂布の突き刺さるような視線が自分の下半身に向いていることに気づく。

 そして、呂布の発言を思い返し、己が今日穿いていた下着の色をさらに思い出す。

 

 沈黙。静寂。

 全身の血液が沸騰したかのように熱くなり、顔を朱に染め上げた。

 

「ば、ば、ば、馬鹿者ぉ!?」

 

 悲壮な声をあげた曹操は、荷物の中に突っ込んでいた手が堅い何かを掴み上げ、反射的にそれをおもいっきり呂布へと投擲する。しかも飛んでくるのは何やら堅い物体が二つ。

 常人だったならば視認も出来ない速度で飛来したソレを、呂布は驚くことも無く片手で二つとも受け止めるが一体なにを投げてきたのか確認すると、偶然なのか天の定めなのか、曹操が探していた盃であった。

 

「おお、ようやく見つけたか。さぁ、一献やろうぜ」

「な、な、な……言うに事欠いて、それか、貴殿は!?」

 

 曹操が顔を赤くしたまま詰め寄ってくるが、呂布は被っていた兜を外して横に置く。

 ふぅっと息を吐くと、迫ってきていた曹操に受け止めた盃のうちの一つを手渡して、屈託の無い笑みを浮かべた。

 

「まぁ、気にするな。下着は見られても減りはせんよ」

「減るんだ!! 主に私の気持ちが!!」

「そうなのか? 良いものが見れて嬉しい俺がいるから互いに相殺されて丁度いいな」

「なるものかっ!!」

 

 暖簾に腕押し状態の呂布を相手に、言い寄っても無駄だと理解したのかどこか疲れたため息を吐いて曹操は盃を受け取ると呂布の目の前にて改めて座り直す。

 そんな曹操の盃に徳利から酒を注ぐと、彼女はひったくるように徳利を呂布から奪い取り、酒を注ぎ返す。

 互いになみなみと酒がつがれた盃を片手に持つと、その盃を前に差し出し―――。

 

「さて。乾杯といくか」

「……全く。私も面の皮が厚いと良く惇に言われるが。貴殿には負けるぞ」

「褒め言葉として受け取っておこうか。では、俺と曹操ちゃんの出会いに―――」

「呂布殿と私の出会いに―――」

 

 

「「乾杯っ!!」」 

 

 

 チンっと盃をかるくぶつけ、小気味の良い金属音が幕舎に響き渡る。     

 二人は同時に盃に口をつけると、一息で飲み干した。

 

 呂布が用意した酒を毒味もせずに呑んだ曹操の度胸に感心しながら、徳利から新たに酒を注いでいく。

 本来ならば曹操ほどの立場の人間ならば、毒味役を用意して然るべきだ。   

 現に朱儁や皇甫崇といった将軍は何かを食すとき常にそういった役目を担った者が側に侍っている。

 呂布が毒を仕込む可能性を考慮していないのか、信頼しているのか不明だが、曹操は赤い瞳をより一層強く輝かせて注がれた酒に舌鼓をうっていた。

 

「ふむ。これはなかなかに旨い酒だ。ただの安物とは違うな」

「ああ。朱儁将軍のところから失敬してきた代物だぜ? そこらの兵士が呑んでいる安酒と一緒にされたら困る」 

「……譲り受けてきたもの、か?」

「いや。盗んできた」

「……」

 

 平然と言い切る呂布に、曹操は一体何度目になるかわからない微妙な表情になるが、遂に我慢出来なくなったのか―――。

 

「くっ……ははははは!! あはははははは!!」

 

 破顔一笑。曹操は呂布の前でありながら、腹を抱えて笑い転げる。

 そんな様でさえ絵になるのだから、曹操孟徳という少女は恐ろしい。

 幕舎の外では突然聞こえた主の爆笑の声に曹洪も曹仁も何事かと気が気ではなかったが、無断で入るわけにもいかず悶々とした様子で警備にあたっていた。

 

「いやぁー笑った笑った。本当に貴殿は面白いな、呂布殿。私も多くの人間に会ってはきたが、貴殿程私の興を惹く者はいなかった」

 

 目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭いながら、笑顔のまま盃に残っていた酒を飲み干す。

 そこに呂布は阿吽の呼吸にも似た動作で徳利から酒を注いでいく。

 

「ああ、すまない。本来ならば私がつがなければならないのに申し訳ない」

「いや、気にしなさんな。酒を呑む時は小難しいことを考えても仕方が無い。酒が不味くなるだけさ」

「くくくっ……違いない」

 

 改めて呑む酒は、何故かこれまで飲んだ中で一番美味いと感じる。

 きっと一緒に飲んでいる相手が呂布だからだろう。まだ会って間もないが、何故か彼と共にいることが心地よく感じてしまう。伝説の武人だからではなく、彼本人の魅力が曹操孟徳を惹き付けてやまない。

 

「お前は不思議な女だな、曹操」

 

 呂布が盃に注がれている酒を見ながら独白するように呟いた。

 突然の発言。しかも、今までちゃんづけしていたくせに、呼び捨てで曹操の名前を呼ぶ。

 無礼な、と怒る気も不快な気分もしない。逆に心のどこかがそれを喜んでいる。

 

「立ち振る舞いは武人そのもの。戦を指揮する姿はまさしく覇王の如し。それだけではなく、謀略や政にも秀でているはずだ。それ以外にも、お前には出来ないことはないと、会ったばかりの俺でさえも自然と理解できる」

 

 呂布の予想は的を射ている。

 曹操孟徳という少女は詩も読めば、歌も歌う。絵にも精通し、踊りさえ嗜んでいた。

 あらゆる芸能に秀で、その道で名を馳せる者でさえも彼女の才に頭を下げる。

 

 だが、それらは所詮曹操孟徳を構成する僅かな片鱗に過ぎない。

 

 彼女の本質が、いまいち掴めない。

 呂布の目から見ても、こうして酒を酌み交わしていても、それでも理解が及ばない。

 呂布奉先という天下無双の武人でさえも、乱世の覇王たる曹操の全てを知ることが出来なかった。

 

「……だからこそ、お前に惹かれる。こんな気持ちは久しぶりだ。ここまで誰かを知りたいと思ったのは、あいつ以来だ」

「ふむ。なかなかに嬉しいことを言ってくれるが……あいつ以来(・・・・・)というのが若干の癪に障るな。どうせなら貴殿の初めてになりたかったものだが」

「そりゃ、欲張りってもんだ。二番目で我慢しておけ」

「それで我慢できないのが曹操孟徳なのだ」

 

 薄い胸に手をあてて語る曹操は、まるで愛を囁くようにも見えた。

 

「お前の言葉をそっくりそのまま返そう、呂布よ。私もお前が知りたい。お前という人間の真実を知りたい。戦場にただ一人狂い咲く大輪の黒き花よ。お前は私の心を惹き付けてやまない。お前は、これからどう生きる? 私の敵として生きるのか。それとも私の覇道とともに生きるのか」 

 

 カツンっと盃が再び音を高鳴らせた。

 何時の間にか二人の距離はさらに近づき。

 見詰め合う瞳は、まるで磁力を発しているかのようで、視線を逸らせない。

 互いの息遣いが聞こえ、匂いが鼻につく。

 曹操の甘い香りが。呂布の汗の匂いが。

 

 二人の体臭が両者の正気を奪っていくような錯覚。

 どこまでも堕ちていく様な―――。

 

「孟姉!! 惇兄どこ行ったか知らない……って、何やってるの?」

 

 突如布幕をまくって現れた曹仁だったが、戦場でも滅多に見せない超速度で飛び退いて間合いを取った曹操が呼吸も激しく、頬を赤く染め幕舎の隅っこに背中をつけているのとは逆に、平然と苦笑しながらも盃を呷った呂布という光景に、首を捻る曹仁。

 雰囲気をぶち壊された二人だったが、普段見られない姉の姿に頭を捻らせる曹仁を追い出した後ここからさらに二人で深酒を続けるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 朱儁と皇甫嵩の軍が合流した翌日。

 朝一番の早馬で運ばれてきた伝令からの木簡を眼を覚ましたばかりの皇甫嵩は、目を見開いて幾度と無く読み直す。

 まさか、と思うような内容がそこには書かれており、それを理解した彼女は慌てて主だった武将を陣幕に呼び寄せた。

 

 皇甫嵩の陣幕に集められたのは朱儁を初めとして、将軍直属の武将。

 それ以外には陳宮と呂布。劉備玄徳に曹操や孫堅と孫策といった人間も皇甫嵩の計らいで同席することを許されていた。

 

 曹操や孫堅はまだしも、呂布や劉備といった武将まで呼ばれるところを見るに、皇甫嵩の彼らへの期待の大きさが理解できる話である。

 

 朱儁や多くの武将が眠たい目をこすりながら座っているのだが、それも仕方ない。

 まだ朝六時という早い時間なのに加えて、昨日は随分と深酒をしていたことも理由の一つにあげられるだろう。

 

 それに対して孫堅や曹操は身嗜み一つとってもしっかりしており、朱儁との差が浮き彫りになっていた。

 ちなみに呂布や劉備はどちらかというと朱儁寄りである。彼らもまた、昨日は寝るのが遅かったのだ。

 

 劉備は自分の兵士達と朝までどんちゃん騒ぎ。

 対して呂布は、孫策達と別れた後に曹操に誘われて一対一で酒を呑んでいたのだが、途中で二人の姿が見えないことに気づいた夏侯惇と陳宮が凄まじい形相で割って入ってきて、呂布は引き摺られて帰っていったという後日談があった。

 結構な量を飲んだというのにけろりとしている曹操に末恐ろしいものを感じながら呂布は欠伸を噛み殺す。

 

 木簡に書かれている内容を朱儁は舟をこぎそうになりながらも見ていたのだが、果たして内容がわかっているのか不安になってくる皇甫嵩。

 その予感は的中しており、内容を読みながら特に慌てる様子も見せない朱儁に、頭痛を感じながらため息をついた。

 しかし、ようやく内容を飲み込めたのか、カッと目を見開いて木簡を握り締めながら立ち上がる。

 

「張宝めが、青州にて全土の黄巾に召集をかけておるだと!?」

 

 朝の静寂を切り裂く朱儁の雄叫びに、陣幕の中にいる武将がようやく理解できたのかといった目で見てくるが、それに気づくことは無かった。

 この将軍はもう駄目だと、心底考えながら陳宮は冷たい視線を送っているが、これくらい愚かなほうが扱いやすくて助かるという気持ちもあるので、その視線は若干生暖かく変化していった。

 

 

「逃げも隠れもせぬとは、なんとも思い上がった愚か者よ!! 次の戦は我らと黄巾賊の総力戦となるだろう!! 皆の者、心してかかれ!!」

 

 先程まで眠たげにしていたとは思えないほどの苛烈さで吠える朱儁の声を頭の隅に留めつつ、皇甫嵩は先日の黄巾賊の行動に合点がいったと内心で頷いていた。

 官軍と向かい合っていながら、突然の撤退。普通ならば撤退している軍の尾から蹴散らされて終わりだ。

 張宝の強かさを知っていた皇甫嵩だったために、何かしらの罠だと読んだために全軍で追撃することはなかった。だからこそ、張宝は命を拾えたといっても過言ではない。いや、もしかしたら張宝は皇甫嵩の性格と思考を読みきった上での撤退だったかもしれない。賊将にしておくには惜しい相手だと、本気で考えながら彼女はもうひとつの木簡を握り締める。

 

 それだけの危険を冒してなお、張宝達が撤退した理由。

 それはやはり―――。 

  

「敵将である張角は、病に臥せっているということでしたが……」

「はい。余命いくばくもないとのことですが」

 

 皇甫嵩の独り言に、平伏した曹操が短く返す。

 握り締めた木簡に目を落としながら、皇甫嵩は朱儁よりも余程頼りにしている曹操へと視線を送った。 

 

「曹操殿。張宝の動き。貴殿はどう見ますか?」

「はっ……察しますに、張角は既に亡き者かと」

「……私も同意見です。張宝は三人のうち二人の指導者を失ったために焦っているのでしょう。ただ一人残された自分にまだ求心力があるうちに決戦を仕掛けようとしている、といったところでしょうか」

 

 曹操と同じ考えだったことに、より一層自分の辿り着いた結論に自信を持った皇甫嵩が、陣幕にいる全員に聞こえるように静かに、だが力強く呼びかける。

 そして、数日前に張宝が退いた時に呂布が語った予想が的中していたことに内心で驚きを隠せなかった。

 あくまで予想だったとはいえ、これが呂布奉先の戦場における第六感なのか、と改めて伝説の武人に恐れと畏れを抱く。

 

 だが、味方であるならば心強い。

 呂布奉先。曹操孟徳。夏侯惇元譲。劉備玄徳。関羽雲長。張飛翼徳。孫堅文台。孫策伯符。

 これだけの破格の才ある者が集まる官軍。

 誰が相手であっても敗北することは決して有り得ないだろう。

 皇甫嵩は、果てが何時とも知れない黄巾の乱の終焉を感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 軍議は青州へと進軍を開始するということを伝えられ解散となった。

 各々進軍の準備をするために散っていく中で、呂布と陳宮もまた陣を歩いて行く。

 行き交う兵士達は、既に呂布の名と姿を知らぬ者はいない。というか、漆黒の鎧と兜で着飾っている長身の人物。しかも方天画戟という巨大な兵器を持ち歩いている呂布の姿は官軍の中でも一際浮いている。

 いやがおうでも目立つのは無理なかろう話だ。

 

 恐怖を滲ませて散っていく兵士達。

 それらを目の端に捉えながら、顎に指をあてて隣にいる陳宮に語りかける。

 

「敵の数はどれくらいになるんだろうな」

「……黄巾の総数は数十万とも言えるが、各地でかなりが平定されたとも聞く。それに元々暴れたいだけで参加した者もいるだろう。そういった者達は旗色が悪くなってきている現状、逃亡するのがおちだ」

「そうだろうな。地方の奴らなんざ、そういった奴が多いだろうが」

 

 呂布は特に敵の戦力に対して心配をしているわけではない。

 今のこの腐りきった漢朝が治める天下。それに対してどれだけの人間が命を賭けてまで不満を、憎しみをぶつけるであろうか。それに関しては、呂布とて興味を抱く。

 

 或いは官軍の総兵数を超えるかも知れない。

 もしくは、兵の数が官軍には及ばなかったとしても、黄巾のあの死を恐れない蛮勇が、官軍を打ち破るかもしれない。

 呂布とて正直な話、黄巾よりも官軍を相手取ったほうが余程楽である。

 

 失笑しそうになった呂布だが、いやっと首を振った。

 確かに官軍の方が手応えはないだろうが、こちらには曹操孟徳がいる。関羽雲長がいる。孫策伯符がいる。

 生半可な相手ではなく、まとめて相手取れば生死を削る戦いを期待できるが―――今はまだ官軍から離反することは考えていない。呂布の第六感を信じるのであれば、黄巾賊と官軍の戦いは、もはや勝敗は決定している。間違いなく官軍の勝利は揺るがない。例え呂布が黄巾賊に手を貸したとしても、時代の流れは呂布をも呑み込むだろう。

 如何に一騎当千といえど、この流れを止めることはできないことは彼自身が理解している。あくまでも呂布は、自分の名前を歴史に残すことしか考えていないのだからこのようなところで負け戦にかまけている暇はない。

 

「しかし……一つ気になることがある」

「んー? 何かあったのか?」

 

 難しい表情の陳宮が、周囲に目を配りながら小さな声で囁いた。

 相変わらず深読みするのが好きな奴だと、十年来の相棒に耳を傾ける呂布奉先。

 

「……あの張宝は、死に急いでいるようにも見て取れる」

 

 それは若干呂布も気にかかっていたことだ。

 全土の黄巾を召集。言ってしまえば負ければそれで終いの総戦力での戦を行うということだ。

 黄巾にとっては、それはあまり宜しくない。どちらかというと漢朝の方が具合が宜しいといえる。

 例えば中央から遠い地方政権を倒して乗っ取ってしまえば、後はその地を中心として太平道を広げていけば良い。

 今の求心力が低下した漢朝にとって、乱を長引かせれば長引かせるほどどんどんと疲弊していく。戦争をするのにも金や物資が必要だ。その分を無理矢理にでも民から徴収しなければならない。そうすれば、民の心は自然と黄巾へと向かっていくだろう。

 

 しかし、張宝はそれをしない。

 まさか気づいていないという訳は無い筈だ。

 まるで自分に注目を集めながら行動しているような違和感。

 もはや残されたただ一人の指導者。どうして、その張宝がこんな博打に出たのか、それが陳宮には読み切れなかった。 

 

 

「どっちにしろ難しいことを考えても仕方ないさ。そんなことはお偉いさんに考えさせておけば良い」

「……それもそうだな。私たちは私たちの目的のために突き進むのみ、だ」

 

 この場で幾ら考えようとも所詮は予想に過ぎない。ならばこれ以上考えても言葉通り無駄なことだ。

 二人が自分達の陣幕の方角へと向かっていたその時、遠くで陳宮の名を呼ばれる。一人の兵士が手を振りながら近寄ってきていたが、呂布の姿を見るや否や、足がぴたりと止まった。

 

「どうかしましたか?」

 

 自分に対しては遠慮も何もないぶっきらぼうとも言える言葉遣いだが、それ以外にはわりと丁寧な口調で会話をする。

 その口調に背筋が痒くなる呂布だったが、それを見越した陳宮が、兵士には見えない角度で肘を脇腹に叩き込んできた。

 たいした痛みはないが、陳宮らしい無言の抵抗に、やれやれと肩をすくめながら陳宮から距離を取ると、素知らぬ方角へと視線を向けて立ち尽くす。

 陳宮に声を掛けてきた以上、何かしらの用があったのだろう。自分が居ては会話もままならないと判断をしての行動だった。

 

「そ、その兵站のことでご相談が……」

「……」

 

 ちらりっと離れている呂布を見た陳宮に対して、軽く頷く。それを見た陳宮は、兵士と共に場所を移動する。  

 文官として朱儁の下で活動している彼女は、最初はそうでもなかったが、今では周囲の人間から随分と頼りにされていた。元々頭の回転は速く、そういった裏方の仕事を得意とすることもあり、あまり有能な人材がいない朱儁軍にあって、陳宮に聞けばなんとかなるだろう、といった空気が蔓延している。

 基本的に呂布の傍を離れることは無いが、官軍に世話になっている以上、手透きの時は多少は協力しているのだから大したものだと彼は見えなくなった陳宮の後姿を見送った。

 

 

「全く。俺には真似できんねぇ。頭の良いやつは大変だ。そうは思わんかい、劉備殿?」

「おぉ、なんだ。俺に気付いてたのかい? いやー流石は天下無双!! すげぇな」

 

 

 近くの陣幕の影から歩み寄ってきたのは、劉備玄徳だった。

 昨日の酒が残っているのか、眉を顰めながら片手をあげて呂布に気安く声を掛けてくる。

 そんな劉備の姿に周囲にいた兵士達は、得体の知れない薄気味悪さを彼に感じた。呂布の機嫌を損ねれば、気がつかぬまに殺されてもおかしくはない。

 会話一つ注意しなければできない相手に対して、普通に接する劉備の姿が異様に映っても仕方ないだろう。

 

「官軍に加わって間もないが、随分と手柄をあげたみたいだな」

「はっはっはっは。いやー、俺は特になにも手柄をあげてないさ。全部関羽と張飛のおかげだ」 

 

 何の含みももたせない満面の笑顔でそう語る劉備が、多少意外だったのか呂布は、感心したのかほぅっと小さく呟いた。

 確かに官軍に流れている噂では、関羽と張飛の話題で持ちきりだ。圧倒的な力を見せつけ、黄巾賊の将の一人を討ち取ったのだと。軍の中でも曹操に次いで名を馳せるようになった武人達。それとは対照的に、劉備の噂はあまり聞かない。

 あくまでも関羽と張飛の主上ということになっているが、特別な武功をあげたのでもなければ、陳宮のように文官として功をあげたのでもない。

 

 そんな劉備玄徳だが、関羽と張飛の手柄を自分のことのように言葉にださない。

 それどころか、彼女達の手柄だと認めた上で素直に称賛している。嫉妬といった感情がないことくらい向かい合って話せば理解するのは容易い。

 

「……すまんな、劉備殿」

「ん? 何がだ? 呂布殿に謝られるようなことはされてないんだが」

「気にするな。俺が謝罪をしたいからしただけだ」

「お、おぉ。よくわからんが確かにその謝罪受け取ったぜ」

 

 呂布が口にだした謝罪は、自分が劉備玄徳を見誤っていたことに対してだ。

 彼が劉備達義勇軍が官軍に加われるように皇甫嵩に口ぞえしたのは、関羽雲長と張飛翼徳という二人の一騎当千の武人がいたからだ。正直な話を言うと、呂布は劉備を二人のオマケ程度にしか考えていなかった。

 だが、こうして腰を落ち着けて話してみれば、はっきりとわかる。

 

 普通の人間では理解できない筈だ。

 武に優れているわけでもない。智に優れているわけでもない。

 だが、それでも何故か惹かれてしまう。この男を自分が支えなければならない、と思わせてしまう人間的な魅力が確かにあった。

 この男―――劉備玄徳という男は、天下を包み込む器なのだと、呂布は心の隅で確信を得た。

 

 

 乱世の覇王である曹操孟徳とは対極に位置する人徳の王たる者。

 不思議と呂布はこの男の行く末を見届けたくなったが―――。

 

 それでも、呂布はそれが出来ない理由がある。

 劉備玄徳は乱世を憎む男だ。民のため。民の平穏のために心血を注ぐ。

 

 だが、まだそれを認めることは出来ない。

 呂布奉先という男には、まだ戦に狂うこの地獄のような世界が必要なのだ。

 呂布という名前を。天下の隅々にまで轟かせるために。これからの中華の歴史に延々と語られるために。

 悪名であれ。勇名であれ、構わない。

 

 呂布奉先が、確かにこの時代を生き抜いた。

 決して敗北することなく、絶対不敗の名の下に戦い続けたという証を刻まなければならないのだ。

 

 そのためならば、男も女も子供も赤子も―――どれだけの民が死のうと、構わない。

 あらゆる骸を積み上げ、踏み越える覚悟が彼にはあった。

 

 そして、それを知った時劉備玄徳は、呂布奉先を許さない。

 乱世を欲し、願い、続かせる。

 劉備玄徳とも曹操孟徳とも異なる修羅道。それを歩む呂布を、誰もが認めないだろう。

 中華すべての民に、憎まれ、恨まれ、怖れられ。誰一人として理解されない道を行く。

 

 それでも、呂布の歩みに迷いは無い。

 

 天下無双を名乗ることを決めた時から、彼の修羅道を妨げるものは存在しない。

 

 その全ては呂布奉先の名前を真の意味で伝説に刻み―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――そして、俺が。呂布奉先ではなくただの(おれ)が、お前(・・)を殺す。完膚なきまでに。骨の一欠けらも。塵芥も残さず、灰燼と化してやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 凄絶なまでの覚悟。

 己の生きる道を再確認した呂布の表情は、冷たくも燃え盛る灼熱。

 矛盾した氷と炎を孕んだ危険な雰囲気を漂わせ、周囲の人間を圧迫していた。

 

 それを目の前で全身に浴びた劉備は冷や汗を流しながら―――それでも笑顔を崩さない。

 それだけでも劉備玄徳の器の大きさがはっきりとわかる。

 

「お、おいおい。呂布殿よぉ……もうちょっと抑えちゃくれないか?」

「―――ああ、すまんな」

 

 我に返った呂布は、申し訳なさそうに頭を下げる。

 ついつい昔のことを思い出して、物騒な気配を出してしまったことを反省しながら、頭を軽く下げた。

 そんな呂布に対して劉備の態度は実に気持ちのいいものだった。いいってことよ、と笑いながら呂布の肩をバンバンと音が鳴るほど力強く叩く。

 それを見ていた兵士達は、今度こそ腰が抜けそうになるほど驚いたものの、呂布は特に気にすることもない様子に、さらに驚かされる結果となった。

 

「りゅ、劉備殿ーーー!!」

 

 二人で話し込んでいる最中、突然女性の声が遠くから聞こえ、徐々に近づいてくる。

 誰かと思いきや、官軍でも噂にあがっている一騎当千の猛者。関羽雲長だったのだが、何時も涼やかな彼女にしては珍しくどこか焦りを滲ませて慌てている様に劉備が首を捻った。

 

「おう。どうした、関羽? 何か面倒なことでもあったのか?」

「な、何を暢気な!! 凄まじい気配が立ち昇ったが故に、心配になって探していたのです!!」

「……だってよ、呂布殿?」

 

 はははっと面白そうに笑う劉備に、これはまずったと呂布が深々とため息をついた。

 ある程度の力量の武人ならば先程の呂布の気配を間違いなく感じ取ることができたはず。昔のある人物のことを思い出していたがために遠慮も何もない純粋な殺意を発していた呂布の気配はそれはもう、関羽の言うとおり凄まじい領域に達していただろう。

 これから後の、他の人間への説明が非常に面倒になってしまったことに、呂布は頭を悩ませるのであった。 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 張宝を指導者とした黄巾と官軍との決戦の地。

 この場に集った者達は本当の意味での勇者だった。

 死ぬことを怖れずに、太平道のために命をかけて戦い続けてきた信徒。既に彼らは民という枠組みを越えて、一流の兵士と称するに相応しい者達だ。

 

 張宝とて、目の前に布陣する官軍が悪いわけではないことくらい理解している。

 官軍の兵士は命令とはいえ、漢を滅ぼそうとする黄巾を治めるために命を賭けてきた。その点に関しては差があれど志は一緒だったのだ。国の平穏を願って戦い続ける。

 

 本来ならば滅さなければならないのは、都の宮殿にいる宦官達だ。

 この国を腐敗させ、民を苦しめる諸悪の根源。

 

 彼らを根絶するのが最も血が流れず、正しい戦いだったのかもしれない。

 しかしながら、それが出来なかったがために、張角とともに黄巾を率いて乱を起こすしかなかったのだ。

 そして、ここまで黄巾の乱が大きくなった以上、もはや止まることはできない。

 

 漢朝を滅ぼし、悪しき宦官達をも根絶やしにして、そして新たな国を打ち立てる。

 そうしなければ四海の民を救うことも出来ないし、この乱に参加した人間を納得させることも出来ない。

 

 張宝は遥か彼方の官軍を見据えたまま、口を開いた。

 

「皆、今までよく戦ってくれた」

 

 張宝の声は静かだった。

 それでも数万にも及ぶ軍勢の隅々にまで響き渡る不思議な声だ。

 黄巾の兵士達は、それには頷くだけで答え、眼差しは張宝と同じく彼方の官軍へと向けられていた。

 

「これより我らは官軍に対して、心胆をぶつける。世を変えるには血と屍を用いるしかない。されど、屍山血河の向こうには、必ずや黄天の世が待っていよう」

 

 張宝の宣言を合図に、黄巾の者達は誰一人として迷うことなく一斉に拳を天に振り上げた。

 

「蒼天既に死す!!」

「黄天まさに立つべし!!」

 

 数万人による怒号。

 それは音の波となって布陣している官軍を打ち抜いた。

 

「―――我が名は地公将軍張宝也!!」

 

 そしてたった一人の怒声が、数万の黄巾の声の中で確かに官軍にまで響き渡る。 

 そこに込められたあまりの圧力に、官軍の兵士達は怖気を感じ、震え上がった。

 冷静でいられたのはほんの一握りの人間だけ。多くの兵士や果ては武将までもが、この場から逃げ出したくなる気持ちを抱かせるほどに、張宝の気配は鬼気迫るものがある。

 

「……こりゃ、すげえ。張梁もたいしたものだと思ったが、どういうことだ? 張宝の圧も負けるとも劣らんぜ」

「恐らくは残された最後の一人としての意地。武人というよりは策を弄する人間のため、張角の死によって後がないことに気づいているのだろう。背水の陣の気持ちでこの戦いに挑んできているみたいだな」

 

 黄巾の陣から迸る圧力に、陳宮は周囲の兵士達の動揺を見ながら眼を細める。

 官軍の兵士の数は黄巾に比べて倍近い。圧倒的な兵力差がそこにはある。

 だが、黄巾のこの戦いにかける覚悟は並々ならぬもの。士気も高く、下手をしたらひっくり返される危険性も感じられた。

 

 全土の黄巾に召集をかけたにしてはその数は随分と少ないのには理由があった。

 黄巾にとって張角が死亡したという情報が流れたのが一番大きかったのだろう。参加していた多くの民が、その情報を耳にした途端、戦うことを諦めてしまった。それほどまでに張角という指導者は民の希望であったのだ。

 もう一つは、呂布達が予想していた通り、己の命をかけてまで反乱に最後までつきあうという人間がそこまでいなかったということだ。反乱に参加した多くが、黄巾とは関係なくただ暴れたいだけ。そういった野盗となんらかわらない暴力の世界に生きる者達が大半だった。そういった者達は、旗色が悪くなればすぐに手を引く。恐らくは自然と黄巾の敗北の臭いを嗅ぎ分け、逃げ出してしまった。

 

 それでも、今ここには数万の信徒が集まっている。

 これだけの民が、漢朝の終わりを命を捨ててでも願っているのだと考えると、皮肉な気持ちが込みあがってきた。

 

 冷静に思考している中、総大将たる皇甫嵩が馬首を進め、外套を翻す。

 

「黄巾賊の首領、張宝!! このまま戦を始めれば多くの信徒が命を落とすことが貴方に分からないはずがないでしょう!! 私も出来る限り力を尽くします。ですので、大人しく縛についてください!!」

 

 皇甫嵩とて、今更張宝が投降するとは考えてもいない。

 だが、万が一にでも降伏すれば、黄巾も官軍も悪戯に血を流し、命を落とす必要はなくなる。

 その可能性を信じて、彼女は眼前に広がる黄色の大海原を見据えた。

 

「笑わせるな!! 今更!! 貴様らに語る言葉などあると思ったか!!」

 

 常人では抱えることも出来ない長刀を片手で蒼天へと振りかざし。

 

「殲滅、せよ!!」 

 

 長刀が振り下ろされ、向けられた切っ先の官軍に向けて―――死を恐れぬ勇者達の進撃が始まった。

 地面を駆け抜ける音。黄色い旗が揺らめき、矢が雨のように降りかかる。

 

 こうして黄巾賊と官軍との最終決戦が幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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