天下無双   作:しるうぃっしゅ

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六話  孫呉の王

 

 

 

 

 張梁率いる黄巾軍を打ち破ったときを思い出させる圧倒的な力を見せつけた呂布の功績で、朱儁軍は致命的な被害を受ける前に敵軍を撃退することが出来た。

 元々黄巾賊は時間を稼ぐことが目的。寡兵による奇襲が失敗した以上、速やかに撤退するのは当然である。ましてや兵を指揮していた高昇が討ち取られ、呂布によって戦うことの恐怖を思い出させられた黄巾賊は、討ち死にする覚悟もなく逃げ出してしまったという方が正しいかも知れない。

 

 さて、敵を退けた朱儁ではあったが、彼は全軍に追撃の命令を出すことはなかった。

 彼は即座に怪我人の手当てを指示すると、森を抜けた先にある場所で陣を引く事にしたのだ。猪突猛進である朱儁にしては、冷静な対応だったとも言えよう。彼に仕える軍師の進言を受け入れたからだと周囲には思われていたが、それは少々事実とは異なっている。

 

 普段の彼の行動を見ていればわかるが、多少の被害を受けたとしても、今回のように兵のことを考えて進軍を止めることはまずない。特に壊滅的な被害をうけたわけでもないのだ。ならば何故か。

 それは、呂布の戦いぶりを見て、恐怖という感情を抱いてしまったからだ。黄巾賊を蹴散らす黒い乱世の姿を見て、恐れたのは敵だけではなく、味方も当然同様の恐怖を胸に刻まれた。

 

 確かに彼は強い。強すぎる。口を挟む余地が無いほどに、圧倒的なまでの強さを誇る武人である。

 如何なる戦いに及んでも、彼は決して敗れることはないだろう。だが、それ以外の者はどうか。

 彼の力を頼りに突き進んでいって、果たして無事に帰還することができるのか。手柄をあげることはできるだろうが、それを朱儁の命と天秤にかけたとき、軍配は後者にあがる。

 

 皮肉にも、呂布の圧倒的な強さが朱儁の功に焦った思考を落ち着かせる結果となった。

 

 天下十剣に数えられる朱儁だが、それはあくまでもこの腐りきった漢朝の中での話。

 命のやりとりをろくに体験したこともない彼は、突き詰めれば手柄よりも己の命を優先するのは当たり前といえば当たり前の結論でもあった。

 

 仮にも総大将である皇甫嵩の制止を振り切って張宝を追撃した朱儁にとって、このままこの場所に止まり後続の軍を待つというのは少々具合が悪い話だ。

 しかしながら、それは何も手柄をあげていない場合の話であり、今回とは事情が異なる。

 張宝の片腕として黄巾賊を束ねている高昇の首級をあげたのだ。張梁ほどではないにしろ、彼の賊将はこれまで散々と官軍を苦しめてきた相手でもある。

 その高昇の首をあげたとなれば、皇甫嵩に対しても十分に言い訳が聞くというものだ。

 

 自分の都合を第一に考えながら指示を出した朱儁であったが、この日以降の黄巾賊の攻撃は一切行われずに―――数日の時が流れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 皇甫嵩率いる官軍が、朱儁の拠点にたどり着いたとき、どうにも微妙な違和感を彼女は嗅ぎ取った。

 張宝の追撃のために軍を動かした朱儁だったが、途中奇襲を受けたがこれを撃退。賊将の一人でもある高昇の首をあげる。この情報は既に先日もたらされているため、素直に朱儁の手腕に感心をしていたところだ。

 

 勿論、皇甫嵩に送られた情報の内容は上手く改竄され、呂布がいなければ下手をしたら壊滅していたという真実は握りつぶされている。

 あくまでも朱儁の指揮により、高昇の策を破ったという偽りの情報しか彼女は聞き及んでいない。

 だが、呂布の活躍事態は握りつぶされてはいない。彼が朱儁の命のもとで高昇を切り伏せた。そういった内容に擦りかえられているのだが、特に呂布は気にしてもいなかった。

 呂布の目的は呂布奉先の名前を天下に轟かせること。

 手柄や褒賞といったものは二の次だ。

   

 そのことを知らない皇甫嵩だったが、僅かな時間で朱儁の軍の違和感に気づく。

 戦場の前線であるにも関わらず、どうにも弛緩した雰囲気に包まれているのだ。鼻につくのは、眉をしかめるほど強い酒の臭い。別に酒自体は特に文句を言うつもりは彼女には無い。

 もともとが戦争に慣れてもいない兵士達だ。酒を呑んで気を紛らわさなければ正気を保つことも難しいだろう。

 

 だが、少しだけ皇甫嵩は嫌な予感に襲われた。

 朱儁の軍団は、士気は落ちてはいない。その点は構わない。

 しかし、どうにも必至になって戦争をしようという気概が感じられないのだ。

 なんとかなるだろう、という漠然とした気楽な雰囲気が軍全体から伝わってきている。

 

 皇甫嵩はその理由にすぐさま思い当たった。

 

 その原因は、間違いなく呂布奉先という武人である。

 元々朱儁の軍は黄巾討伐の後詰となる軍だ。即ち、実は戦という戦を経験してきていない。

 初めてが張梁と戦った時なのだが―――その時は結局呂布の活躍で圧倒的な勝利をおさめた。その後も、似たようなものだ。呂布がいればなんとかなる。もしくは、戦争といっても、こんなものか、という楽観的な目で見てしまっていた。

 勝っている分には問題ないが、こういう場合少しでも敗北という事実を目の当たりにすると崩れるのも早い。呂布が悪いわけではないのだが、非常に困った難問を抱えながら、皇甫嵩はため息をつきつつ朱儁の陣幕を、二人の人間を伴って潜った。

 

 陣幕の内部では、朱儁と彼の配下である何人かの武将がそれぞれに酒に舌鼓をうっているところに出くわした。

 あまり深酒していなかったのは救いだろうか。皇甫嵩が訪れたことに気づいた彼は、立ち上がり拳礼をする。そして、何故この場に止まっていたのか改めて説明をした。

 

「―――というわけで、我が軍は敵の伏兵によって多少の被害を受けてしまってな。確実に張宝めをうつにはやはり貴殿の力が必要になると考え、この地で陣を敷いていた次第だ。いや、面目ない」

 

 酒に酔っているせいもあるのか、高昇の首をあげた手柄のせいか、言葉とは裏腹に全く恥じることは無い様子に頭痛を隠せない皇甫嵩だったが、ここで怒鳴りあっても仕方なしと自分を戒める。

 

「しかし、流石は張宝といったところでしょうか。捨て置けない相手ですね」

「ここからどう動くか。高昇は討ち取ったとはいえ、黄巾の本体はほぼ無傷。まだまだ油断できぬ」

「ええ、全くです。ですが、こちらも随分と戦力を補充できましたし、総力戦を仕掛けても問題はないかと思います」

「……なんと。いや、なに。それでは、そちらの方々が?」

 

 皇甫嵩の背後にいた二人の人間にようやく気づいた朱儁は、一目見て己の中を巡っていた酒が吹き飛んだような錯覚に陥った。緊張を隠せずに、言葉が震えてしまったが、それも仕方がないと自己弁護をしてしまう。

 陣幕にいた配下の者達も同様で、今までの陽気がどこにいったのか。まるで戦場にいるかの如き焦燥に襲われている。

 

 一人は、まさに武人。実直な雰囲気を滲ませる、長身の大男だ。

 体格だけならば、呂布をも上回る四十近くの男だ。だが、並々ならぬ使い手ということは、自ずと理解できてしまう凄味を皆が感じていた。朱儁とは明らかに武人としての格が違う。

 

 もう一人は、対極ともいえる女性。

 女性にしては背が高い。女性としても背が僅かに低い曹操より頭二つ分くらいは上背がある。

 薄紫の長い髪がふわりっとゆれていた。同色の瞳に、汚されていない新雪のような白い肌。ほんの少し吊り上った目元が、勝気そうな印象を与える。

 豪奢な金色の刺繍がほどこされた―――拘りがあるのか髪と同じ紫の衣服。さらにはやはり同色の外套を羽織った女性。

  

「お初にお目にかかります。姓は孫。名は堅。字は文台。以後お見知りおきを」

 

 男の静かな、だが確かな圧力を感じさせる声に皇甫嵩を除く人間が息を呑む。

 このような武人がいたのか、と。朱儁は愕然とする。

 

 だが―――。

 

「そして、これなるは我が娘。孫策にございます」

「ご紹介にあずかりました。孫伯符であります。ご指導ご鞭撻のほどを宜しくお願いします」

 

 孫堅以上の異質を感じるのは、その娘―――孫策伯符だ。

 

 威圧してきているわけではない。ただ意識せずとも声から感じられるのは、凄まじいまでの覇気。

 もしも曹操に最初に出会っていなかったならば、やはり本能が肉体を平伏させていたかもしれない。

 朱儁の部下の誰かが、ひぃっと短い悲鳴をあげたが、それを咎める余裕も今の彼にはなかった。当然だ、こんな怪物を前にして平静でいられるほうが人間としておかしいのだ。もしもこの娘を前にして通常通りでいられるならば、孫策伯符に匹敵する怪物か、空気を全く読めない愚か者くらいだろう。

 

 はっきり言って孫策伯符は。美麗だ。麗人といってもいい。文句のつけ様が無いほどに美しい。

 曹操や陳宮といった女性にも見劣りしない。まさに傾国の美女と称しても良い筈だ。

 

 しかし、この女には何故か女性としての魅力を感じられない。

 

 彼女を前にすれば、見惚れるよりも命の心配をしてしまう。

 まるで人喰い虎の前に放り出されたかのような、死の危険に襲われてしまうのだ。

 

「孫堅殿と孫策殿には、我が軍とともに黄巾賊と戦ってもらいます」

「……あ、ああ。宜しく頼むぞ、お二方」

 

 なんとかそれだけを言うのが精一杯であった。

 今すぐにでも寝台に横になりたいと考える朱儁だったが、孫策が何かを思い出したのか、あっと小さい声をあげる。

 皇甫嵩と朱儁が何事かと孫策へと視線を向けた。

 

「先日、人公将軍張梁を打ち破ったという朱儁将軍に失礼ながらお聞きしたいことが」

「……何か。申してみよ」

 

 言葉遣いは丁寧だが、朱儁としてみては話すだけで臓腑を抉られるような重い衝撃を味合わされる。

 眉を顰めながら、孫策の言葉の続きを促す。

 

「張梁といえば、相当な武人と噂に名高き賊将でしたが……それほどの相手の首級をあげたのは、一体誰なのでしょうか?」

 

 爛々と目を輝かせて、孫策伯符は彼女がずっと気になっていたことを口に出した。

 南方より黄巾を討伐しながら北上してきた孫呉の軍ではあるが、張梁が討ち取られたことしか情報が伝わってきていなかったのだ。張梁の武勇は嫌というほど聞いていただけに、それを倒した者の名を気にするのは孫策としてはある意味当然だった。

 女性でありながら、武を求め続ける者。天下に孫家の名前を轟かせるためにも、それを為すだけの力を欲していた。

 孫策伯符。彼女もまた、曹操と同等に、乱世の覇王となれるだけの器と武勇を秘めた怪物である。

 

「……呂布だ」

「―――はっ?」

 

 小さく呟いた朱儁に、反射的に聞き返してしまう孫策。

 無礼といえば無礼だが、そんな細かいことを気にする彼女でもない。

 隣では、はぁっと疲れた表情を見せる孫堅がいるのだが、それに気づいたものはいなかった。

 

「……呂布奉先。一騎当千の飛将軍。その者が、張梁を、そして此度は高昇の首をあげたのだ」

「りょ、呂布ですか!?」

 

 目を大きく見開き、やや素っ頓狂な声をあげた孫策に、父である孫堅は珍しいものを見たと表情を緩ませる。

 しばらく何かを考え込むように視線を地面に向けていたが、やや経つと顔を上げ拳礼をして朱儁に頭を下げた。

 

「失礼な質問にお答えいただき有難うございます」

「いや、なに。気にするほどでもない」

 

 下がって良い、との朱儁の退出の言葉に孫堅と孫策が陣幕を後にする。

 皇甫嵩は他二人の将軍と話すことがあるのか、そのまま陣幕に残ることになった。外に出てみれば、周囲では兵士達が酒宴を開いて騒いでいるのか、楽しそうな声が耳に届いてくる。

 二人は黙って歩いたまま朱儁の陣幕から離れると、孫堅は隣で思案している娘に語りかけた。

 

「伝説の武人、呂布。なかなかに心強いことだ。もっとも、恐らくは騙りであろうがな」

「……ですが、張梁を討つほどの者。決して名ばかりの武人とは思えませんが」

「確かに。それなりの力量を持つ者ではありそうだ。顔を合わせるのが楽しみだな、孫策よ」

「……はい」

 

 気楽な孫堅とは違い、やはり表情が硬い孫策。

 人生経験が豊富な孫堅とは異なり、まだ歳若い孫策は父ほど思考が柔軟ではないのだろう。

 呂布という伝説を聞いて、それを一笑にふすことがなかなかにできなかった。

 噂に聞いた彼の残した伝説。それを為した万夫不当の武人に憧れているのは、何を隠そう孫策伯符自身なのだから。

 

 偽者にしろ本物にしろ、一度は顔合わせをしなければならないと考えている孫策だったが、それが手に取るようにわかる父の孫堅だった。

 彼としては、娘をしとやかな女性にと躾けていたつもりだったが、何故かそうはならなかった。

 孫堅が目指していた孫策伯符とは百八十度―――とまではいかないが、かなり違った成長の仕方をしてしまったが、それでも愛する娘。本人は否定するが目に入れても痛くない可愛がりようである。 

 

 何せ孫策伯符の美貌は孫堅の治める地でも評判で、幾つもの縁談話がきているが、それら全てを断っているほどだ。 

 そのことを知らない孫策だが、本人自身もまだまだ嫁に行きたくない気持ちがあるため、結局は一緒の結果になるのだが。

 

「……明日にでも呂布奉先に挨拶に行って参ります」

「うむ。失礼のないようにするのだぞ」

 

 娘が言い出したらどうあっても止まらない事を知っている孫堅は、苦笑しながら頷いた。

 孫策の武への執着は異常だ。天賦の才に恵まれながらも、努力を怠らない。孫呉が生んだ稀代の武人。それこそが、孫策伯符。二十を越えたばかりでありながら、純粋な武人としての力量ならば既に自分を越えていると、孫堅は見抜いていた。

 恐らくは呂布奉先を名乗る者に手合わせを願い、そのまま打ち倒してくる光景が目に浮かんできた。明日は騒がしくなりそうだ、と孫堅は軽く頭を振ったその時、二人の前方でざっと土を踏みしめる音がする。

 

「ほぅ。呂布殿に用がある、と? 中々に怖いもの知らずな方だ」

 

 涼やかな美声が、周囲の兵達の騒がしさの中でもはっきりと聞こえた。 

 まるで耳元で囁かれた錯覚。孫堅と孫策の二人でさえも、反射的に息を呑むほどの不可思議な圧力を秘めた女性の声だ。

 声の発生主。前方に静かに佇んでたのは、一人の少女。

 夜の闇でさえも彼女の美しい銀髪を彩る色合いにしかならない。孫親娘の視線を釘付けとする乱世の覇王。

 

 曹操孟徳は、二人をして背筋を粟立たせる寒気を感じさせながら、冷たい笑みを口元に浮かべている。

 

 三人を包む空間が捩れ、周囲の雑音が突然聞こえなくなった。

 実際には彼らが互いだけに意識を集中させたために、感覚が余計な音を遮断しただけなのだが、孫堅も孫策も突如現れた見知らぬ少女を前にして、気圧されていたことに気づくのに暫しの時を必要とした。

 孫策はそのことを恥とは思わない。鳥肌が立つほどの相手を前にして、心が高揚する。

 

「ふむ。噂には聞いていたが、これほどとは正直思っていなかった。孫呉の勇、孫堅殿と孫策殿とお見受けするが、如何か?」

 

 パチンっと小気味が良い音を鳴らし拳礼をする曹操。

 二人の器を測ろうとする彼女の視線に、孫策はふっと短い呼気を漏らす。

 ぎらぎらと狂暴に輝く瞳で、曹操の顔を見返しながら―――。

 

「孫伯符だ。宜しく頼む」

 

 非常に尊大な名乗りをあげつつ、曹操に近づいていく。

 口元が微かに震えているのは、隠しようの無い喜びだろう。

 今回の黄巾の乱を平定するためにこなければ、故郷にてただ平穏を貪っていただけでは決して会うことが出来なかった、自分と同格の選ばれし異端。それと出会えたことに、孫策の胸中は嵐のように掻き乱されていた。

 右手を差し出してきた孫策に対して、曹操もまた笑みを深くしてその手を握り返す。

 ただし、尊大な口調に比例して胸を張るのと同時に力強く自己主張している豊かな双胸に視線を走らせた曹操は、続いて自分の平坦な胸に目をやり―――若干危険な雰囲気を滲ませたが、それを一瞬で消し去る。

 

「曹操。字は孟徳。貴殿とは長い付き合いになりそうだ」

「そうだな。私もそう思う」

 

 ぐっと力を込める孫策だったが、曹操は表情一つ変えない。

 十秒近くも互いの手を握り合っていた二人だったが、何時までもそうしているわけにもいかずに、名残惜しそうに両者とも同時に手を離した。

 その光景を見ていた孫堅は、茫然と目を見開く。

 何故ならば、彼女達の背に凄まじい数の兵士達を背負っていたのだから。

 そんな馬鹿なと目を瞑り、開いてみれば先程まで見ていた兵士達は消えている。やはり幻影だったのかと納得した孫堅だったが、二人の間には不思議な因縁があるように見えて仕方なかった。 

 

「ところで、曹操殿。先程の物言い。貴殿は呂布殿のことを知っているのか?」

「ああ。何度か話をした程度の間柄ではあるが。孫策殿は呂布殿に興味があるみたいだが」

「……無いといえば嘘になる。伝説の武人、呂布奉先と聞いて心が躍らぬ武人がいまいか」

「ふふ。確かに貴殿の言うとおりだ。しかし……」

 

 ふっと目を細めた曹操が、やはり薄く笑みを浮かべたまま―――。

 

「やめておいた方が良い。孫策殿の並々ならぬ力量……実に見事。しかし、呂布殿には到底及ばない」

「―――っ!?」

 

 ぴしりっと空気が凍った気がした。

 何時もどおりの曹操とは対照的に、侮られたと勘違いをしているのか孫策の目に危険な色が混じる。

 武人としてお前は呂布には勝てないと、はっきりと言われたのだ。孫策とて、それで黙っていられるほど大人ではない。

 ただでさえ、孫策の武は揚州にて誰一人として追従することを許さない孤高の域に達しているのだから。

 井の中の蛙ではないにせよ。確かに孫策伯符という武人は、既に中華において五指に入るといっても過言ではない猛者。

 曹操の言葉に反発を感じるのも仕方の無いことだ。

  

「貴殿を侮辱するつもりの発言ではなかったが、もしそう取られたならば先に謝罪しておこう。だが、呂布奉先を名乗る者、伝説通りの天下無双。下手に手を出すのはやめておいた方が良い。自分から龍の逆鱗に触れに行くようなものだ」

 

 孫策が不満を口に出すよりも早く、曹操はそれを察してか言葉を続ける。

 真剣味を帯びた彼女の台詞に、流石の孫策も訝しげに眉を顰めた。

 孫策の目から見ても曹操という人間は明らかに常人とは違う領域に住んでいる住人だ。武人としても底知れない力量の人物だろう。その彼女がこうまで忠告をするというのはどういうことか。

 

 可能性は大きく分けて二つ。

 曹操孟徳が呂布の名を騙る人物に肩入れしている。偽者だということが発覚するのを防ぐため。

 もう一つが、心の底からの忠告。言葉通り孫策を心配しての発言ということだ。

 

 孫策は、曹操の目から視線を逸らさずに黙って見つめ続ける。

 力ある彼女の気あたりに曝されながらも、曹操は優雅に微笑んで佇んだままだ。

 その姿からは、全くといって良いほど相手の底も真意も読み取ることが出来ない。

 

 十数秒も無言で両者は対峙していたが、やがて曹操が何かに気づいたのか、孫策達の背後に視線をずらした後にやれやれと首を振った。

 

「あまり派手なことをしないで願いたいな、呂布殿」

「ん? 何かあったか、曹操ちゃん」

 

 刹那。

 空気が。周囲の気配が。空間が。世界が凍った。

 なんでもないような男の言葉。曹操の発言に続いた気楽な男の言葉。

 得体の知れない悪寒が全身を貫く。あらゆる毛が逆立ち、嫌な汗が毛穴から滲み出る。

 目の前が一瞬暗闇に染まったが、それは即座に本来の色を取り戻す。

 まるで全力で戦った後のように、呼吸も侭ならない。四肢がまるで鉛をつけていると勘違いするほどに重く、自由が効かなかった。

 

 自分がこれまで感じたことの無い脅威。

 言葉では表現できない相手。まるで頂が見えない巨峰。そんな存在感を背後に感じた孫策の躊躇いは一瞬。

 

 腰に差してあった二本のうちの一本。

 何の飾り付けもしていない無骨な剣を引き抜くと、振り向くと同時に地を駆けようと両足に力を込める。

 爆発的な力の解放。地面に両足がめり込み、大地に彼女の踏み後を残す。

 孫策の視線は、数メートルほど前方に立っている黒い甲冑の武人に突き刺さった。

 言葉で語るよりも、何よりも彼の気配が雄弁に語ってきている。

 

 自分こそが、天下無双。呂布奉先だ、と。

 

 緊張で口内が渇き、咽がひりつくように痛い。

 孫策とて気配を感じただけでここまでの脅威を感じたのは生まれて初めてだった。

 曹操とは異なる、武人としての極地。対峙するだけで相手の希望を、願望を、気力を、自信を、精神を叩き折る一騎当千。

 

 そこまでの気配を感じているのだが、知らず知らずのうちに孫策は、口角を吊り上げて獰猛な笑みを浮かべていた。

 

 それが不思議と彼女に良く似合う。

 しとやかに笑っているよりも余程、孫策伯符という女性の魅力を発揮していた。

 

 覚悟を一瞬で決めた孫策は、剣の握りを確かめて、呂布奉先なる怪物との間合いを詰めるべく両足で地面を蹴りつけようとしたその時―――。

 

「止めろ!! 策!!」

 

 凍えた空間に響くのは、堅く重く、だが戦を駆け抜けてきた武人の声だった。

 夜の闇を切り裂き、孫策の足を止めるのには十分な力がこもった制止に、反射的に彼女は足を止めた。

 尊敬する父の声でなければ、集中しきった孫策の行動を止めることはできなかっただろうが―――。

 

 その時になって孫策は、じわりっと背が汗で濡れていることに気づく。

 

 何故ならば、今彼女の目の前には―――呂布が片手で持った方天画戟の切っ先が突きつけられていたからだ。

 一体何時の間に、と息を呑む。呂布の全身の動きを見逃さないように凝視していたというのに、その動きを僅かたりとも追うことができなかったのだから。

 後一歩でも踏み込んでいれば、白銀の切っ先に貫かれていた。

 それを悟った孫策は、自分が死んでいたかもしれないという恐怖を抱くよりも、己の弱さにぎりっと歯を噛み締める。

 彼女のその姿に、呂布は珍しく感心したように、ほぅっと呟いていた。

 

「我が娘が失礼を致しました。呂布殿とお見受けします。我が名は孫堅。字は文台。突然の娘の行動に深くお詫び申し上げます」

「いや、別に構わんぜ。逆に少し楽しませて貰ったよ。まだまだ無名でありながら、とんでもない武人ってのは隠れているものだ、とね」

 

 頭を深く下げる孫堅だったが、呂布はひらひらと手を振って謝罪は必要ないと笑いながら答えると、そのついでに方天画戟を自分のもとまで引き寄せる。

 兜で表情は見えないが、微かに見える口元が笑みを浮かべているところを見ると本心なのだろう。

 内心で胸を撫で下ろした孫堅は、娘のもとまで歩いて行くと、彼女の頭を掴んで無理矢理に下げさせる。

 

「し、失礼をしました。孫伯符と申します」

「あー、気にしなさんな。さっきも言ったが、中々楽しませてもらったし」

 

 伝説の武人のわりには気安い呂布の言葉に違和感を拭えない孫策だったが、その実力は疑う余地はもはやない。

 まさか一合も剣を交えることなく敗北するとは思ってもみなかった。

 しかし、天下無双の力の片鱗を僅かにでもこの身に受けることができた喜びが彼女の中には確かに存在したのだ。

 頭を上げた後の孫策は、孫堅に引っ張られてこの場から去っていく最後まで、呂布から視線を外すことなく見つめ続けていた。それはまさに虎を連想させるほどに、雄雄しく、熱く、力強く。爛々と瞳を輝かせて、孫策伯符は己が求め続ける武の頂を見つけたことに、隠しようの無い喜びの炎を胸に灯したのだった。

 

 呂布と曹操から離れていった二人だったが、数分も歩き自分達が連れてきた兵が陣幕を張っている場所に着いて漸く、息をつく。

 

「……あれが、呂布奉先、か。どうやら本物のようだな」

「……」

 

 深呼吸をするとこれまでずっと緊張していた身体から、力が抜けていくのがわかる。

 数多の戦場を生き抜いた孫堅が、ここまで緊張状態になるのは初陣以来だと思考しながら、傍に居る孫策の姿を盗み見た。父である孫堅の独り言に全く反応を示すことなく、孫策の瞳はある方角だけを射続けていた。

 

 父という身内からの贔屓目を除いても、娘である孫策伯符は天才だ。恐らくは長く続く孫家でも随一。武将として、天下に名を馳せるだけの才能を持っている。それ故か、孫策は幼い頃から挫折を知らない。失敗もなく、常に最善にして最高の道を駆け抜け続けてきた。

 

 そんな彼女が初めて出会った異質な二人。

 覇王としての器である曹操孟徳。

 武人として極限の域に達している呂布奉先。

 

 こんな外れすぎた異端と出会ったとき孫策はどうなるだろうか。

 張り詰めすぎた糸は容易く切れる。それと同様のことが起きるのではないか。

 そんな一抹の不安に襲われた孫堅だったが、それは無用の心配となる。

 

 何故ならば、今の孫策は歓喜に満ち溢れているのだから。

 常に最高であり続けた孫策伯符は、この時初めて自分の敵たるに相応しい存在に出会えて、心の底から感謝している。

 既に並ぶ者なしと褒め称えられている孫策伯符。されど、未だ彼女は成長途中。彼女の伸びしろは切れることがなく、やがて天をも掴む領域に達するだろう。

 

 ぎらぎらと野望に満ち溢れる眼差しの娘の姿を見て、我が子ながら末恐ろしいと破顔するのであった。

 

 

 

 

 

 


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