銀の少女が曹操と名乗りをあげた瞬間、物理的な圧力さえも秘めた突風がその場を激しく吹きつけた。
まるで呂布に自分の存在を見せ付け、曹操孟徳という人物の印象を植え付けようとしているかのようだ。
彼女はまさに王だった。
その場に静かに、だが苛烈に佇む二十にも満たない小娘が、確かに覇王としての風格を漂わせ、周囲の人間に息を呑ませる光景は圧巻ともいえる。
朱儁は、反射的に跪き平伏しそうになった己に愕然とする。
慌てて平静を保っているように見せかけるために、咳払いを一つ。口をきつく結んだ。
それでも心中は嵐が吹き荒れ、目の前に現れた理解し難い少女の姿を敵を見るかのように睨みつける。
これまで多くの人間を見てきたが、その場に佇むだけで平伏しそうになるほどの雰囲気を纏っている人物を彼とて知らない。
呂布奉先とはまた異なる、異質。異端。正反対の絶対者。
誰もが似たような衝撃を受けいるなかで、陳宮は曹操孟徳という人物の情報を脳内から探し当てる。
その名前は別段有名という訳でもない。独自の情報網を持つ陳宮だからこそ、聞き覚えがある程度の名前だ。
宦官の養子であり、それなりの名家。父は既に亡く、その遺産を上手く利用しそこそこの地位についている。あくまでそれだけの情報。腐りきった漢朝では、珍しく実直な役人であるとも聞いていたが―――。
―――有り得ない、だろう。なんなのだ、この小娘。
ごくりっと息を呑むのは陳宮だ。
情報はあくまでも言葉や文字だけでしか伝えられない。
そのため、実際に会ってみるとそれを覆す人物も数多い。
良いにしろ、悪いにしろ、今まで幾度となく人物の評価を修正してきた経験がある。
だが、それでも―――。
「……読み、きれんぞ。銀……何なんだ、こいつは」
「さぁ? なかなか面白そうな奴ではあるな」
珠のような汗を額から流しつつ震える声で呟いた陳宮とは正反対に、呂布はまるで玩具を与えられた子供のように嬉しさを隠しきれずに口元を歪めている。
素っ気ない口調とは裏腹に方天画戟を持っていない左手の指が激しく動き、ごきごきと物騒な音をたてた。
今にも曹操孟徳に飛び掛りそうなほどに―――いや、違う。正確に言えば曹操を試すかの如き挑発。そうはっきりとわかる荒ぶる気配を撒き散らす。
それに気がついたのか、曹操は驚いたように目を軽く見開き、微笑を浮かべた。
天下無双の全てを圧する気配を目の当たりにしてなお、彼女は呂布と同じく、子供が玩具を与えられて喜ぶ姿を見せている。まさしく二人の雰囲気と空気は、一触即発でありながらどこか似通っていた。姿形も発する雰囲気も異なるが、何故か似た者同士と思わせる何かがある。
曹操の名乗りで麻痺していた皆が、曹操の神気と呂布の覇気ともいえる気あたりに自然とその場から一歩後退する。
乱世の覇王と乱世そのもの。二つの異端はどれくらい見詰め合っていただろうか。
数秒。或いは十数秒。もしくは数分も経っていたかもしれない。
そんなある種の暴風地帯となっていたこの場所で、小柄な曹操よりもさらに小さい体躯の少女が駆け寄ってきて皇甫嵩に向かって平伏した。
まるで場の空気を読まない少女の行動に、曹操と呂布はまるで毒気を抜かれたのか、互いに同時に苦笑する。
危うい気配を霧散させると、曹操は呂布に背を向けた。
「皇甫嵩殿と朱儁殿の前で失礼致しました。これは我が妹、曹仁にございます。此度の戦にて、何かしらの学ぶべきものがあると思いまして連れて参りました」
「曹仁と申します!! 微力ながら、漢のために全力を尽くしたいと思います!!」
聞いている者の耳が痛くなるほどの声で、名前を名乗った曹仁だったが―――彼女の視線は皇甫嵩ではなく、呂布の方へとちらちらと向けられていることに気づく。
呂布と視線が合うと慌てたように逸らし、それでもまた視線を向けてくる。
その視線に、若干居心地が悪くなる呂布。
脅えられ、恐れられることには慣れているが、曹仁と名乗った少女の視線にはそういった感情は全く込められていない。
どちらかというと正の感情。まるで憧れや尊敬といった、そんな想いが秘められているのだ。
そのような視線にさらされた事は一度としてなく、呂布としてもどんな反応をすればいいのか非常に悩むことになった。
暫し経ってその視線に慣れた呂布は、改めて曹仁なる人物を観察する。
曹操の妹だけあって、顔の作りは良く似ていた。特に目元は瓜二つと言っても良い。
髪は薄緑。まるで春の訪れを告げる木々の色彩のようであった。長い髪は、左右で纏めてあり、赤い髪留めで結んでいる。
彼女の背には、驚くべき長さの剣が鞘に納められていた。呂布の方天画戟には比べるまでもないが、それでも普通の兵士達では到底扱うことができないほどの長剣。それが小柄な曹仁の体躯と合わさり、どこか異彩を放っている。
年齢はこの場にいる人間で最も若く、これほどの少女が戦場に出てくるのはどうかと思わせるほどだ。
事実、多くの者がそう考えているだろうが、呂布はそれらの意見とは異なる。
強いか弱いか。
戦場で生死を分かつのはそれだけだ。
どれだけ年齢を重ねていても、弱ければ無意味。
それを考えれば、曹仁という少女の腕前は異常。
この場にいる官軍の中で、呂布や曹操を除けば彼女に勝てる人間は皇甫嵩くらいだろう。
天下十剣の一員として数えられている朱儁でも、曹仁には遠く及ばない。
年齢のことを考慮すれば、凄まじいまでの実力とも言える。
陳宮でさえも、恐らくは互角に戦えるかどうか怪しいほどだ。
漢の治世において未曾有の大反乱。その乱が、逆に多くの才ある者達を誘い、集わせる。
皇甫嵩はそのことを頼もしく思うと同時に、言いようのない悪寒を感じるのであった。
「とにもかくにも、張宝には苦戦を強いられていましたが……朱儁将軍のご助力もあれば、彼の砦も落とすことは可能な筈です」
「……そうですな。では、そのための策をまとめようか。陳宮、曹操。後ほど改めて呼ぶまで下がっておれ」
二人は頭を下げると、陣幕から退出する。
陳宮は呂布を。曹操は曹仁を連れて外に出ると、両者は互いに正反対の方角へと足を向けた。
その際に、一瞥もくれることなく去っていく呂布と曹操に、陳宮と曹仁は違和感を持ったのは当然のことだ。
あれだけ激しく両者は意識しあっていたにも関わらず、何故このような態度を取っているのだろうか。
呂布と十分な距離を取り、彼の背中が豆粒のように小さくなったのを確認すると、曹仁は我慢できなかったのか視線を彼方へと向けて遂に口を開こうとして―――それよりも早く曹操が微笑んだ。
「どうしたのだ、曹仁。お前は随分と呂布を気にかけているようだが」
「だ、だって……孟姉!! 呂布だよ!? 伝説の武人、呂布奉先だよ!! あの伝説が、目の前にいたんだよ!?」
「ああ。何かと思えばそのようなことか、曹仁」
喜びとも驚きともとれる表情のまま騒ぎ立てる曹仁に対して、ふわりっと優しい笑みをそのままに、曹操もまた彼方へと消えていった呂布の背中に視線を送る。
あまりにも何時も通りすぎる姉の姿に、逆にきょとんっとした表情で見上げる曹仁の頭を軽く撫で上げた。
「伝説の武人、呂布。到底信じられぬ数多の武を示した英雄にして怪物。一騎当千を文字通り体現した四海において、最強を冠する天下無双の豪傑、か」
「うん!! その呂布が!! 天下無双がいるんだよ!!」
激しく興奮している曹仁だったが、そこでようやく気づくことがあった。
何時も通りと思っていたはずの曹操の表情が僅かに赤みを帯び、とてつもなく何かに対して興を抱いているということに。
その対象は、【呂布奉先】という伝説の武人にではなく―――黒い甲冑をまとった銀髪の青年へ対してなのだが、それに曹仁が気づくことは無かった。
「伝説は伝説。私とてそう思っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。呂布奉先―――いや、彼の御仁は確かに伝説に語られるに値する武人だな」
「う、ん? 彼の御仁? 呂布奉先のことじゃないの?」
姉の物言いに、不思議そうに眉を顰める曹仁の問い掛けには答えず―――。
「ふふふ。そうだな、曹仁。先ほどまで我らの前にいた呂布殿のことだぞ?」
「う、うん。でも、なんだか想像していたのとは少し違ったかな」
煙に巻こうとするような曹操に、首を捻る曹仁。
しかし、特に追求するということもなく。彼女は、先ほどまで穴が開くほどに凝視していた天下無双の姿を思い浮かべながら―――自分が抱いた素直な印象を口に出した。
あらゆる武人の頂点に立つ、天をも穿つ万夫不当。
彼の伝説を聞いていた曹仁は、山のような巨躯を誇る大男。
凶悪な貌をした武人を想像していたのだが、実際に会ってみればそんなイメージとは正反対と言っても良い。
曹操と同じなめらかな銀髪に、傷一つない顔。
まるで文官のようにも見える、優男。
街を歩いていれば、そこらの街娘ならば軽くひっかけることができそうな容姿だ。
「確かにそうだな。私の想像とも違っていたが……曹仁の好みそうな顔立ちのようにも感じたが」
「べ、別に男は顔じゃないし!! 強くないと駄目だもん!!」
「その点も充分だとは私的には思うが……。お前達はどう思う?」
顔を赤く染めて強く言い返す曹仁に優しい眼差しを送りつつ、目の前に立つ人影に語りかけた。
そこには二人の男と一人の女性が佇んでいる。
一人目はまだ三十には届かない程度の男性だった。
この場にいる者達の中では飛び抜けて背は高く、服の上からでもわかるほどに筋肉が力強く主張している。
紺色の分厚い鎧を着込み、黒い外套を上から羽織っていた。
特に手入れをしていない髪が短く刈り込まれているが、この男性にはそれが酷く似合っている。その眼差しは鋭く、きつい。並の者ならば、彼の眼光だけで腰を抜かしてしまうだろう。
二人目は、この場にいる者の中でもっとも年上の男だった。
四十を越えた当たりの年齢だろうか。呂布や曹操と同じく銀髪だが、若干白に近いかもしれない。同色の髭が風に微かに揺れている。
鎧を着込んでいる様子はなく、黒い服装に金色の刺繍。見るだけで高級な布を使っているのがわかった。
武人というには軽装だが、彼の眼光は鷹のように鋭く、曹仁はこの男性の鋭い視線に多少苦手意識を感じている。
三人目は、曹操より僅かに年上の女性。
それでも精々二十をようやく越えたあたりだろう。
身長や体格自体も、曹操より一回り大きい程度。つまりは普通の女性並と表現しても構わない。
長い黒髪に、鋭い眼差し。それは、大型の肉食獣を連想させる。
感情を見せない表情は、氷点下を思わせるほどに冷たい。容姿が整っているだけに、余計に彼女の氷の表情が目立っている。
赤と黒が入り交じった鎧を着込み、腰には長剣が差されていた。
「……呂布奉先はあくまで伝説だ。恐らくはその名を騙っているだけに過ぎない」
短髪の男性が見かけ同様どっしりとした低音の声でそう答えた。
その返答を聞いた曹操は、ある程度予想していたのか笑いながら頷く。
「かもしれないな。では、彼自身を見てどう判断する? 私はそれが聞きたいんだ、惇」
曹操の質問に、不機嫌そうに黙り込んだ惇と呼ばれた男性―――夏侯惇元譲だったが、暫くたってから仕方なしという様子で腕を組む。
「……怪物、か。正直なところを言うと、先ほど見たときは目を疑った」
「ほぅ。惇がそこまで評価するとは珍しいな。ところで一つ聞きたいが、お前だったら勝てるか? あの呂布奉先に」
「……孟徳。お前が戦えというのならば、戦おう」
勝てるかどうかという質問に答えずに、夏侯惇はぶすっとした表情のまま返答する。
勝てないと言わない夏侯惇に対して、可愛いやつだと思いながら曹操は残りの二人に視線を送った。
「お前はどう思う、司馬懿?」
面白そうな表情を隠さずに、猛禽の目をした年配の男―――司馬懿仲達に曹操は語りかけた。
司馬懿は、ふむっと考え込むが、それも一瞬。
「さて。私としましても、評価は夏侯惇殿と同様。呂布なるものの真偽は不明ですが、底知れぬ力量の武人ということは認めねばならないでしょう」
「お前も随分と高評価を与えるのだな、司馬懿」
「多少なりとも武を学んだ身なればこそ。彼の者の異常性は肌で感じます。私がこれまで見てきた中でも随一の強さを誇る武人かと」
あっさりとこの場にいる誰よりも強いという事を認めた司馬懿を、きつい目で夏侯惇が睨み付ける。
痛いほどに視線が突き刺さるのに気付いていながら、肝心の司馬懿は一切気に留めることはない。
夏侯惇ほどの武人の圧力を浴びながらも、普段通りの姿を崩さない司馬懿に、末恐ろしいものを感じる曹仁だった。
数多の猛者を配下に持つ曹操孟徳の、最強の将。それが夏侯惇だ。並外れた腕前の曹仁とて、数合も剣を打ちあわすことができないほどの強者。その彼が放つ重圧は、蚊帳の外である曹仁でさえも息苦しい。
そこまでのものだというのに、武将というよりは軍師に近い司馬懿がここまで完璧に受け流す姿はどこか気味の悪い光景にも見えた。
「怒るな怒るな、惇。お前の気持ちもわかるが、アレと武を競うこと事態が間違いだ。アレは人にして人にあらず。乱世が人の形を取った姿といっても言い過ぎではあるまい」
「……怒ってなどいない」
曹操の悪意の欠片もない、無邪気な台詞に逆に毒気を抜かれた夏侯惇は、肩から力を抜くと深いため息をついた。
それを確認したわけではないが、曹操はちらりっと黒髪の女性を一瞥してから司馬懿へ対してからかうかのような色を乗せた視線を向ける。
「と、なれば。お前の自慢の片腕である鄧艾でさえも太刀打ちできないということになるが?」
「無論。如何に鄧艾といえど、あの呂布奉先と一対一では歯が立たないのは明白でしょう」
己の横にいる腹心たる黒髪の武人―――鄧艾に全く気を使うことなくはっきりと述べる司馬懿。
武人として屈辱的なことを言われたというのに、当の本人である鄧艾の氷の表情は微塵も変化することはなかった。
そこには悔しさも怒りも何もない。淡々と主たる司馬懿の言葉を受け入れる人形の如き武人としてこの場に静かに佇んでいる。
「ほぅ……。ならば聞こう、司馬懿よ。お前ならば、あの呂布奉先をどうやって相手取る?」
「そうですな。あの怪物を打ち倒すには軍はいりません」
「―――続けてみよ」
躊躇いなく曹操の質問に答える司馬懿。
一騎当千を誇る天下無双を倒すために軍が必要ないと言い切った司馬懿に対して、夏侯惇が訝しげな視線を向けた。
「あの呂布奉先なるものの前では雑兵など塵の役にも立ちますまい。蹴散らされ、脅え、逃亡するのが関の山。ならばこそ、少数精鋭で戦いを挑む。それが最善の手かと。例えば、ここにおわす夏侯惇殿と曹仁殿。斥候に出ている曹洪殿、それに鄧艾。他に夏侯淵殿が同時にかかれば如何な者といえど勝ち目はありますまい」
「ふふ。確かにお前の言うとおり、勝機は生まれるかもしれんな」
曹操が擁する最強の武将の名前をつらつらとあげていく司馬懿に、口角を緩ませ、深い笑みを向けて頷く。
そのどこか冷たい笑みに背筋を粟立たせる司馬懿だったが、数秒もたつと興味をなくしたのか、曹操は彼に背を向ける。
彼女が振り向いた先は、呂布が姿を消した方角。
―――その程度で、なんとかなる相手ではないだろうな。呂布奉先……いや、名も知らぬ君よ。貴殿は確かに天下無双の称号に不足はない。
今は姿を見えぬ相手。呂布の姿を思い出すと、曹操の全身に電流が走ったかのようにびりびりとした衝撃を感じた。
この世に生を受けてから初めてとも言える、異端との遭遇。
己のように王としての器ではなく―――彼一人で完成された武の結晶。その姿は曹操をして、心を躍らせるには十分に足るもの。全身にたった鳥肌が、未だおさまらない。
小刻みに震える身体は恐怖ではなく、表現できない喜び。
乱世を治める器たる覇王。曹操孟徳の器にも納まらない天下無双の存在に、対極に位置する者が故に、彼女はどうしようもないほどに心が惹かれていた。
▼
呂布と陳宮は与えられた陣幕にて、皇甫嵩と朱儁の作戦会議が終わるまでの時間を待機しているところだった。
すぐにでも会議は終わり、再び呼ばれるだろうと二人は予想していたがその期待は裏切られ、既に数刻の時間がながれていた。
勿論予想外だったからといって、特に不機嫌になるでもなく二人は静かに陣幕で時を過ごす。
しかし、完全な武人―――しかも一介の兵士である呂布とは異なり、陳宮はそうではない。
武将として一級品の実力を持ってはいるが、彼女の本文はどちらかというと文官だ。
こなすべき仕事。こなさなければならない仕事というものは幾らでもあるのだから、寝転がっている呂布とは異なり、陳宮は目の前に山のように積まれた竹簡に目を通していく。
その中でも、真っ先にやらなければいけないことを、竹簡に書き留める。
それは、陳宮が飼っている者達へ、曹操孟徳のどんな些細な情報でもいいから調べるように、と書かれていた。
数分にも満たない対峙であったが、それだけでもあの銀髪の魔人の異常性は理解出来る。
これまで相対してきた者達のなかでも桁も格も違う怪物だ。自分たちの目的の障害となる可能性は高くないとはいえ、万が一のことを考えれば曹操の情報を集めておいて損はないだろう。
曹操と敵対した時のことを想像して、頭が痛くなってくる陳宮だったが、その時になって漸く皇甫嵩の配下の者が二人を呼びにやって来た。
随分と作戦をきめるために揉めたのだろう。
恐らくは皇甫嵩と朱儁。総大将である皇甫嵩ではあったが、現在のところ最大の功労者である朱儁を無下に扱うことも出来ない、といったところかと、陳宮はここまで遅くなった理由に予測を立てた。
外に出れば、陣幕の中に入って休憩を取る前は痛いくらいに陽光を降り注いできていた太陽も、夕陽となる時間帯になっている。
二人は並んで、皇甫嵩の陣幕の方角へと歩き出そうとしたが、陳宮が何かを思いだしたかのように足を止めた。
「どうした、河?」
「いや、なに。予想以上に呂布の名前も売れたしな。そろそろ後のことも考えて顔は隠しておいたほうがいいかもしれない」
「確かにそうだなぁ。それに顔が見えないほうが、呂布の噂を広がりやすそうだ」
「ああ。兜は近いうちに作らせるとして、今からはこれで顔を隠しておけ」
陳宮はしゅるりっと胸元を飾り付けていた大き目の布を解くと、呂布に手渡す。
それを受け取った彼は、鼻から顔の下半分を覆い隠して後頭部できつく結ぶ。
見えるのは眠たげな様子の目くらいになった呂布をまじまじと見ていた陳宮は、ある程度彼の顔を隠すことができたことに安堵するも、すぐに兜を手配しなければと考え直した。
最低限とはいえ顔を隠した呂布だったが、既にこの陣地にいる官軍の殆どが呂布の姿を見ているため、幾ら顔を隠そうと兵士のほぼ全てが距離を取っている。
ここまで脅えられれば逆に清清しいと苦笑した呂布は、止めていた歩みを再開させた。
「いや、だからよぉ。そこをなんとか頼むよ、兄ちゃん!!」
そして、再び足を止めることになる。
呂布と陳宮の耳に入ってきたのはなんということもない、渋みが感じられる男の声だった。
見れば、呂布達から少し離れた場所で官軍の兵士二人が、中年の男に言い寄られている。
ところどころ薄汚れた鎧。その上から深い緑の外套を羽織り、腰には外見からは及びもつかない豪勢な装飾がされた鞘に納められた剣が一振り。
男にしては長い髪を後ろでまとめあげ、顎からはえた髭がやけに印象的だった。
そして、柔和な表情。いや、男臭くありながら、人を自然とひきつける柔らかな顔立ちとでもいえばいいのか。
さらに特筆すべきは、彼の耳。ぶらぶらと揺れるほどに耳たぶが大きく広い。福耳と表現するに相応しいものである。
そんな男性が、笑いながら官軍の兵士に話しかけているところだ。
力量的には、はっきりいってたいしたことがない。呂布の目から見れば一目でわかる。呂布は当然として、曹操や陳宮はおろか、そこらにいる官軍の兵士より若干腕が立つというくらいだろう。
呂布の興味を引くような相手ではないのは確かだ。陳宮は即座にそう判断したが、何故か己の相方はこの場から動こうとせずに、必至になって兵士達に話しかける男性に視線を送り続ける。
曹操のような覇者としての雰囲気も、気配も感じられない。
それなのにどうしたのか、僅かに眉を顰めるも、呂布はまるで先程曹操と会った時のように口角を興味深そうに吊り上げ始めた。
「おれ達は本当に役にたつって。なんといっても、この劉備玄徳率いる義勇軍なんだぜ!!」
劉備玄徳。
そう自信満々に名乗った男だったが、対する官軍の兵士の対応は実に冷ややかであった。
お前知っているか、という視線で隣の兵士に問いかけるもあっさりと首を横に振る。
あいにくと二人の兵士はその名前に全くといって良いほど聞き覚えはなかった。
名前を知られていないことに多少のショックを受けた―――かと思えば、特に気にした素振りを見せずに兵士達に抱きつきながら食い下がる。
見れば劉備の後方には多くの人影が見受けられた。
多くの、といってもその数は精々二百。
しかも、皆が粗末な武器と防具しか持ってはいない。錆び付いた剣に、鎧。
官軍のものと比較するまでもなく、果たして人を斬れる代物かどうか怪しいものである。
それに加え、どう見ても兵士として教育を受けたとは思えない者達ばかりだ。ごろつきと表現しても異論はでないだろう。
兵士としてはどうやら追い返したいと考えている思考が透けて見えた。
だからこそ、劉備もあそこまで必至になって食い下がっているのだ。
実際に官軍は猫の手も借りたいというほどに戦力的に不安である、というわけでもない。
朱儁が来る前ならば、彼らも容易く受け入れられたかもしれない。しかし、呂布のおかげで僅かな被害しか被っていない朱儁の軍が皇甫嵩軍に合流したおかげで戦力は随分と充実している。
しかも、南からは三将軍最後の一人である蘆植も向かってきているし、さらには江南から孫堅なる武将が、兵を率いて各地の黄巾賊を討ちながら北上してきていた。後数日もすれば合流できるだろうという見立てである。
そんな現状の最中、わざわざ戦力になるかどうかもわからない連中を受け入れるかどうか。
兵糧とて無限ではなく、兵士が増えれば増えるほど減りも早くなる。役に立たない兵士を受け入れ、官軍のプラスになるかどうか。官軍の兵士二人の対応も無理なかろうことだ。
「……そ、そこをなんとか!! 皇甫嵩殿に話を通してもらえれば、おれ達は必ず役に立つと証明出来る!!」
「ええい、煩い!! 皇甫嵩将軍は現在軍議中である!! お前のような下賤な者の話など聞く時間もない!!」
遂に我慢できなくなったのか、兵士も口調が荒々しくなっていく。
それでも笑顔を絶やさない劉備の背後で―――兵士達の肝を潰すような絶大な気配が迸った。
彼の後ろに居たのは一人の女性と一人の少女。
女性は一言で言うならば磨きこまれた刀剣の如き美しさ。
長身である劉備よりは頭一つ低いものの、女性では十分な身長。
長い黒髪が、風に靡き揺れている。深く澄んだ瞳に、ほんの一欠けらの剣呑さを滲ませていた。
彼女の手には矛にも似た巨大な武器。呂布が持つ方天画戟にも匹敵する超重兵器を軽々と片手で持っていることに官軍の兵士達は気づいていなかった。
少女は、女性と少々受ける雰囲気が違う。
研ぎ澄まされた武の結晶である女性とは正反対で、少女はどちらかというと獣を連想させる。
猫科の獣を思わせる少女だが、彼女の本質は猫などという可愛いものではない。
大型の獣。それこそ虎の目の前にいると錯覚するほどに恐ろしい。
一般の兵士にとってならば単純な恐怖という点では、こちらの少女の方が恐らくは上回るだろう。
女性と同じ黒髪を後ろで軽く縛っている。年齢ということもあるのだろう。曹仁とほぼ同年齢。その点を考慮にいれれば、少女の肉体的な起伏の無さも納得がいく。
そんな少女が手には矛を持ち、睨みつけるように官軍の兵士二人を射殺さんばかりに見ていた。
女性と少女。
その姿を認めた陳宮は、それは深いため息をつく。
今日一日だけで、一体どれほどの化け物と出会えばいいのだろう、と。
女性も少女も、義勇軍などというレベルを遥かに超えている。
それこそ、漢朝にもここまでの武将はいないだろう。皇甫嵩でさえも、この二人に及ぶかどうか。
そこまでの実力の武将が、ほいほいとこんな場所に現れたことに言いようのない悪寒を陳宮を襲った。
胃を痛くしている陳宮とは裏腹に、呂布は未だ言い争いをしている彼らの方へと向かっていく。
それは、陳宮が止めるのを忘れるほどに、自然な行動だった。
「なぁ、あんたら。この義勇軍については、皇甫嵩殿の耳に入れたほうがいいぜ」
「ん? なんだ、おま……え!?」
兵士の一人が突然声をかけてきた呂布に対して胡散臭そうな口調だったが、顔の半分を隠しているとはいえ、即座に彼の姿に気づく。
パクパクと地上にいる魚のように口を開け閉めしていたが、やがてヒィっと悲鳴をあげて腰を抜かす。
突如として現れた呂布に、目を丸くするのは劉備玄徳とその背後にいた二人だ。
「彼ら―――というか、この二人か。下手をしたら俺にも匹敵するだけの武人だぜ? なかなかに面白いやつらだ。他は知らんが、戦力的には一騎当千が二人増えたと思えば良い買い物だと思うがねぇ」
視線で劉備の背後の女性と少女に目配せをする呂布の言葉は、実は殆ど兵士二人には聞こえていなかったのだが、そのうちの一人が地面を這うようにして何度も頷きながら皇甫嵩の陣幕がある方角へと向かっていった。
残された一人は、呂布から逃れるように何故か劉備の背中に隠れて、ガタガタと震えている。
あまりといえばあまりの光景に、茫然としていた劉備だったが―――ようやく目の前の出来事を飲み込めたのか、満面の笑顔で呂布へと近づき両手を握る。
「おお、あんたのおかげで本当に助かったよ。これで俺たちも漢王朝のために、戦える!! お前達もお礼を言うのを忘れるなよ、関羽!! 張飛!!」
嬉しさのあまり力一杯手を握り、あろうことか呂布を抱きしめてくる劉備に、本気で迷惑そうにしながらも、相手に悪意があるわけでもなし。仕方なくされるがままになっていた呂布を離すと、己の背後に控えていた女性と少女に呼びかける。
「私は関羽雲長。貴殿のおかげで大変助かりました。深くお礼を申し上げます」
「……感謝する」
拳礼をして、深々と呂布に頭を下げる関羽と名乗った女性とは異なり、張飛と呼ばれた少女は警戒心を剥き出しに、呂布に対して厳しい目を向けていた。それでも辛うじて感謝の言葉を述べるのだが、あまりといえばあまりの対応に眉を顰めたのは関羽だ。
「こら、翼徳。我らのために骨を折ってくれたお方に、そのような態度を取るんじゃない」
「……う、わかった」
関羽のたしなめるような言葉に、張飛は明らかに嫌々ではあるが、ほんの少しだけ頭を下げる。
「張飛翼徳。助かった。礼を言う」
意地を張っているのか、それだけを口に出すと先ほどと同じく親の仇を見る目で呂布を睨み付ける。
怯えられるのは慣れているが、ここまできつい視線を向けられたことに多少驚く。
昼間は曹仁から憧れの目で見られ、今夜もまた張飛からはこのような目で見られる。今日は一体どんな厄日なのだろうかと考えながら、頭をかきながら劉備達に背を向けた。
皇甫崇から軍議に呼ばれていたことを思い出したからだ。
随分と遅くなってしまったが、面白い人間を見付けたのだから上手いこと誤魔化すことが出来るだろう。
そんな考えを脳内で張り巡らせながら、何か言いたげな様子の陳宮を伴って、劉備達の前から姿を消していった。その途中名乗るのを忘れたことに気付いたが、今更戻るのも格好がつかないと思い足を止めることはなかった。
呂布と陳宮の後ろ姿を見送った三人だったが、劉備は突如あっと声を上げる。
「あー、しまった。あいつの名前聞くのを忘れてたぜ。しまったな……」
心底残念そうに顔を顰めた劉備だったが、それに関羽は軽く頷きながら―――。
「確かにそうですが。どうせ同じ官軍の中にいるのです。すぐに顔合わせをすることができるでしょう」
「それもそうか。いやー、最初はどうなるかと思ったが、やっぱり日頃の行いのおかげかどうにかなったな」
かかかっと楽し気に笑った劉備を呆れて肩を落とす関羽。
相変わらず過ぎる主の姿に言葉もない。
だが、どんな無茶なことでも本当になんとかなってしまうのが、劉備の恐ろしいところだ。
「……」
しかし、劉備と関羽とは異なり、張飛だけはもはや見えなくなった呂布へと顔を向けたままである。
まるで視線を話した瞬間、命を落とすのではないかというほどの真剣な様子に、劉備が不思議そうな表情で首を捻った。
「あの兄ちゃんがどうかしたか?」
「……初めて、見た。私と姉上の二人でも勝てるかどうかわからない化け物に」
腹の底から絞り出す様子の張飛の言葉に、驚いたのは劉備である。
血を分けてないとはいえ、誓いを交わした義兄妹。その妹二人の実力は誰よりも劉備が知っている。
彼女たちに並ぶ武人を、劉備は知らない。圧倒的な力量差で、ここまでの道のりを踏破してきたのだ。
どれだけの物量差があろうとも、関羽と張飛の二人が先頭にたてば、それだけで戦争の勝敗を覆すことが出来た。
特に末の妹である張飛は、姉である関羽第一主義といってもいい。
その張飛が、関羽でも勝てないと遠回しにしろ言ってしまうなど想像したこともなかった。
唖然とする劉備に対して、関羽の反応は正反対である。
武人としては弱気な発言をした張飛をたしなめることもなく、自分の妹の頭を柔らかに撫で上げた。
「そうだな、翼徳。天下はとてつもなく広いということを再認識することができた。あの御仁―――到底我らでは及ばぬ」
自分の力量に自信を持っている関羽だが、かといって他人の力を認めないというような女性ではない。
どこか尊敬が混じった視線を、張飛と同じ方角に向けて優しげに笑みを浮かべた。
不思議と悔しさも怖れも、何もない。あそこまでの武人を見れたことが、単純に嬉しい。
そんな二人に倣って劉備もまた、呂布が消えていった彼方へと視線を送るのだった。