一つの戦争は終わった。
今回の討伐を指揮する三将軍のうちの一人朱儁率いる官軍と黄巾を従える三兄弟のうちの一人張梁率いる黄巾軍。
結果だけを見れば官軍の大勝利である。
大勝利とは言っても、官軍とはいえ被害がなかったというわけではない。
多くの死者や負傷者がでたが、そのほぼ全てが戦の前半に行われた野戦の時の被害だ。
呂布が張梁を一撃で屠り、その後の追討となる戦いでは手強かった黄巾軍がまるで稲穂を刈るかのごとき手軽さで、官軍は勝利をつかむことが出来た。
それに気を良くしたのは朱儁将軍である。
此度の未曾有ともいえる大反乱。それを鎮圧するために選ばれた三人の将軍。
その末席に座する朱儁だが、ここまでの大勝利を得ることが出来たのはまさに僥倖。
各地で鎮圧に動いている官軍は、相手の異常さに苦戦の報告が相次いでいる。
どこもかしこも撤退や、助けを求める要請を送ってくるばかり。
これほどの手柄をたてたのは、恐らく黄巾の反乱が起きてから朱儁が初めての将軍と言っても過言ではない。
しかも黄巾賊最強の将である、人公将軍張梁の首もついているのだ。
この戦いが終わった後のことを考えると朱儁は笑いが止められそうになかった。
内心で喜びを隠せない朱儁だったが、外面は至極冷静に見える状態で陣幕の中である人物の到着を待っているところだ。
彼の傍には幾人かの武将が控えている。
皆が皆、それなりの名家の出の官僚であり、いくら朱儁がこの軍の長とはいえ彼らを無視することはできないほどの政治的な力を持っている者達ばかり。
普段はふんぞり返り、自分より立場の低い者達を見下している彼らが、どこか借りてきた猫のように縮こまり大人しくしている姿を見るとおもわず失笑してしまいそうになる。
だが、無理もないと朱儁は気を引き締めた。
これからこの陣幕に訪れる人物のことを考えれば、朱儁とて今にも逃げ出したいと思わずにはいられないのだから。
しかし、まさか一軍の将たる彼がそのようなことをするわけにもいかない。
「しゅ、朱儁将軍!! お、お連れ致しました!!」
可哀相なほどに脅えて、震えている報告が陣幕の外からかけられる。
いよいよか、と気がつかないうちに緊張で乾ききった唇を舌で舐めて濡らした朱儁は、誰にも気が疲れないように両の手のひらをを強く握り締めた。
そして、それから一拍を置いて、二人の人間が陣幕の内部へと訪れた。
朱儁の目の前にて平伏をする黒髪の美女。
話を信じるならば名を陳宮。やや吊り上った目元が勝気な印象を与えてくるが、それでも本能的にあらゆる人間の視線を集める美女だ。黒一色でお洒落も何も考えていない服装だが、逆にそれが彼女の美しさを際立たせている。纏う雰囲気はまるで氷。恐ろしいほどに冷たく、声をかけることすら憚られる。
宮中にて数多くの美女を見てきた朱儁だが、目の前の陳宮の容姿はその中でも群を抜いていた。傾国の美女と称してもおかしくはないほどに。己が権力を行使してでも、戦争が終わった後に自分の手元へ置いておきたいと思わせるほどに心が惹かれた。だが、そんな真似をできるはずもなく。勇気も無い。相手は仮にも伝説の武人を従えている者。わざわざ虎の尾を踏むような危険を冒すべきではない。
そして陳宮のやや斜め後ろに、伝説はいる。
彼女が氷ならば、彼は炎。如何なる者も、物も灰燼となるまで焼き尽くす。
外見だけではただの優男にしか見えないが、それが異なっていることにこの陣幕にいる人間皆が知っている。
いや、例え先程の張梁との一騎打ちを見ていなかったとしても、理解できるだろう。
眠たげにしている銀髪の武将。だが、彼を中心として渦巻いているのは―――あらゆる存在の心を圧し折る圧倒的なまでの強者の気配。飢えた人食い虎の檻に閉じ込められたとしても、ここまでの恐怖は感じまい。
まさしくここに座する呂布奉先は、乱世というものを人の形にまで凝縮した存在そのものだ。
平伏する陳宮とは異なり、呂布奉先は軽く拳礼をするだけにとどまった。
一介の兵士に過ぎない呂布の行動はあまりにも無礼。普通の兵士だったならば間違いなく厳罰に処せられたはず。されどそれを無礼とは問えない。存在としての格が違う彼に対してそんな発言をすることができるのはこれ以上ないほどの愚か者だけだ。
「―――先刻は、真に失礼致しました。出過ぎた我が差配を深くお詫びすると同時に、将軍の寛大なる御処置に感謝いたします」
深々と平伏している陳宮の言葉に、朱儁は鷹揚に頷く。
内心の恐れを表情に微塵も感じさせない官軍の将軍だったが、陳宮からしてみれば彼の内心など手に取るようにわかってしまう。
表情は澄ましているが、手の震えまでは隠しきれていない。
もっともこの陣幕の中で震えていない者など、呂布と陳宮の二人しかいないのだが。
「顔をあげよ、陳宮殿。貴殿達の働き実に見事であった」
「……勿体無きお言葉。差し出がましい行為だとは思いましたが、それをお許しいただいたうえにお褒めのお言葉を頂けたこと、恐悦至極に存じます」
「貴殿の進言がなければ、あやつの挑発に我は乗ってしまったかもしれぬ。我は将。兵を率いることこそが本分よ」
「私も同感だと思っております」
「うむ。貴殿達はあの黄巾賊どもに、官軍の武威を示してくれた。しかも、張梁の首をあげる……実に見事」
極上の美女である陳宮の台詞に気を良くしたのか、朱儁は流れるように言葉を続ける。
「流石は伝説の武人を従える者よ。この乱を平定したあかつきには、貴殿らに十分な恩賞が与えられるように私からも口添えをしておこう」
「有り難き幸せ。朱儁将軍の懐の深さ。この陳宮言葉もありません」
己の気前のよさ。さらには陳宮の痺れるような甘い言葉に、ある種の陶酔感を全身に浴びていた朱儁は上機嫌で、呂布と陳宮の二人に退出を促した。
陳宮は宮廷の人間も驚くほどに優雅に礼をして、呂布は欠伸をしながら、陣幕をでる。
外に出た二人に降り注ぐ赤い光。
眼を細めて空を見上げれば、地平線の彼方に太陽が沈みつつある光景が瞳に映った。
視界全ての景色を赤く染め上げる夕陽を暫く無言で眺めていた二人だったが、どれくらいそうしていただろうか。気がついたときには太陽は沈み、あたりは薄暗い時間帯となっていた。
数多くの陣幕が張られ、その近くでは此度の戦を生き抜いた兵士達が焚き木を囲んでいる。
たわいもない世間話であったり、今回の戦の手柄であったり、これから先の黄巾との戦いのことであったり。
そんな兵士達を見守るようにパチパチと火花が散り、暗い世界を灯す。
そういった兵士達を一瞥すると、二人は肩を並べて背を向けて歩き出す。
幾つもの建物を越え、階段を昇り、やがて二人が辿り着いたのは昼間眼下を見下ろしていた城壁の上であった。
その場所に陳宮は腰を下ろし、呂布もまた彼女の隣に座りこむ。
城壁の内部では兵士達の声が聞こえてくる。戦場を生き抜くことができた安堵のこもった笑い声だ。
「しかし、呂布の名前というのはたいしたものだな。まさかここまで脅えられるとは思ってもいなかったぞ」
昼間とは異なり、薄暗い闇に覆われた遠方の彼方へと視線を送りながら呂布は若干呆れを滲ませて呟いた。
隣の相棒の呟きに、陳宮は苦笑を隠せなかったようで、ははっと微かに笑みを漏らす。
「全くだ。多少の効果はあると思っていたが……官軍や黄巾の連中のお前を見る目を見たか? まるで伝説の怪物をみるかのようだった」
「天をも穿つ、四海において比類なき飛将軍。人中の呂布。あいつが為した偉業を少しでも噂に聞いていれば、あの反応は当然かもしれんがねぇ」
曰く。攻め入ってきた烏桓の軍勢を一騎で壊滅させた。
曰く。南方よりやってきた巨獣を操る軍勢を一騎で虐殺した。
曰く。西方の羌族の数多の部族を一騎で血の海に沈めた。
曰く。古来より幾度となく悩まされていた匈奴の侵入を一騎で防ぎきった。
到底信じられないような眉唾な話ばかりが伝説として語られている。
それが故に、呂布という存在は生きる伝説として中華の民に知られているのだ。
ある者は、それを人の噂が生み出した幻想と鼻で笑い。
ある者は、伝説に尾ひれがついた話だと馬鹿にする。
少なくとも、この場にいる官軍の人間達も昨日まではあくまでも伝説としか認識していなかった。
その伝説の存在が今まさにこの地に現れ、その伝説に負けない働きをして見せた。
例え味方であっても、頼もしいと感じるよりも恐怖を感じるほうが余程大きかったとしても無理はない話である。
「……私が聞いても呆れるような噂だが。恐ろしいことに、それが全て事実だということか。普通は噂とはメダカが鯨になるものだが、噂の方が可愛いものなのは逆に面白いかもしれないな」
「それは俺も思ったぜ。全く……今思えば呂布ってのは恐ろしい怪物だな」
まるで他人事のように、陳宮と同様に苦笑を浮かべる呂布奉先。
呂布が呂布を語る。もしこの場に陳宮以外の人間がいたならば、そんな違和感を覚えたであろう二人の会話。
しかし陳宮は、苦笑している呂布を呆れが混じった瞳で貫き、深いため息をついた。
「……お前が言うか、それを? 呂布の伝説は、呂布奉先だけにあらず。お前が呂布の伝説の一部を打ち立てたことを忘れていないか、銀?」
「そうだったか?」
「そうだった。この前匈奴と戦ったのを忘れたわけじゃないだろう?」
「果てさて。最近物忘れが激しくてな」
肩をすくめる呂布奉先。本当に覚えていないのか。それとも覚えていてとぼけているのか。
どちらか見分けがつかない表情で、自分のぺースを崩さない呂布に、やれやれっと首をふった陳宮だったが別に本気で怒っている訳でもない。
この程度のことは何時ものことであり、ただの日常会話なのである。
そんな呂布を見ながら、陳宮は今日も一日が無事に終わったことに気づかれないように心中で胸を撫で下ろす。
撫で下ろすほどの胸もない―――というのは多少可哀相だが、彼女の呂布を見る目は常に温かで慈しみに溢れている。
十年以上も前に命を助けられてから、陳宮は片時と離れずに呂布とともにいた。彼女にとって呂布とは兄であり、父であり、師であり、この世界全ての人間を天秤にかけてもなお重い価値の男である。
彼の絶大な力を誰よりも知ってはいるが、戦場においては何が起きるかわからない。
栄枯盛衰。如何なる強者も、何時かは死が訪れる。そう、彼女が知る最強の武人でさえもを命を落とすことになったのだから。
だからこそ、陳宮は呂布が戦場に行くたびに、胸が張り裂けんばかりの不安と戦っているのだ。
「まぁ、ぼちぼちとやっていこうぜ。無理に焦ることは無いさ、河」
悪戯小僧のように笑顔を見せる目の前の青年。
その笑顔に陳宮―――呂布に河と呼ばれた彼女の胸が高鳴る。
全身が沸騰したかのように熱く。体温が上昇した。頬が赤く染まり、反射的に俯いてしまった。
一騎当千。天下無双。人中の呂布。最強の武。暴神。
数多の字で呼ばれる―――名も無き青年。河によって銀と名付けられ、今は呂布と名乗る銀髪の青年は相方の様子に気づかず、彼方を見つめる。
そんな彼の横顔をちらりと盗み見た陳宮は、今日の一日を感謝して、この幸福の時間を過ごすのであった。
▼
黄巾三将軍のうちの一人。
張梁が敗北したことは瞬く間に中華全土に伝わった。
反乱を起こしてからは常に全戦全勝。一度たりとも退く事はなかった張梁の戦死は、官軍と黄巾にとてつもない衝撃をもたらした。
勿論両軍にとってはその衝撃が百八十度異なる意味合いを持っていたのだが。
そして、張梁を討った者の名前も相俟って、その衝撃の話に拍車をかけたともいえた。
反乱を鎮圧するために選び抜かれた三人の将軍。
その筆頭ともいえる人物が、ここ豫州にいた。
皇甫嵩義真。
名家の生まれでありながら、ありがちな驕りはなく。文武両道に優れ、才ある者を正等に評価する。
まだ年若いながらも、多くの兵士や民に慕われる漢朝に残された数少ない武人。
そんな皇甫嵩が、自分の陣幕に訪れた朱儁を前にして笑顔を浮かべた。
「報告は届いています。見事な働きだったようですね、朱儁将軍」
皇甫嵩と朱儁は拳礼をかわすと、その場に腰を下ろす。
「漢朝に仕える将として、当然のことをしたまで」
どこか余裕を滲ませて朱儁は皇甫嵩にそう告げた。
張梁を打ち破った情報が皇甫嵩に流れているのと同様に、朱儁にも皇甫嵩側の情報も流れてきている。
死を恐れない黄巾の軍勢を前にして、勝利を掴む事が出来ていない、と。もっとも、大敗もしておらず現在は戦線が拮抗状態になっているといってもいい状況である。
それも無理は無い。
朱儁も兵士を束ねる将軍。だからこそわかったことがある。
平和に慣れきった官軍の兵士達は、正直な話ろくに役に立たないと言うことだ。
多少の訓練を積んではいるため、本来ならば農民が多い黄巾の連中如きに遅れを取るはずも無い。
だが、相手は死を恐れない。殺すことを躊躇わない。死を超越した相手なのだ。
そんな亡者の群れを前にして実戦経験の乏しい官軍ではまともに戦うことすら出来ないのも当然。
朱儁とて、もしも呂布奉先という名の怪物がいなければ今この場にいなかったかもしれないのだ。
それを考えれば、よくぞ黄巾の大軍勢をこの地で止めることができているものだと逆に感心してしまったほどだ。
その心中を口に出すほど朱儁も人が良いわけではない。
わざわざ政敵である皇甫嵩の株をあげることもないのだから。
「朱儁将軍。貴殿が来てくれて助かりました。これで戦局にも活路を見出せるかもしれません」
「何をおっしゃる。皇甫嵩殿が、そのような弱気でどうされますか」
確かに朱儁の言うとおり、将軍としては弱気な発言だった。
まるで負け戦を行うかのような言葉に、朱儁が眉を顰めるのも当然のことといえるだろう。
自分の発言に、多少慌てて―――失礼っと軽く頭をさげる。
相当に疲労がたまっているのか、今にも倒れそうな印象をその場にいる者たちは受けた。
「……無理もない、か」
朱儁の背後。
陣幕の入り口付近に腰を下ろしていた呂布は知らず知らずのうちに呟いていた。
漢朝に皇甫嵩義真あり。
そう謳われるほどなのだからどれほどの人物なのだろうか、と期待をしていたが実際に会ってみて珍しく呂布が驚かされた。
歳若いとは聞いていたが、呂布の想像を遥かに超えていたのだ。
見かけは精々が十七か、八。少なくとも二十を越えているということはないと踏む。
金に近い栗色の長い髪。翡翠に輝く瞳に、珠のようなつやのある肌。後数年もすれば、誰もが見惚れる美女になるのは想像に難くない。呂布とは異なる純白の鎧を身に纏った小柄な少女。
それが官軍総大将。皇甫嵩義真という人物だった。
彼女の纏った雰囲気。気配。身のこなし。隙の無さ。
それら全てが常人を遥かに超えていることを、呂布はあっさりと看破した。
外見だけでは侮られるかもしれないが、確かに彼の前にいるのは噂に名高き聖将。
その実力に偽りは無かった。
優れた兵士がいれば彼女がここまで苦戦することはなかっただろう。
瞬く間に反乱を鎮圧し、己に与えられた任務を全うすることができたはずだ。
しかし、それが為せないほどに、官軍の兵士はろくな働きをすることができていないということだ。
それでも相当な疲労を感じていながらも、力強く瞳は輝いている。
そして、その瞳と呂布の瞳が交錯した。
バチリっと火花が散ったと錯覚するほどに激しく。
そこで初めて皇甫嵩のくりくりとした大きな目がさらに見開かれた。
「―――貴方が呂布殿、ですか?」
「ああ。呂布奉先。以後お見知りおきを」
呂布にしては非常に珍しく、軽く頭を下げた。
とても総大将を前にしての言葉遣いとは思えないが、皇甫嵩はそれを咎めようという気にはならなかった。
そしてそれは、彼女の部下もまた同様である。彼女の傍に侍っていた武将達は、呂布が周囲に発している威圧にも似た気配に息を呑む。
例えこの場の全員で斬りかかったとしても、傷一つつけることはできないだろう。そんな予感をひしひしと感じていた。
皇甫嵩は己が自然と緊張していることに暫しの間気づくことが出来なかった。
向かい合うだけでここまで精神力を磨耗するなど、とんと経験したことがない。
まだまだ若いとはいえ、数多の戦場を駆け抜け。宮廷内の謀略をも経験し、それなりに自分に自信を持っていた彼女でさえも、このような規格外の存在を見たことが無かった。
例えるならば人の形をした乱世。
なるほど、と皇甫嵩は内心で一人頷く。
実は彼女は呂布の存在を信じてはいなかったのだ。
黄巾最強の張梁を打ち破った者。その名を呂布奉先。
それを聞いた時、ある程度の実力を持ったものが呂布の名を騙ったのだと予想をしていた。
しかし、実際に目の前にしてようやくわかった。
この青年こそが、呂布奉先なのだと。
皇甫嵩とて、彼の全てを理解出来たわけではない。
例え彼が呂布の名を騙る偽者であったとしても。それを騙ることを許されるほどの人外の域に達した怪物。
少なくとも彼女が知る限り、誰よりも強い。しかも圧倒的に。歯牙にもかけないほどに。
それを素直に認めてしまった。
「―――呂布殿。貴方の力添え、期待しています。漢のために、天下無双の力をお貸しください」
あろうことか、皇甫嵩はそう言って頭を下げた。
仮にも総大将たる彼女が、幾ら伝説の武人とはいえ一介の兵士である呂布に頭をさげるなど考えられることではない。
それに慌てたのが周囲の人間達だ。ぽかんっと口を大きく開けて何が起こったのか理解できていないようだった。
数秒もそんな時間が流れただろうか。この場で次に反応をしたのは呂布その人である。
「……御意」
拳礼をして、再度頭を下げる呂布。
平伏をしている陳宮と視線があったが、彼女はどこか面白そうにしていながら―――どこか不満そうにもしていたことに呂布は気づく。
しかしながら、まさかこの場で話し出す訳にもいかず、後で話をするかと考えたその時。
パカパカっと馬が駆ける音を、優れた聴覚を誇る呂布がいち早く気づく。
その音に不可思議に眉を顰めた呂布が陣幕の入り口から外に出る。手には自分の得物である方天画戟を忘れずに握っていた。
そんな呂布の様子を訝しく見ていた陣幕の者達だったが、次に気づいたのは陳宮だった。
どこか緊張した様子で呂布の下へとやってくる。
「……何かが、くる?」
「ああ。いまいち、わからん。得体の知れない、何かが一人いる」
「……」
呂布をして、得体の知れないと言わしめる相手に、さしものの陳宮も背筋を粟立たせる。
十年以上も一緒にいるが、彼がそこまでの評価をくだした相手は、彼女とて一人しか知らない。
馬蹄の音が立て続けに聞こえ、数体の馬が砂埃をあげながら疾走してくる。
僅か数体ながら、それだけで一軍に匹敵しかねない圧力を発している光景に、呂布が嬉しそうに眼を細めた。
砂塵を巻き上げ、遂に騎馬が皇甫嵩の陣幕の前まで辿り着く。
そして―――その騎馬から一人の少女が鞍から地面に降り立った。
重力を感じさせないほどに優雅に、華麗に、美しく。
呂布と同じ太陽の光で照り輝く銀の髪。
腰近くまで伸ばしていながら完全に手入れをされ、反射的に触りたくなるほどの美髪。
燃えるような赤い瞳。血のように。宝石のように。人の心を魅了する輝きを放つ眼。
細い眉。すっきりと鼻筋が通っており、唇は瑞々しい果実のように水分を含んでいた。
僅かたりとも染みもない。あまりにも美しい白い肌。日焼けをしたことなでないような、そんな白磁を連想させる色だ。
神々しいともいえる衣服をはためかせ、赤い外套が風に揺れる。
小柄な体躯といえど、何故かそれが奇妙なほどにこの人物と調和していた。
呂布の傍には常に陳宮がいたために、彼の審美眼は相当に厳しい。
そんな呂布でさえ、一瞬とはいえこの少女には目を奪われた。
まさしくこの世のものとは思えない美貌。誰もが見惚れ、それと同時に恐れる容貌といっても良い。傾国の美女というには、彼女が纏っている空気があまりにも外れすぎている。
戦気や覇気などは戦場で感じることは数あれど、呂布にとってもこの類の気配を纏う人間に初めて会った。
言うなれば神気。選ばれた者のみが纏うことが出来る超越者の気配だ。
ぞくりっと呂布と陳宮の身体を撫でる少女の気配。
武人としても相当な腕前なのは一目見て明らか。
それでも純粋な武人としての腕前ならば、呂布は一合のもとに目の前の少女を切り伏せる自信があった。
そして、それは紛れもない事実だろう。
呂布奉先は天下無双。四海において、彼に勝る武は存在しない。
しかし、目の前の美しき銀の獣は―――。
「―――はっ。中華は、広いな」
口角を吊り上げて呂布は獰猛な笑みを浮かべた。
少女は人にして人にあらざるもの。
生まれながらにして、人の上に立つことを定められたもの。
即ち、天が王と認めた者に他ならなかった。
銀の少女は呂布に気づいた瞬間、足を止める。
すましていた表情が、驚愕に変わったことに若干の満足を覚える呂布。
それでも、流石は王の風格を漂わせるだけはあり、驚愕の感情を即座に消し去ると、逆にどこか嬉しそうな笑みを浮かべてパチリっと呂布に目配せを送った。
そんな意外な所作に、呂布は興味を惹かれる。彼の人を圧する気配をここまでの近距離でうけてなお、平然としている少女に興味を抱くなというほうが無理な話だろう。
その時、少女の後ろ姿を見送った呂布の左の爪先に鈍い痛みがはしる。
何事かと思えば、どこか不機嫌そうに陳宮が彼の足を踏んでいたのだ。
口を尖らせて、頬を膨らませる姿は、美人と言うよりは可愛らしいというほうがしっくりとくる。
不満一杯の様子の陳宮に苦笑すると、ポンっと肩を叩く。
不機嫌さを隠そうともしない陳宮だったが、それで若干の機嫌をなおす。
手軽な奴だと考えていた呂布は、少女が消えていった皇甫嵩の陣幕の中へと再度入室すると―――中では先程の少女が、皇甫嵩に対して平伏している場面だった。
これほど平伏が似合わない人物を初めて見たと呂布が二人を眺めていると、銀の少女が立ち上がり背後に向き直る。
パシンっと激しい音をたてて拳礼をすると、傍目には朱儁に対しておこなっているようだが、その実視線だけは呂布を絡めとるように向けてきている。口元に浮かべている笑みは、あらゆる異性同性問わず心を奪われそうになるほどの魅力を発していた。
そして―――。
「手前は姓を曹。名を操。字を孟徳と申します。以後お見知りおきを」
乱世の覇王―――曹操孟徳。
天下無双―――呂布奉先。
ここに邂逅す。