天下無双   作:しるうぃっしゅ

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二話  呂布と張梁

 

 

 

 

 官軍と黄巾軍を併せると軽く万を超える人間がいる戦場。

 あちらこちらに死体が転がり、この世の地獄を思わせる世界が広がっている。

 然れど今現在、この場所は中華で最も静かな一画であることは疑いようがなかった。

 何故ならば、これだけの人間が武器を持ちながら、物音一つ。囁き声一つ。発することなく、両の眼でたった一人の人間に目を奪われていたのだから。

 

 黄色い大海の中心にポツンとそびえ立つ孤立した城。

 その城壁の上に黒い甲冑を纏った銀髪の青年が、片手で方天画戟と呼ばれる超重兵器を軽々と持ちながら欠伸をかみ殺していた。明らかに気の抜けた姿でありながら、誰一人としてそれを咎める者はいない。いるわけもない。

 

 銀髪の青年。

 その名を呂布奉先。

 善も悪も。漢も異民族も等しく滅ぼす人の姿をしただけの化け物。

 生きながらにして伝説の域に達した存在を前にして、思考を奪われるのも当然の事態と言えた。

 それは黄巾の首魁である張梁とて例外ではなく、呂布が纏っている得体の知れない雰囲気に、ごくりっと溜まっていた唾液を飲み込んだ。それが静寂の中でやけに大きく聞こえた気がした。

 

 しかし、流石は張梁というべきか。

 この場にいる誰よりも早く自分を取り戻すと、惚けていた己を恥じるように手に持っていた長槍を一閃する。

 迸る彼の戦意が、凍えていたこの場の流れを動かすきっかけとなった。

 

「―――貴様が、呂布だと!? 官軍は遂にそのような世迷い言を口に出すようになったか!!」

 

 激しい怒りを込めて張梁が雄叫びをあげる。

 いや、そうでもしなければ城壁の上に見える黒い甲冑をきた怪物に呑まれてしまう。

 そう判断してのことであった。

 

「信じるも信じないのも、あんたの自由さ。だがな、俺が【呂布奉先】だ」

 

 張梁の怒声を、ハッと鼻で笑った呂布の肉体がその場から爆ぜるようにはじけ飛んだ。

 今の今まで立っていた城壁の石畳が抉られ、爆散したかと勘違いしそうな勢いで粉塵となって周囲に散らばった。

 巻き起こされた石埃に、迷惑そうに眉をしかめたのは陳宮だけである。

 他の人間は何が起きたのか理解出来ないのか、突如起こった粉塵に目を奪われていた。

 

 そしてこの瞬間、呂布が取った行動を即座に理解できたのは、やはり長年連れ添ってきた陳宮ただ一人。  

 

 あろうことか呂布は―――城壁の上から飛び降りたのだ。

 

 当然、城壁とは城を守るために建てられるものであり、人が飛び降りて無事で済む程度の高さの筈がない。

 誰もが、地面に叩きつけられて赤い花が咲くと予想したそれを裏切り、十メートル以上もの高さから一つの黒い弾丸となって飛翔した彼は、呆然としている黄巾の者達の中へと着地する。

 

 ぐちゃりっと生理的嫌悪感を呼び起こす気色の悪い音が、再び訪れた静寂を打ち破った。

 唖然とする黄巾軍のみならず官軍も同様で、呂布は降り立った地面で平然と立ち尽くしている。

 仮にも敵である数千を超える黄巾に囲まれていながら、彼の余裕の態度が崩れることはなかった。黄巾の兵士達程度では、到底呂布に脅威として認められてすらいない。いや、敵とさえ認めていないのかも知れない。

 よく見てみれば、そんな呂布の足元にはピクピクと痙攣する黄巾の兵士が数人ほどいるのだが、誰一人としてそれを非難し、糾弾する者は現れなかった。

 目の前に降り立った黒い怪物の注意を僅かたりとも引きたくないと、人間としての本能が激しく忠告を繰り返していたからだ。

 

 立っているだけで人を呑み、場を支配する呂布奉先は、激しく睨み付けてくる張梁を一瞥すると、そちらへ足を向ける。

 当然、二人の間には数えるのが馬鹿らしくなるほどの黄巾の兵士がいるのだが、彼らは呂布が近づくにつれ、怯えたように離れていく。

 呂布が一歩踏み出せば、黄巾の兵士も一歩退く。

 それはまさに神話に語られる十戒の如き光景であり、城壁の上から成り行きを眺めている官軍の兵士達は、それを馬鹿にすることはできなかった。

 仮に逆の立場であったならば、間違いなく自分たちも同じ行動を取っていたことは想像に容易かったからだ。 

 

 黄色の大海をゆっくりとした歩みで切り開いていく、たった一つの漆黒。

 

 やがて二人の距離は徐々に近づいていき、互いの顔を細かく観察できる間合いまで詰めるに至った。

 二人を分け隔てるものはなにもない。黄巾の兵士達は、守るべき対象である張梁の前に立ちふさがることもなく―――いや、立ちふさがることができないといった方が正しいか。

 呂布の放つ無言の威圧感が、彼らをその場に縛りとどめているのだから。

 

「道化、者がっ!! お前が、呂布のはずがない!! 偽りの名を語り、戦を愚弄するか!! 小僧!!」

「先程も言ったが、あんたが信じずとも俺が呂布なのは事実さ。それに別に戦を愚弄するつもりなんざない。俺が愚弄するまでもなく、くだらねぇことだろ? 戦なんてもんはな。そうは思わないか、髭のおっさん」

「―――我らが戦いを下らぬと申すか!!」

 

 呂布の台詞に、血走った目で長槍を振るう。

 浮き出た血管がビクンっと震えて、巨体を誇る張梁が歯を剥き出しにして唾を飛ばす勢いで吠える。

 遠く離れていた城壁の上の官軍達は、張梁の怒声に身体を竦ませた。

 彼の怒りを真正面から受けた当の本人である呂布は、相変わらずの様子で蒼天を見上げ、ため息をつく。

 

「ああ、下らんさ。戦をする奴なんざ、皆まともじゃないね」

 

 俺も含めて―――そう、小さく呟いた呂布が皮肉そうに口角を吊り上げる。

 そんな敵の姿を多少意外に感じたのか、ギラギラと獣のように光る目の張梁は、交錯した相手の深海のように深い底知れない瞳に呑まれ、戸惑いを隠せない。

 

「―――なぁ、あんた。もう少し違う方法はなかったのか?」

「っ!?」

 

 蒼天を見上げていた呂布が視線を張梁へと戻した瞬間、優しげに語りかけてきた。まるで全てを見通したかと思われる台詞に周りの者達は一体何のことを言っているのかわからなかったようだが、一人だけ張梁が大きく目を見開いて身体を一瞬とはいえ振るわせたことに気づいたものはいなかった。

 

「数えるのが億劫なくらいの人を斬り、勝ち続けてきた俺だからこそわかることもある。いや、そんな俺だけにしかわからないこともあるさ。あんたは、自分に負けちまったんだ。安易な道を選んで突き進んでしまった。あんたはこんなくだらない戦いに命を捧げるべきではなかったな」

「―――だまれっ!!」

 

 淡々と語る呂布の発言を止めようと、張梁が雄叫び染みた声をあげる。

 びりびりと空気が震動し、荒波となって波紋状に広がっていくのがはっきりとわかった。

 これまで以上の憤怒を発し、黄巾を率いる最強の将たる彼は、手に持っていた長槍の穂先を呂布へと向けてぴたりと止める。

 

「お前に!! お前如き若造に何がわかる!! 我らがどれほどの葛藤と苦しみを味わってきたか!! 中華の民がどれだけの―――」

「―――ああ、もういいさ。もういいんだ、張梁さんよ。自分に負けたあんたの言葉じゃ、俺の心には届かんよ」

 

 血を吐くような張梁の咆哮を至極あっさりと中断させると、呂布はゆっくりと首を横に振る。

 

「自分が望んで求めた天を忘れたあんたは、ここで俺に斬られたほうが幸せさ」

「―――抜かせ、小僧!! お前のような若造が!! 我らの夢を語るな!!」

 

 呂布は静かに語る。

 張梁が吼える。

   

 この戦場においてただ二人だけ戦意を発する怪物同士が遂に決闘を開始した。

 馬に乗っている張梁。対しては地上に自分の足で立つ呂布。

 普通ならば、歩兵では騎兵に勝つことは出来ない。圧倒的な差がそこには生まれるからだ。

 それを計算に入れた張梁は、馬の腹を蹴りつけ戦場を駆ける。

 血の匂いが混じった風を後方へと置き去りにして、幾度も戦場で勝利をもぎ取ってきた黄巾の首魁。人公将軍張梁は、己を信じてついてきている数十万の民の想いを背負い、人外の怪物と化す。

 人の限界ともいえる速度。人の限界ともいえる膂力。それらを完全に使いこなし、黄巾を背負った怪物が呂布へと迫った。

 

「ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 その瞬間、官軍の兵士達は確かに見た。

 張梁の背後に蠢く―――数十万の兵士達を。

 それは幻だ。張梁の気迫が見せた幻視にすぎない。

 だが、それでも彼の発する覇気は、遠く離れた官軍の兵士達をも脅えさせるには十分に足りえる凄まじいものであった。

 

 だが―――。

 

「―――こりゃ、すげぇ。たいしたもんだ。だが、たかが数十万程度の想いで、俺を超えられるとは安くみられたものだ」

 

 はっと小さく息を吐き出し、方天画戟を蒼天に掲げる。

 その行動だけで、天は呂布を恐れたように雲が散っていく。

 

 やるきのなかった呂布の表情が一変。

 ギラリっと視線が鋭くなり、口元が一文字に結ばれる。

 爆発的に膨れ上がる気配。圧倒的という言葉すら生温い、見ている者の臓腑全てを抉られるような感覚がすべての人間を満たす。畏怖も絶望も、何も無い。あるのは単純なまでの絶対的な捕食者へ対する―――恐怖のみ。

 

 天下無双の称号に偽りはなく。

 一騎当千の称号に偽りはなく。

 

 確かにここにいる黒い甲冑の青年は、四海全てに名を轟かせる伝説の武人。

 

 呂布奉先だということを、この場にいる全ての人間に本能が理解をさせていた。

 

 

 そして―――天下無双の一撃が空を断つ。

 天を割り、地を砕く。

 人では到達し得ない、到達してはいけない領域の天地鳴動の斬撃が迸った。

 

「……ばか、な」

 

 茫然とした呟きがあがる。

 交錯した呂布と張梁。馬上から長槍を突き出したはずの張梁の肉体がぐらりと揺れる。

 血煙があがり、彼の持っていた長槍が半分に叩ききられて地面に転がっていく。

 

 無論それだけではなく、張梁自身の巨躯も―――右肩から左脇腹にかけて一刀のもとにて切り裂かれて、左右に上半身と下半身別々にずりおちていった。

 しかも、彼が乗っていた馬さえも、真っ二つに両断されて、血の海に沈んでいる。

 

 誰も彼もが目を疑った。

 張梁が馬を走らせ槍で突きを放ったところまでは目にしていたが、それから先が確認できなかった。

 無造作ともいえるほどの動きで、呂布がその横を歩いて通った。

 それが今の瞬間に起こった出来事なのだが―――呂布が方天画戟を振るった姿を捉えたものはいない。

 

 つまりは、誰の目にもとまらぬほどの速度で攻撃を放った。

 方天画戟という名の超重兵器でありながら、人間の動体視力の限界を容易く超越した斬撃を見舞っただけだ。

 万を超える人間の誰一人として目にも留まらない一撃を放つなど、どれだけ人間離れをした攻撃だったのか、観客達は呆然としながらもそれを本能で理解した。

 

 

 確かに張梁は多くの人間の想いを背負って戦ってきた。

 人の限界ぎりぎりの力を引き出し、乱世が生み出した怪物となった黄巾最強の将だったかもしれない。

 

 しかし、今この場にいる黒い怪物は、人の限界を容易く超える。

 乱世が生み出した怪物ではなく。

 

 彼こそが、乱世そのものだった。

 天は慄き、風は恐れ、大地が悲鳴をあげる。

 

 

 戦いが終わってなお、迸っているのは黒い重圧。

 張梁だけでなく、このまま黄巾はおろか、官軍までもを焼き尽くしかねない恐怖を漂わせている。

 自分達の将を討たれたというのに、黄巾の兵士達は茫然と佇んだままだ。

 それほどまでに、呂布奉先という怪物に心を喰われてしまったのだから。

 

 戦場を包む静寂。

 そして、次に我を取り戻した人物は―――朱儁その人である。

 

「―――全軍!! 突撃ぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいい!!」

 

 喉が張り裂けんばかりに、朱儁は吼えた。

 今このときこそ勝敗を分ける一瞬。そう判断しての咆哮だった。

 官軍達はハっと気を取り戻すと、もはや陣形なども考えることもなく武器だけを握り締めて城門を開くと外へと飛び出していく。

 指揮官を討たれ、さらには呂布奉先という怪物を目の当たりにした黄巾の兵士達は当然総崩れとなる。

 戦う意思など微塵も無い。それぞれが必至になって逃げ惑う。

 

 もしも、ただ張梁が討たれただけならば、彼らとて命を捨てて官軍と戦っただろう。

 だが、眼前にて佇む一匹の黒き獣。漆黒の乱世。天下無双を前にすれば、そのような意思など容易く折れる。

 怒号と悲鳴が混じった戦場で、呂布は自分の役目は終わったと理解したのか、官軍達とは逆走する形で城へと足を向けた。

 

 我関せずといった彼の姿を目の端に捉えながらも、官軍は誰も声をかけることは無い。

 単純に恐ろしい。味方でありながら、呂布という名の存在はあまりにも恐ろしすぎた。

 彼に関わるくらいならば、命の危険があるとはいえど、黄巾との戦いに加わったほうが遥かにマシだ。

 

 ひしひしと伝わってくる味方からの恐怖を気にも留めず、呂布は方天画戟を担いで城門のところまで戻ると、そこには一人だけ彼を迎える者がいた。

 

 黒髪の美女。

 呂布奉先の十年以上の付き合いのある相方。

 彼に恐れを抱かないただ一人の人間―――陳宮。

 

「なかなか見事な戦いだったぞ」

「あんなもんでよかったのか?」  

「ああ、十分だ。呂布の名に違わない、官軍達には呂布の名は間違いなく刻まれた。いや、黄巾にもか」

 

 気安く手をあげて呂布を迎えた陳宮は、くくっと笑みを漏らしながら黄巾を掃討している官軍の後姿を眺めている。

 それに倣って、呂布もまた陳宮の視線を追うように、遠方で行われる殺戮劇をただ黙って見つめた。

 絶叫が絶え間なくあがり、風に乗って血臭が運ばれる。ここが戦場なのだと嫌がおうでも理解してしまう惨状。   

 

「―――はてさて。後どれくらいで俺達の目的を達成させることができるかねぇ」

「さぁな。長い道のりになるとだけしか私にも判らない。それに私がどう言おうが……お前は諦めるつもりはないのだろう?」

「……当たり前だ。あの時の誓いは、絶対に忘れん。忘れてたまるものか」

 

 もしもこの場に陳宮以外の人間がいたら驚いたに違いない。

 呂布の吐き出す言葉には熱い感情が込められていたのだ。まるでマグマのようにどろどろとして、触れたものを焼き焦がす。そんな灼熱が今の彼からは感じられた。

 陳宮は、感情を露にした呂布を愛おしそうに、慈しむような優しい眼差しで見つめたまま、小さく頷く。

 

「呂布奉先の名前を歴史に刻む。私とお前の二人で、だ。悪名であれ勇名であれ―――何百年先にもその名が轟くように」

 

 静かに語る陳宮に、呂布は己の中の熱を逃がすように深く息を吐き出した。

 そして、無言で頷いて彼女への返答とする。

 

 戦いが続く遠方から視線を上空へと向けなおす。

 天はどこまでも高く、どこまでも遠い。

 蒼く澄み渡る空へ向かって右手を掲げ、手を開き―――握り締める。

 

「―――刻んで見せるさ。呂布奉先の名前をな」

 

 蒼天を掴み取ろうとする呂布へと、陳宮は自然に歩み寄る。

 そして彼の傍らで静かに空を見上げた。その姿はまるで比翼の鳥。

 決して離れることはない。言葉にはせずとも、彼女は己の態度で確かに語っているようにも見えた。

 

 

 

 

 

 

 


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