天下無双   作:しるうぃっしゅ

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十話  呂布と董卓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天下無双の呂布奉先。

 自らをそう名乗った銀髪の青年を前にして、李儒を含めた董卓軍の兵士達は動揺を抑え切れなかった。

 一瞬前までは、呂布奉先と信じてやまなかった―――そしてそれだけの力量を見せ付けていた武人がいたというのに、瞬きする間にそれを屠って見せた男。

 偽者の呂布でさえ、並大抵の力の持ち主ではなかった。呂布を名乗るに足る者であったが、今彼らの目の前にいる銀髪の優男は、偽の呂布の比ではない。

 

 彼を前にすれば、如何なる武人も見劣りする。

 あらゆる存在を力でねじ伏せることが可能な天下無双。

 このまま董卓軍が目の前の呂布と戦ったとしても、果たして自分たちは人の姿をした怪物を倒すことが出来るのか。相手は僅か一騎だというのにそんな漠然とした不安を感じるほどに桁が違った。

 万夫不当と呼ばれるに値する。常人とは異なった世界に住んでいる住人。

 彼が呂布だという証拠は何もない。だが、彼を前にすれば強制的に納得してしまう。武人だとか文官だとか、そんなもの一切関係なく。生物としての格が、存在としての格が一桁も二桁も異なっている。

 

 

「貴殿、が……呂布、奉先?」

 

 

 劉協が茫然と問いを口に出す。

 如何に優れた才を持って産まれたのだとしても、彼女は所詮は宮中暮らし。

 多くの人間に会ってはきたがそれはあくまでも宮中という名の小さい世界の中での話。

 井の中の蛙、大海を知らず。

 

 噂に伝え聞く伝説の武人の力とは、これほどのものだったのか。

 劉協は、夜の闇の中でさえなお異彩を放つ、暗く深い漆黒を背負った呂布に目を奪われ続けていた。

 

「ああ。俺が呂布奉先だ。よろしくな、お嬢ちゃん」

 

 裏表のない快活な笑みで、劉協に笑いかける呂布。

 あまりに自然な彼の笑顔に、目を奪われる。今まで見てきた者達の嫌な笑顔とは全く違う、吸い込まれるような二心のない表情だった。皇女である劉協の機嫌を損ねないように、彼女に取り入るように、そんな卑屈な笑顔ばかりを見てきた劉協だけに、呂布の姿は新鮮に映る。

 

「おい、馬鹿!! 勝手に走って行ったと思ったら、いきなり董将軍に喧嘩を売るなんて何をやっている!?」

 

 熱い眼差しを向けている劉協の耳に、どこか疲労を感じている女性の叫び声染みた悲鳴が届く。

 馬を走らせてきた陳宮が、この場についた途端に、一刀両断にされ血に塗れた偽呂布の姿とそこに佇む呂布の姿を見て、即座にこの場で起きた出来事を悟った。

 そして、呂布の傍らにいる豪勢な服装の少女―――劉協を見た瞬間、頬を引き攣らせる。

 

「呂布!! お前、その方に失礼なことをしなかっただろうな!?」

「あー、多分してないぜ」

「多分ってなんだ、多分って!! その方は、皇族に連なる協皇女だ!!」

「ほぅ。このお嬢ちゃんが?」

 

 早速皇族にたいしてとは思えない発言をする呂布に、頭痛を隠せない陳宮。

 この調子では、自分が来る前にはどんな対応をしたのだろうか、と頭痛のうえに胃痛まで襲ってくる始末だ。

 

 様々な方面で顔が広い陳宮だけあって、劉協の顔を知っていた。先日洛陽についたばかりの呂布と陳宮は、きな臭い宮中の情報を集めていたところ、まさか昨日の今日でこんな事件が起きるとは流石の陳宮も想像していなかった。騒ぎに乗じて袁紹の兵士を一人捕まえ現在の状況を吐かせてみれば、なにやら宦官が皇子と皇女を連れて逃げ出したという。

 それを追いかけてきてみれば、呂布が先走って董卓の一員を叩き切ってしまった。この状況を果たして無事に乗り越えることが出来るか。陳宮の背中に一筋の冷や汗が伝い落ちる。

 

 この状況をどう乗り越えようか必死に考えている陳宮とは異なり、劉協は僅かな胸の痛みを感じた。

 呂布が先ほどまでのような気安い対応を取っていたのも、劉協の正体を知らなかったからだ。

 もしも彼女が漢の皇女と知れば、間違いなく態度は一変するだろう。それが悪いとは言わないし、言えない。それでも、自分にここまで気安い態度を取った男が遜るような真似をして欲しくない。そんな本音が彼女の胸の中で渦巻いている。

 

「皇帝の血族ってのは、皆こんなもんなのか? このお嬢ちゃん、後五年もすれば曹操ちゃんと肩を並べられるだけの才能の持ち主だぜ。世間ってのは広いもんだ」

 

 カラカラっと笑う呂布に、気が遠くなる陳宮。

 陳宮の忠告も無視して、仮にも皇女である劉協を一体何度お嬢ちゃん呼ばわりするのか。

 しかも、到底皇族に向けて放つ言葉遣いとは思えない。

 

 あまりの無礼さに、宦官達や劉弁は目を白黒させているが、当の本人の劉協は、最初は驚きつつもほっとした表情で笑いかけてきている呂布を見上げていた。

 

 高鳴る胸を押さえて、呂布を見つめ続ける劉協の瞳にあったのは、命の危機から救ってもらった感謝か。伝説に名を残すことが出来るほどの武人への尊敬か。皇族ということを気にもせずに己を見てくれた相手への感動か。

 彼女自身わからない。複雑に入り混じった様々な想い。今は言葉にも表現できない、何かを劉協は心の中に感じていた。

 

 そんなまるで恋する乙女のような劉協の態度に、なにやら嫌な予感が痛いほどにするなか、陳宮は表情を引き締める。

 

「……董将軍。私は陳宮。字は公台と申します。まずは、我が配下である呂布の無礼をお詫びいたします」

 

 面倒くさい状況に、とにかく陳宮は事態の沈静を図るために一番厄介と判断した董卓へと拳礼をして頭を軽く下げる。

 董卓はというと、そんな陳宮の姿がまるで目に入っていないのか、相変わらず何を考えているかわからない虚ろな視線で呂布と劉協の二人を見ていた。まるで二人を見定めるような姿に嫌な予感を隠せなかったが、陳宮は次の言葉を続ける。

 

「逆賊袁紹から、ここにおわす弁皇子と協皇女をお救いされ―――」

「陳宮、少し良いか?」

「……なんだ? 邪魔をするな」

 

 途中で遮られた陳宮は、ちらりと呂布へと視線を向けて小声で問い掛ける。

 邪魔をされたというのに陳宮は微塵も不満気な様子を見せてはいない。幾ら呂布とはいえ、こんな場面で何の考えも無く自分の邪魔はしないと思ったからだ。

 

「悪いけど、董卓との交渉は俺に任せてくれるか?」

「……策があるのか?」

「いや、ない。だが、多分なんとかなる」

「……わかった。任せたぞ」

 

 あっさりと呂布に任せた陳宮だったが、それには一応の理由がある。

 陳宮が得意とするのは、朱儁達のような己の利益を考えて動く者達との交渉だ。そういった者達が相手ならば容易く手玉に取る自信はあったが―――以前会った時の印象そのままに、董卓という男は底知れない相手だった。

 まるで生きた人間と向かい合っている気がしない。背筋がうすら寒くなる気配を滲ませている。こんな相手では、陳宮とて交渉もやり難い。

 こういった何を考えているかわからない相手ならば、呂布の方が交渉をまとめ易いのだ。相手が何を考えているか、欲しているかを第六感で、なんとなく感じ取ってしまう。そういった理由で陳宮は呂布に任せたのだが―――。

 

「なぁ、董将軍。あんたこれから何をしでかす気だ?」

「……お前に言う必要はあるのか?」

「いや、ないな。だが、この状況を見ればなんとなく予想はつくけどな」

 

 ほぅっと興味深そうに短く呟いた董卓に、周囲を一度見渡した呂布は髪をガシガシと掻きながら言葉を続ける。

 

「まぁ、それは言いとして。董将軍―――俺を雇わないか?」

「我が部下を斬ったお前を迎え入れろ、と?」

 

 当然と言えば当然な董卓の答えを、呂布は鼻で笑う。

 

「あんたがそんなことを気にするタマかよ。何にせよ、あんたがやろうとしていることに、呂布奉先(・・・・)を必要とするんじゃないのか?」

「……」

 

 沈黙を保ちながらも底冷えする深海魚のような冷たい視線を向ける董卓に対して、その視線を真っ向から軽々と受け止め楽しげに口角を吊り上げた。

 

「それとも何か。あんたは俺を御する自信がないってことかね?」

 

 どこか挑発するかのような物言いに、それでも董卓は眉一つ動かすことはなく幽鬼の如くその場に佇んでいる。

 いや、まるで思案するように僅かに視線を夜天に向けるものの、それも一瞬。

 

「……良いだろう。褒賞はお前の好きなだけくれてやる。だがお前が使えぬと判断すれば、その首即座に跳ぶと思え」

「上等。まぁ、後悔だけはさせんがね」

 

 カラカラと笑う銀髪の優男に、本当に珍しく董卓は口元に笑みを浮かべた。

 笑い声こそあげないものの、確かに微笑を浮かべた魔王の姿に、李儒は夢か幻かと己の目を数度擦りもう一度確かめようと董卓を見上げる。だが、既にその世にも珍しい笑みは消え去っており、相変わらずの虚無を漂わせていた。

 

呂布よ(・・・)呂布奉先よ(・・・・・)。お前は俺に忠誠を誓う必要はない。お前はお前自身の求める欲望の、渇望のままに乱世を駆け抜けよ。お前が望むもの。それは、乱世にしかないのだろう?」

 

 まるで呂布の―――否、銀の全てを見通しているかのような董卓の瞳と言葉は、初めて天下無双に薄気味悪さを感じさせた。

 眼前に佇む魔王の内には、救い難い、救いを求めていない闇だけがあった。それは、呂布と瓜二つのようで、決して交わることのない平行線を揺蕩っている。

 

「だが、お前がお前の目的を為し得た時、それが乱世の終結の時だ。その時、俺が全ての戦を終わらせてやる」

 

 淡々と、董卓は信じられないような言葉を発した。

 全ての闇を圧縮させた虚ろの魔王は、彼には全く似つかわしくない台詞を口に出したのだ。

 到底理解も、共感もできない呂布であったが、何故かこの男ならば―――と思わせる何かがあった。

 ただ黙って見詰め合う乱世の魔王と天下無双。 

  

 そんな二人の会話に、周囲は唖然とする。

 僅か十数秒にも満たない時間で、二人の間の決着がついた。

 これには、陳宮も李儒も口が開いて塞がらない。

  

 仮にも董卓の配下を一人斬り殺したというのに、それを忘れているのか気にしていないのか、平然と呂布を受け入れる董卓に、やはり理解できない不可解さを陳宮は感じた。

 まるで呂布と董卓だけが通じ合っている何かがある。それを思うと陳宮は、例え相手が董卓という男であったとしても若干嫌な気分になった。自分の銀へ対する強い独占欲に、呆れ果てるもののこればかりは決してなおらないだろうと自分自身で理解していた。

 

「と、董卓様。そやつは、我が軍の者を手にかけておりますが……」

「構わん。この偽の呂布なる者が弱かった。それだけだ」

 

 恐る恐る発言した李儒に、温度を感じさせない董卓の返答がやけに大きく響いた気がした。

 弱かった―――そう董卓が事も無げに答えるが、李儒にとってはそんなに簡単な話ではない。

 そもそも偽呂布を連れて来たのは李儒である。

 

 彼と出会ったのは殆ど偶然ともいえる。優れた武人を探していた時に、荊州の山奥に武を極めんとしている変わり者がいると聞き、わざわざ探して回ったことがあった。俗世から離れ、己を磨き続ける求道者。

 実際に会ってみて驚いたことに、凄まじいほどの使い手であった。戦場でより強い者と戦わせることを条件に口説き落とし、呂布として彼を軍に迎え入れた。呂布奉先の名は既に、敵対する相手を恐怖させるほどに高まっている故に、呂布の名を名乗らせることにしたのだ。呂布奉先の噂は聞いていたが、純粋に力を磨き続けたこの男ならば、本物の呂布さえも凌駕できる。本物が出てきたら、そのまま打ち倒せば良い。そんな考えを持っていた李儒だったが―――実際に蓋を開けてみればこのような結果に終わった。

 

 李儒がこれまで見てきた中で最強だと思わせた武人さえも、一刀のもとで斬り伏せる。

 噂話の方が可愛いと思えてしまう圧倒的な男。

 こんな化け物を飼いならすことが出来るのか。何時かは牙を剥くのではないか。もしそうなった時、果たしてこの人の皮を被った怪物を打ち倒すことが出来るのか。

 そういった漠然とした予感に李儒は、振り払うことの出来ない悪寒を感じていた。

 

「それじゃあ、とっとと宮殿に帰ろうぜ」

 

 李儒の心配をよそに呂布は、自分の馬に軽々と飛び乗る。

 方天画戟という巨大な武器を担いでいる割には、身軽な姿に董卓軍の皆は呆れるばかりだ。

 そんな呂布は、自分に向けられた様々な視線の中から、すぐ傍に居る劉協が見上げていることにも気がついた。

 じーっと痛いほどに見つめてくる劉協は何も言わない。何かを言いたそうにはしているものの、口に出すのを躊躇っている様子だ。

 皇族というものは、もっと言いたい事ははっきりと言う我が儘な性格かとも考えていたが、どうやら彼女に限ってはそうではないらしい。

 

「ほら。一緒にいくか?」

「―――は、はい!!」

 

 呂布が馬上から手を差し伸べると、それが相当に嬉しかったのかパァっと花咲く笑顔で頷く劉協。彼女の手を掴むと、勢いよく引っ張りあげて、自分の前に座らせる。

 皇女に対しての対応と言葉遣いにもはや気を失う寸前の陳宮だったが、我慢我慢とぶつぶつ呟きながら呂布の後ろへ馬首を寄せた。

 

「……洛陽へ凱旋する」 

    

 そんな呂布の姿を興味深そうに眺めていた董卓は、後方に居並ぶ自分の軍に抑揚なく命令を下す。

 訓練された兵士だけあり、その命令に不平不満をあげることなく静かに従う。

 皇子劉弁と数人の宦官は、馬車に押し込められ、強制的に連れて行かれる中―――これからどうなるのか、彼らは自分たちの未来を想像して震えていた。

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その光景を森の中に隠れて覗き見ている幾人かの人影があった。

 十常侍達が皇子達を連れて宮中から逃れたのは確か。その後を目撃者の情報を辿って追いかけてみれば、何やら想像を絶した光景を、袁紹は目の当たりにした。

 

 皆殺しにあっている兵士達と、宦官。

 輿に担がれた弁皇子と、董の旗を掲げる数千の軍隊。

 得体の知れない白髪の魔王と、軍の先頭にて協皇女と二人乗りで馬を歩かせる銀髪の青年。

 

 白髪の魔王を目にした瞬間、袁紹は身体がぶるりっと震えるのを感じた。

 この世界のあらゆるものに価値を見出さない。ただ破壊と破滅だけを齎す人の上に立ってはいけない男。漢という国をさらなる滅亡へと導く人の姿をしただけの怪物。

 

 袁紹は己の愚かさを悟った。

 恐らくは全てが董卓の計画通りだったのだろう。何進とともに袁紹が反乱を起こし、十常侍が逃亡を図り、彼らが皇子と皇女を連れていく。そして、十常侍がどの道を利用して逃げるのか。その全てを計算し、実際にその通りに成った。まるで何進も袁紹も十常侍も、董卓の掌の上で踊っていた。操り人形とでもいう屈辱。

 

 美しい袁紹の顔が怒りで染まる。

 名門中の名門である袁紹がここまでコケにされたことなどあっただろうか。これまでの人生で一度たりとも経験したことがない恥辱。憎悪。憤怒。今すぐにでもここから飛び出て董卓の首をあげたい。

 

 だが、それをするわけにもいかない。出来るわけでもない。

 

 劉協とともに馬に乗っている銀髪の青年を一目見たが故に、袁紹は足を踏み出さなかった。正確に言うならば踏み出すことが出来なかったというべきか。

 恐らくは中華でもっとも多くの武将を抱えている袁紹だが、それでもあの青年に関わってはいけないと本能と経験が痛いほどに注意してくる。四海に名を轟かせる袁家の二枚看板である文醜と顔良でさえも、子供に見える人智を逸した暴の化身。それを袁紹は、青年―――呂布に見た。

 黄巾の乱の時は、都の警備にあたっていた袁紹は、呂布奉先という伝説の武人を見たことはない。だが、それでもこの場で呂布とは戦ってはならないという予感染みた確信を抱いた。

 ただでさえ、兵士の数でも負けているのに、あのような化け物と真っ向からぶつかって勝つ見込みなど微塵もありはしない。袁紹は悔しさと怒りで身体を震わせながらも、董卓達の進軍を黙って見送った。

 

「……我らが大義は奪われた。恐らく奴らはあのまま都へと戻るだろう」

 

 人の気配が無くなった森の中、背後に控える兵士達に聞こえるように告げる。

 

「今はまだ、奴と戦うべきではない。一度冀州へと帰還する!!」

 

 大地を踏み締め立ち上がると、袁紹は後方の兵士達へと振り返る。

 力強い声と凛々しい彼女の姿を見て、兵士達は無言で拳礼を返した。

 反逆者として追われる立場になった袁家ではあったが―――不思議と彼女達の誰もが到底敗北したとは思えない堂々とした姿で、帰国するのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 洛陽の宮中は混乱を極めていた。

 それも当然だろう。何せ、大将軍何進とそれに従う袁紹が反乱を起こし、宮中を制圧。

 十常侍は残らず逃げ出し、しかも皇子と皇女を連れて姿を消した。兵士達は誰に従って行動すればいいのか迷っていたとしても仕方のない話だ。一体誰が味方で誰が敵なのか。隣にいる同僚さえも信じられない状況であったが、残された官位の高い者が指示を出し、混乱を治めようと努力している所だった。

 本来ならば皇子と皇女を探さねばならないが、まずは宮中の守りを固めさせる。幸いなことに反逆者である袁紹は、逃げ出した十常侍を追って既に洛陽から姿を消したが、残された兵士達は再び袁紹が襲来するのではと戦々恐々としていた。

 

 宮中が混乱し、情報が錯綜するなか、夜の闇を照らす巨大な炎が近づいてくることに兵士達は気づく。

 袁紹の軍がまた来たのかと肝を冷やした兵士達だったが、数千にも及ぶ篝火が煌々と照らす輿の上に彼らが探すべき人物を見つけた。遠目からでもはっきりとわかる、弁皇子。それに、兵士達が見たこともない優男と二人乗りで馬を進めてくる協皇女。見たところ二人とも怪我をしていないことが見て取れて、誰もが安堵のため息をついた。

 

「皇子と皇女だ!! ご無事でいらっしゃったぞ!!」

「おお!? だが、待て……なんだ、あの旗は?」

「董の旗!? まさか、涼州牧の董卓殿か!?」

 

 騒ぎ立てる兵士達だったが、皇子と皇女を迎え入れないわけにはいかず、城門を開いた。

 重々しい音をたてて城門が開き、董の旗を掲げた一軍が、篝火とともに洛陽の街へと足を踏み入れる。

 それを見ていた兵士達は、皇子とともに、得体の知れない不気味な化け物を洛陽の懐深くへと招きいれてしまったような怖気に襲われた。

 

 董卓の兵士達は誰一人として行軍を乱すことなく、洛陽の街を突きぬけ宮殿へと辿り着く。

 だが、流石に数千を超える兵士を連れて宮中に入るわけにいかず、董卓を守護する数十の精鋭のみを李儒が指名して連れて行こうとしたその時。

 

「呂布。お前もともに来い」

「……面倒くさい、と言いたいが雇い主のご指名なら、行かざるをえないか」

 

 このような格式の高い場所は苦手ということもあり、本当に嫌そうに断ろうとしたが、陳宮が鋭い視線で見てきたため仕方なしという調子で馬上から降りる。ついでに劉協を降ろそうとしたが、彼女も呂布を倣うように華麗に馬から飛び降りた。その姿に劉協を知るものは首を捻る。何故ならば、本来の才能を隠していた劉協は、か弱い乙女としか周囲に認識されていなかったからだ。

 

 地面に降り立つと劉協は呂布の左隣に並んで歩き出す。右手でほんの僅かに呂布の服を掴んでいるのが、どこか小動物を連想させる。やけに懐かれてしまったと考えながら、呂布はそんな劉協を無下には出来ず、董卓を先頭とした集団で玉座の間を目指した。

 僅か数十名の手勢では、もしも宮中で襲われた場合危険ではないか、と殆どの人間が思う筈だ。しかも、この宮中はまだ戦場の香りが残されている。だが、それでも問題ないと判断しての董卓の行動なのだろう。

 

 李儒が選んだ数十人の兵士。この者達は、精鋭中の精鋭。董卓とともに西方の地で生き抜いた兵士達だ。一騎当千とは言わずも、そこらの官軍の兵士ならば軽く薙ぎ倒せるくらいの実力の持ち主ばかり。さらには、呂布の興味をくすぐる武人が二人ほどいた。

 

 一人は呂布と同じ銀髪の少女―――そう、少女だ。長い髪をツインテールにしてある。とても強面が多い董卓軍の兵士には見えない幼い容姿。背丈は丁度劉協と同じ位だろうか。幼い身体とは正反対の、巨大な鎌を背負っている。

 赤い瞳が正面を向いているが、時折呂布の方へと向けられてくるのは、恐怖ではなく興味を多少なりとも持っているからだろうか。董卓軍の兵士、それも精鋭の兵でさえ、呂布の気配に怖れて関わろうという気が見られないというのに、銀髪の少女の態度が呂布には意外に思えた。

 

 もう一人もまた少女。背丈は銀髪の少女と同程度。赤に近い桃色の長い髪を後ろで縛り、赤い鎧を纏っている。澄んだ湖を連想させる蒼い瞳。白い肌。瑞々しい赤い唇。彼女も背丈に似合わない、長さの矛を握っている。

 こちらの少女は呂布には注意を一切払うことはなく、淡々と董卓の後ろを追って歩いていた。

 

 ほとんどの人間は二人ともがまだ戦場に出るには早い年齢の少女だと判断するかも知れない。

 だが、呂布は彼女たちを見た瞬間、二人の力量を感じ取った。

 

 銀髪の少女は、達人の域。関羽や張飛には及ばないものの、年齢のことを考慮すれば末恐ろしいというのが呂布の評価だ。

 それでも、彼女はまだ良い。呂布からしてみれば軽く捻ることが可能な相手である。その気になれば、瞬きする間で屠ることが可能な程度だ。しかしながら、問題はもう一人。桃色の髪の少女の方は、驚嘆に値する。呂布をして僅かとはいえ緊張をさせるほどの深淵の力量の持ち主だったのだから。

 

 この桃色の長髪の少女は、恐ろしいほどに強い。呂布でさえも、底が読みきれないと言っても過言ではない。。

 彼女の放つ気配は、火傷をしそうなほどに冷たく、全てを焼き尽くそうとする呂布とは対極の気配。

 少なくともこの場にいる董卓軍の精鋭全員を相手にするよりも、彼女一人の方が手強いのは間違いない。呂布が知る限り、彼の生涯で三本の指に数えられるほどの実力の持ち主だ。

 関羽や張飛と比肩―――否、一対一で真っ向から戦えば、恐らくはこの少女が勝つ確率の方が高いだろう。

 一騎当千たる武神の化身である関羽さえも凌駕する可能性の持ち主。戦場で育ち、戦場を生き抜いてきた生粋の殺戮者。少女の姿をしただけの怪物。そこまでの力量を秘めた人の領域を超えた人であった。

 

 

 ―――面白いな、このお嬢ちゃん。

 自然と浮かんだ笑みを隠しきれずに、桃色髪の少女に視線を送り続ける呂布。

 可憐な美少女に対してニヤニヤとした笑みで凝視する優男の姿は傍から見ればたいそう怪しい。そんな呂布の様子に気づいたのか、右隣を歩いていた陳宮が左肘を脇腹に叩き込んでくる。しかし、たいした痛みも感じていないのか、苦笑をしながら歩みことを止めはしなかった。

 

 そうこうするうちに、董卓達は玉座の間へと辿り着く。

 そこは国の中枢らしく。実に広大な広間であった。漢の皇帝やその傍仕え以外、基本的に立ち入りの許されない区域であるものの、流石に今夜ばかりは例外となっているようで、多くの官僚や兵士の姿が見受けられる。

  

 その時、劉弁が突如として走り出す。

 玉座に近しい場所にて、彼の母である―――何太后の姿を見つけたからだ。 

 必死になって母に抱きついた劉弁は、人目も憚らず泣き出し始め、何太后はそんな彼を愛おしそうに力一杯抱きしめた。

 親子の再会に、この場にいる者全てが胸を撫で下ろし、暖かい眼差しを向ける。

 

 

「皇帝とは何か。臣下とは何か。何ゆえ唯の人である筈の皇帝が、中華の頂点に立つのか」

 

 

 朗々と謳うように紡ぐのは、董卓仲穎その人。

 親子の再会を喜んでいる二人を路傍の石のように見下しながら、彼はゆっくりと近づいていく。

 彼らの下まで歩んだ董卓は、一切の躊躇いを見せずに、剣を抜いた。金属音が玉座の間に響き渡り、不吉な銀光を放つ剣を掲げる。

 

「や、止め―――」

 

 董卓の行動を止めるべく声を荒らげたのは、協皇女であった。

 この場にいる誰もが、剣を抜いた魔人の行動を計りかねている。

 彼が何をしようとしているのか。何をするのか。それに気づいたのは、董卓に仕える者達だけであった。

 

 宮中の者の理解を遥かに超える事態が巻き起こされる。

 一寸の迷いなく、剣を振り下ろした董卓は、僅か一太刀で何太后と弁皇子を仕留め、刃に着いた血を拭う。

 

 この場にいる者は皆、漢王朝始まって以来となる事態に凍りつく。

 当然だ。この玉座の間にて、皇帝の血筋に連なる者を殺めるなど、呂后の専横時、王莽の大逆のおりにさえ、これほどまでの無道は有り得なかったからだ。

 

 凍っていた時は数十秒にも達し、誰かが尻餅をついた拍子に起きた物音で、我を取り戻す。

 兵士たちは、もはや意味を為さない雄叫びをあげて、血の海に佇む董卓へと躍りかかった。それぞれの武器を、ありったけの力を込めて握り締め、何太后と劉弁を殺めた大逆の者を抹殺しようと玉座の間を駆ける。

 

 だがそんな彼らは、誰一人として董卓のもとへと辿り着くことは出来なかった。

 

 銀の疾風が吹き荒ぶ。

 巨大な鎌を軽々と振り回し、ツインテールの少女が董卓へと迫ろうとしていた兵士を纏めて薙ぎ払った。

 丁度腹部の位置を中心として、上半身と下半身を真っ二つに斬り別たれ、臓物をぶちまけながら床に転がっていく。

 

 そして、そんな銀髪の少女より初動が遅かったというのに、それよりも速く兵士達を貫いていった桃色の閃光。

 空気を引き裂く音さえも、後方に置き去りにする紫電雷光。瞬き一つする間に、十数メートルの間合いを容易く詰めた、疾風迅雷の速度。人の限界を遥かに容易く超えた神速の動作。

 忠義を尽くそうとした兵士達を纏めて長大な矛の切っ先で射殺した怪物が、それだけでは飽き足らずさらに縦横無尽に玉座の間を駆動し、瞬く間に死体の山を作り上げる。

 

「な、なんだ!? なんだ、このガキどもは!?」

「一体、なんなんだよ!! こいつら!?」

 

 愕然と、禁中の兵士たちは二人の尋常ならざる怪物に恐怖を抱きながら叫び声をあげた。

 宮殿の守りを託された精鋭中の精鋭。そんな彼らでさえも、問答無用で容赦なく虐殺していく少女達。

 次々と巨大な鎌で赤い華を咲かしていくツインテールの少女は、頬に飛び散ってきた兵士達の血を手の甲で拭い、薄く笑う。

 

「董仲穎が配下。我が名は―――華雄」

 

 広大な広間を十二分に利用し、抵抗する隙も与えずに四方八方自由自在に駆け回っていた桃色の殺戮者は、董卓へと向かってくる者がいなくなったことを確認すると漸くその機動を止めて矛を一振り、血糊を飛ばす。

 

「同じく。張遼。字は文遠」

 

 涼州を力で治めた董卓の懐刀。

 西方にてその名を轟かせる幼き武人達の名乗りは、兵士達の踏み出す足を止めるには十分であった。

 

 だが、その時玉座の間で起きた異変に気づいたのか、複数人の走る音が聞こえ、やがて入り口から十数人の兵士達が姿を現した。それに勇気付けられた再び立ち向かおうとする兵士達。

 

「―――呂布」

「はいよ」

 

 董卓の呼びかけに、気軽に答えた呂布が方天画戟を軽々と一閃。

 刹那の時で、援軍に来た兵士たちは見るも無残な姿となって、肉体が床に四散する。

 呂布、という名前が切っ掛けとなって、遂には禁中の兵士達の心も砕け散った。

 

 完全にこの場を支配することとなった董卓は、抜き身の剣をそのままに、ゆっくりと劉協へと歩み寄っていく。

 本音を言うならば怖ろしい。董卓は、皇帝の血筋など何の価値も見出していない。息を吸うかのように容易く殺す。それを目の前で証明して見せた。今すぐにでも逃げ出したい。それでも、それは許されない。何故ならば、劉姓を継ぐ者としての矜持が彼女にはあるからだ。決して退かぬと言う気概。折れぬ意志。鋼鉄の精神力。それらを胸に秘めた劉協に、呂布は心底面白そうな視線を向けていた。

 

「……やっぱり、面白いお譲ちゃんだ」

 

 くくくっと苦笑を漏らした呂布は、劉協を庇うようにして董卓の前に立ち塞がった。

 それに反応したのが、張遼と華雄の二人。そして、董卓に仕える精鋭の兵士達。しかし、今にも動き出そうとする彼らを止めたのは他でもない董卓であった。

 

 彼は抜き身の刀を鞘におさめ、劉協に向かって頭を垂れた。

 あろうことか、乱世の魔王ともあろう存在が、平伏したのである。

 人々はその姿に息を呑む。そればかりか、董卓の配下である張遼、華雄、李儒、そして兵士達。彼らもまた皆、一斉に董卓にならう。

 

 彼の行動の意味が劉協にはわからなかった。

 自分を帝位に就かせようする董卓の行動は無茶苦茶だ。傀儡とするならば、自分よりも劉弁の方が相応しい筈だ。己の才を隠している身ではあるが、それにこの魔王が気づかない筈がない。全てが不明だ。全く微塵も、理解できない。この虚無を湛えた怪物の思考が一片たりとも読むことが出来なかった。或いは、呂布と敵対するのを避けるためかとも考えたが、それも正解とは異なる気がした。

 

 劉協にもわかることがただ一つだけある。

 それは黄巾の乱によって乱れ、落ち付きつつあった乱世が、新たな局面を迎えようとしているということだ―――それも、更なる最悪の方向として。

 

 

 

 

 

 

 




前話で斬られた偽呂布さんは、2で出てきた偽呂布さんとは関係ありません。
ただのそこらの山にこもっていた武の求道者さんです。

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