「ちょっと太った?」
――太った? ふとった? フトッタ?――
言葉が少女の内側でエコーする。
「わわ、わわわわ、私、帰ります」
「え? ちょっとヴィヴィ、どうしたんだ」
「クラウスの……クラウスの、バカあ! 脳筋っ! 覇王!」
「えっ、ちょっと、あの……オリヴィエ゛ン゛ッ゛!!!!!!」
昨日のこと。
覇王断空拳などよりよほど重いダメージを受けたオリヴィエは、瞬く間の一撃でクラウスを昏倒させ、泣きながら図書館を後にした。
『太った?』
想い人にこの一言を受けたとき、乙女という生物はその心に深い傷を負う。こんなことは全次元世界共通の常識である。
だが。
「くうう……あんなことを言われて何もしないままなんて、騎士としての誇りが許しませんっ」
例えハートは挫けども、胸に内蔵した聖王核が破壊されない限り、かの王は倒れることなく戦い続けるのだ。
オリヴィエは傷心を拗らせつつも立ち直り、その日のうちに聖王ダイエット計画を完成させた。
翌朝。
運動着を纏い部屋を出たオリヴィエは、激しい運動に向けて念入りに体操をし、身体を調整していた。
ダイエットはハードなものになる。しかし身体を壊しては元も子もないので、気を配らねばならない。
いつでもにこやかだったオリヴィエの表情は、まるで戦時の王のように引き締められていた。
「ふわっ!?」
そんな真面目な顔は、唐突に聞こえた電子音によって崩れる。
携帯していた通信端末が、メッセージ受信のメロディを鳴らしていた。
「わ、ええと」
実家から離れた学校へ通うオリヴィエに、家族が持たせたものだ。
しかし少女は現代のメカには弱いのか、端末を手に取ったまま苦戦している。
「あ、これでしょうか……うん、出来た」
正しい操作により、空中にディスプレイが現れる。
そこには、端末に送られたメッセージが表示されていた。
『オリヴィエへ。先日はすまなかった。
今になってようやく、言葉が悪かったと理解した。しかし君を貶すつもりは全く無かったのだ。どうかこの非礼を許して欲しい』
「クラウス」
面白味のないカチカチの謝罪文に彼らしさを感じ、思わず笑みを漏らす。この瞬間、オリヴィエの纏う負のオーラは霧散した。単純である。
オリヴィエは怒ってなどいない旨を返信しようとし――思うところあって、その手を止めた。
いい塩梅に反省しているのをすぐに許してしまうのでは、勿体ない。
このまま思い切り猛省してもらった方がいいのではないか。彼自身に、女性への言葉というものを学んでもらういい機会である。
それに、昨日図書館で暇を持て余して読んだ本に『たまにはカレを冷たい態度で突き放してみるのも良いカモ! 悲しさからの反動で、ますますアナタにメロメロ!?』と書かれていたではないか。
オリヴィエは未だ慣れない機器の操作に四苦八苦しながら、たどたどしくも返事を打った。
『納得する体型になるまであなたとは会えません。悪しからず』
少し、心が痛んだ。
しかしこれも必要なこと。この機に少しは女性の扱い方を学んでほしいものだ。
クラウスときたら強さと国のことしか頭にないのだ。もっとも、そういうところも愛しいのだけれど。
「さて」
きっかけとなった当人からの謝罪メッセージを受けても、やることに変更はない。
平和な世界に生まれ、鍛錬を少々怠っていたことは事実。せっかくだからこれを機に、きっちりと運動して、健康な身体をつくろう。それもまた、第二の人生を豊かにする方法の一つである。
そして、やるからには妥協はしない。
身体を伸ばして準備運動を済ませ、オリヴィエは駆けだした。ランニングである。目的地は少し離れた町にある大きな公園。
ただそのスピードは、無駄な脂肪をその場に置き去りにせん、とばかりの尋常でない速さであった。
――――――――――――――――――――――――
アインハルト・ストラトスの大会は終わった。
開会中のインターミドルチャンピオンシップ。地区予選4回戦、アインハルトは元世界王者であるジークリンデ・エレミアと戦い、負けた。
しかし、それで彼女の鍛錬の日々が終わるわけでもない。
因縁あるエレミアとの一戦、そして無限書庫の探索で改めて知った、過去の王たちについて……。思いを巡らせ悩む今日この頃。
曇り気味の心模様とは別に、身体はルーチンワークである朝練をこなそうと、いつの間にか見慣れた公園へとやって来ていた。
珍しく、アインハルトはクールダウンも取らずにベンチへと腰掛け、そのまま何をするでもなく視線をさまよわせていた。
様々な感情が、少女の身体を重くしている。
敗北を味わい、大会に勝つという目的を失った空虚感。チームの年長者としてあるべき姿を見せることが出来たのか、という不安。
そして――自分の成すべきこと。
こんな、温かな場所に、いてはいけないのだ。覇王の悲願、己の悲願を遂げねばならない。それだけが、アインハルト・ストラトスという人間に許された生き方だからだ。過去の記憶を受け継ぐ者の責務だからだ。
今まで出会ってきた優しい人たちは、それを良しとしないだろう。しかし、そうせずにはいられないほどの、とても強い誰かの想いが、自分の内に刻まれている。
アインハルトは腰を上げる。
身体は、重い。けれど休憩は終わりだ。自分は安穏としてはいられないのだから。
そうして立ち上がったところで、ふと――公園の風景を映す視界を、何やらおかしなものが横切った。
「あれは………ええと、何?」
突風、としか表現できない何か。それが運動場のトラックをぐるぐると回っていた。
よく、目を凝らしてみる。アインハルトの覇王アイ(よくみえる)をもってしても、こうしなければ輪郭が判別できない。
「……人?」
信じがたいことに、どうやら人間のようだ。高速移動魔法でも使っているのかと思う。それで何を? ダッシュトレーニングだとでもいうのだろうか?
あまりの不可解さに頭が真っ白になったアインハルトは、ただただ突風を目で追っていた。
やがて、動きが止まる。
やはり人、それもアインハルトとそう変わらない年頃の少女だ。
次に、容姿に目が行き――アインハルトは凍り付いた。
「オリ……ヴィエ……?」
……今、自分は何と言った?
自身の口をついて出たその名に、驚愕する。セルフ驚愕である。
まさか。こんな所で出会うはずはない。彼女はもう――
「さて、あと100周――」
「あの、ちょっと待ってください!」
呼び止めてしまった。
「?」
少女がゆっくりとこちらを見る。
髪の色も、目の色も違う。しかしその相貌、表情は――
「あなたは……」
ほんの一瞬、少女はアインハルトを見て驚いたような顔をした。
それはすぐに引っ込み、代わりに優しげな笑みが浮かぶ。
「どうか、しましたか?」
「あ、あの、その……なんと言えばよいか」
返事が返って来て、アインハルトは焦る。
どうかしたも何もないのだ。
返答に困っていると、その少女は、ぽん、と両手を合わせて嬉しそうに言った。
「あ! もしかして。あなたもダイエットですか?」
「へっ? いえ、あの」
「一緒にどうです?」
「いえ、私は……」
「悩みがあるのなら、身体を動かすのが一番ですよ」
「え?」
「ごめんなさい。ほら、さっきは心ここにあらずって感じだったものだから」
彼女の言葉、動作は、心の内に入り込んでくる。
優しい声と、太陽のような笑顔は、あの人の。
アインハルトの記憶に強く焼き付いているあの人と、全く同じものだった。
「……では、ご一緒しても」
「ふふ。そうこなくっちゃ」
だから、つい了承してしまった。
少女は上機嫌でアインハルトとの手を引き、広場を陣取る。
立ち止まりくるりと振り向いて笑う少女。それを見るアインハルトの心に、何か温かい気持ちが生じた。それはクラウスの記憶にあったものと似て、心地の良いものだ。
「ではまず、
「はっ?」
温かい気持ちがどっか行った。
「ええと、それはダイエットなのでしょうか……?」
思わず小声で疑問を唱えるアインハルトをよそに、少女は見えない相手に向かって攻撃を繰り出し始めた。
時折、「鈍感!」「無神経!」「バカイザー!」などと罵倒も織り込んでいる。
激しい動きで仮想敵を攻撃する少女の体捌きは、まるで台風の如く荒れ狂い、だというのに無駄がなく洗練されているようで、もはやアインハルトの眼をもってしても理解が及ばない。
……一緒に、やりようがない。アインハルトが何も出来ずに眺めていると、徐々にスピードが上がってきて、やがて先のように輪郭すら捉えられなくなる。最終的には罵りの声しか聞こえなくなった。
なんというか、このあたりが記憶の中のオリヴィエとちょっと違う気がする。
この少女は何者なのだろうか。かろうじて戦闘の達人っぽい感じは伝わってきたが。
――――――――――――――――――――――――――
一通り汗を流した二人は、腰を落ち着けて話していた。
「呼び止めてしまった理由は、何と言いますか……あなたにとてもよく似ている人を知っていて、つい」
「間違えて、話しかけちゃったんですか?」
「いえ、その……そう、ですね。間違えてしまいました。申し訳ありません」
そう、間違いだ。
あまりにも同じな少女であるが、髪や眼の色は明らかに違う。かの聖王とは縁の無い家系なのだろう。少女と比べると、まだ高町ヴィヴィオの方がオリヴィエとの関係は深そうだ。
つまりは他人の空似。常識に沿えば、それが道理だ。
「あなたも、私の知っている人と良く似ています」
「え?」
ふっと微笑んで。そろそろ行かなくちゃ、と少女はやおら立ち上がる。
「あ……」
待って、ほしい。
どうしてそんなに似ているのか。名前はなんというのか。また、逢えるのか。驚きと不可思議さに飲み込まれてしまっていたが、本当は聞きたいこと、疑問だらけだ。
「ああ、そうだ。いつもこの時間に、この公園を利用しているのですか?」
こくり、と小さく頷く。
すると少女は、にっこりと笑って言った。
「では、また明日」
最後に花咲くような笑顔を見せ、その少女は去っていった。列車のような勢いで爆走していったのですぐに見えなくなった。
「はあ。また、明日……」
誰もいなくなった空間に返事をする。
……どうにも現実味が無い体験だ。アインハルトはすっかり呆けてしまっていた。
「明日も、会える?」
あのオリヴィエにそっくりな少女。
クラウスの世界の中心で、でも、守ることが出来なかった彼女。その人にもう一度会えたのなら。会えてしまったのなら。
覇王の想いを受け継ぐ自分は、どうすればいい?
あの人が、悲願を叶えさせてくれる?
「……? これは」
ふと、先ほどまで少女の立っていた場所に、1枚の紙が落ちているのが目に入った。
おもむろに拾い上げ、眺める。一番上の方に目立つようにこんな文字が書かれていた。題字だろう。
『脂肪を煉獄の炎で焼き尽くす とれーにんぐめにゅー』
「………」
これを読めば、鬼のように強くなれる。そんな予感がアインハルトの身体を駆け抜けた。
ごくり、と唾を飲み込む。手にした紙は、人間の負の感情を具現化したようなおどろおどろしいフォントといい、強力な怨念の残滓といい、いかにも禁忌の書といった雰囲気だ。まるで古くから武術を伝える家の書物庫の奥から引っ張り出してきたかのような、“本物”の気配。それがただの一枚のプリント用紙を、秘密の奥義の書であるかのように見せる。あの少女の持ち物であるという事実が、その予感をさらに補強する。
……是非も無い。覇王は、何者よりも強くあらねばならない。
少女は震える手でその続きをなぞろうとし――
「……いえ。私にはまだ、早いかもしれません」
自分の歩幅で強くなるべきだとはノーヴェや武の先人たちの教え。アインハルトはそっと用紙を折り畳み、懐へと仕舞った。
次、会ったときに返そう。
最初にチラリと見えた「準備運動 腹筋1万回~」などといった文章はもう忘れることにしておく。それがいい。
時間を確認したアインハルトはそのまま、微妙に夢心地の頭のままではあるが、無理せず適切なペースを心がけ、家への帰路を駆けて行くのであった。
後日、練習中にアインハルトの落とした紙の内容を見たノーヴェコーチは目を剥いて虚空を見つめたまま気絶した。