「姉さんがいろいろ迷惑をかけたわね。依頼に協力してくれてありがとう、比企谷くん」
そう言いながら、俺に紅茶を差し出す雪ノ下。
病み上がりの体に紅茶の温かさが染み渡る。
「何も聞かないんだな……」
「あなたのことだもの、いつものようにやっているのでしょう?」
「ああ、まあな。」
「なら、いいわよ。逆に身内が迷惑かけて申し訳ないと思っているのよ」
柔らかく微笑みながら、読書を始める雪ノ下。
今日は、あざとい後輩が来ることも無く、部室に静かな時間が流れる。ページをめくる音と、二人が話す声。
当たり前と思っている日常こそあっという間に過ぎ去っていく。気が付いたら、窓から差す光はオレンジ色になっていた。
「鍵を返してくるわね」
雪ノ下が部室を出た後に、由比ヶ浜が俺をジロジロ見てくる。
そして、数秒の沈黙の後、
「どうした?なんかあるの?」
「ヒッキー、ゆきのんのお姉さんとデート行くし。いろはちゃんとも行ってるし。」
「それ、どちらともデートで無いし……」
「ハニトー……」
目を伏せてしゅんとする由比ヶ浜。
「ヒッキーは約束忘れちゃったのかな~って…」
「いや、それは……」
何となく、約束、契約という言葉に拒否反応を示してしまう俺。何事にも縛られない自由な心、ぼっちな俺はそうありたいと思っていたが……
上目遣いで俺を伺う、目の前の女の子を軽くあしらえるほど俺のスキルは高くない。
「あの、そのなんだ、いろいろ立て込んでいてな。そろそろ行こうと思っていたんだ」
顔を上げながら手を合わせて、大きな瞳で俺を見つめる由比ヶ浜。
「なら!明日の放課後ね!約束だよ!」
と俺の手を掴み、いつもの笑顔で無理やり指切りをさせる。
触れる小指に気後れしてしまう。
「わーったよ。食べに行くだけだからな」
「うん!ありがとうヒッキー!」
××××
パセラのハニトーは文化祭で食べたものとは違い、アイスやクリームもたっぷり、中まで蜂蜜もしみている。この強烈な甘さは俺のソウルドリンク、マッカンに通じるものがある。
「ほらほら、見てヒッキー、イチゴたくさん~」
ほっぺにクリームを付けながら、ハニトーに乗っていたイチゴを指さす由比ヶ浜。
「ヒッキーも食べる?はい!」
フォークでイチゴを差し出す由比ヶ浜。
差し出した後、はっとなり顔を赤らめる。なんか前にもあったような気がするこの状況。
俺は指でイチゴを取ると自分の口に放り込む。マッカン並に甘くなっていた口の中にイチゴの酸味が広がる。
「うまいな…」
イチゴの無くなったフォークを見つめながら、由比ヶ浜は少し声を弾ませて言う。
「そうだね」
×××
しかし、ここ一応カラオケなんだよな……。
密室…、蝶ネクタイの小学生がいたなら殺人事件が起こるところだが。ハニトーを食べ終えた由比ヶ浜は、さっきから一人で歌っている。
「ヒッキーも歌ってよ~、さっきから私ばっかり!」
「いや、そのあれだ。病み上がりだし。調子が…」
「もう元気になったでしょ!ほら!」
と予約のリモコンを差し出す。
そう言われてもな……
最近のリア充どもが歌う曲なんか分からんしな。マイクをトランシーバー持ちして旗降れば良いのか?アニソン歌っても俺の黒歴史が増えるだけかもしれない…。
「考えたいから先に歌ってくれ」
ぼっちの躱し手その1つ。とりあえず考え中にして他に譲る。
「じゃあ、私入れるね~。」
流れ出すイントロは俺の知っている曲だった。好きな曲だがあいにくと女性ボーカルなので自分では歌えなかったものだ。
ストーリ調になっている歌詞がカラオケの画面に流れる。クラスのみんなで星を見に行くなんてどんなリア充だよと思いながら、二度と戻らない日々に届かない想いを馳せるその歌詞を目が追ってしまう。
ふいに、歌っている由比ヶ浜と目が合う。
サビのところで、声を振り絞り大人びた声で歌い上げる。
その目はどこか憂いながらもまっすぐで、
俺にはとても直視できなかった。
「おまえその曲は……」
「これ?姫菜が教えてくれたんだよ。ヒッキーが好きそうな曲だって……」
そう言いながら人差し指をもじもじさせる。
海老名さん…。
「他にも教えてくれたよ~、これとか」
ピっとリモコンを操作して予約曲が流れだす。
9人の女子高校生が、冬のイルミネーション前で歌う映像がー
『演奏は中止されました』
「ちょっとー!ヒッキー何すんのー!ひどくない!」
「いや、そのなんだ、無理して合わせなくいいから。お前の歌いたい歌でいい。最近の曲知らないし、参考になるからな。」
俺は、今にもサイリウムを取り出そうとしている右手を必死に左手で抑えながら、由比ヶ浜を諭す。落ち着け俺の右手!パラサイトされてしまったのか?
結局,由比ヶ浜のオンステージとなったカラオケを出るころには外はすっかり暗くなっていた。
「今日はありがとう、ヒッキー!」
「ああ、約束、遅くなってすまなかった」
「ああ、もういいから!でもね……、また行こう?」
「気が向いたらな……」
「それ絶対行かないセリフだ!」
そんなやり取りも夜の街の喧噪に消えていく。
過ぎ去る日常に何かを思う。
誰だってそうなのかもしれない。
由比ヶ浜と電車に乗り、車窓を眺めながらそんな他愛も無いことを考えていた。
ふと、発車する駅のホームの人物と目が合う。
その人は一瞬目を開いた後、ほんの少し微笑んだ。
その笑顔の意味を確認できないまま車窓が動き出す。
「どうしたのヒッキー?じっと窓を見て?」
いつかの部室で、俺たちとの関係をあきらめたあいつの笑顔とも違う。
一瞬なのに頭から離れるのこと無い、
とても俺が分かることのできない
とてもとても遠い、
そんな笑顔だった。
挿し絵「Grooki」