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赤髪の少年の動きを詩的に例えるならば、『散花のように軽やか』で『風切羽がごとく鋭い』ものだった。
繰り出される手足は攻撃としての威力を発揮していながら、躍動感のある身のこなしはさながらブレイクダンス。
殴る蹴るの行為を野蛮と感じさせない見栄えする戦い振りは、こんな寂れた廃工場などではなく、いっそアリーナで観客にお披露目して金でも取ったほうが良いのではないかと思わせる。
カポエイラにテコンドーにマーシャルアーツにサバットにキックボクシングに花架拳……他に何が混じっているのかはさすがの弥人にも判別つかないが、とにかく多彩な蹴り技と忘れた頃にやって来る手技を駆使しての軽快で華麗な戦闘。
「有粋が言ってたんだけど、足の力って腕の4~5倍あるんだって。それならブーツ履いて思い切り振るえば、金属バットなんかよりもっと凶器になると思わない?」
ケイシャーダ――カポエイラにおける顎への蹴りを放ちながら、少年はマイペースにこちらへ雑談まで吹っ掛けてくる。
有粋というのは武宏と戦っている焦茶髪の二枚目のことだろう。上半身を仰け反らせ、脳震盪を狙ったその素早い一撃を避けながら弥人も冷静に応じる。
「蹴り技は使い続けると消耗が激しいぞ」
「大丈夫。足上げるのに疲れたら逆立ちしたまま戦うし」
「クリスティ・モンテイロかお前は」
冗談とも何ともつかない少年の言葉に、危うく毒気を抜かれそうになった。咄嗟に出したゲームキャラの名前は通じなかったようで、少年からの返答は無い。
次いで繰り出される少年の
踵に壁が当たったのを逆に好奇とみなし、陸上の要領で平地より早いスタートダッシュを決める。
一瞬で懐に潜り込み鳩尾めがけてストマックブローを放つが、軸として地面に接していた片足だけで前方空中回転(いわゆる逆バク宙)をしてこちらの頭上を飛び越えるという荒業で避けられてしまった。
ワイヤーロープで天井から吊られているみたいな機動力である。
自分も攻撃を喰らいはしないが、あちらも攻撃を喰らってはくれない。
「よっと!」
そのまま地面に着地するのではなく、途中で壁を蹴ってこちらへ跳躍するというスタントマンじみた動きで金的に靴の裏をヒットさせられそうになる。
しかし大胆な攻撃ゆえにかわし易いだろう。そう踏んで利き腕で足を払い落としたあと、空中で身動きのとれない相手にキツめの一発をお見舞いしてさっさと片付けるつもりだった。
しかし。
(ッ! こいつ、蹴りの軌道を途中で変えやがった!)
金的狙いがまばたき一つ分の時間で顔面狙いへと方向を変えられていることに気付き、弥人は次の一手を反撃ではなく防御と瞬時に決定。
既にギリギリのところまで迫っていたショートブーツの爪先を上段受けで止め、恐らく今のは囮でこちらが本命のつもりだったのだろう、肺のあたりを狙ったもう片方の足による蹴りも中段下払いで見事にいなす。
弥人は空手を専門に打ち込んでいるわけではないが、武宏とつるんでいるうちに彼の技を多少なりとも使えるようになっていた。
だが、払っただけの右腕はともかく、蹴りを受け止めたほうの左腕は表面が赤くなってしまっている。
鉄板でも仕込まれていたら骨にヒビが入っていたかもしれない。相手が良識のある不良のようで良かった。
(……いや、無差別に一般人を暴行するような不良グループのメンバーに良識って表現は可笑しいか。ここまでやれるようになるのに相当努力したんだろう。なのに何で、あんな弱っちい上に腐りきった奴らと組むような真似を)
先程武宏と二人でぶちのめした不良グループの雑兵連中を思い浮かべって、弥人は湧き上がってくる苦々しい気持ちを胸中で噛み殺す。
狭い場所ではやりづらいと部屋を出て行った武宏と有粋なる少年も、今頃こちらと同じように一進一退の攻防戦を繰り広げているのだろう。
ならば弥人も手を抜くわけにはいかない。この少年に堕ちてしまった理由を聞くのは、はっ倒して地面とキスさせた後だ。
「お兄さん、俺の攻撃ことごとく防いでくるねー。……顔だって悪くないんだから、それだけ強けりゃ無理やり襲わなくったって女の人に結構モテるでしょ? 何で薬まで使って手篭にしようとしてたのさ」
今度こそちゃんと床に着地した赤髪の少年。
音の鳴らない着地は羽を落としたみたいに軽やかで、弥人は少年の周りの空間だけが無重力だと錯覚しそうになった。
振り向き様になされた少年からの問いかけに、弥人はしばし呆気にとられる。
「いや……何を言ってるんだ?」
「さっき茶髪のお兄さんと一緒に床に押さえつけてたじゃん。女の人」
「っ――お前らの仲間に襲われかけたあの女性が錯乱して自分の体を引っかきだしたから、それを止めようとして抑えただけだ」
「じゃああの注射器は?」
「不良どもが使ってた。近くに落ちてて、半狂乱のあの女性が手に取っちまったから危なっかしくて取り上げたんだよ」
いわれのない疑いに怒りを感じつつ淡々と返せば、少年は「やっぱりかぁ」と天を仰いだ。
今なら隙を突いて一撃叩き込めるかもしれないが、どうにも様子がおかしい。
うんざりしたような表情で溜息をこぼす彼は、薄々感じていたことではあったがやはり極悪非道な不良集団の一員には見えなかった。
「俺も有粋も勘違いしたワケだし、まあお互い様ではあるだろうけど……お兄さん」
「何だってんだよ」
「俺がつるんでるのは有粋だけで、ここの不良連中とは関わり無いから」
「…………は?」
あっけらかんと言い放たれた台詞は、この状況の意味を根底から覆すもので。
思わず口をあんぐりと開ける弥人に、少年は半笑いで後頭部を掻いた。
「いやぁ、この喧嘩が始まる前からそんな気はしてたんだけどさ。お兄さん気が立ってるみたいだし、ぶちのめしてから説明したほうが早いかなと思って」
「オイ」
「でも予想より強くて相打ちするのさえ時間かかりそうだから、とりあえず作戦変更」
あまりの自由っぷりに真顔になった。
この少年、間違いなく息をするように人を振り回す人種だ。
「それに」と、少年は今までの気楽な笑みを一転させ、どこかゾッとする冷たい眼差しで女性をみやった。
喧嘩に巻き込まないようにと弥人の上着をかけたまま壁際に寝かされたその女性は、一見すると気絶しているようにしか思えない。
実際、弥人も目の前の少年に意識を注いでいる時は気付かなかったが――よくよく見れば体や表情が妙に強張っている。
狸寝入りだとすぐに分かった。
「肌は薬のやりすぎでボロボロ、指には年少リング。極めつけは履いてるショートパンツの内側に仕込んだカミソリの刃。そんなお姉さんが不良にヤられかけただけで取り乱すなんて、なーんか怪しいよねぇ? そもそも本当に襲われそうになってたの?」
「カミソリ?」
女性が履いているショートパンツの裾をじっと凝視すれば、確かに少年の言う通り、四角形の薄っぺらいものを隠しているような形がほんの僅かにボトムスの表面を押し上げている。
それにしたって本当に少しの膨らみだ。たった数秒視界に入れただけの女が隠し持った武器を見抜く観察力には、弥人も舌を巻くしかない。
もっとも彼とて、有粋と少年があの場に乱入して来なければもう少しで発見していただろうが。
「……錯乱する演技のために、ネイルアートまで無駄にしたのに」
舌打ちと共に呟いて、女はのそりと起き上がった。
弱々しかった表情は荒んだ不機嫌顔になり、掻き毟った際に間に潜り込んだ赤を余分な爪ごと噛みちぎって床に吐き捨てる有様は、洋画の娼婦にも引けをとらないスれた雰囲気を醸し出している。
ぺちゃっ、と。
唾液と共に口内から吐き出された爪の欠片が弥人と少年の丁度中間あたりを汚した。
「言っとくけど、襲われかけてたのは本当よ? 私の自業自得だけど。チームの奴から買った脱法ハーブの代金払わないで逃げようとしたら、ここの前でぶん殴られて連れ戻されて、後はお察しの通り。最後までされる前にそこの黒髪の坊やと茶髪の坊やが突撃かましてくれたから、どさくさに紛れてこの部屋まで逃げてきたの」
ティントバーで紅を刷いた唇で夜鷹めいて笑い、女はあぐらをかきながら壁へともたれかかる。ふてぶてしい態度が妙に様になっていた。
ズタズタに引き裂かれてほとんどボロ布と化したチュニックから覗く腕には注射痕が斑点みたいに散らばっている。
それが人にされたものではなく自分でやったものだと思えば、女の印象は哀れな被害者から行き過ぎた非行娘へと変わり果てた。
「ああ、今は脱法ハーブじゃなくて危険ドラッグって名前なんだっけ。壁際に転がってる注射器の中身は覚せい剤よ。ドサクサに紛れてくすねちゃった」
そう茶化してウインクすれば、透明マスカラとホットビューラーでカーブを造ったまつ毛がパサリと揺れる。
悪びれない女の開き直った仕草に、弥人は困惑の表情で尋ねた。
「アンタ、何でわざわざ襲われたフリなんか……」
「時間稼ぎ」
「は?」
「チームの奴らぶっ倒して脅しかけたら、アンタらさっさと帰っちゃうでしょ? 珍しくお人好しっぽい顔してたから、錯乱した女の演技してりゃあ私が落ち着くまで付きっきりになるかなって」
クスクスと笑う女の言い分は理解できる。
が、どうして時間稼ぎをする必要があるのかは分からない。
気絶させた男たちは最低でも一時間は目を醒まさないだろうし、警察を呼んだって身柄を拘束されるのは薬物をやっているこの女も同じ。
ますます胡乱げな色を強める弥人に、カルマはどこか眩しいものを見るような目を向けた。
「お兄さん、
「……だからどうしたって言うんだ」
「こういうタチの悪い不良グループのバックには、大抵悪質なヤクザがついてる。花槍組の縄張りに手を出すような奴らだから、たぶん出来たばっかの暴力団とかで大した規模はないと思うけど」
それとこれとに何の関係がある、とでも言いたげな様子で眉根を寄せる弥人に、少年は構わず続ける。
「要するに用心棒ってやつかな。ケツモチ代っていって、暴走族とかカラーギャングの類から毎月金銭を支払って貰って、よそのグループとそいつらがトラブった時には武力なり人脈なりで介入してくれるってシステム」
「……オイまさか」
そこまで聞いたら流石に察してしまう。
更なる面倒事への予感に頬を引きつらせる弥人に、それで正解だと告げるかのごとく女は不遜に口元を歪ませた。
「本当はこの時間帯に、現金せびりにヤーさん達がやって来る予定だったんだ。リンチ確定の私だけど、チームへ大打撃与えたアンタと茶髪のにーちゃんをヤーさんに差し出したのが私だと分かれば温情下るかもしれない。ね、私の為にちょっと怪我してくんない?」
あんまりな言い分に激情型ではない弥人もむかっ腹が立った。
相手が女という性別でなければ、きっと数秒前にぶん殴ってそこらじゅうに胃液をぶち撒けさせるくらいはしている。
同時に、さすがにヤクザはマズイという焦りも感じていた。
今まで戦ってきた不良は鉄パイプか金属バットかちゃちなナイフか、いたとしてもスタンガンを自慢げにひけらかして迫ってくるようなレベルの者しかいなかった。
だがヤクザともなれば下手すれば拳銃を持っているはず。
迫り来る刃物は避けられても、迫り来る銃弾は避けられない。
ノーコンが一人か二人しかいなければ捌ける自信はあるが、数が多ければ最悪だ。適当な発砲でも数を打てば当てられてしまう。
(迷ってる時間は無い。こうなったら外で戦ってる武宏連れてさっさと撤退だ)
優秀な頭脳は悪手ではなく戦略的撤退を推奨。
それに逆らうことなく、弥人も建物の外で喧嘩の真っ最中だろう武宏に声をかけるべく部屋のドアノブへと手をかけた。
途中で少年の存在を思い出し、ついでに忠告しておく。
「何の用があってここに来たかは分からないが、さっさと有粋とやらを連れて帰ったほうがいいぞ。ヤクザ相手じゃちょっと分が悪い」
「ご忠告どーも。でも心配いらないよ」
「……さすがに足技で銃弾はどうにか出来ないと思うが」
「あはは。俺もそこまで自惚れるのは無理かな」
端正な顔立ちに飄々とした笑みを浮かべる少年。
恐怖で頭が可笑しくなるような腰抜けには見えないし、自分の実力を銃弾に勝てるとまで読み間違えてしまうほどの馬鹿にも見えない。
それでいて余裕綽綽の態度を続けるならば、本当に大丈夫だと信じていいのだろうか。
渋面気味に思考する弥人の目の前で、少年はポケットから取り出した最新型スマートフォンをひらりと強調するように振ってみせた。
同時にぴょこん、と小悪魔めいたツノとシッポの生える幻覚が見えた気もする。
「この溜まり場の情報、見つけた時点でこっそり有粋のおじいさんにリークしちゃった。『ヤバそうだったら助けに入るから孫には秘密でどこに向かってるかメールくれ』――なーんて出発前に頼まれたし」
「はっ。だから何だってんのよ」
少年の言葉を聞いた女が、馬鹿にするような失笑と共に声を吐き出した。
「ジジイが一人増えたところで、肉壁にだってならないわよ」
「いや、あの人の分厚い筋肉なら壁どころか肉の要塞くらいにはなると思うけど……そうじゃなくて」
自分で入れたツッコミに重ねて自分でツッコミを被せるという呑気なことをしでかしつつ、いま言うべきはそうじゃないと頭を左右に振る。
恐ろしいほど緊張感のない少年だ。
「俺とつるんでたもう一人の奴、フルネームは花槍有粋っていうんだ」
「……へ?」
「ここら一体を取り仕切ってる極道の名前は、もちろん知ってるよね?」
にっこりと。
その表情のまま歩いていれば芸能事務所から即戦力としてスカウトがかかりそうな、素晴らしく魅力的で、それゆえ薄ら寒い怖気を感じさせる笑みのまま少年は小首を傾げた。
女のリアクションはというと、目を最大限までかっ開いて体ごと固まったあと、そのまま顔色だけがどんどん青くなっていき……。
「お、終わった…………」
諦念と絶望あふれる形相でぐったり地面に打ちひしがれる傍ら、弥人も額を抑えて俯いた。
(武宏。お前、ヤクザの息子に勘違いで喧嘩ふっかけたみたいだぞ)
やっと解けた誤解の数々。
その中でただ一つ、『有粋は男』という勘違いだけが解決の気配も見せないまま堂々と残っていた。
◇ ◇ ◇
赤羽業の戦いが踊るようで、本条弥人の戦いが流れるようならば。
この戦い二人はそんな華麗流麗とは無縁の代物――獰猛極まりない獣同士の狩り合いのようであった。
熊や狼が格闘技を身につければこんな風に動くのだろう。
しなやかで力強く、大胆に見える動きの中に繊細な技の数々がいくつも混在している。
猛烈な勢いで相手の体に拳を打ち込む様はボクシングに似ているが、古くは高名な武術書において『優れた武術の中の優れた武術』と評されたそれの正体は、翻子拳という中国武術の一つ。
単純に体格ならば天木武宏が勝るが、筋肉の質では花槍有粋も負けてはいない。
互いの連撃はほとんどが拮抗し、たまに通ることがあっても耐久値の高さゆえ二人とも決定打にはならなかった。
地を蹴り肉を打つ音の反響する空間で、日本刀のように鋭い闘気を漲らせた彼と彼女の視線が鮮烈に交錯する。
(基本は武道各種だが、他の格闘技の色も混じってやがる。フィジカルに恵まれた技巧派たァ厄介な相手だぜ。やっぱりカルマとこの
(この野郎、細身に見えてなんつーパワーだ。しかも引き出しが多すぎる。中国武術のマイナー拳法とか芦原空手のサバキはともかく、俺でさえ何なのか見当もつかない格闘技の技まで使うかよ)
既に腹や腕にはいくつもの青痣が刻まれ、肌は激しい運動のせいで汗ばんでいる。
二人とも中学生離れした体力の持ち主だが、一秒も休まず殴りあい蹴りあい投げあい絞めあいと暴れ続けていればおのずとスタミナは減ってしまう。
それでも呼吸はまだ正常のまま乱れていないのだから、武宏と有粋が普段からどれだけトレーニングを積んでいるのかよく分かるというものだ。
「シッ!」
「らぁッ!」
武宏が繰り出したのは背掌を敵の顔面に打ち付ける、洪家拳おいて『美人照鏡』と呼ばれる攻撃技。
対する有粋はその攻撃を右手で受けながら一方の左拳を頭上に振り上げ、武宏の注意をそちらに向けた。
その一瞬の隙に右膝蹴りを腹部に叩き込み、振り上げたままだった左拳も相手の脳天に打ち落とす。
こちらの一連の流れも同じ洪家拳で『月影手脚』と呼ばれる技だ。
見事に決まった攻撃も、しかし武宏の耐久力の前では入りが浅かった。
二重攻撃を喰らいながらも一歩後ろに下がっただけでよろめくことすらせず、驚きに目を見張る有粋の顔面へと縦拳を打ち込む。
正拳突きとは違い親指が上に来る状態で放つ、主に日本拳法などで使われ側拳とも称される突き技。
殴打の瞬間に前腕部をひねる必要のある普通のパンチよりも小さい予備動作で使えるため、時間の短縮になる上、横幅の狭さから相手のガードを多少掻い潜りやすいという利点がある。
短所としては捻りを加えられないぶん威力が落ちるが、鼻っ柱に思い切り振るってしまえば多少のパワー不足など関係ない。
「ッ!!」
回避は間に合わなかった。
鼻血を出して顔をしかめる有粋と、先程の脳天への一撃が今になって効いてきたらしく、こちらも鼻血を出している武宏。
世間的に見て充分に男前と評されるだろう整った顔立ちは、鉄臭い赤に汚れてもなお勇ましく雄々しかった。
双方上着の袖で乱雑に鼻血を拭い、口の中に溜まっていた分を地面へと吐き捨てる。
呑気にティッシュなんて詰め込んでいる暇はない。
飲み込んでしまえば喉に絡みついて呼吸の邪魔になるし、行儀は悪いがこうするしかなかった。
「……体重を相手に乗せたイイ突きだ」
有粋が毅然として口端を上げれば、武宏も剛健として白い歯を見せる。
「アンタもな。クズとつるむような奴じゃなけりゃ、とっくに尊敬してる」
本当に。心の底から惜しい気持ちで一杯だ。
中学レベルを通り越した強さに達した武宏にとって、全力で気持ちよく喧嘩できる相手は貴重。
そんな相手とやっと戦う機会にまみえたというのに、下衆の仲間だと思うとどうしても繰り出す拳に怒りや蔑みといった雑念が混じってしまう。
それが残念でたまらない。
「
「それ以外に何が……って、ちょっと待て! 『アタシ』!?」
思わぬ一人称にショッキング隠しきれぬ絶叫。
あからさまな驚愕の態度をとられた有粋のほうは、困った様子で眉を下げて首筋を押さえた。
「今さらかい。胸に掌底打ち入れといて気付かなかったのは、さすがに兄ちゃんが初めてだ」
「え、いや……だってあれ大胸筋じゃ……」
「一応、二割ぐれェはちゃんと乳房だぜ」
怒りも悲しみも恥ずかしがりもせず、ただただ呆れたように笑う有粋。
今まで野郎だと思っていた相手が女性なら、つまり自分は同い年くらいの女子の顔面をぶん殴って鼻血を出させたことになる。
いや、殴っただけではない。
山嵐や燕返しや胴絞や鈎突きや肘当てや、あと頭突きまで喰らわせた記憶が確かにあった。
「――ヤベェ、どうしよ。女をキズモノにしたら嫁に貰わないといけないんだよな? それとも切腹とかか?」
「オイ、落ち着け兄ちゃん。キズモノも何もアタシの顔にゃあ最初から傷があったろ」
混乱の余り頭を抱えて昭和か江戸みたいなことを言い出した武宏に、有粋は慌てて静止をかけた。
チャラついた風に見えて意外と律儀な男らしい。
先程まで蔓延っていた雄VS雄みたいな雰囲気はとっくに霧散しきっている。
そして有粋の口から更なる衝撃の告白が飛び出た。
「あとアタシ、ここの不良グループの一員とかじゃあねェぞ? むしろ殲滅するために来たクチだ。アンタともう一人の黒髪の兄ちゃんもたぶん同じだろ?」
「…………」
「やる前から違和感は抱いてたんだが、なにせ場の空気が殺気立ってたもんでな。説明するタイミング逃した。第一撃けしかけたのがアタシな以上、責任はアタシにある。謝罪ならいくらでもするが、それでも怒りが収まらねェってんなら骨の一本か二本くらいは腹いせに折っちまっても構わん」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………オイ、兄ちゃん?」
まさかのノーリアクションに胡乱げな形相をすれば、武宏は掌と膝を地面に着いて土下座の途中みたいな体勢で頽れた。
そして腹の底から絞り出すような叫びが廃工場の全体に反響する。
「殺せぇえぇぇぇ!! 誰か俺を殺せえぇぇぇぇ!!」
「ちょ、オイ!? 兄ちゃん!?」
「無実の女子をクズ野郎だと勘違いした上に暴行した俺を殺せえぇぇぇぇ!!」
「いやいや、アタシだって無実の兄ちゃんをクズ野郎だと勘違いした上に暴行したんだ! それにアタシのほうが兄ちゃん殴った回数たぶん多いぜ!?」
「でも投げた回数は俺のほうが多かった!」
「それはそうだけど、蹴った回数でもアタシのほうが上回って――」
「それを言うなら締めた回数は俺のほうが――」
――やいのやいの。
当初の内容から外れてだんだん“どっちが与えたダメージのほうが多いか”という口論じみたものになっていき、最終的には『判定で相打ち』『責任は平等』という結果に落ち着いた二人のトーク。
そのころ廃工場近くの路地裏の前では、予定通り向かっていた暴力団がカルマからの連絡を受けた有粋の祖父が寄越した花槍組の若い衆に取り押さえられ、禁止されている薬の流通は自分たちが原因であるとの証言を暴力により吐かされている最中だったりするのだが。
それを知っているのは、精々この場所の情報を秘密裏にリークしたカルマくらいだった。