仁義ある暗殺   作:絹糸

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第十一話:体調不良、フェロモンは良好

 

 

(――下がりきらなかったか)

 

 

 微熱の残る体に鞭打って山を登りながら、有粋は悩ましげな目つきで溜息を洩らした。

 不調こそ根性で我慢してみせるが、未だ体内にこもる38.8℃の熱のせいで頭が働かないのはどうしようもない。

 いつもなら、飲んで動いて食べて吐いて寝ての繰り返しで無理やり毒素を排出する大雑把でやり方で何とかなったのに。

 何故テスト当日の今回に限ってそれが失敗してしまったのか。

 

 有粋は知らぬことだが、実は彼女が患っているのは風邪ではなく肺炎。

 すぐ切れる息も激しい咳も絡む痰も騒ぐ脈拍も胸の痛みも続く熱も、全てが全て肺炎に代表される症状なのだが、いかんせん風邪と肺炎との違いなんて素人にはまるっきり判別がつかない。

 しいて挙げれば、風邪は早ければ一日で治るが肺炎は一週間ほど長引く。

 だからスパルタ療養で数多の風邪をねじ伏せてきた有粋でも、肺炎という新たな敵を淘汰しきることは出来なかったのだ。

 

 実父から引き継いだ女たらしのフェロモンが発熱と化学反応でも起こしたのか、元々ある色男オーラが今日は一段と淫靡で扇情的なものとして冴え渡っている。

 今の有粋の唇からこぼれる吐息の一つでも吸えば、女という女はこぞって恍惚にも似た目眩を引き起こし地面へ頽れるだろう。

 

 

「あっ――花槍さん」

 

 

 だから背後から聞こえた声に有粋が振り向いたその瞬間、視線が合っただけの少女が突然顔色を真っ赤に変えて黙り込んでしまったのも仕方ないことである。

 

 サラサラと風になびく艶やかな黒髪に、深窓の令嬢を思わせる清楚な花貌。

 微笑み一つで健全な青少年たちの心を鷲掴みにすることも容易いだろう、3年E組のマドンナにして随一の美少女。

 黒タイツを履いたシンプルな制服姿が花嫁衣装のごとく見栄えする彼女の名前は。

 

 

「……神崎有希子ちゃん、だったかい?」

 

 

 平時より掠れたハスキーボイスで尋ねれば、少女は「っぁ」と小さく声を洩らしながら近くの木に寄りかかってしまった。

 イイ女に効くフェロモンということは、将来的にイイ女になるだろう少女にも多少は効くということ。

 そんな有粋のフェロモンが今は発熱のせいでパワーアップしてしまっているわけで。

 

 

「ご、ごめんなさい……なんだか体がおかしいみたい……」

 

 

 瞳を潤ませ体を火照らせ、頬は恥じらいとも喜びともつかぬ感情に染まり鮮やかな薔薇色を呈している。

 胸が苦しいのか、真っ白なシャツを華奢な指先でぎゅっと握りしめて、伸びやかなまつ毛に縁どられた可憐な瞳は、まるで好きな男の子を直視したいけど出来ない繊細な乙女のように伏せがちだ。

 

 名誉のために言っておくと、これは別に神崎有希子ちゃんが発情期を迎えているわけではなく、厄介なフェロモンに当てられて心身がのぼせてしまっているだけだ。

 ここで有粋と出会ったのがイリーナだったならば、色香に酩酊する程度では済まず喘ぎながら失神くらいまでは行っただろう。

 やましいことは何も無いのに想像しただけで年齢制限がかかりそうな光景だ。

 

 

「朝の挨拶をしようと思っただけなのに……私、どうしちゃったんだろう」

 

 

 震える薄桃の唇に指を這わせて困惑する神崎さんの可憐な姿に、有粋は至極真面目な顔つきで答えた。

 

 

「そりゃあ風邪だな。アタシも昨日から熱が下がらねェんだ」

「風邪……それで花槍さん、マスクしているのね。さっきまで大丈夫だったのに、私も急にウイルス拾っちゃったのかな?」

 

 

 熱っぽい息遣いのまま小首をかしげる神崎さん。

 拾ったのはウイルスではなくフェロモンだが、そんな真実には彼女も有粋も気付かない。

 

 発熱中はフェロモンが威力を増すという体質は昔からだが、なにせ患った状態で少女と顔を合わせる機会が今まで無かったもので、まさか成人女性以外にも抜群の効果を発揮するようになっているとは考えつかないようだ。

 加えてこの遺伝フェロモン、年を重ねて容姿が親父に近づいていくごとに濃度も増してきている。

 だから幼少期に発熱状態で少女と体面したことがあったとしても、その頃に発していたフェロモンと15歳になった今のフェロモンでは相手のリアクションが大いに違って参考にはならない可能性が高い。

 

 そんなこんなの理由で、まさか神崎さんの異変が自分のせいだとは露ほども思っていない有粋。

 体調が悪そうなので手を差し伸べねばと、己の熱は棚に上げて神崎さんに近寄った。

 

 

「大丈夫かい? この朝っぱらから本校舎に向かわず山登ってるってこたァ、アタシと同じで教室に取りに行くモンがあるんだろ? 言ってくれりゃあアタシが取ってくるから、神崎の嬢ちゃんは保健室で休んでな」

「ほ、保健室まで歩けそうになくて……」

 

 

 プルプルと小鹿のごとく足を震わせ赤面し続けている神崎さん。

 初夜を迎える前の生娘ですらここまでの反応は中々しないだろう。

 庇護欲をそそる挙措に漢心をくすぐられた有粋は、倦怠感と関節痛を訴える脳味噌からのストップコールを無視して神崎さんの体を抱き上げた。

 効果音で表すならば、『ひょい』の三文字で片付く軽やかな動き。

 

 突然のお姫様抱っこに、そして急接近してきた有粋の肉体から香る無臭のフェロモンに、神崎さんの脳髄はオーバーヒートを起こした。

 体中の血液に砂糖を加えて沸騰させたような、激しくて甘ったるくて、火傷しそうなほど熱い衝動が湧き上がってきて止まらない。

 細胞が、遺伝子が、欲望が、雌としての本能が、目の前の相手を、花槍有粋を求めている。

 ――ああ、この人のモノになりたい。

 

 

「カルマも羽みてェなもんだが、神崎の嬢ちゃんはそれ以上だな。抱えてんのか抱えてねェのか迷っちまうくらいの軽さだ。……嬢ちゃん?」

 

 

 話しかけても反応のない神崎さんを不審に思い顔を覗き込めば、彼女はとろんとした眼差しを有粋に向けていて。

 

 

(――やっちまった)

 

 

 ここでやっと、有粋は神崎さんが自分のフェロモンに煽られていることに気付いた。

 

 

「花槍くん……素敵っ……」

 

 

 いつの間にか呼び方も『花槍さん』から『花槍くん』に変わっているし、語尾が上ずってなんだか婀娜っぽい。

 しなやかな動きで首筋へと神崎さんの細腕が回される。

 女の理性を蕩かすそのフェロモンは、普段ならば有粋自身がある程度コントロールできる代物。

 しかし体調不良の今はそれが上手くいかない。

 焦りの滲む表情で有粋は口を開く。

 マズい。このままでは一人のいたいけな少女に黒歴史を作ってしまう。

 いや、黒というか桃色か?

 

 

「冷静になりな、神崎の嬢ちゃん。えっと……アレだ。アタシみてェなのに惚れたら火傷するぜ」

「是非したいわ……見るたびに花槍くんのことが思い出せる跡が体に残るなんて、考えるだけで震えるくらい嬉しい……」

(ダメだ。完全にフェロモン酔いしちまってらァ)

 

 

 キャラ崩壊もいいところだ。

 いつもの清楚さはどこへやら、軽くアブノーマルな性癖まで獲得しそうになっている神崎さんの豹変した態度に、有粋は困り果てた形相を隠そうともしない。

 

 神崎さんが教室に忘れた物が何だったかは分からないし、自分の忘れ物(筆箱)も回収できそうにないし、そもそもこんな状態の神崎さんを放っておける訳が無いし。

 仕方がない。このまま登山するのは諦めて、さっさと本校舎の保健室に神崎さんを送り届けよう。

 頬に神崎さんからのキスの雨を浴びながら、特に照れた様子も見せず下山を開始する有粋。

 そんなものには慣れていると言わんばかりの態度は、杉野や岡村あたりに目撃されたら怨嗟の叫び声を上げられそうなほど堂に入っている。

 

 というかもう、完全に『女10人くらい喰った直後です』レベルのどエロいオーラがダダ漏れしている上に、抱きかかえている神崎さんが有粋へとハートマークを飛ばしまくっているせいで、もう今からラブホテルにでも向かうようにしか見えない。

 正気に返ったあとの神崎さんがどれだけの羞恥心を味わう羽目になるかと考えれば、関係者としての申し訳なさを感じずにはいられない有粋であった。

 

 

 

 

 

 

      ◇      ◇      ◇

 

 

 

 

 

 

「いっそ死にたい……!」

 

 

 自分と有粋以外は誰もいない保健室。

 その片隅にあるベッドの上で、神崎さんは涙目でプルプルと肩を震わせながら泣きそうな声で呟いた。

 登山半ばでフェロモンに当てられてから既に十分以上が経過している。

 トロトロに蕩けきった理性は、有粋が物理的に5メートルほど距離をとったことも幸いして、だいぶ元に戻ってきたらしい。

 だからこそマトモな思考能力も回復してしまい、こうして圧倒的な羞恥心に襲われているのだが。

 

 ほっそりとした首筋から耳の先まで、白磁の肌を薄い紅色に染め上げている。

 絶妙にブレンドされた羞恥と興奮の名残が齎す性的な紅色だ。

 かすかな香水の様に神崎さんの体から立ち上る少女と雌の匂い。

 ほんの一嗅ぎであらぬ妄想の囚われそうなそれが鼻腔に辿り付き、改めて有粋は、この場に人がいなかったことに感謝した。

 こんな場面を見られてしまっては「何も無かった」と本当の証言をしても信じてもらえない。

 

 

「落ち着いたかい? 神崎の嬢ちゃん」

「うん……ごめんなさい、花槍さん。私ったらあんな変なコト……なんだか花槍さんが急に格好良く見えちゃって」

「へェ、普段のアタシは格好良くねェってのかい?」

「ううん、そういう意味じゃなくって」

「冗談だ。それだけマトモな受け答えができるんなら、もう大丈夫だな」

 

 

 マスクの下でふっと微笑む有粋に、神崎さんは赤みの残る両頬を押さえながら視線をうろつかせて「迷惑かけてごめんなさい」といじらしい謝罪の言葉を紡ぐ。

 並の男子中学生ならこれだけで恋に落ちてしまいそうな可憐さだ。

 

 

「迷惑かけたのはアタシのほうさ。熱のせいでフェロモンの制御が効かなくなっちまってるみたいでなァ」

 

 

 ふぅ、と溜息を吐く仕草が、マスク越しでも総毛立つほどの男の色香を感じさせる。

 有粋は普段からやたらと女子(たまに性別を勘違いしたゲイとバイ)にモテる娘だったし、事実として神崎さんも有粋のことを「格好良い人だなぁ」とこっそり乙女的な目で見ていた。

 しかしここまで格好良く見えたのは今日が初めてで、少女漫画にありがちな『一目見た瞬間から心臓が鳴り止まない』状態に陥ったのもまた然り。

 これが噂に聞く一目惚れなのかと己の性癖を勘ぐったりもしたが、なるほど、有粋がそういうフェロモンの持ち主だというのならば話は別だ。

 

 

(……あんまり長時間見つめてると、またドキドキしちゃいそう)

 

 

 神崎さんが気恥ずかしげに顔を逸らすのと同時に、保健室の扉がガラリと開いた。

 

 

「有粋ー。何で朝っぱらから本校舎の保健室なんていんの?」

 

 

 鮮烈とも言える真朱の髪に着崩した制服姿。

 学校の男子で五本の指に入る整った顔立ちに相変わらずの飄々とした雰囲気を纏わせた少年は、E組のイタズラっ子代表こと赤羽業。

 ここにいる花槍有粋の親友だ。

 

 

「……あれ、神崎さんじゃん。おはよー。ずいぶん早起きなんだね」

 

 

 ベッドに腰かける神崎さんの姿に一拍置いて気付き、ひらりと手を振る。

 どうして遅刻魔の彼がこんな時間に学校に来ているのか、とか、どうして有粋がここにいると分かったのか、とか。

 色々と疑問は湧いてきたが、それ以上に、自分に向けられる視線の中に潜んだ刺々しさに神崎さんは悪寒を走らせた。

 

 怒気というほど激しくないし、殺気というほど危なくもない。

 だがチクチクと肌を突き刺してくるような感情を密かに孕んだ目つきは、間違いなく神崎さんへの敵愾心を感じさせるもので。

 

 

(もしかして……私、カルマくんに嫉妬された?)

 

 

 思い浮かんだ可能性はすんなりと腑に落ちた。

 同時に今までちょっと怖い男子だと思っていたカルマが、なんだか可愛らしく見えてくる。

 親友を取られたような気がして不機嫌になってしまったのだろう。

 微笑ましい表情でニコニコとこちらを見てくる神崎さんに、カルマは『!?』なんて記号を頭上に浮かべるも、特に触れることなく有粋へと話しかけた。

 E組のマドンナは意外と肝が座っている。

 

 

「マスクしてるってことは、結局熱下がらなかったワケ? 珍しいね。40℃近い発熱でも次の日にはいつも根性で治してたのに」

「ああ、関節痛も嘔吐感もまだ残ってやがる。ひょっとしたら風邪じゃねェかもな。うつすと悪ィから、マスク外してる時はあんまりアタシに寄らねェほうが良いぜ」

「それってしてても感染する時はするもんでしょ?」

「一枚500円ぐれェのやつだし、まあ大丈夫じゃねェかな」

 

 

 自他共に認める仲良しコンビの二人が揃ってしまえば、会話の中に神崎さんが踏み込む余地は無くなる。

 それをカルマが意図してやっているのか、あるいは無自覚なのか。

 どちらにせよ独占欲にまみれたその行動に、神崎さんは先程までの己の行動を思い返してはほっと胸を撫で下ろすのだった。

 

 

(――良かった。花槍さんにお姫様抱っこして貰ってる時にカルマくんと鉢合わせなくて)

 

 

 




カルマくんと有粋は二人ともスマホにGPS追跡アプリをダウンロードしあってます。
お互いに行動が筒抜けです。
ちなみに有粋はカルマくんの姿が突然消えた時くらいしか確認しませんが、カルマくんはメールチェックと同じ感覚で確認する派。

テスト前に茶番を挟んですみません。
これも一応、伏線(?)ってほど大袈裟ではありませんがまあそれっぽいものにはなる予定です。


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