「――わ、私の何がいけなかったのかしら?」
怒りを有粋へのトキメキで上書きして結果的に落ち着いたイリーナ。
そんな彼女が教室に帰還して早々とった行動は、生徒たちへの質問という突飛なものだった。
自分でも似合わないことをしている自覚があるのか、微妙にどもり気味だし、肌も火照っている。
それでも視線はまっすぐE組の皆を見据えていて。
(あれ……なんか、可愛い?)
トゥクンと脈打つ胸を押さえて何人もの男子生徒がアホヅラを晒す。
男子中学生にとっては、年上のお色気ムンムン妖艶お姉さんよりも純情で可愛らしい美少女のほうがトキメキの対象になりやすい。
加えてイリーナは態度も悪かったので、このクラスの男子に彼女のことを好意的に見ている者など一人もいなかった。
だというのに、今さら彼らがイリーナの容姿に魅力を感じだしたのはひとえにそのたどたどしい挙措ゆえ。
年下の子供たちに自分の非を問うなど経験したことがなかったのだろう。あからさまに緊張した様子で唇を引き結んで震わせる姿など、可愛らしいことこの上ない。
「何よ、なんとか言いなさいよ……やっぱり『殺す』とか脅したこと怒ってるわけ? 言っとくけど私にだってプロの矜持があるんだから、ターゲット以外を無闇に傷つけたりしないわよ! ただこういうシチュエーションでの暗殺は初めてだったから、邪魔されないように釘刺しとかないとと思って!」
生徒たちの無言を怒りの持続と捉え、慌てたように声を荒らげながら前のめり気味に叫ぶイリーナ。
その際に強調された谷間に岡島が鼻の下を伸ばしたが、そんなことにも気付かないほど今の彼女はテンパっているようだ。
「でも有粋と話してから改めて考えてみたんだけど、邪魔されないように威圧するより協力してもらえるように貢献するのが筋ってモンよね!? 私はプロでアンタ達はアマチュアだけど、それでもここの暗殺者としてはアンタ達のほうが先輩なわけだし!?」
「いっぺん落ち着きな、イリーナさん。教卓が壊れちまう」
慣れない行動への気恥かしさを誤魔化すためバンバンと教卓を叩いていたイリーナの細腕を、有粋が背後から抱きしめるような形で止めた。
実にスマートな動きだ。少女漫画くらいでしかお目にかかる機会のない構図に、一部女子生徒からは黄色い悲鳴が、一部男子生徒からは嫉妬の声が上がる。
前者の代表格は矢田桃花、後者の代表格は岡島大河だ。
「やっぱり花槍さん絵になるねー」「美女とナチュラルにイチャつきやがって!」などの多種多様な掛け声があちらこちらから降ってくるが、それを意図的に聞き流して有粋はイリーナの肩に顎を乗せる。
「殺せんせーをプロとして暗殺するため、自分に足りないものを生徒に尋ねる。そう決めたんだろ? だったらもっと和やかにいかねェと」
囁く声は酷く優しかった。
柔らかな眼差しを間近で浴びて、穏やかさに満ちた不思議な気分になる。
女の身体を火照らせるだけでなく、心を温めることもできる……それが花槍有粋のフェロモンだった。
「アンタはイイ女だ。コイツらはイイ奴だ。ちゃんと真正面から向かい合っちまえば、上手くいかないわけがねェさ」
「……ありがとう。アンタはイイ男よ」
安堵の吐息と共に小さく吐き出した言葉は、彼女にしては珍しいことに色気を含んでいない。
相手を誘惑することを考えての発言ではない。本当に心の底から思ったことをそのまま零しただけのあっさりとした感情の打ち明けは、だからこそ己の鼓動をも鎮められた。
視線を有粋から生徒たちへと戻して、イリーナは再び口を開く。
「私は暗殺のプロよ。でも、先生の経験なんて無いわ。だからこそ、暗殺だけに集中させて欲しいって気持ちがあって、実際その通りに行動してた。……でもそれじゃあ駄目だったわ。あのタコにはアンタたちの暗殺のほうがよほど柔軟で手強いって駄目出しされたし、現に私はアイツの触手一本壊せやしなかった」
イリーナの真摯な様子が生徒たちにも伝わったのか、先程までの騒がしさが嘘のようにしぃんと静まり返る。
嫌な沈黙ではなかった。静寂の中に淡々と響くイリーナの声が、確かな歩み寄りの意思を帯びていたから。
「だから教えてほしいの。私の何がいけないのか。実力? 策略? 演技力? プロとして、いったい私に足りていないものは何? ――お願い、教えて頂戴」
言い切って、あろうことかイリーナは頭を深々と下げた。
プライドに溢れた高飛車な彼女が、ついさっきまでは格下と侮っていたE組の生徒たちに向かって。
その隣では、イリーナの身体からいつの間にやら離れていた有粋が、彼女と同じく……いや、むしろ彼女よりも低い位置にまで頭を下げている。
言葉はなくとも願いはわかった。
まだイリーナに怒りを抱いている者もいるだろうが、それでも彼女のことを許して歩み寄る努力をしてやって欲しい。
そういうことだろう。
今日初めて会ったばかりの相手のために腰を折る有粋の真剣な姿を見て、文句をつけようとしていた寺坂グループまでもが押し黙る。
カルマだけは、親友が自分以外の人間のために訴願するのを見て少々不満げだった。
憎悪や嫌悪などではなく、可愛らしい嫉妬でしかない感情だが。
「……暗殺者として足りてないものはわかりません。でもこの教室では、俺達は暗殺者と生徒の立場を、殺せんせーは暗殺対象の立場を両立しています」
粛然たる空気を破る第一声は磯貝のものだった。
反応して顔を上げたイリーナも、彼の言葉を受け流すことなく誠実に聞き入れている。
「暗殺のプロであるだけじゃ、駄目なんだと思います。教師としても頑張ってくれないと……ただ殺すだけの暗殺者じゃ、この教室には留まれません。殺せんせーは貴方を暗殺者ではなく教師として紹介してくれました」
「まぁ、下手に出ろーとかは言わないからさ。せめて暗殺者としても先生としても対等に接してくんねーかな?」
「そうそう! もしそうしてくれるなら、俺らも外国人の英語教師とか大歓迎だし!」
「女の先生って今ウチにいないもんねー」
磯貝だけでなく、前原や杉野や倉橋も続々とイリーナに声をかける。
それに釣られてか、他の生徒たちも個人差はあれど親しみや歓迎の意思を感じさせる言葉をたくさん口にしてくれた。
プライドの高いイリーナの精一杯の歩み寄りを、彼ら彼女らはしっかり感じ取って、受け止めてくれたらしい。
感極まって瞳を潤ませるイリーナ。
「それじゃあアンタ達……私のこと認めてくれるのね……!」
「まあ、そんな風に頭下げられちゃねー」
「花槍さんがビッチ姉さんと私達の関係を円滑にしようと頑張ってるのに、それを無下にするのも悪いし」
「授業はなんだかんだ分かりやすかったから」
ワイワイガヤガヤ、生徒たちが思い思いの言葉を口にしていて、そのどれもが最終的にはイリーナを受け入れるものばかり。
最後の最後まで頭を下げ続けていた有粋もこの空気に安堵したのか、ほっとした様子で胸を押さえながらやっとこさ顔を上げた。
どうやら上手くいったらしい。和気藹々なムード漂う教室内を見渡して、有粋は慈愛に口元を綻ばせる。
(やっぱりイイ女ってのァ、色気立ってても殺気立ってても魅力的だがよ。心から見せる笑顔って最高のお宝にゃァ叶わねェよなァ)
ひょっとしたら自分は、イリーナのああいう表情が見たくてこんな事をしたのかもしれない、と。
そんな考えを一人展開していた有粋の肩を、どこからか飛んできた紙クズが直撃する。
丸まったメモの切れ端だ。地面に落ちる前に掴み取ったそれを開いて確認すれば、そこには『デレデレすんなバーカ』と見慣れた筆跡で書きなぐってあった。
カルマの座っている席に視線をやる。
予想通りに頬杖をついてイチゴ煮オレをちゅーちゅー飲んでいる親友は、なんだか拗ねているような目つきで刺々しくこちらを睨んでいて。
その可愛らしさに思わず目元が和んだ。
「でもこうして普通の先生になっちゃったら、もうビッチ姉さんなんて呼べないねー」
「だな。ビッチ先生とかどうよ?」
「!? えっと……ねぇアンタ達、せっかくだからビッチから離れてみない? 気軽にファーストネームで呼んでくれて構わないのよ?」
「えー。でもすっかりビッチで固定されちゃったし」
「ぶっちゃけビッチ先生のほうが呼びやすいよな」
「~~~! もうッ、やっぱりアンタ達なんて嫌いよぉー!!」
親友と表情だけの無言のコミュニケーションを楽しんでいれば、そんな泣き言を漏らしながら駆け寄ってきたイリーナが有粋の腕にがっしりとしがみつく。
さめざめと涙を流しながら有粋の制服の肩口に額を押し付けて、イリーナは呟いた。
「ぐすっ……私をイリーナって呼んでくれるのはアンタだけよ有粋……やっぱりアンタ、イイ男だわ……」
「あー……そのことなんだけどよ、イリーナさん」
これから明かす事実への気まずさに頬を引き攣らせながら、有粋はイリーナの美貌を覗き込む。
さりげなく彼女の身体に手を添えて自分から離すと、一転して実直な顔つきでイリーナのことを見つめ――そこから崩れ落ちるようにして土下座した。
「すまねェ、本当にすまねェ……!
地面に前髪をこすりつけての、申し訳なさが生徒たちにまで伝わってくるような本気の謝罪。
血を吐くような苦々しい響きの言葉。
突然の行動に虚をつかれたイリーナは一瞬思考をストップさせたが、それでも時間がたてば有粋の言っていることの意味が理解できてしまった。
まさか、と。
震える唇から落ちるイリーナの声の弱々しさに、有粋が己の軽率な行動を悔いて歯ぎしりする音が聞こえてきた。
「アンタ……女だっていうの?」
突然のシリアスチックな空気に呑まれて静かになった生徒たち。
皆が固唾を飲んで身守る中、有粋は「ああ」と重々しく肯定した。
「そう……じゃあ私、失恋しちゃったのね」
精神的ショックを隠せない様子で、それでも気丈に微笑むイリーナ。
当然だ。いくら百戦錬磨の魔性の女とはいえ、わりと本気で惚れかけていた男が実は女だったのだから。
けれども、本気で惚れかけていたからこそ、相手の悲しむ顔は見たくないと思った。
ましてや土下座なんてして欲しくもない。
「確かに、アンタが男のふりして私を口説くでもしなきゃ、たぶん授業しなかっただろうし。そうなってたら今より生徒たちに受け入れてもらうのにも時間がかかったと思うわ……だから、ね? 気にしないで顔を上げてよ」
「これでも
「ああもう! クドい!!」
「っ!?」
叫びながら有粋の頬を両手でひっつかんで無理やり顔を上げさせれば、さすがに予想していなかったのか琥珀色の目は驚きに見張られている。
そんな表情でも男前を保ったままのイケメンフェイスを引き続き挟み持って、イリーナは勢いよく己の唇を相手の唇へと押し当てた。
途端に響くピチャピチャという湿った音。
粘着質な何かの絡み合う生々しい音。
時々聞こえてくる艶かしい息継ぎの音。
ボカして表現したところで意味はない。
つまるところのディープキスというやつを、イリーナは奇襲じみたタイミングで有粋へと仕掛けたのだ。
「ふうっ……ご馳走様。驚きながらもしっかり対応してくるとか、アンタ相当場数踏んでるわね。しかもめちゃくちゃ上手いじゃないの」
よほど気持ちよかったのか、霊峰に降り積もった白雪のような頬を薔薇色で染め上げ、満足げに唇を手の甲で拭いながらイリーナはうっそりと呟く。
対する有粋はといえば、未だ愕然とした表情で地面に座り込んでいた。しかし土下座の体勢に戻ろうとする気配はない。茫然自失なだけかもしれないが。
そんな有粋の頬についでとばかりに軽い口づけを落として、イリーナはいつもの彼女らしい艶やかで自信に満ちた笑みを浮かべる。
「これで騙してた分はチャラにしてあげる。まだ何か言うようだったら、今度はもっとドギツイのかますわよ」
さすがビッチ先生、なんて誰かの声が鼓膜をかすめた。
諸々の葛藤をたった一つのキスで消化しきって、普段と変わらぬ振る舞いをしてみせるその姿はまさしく有粋の言うところの『イイ女』そのもの。
見守っていた生徒たちも思わず感嘆の溜息を吐く。
有粋もそんなイリーナの様子にこれ以上は言うほうが野暮と感じたのか、やっと地面から膝を離してゆっくりと立ち上がった。
「……わかった。イイ女の嘘には騙されたフリをしろってェのがうちの家訓の一つだからな」
「あら、それ口にしちゃ駄目なやつじゃない?」
「まだテンパってんだ。無粋な物言いだが、これ限り見逃しとくれや」
「もちろん。男の汚点を見ないフリしてやるのもイイ女の努めだから……って、アンタ男じゃないんだったわね」
「……本当に大丈夫かい?」
「大丈夫に決まってるじゃない。立ち直りが早いのもイイ女の条件なんだから」
二人して平然とした様子で会話を続けるのを見て、渚は握りしめていた手からやっと力を抜いた。
見れば手汗ビッショリになっている。
一体どれだけ緊張していたのやら。
(ビッチ先生、わりと本格的に有粋くんに惚れかかってたんだ……道理でカルマくんの機嫌が悪いと思った)
親友を取られたような気分になっていたのか。ムスッとした表情でかすかに頬を膨らませるカルマを視界に収めないようにしながら、渚は窓の外を見上げる。
トラブルは多々あれど、今日もこの暗殺教室は無事に一日を終えた。
新たな教師が一人増えて、明日は何がおこるのやら。
まさかビッチ先生で三話使うことになろうとは。
たぶん読者様にはバレてると思うんですけど、ビッチ先生はかなり好きなキャラです。
それ言いだしたら鷹岡さんとか除くほとんどの原作キャラ大好きなんですけどね。
絡ませたいキャラが多すぎて逆に絡ませられない……。