Chaos Bringer   作:烏賊墨

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初めまして。至らない点が多々あるかもしれませんが生ぬるい目で見守って頂ければ幸いです


#1

人が海面を自力で滑るという事象は一般常識から考えれば有りえない話だ。他人にその目撃例を話した所で話者が変人扱いされるか、南米産の水上を走るイグアナを見間違えたのだと諭されるのがいい所だろう。だが実際に夕暮れで朱に染まる湾内の海面を六人の少女達が滑っている。彼女達の航跡から小波が立ち静かだった海面に白いエッジを刻む。

 

所謂先進国の人々が平和ボケしている世で有れば誰もがこの光景を映画の撮影か怪奇現象だと勘違いし、もし画像か動画を撮られればそれらはネットの世界に放流され、瞬く間にニュースサイトのトップに躍り出る事になる。だがこれは映画の撮影でも無ければ怪奇現象でもないしそう思う人間はこの時代には存在しない、画像が流された所で海外の軍事フォーラムに掲載されるのが関の山な、物騒な時代のありふれた海の日常の一コマだ。

 

彼女らは艦娘だ。過去より召喚され、少女の身を纏い、艤装を背負って海から現れる異形と戦うのを宿命付けられた魂、艦であって艦に非ず、人であって人に非ずという歪な存在、それが彼女らだった。

 

海原を抜ける艦娘は全部で六名、その内五名は小学校高学年~中学生位の少女の格好をした駆逐艦娘で、彼女らの先頭を行く高校生程の身形の艦娘は軽巡洋艦である。艤装や服装に多少の差があれど皆小型の輸送用コンテナ──通称ドラム缶──を装備している点は誰も同じだった。ドラム缶には艦娘の戦闘能力を維持するのには欠かせない資材がぎっしりと積み込まれている。

 

彼女らは戦闘に出たのでは無く遠方の基地から資源の輸送での遠征から己の寝床たる鎮守府へと戻ってきただけに過ぎなかった。物資輸送の遠征に回される艦娘は概して性能が他と劣っている二線級か、目立った戦果を挙げられなくなった落第生か、着任したてホヤホヤのルーキーが担当するのが殆どである。要するに『使えない』艦娘がこの任務に就く羽目になるのだ。

 

彼女らはそういう自分の境遇を自覚しているせいか、潮風が体中を包み込むのを感じながらカモメやトビウオと並んで静かな海を走るという、ともすればロマンチックとも取れるシチュエーションの中で数名がフラストレーションが溜まった表情を維持していた。

 

「ったくあのクソ提督め、こんな単純作業なんかじゃなくて実戦にだせっつーの!」

「まあまあそう言わずに落ち着くのです。司令官さんが私達の働きを認めてくれればいずれ前線で戦える日が来るのです」

 

苛立ちを露わにして暴言を吐き捨てる特型駆逐艦の艦娘である曙を暁型駆逐艦の艦娘である電がなだめる。そんな電の早く前線に出て戦いたい、戦果を挙げて功を立てたいという内心を曙は彼女のトーンとどこか陰りの有る表情から読み取っていた。

 

「でもあたしは今のままでもいいかな…ぶっちゃけ楽だし…」

「直接的な戦闘とは違う、こういう形で皆を支えるのも悪くはないのう」

 

睦月型駆逐艦の艦娘の望月と初春型駆逐艦の艦娘の初春は別に今の境遇にそれ程不満は持ち合わせてはいないようだ。だが前者は実戦に対する単なるやる気の無さから、後者は前線で戦う仲間を支えているのだという自負から来ているという大きな違いが有る。

 

 「お前らはいいよな、まだ実戦に出られる機会が有るだけさ…俺なんて提督から役立たずの烙印を押されてこの仕事を押し付けられたんだぜ。こんな惨めな姿を木曾に見せられねえよ…」

 

 この遠征艦隊の旗艦を務める天龍型軽巡洋艦の艦娘の天龍が恐らくもう二度と抜く機会の無いと思われる己の得物である剣を見つめながら今にも泣きそうな声で呟いた。

 

彼女は鎮守府にいる艦娘の中でも古参で、嘗ては戦艦を沈める等の戦果を幾度も無く挙げ提督からも重宝されていた。だが鎮守府の戦力の拡充と敵の質の向上に伴い、一部の駆逐艦にすら劣る旧式の軽巡洋艦に居場所は残されていなかった。本来なら解体されて当然な彼女がこの場にいるのは単に提督からかつての栄華故の憐れみで居させて貰っているに過ぎない。

 

 「お前もそう思うだろ…なあ死神さんよ…」

 

 最後尾にいる陽炎型駆逐艦の艦娘の雪風は天龍の呼びかけに答える事無く特注の完全防水仕様のipodで音楽を聴いていた。心地良さそうな表情でイヤホンから流れる旋律に合わせて朗らかに口ずさみ、リズムに合わせて海面に波打った図形を刻み込む。イヤホンはいわば彼女と外界を隔てる壁だ、雑音は全て流れる音楽によってカットされ、彼女は自分の世界へ没入する。余計な思考も一緒に彼方へ捨て去る。

 

「I'm a thinker. I could break it down. I'm a shooter. A drastic baby…」

 

彼女はこの六人の中では天龍に次いで実戦経験があり、戦果に至っては天龍のそれを遥かに凌駕していた。本来は資源輸送任務では無く、前線で活躍すべき実力の持ち主だ。何度も彼女は多大な戦果──例えば味方の倍近くの敵を殲滅する等──を残してきた。

──彼女以外の味方の轟沈という到底無視出来ないダメージと引き換えにして。

 

故に彼女は味方内からは一部を除いて侮蔑の視線と共にWW2の時と変わらぬ忌々しい『死神』という渾名を頂戴し、提督からは疎んじまれ戦果に見合わぬ閑職に追いやられた。

 

だが彼女にとってそれは願っても無い話でもあった。ここなら少なくとも味方が死ぬ確率が実戦より格段に低く、これ以上死に目に立ち会う羽目に合わずに済むからだ。少なくとも味方の返り血で服を紅く染め直す事態は到底起こりえない。

 

「無視かよ…歴戦の死神さんはロクに戦果を挙げられなくなったオンボロ軽巡とは話す気も無いんですかね」

「そう言ってやるな天龍よ、あやつは味方の死を何度も見ている筈じゃ、恐らくこの中の誰よりも。精神が相当参っていても可笑しくは無いのう、音楽の一つでも聴いていないとやってられないのかもしれぬ」

「雪風さんは…一体どれ程味方が沈むのを見てきたのでしょうか、電には…想像もつかないのです…」

 

何度も味方の死に目に立ち会った彼女自身の精神的ダメージは大きく、専門の精神科医による投薬とカウンセリングによって何とか正常な精神を保っているという状態だ。それでもWW2と今の戦争の二重の悪夢に魘され、平時も前触れも無く過去がフラッシュバックしてしまうのは止められない。

 

彼女が任務中にも本来好ましく無いipodを使用しているのもこういう事情が有るからだ。音楽で脳内を満たし自分だけの世界に没入している間は過去の記憶は思い出さずに済む、睡眠薬と精神安定剤同様、今の雪風には最早手放せないアイテムだ。

 

陸地に近づくにつれ六人の視界にコンクリート造りの建物が次第に膨張してくる。この建物の一群が彼女らの我が家である泊地だ。荷物を運搬する赤いクレーンがアーチとなって彼女達を迎える。

 

港湾施設に括り付けてあるタラップを登って陸に上がり、その脚で倉庫へと向かう。海上だとどうも感じないのに陸地だと重くのしかかる艤装がもどかしい。

 

工廠傍の倉庫へと辿りつくと工作艦の明石が六人を出迎えた。彼女が工廠以外に顔を出すのは珍しいので何かあるのだろうかと一同が期待に胸を膨らませる。雪風はイヤホンを耳から外し首へ無造作に掛けた。

 

「皆さんお疲れ様でした、食堂で間宮さんがアイスを用意してますよ。出撃組は既に召し上がっていますのではやく行った方がいいですよ」

 

アイスという響きに皆目を爛々と輝かせ、明石に各々の艤装を渡すと我先にと駆け足で食堂へと向かった。それは雪風とて例外では無かった。

 

いかにも古き良き前世紀の日本のテイストを重視した食堂の中は先に帰投した艦娘が着席してアイスを頬張り各々気の合う仲間と談笑するか、親しい仲である艦娘の帰りを待ち律儀にアイスには手を付けていないかで二極化した様相を露わにしていた。

 

天龍は食堂の奥の席にいた球磨型軽巡洋艦改造重雷装巡洋艦艦娘の木曾の目の前の席に座る。親友と再会し爽やかな表情になった木曾とは対照的に天龍は沈鬱な面持ちだ。

 

「おっ、お勤めご苦労さん天龍。どうした随分浮かばない顔をしてるなぁ、お前らしくもない」

「俺だってダウナーな気分になる時だってあるさ、主力に抜擢されて戦果挙げまくりなお前とは違う。もう俺は戦場には戻れないんだよ、木曾」

「そう暗くなるなって、いずれ前みたいに一緒に並んで戦える日が来るさ、それまでの辛抱だ」

「だといいけどな…」

 

嘗て木曾は天龍と同時期にこの鎮守府に配属され二人競い合う様に戦果を出し、後に二人揃って力不足となった所で遠征組に回されていた。そんな二人を分かつ転機となった事件が起きた。木曾に対する二段階改造の実装である。これにより重雷装巡洋艦として生まれ変わった木曾は前線へと返り咲き、自慢の魚雷を用いて戦艦や空母に劣らぬ撃沈数を叩き出し主力として抜擢されるに至った。故に天龍はこの親友に対し少なからず愛憎入り混じった念を抱いていた。

 

天龍に続き他の遠征組も姉妹艦や親しい艦娘の元へ駆け寄る中、雪風だけが一人入口に取り残された。食堂の中に雪風と親しい仲の艦娘はいなかった。

 

「あら雪風ちゃん、こんな所にいたら折角のアイスが溶けてしまいますよ」

 

間宮に促されるままに食堂に入った雪風は取りあえず姉妹艦達のいるテーブルの席に座った。すると雪風が座った瞬間そのテーブルにいた姉妹艦達がアイスを完食していなくても席を立ち食堂から足早に出ていった。外野からは雪風がはっきり聞こえる声でこんな罵声が飛んできた。

 

──可哀想に、不知火なんかまだ一口もアイスを食べていないのに──

 

──疫病神め、何でここにいるんだ。アイスが不味くなるだろ──

 

──前の作戦で比叡の代わりにあいつが沈めば良かったのに──

 

──司令官の最愛の艦娘を殺した死神め──

 

数々の罵詈雑言に耐えかねた雪風はイヤホンを耳に押し込みipodのボリュームを鼓膜が耐えうる限り上げた。イヤホンから盛大に音が漏れるが隣には誰もいないから問題は無い。選んだ曲はヘビーメタル、猥雑な歌詞と共に脳を削る程の重低音がダイレクトに耳へ届くが、心を抉る罵声よりは遥かに耐えられる。

 

スプーンでアイスを一かけら掬い口へと運ぶと、マトモに味わいもせずに飲み込んだ。舌にはアイスの冷たい感触だけが残る。とにかくここから早く出たかった。彼女を囲む険悪な雰囲気を肌で感じていたのだ。こればかりはイヤホンでは防ぎ様が無い。

 

雪風がアイスを半分程口へとかきこんだ所で彼女のイヤホンを耳から外す者が現れた。よからぬ事をされると思い瞬間的にゾッとするも、顔を確認するなりそれは杞憂であると分かった。その人こそが雪風の数少ない親友であり理解者でもある初春型駆逐艦の艦娘、初霜であった。

 

「雪風さん、イヤホンさしながら食べるのは行儀良くないですよ」

「初霜さん…?」

 

この時雪風は救われたのだ。誰かと一緒に時間と空間を共有できる、これだけでも雪風の心は和らげた。

 

初霜は雪風の正面に座ると、まだ誰も手を付けていないアイスをスプーンで取り、雪風の口へと持っていく。

 

「どうせ良く味わなかったんでしょ?折角のアイスが勿体ないですよ。はい、あ~ん」

「あ~ん」

 

初霜が差し出したアイスの欠片を雪風はスプーンの先ごと口に含み、舐めとる。バニラアイスの甘ったるい味が雪風の体温によって舌上で溶けるのに比例して味蕾を包み込んだ。初霜がスプーンを雪風の口から放すと唾液が糸を引き、重力に従いテーブルへと落ちる。

 

初霜は雪風が口を付けたスプーンを別の物に替える事無くアイスを食した。

 

「やっぱり間宮さんのアイスは美味しいですね、疲れが吹っ飛びますよ。アレどうしたんですか?ハトが豆鉄砲でも喰らったみたいな顔して」

「は、初霜さん…そのスプーンは雪風が…」

「嫌ですねぇそんなの気にしてたんですか、別に雪風さんが口付けたって全然構いませんよ」

 

その言葉に雪風は彼女自身の内側から込み上げる熱い何かをありありと感じ取り、双眸から涙を流した。いくら親しい仲とは言えここまで自分を受け入れてくれるとは思わなかったからだ。嘗ての彼女が沈没した元凶が雪風自身かも知れないのにだ。

 

「何で泣いているんですか、親友なんですからこれ位はどうって事無いでしょうに」

 

初霜は雪風の頬を伝う涙を指で拭い取った。

 

「だって雪風は…雪風は貴女を…」

 

──殺したのかもしれないのに──

 

喉から出かかったその言葉は初霜の発言によって遮られた。

 

「もう過去は水に流して下さいよ、あの状況じゃ生き残った方が奇跡なんですから、沈んで当たり前だったんですよ。それをこの世界でもズルズル引きずる程私は捻くれた性格でもありませんし、私が機雷を踏まなきゃ良かっただけの話です。辛気臭くなっちゃいましたからアイスでも食べて気分を変えましょうか」

 

二人はアイスへと再び手を伸ばす。甘みが口に広がる度に自然と笑みが零れているのが自分でも分かった。初霜も雪風が眩しいと感じる程の笑みを浮かべており、彼女と同じ味、同じ感情を共有できている気がして雪風は幸せを感じた。

 

雪風の方が先にアイスに手をつけていたにも関わらず食べ終えたタイミングは初霜とほぼ同時であった。

 

「そうだ、久しぶりに雪風さんの部屋に遊びに行ってもいいですか?」

 

突然のこの発言に雪風はギョッとした。彼女が最後に部屋に来たのは雪風の精神が病む前の時なので当時と今では結構様変わりしてしまっているからだ。

 

「いいですけど掃除してないから結構きたないですよ、色々散らかっていますし」

「構いませんよ、私のも似た様な感じですし」

 

雪風は彼女を部屋に招く事にした。彼女なら乱雑に並べられたCDケースの山を見ても別に驚かないだろうと判断した結果でもあった。

 

鎮守府に併設された艦娘用の宿舎内を雪風と初霜が進んでいく。往来する艦娘達に混じって何人かの艦娘達がフローリングの床とLEDライトの照明に挟まれて各々談笑や携帯ゲーム機で対戦に勤しんでいる。だが二人に向けられた奇異や侮蔑を含んだ視線はどれも同じだった。

 

表情が険しくなる、雪風自身はこの視線に晒されるのは慣れていたので別段問題は無い。だが雪風が腑に落ちなかったのはその視線が初霜にも向けられている事だ。初霜が何をしたというのだ、初霜が彼女以外の味方を見殺しにしたとでも言う気なのか。

 

「雪風さん…その、なんと言うか…顔が怖いですよ」

 

いけないいけないと彼女は自分を制した。幾ら心が乱れていてもそれを彼女に分かる様にしては親友失格である。

 

視線を避ける様に足早に廊下を進むと、『陽炎型駆逐艦雪風』と書かれたネームプレートが貼り付けてある部屋に辿り着いた。この部屋こそが雪風の唯一の居場所であり不可侵領域

だ。

 

雪風が鍵を取り出しドアのロックを解除する。部屋に入って最初に初霜の目に飛び込んで来たのは机の上に無造作に積み上げられたCDケースの山であった。SUM41、Lamb Of God、Linkin Park、My Chemical Romance、どれもこれも初霜が聞いた事も見た事も無い海外のアーティストのもので、邦楽も良くオリコンランキング上位に並ぶアイドル系のでは無いマイナーなグループだ。

 

「私が見ない間にこんなにCD集めてどうしたんですか?」

「ちょっと音楽にハマっちゃってね、えへへ。それより何か聴きませんか?」

「それじゃあこのCDで」

 

初霜は雪風が嘘をついていると直感した。はにかみながらも目が笑っていなかったからだ。だが初霜は雪風が音楽を嗜む本当の理由まではこの時点では察せなかった。

 

初霜が指差したCDケースからCDを取り出しプレイヤーに差し込む。CD内容は雪風お気に入りのMaroon 5のアルバムだった。初霜は適当だったつもりだったのだろうがお気に入りを選んでくれた事で雪風の中で彼女に対する好感度がうなぎのぼりになっていた。

 

ふと初霜がCDケースの山の間に隠す様に置いてある二つの小瓶を見つけた。内容が、気になった。積み重なったCDを崩さぬ様恐る恐る小瓶に手を伸ばし、掴み取る。手にとってみると二つとも小難しい名前の薬品なのが分かった。

 

「雪風さん、これって何の薬…雪風さん?」

 

初霜が雪風の方へ振り返ると雪風から笑顔は消えており呆然とした表情で棒立ちになっていた。一番親友に見つけられたく無いモノを見つけられてしまったからだ。己の奥底に抱える闇だけはたとえ初霜であっても決して知られたくは無かったのだ。

 

雪風の眼から間宮食堂の時とは比べ物にならない程の涙が流れ出しその場に泣き崩れた。困惑する初霜はかがみこんで雪風の両肩を掴み理由を聞き出そうとする。彼女をこうも変えてしまった理由を理解し、それを解きほぐさねばと思った。それが今の初霜が出来る雪風を救う唯一の方法だと信じたからだ。

 

「雪風さん!どうしたんですか!?いきなり泣き出して、この薬と何か関係があるんですか!?」

「もうダメなんです…雪風はもうダメなんです…」

「ダメって何がダメなんですか!?」

「夢を見るんです…雪風の前で沈んでいった仲間がみんな寄ってかって雪風を暗い海の中へ引き摺り込もうとするんです…そしてその中に初霜さん、貴女もいるんです!」

 

泣きなが語る雪風が紡ぐ言葉に初霜はショックで体が固まる。自分がその悪夢にいるからでは無い、雪風が今でも過去の柵にとらわれ悪夢としてまだ苦しみ続けている事、そして今の今まで自分が彼女の苦痛に気付けず何もしてやれなかったからだ。嫌な汗が背中から滲み出るのが止まらない。

 

悲壮感が漂う二人の間でアダム・レヴィーンの歌声が場違いな程鮮明に響く。

 

「それだけじゃないんです、目が覚めても悪夢が追ってきます…これも全て雪風が悪いんです…生き残ってしまったせいなんです、雪風が許されない罪を背負わなきゃいけないんです!」

「…」

「睡眠薬も精神安定剤も音楽も、その罪科を少しでも誤魔化す為なんです。でも貴女に知れてはもう誤魔化せません。さあ初霜さん、雪風に罰を…」

 

初霜は雪風を抱きしめ我が子をあやす母親の手つきで雪風の頭を撫でた。雪風の涙が不意に止まる。初霜から伝わる温もりが雪風の心を温め、なだめる。

 

「もう苦しむ必要は無いんです、生き残ったから罪を背負わねばならないなら今生きている人は全員罪人になってしまいますよ。罰なんて最初から有りはしないんですよ」

 

初霜は雪風の悪夢が彼女の目の前で起きた理不尽な悲劇を生き残った自分の罪にすれば整合性が取れると無意識の内に勘違いしてしまった結果なのでは無いかと推測した。故に初霜は彼女に罪も罰も無いと諭す事にしたのだ。

 

「でも雪風が回数機雷を踏んだせいで貴女は沈んでしまったんですよ、前々から思っていたんですがどうしてこうも雪風の事を気にかけてくれるんですか?可笑しいですよ!!」

「それは雪風さんが私の最期を看取ってくれたからですよ。今まで黙っていましたけどあの戦争で己の死を見届ける者もおらず一人沈んでいく艦も少なく無かった中、雪風さんがいてくれたのがとてもうれしかったんですよ」

 

初霜は秘めていた己の胸の内を打ち明ける。雪風を抱く腕に力が徐々にこめられていく。雪風もそれに応じて抱き返した。互いに対する慕情を言葉だけでは無く体で表現した結果でもある。

 

「多分私達がこの世界に二度目の生を受けたのはこうやって再会するのと…」

 

初霜は自分の双眸からも涙が溢れ出ているのに初めて気が付いた。哀し泣きでもありうれし泣きでもあるな、と彼女は思った。

 

「涙と一緒に過去を洗い流してもう一度最初からやり直す為だと思うんですよ…」

「もう一度…やり直す…?」

「そうです、だから雪風さん、私は貴女と共にあるつもりです…この戦争が終わり、私達が役目を終える…その日まで…」

 

初霜の言葉によって心を打たれた雪風は再び泣いた。大声をあげて泣いた。心の中で渦巻く全てを出し尽くすかの様に泣いた。その涙を初霜は優しく微笑みながら黙って受け止めた。その時の彼女の表情はあたかも慈愛に満ちた母のそれであった。

 

この瞬間、雪風は同性に対して向けるのは少し憚られる感情を抱いたが、彼女はそれに従う事にした。

 

初霜の不意を突き彼女の唇に己のそれを重ね合わせて、塞ぐ。互いの唇の触れ合う面からダイレクトに感じる体温によって雪風の心の奥底が甘く疼く。本能が更なる快楽を欲し、理性もそれに同調した。

 

そのまま雪風は舌で初霜の唇をこじ開けると舌を初霜の口内へと侵入させた。初霜の口内は先ほど食べた間宮アイスの甘ったるい味がした。ここまでやって雪風は今さらながらに初霜に拒絶されるのではと不安になったがすぐにそれは杞憂であると分かった。初霜も己の舌を雪風のそれに絡ませ雪風の口内へと侵入してきたからだ。両者とも互いの口腔内を舌で蹂躙する度に快楽のパルスが全身を駆け巡る。

 

キスで呼吸が出来ず息が苦しくなり雪風は一旦初霜から体を引き離した。涎が糸を引き宙にアーチを作る。よくよく考えれば鼻でも出来るんだったなと雪風は少し後悔した。

 

いきなりのキスとそれによって生じた快楽により初霜の息は荒く頬は紅潮しており、その眼は虚ろで焦点は定まっていない。

 

雪風はそんな初霜の姿を目の当たりにして雪風は己の加虐心をくすぐられ、彼女のあられもない姿をさらけ出してやりたいのと彼女ともっと深い所で繋がり快楽を共有したいという二つの衝動に駆られた。灰色の欲望が彼女の心の内を瞬く間に染め上げる。

 

雪風は初霜のブレザーを取っ払うと彼女のワイシャツに手を掛け、ボタンを一つずつ丁寧に外した。同時にショーツにも手を出し初霜が無抵抗なのを利用してスルリと脱がしそれを後ろへと放り投げた。

 

言葉は不要だった。

 

♢♢♢♢

 

「状況は…芳しくないか」

「はい、このままのペースを維持したとするなら明日の午前中には宇宙センターへと到達すると思われます」

 

夜の執務室内で秘書艦の金剛型戦艦の艦娘である霧島からの報告を聞きつつ三十代にしては人生の暗がりを体現した表情をしている提督は偵察衛星から撮影された南シナ海上のある島に向けて進む深海凄艦の一群の写真を見つめていた。

 

深海凄艦、それは十数年前のある日を境に深海から出没した人類種の天敵だ。圧倒的な物量と人間サイズに詰め込んだ実在艦船と同等の火力を以て船舶を襲撃し、瞬く間にシーレーンを崩壊させ人類の生活基盤を根底から狂わせた。彼女らは通常兵器でも倒せない事は無いが各々が発生させるシールドによって一体一体が既存の生物離れした耐久力を誇り、それらが一度で大量に現れるとなれば米海軍以外の海軍では対処がほぼ不可能だった。

 

故に彼女らを打破すべく生み出された艦娘は米海軍以外の各国の海軍で普及し、瞬く間に海戦での主力の座を勝ち取った。因みに米軍では深海凄艦に対し『深海凄艦の砲撃又は艦載機の手が届かない高高度又は遠距離からの攻撃』という戦術を確立した為艦娘は保持しているが専ら空母の護衛という戦車に対する随伴歩兵に似た立場に甘んじているのが現状だ。

 

「よりによって衛星打ち上げの日に重なるとは運が無いな…」

 

ロケットに積み込まれたた衛星は『神の杖』を搭載する攻撃衛星で、深海凄艦と人類との戦いにおいて形勢逆転の切り札になり得る代物だ。故に打ち上げ失敗は絶対にあってはならない。

 

「この物量では司令が保有する艦娘全員を以てしても防衛は厳しそうですね、米軍に支援を頼んだ方がよろしいかと。丁度米海軍空母も近海を航行しておりフィリピンにも米空軍の爆撃飛行隊が展開中です。宇宙センターも日米共同のものですし恐らく受諾してくれる筈です」

「それは出来ないな、この海域を管理しているのは俺だ、面子がある」

 

宇宙センターが有る島は丁度この泊地にいる提督が管理する海域に存在した。故に米軍に踏み荒らされるという事態は極力避けたかった。この件を足掛かりに他の管理海域にも介入されれば大本営に彼自身の存在価値を疑われかねないからだ。

 

提督は霧島に今回の宇宙センター防衛作戦の詳細を伝えた。その作戦内容は人道的にも戦略的にも破綻しており、霧島は彼の正気を疑わずにはいられなかった。

 

「司令、正気ですか?」

「一介の艦娘でしかないお前が俺に指図する気か!?」

 

提督は右手で机を思い切り叩いた。机の上にあった湯飲み茶碗が不規則に揺れ中の緑茶を軽くシェイクする。

 

「いいか?俺は今までどんな作戦も成功させてきた、今回も必ず成功させて見せる!」

「は、はい…」

 

鬼気迫る提督の表情に霧島はたじろぐ。

 

「それと明日駆逐艦共には『クスリ』を渡せ、そして全員打ったか分かる様使用済み注射器は全部回収しろ」

「司令…いくら何でもそれは…」

 

霧島の諫言に対し提督は怒鳴り散らす。彼の顔から正気は見いだせない、純粋な狂気の産物であった。血走った眼球が霧島を睨みつける。

 

「まだそう言うか!!駆逐艦なんぞ幾らでも作れるだろう、これ以上俺に指図するなら霧島、貴様を解体してやるぞ!」

 

これ以上何を言っても無駄だと感じた霧島は逃げる様に執務室を後にした。

 

執務室から出た霧島は提督の豹変について考えた。少なくとも彼女が着任した当初からあの性格では無かった筈だ、寧ろ当時は優しいとすら思えた。何かが提督を変えたのだ。その『何か』は霧島には分かり切っていた。前の秘書艦比叡の轟沈である。

 

提督は比叡を心から愛していた。何時でも提督は比叡の傍にいた。比叡も提督を愛していたから比叡が提督の傍にいたとも言えるかもしれない。とにかく相思相愛だったのは確かだ。

 

ある日提督は比叡に指輪を渡した。比叡の練度が規格外強化──特殊な指輪を艦娘にはめ込む様から『ケッコン』と揶揄された──を行えるまでに上達したからだ。偽りの婚約でも二人は満足だった。その日は金剛型の姉妹艦全員で提督と比叡を祝福した。二人がおそろいの指輪を眩しい位の笑顔と共に見せびらかしたのを霧島は今でも鮮明に覚えている。

 

『ケッコン』の翌日、提督は比叡を前線へ送り出した。海域を航行中の深海凄艦水雷戦隊を急襲するという簡単な作戦なので『ケッコン』の効力を試すには丁度良かったのだ。

 

──運が悪かった。

 

実は水雷戦隊は囮で比叡が旗艦を務めた艦隊はまんまと敵の待ち伏せに引っかかってしまったのだ。自軍の何倍もの物量の敵に囲まれ比叡の艦隊は文字通りの四面楚歌となった。四方八方から繰り出される敵の砲弾や魚雷、艦載機により一人、また一人と嬲り殺しにされた。この時執務室で比叡の代わりに秘書官を務めた霧島は無線越しに聞こえた比叡の悲鳴と共に彼女のバイタルサインの消失を知らせるピープー音を聞いた提督の姿を一生忘れないだろう、愛しき人の名を呼びながら大の大人が子どもの様に泣きじゃくるあの様を。そして提督は心を壊し狂気を発してしまったのだ。

 

だがそんな状況の中で一人だけ無傷で、しかも敵艦全員を撃沈して帰ってきた艦娘がいた、雪風である。駆逐艦が戦況をひっくり返すというのはままある、海戦というのはそういうものだ。だが霧島が解せなかったのは雪風の戦果では無く雪風が置かれた状況である。彼女は幾度と無く己以外の味方が居ないという状況に立たされてはチェスの盤をひっくり返すかの如くの逆転劇を見せていた。

 

彼女が活躍する時は彼女以外が沈んでいる、その共通点に霧島は目を付けた。彼女は雪風を自分以外の全てを死に至らしめる死神ではないかと推測した。他者の命を啜り生きる死神ではないかと。偶然生き残った駆逐艦を死神にするのは邪推もいいところだが彼女の生存率を鑑みるとそう思わずにはいられなかった。

 

WW2を思い返す、記憶が確かなら比叡は第三次ソロモン海戦にて雪風や他の駆逐艦によって雷撃処分された筈だ。

 

「歴史は…繰り返すのかしら…」

 

霧島は眼鏡を外し顔を手で覆って天を仰いだ。


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