るろうに使い魔‐ハルケギニア剣客浪漫譚‐   作:お団子

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第三十三幕『アンドバリの指輪』

「いやあ、それにしてもまさかあんた達とこんなとこで出会うなんてねぇ、思ってもみなかったわ!」

「笑い事じゃないでしょ! あんなにバンバン撃ち合っててさあもう!」

 その夜、一行は事情をそれぞれ聞こうと、焚き火を付けて周りで話し合うことにした。そこで一通り話を済ませた後、おかしいとばかりにキュルケが大笑いしていたのであった。

「…ひどい目にあったでござる…」

 剣心は毛布にくるまりながら、焚き火で暖をとっている。それを見て、またキュルケはクスクスと笑う。

「いやあ、しっかし改めて闘うと強いわね。本当に危なかったわ」

「呑気ねアンタ…。てか只の平民に二人がかりで挑んでおいて、よくそんなまともな神経をしてられるわね」

 襲撃者が知り合いだということで幾許か落ち着いたモンモランシーは、そんなキュルケを見て、呆れたような声で言った。

 キュルケとタバサは、学院でも一、ニを争うほどの実力者として有名だ。それが只の平民、しかも二人がかりで挑んでおいて互角という闘いをしておきながら、悔しそうにするでもなく愉快そうな態度をしているのが不思議でしょうがなかったのだ。

 それを聞いたキュルケは、モンモランシーをまじまじと見て、そしてプッと馬鹿にするように笑う。

「そりゃそうよ。ケンシンの強さは、この目で見てきたあたし達が一番よく知っているもの。あれだってどうせ本気じゃなかったんでしょ?」

 と、聞くのも馬鹿馬鹿しそうにキュルケは剣心に尋ねた。剣心は、無言のままぼーっとしているタバサを見て、当たり障りのないように答える。

「いや、二人とも充分強かったでござるよ。特にあの連携は息もあっていたし、中々のものでござった」

「まあ、アンタに言われても説得力全然無いと思うわよ」

 ルイズの言葉に、キュルケはおろかタバサも顔を上げてウンウンと頷く。会う敵会う敵を余裕そうに撃破する剣心は、一体誰なら苦戦するのかさっぱり思いつかないのであった。

 彼なら多分、エルフや吸血鬼でも余裕なんじゃないのかという共通認識が、ここで生まれ始めていた。

「そうそう。あたしの特大の『フレイム・ボール』を、あんな大道芸で防がれるとは思わなかったわ」

「……大道芸ではないのでござるけどなぁ…」

「え、違うの?」

 剣心はおろろ…と苦い笑いを浮かべた。モンモランシーは、ただポカンとしているだけだった。

 

 

「さて…それでは本題に戻るでござるが」

 ここで、剣心が話題を切り替えキュルケ達を見つめる。

「お主らは、何故このような襲撃まがいの行為を?」

「この子の実家に頼まれたのよ。あたしはその付き添い」

 隠してもしょうがないだろうと、一度タバサと顔を見合わせて確認したキュルケがそう言った。

「何でも水かさがこの所増えてきてるそうじゃない? これ以上被害が出る前に何とか止めさせる方法を考えてくれないか、みたいなことを言われたらしくてね。どうしようか…って話してたところにあなた達とばったり会ったわけよ」

 と、ここまでキュルケは話すと、今度は同じような疑問の目を剣心達に向けた。

「それで、あなた達は何故ここに?」

「…話すのもバカみたいだけど…この際しょうがないわよね?」

 ルイズは、鋭い視線を一度モンモランシーに向け、渋々納得したような顔を確認すると、ため息混じりに事の顛末を話し始めた。

 

「――あははは!! 成程やっと話が繋がったわ! あの壁紙はそういう意味だったのね!!」

 一通り聞いたキュルケは、未だに眠りこけているギーシュを見つめて、また一段と可笑しそうな声で笑った。

「も、もういいじゃない!! そんなに笑うんじゃないわよ!!」

 モンモランシーは顔を真っ赤にさせた。ある意味で一番知られたくない人間に知られてしまったからだ。この反応も当然だろう。

「うーん、でもそれじゃああんた達も必死なわけね、さてどうしようかしら…」

『精霊の涙』を欲しているルイズ達の気持ちも分かるが、かといって親友の任務をおざなりにするわけにはいかない。

 皆しばらくどうしたものかと考えていたが、ふと剣心がタバサに質問する。

「つまり、タバサ殿達はその増水を止めて欲しいのでござろう? ならどうして水を増やそうとしているのか、一度精霊殿に聞いてみてはいいのでは?」

 道中で出会った農夫が頭の中に浮かんできた剣心は、そう言えば何故水を増やすのか、まだ聞いては無かった事を思い出した。

 その原因さえ突き止めれば、そして増水を止めるよう説得できれば、襲撃もしなくて済むだろうし、一応精霊からの任は果たしたことになるので『精霊の涙』も貰えるはずだ、と考えたのだ。

「まあ、確かにそうね。うん、そうしましょ!」

 現状、それしかないなと思った一行は、翌日水の精霊に事情を聞くこととなった。

 

 

 

 

 

第三十三幕『アンドバリの指輪』

 

 

 

 

 

 そして翌日。

 モンモランシーは早速使い魔のロビンを使って水の精霊を呼び出した。

 暫くして水の精霊は、昨日と同じように水の塊のまま姿を表し、やがてその形をモンモランシーへと変える。

「水の精霊よ、もうあなたを襲う者はいなくなったわ。約束通り、あなたの一部を頂戴」

 モンモランシーがそう言うと、水の精霊は身体を細かく震わせ、その一雫をルイズ達に渡してきた。

 それをモンモランシーが壜で受け止めると、再び水の精霊はごぼごぼと姿を変えながら湖へと戻ろうとした。

 それを剣心が止める。

「ああ、帰る前に一つ聞かせて欲しいでござる。何故水かさを増やそうとしているのでござるか? 何か原因があるなら、拙者たちも協力するでござるよ」

 その声に、再び水の精霊はぐにぐにと姿を変えてモンモランシーへと形作る。「改めて見ると恥ずかしいわね」と、モンモランシーは呟いた。

 水の精霊は、何度か表情を変えるような仕草を取ると、やがて無表情な顔を象ってこう告げる。

「お前たちに任せてもよいものか、我は悩む。しかし、お前たちは我との約束を守った。ならば信用して話してもよいことと思う」

 そして、水の精霊は事の発端を話し始めた。

 

「数えるほども愚かしい程月が交差する時の間、我が守りし秘宝を、お前たちの同胞が盗んだのだ」

「秘宝…でござるか?」

「そうだ。我が暮らすもっとも濃き水の底からその秘宝を盗んで…いや…」

 ここで水の精霊は言葉を切った。思い出すも忌々しい。そんな感情が漂っていた。

「月が三十程交差する前の晩、それは起こった」

「おおよそ二年前ね」

 隣でモンモランシーが補足する。

「では、その秘宝を取り返すために水を…?」

「察しがいいな、その通りだ。ゆっくり水が侵食すれば、いずれ秘宝に届くだろう。水が全てを覆い尽くすその暁には、我が体が秘宝のありかを知るだろう」

 流石にそれを聞いて、一行は呆れた様子を隠せなかった。何とも遠大な計画である。一体何百…いや、何千年かかるか分かったものではなかった。

「では、拙者達がそれを取り返せれば、増水は止めてくれるでござるか?」

「そうしても良いのだが…果たしてお前たちに出来るかどうか」

 そう言って、水の精霊はどこか遠くを見るような感じで、『あの頃』を語り始めた。

 

「あの夜、それは突然だった。何個体かが風の力を行使して、我を強引に引きずり出そうとしてきたのだ。我はその挑発に乗った。愚かしい無知なる者共に、永久の制裁でも与えてやろうと…それが全ての後悔の始まりだった」

 重々しく語るような声に、ルイズ達は緊張感を覚える。水の精霊が後悔するようなことなんて、あるのだろうか…?

「地上へと姿を移した我に待っていたものは…激しく燃え上がる地獄の業火。それを操る一個の個体」

 そして、水の精霊は剣心を指差した。最初に一瞬だけ見せた、あの憎々しげな表情をして。

 

 

 

「そう、丁度貴様の様な『異国の』雰囲気を纏う者だった」

 

 

 

「………!!」

 それを聞いて、剣心は驚きで目を見開かせた。ルイズ達も、ポカンとした表情で剣心を見る。

「只の単なる者と、奴を侮ったのが最大の失態。奴は…その業火を操り、我の身を焼き、消滅へと追いやろうとした。そしてその隙に秘宝を奪われたのだ」

「ほ…本当ですか…それ…?」

 モンモランシーが、顔を真っ青にして声を震わせた。水の精霊に喧嘩を売ること自体恐ろしいことなのに…あまつさえ消滅に追い込んだ?

 確かに、地上へ引きずり出された水の精霊の動きは鈍い。強力な炎の前では、手も足も出ないだろう。

 だがそれを補ってあまりある恐ろしさ…水の精霊は、人の精神を自由に干渉することが出来る。どんな屈強なメイジであろうと、ひと度触れられれば、たちまち操り人形へと変えてしまうことだって可能なのだ。他の生命を操ること位、水の精霊にしてみれば呼吸をするのと同じでなんてことはないのだ。

 だから普通正面きって喧嘩を売るなんて、自殺行為もいいとこだ。それが地上とはいえ、水の精霊が追い詰められるなんて、まず考えられなかった。

 ここで剣心は、周囲で焼けたままの草木を見る。どうやらこの場所こそが、水の精霊の言う「襲われた場所」なのであろう。ようやく合点がいった。

 

 

「奴は単なる者では留まらない…地獄から蘇った正真正銘の『悪鬼』なのかも知れぬな…」

 

 

 もしそれが本当なら…そんな奴を相手に束にかかっても敵うはずがない。モンモランシーは動揺を隠せなかった。

「その…奴等の名前は、聞いてはいないでござるか?」

 検討はついてはいたが、剣心は確認するように尋ねた。しかし、水の精霊は首を振る。

「残念ながら、その個体の名は聞いてはいない。だがそいつは他の個体をこう呼んでいた。『クロムウェル』と…」

 クロムウェル? と聞かない名を耳にした剣心に、今度はキュルケが補足する。

「確か、現アルビオンの新皇帝の名前のはずよ」

 それを聞いた剣心は、暫く何事かを思案していると、再び水の精霊に尋ねた。

「その、秘宝というのはどんなものでござるか?」

「『アンドバリの指輪』。我が共に時を過ごした指輪」

 今度はモンモランシーが、何か思いついたように口を開いた。

「ええと、それって確か『水』系統のマジックアイテムじゃないかしら? 偽りの生命を与えるとか何とか…」

「その通り。誰が作ったものかは分からぬが、単なる者よ。お前の仲間かもしれぬ」

「その指輪で、命を与えられるとどうなるのですか?」

 今度はルイズが、水の精霊におずおずと聞いた。

「指輪を使った者に従うようになる。個々に意思があるというのは、不便なものだな」

(では、あの男も…?) 

 剣心は頭を働かせたが、タルブで対峙したとき、奴は自身の『野望』を語っていた。身も心も只の操り人形になったのなら、まずあんな大言口にしないだろう。

 それに奪ったのが奴なのだとしたら、指輪の前にはもうこの世界に来ていたということになる。

(奴が来たのは、もっと別の何かか…)

 剣心はそう考えた。その隣でキュルケが同じように何やら考え事をしていたが、皆は特に気にしなかった。

 

 

「ねえケンシン、アンタ何か知ってるんじゃ――――…」

 剣心の態度に何か感じ取ったルイズは、そう言って剣心に詰め寄ろうとしたが、直前で止まった。そして驚いたように目を見開く。

 

 同じ目―――あの刃のように冷たく鋭い瞳。あの夢で見た剣心と同じ目…。思わず背筋がゾクッと凍りつくような目だ。

 

「水の精霊殿、約束するでござる」

 剣心は、水の精霊の一歩前へと出て、憮然と言い放った。

「必ずや、連中を倒してその盗まれた指輪を取り戻してみせる。だからもう、増水は止めて欲しいでござるよ」

 真剣そのもの、一切の冗談がない瞳で、剣心は告げる。それを聞いた水の精霊は、しばし考えるように身体をぐにぐにとさせていると、やがてこう返した。

「勇気ある者よ、先程言ったな。貴様と奴は同じ雰囲気を纏っていると。貴様は我との約束を守った。ならば、我も貴様を信用するとしよう…奴を止められるのは、恐らく貴様だけだ」

 その言葉に、ルイズ達はほっと胸をなでおろす。そして同時に驚いてもいた。かの水の精霊が、ここまで一人の人間に入れ込むことなんて聞いたことなかったからだ。

「我はいつでも待とう。お前たちの寿命が尽きるまでで構わぬ。我にとっては明日も未来も大して変わりはしない」

「かたじけないでござるよ」

 そう言葉を交わした後、水の精霊は姿を変えて湖へと戻ろうとしていく。その寸前を再び呼び止めたのは、何とタバサだった。

 

 

「待って。水の精霊、最後にあなたに一つ聞きたい」

「…何だ?」

「あなたはわたし達の間で『誓約の精霊』と呼ばれている。その理由が聞きたい」

 誰もが、タバサがこのような質問をすることに驚いていた。水の精霊は暫く沈黙したあと、こう答える。

「単なる者よ。我とお前たちでは存在の根底が違う。ゆえにお前たちの考えは我には深く理解できぬ。しかし察するに、我の存在自体がそう呼ばれる理由だと思う。

我に決まった形は無い。しかし我は変わらぬ。お前たちが目まぐるしく世代を入れ替える間、我はずっとこの水と共にあった。――――変わらぬ我の前ゆえ、お前たちは変わらぬ何かを祈りたくなるのだろう」

 精霊の言葉を深く聞いていたタバサは、コクリと頷くと、目を瞑って手を合わせた。

 彼女ほどの人間が、一体何を望んで誓約したのだろう? そうルイズ達は思う中、キュルケだけは彼女に倣うように一緒に祈った。

 ここでギーシュは、気障ったらしい態度を取りながら剣心に向かって口を開く。

「さあ、ケンシン君。僕たちも一緒に祈ろうじゃ――ぼあっ!!!」

 皆まで言わせず、モンモランシーがギーシュを殴りつけた。

「アンタね、ホント後悔しても知らないわよ!!?」

「嫌だなあ、一体何を後悔するというんだい? 正直きみみたいなうるさいだけの癇癪持ちに好かれても、ぼくは全然嬉しくないんだが―――ぐぼあっ!!!」

 すかさずモンモランシーの昇竜拳がギーシュの顎を打ち砕く。漫才のようなやり取りをする二人を尻目に、ルイズは剣心を見つめていた。

 彼は周辺の事など、まるで聞こえていないかのように一人険しい顔で佇んでいる。何事かに思いを馳せるかのように…。

 今の剣心には、きっと何を言っても声は届かないだろう…。ルイズはそう思った。

 

(何よ…一人でずっと考え込んでさ…)

 ルイズは、口にはしなくともその顔はすこぶる不機嫌そうだった。折角水の精霊の前なのに…永遠の契なのに…わたしに何かしら言ってくれてもいいじゃない…。

 無関心を貫き通す彼に対して、そんな思いを抱かずにはいられなかった。

 そりゃあ、いきなり「一緒に誓おう」とか言われても、心の準備とか出来てないし…。第一わたしたちは貴族と平民の前に主人と使い魔の関係であるからしてそんなこといやでも向こうから言ってくれればわたしだって主人だし貴族だしでその想いを無下にしようだなんて少しは考えてもあげるしで…。

 つまり、何が言いたいのかというと。

 

(一人で背負い込まないで、わたしにも話しなさいよ…主人じゃないの…)

 そんな遣る瀬無い思いが、ルイズの中に渦巻いていた。

 結局、ルイズは剣心に『永遠の契』を切り出すことなくラグドリアン湖を去ることとなる。

 

 あの時…もし剣心に『永遠の契』を切り出せていれば…どうなっていたのかな…?

 そんな風にルイズが思うのは、当分先の話のことだった。

 

 

 

 その夜―――トリステインの王宮にて。

 アンリエッタは裸に近い格好でベッドに横たわっていた。身に付けているのは薄い肌着のみ。そんな女王とは思えない、あられもない姿になっていた。

 亡き父が居室として使っていたこの部屋で、アンリエッタはおぼつかない手でワインの壜を取ってグラスに注いで、そして一気に飲み干した。

 

「………不味い…」

 誰に言うわけでもなく、アンリエッタは呟いた。最近はいつもそうだ、何を飲んでも食べても、味というのを感じない。

 昔は酒など食事のときに軽く飲むくらいだったが…女王になってから量が増えた。飲み方も、周りに教わるわけもなく自然と我流になってしまった。

 その昔、どこかで聞いて印象に残った言葉を思い出す。酒が不味いと思うのは、自分の何かが病んでいる証だと……。

 

(病んでいる…確かに…そうかも…)

 

 女王になり、最早ただのお飾りでは無くなったアンリエッタにとって、決断を求められる、というのはかなりの心労だった。

 小康状態とはいえ今は戦時中。飾りの王でも飾りなりの責任は既にどこでも発生しており、その重圧を未だに扱いかねているアンリエッタは、もう酒に頼らねば満足にも寝られない身体になっていた。

 勿論、こんな姿を女官や従者に見られるわけにはいかない。こっそりワインをくすねては隠して、こうして夜中に一人飲んでいるのだった。

 アンリエッタは再びワインを注いでそれを口にする。

 

(やっぱり…不味い…)

 銘柄は決して悪いものではない。寧ろ平民が必死で稼いでも手に届くかわからないような高級品だ。

 でも、感想は変わらない。本当に何を飲んでも美味しく感じなかった。しかし、飲まないと眠れない。

 杖を取り出し、それをグラスに向けて振ると、杯の中に水が溢れ出した。空気中の水蒸気を液体に戻す『水』系統初歩の呪文である。

 しかし酔っているのか、少し加減が効かずに水がグラスを伝って溢れた。まるで自分の代わりに泣いているかのように……。

 それを飲み干したアンリエッタは、いい加減に身体をベッドに横にあずけて、天井を見上げた。

 酔うと決まって思い出すのは、楽しかったあの日々…輝いていたあの頃。

 ほんのわずかの、生きていると実感出来た昔の時間。

 そして十四歳の夏……彼とのひと時。一度でいいから聞きたかったあの言葉。

「どうして……」

 口に出ると同時に目頭が熱くなる。そしてほろりと一筋の水が流れ落ちた。それはもう、一度溢れると止まらなかった。

 

「どうしてあなたは…あの時仰ってくれなかったの…?」

 

 しかしもう、その答えを出してくれる人物はいない。遠い、本当に遠い所へと旅立ってしまったのだから―――。

 思えば…あの報せを聞いたとき、それが全ての始まりだったのかもしれない。酒を不味いと思うようになったのも…こうして夜な夜な昔の頃を思い出すのも…。

 タルブへの勝利が、悲しみを癒してくれるのかと思った。女王の激務が、忘れさせてくれるかとも思った。

 でもやっぱり……忘れられない…彼の声が…また聞きたい…。

 そんな、叶わぬ想いを涙に変えて横になっていた、その時だった。

 

 

 

 コンコン、と扉をノックする音が聞こえてきた。

 アンリエッタは、酒で鈍くなった頭で考えた。誰だろう? こんな夜更けに…。

「ラ・ポルト? それとも枢機卿かしら? こんな夜中にどうしたの?」

 しばらくの沈黙の後、扉の向こうに居る人物はこう言った。

 

「…ぼくだよ」

 

 ……ああ、とうとう飲みすぎで頭がおかしくなったらしい。でなければ幻聴か何かだろう。アンリエッタはそう思った。

 だってその声は…今はもうこの世にはいない人の声だったのだから…。

「ぼくだよアンリエッタ。この扉を開けておくれ」

 また幻聴が聞こえる。アンリエッタはそう思い込もうとした。でも身体が段々と熱くなっていく。激しい動悸は収まりを知らない。

「ウェールズ…さま…なの…?」

「そう言っているじゃないか。ぼくの愛しい恋人よ」

「嘘よ…嘘。…だって風のルビーも…あなたは…」

 死んだ筈。そう言う前に、扉の向こうの声が、その言葉を遮った。

「敵を欺くためには、まず味方からというだろう? まあ、信じられないのも無理はない。ではぼくがぼくだという証拠を聞かせよう」

 暫く流れる沈黙の後、声の主は朗々と告げた。

 

 

 

「…風吹く夜に」

 

 

 

 アンリエッタはもう、返事をするのも忘れて飛び出した。急いでドアを開け、その声の主を見る。

 そこには、何度も夢見た彼の笑顔があった。

「ウェールズさま…よくぞ…ご無事で…」

 アンリエッタは、ウェールズの胸へと顔を埋めて、そしてむせび泣いた。ウェールズはそんな彼女の頭を優しく撫でる。

「相変わらずだねアンリエッタ。なんて泣き虫なんだ」

「だって…てっきりあなたは死んだものだと…どうしてもっと早くにいらしてくださらなかったの?」

「仕方がなかったんだ。敗戦の後、それはもう必死だったからね。こうやってきみに会える余裕が出来るまで、ぼくだって随分と苦労したんだ」

「そうでしたの…でも、その間どんなに私が悲しんだか、あなたには分からないのでしょうね」

 口を尖らせるアンリエッタだったが、その顔は涙でグショグショになりながらも嬉しくて幸せそうな表情だった。

 それを見たウェールズは、アンリエッタに見えない角度で冷たい笑みを浮かべていた。

「分かるとも。だからこうして迎えに来たんじゃないか」

 そう言って、しばらく二人は抱き合った。そしてここに居着くだろうと思い、安心させるようにアンリエッタは告げる。

「遠慮なさらずに、この城にいらして下さいな。今のアルビオンに、トリステインへ攻め込む力はありません。何せ頼みの艦隊がなくなってしまったのですから。この城はハルケギニアのどこよりも安全です。敵はウェールズさまに指一本触れることは出来ませんわ」

 しかしウェールズはそれを聞いて静かに首を振る。

「残念だが、ぼくはアルビオンに帰らなくちゃいけない」

「何を仰るのですか!? せっかく拾ったお命を、むざむざ捨てに行くようなものですわ!!」

 アンリエッタは叫んだ。彼女の不安につけ込むかのように、ウェールズは続ける。

「それでも…ぼくはレコン・キスタの手からアルビオンを救わなくてはならない。そのために、今日はきみを迎えに来たんだ」

「…わたしを?」

「そうだ。もっと信頼できる人物がぼくは欲しい。一緒に来てくれるね」

 アンリエッタは、困った様子で顔を俯かせた。昔の只の姫であった時代なら、そのような冒険はできたかもしれない。

 だけど今はもう、この国、トリステインの女王なのだ。自分の我侭一つで、国を放り出す真似は出来ない。

「後生ですわ…ウェールズさま…わたくしはもう女王なのです。好むと好まざるとに関わらず、国と民がこの肩の上にのっております。無理を仰らないで下さいまし」

 だが、ウェールズは諦めるどころか、更に熱心な言葉でアンリエッタを説き伏せにかかる。イヤイヤと小さく首を振っていたアンリエッタだったが、彼の言葉一つ一つが彼女を堕としていく。

 

「無理は分かっているさ。でも僕には必要なんだ!! アルビオンと僕達に勝利をもたらしてくれる『聖女』が!!」

「…これ以上わたくしを困らせないで下さいまし。今人を遣わせますわ。この話はまた明日…」

「それじゃ駄目なんだ。今じゃなきゃ間に合わない」

 そしてとうとう、ウェールズはアンリエッタの肩に手を置き、そして言った。ずっと聞きたかった、あの言葉を……。

 

「愛している。アンリエッタ。だからぼくと一緒に来てくれ」

 

 その一言が、アンリエッタの身体を金縛りにした。鼓動がどんどんと高鳴っていく。目から何か熱いものが込み上げてくるのを、押し止める事は出来なかった。

 ウェールズは、ゆっくりとアンリエッタの唇に自分の口を重ねる。アンリエッタは迷ったが、その誘いに抗うことは遂に出来なかった。

 脳裏に蘇るのは、甘い記憶。アンリエッタは自分と彼との過去にゆっくり浸ったまま、その身体をウェールズへあずけた。

 そして、そのまま深い眠りについたアンリエッタを、ウェールズは邪悪な笑みを浮かべながら支えていた。

 


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