まどかマギカ - a fairy tale of the two. ~上条恭介を修正する話~ 作:どるき
時刻は六時を回り、外は暗くなり始めたころ。さやかはついに立ち上がった。
「そろそろ六時か……だいぶ長居をしていたけれど、そろそろ帰らないといけないんじゃないのかな?」
「そうですね。恭介の所に寄ってから帰ります」
「じゃあ……ミズキちゃんが送っていってあげてくれないか? キミも二人で帰れば安心できるだろう」
「そうですね」
さやかとミズキの二人は久瀬の病室を後にする。帰る前にまずは恭介の病室に寄ろうとしたのだが、さやかは途中でミズキを止めた。
「あの……羽山さんは此処で待っていてくれませんか?」
突然の言葉にミズキは小首を傾げるが、さやかが醸し出す雰囲気に彼女の気持ちを察する。初対面の時からさやかが恭介に気があることは察してはいたが、なぜ今日になって勇気を出したのかまでは解らない。それでも美樹さやかは本気なんだと感じたミズキは気負いしなようにさやかの背中を叩く。
「理由は聞かないから……頑張って」
「はい」
ミズキに後押しされてさやかは恭介の病室を訪ねる。だがそこにいたのは、さやかが良く知る上条恭介ではなかった。
うつろな目、午前中には気が付かなかったくま、そしてベッドの上に散らばるCDの破片。
眼前の病人は酷くやつれていた。
「恭介……」
「なんださやかか。キミも僕を嘲笑いに来たのかい?」
「そんなんじゃないわよ。ただ、恭介に伝えたいことがあって……」
「それは僕の左腕の病状かい? 僕だって馬鹿じゃない……病院の人か久瀬さんかの差し金だとは思うけれど、言われなくても治らないことは解っているさ」
「そんな……あたしはそんなこと……」
恭介の豹変した雰囲気に、ついにさやかは先に心が折れた。
「ごめん」
さやかは涙を浮かべながら踵を返した。廊下の途中でミズキを待たせていたことを忘れていたさやかであったが、通り過ぎようとしたところでミズキに捕まり問い詰められる。
「どうしたの?」
「恭介が……恭介が……」
よほどのショックだったのか、ミズキに捕まったさやかは栓が外れたかのように泣き出した。困ったミズキはさやかを久瀬の病室に連れていく。
「おや、何か忘れ……」
久瀬もさやかの様子に言いかけた言葉を濁らせてしまう。先ほどまでどこかうずうずと時間が経つのを待っている様子だったさやかが、泣きすぎで酷い顔になっていたからだ。
「どうした?」
「それが……どうやら上条君に告白しようとしたみたいだったのですが……」
「そうか、それでさっきは浮かれていたのか!」
久瀬は一番の年長者でありながら事が起きるまで予兆に気が付かなかったことに自分を責める。十日前、自分に対してとったのと同様に、さやかに対しても癇癪を起したのだろうと久瀬はすぐに感づく。昼間に見舞いをしたときは特に変わりがなかったというさやかの言葉をうのみにしてしまっていたが、彼の心は十日という時を漠然と過ごす程度では癒えきれないことなど過去の自分を振り返れば容易に解ることだったのに。
「大丈夫。彼はいま、辛いリハビリでナーバスになっているだけさ。怪我さえ治ればきっと元通りになれる」
「でも恭介は治らないって」
「要は元通りの腕前にまで回復すればいいわけだ。本当は左手が治りきってからと思っていたが、幸い今の彼はリセット状態だ。あの手でいこう」
バイオリニスト上条恭介の再生計画はこうしてスタートした。
翌日、学校に登校したさやかは仁美を人気が無い場所に呼び出した。
「どうかしましたか?」
「これはあたしだけが知っているんじゃ可哀想だから言うけれど……週末の告白、やめて貰えないかな?」
「何故? 言ったでしょう、その気がないのなら邪魔しないでと」
「それについては、昨日はゴメン。でも今は自覚しているから……」
「では……さやかさんが先に告白して彼の気持ちを射止めるから無駄だと?」
「そうじゃないよ……今の恭介はリハビリの影響でとってもナーバスになっているから、告白しても仁美が傷つくだけだから……」
「その手には乗りませんわ。私は日曜に告白いたします!」
仁美の説得に失敗したさやかだったが、仁美を友人の一人だと認識しているからこそ、彼女が傷つかないようにこの一週間にかけることを誓った。
放課後、ショッピングモールにてさやかはミズキと待ち合わせをしていた。
二人の目的は楽器店である。
「いらっしゃい」
初老の店主が二人に声をかける。ミズキは久瀬から預かったメモを見ながら店主に注文を付ける。
「―――を欲しいんですが……」
「ちょうどよかった。入門モデルだけど昨日新しいのを仕入れたばかりなんだ」
「グッドタイミングですね」
ミズキが買い求めたのは二人分のバイオリンだった。一つは恭介用、もう一つはさやか用である。
「バイオリンを弾けないからああなっちゃった恭介に無理やり弾かせようだなんて、久瀬さんは何を考えているんでしょうね」
「さあ……わたしはバイオリンにはそこまで詳しい訳ではありませんし。でも、種明かしは病院についてからですよ」
「それって……羽山さんは知ってるってことじゃないですか」
「知らなければ代理で楽器を買いに行くなんてできませんし」
バイオリンケースを抱えながら二人は病院を目指した。病院に着いてからは恭介のリハビリが終わることを久瀬の部屋で待ち、タイミングを見計らって三人で恭介の病室に押し入った。
「さやかと……それに久瀬さん……」
急に押し入られたことで恭介の顔は曇る。この日は昨日ほど気をもんでいなかったのだが、一方的に癇癪を起して当り散らした相手が二人いっぺんに訊ねてきたため申し訳ない気持ちになっていた。
ミズキは恭介の柔和な態度を読み取り、場の空気を変える。
「昨日は激おこプンプンだったとは聞いていましたが、今日は怒っていないようですね。昨日までの事は上条君は怒った、二人は怒られた、それで水に流そうじゃないですか」
「いいんですか?」
「キミのことを考えなかった俺の方に非があるからね。この間はキミを傷つけて申し訳ない」
「そんな……謝られても」
「遠慮はいらないさ。そしてこれがお詫びの印さ」
久瀬はお詫びの印として恭介にバイオリンを手渡す。
「これはバイオリンじゃないか。でもどうして」
「開ければ解る」
恭介は言われるがままバイオリンケースを開ける。すると中には左利き用のバイオリンが収められていた。
「キミに怒られてから考えていたんだ。どうすればキミがまたバイオリンを弾けるようになるかってね。そこで思いついたのが、この左利き用のバイオリンってわけさ」
「ですが僕は……」
「正直に言うと辛いかもしれないが、事実だからはっきりと言わせてもらう。キミも感づいているようだけど、その左手は完全には治らない。無論、日常生活には支障がないレベルまでの回復は保障できるし、うまくいけば正常者並には戻る。でも正常者並まで回復したところでバイオリニストとしての蓄積はゼロだ。キミもそれを察しているから、未来に絶望したのだろう?」
「そうです」
「そこで俺が考えたのが、この左手用のバイオリンさ。どうせ指の記憶がリセットされてしまったのなら、いっそのこと健康な右手でやり直せばいいってわけさ」
久瀬の言い分は、言ってしまえば右利きで天才と揶揄された恭介の過去を捨てて、左利きとして再出発を図るというものだった。流石に指が曲がらない状態では弓を持つことさえ一苦労であるが、練習の段階では腕に縛り付けて右手の練習に専念させれば最低限音は出せる。音さえ出せればまずは練習になるというのが久瀬の思惑である。
「まずは初級のきらきら星からいってみようか」
恭介は戸惑いながら、左腕に弓を縛り付けて左利き用のバイオリンを構える。今までとは左右対称の構えに違和感を覚えつつも、恭介はつい全盛期の鏡写しのように凛とした顔をつい取ってしまう。
さやかも恭介と同様にこちらは普通の右利き用バイオリンを構えて、久瀬初恋のメトロノームに合わせてきらきら星の伴奏を始めた。久瀬はエアギターで引く真似をし、音程はミズキがアカペラできらきら星を歌うことで取る。
久瀬は何も説明せずに弾いてみろと無茶ぶりをしたため、素人であるさやかは勝手が解らずにデタラメな音を奏でる。だが、恭介の方は右利きで取った杵柄とでも言うのか、テンポはずれているがしっかりときらきら星の音程を奏でた。
「凄いじゃない、恭介」
「そういうさやかはへたくそすぎるよ」
「仕方がないでしょう、何処を押さえればどうゆう音になるかってのもよくわからないんだから」
「いやあゴメン、ゴメン。上条クンは経験者だから大丈夫だろうと何も言わなかったけれど……さやかちゃんは素人だったよね」
「久瀬さんの手は煩わせませんよ。ほらさやか……きらきら星はこうやって―――」
久瀬からバイオリンの享受を受けたことで、初心を思い出した恭介はまた新しい気持ちでバイオリンと向き合った。そしてさやかもそれに交わることで、先輩風にも似た気持ちが恭介の心に吹いた。その風は恭介の心にかかった靄を次第に吹き飛ばしていく。
自然とボーイングやポジショニングと言ったバイオリンの基礎についても久瀬ではなく恭介が進んでさやかに教えるようになっていった。練習を開始した月曜から週末金曜日までの五日間、ほぼ基礎ときらきら星しか練習していなかったが、恭介の指導が効いてさやかはきらきら星を演奏できるようになっていた。
そして土曜日、昼時に先週同様のメンバーを連れてきたさやかは、仁美とまどかに自分の演奏を聞かせることにした。
「実はこの一週間、ずっと恭介とバイオリンの練習をしていたんだ」
さやかはえへへと笑みを浮かる。
「まだきらきら星しか弾けないけれど、だいぶ上手になったよ、さやかは」
「そんな褒められると照れちゃうな」
好きな人に褒められて喜ばない少女はいない。一方で仁美は抜け駆けに近い形で急接近したさやかを内心では苦虫走ったように睨むが、一週間の猶予を与えたのもまた自分であると歯がゆく思っていた。
立ち直り編の話
立ち直るまでが早くてご都合的でもありますが、情緒不安定故にコロッと折れてコロッと治るとでも軽く考えて頂くと楽です