ロンドンに戻っていつものパターンです。
今回は同人色が凄く薄いです。
いつものことか。
短いので一回で終了です。
ミッドナイト・イン・ソーホー
薄暗い地下鉄の駅を出ると、大都市の光が闇を照らしていた。
ソーホーはロンドンの歓楽街だ。
十六世紀当初までは農場だったが、後にレスター伯やポートランド伯ら土地所有者によって開発され、都市としての礎が築かれた。
しかし、近隣地域の再開発不足から、十八世紀中期に上流階級が他地域に転出。
十九世紀中期までに、転出した上流階級に変わって売春婦と音楽ホールと小規模の劇場が転入し、歓楽街としての今日のソーホーはその狂乱の時代にルーツをたどることが出来る。
今日において、ソーホーは歓楽街の代名詞であり、香港のソーホー地区や、ニューヨークのソーホー地区はロンドンのソーホーに肖ったもの、もしくは由来するものである。
カラフルな篝火のような明かりがギラギラと夜の街を照らしている。
普通の店、いかがわしい店、ディープな店が混然一体となって歓楽街の賑わいを生み出している。
それらを身に浴びならばレスタースクウェアを通り過ぎ、歩くこと十分。
目的地の道を一本入った暗がりにある地味な一軒家に辿り着いた。
呼び鈴を押すと、六十がらみの男が出てきた。
この家の大家らしい。
事情を説明すると、男は何も言わずに私を中に通した。
古い建物特有の埃っぽい匂いがする。
大家に連れられ三階まで上がると、大家は奥の部屋を指差した。
「帰るときにまた来てくれ」
男は
ドアをノックすると、まだ二十歳にも満たないような青年がドアを開けた。
青年は先ほどの大家とは正反対の朗らかな笑顔であいさつし、我々は握手を交わした。
1930年代から1960年代までソーホーは芸術家の街でもあった。
私を部屋に招き入れた青年、トム・エルバもまたその幻影を求めてやってきた一人だ。
トムはインペリアル・カレッジ・ロンドンに在籍し、機械工学を学んでいる。
卒業後はエンジニアになるつもりだが、彼にはそれとは別にミュージシャンを目指す大きな夢がある。
「エンジニアリングは好きだけど、一番好きなものは音楽だし、その順位は一生変わらないと思う」
セカンダリースクールでは成績優秀者でその気になればケンブリッジにも行けた彼が、数ある理系の大学からインペリアル・カレッジ・ロンドンを選んだ理由はブライアン・メイがOBだからという
実に若者らしい理由からである。
「エンジニアリングは好きだけど、二番目ですね。一番好きなものが音楽なのは一生変わらないと思います。働きながら音楽やるのは大変かもしれないけど、ワクワクしてるんです」
秀才らしい真剣な眼差しで彼はそう語った。
中に通され、部屋を検める。
私が以前に拠点を置いていたハックニーの安フラットと比べても部屋の品質は大差なかった。
小汚く、薄暗く、仄かにマリファナの匂いがする。
真面目なトムはマリファナどころかタバコすら吸わない。
この匂いは過去の住人たちが残してきた過去からの贈り物というところだろう。
部屋の広さと匂いはどうしようもなかった、住人が違うとやはり生活空間は変わる。
トムは過去の住人達と比べると異次元レベルで真面目なのだろう。
インテリアデザイナー志望のガールフレンドがDIYしてくれたという部屋は、物理的な広さこそどうにもできていなかったが、すっきりとして、精神的には広がりを感じさせる空間になっていた。
部屋の限られたスペースにはトムが自作したと自慢気に語るエレキベースと大量のアナログLPレコード――部屋の主が最も大事にする音楽――があふれていた。
デレク&ドミノズの『愛しのレイラ』、ザ・フーの『フーズ・ネクスト』、ジェネシスの『ナーサリー・クライム』、デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』、ピンク・フロイドの『狂気』、クイーンの『シアー・ハート・アタック』レッド・ツェッペリンの『Ⅳ』、セックス・ピストルズの『勝手にしやがれ』
私はさほど熱心なロックファンでは無いが、これらは一度は聴いたことがある。
「1970sが好きなのか?」と聞くと「ええ、お察しの通り」と部屋の主は答えた。
「だからあんな夢を見るのかもしれません」
〇
シティ警察のエルバ刑事は私が懇意にしている警察関係者の一人だ。
初婚離婚率の高いわが国らしく、彼は初婚の相手と離婚している。
二番目の相手とも離婚し、三番目の細君とは別居中だが、今、その話は関係ないので深堀りはやめておくとしよう。
別れたとは言え、最初の妻とエルバの結婚生活は七年続き、二人の間には息子が生まれていた。
私が相対しているトム・エルバ青年はエルバ刑事の息子に当たる。
エルバ刑事は黒人だが最初の妻は白人だったため、トムは褐色色の肌に青い目をしている。
エルバ曰く「あまり自分に似ていない」らしいが、真面目そうな風貌からトムが父親の遺伝子を受け継いでいるのはから明らかだと私は感じた。
エルバは刑事である以前に一人の人間で父親だ。
最初の細君と離婚が成立した後、元細君は親権を獲得し、シングルマザーになったがエルバは息子の事は人並みかそれ以上に愛しており、気にかけていた。
養育費の支払いは滞ることなく、定期的に面会しては真面目な性格の彼らしく、息子が何かに困っていればそのたびに真摯に相談に乗っていた。
その内容はティーンの少年らしい他愛のないものから進路の相談のような真剣なものまで多岐に渡っていたが、多くの人がそうであるようにトムは問題に対してアプローチを失敗したり成功したりを繰り返していた。
相談内容に神秘が関わるような話――こちら側の世界の話――が含まれるようなことは無かった。
少なくとも今までは。
数日前、エルバが定期の面会に向かうと、真面目で優等生タイプの息子が珍しくいかにも睡眠不足な様子だった。
刑事という仕事柄上、エルバはアル中やジャンキーを見ることが少なくない。
トムの様子は睡眠不足のジャンキーをどことなく思わせた。
エルバは言葉を選びながら息子から何かに困っていないかを尋ねた。
刑事エルバは尋問の腕にはなかなかの定評がある。
息子もそのことはわかっているため、隠し事は無駄と即座に悟っていた。
「変な夢を見るんだ」
トムはソーホーの一画にある借家の一部屋だ。
エドワード朝の末期に建てられた古い家で、トムは父母を説得して最近、その家で一人暮らしを始めた。
憧れの一人暮らしはトムの気持ちを高揚させたが、それと同時に奇怪な事が起き始めた。
毎晩のように夢を見るようになったのだ。
夢には謎が多い。
そもそも人は何故、睡眠を必要とするのかすらはっきりわかっていないのだ。
睡眠中の人に起きる現象は当然、解明されていない。
しかし、経験則からわかることはある。
人はたいてい、夢を見ても覚えていない。
同じ夢を連続してみることは無い、などだ。
トムの夢には明確な連続性があった。
深夜、トムが寝入ると夢が始まる。
そこでトムは主人公ではない。
主人公はミックという若い男で、トムの住んでいる部屋でミックが目覚めるところから夢が始まる。
同じ部屋だが内装は大きく違い、テレビから流れる番組もトムの知らないものばかりだ。
ただ、ミックの耳目から入ってくる情報で、1970年代らしいということがわかっている。
夢に現るミックの人物像は夢とは思えないほどに一貫している。
ニューカッスル訛りがあり、トムと同じ部屋に住んでいて、ミュージシャンを目指している。
毎夜、仲間と集まってはソーホーの小さなクラブでギグに参加し、終わると決まって近所のパブで飲み明かす。
ニューカッスル・ブラウンエールが好きで、ベーシストで、なけなしの金で買ったリッケンバッカー4001を愛用している。
ザ・フーのファンで、ジョン・エントウィッスルにあこがれている。
地方都市ニューカッスルから出てきたばかりで、大都市ロンドンの刺激に毎晩心を躍らせている。
ミックの毎日はロックンロールと夜の喧騒とソフトドラッグとアルコールに満ちている。
そして若者らしい夢に対する憧憬も。
トムの境遇とどこか似ていた。
毎晩、見る夢でトムはミックに対してまるで身内のような感情を抱き始めていた。
トムの声はミックに届かなかったが、親しみを込めて「君」と頭の中で語りかけ、ミックの夢がかなうことを心から願っていた。
しかし、問題があった。
最初のうちは小さな倦怠感だった。
それは数日のうちに膨らんでいった。
聡明なトムはやがて気付いた。
「自分は夢の影響でよく眠れていない」と。
トムは理系らしく理屈立てて問題を解決しようとした。
熟睡する方法について調べ、片っ端から試した。
だが、夢は巨人が覆いかぶさってくるかのように毎晩、トムの真夜中を塗りつぶした。
憔悴したトムの様子はそういった出来事に由来する。
エルバは没落した魔術家系の末裔だ。
申し訳程度の魔術回路しか残っておらず、基本的な魔術が少し使える程度の過ぎない。
息子のトムは更に衰退していて、基本的な魔術すら使えない。エルバはトムに魔術の世界があることすら教えていない。
それでも、何かのはずみで神秘に触れることもあり得るだろう。
それで、私に相談した。
私がソーホーの借家に居るのはそれが理由だ。
〇
そして、私は少々困っていた。
今、私はトムの父君と懇意にしている超常現象の研究者という触れ込みでここに来ている。
神秘の隠匿は魔術師であれば端くれでもなさなければならない大原則であり、超常現象専門家のガワをかぶって解析魔術を発動させている。
解析魔術は術式らしきものを捉えなかった。
そこにあったのは古都ロンドンに根付いたマナと過去の住人たちが残した傷跡――折り重なった夢の残滓――とも称するべき思念の塊だけだった。
とはいえ、トムの夢はあまりにも異常であり、トム自身からもごく微弱ではあるが魔力を感じる。
神秘が関わっていると考えた方が自然だ。
トムがえらく具体的で詳細な嘘を語っている可能性が頭をよぎったが、真面目なエルバが「真面目だ」と評するほどのトムがそのような愉快犯的犯行に及ぶとは思えない。
難しい顔をして一周に一分もかからないような部屋を歩き回っている私をトムが不安げに見つめている。
私は、無能と悟らせないための今出せる次善策を口にした。
「この部屋での情報収集は終わった。こちらで追加調査するから少し待ってくれないか?」
〇
「違うな。断言できる」
翌日、私は彼から頼まれた仕事の報告がてら、旧友――訂正、古い知人以上友人未満――のロード・エルメロイ二世の教室を冷やかしに訪れていた。
彼の講義がおわると、執務室に赴き、仕事の報告がてら雑談とも相談ともつかない会話に興じていた。
私にとって彼との共通項は魔術と時計塔時代の思い出とビデオゲームとしかない。
今回の話題は三つの共通項のうちの前二つだった。
かつて時計塔時代のクラスメートが起こした事件で、外殻投影により過去の時計塔を再現した事件があった。
時計塔の同窓会でその事件は起きたが、同窓会を返事もせずにサボった私は自身の怠惰な行動のおかげで巻き込まれずに済んだ。
後になって事件のあらましを聞いただけだが、1970年代という過去が毎晩のように再現されているトムの状況は似ているのではないかと思った。
「そもそも外殻投影はペリゴール家の秘伝術式だ。それを時間と財力をかけて実現したのがあの事件の顛末だ。加えて実現に
「術式を組んだ後に綺麗さっぱり痕跡を消した可能性は?」
「無いだろうな」
「まあ、そうだろう。一応聞いただけだ。可能性を潰すためにな」
彼は葉巻の紫煙を燻らせた。
お得意の講義が始まった。
「夢というのは特殊な精神状況下だ。ジュゼッペ・タルティーニは夢の中で悪魔が弾いた曲を発表しているし、ポール・マッカートニーは朝目覚めた瞬間に頭の中で『イエスタデイ』を完成させていた。こちらは的中率を見ると怪しいものだが、夢の中で予言をしたと主張するサイキックは少なくない。日本では思慕する相手と夢の中で出会うとの言い伝えがあるとも聞く」
「ああ、そうだな。思慕ではないだろうが、今回は何かしらの"思い"が関係していそうだな。それで……」
私は本題を切り出した。
「調べを進めていく中で、仮説はできている。実証のために、人手が欲しいんだが……」
〇
私が仮説を話すと、ロード・エルメロイ二世はいいフィールドワークになるかもしれないとのことで助手を付けてくれた。
「ありがとう。やはり僕たちはマブダチだな」と心の底から礼を述べると、彼は極上のしかめっ面で敬愛を表した。
検証のため、再度、トムに都合をつけてもらい、私は再びソーホーの借家を訪れていた。
今度はエルメロイ教室の生徒が二人、助手一号の遠坂凛と助手二号のグレイが一緒だった。
ダンディな壮年の私が、明らかに一回り以上年下の女子二人を連れてきたことにトムは明らかに困惑していた。
私は一般人と接するときのフェイクバックグラウンドを五十三パターン用意している。
パターンその八「彼女たちは調査会社のインターンだ」と説明するとトムは納得した。
助手一号の遠坂凛は私に協力してくれそうな魔術師の中で術師として最もハイスペック。
助手二号のグレイは幽霊探知のエキスパート。
私が寄越してもらえる人材でこれ以上の適任はいない。
「幽霊じゃありませんね」
部屋を検めていた助手二号は申し訳なさそうにそう言った。
実のところそれは想定の範囲内だった。
「ああ、実のところ部屋の歴史は調査済みでね。この家で死んだ人間はいない。この土地自体にも特に曰くは無い。君が幽霊じゃないというなら、記録に残っていないような類の因縁も無いのだろう――君の方はどうだ?」
助手一号遠坂凛ははっきりと答えた。
「あるわね。古い家だから、色々とね」
助手一号の魔力的なセンサーは私より遥かにするどい。
以前に私がキャッチできなかったものも捉えられているはずだ。
「特に強い思念が一つ残ってる。それも、元々部屋についていたものが最近になって表面化したような痕跡があるわ。……そのミックって人はきっと夢が叶わなかったんでしょうね。そういう思いを感じる」
「他に何か気づいたことは?」
「ただの残留思念と言うには随分濃い気がする。でも、幽霊ってわけじゃない。そうね、敢えて言うなら……」
「生霊か?」
「ええ、それが近いかも」
生霊とは生きた人間から激しい感情をトリガーに発生する憑き物の一種だ。
今回の生霊は特定の人間ではなく、この部屋に憑いているのだろう。
「この部屋の残留思念が本来なら消え去るはずの生霊を部屋に固定した。トムの微弱な魔力が生霊と残留思念の融合した記録装置を再生した……そんなところかしらね。でも、それだと少し決め手に欠けるわね。あとは……」
自ら仮説を口にしながら、彼女は何かに気付いた。
「共感ね?」
「そうだな。トムとミックは同じ夢を見ている。生まれ育ちは違えど、音楽という夢でつながった絆があり、しかも1970年代のロックが好きという決定的な共通項がある。つまり、過去にこの部屋に住んでいた住人で、なおかつトムに共感を持ちそうな人物を探せばいい。生霊の元が見つかれば対処は難しくないだろう」
グレイが小さく「すごい、師匠みたいです」と感想を述べた。
私は助手たちとの小声の内緒話を終えて、部屋の隅で怪訝な顔をしていたトムに呼びかけた。
長い内緒話のせいか彼からは部屋に入った時よりも強い不信感を感じていた。
「ここの大家に話を聞きたい。君も一緒に来てくれないか?」
〇
私は助手一号二号とトムを伴って一階の大家の部屋を訪れていた。
大家は前に会った時と同じように無愛想でニューカッスル訛りがあった。
子供にしか見えない女子二人がついてきたことで私に対する不信感を増していたようだが、「彼女たちは調査会社のインターンです」と説明すると一応は納得した様子だった。
質素な部屋だった。
大家話では妻には昨年に先立たれ、息子は南アフリカに仕事で移住。
娘は家を出てグリニッジでパートナーと生活しており、どちらも家に帰ってくることは年に数回程度らしい。
老人が一人で生活するために必要なものだけが最低限揃っている、そんな印象の部屋だった。
私は大家に過去の住人について聞くつもりだった。
不愛想な大家は寡黙で最低限の事しか答えなかったが、どうやら大家自身も元はトムの住む部屋を借りていた住人の一人だったらしい。
これはかなり重要な情報に思えた。
ならばただ大家である以上に多くのことを知っているはずだろう。
私はスモールトークを交えた聞き込みを止め、本格的に部屋の過去の住人たちについて聞こうとした。
「……マクナイトさん」
トムがまさに驚愕と言った様子で声を震わせた。
トムは一点で視線を止め、目を見開いていた。
私はその視線の先を追った。
視線の先には公共料金支払い通知の封筒があった。
封筒には大家のものと思われる名前が書かれていたそれによると、彼の名前は"マイケル・パートリッジ"と言うらしい。
その情報を得た最初の瞬間。それはなんてことは無いものに思えた。
次の瞬間、私の脳内では恐らく数瞬前にトムの頭の中をよぎったものと同じ思考が過っていた。
ミックはマイケルの愛称だ。
大家はもともとトムの部屋の住人だった。
大家のマイケル・パートリッジ氏は六十ぐらいに見える、ならば1970年代には青年だったはずだ。
そしてニューカッスル訛りがある。
「あの……!」
トムが身を乗り出した。
無愛想な大家はトムの意外な行動に微かに眉を上げた。
「親しい人たちからミックと呼ばれていませんか?」
老人の眉が更に大きく上がり、目が見開かれた。
目を見開いた老人はゆっくりと頷いた。
「好きなバンドはザ・フーでジョン・エントウィッスルにあこがれてた?」
老人は再び頷いた。
「なけなしのお金で買ったリッケンバッカー4001を愛用してた……」
老人は――"ミック"は頷いた。
「……君の名前はなんだったかな?」
「……トムです。トム・エルバ」
老人は声を震わせていた。
「……君は"あのトム"なのか?」
ミックは語り始めた。
ニューカッスルで生まれ育ったマイケル・パートリッジは
手にはパートタイムジョブを掛け持ちして手に入れたリッケンバッカー4001と現金四百五十ポンドしかなかったが、大きな夢を抱いていた。
ロンドンでの暮らしは憧憬と苦難がないまぜになったものだった。
当初は友人も知り合いの一人もおらず、頭の中で作ったイマジナリーフレンドの"トム"に語り掛けることで孤独を紛らわせていた。
やがて仲間ができ、友人ができ、ミックの生活は変わり始めた。
しかしそのうち、ミックは自分の限界を悟り始めた。
彼はジョン・エントウィッスルにはなれなかった。
ジョン・ポール・ジョーンズにもなれなかった。
ジョン・ディーコンにもなれなかった。
リッケンバッカー4001は生活のために売り払い、いつしかトムの存在も忘れていた。
ロックスターを目指していた青年は中年の大家になっていた。
ミックは語り終えると大きく息を吐き、冷めかけたブラックティーを一口含んだ。
このような結末は想像していなかった。
凛もグレイもそうに違いあるまい。
二人は私の隣で目を丸くしていた。
「……いつも語りかけてくれてありがとう、トム。君には随分と助けられた。夢は叶わなかったけど、少しも後悔はしてないんだ。だってあの頃はあんなに楽しかったからね」
彼の目には光るものが滲んでいた。
涙を流しながらもその表情は清々しく、まるで憑き物が落ちたかのように見えた。
これでこの事象は解消されることだろう。
そう私は確信した。
トムの目にもミックのように光るものが滲んでいた。
彼は光るものを滲ませたまま立ち上がった。
そして、ミックに歩み寄ると手を差し出した。
ミックはそっとトムの手を取った。
古い友人に再会した時のような握手だった。
これ以上、ここにいるのは無粋だろう。
私は暇を告げ、助手一号二号を伴い、部屋の出口へと向かった。
「すいません、一つだけ」
私の背にトムが問いかけた。
「一体、何が原因だったんですか?」
私は振り向かずに答えた。
「集団催眠だよ」
〇
未成年二人を伴って夜のソーホーを歩き回るのは推奨される行為ではないだろう。
ギラギラした夜のソーホーを足早に歩き、我々は地下鉄の駅を目指した。
無粋な感想は述べたくない気分だったが、お喋りな私は無粋な衝動を抑えきれなかった。
「グレイ。『トムは真夜中の庭で』を読んだことはあるか?」
彼女は頭を振った。
「それは勿体ない。我が国が誇る児童文学の傑作だ。一度読んでおくといい」
グレイは説明を求めた。
優等生の凛が私に変わって『トムは真夜中の庭で』の粗筋を説明してくれた。
舞台は1950年代。
弟がはしかにかかり、少年トムはおじとおばの住むアパートに預けられた。
その邸宅には庭すら無く、はしかのために外出すらできない彼は退屈し切っていた。
そんなある日の夜、ホールの大時計が奇妙にも「十三時」を告げたのをきっかけに、彼は存在しないはずの不思議な庭園を発見する。
そこは半世紀以上前の時代のメルバン家という一家の庭園であった。
それから毎日、彼は真夜中になると庭園へと抜け出し、そこで出会った少女、ハティと遊ぶようになる。
しかしながら、庭園の中では時間の「流れる速さ」や「順序」が訪れるごとに違っていた。
彼はだんだんと、ハティの「時」と自分の「時」が同じでないことに気づいていく。
グレイは説明の続きを待ったが、凛の説明は「結末は読んでからのお楽しみね」で締めくくられた。
私は凛と目配せをした。
彼女は口角を上げて微笑した。
私も口角を上げて微笑した。
意味の解っていないグレイはポカンとして我々を見ていた。
〇
そののち、エルバを通して聞いた話だ。
トムとミックは暇さえあればブラックティーを飲みビスケットを齧りながらおしゃべりに興じる仲になったそうだ。
一度だけその場に居合わせたエルバによると「二人はまるで長年の友達みたいに見えた」とのことだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
今回は去年の年末に見た『ラストナイト・イン・ソーホー』と文中のとおり『トムは真夜中の庭で』から着想を得ています。
では、また。