ゴーストワールド   作:まや子

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4. 家族

 わたしは美術品ディーラーとその妻の娘としてヨークシンの病院で生まれた。名前はクローディア=グレイ。

 

 自我が形成されてきたころ、わたしは自分が前世の記憶らしきものを持っていることに気がついた。他者の記憶であるようには感じられなかったから前世のものかもしれないと仮定したわけだ。ある人生の記憶を持っているからといって、それが自分のものだと感じられるにはいくつか条件があると思う。知識や価値観やそれに基づく判断の仕方が現在の自分のものと大きく違っていたら、その記憶を自分のものだと思うのには無理があるだろう。つまり、その前世のものかもしれない記憶のわたしと今のわたしのパーソナリティーは限りなく同一のものなのだ。これはもう不可解の一言に尽きた。

 わたしはこの件に関する思考をさっさと投げた。不都合があるわけじゃないのだから保留で問題ない。そんなことより、前世の記憶にはもっと重要な情報があった。それは今のわたしの世界が、前世で読んだ漫画の世界と酷似しているということ。

 ハンターという特権的存在やヨークシンをはじめとする地理・地名の一致などから、わたしがいるのはその漫画の世界であると前提してもいいだろうと判断した。となれば、念能力なるものが存在する蓋然性が高かった。

 わたしの記憶の謎も誰かの念能力によるものかと一瞬考えたけれど、これはすぐに否定した。未だ起こってもいないことを、異なった世界観のもとで育ったわたしが漫画で読んだ知識として、今のわたしに記憶として与える――ちょっと意味がわからないし、できそうにもない。

 原因や原理を追究するよりこの原作知識をどう利用するかを考えた方がはるかに建設的に思えた。わたしにはそれができると思えるくらいには自惚れていた。原作知識と大人の自我がわたしに選民意識を植え付けたことは素直に認めようと思う。ほかには誰も知らない知識を持ち、小さいころから大人たちに天才だとほめられ、ろくな知性のない同年代の子どもたちを見てきたら、誰だってこうなるとは思うけれど。そう、原作知識ほど大きなアドバンテージはちょっとない。インサイダー取引をするようなものだ――それも、誰かにばれたり咎められたりするリスクのまったくない。

 だから、そんなわたしにとって、現実に影響を及ぼせる『力』を求めたのは当然のことだった。

 こうして当面の姿勢が定まったわたしがまずしたことは、記憶や能力の維持と念の訓練だった。というより、当時3歳だったわたしにほかにできることもなかった。

 

 戸口にスーツケースを置いて、わたしの頬にキスをする。それからわたしの両手を握りしめると、母のナタリーはわたしの脇を通り抜けて室内に入った。かなりの広さのある、大きな居間。父の趣味が反映されたアンティーク家具が灰色の午後の光に洗われている。窓際の花瓶の傍らで立ち止まったナタリーは、振り返ってわたしに笑いかけた。

「やっと家に帰れたわ」

 その顔は逆光で影ができていたけれど、はっきりやつれているのが見てとれた。

 

 これはわたしが5歳のときの記憶。わたしの平穏な家庭が崩壊し始めたのはこのころだった。あるいはそんなもの端からなかったのかもしれない。彼らにたしかに愛情のようなものを持っているとは思うけれど、発達した自我のせいでわたしは親を親と思うことすらなかなかできないでいたくらいだったから。わたしはこの世界の地理や歴史、美術、ハンターたちの活躍や念を知ることにどっぷりのめりこんでいた。作品の詳細な世界設定を見ているみたいで楽しかった。そういうふうに、原作知識はわたしから家族への意識をそらした。深淵にゆっくりと落ちていく他人を見ているようで、その他人が母や父やわたし自身だということにはまるで関心がなかった。

 

 その、ナタリーがついに退院して家に帰ってきた日の前日、父のジュリアンは家の前に数人の男たちを引き連れ、高級外車に乗って現れた。男たちはベビーベッドやおもちゃを手際よく車に積み込み、また走り去って行った。ジュリアンは木目の美しいウォルナットの椅子に腰をおろして、うんざりしたような悲しげな顔でそれを見ていた。わたしは居心地悪くて、本を見るふりをしながらソファの背もたれの陰で小さくなっていた。仕事に行ったんじゃなかったの、とこっそり眉を寄せていた。

 静かになった家の中で、しばらくジュリアンのつまったように息をする音とセントラルヒーティングの低い音だけが聞こえていた。それからジュリアンは、

「クローディア、ドライブに行こう」

 と言うと、運転手を帰らせて、わたしを連れてふたりだけで家を離れた。

 車は郊外の高級住宅街を抜け、長引く寒波で凍った川沿いを西へ走って行った。ジュリアンはアクセルをがんがん踏み、わたしは雪が薄く覆って白くなっている川面を窓越しに眺めて、ふたりしてずっと黙っていた。

 ジュリアンは北からケリングビーチに入り、海岸線と平行に車を走らせた。それからしばらくしてケリングビーチアヴェニューの駐車禁止の標識の真下に車を止めた。

 ケリングビーチには海岸沿いにボードウォークと呼ばれる遊歩道があった。今ではきれいに整備されているけれど、一昔前はその名の通り厚板を張っただけの道だったらしい。ジュリアンはコートに手を突っ込み、そこを足で踏みつけるようにして歩いた。わたしも冷たい海風にがたがた震えながら黙々とそのうしろをついて行った。

 空には厚く雪雲がかかっていて、日中なのに薄暗かった。海はいかにもつめたそうで、あんまりきれいじゃなくて、海水浴はもちろん、観賞用にもならなそうだった。海に来るとわかっていたらもっとあたたかいコートを選んだのに、と手に息を吐きかけながら膨れていた。

 我慢できなくなってもう帰ろうと言うために横に並んだとき、ジュリアンの青い目から涙がこぼれていることに気がついた。途端にわたしは何も言えなくなって、また数歩下がって歩き続けた。なんとなくばつが悪かった。

 ジュリアンは遊歩道を降りて浜辺へ向かって歩き出した。そして波打ち際でようやく足を止め、湾のさざ波立つ鈍色の水面を見ていた。わたしはそこまでついていかなかった。ジュリアンが海に入っていってしまうとか、そういった心配は全然しなかった。彼は傷ついていたけれど、身の内は激情に燃えていたのだと思う。ちらりと見えた彼の濡れた目は、やり場のない怒りと喪失の悲しみに燃えていたように見えた。

 わたしはボードウォークを少し戻り、海岸に向いて建つカフェに入った。そこで熱いコーヒーと焼きたてのブリオッシュをふたつずつ買って、かじかんだ手をコーヒーで温めながら来た道を戻った。

「お父様」

 ボードウォークの杭垣のところから呼んだけれど反応がなく、焦れてジュリアンを呼びに行った。

「お父様!」

 見上げた顔は乾いていて涙のあとはなかった。そのことにほっとしながらジュリアンの凍ったように冷たい手を引っ張って来て杭垣に座らせ、その両手にコーヒーとブリオッシュを押し付けた。

「あったかいでしょう」

 わたしも隣に座ってコーヒーをちびちび飲んだ。

 

「フェイデ諸島を知ってるか?」

 父がわたしに話しかけてきた。なぜ急にこの話をしだしたのかわからなくて、わたしは戸惑いながら答えた。

「どこにあるかは知らないけど」

「もっと北の方にあるタミラという国だよ。熱帯の、きれいな島だ」

「行ったことあるの?」

「おまえのママと行った。天国みたいな島だ」

 父はまた口をつぐみ、コーヒーとブリオッシュをたいらげた。それからわたしに、外にいるには寒すぎるから車に戻ろうと言った。

 家に帰る道すがら、父はわたしに、私たちがやるべきことはママを元気づけてあげることだ、赤ちゃんのことは口にしてはいけないよ、と言った。

 

 ナタリーは泣きはらした目をして、ブラウスの下のお腹を空っぽにして帰ってきた。もう名前まで決まっていた赤ちゃん。ジェイミー。男の子だった。わたしが何より求めていることはひとりきりでいることよ、とナタリーは言った。それから彼女は自室に引きこもりがちになった。

 わたしは心配して何日もナタリーの部屋のドアに耳をくっつけてすごした。ときには、わたしの子、わたしの子が死んじゃったと、まるで一人しか子供がいなかったかのようにうめいているのが聞こえることもあったけれど、これにはわたしはあまりおもしろくなかった。それに、ジェイミー!とバンシーさながらの嘆き声をあげることもあって、その叫びは死にきれずにいる者たちの世界からジェイミーを呼びもどせるのではないかと思うほど大きかったけれど、そうはならなかった。

 ある日の夜、わたしはジュリアンのわめき声で目を覚ました。ジュリアンは妻のお涙ちょうだい式のめそめそしたくりごとにすっかりうんざりしていた。あれは私の赤ん坊でもあったんだぞ、まったく、頼むからやめろ、もうたくさんだ。それから玄関のドアがバタンと鳴った。ナタリーは一晩中ひんひんとむせび泣いていた。

 

 ジュリアンはナタリーに元気を取り戻させようとあらゆることを試みた。アロマテラピー、ピラティスのレッスン、カウンセリング、チャールトンへの旅行……。でも、ナタリーの心の中の、赤ちゃんの生死にまつわる何かが、はっきりと名指しすることはできないけれど、彼女を変えてしまっていた。そういうことには一緒に住んでいるとどうしても無関係ではいられない。きゃらきゃらという変な笑い声を唐突に上げたかと思うとわっといきなり泣き出してしまうナタリーの情緒不安定さにわたしもジュリアンも振り回され、疲労させられていた。つい恨みごとをもらすことがあると、そんなふうに言うものじゃない、とジュリアンはわたしを叱った。声に力がなくて、おざなりに聞こえた。

 赤ちゃんが死んで一年経ってもナタリーの状態は良くなるどころかより悪化していた。

 

 ナタリーは闘ってみようとしなかったわけではなかった。家じゅうの服やカーテンを洗濯機に入れて何日もがらんがらんと洗濯したり、街に出てあきれるほど買い物をしたり、到底食べきれないほどの料理を作ったりした。日曜礼拝に出かけるようになったし、長続きはしなかったけれど老人ホームや教会の婦人部でのボランティア活動をしてもみた。

 続いたのはひとつだけだった。絵を描くこと。ナタリーは居間でよく絵を描くようになった。血の気のない顔で、瞳はどこか遠くに拡散して、とぎれとぎれに口笛を吹きながら。何のメロディなのかひどく調子が狂っていた。

 

 わたしは、どうしてナタリーは生きているわたしやジュリアンではなくて死んだ赤ちゃんのことばかり心に置いておくのだろうと思った。失くしてしまったものばかり考えてしまう、人間とはそんなものなのかなと悟ったふうなことを思ったりもした。

 

 赤ちゃんが死んで2年経つころにはジュリアンは家にほとんど姿を見せなくなっていた。わたしはそうなるだろうなと思っていた。それがわからないような子どもではなかったし、憤りを感じるほど初心でもなかった。仕方ないと、ただ思った。それなりの愛情を持っていたってこの不幸の連続はなかなか耐えきれるものじゃないだろう。毎月かなりのお金を口座に振り込んでくれるだけジュリアンはむしろ立派だった。ありがたかったのは、これでわたしにうるさく言うような人がいなくなったということ。今さら小学校から教育を受け直すつもりはわたしにはまったくなかったから。

 

 わたしはパドキアへ向かう飛行船の船室の、窓際の革張りの椅子に深くもたれて、真っ暗な窓に映る自分の顔を見ていた。夕食後の倦怠感に浸りながら、そうやって自分の未だ短い二度目の人生を思い返していた。

 

「……クローディア。クローディア=グレイ」

 つぶやいてみたけれど、自分の名前という以上の記憶はなかった。わたしの容姿にも覚えがない。

(まあ、そうよね)

 原作にはチラとも登場しなかった、使い捨てにされる脇役にもなれなかった、描写もされなかった、ただの雑魚。崩壊した家庭の娘。この世界に生まれておいて残念なことに、これが自分、そして現実だった。

(原作が重要人物を網羅しているわけではないとはいえ……。あの取るに足らない詐欺師でさえそこそこ活躍してるのに)

 わたしはヨークシンに置いて来た贋作師の男を思い出した。彼には悪かったかなあという気もすれば、自業自得だよという気もする。悪いことをしていれば、別の悪いことに巻き込まれても仕方ないとも思う。

(物語の世界って、もっと楽しいかと思ってた)

 それとも家族なんて自分の人生においてはたいして重要じゃないと気にもかけないでいられたら、もう少しこの世界を楽しめるのだろうか。

 

 念の習得がなかなか進まないのも面白くなかった。未だに“練”がまともにできなかったし、応用技にいたっては、それを問題にできるのはたぶん10年後くらいだと思われた。

(でも、だから何だというの?)

 念が使えなくたってバッテラは大富豪だし、コムギは軍儀の世界チャンピオンになれた。それにわたしが念をよく使えないのも当然といえば当然だった。わたしは努力家だけれど汗をかいたり汚れたりするのは大嫌いだったし、実のところ念を使うこと自体にたいして興味もなかった。

(――あれ? なら念を習得する必要なんてあった?)

(…………えっと…………)

(………………)

 わたしはそのことについて考えるのをやめた。使えないよりは使えたほうがいいに決まっている。でも別にそんなにうまく使える必要もない。わたしは荒っぽいことには向いていないのだ。どうしてそんな必要があるだろう? わたしは10歳の女の子で、お嬢様なのであって、チャック=ノリスではないし、ジャッキー=チェーンに憧れているわけですらないのだ。

 

 就寝の時間までにはまだ何時間かあった。本でも読んでいようかとコーヒーテーブルの上に見開いて置いていた本を手に取ったけれど、気分が乗らなくて結局本はひざに落とした。

 廊下のほうからはしゃぎまわる子どもの高い声と、それを叱る母親らしき人の声が聞こえた。苛々して手のひらで顔をこすった。靴を脱いで足を抱え、そこに顔を突っ伏すと、少しましな気分になった。

 そのままぼんやりしていると、ふと、聖書の一節とそれを教えてくれた人のことを思い出した。

 

『こうして、自分の家族の者が敵となる』

 

 また家族のことを考えているといつの間にか、うつらうつら、体は半分夢の中に浸っていた。そういう晩はときどきあの美しかった母が現れて、ほの暗い部屋を歩き回っていることがあった。わたしに向かって微笑みかけてくれることさえあった。

 


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