地下鉄をサン=マルセルで降り、階段を上って4月の長引く秋雨のなかに踏み出しながら、わたしはイーラン=フェンリと再会し、永遠に別れた夜のことを思いだしていた。たった2か月前のことだなんて信じられない気がした。そんなことを唐突に思い出したのはここがわたしの生活行動範囲にもかすらない10区だからであり、あのときと同じ道をたどっているということに気づいたからだった。あのときの暑い夜気とは違って今日は陰気な秋の霖雨で肌寒かった。
深緑のストールに口まで埋め、ニットコートに片手を突っこんで傘に隠れるように早足で歩いた。路地はせまくて、すすけた灰色のビルの壁が迫ってきているような感じがした。15分も歩くと繁華街からはちょっと離れて商店の数は減り、人家の切れ間が目立つようになった。ビルとビルとのあいだに小さく公園が切り取られていて、蔦を這わせたあずまや風の屋根の下にはどう見ても失業者か浮浪人の男たちが無気力な顔で座ったり寝そべったりしていた。そのあたりでゼパイルに会った。
「お前なあ」
なぜだか出会って早々、渋い顔をされた。
「ひさしぶり、ゼパイル。変わりはない?」
「ねーよ。お前もなさそうだな。それはいいんだけどよ、こんな場所で、お前、もうちょっと、その格好……」
「はあ?」
要領を得ない話しぶりだ。何が言いたいのかわからない。
「……あー、いいからもう行こうぜ」
「何なの?」
ゼパイルは返事もせずわたしの手をとってぐいぐい歩き出した。
わたしは、足は止めなかったけれど手はすぐに振り払った。保護者が引率する児童の登下校じゃないのだ。
「ねえ、もしかして迎えに来てくれたの?」
訊くと、ゼパイルはあーともうーともつかない声を出した。
「家、ちょっと込み入ったところにあるからな」
「ふうん、ありがとう」
ゼパイルはわたしの言葉を耳に入れた途端耳を疑うと言いたげに目を見開いてみせて、わたしの顔をまじまじとみつめた。そして失礼の重ね塗りをした。
「……素直だな。お前が礼を言えるとは思わなかった」
わたしを何だと思っているのだろうか? ここまで社会性を疑われるようなことをわたしがしたことがあっただろうか?
(あったかな、うん。したわね)
仕方ないから許してやろう。
「ありがとうとごめんなさいは人間関係の基本よ。だてに歳を重ねちゃいないわ」
「まだガキだろ……ていうか人間関係の基本って。お前に言われると違和感と疑問がすごいんだが」
反省する気分になっているときに余計なことを言われると変に意固地になってしまう時がある。軽く足を振り抜いたらバシッといい音がした。
「いってえ!」
ゼパイルはふくらはぎを押さえてしゃがみこみ、何すんだと涙目で睨んだ。
「ごめんなさい。つい……」
「つい!?」
わたしはすぐさま謝って人間関係の基本を実践したけれど、ゼパイルはそんなところに構ってはくれなかった。
「つい、何て言うか、気に食わなくて。ほら、あなたに失礼なこと言われるとなぜかすごく不当な目にあった気がするのよ」
まったく不思議なことに。
「オレの扱いのほうが不当だろうが!」
ゼパイルは詮ないことを叫んだ。
ゼパイルの家は細い路地の行き止まり、2階建てアパートの一角にあった。錆びた鉄製の裏階段を上り、2階部分も過ぎた屋根裏部屋がそうだった。鍵はひとつしかついていなかった。ドアを開けると台所で、簡素なテーブルの上にはシリアルの箱が落ちそうに載っていた。
実のところ、わたしはそこを台所と表現するかどうか迷った。普通台所にないものが多数あったからだった。テーブルにはシリアルのほかにいろいろなものが散乱していた。ペンキやブラシやヘラやスプレー缶が投げだされていて、粘土の塊のようなものが山と積まれていた。床にはペンキがそこいら中に飛び散っていたし、まだ使われていなかったり描きかけだったりするキャンバスが何枚か壁に立てかけられていて、壁面を丸々一面占領していた。明らかにそこはゼパイルのアトリエだった。
じろじろ眺めていたらゼパイルの落ちつかなげな咳払いをもらって、わたしたちは隣の寝室へ移動した。
わたしは断りもなしにクローゼットを開けた。予想していた通りだったけれど、期待していた通りではなかった。
「スーツの1着も持ってないの? 慶弔の行事にはどうするの?」
「誰がオレにそんな案内を送ってくるっていうんだよ」
「知らないわよ」
かろうじてハンガーにシャツがひっかかっているくらいだった。これから寒くなるっていうのに暖かそうなコートもない。着古されたウィンドブレーカーがあったから、それで寒さをしのいでいるのだろう。
「風邪引きそう」
「金がねーんだよ。見りゃわかるだろ」
ゼパイルがだんだん不機嫌そうになってきた。別に責めているわけでも馬鹿にしているわけでもないのに。原作でも欠食状態みたいだったから、そういうキャラなんだなと改めて思っただけだ。
わたしはクローゼットを閉めて部屋を見回した。
「パソコンはないの?」
「あると思うのか?」
むっとしているのがゼパイルの顔に出ていた。
わたしはようよう失礼だったかなと悟りはじめていた。貧乏な人のところへ行ってあれがないこれがないと繰り返してその人にお金がないからだと言わせるのが趣味のいい行為だとはとても言えないだろう。わたしはまま自分の頭の悪さに気づいて心底自己嫌悪するけれど、今度もそんな気分になった。気が利かないというか、頭が足らないというか。
(気がついただけ良しとしましょう。自覚が大切なの。無知の知よ……)
わたしの悪いところはこうやってすぐに自己弁護に走るところだと思う。
(とはいえ――)
わたしはニットコートのポケットのなかで握りしめていたUSBフラッシュメモリーを放した。
(無駄になっちゃった)
大まかな流れや指示や資料は全部その中に入っていた。だって、誰が今どきヨークシンにパソコンも持っていない人がいると思うだろう? 明日プリントアウトしてくるとして、今日のところは予定変更で前倒しするしかなさそうだった。
「来て早々悪いんだけど、出かけましょう」
「あ? どこへ?」
「お買いものよ」
タクシーでクライダーストリートに行って、一軒の店を訪れた。そこは高級ブティックとして知られている店で、ブラウンと植物のグリーンでまとめられた店内はまるで見知らぬ誰かのウォークインクローゼットの中のようだった。
「ここは?」
「服を買うのよ。あなたにはこれから働いてもらうんだから必要になるでしょ」
ゼパイルは棚の上に畳んでおかれたシャツを見て小さな悲鳴を上げた。
「値札がついてない!」
わたしは眉をしかめて振り返った。
「わたしのあとをついて歩かないでよ! 前を歩きなさい、前を! あなたの服を買いに来てるのよ。それに値札がどうだっていうのよ」
「買える金なんて持ってねーよ! 値段わかんねェけど!」
「そういうこと言うのやめてよ! 支払能力を疑われるじゃないの」
ゼパイルの懐に余裕がないことくらい十分にわかっている。言質がほしいなら与えてやろうじゃないか。
「あなたに払わせはしないわよ。これも経費だわ。支給品と思ってもらって結構よ」
わたしが出してあげるとは言えない。男ってほんとうに面倒くさい。だからといってプライドをなくした男がいいかといえば、そういうわけではないのだ。女も面倒くさい。
騒ぐわたしたちを店員が遠巻きに見ていた。
マネキンからジャケットを外し、ゼパイルの胸に当てた。男物の買い物なんかに興味はないけれど、見ているうちに気分が乗ってきた。
「何てブランドなんだ?」
ゼパイルはスーツに袖を通しながら尋ねた。
「イーズ=メルヴィル」
「誰だよ。わかんねー」
わたしにだってわからない。でも仕様がないではないか? この世界には『アルフレッド=ダンヒル』やら『ブルックス・ブラザーズ』やらはないのだから。
「そういえばお前、有名どころのブランド物持ってねェよな。見たことねェ」
「まあ、うーん、あんまり好みに合わないというか」
名前が似ているものだから模造品に思えてくるのだ。『ヴェルサーチ』でなく『シャルルサーチ』。『シャネル』でなく『チャネール』。本物なのに、身につけていて納得できない。騙されているような気になる。だからわたしは有名高級ブランドのものを持つことをあきらめた。この世界にしかないものから探そうというわけだ。そしてそこでも壁にぶち当たった。『フックー』だの『キール=モノ』だのといったくだらない駄洒落のようなブランドに戸惑わされ、苦笑させられ、挫折感を味わわされた。そうやって選り好みをしていたらクローゼットの中にはデザイナーの一点物の洋服が多くなってしまった。この苦労と苦悩をわかってくれる人はいない。『イーズ=メルヴィル』はそういうわたしにとって数少ない抵抗なく所持できるブランドなのだ。紳士用品店なのが惜しい。
「サイドベンツでいい?」
「何について訊かれてるかもわからん。お前がいいと思うならいいぜ、もう」
丸投げされてもなあと思う。男物のスーツにそんなに詳しいわけじゃない。
「色はいいか……。形もきれいだし。あとは靴かしら」
異性を自分好みに仕立て上げることを好む人々が男女問わずいる。かつてはナタリーもそうだったらしい。彼女はジュリアンをまさに自分好みのイメージ通りにつくり変えた。ジュリアンはナタリーを捨ててもナタリーが仕立てたスタイルまでは捨てることができなかった。高度に文明化された白人支配者の一家が緑の芝生の美しい広大なご領地でペットの猟犬を従えクロッケーのスティックを持ってくつろいでいる、みたいなスタイルだ。わたしは一度ジュリアンにそれを植民地の白人スタイルだと言ってやったことがあるけれど、そのときは張り飛ばされそうになった。
(あー、いやになるわね)
ほんとうにうんざりするのは、わたしの認識に関わらず、彼らふたりの子どもであると気づかされたことだ。ゼパイルを飾り立てるのは楽しかった。そうして仕上がった彼の装いは、どこかジュリアンに似ていた。
わたしとゼパイルはタクシーで5番街に向かっていた。
ゼパイルはひざの上の紙袋を怖々のぞいた。
「一体いくらかかったんだよ、これ……」
「70万か80万か90万……くらい、かな」
「雑なんだよ! 30万も幅があるじゃねーか! 雑にしていい金額じゃねーだろ!」
そうは言われても値札がついていなかったし、ジュリアンのカード決済だったからそんなに気にしていなかった。
「いいのか? 不安になってきた……。スーツや靴はまだしも、シャツやネクタイなんてそのへんの投げ売りので充分だろ……。なんでシャツが2万ジェニーもするんだよ……」
「シルクだからよ。もうガタガタ言うのやめてよ。買っちゃったんだから」
「いやいや、でもよ、帽子はいらなかっただろ」
「それは展示用の非売品だったの。いっぱい買ったからくれたのよ。似合ってたと思うけど」
「でも――」
ここらへんが我慢の限界だった。
「うるさいわね! わたしに700万の贋作の像を買わせたくせに、100万足らずの額で大騒ぎしないでよ」
ゼパイルは鼻白んだようすでようやく黙った。
何をピーピー言うことがあるのか理解できなかった。もちろん100万ジェニーといったらそれなりの大金だけれど、どうせわたしのお金だし、美術というわたしたちの専門の世界ではざらに扱っている額だ。きっと服にそんなにお金をかけたことがなくてちょっとした躁状態になっていたのだろう。
5番街の『クロノス』ではゼパイルは完全に気後れしていた。
「ここで何買うんだよ……」
「あなたの腕時計よ」
『クロノス』といえば5番街の高級時計店として有名なのだから、ここで買うものならそれは時計に決まっている。
「いやいや、いいって!」
「あなたが遠慮することじゃないの。早く入って」
「いらねェよ。オレ腕時計はつけねェんだから」
わたしは呆れた。どうしてゼパイルはこうもわたしに面倒をかけるのだろう?
「あなたがどうだろうと知ったことじゃないの。嫌でもつけてもらうわよ。美術商なら高級時計のひとつくらいつけてなきゃおかしいんだから」
わたしはゼパイルを店内に蹴り入れた。雨が降っているというのに屋根もない店先でこれ以上押し問答をするなんて馬鹿らしい。
相手にされないだろう少女のわたしの前に立って闇取引する美術商を演じてもらうためにゼパイルにここまでバカスカお金を使ってきたのだ。そうじゃなかったら誰が貯金の1千万ジェニーのうち900万ジェニーまでをこの男に使うというのだろう。
「どういうのがいいかしらね」
ショーケースの中できらきら光っている腕時計を見ながらわくわくゼパイルに声をかけたけれど、ゼパイルは視線を向けてもいなかった。
「いやもうオレ……」
「ちょっと! しゃんとしてなさいよ」
「いーんだって、いーんだって。なんでここも値札ねェんだよ……」
ゼパイルの弱り切った呟きにわたしはだんだんいらついてきた。腕時計ひとつ買うのにここまで気後れしていて、ほんとうにこの男はわたしの代わりが務まるのだろうか? 原作ではゴンとキルアの木造蔵を引き受けて丁々発止のやり取りを繰り広げていたというのに。
「いい!? あなたのためじゃないの。安物のスーツや時計を身につけてたら高額な取引ができないから、怪しまれるから、こうやって整えてるのよ。あなたを憐れんでるわけでも歓心を買いたいわけでもないわ。
一方でこれはあなたのためにもなるのよ。わたしとあなたの関係が終わったらわたしじゃ使えないんだから全部あなたにあげるわ。下取りにでも出せば10万20万にはなるでしょ。そういうつもりで選びなさい」
ゼパイルはまじまじとわたしを見つめて、神妙な顔でうなずいた。まったく世話の焼ける男だ。
やがてゼパイルはひとつの腕時計を手にとった。シルバーのかっこいい腕時計。
「すてきね」
ゼパイルはうなずいた。目は腕時計から離れない。わたしにはおなじみの目、美術収集家の目に似ていた。腕時計に熱を上げるなんてゼパイルも男だったということだ。
「あのスーツにも合いそう」
「ああ」
「気分がいいでしょう。これまでとは違う感じがしない?」
わたしはにっこりと微笑みかけた。
ゼパイルにはもっと欲深くなってもらわなければ。利害で結びついた関係は強い。それに100万200万でびびっているようじゃだめなのだ。
「そうだな」
「より男らしく、セクシーにね。あなたならそうなれるわ、ゼパイル。女もそういう男が好きよ」
「……ガキの言うことかよ」