わたしがようやく目を覚ましたのは、夜明けからだいぶたった時刻だった。太陽の光がカーテンの隙間から射しこんでいた。胸の時計に目をやると、時刻は9時。
わたしはナイトテーブルの上の携帯電話をとって耳に当てた。
「……はい」
「おいクローディア、なんでさっさと電話をとらないんだ? その声寝起きっぽくない?」
わたしはふいに学生時代に戻ったような気分がした。授業中に居眠りをしているところを教師に見つかって詰られている感じだ。
「ちょっと手がふさがってただけよ。この携帯、コール音もヴァイブも切ってるんだから、わかってなきゃとれないでしょ」
わたしが電話をとれたのは偶然だった。ちょうど目がさめたからだ。だからといって素直に認めてやる必要なんてない。どうせ相手からこちらは見えないのだから。失点は隠すに限る。
「……ま、いいけどさ」
ベアクローの声からは、抵抗の末に、不信と疑いがしぶしぶ納得と許容へと道を譲ったのが感じ取れた。
事実として、このリリー用の携帯電話はもっぱらかけることに使っていて、着信があるときにはあらかじめその旨の連絡がある。だからコール音とヴァイブは常にオフなのだ。ひとり何役もやるといろいろ配慮が必要になるということだ。『クローディア』をやっているときに『リリー』に連絡が来ると困るどころではなくなるのだ。逆の場合も然り。
わたしは眠気を追い払うためにブリザードキャンディSを口に放り込んだ。
「こっちを発つ目処がついた。3日後だ」
「あら。あなたもヴァカンスだった?」
「仕事だよ。まったく、気軽に呼び付けてくれちゃって、まあ」
うふふ、とつい笑い声が出た。
「どこにいるの? 何日にこっちに着く?」
会えると聞いてしまったら、すぐに会いたくなる。
「どことは言えねぇけど、ま、11日はかかるかな」
(エミール会は10日後……うーん、ギリギリ。居場所を教えてくれたらチャーター船でも飛ばすんだけど)
「そんなにかかるの? ワールドワイドな殺し屋なのねえ」
「優秀なのよ」
「うん。知ってる」
電話を切って、わたしはぐぅっと伸びをしてベッドから出、カーテンを開けた。それからシャワーを浴びて、クローゼットから服を選ぶ。
わたしのワードローブには明らかな傾向があった。ワンピースが多いのだ。これによってわたしは上下の組み合わせ――配色だとか素材だとかテイストだとか――を考えるという煩わしさから半ば解放されている。
そういえば前世でもワンピースにはずいぶん助けられた。夏は自宅では下着しか身につけていなかった。ハンガーにさっと着られるワンピースを一着かけて出しておいて、宅配が来た折などはそれを頭からかぶって、あらかじめポケットに入れている印鑑で対応したものだった。
くだらないことをだらだらと思いだしながら、グレー地に黄と紫のぼかし模様が入ったワンピースを選んで着た。
居間へ降りてカフェオレでも飲もうかと考えていると、ナイトテーブルの上の携帯電話が鳴りだした。わたしは反射的にうんざりした。ときどき自分が人生の半分を電話に費やしているような気がした。鳴っているのはシャルナークに押しつけられたパールホワイトの携帯電話だった。わたしのうんざりはさらにひどくなった。
「……はい」
「あ、クローディア?」
「そうよ、シャル。ごきげんよう」
わたしの声には極大の皮肉がこめられていた。
「いい朝だね。よく眠れた?」
「ええ」
「このあいだは楽しかったね」
シャルナークの声は悪気なさそうでいて、しっかり皮肉を返してきていた。
このあいだ、とは一週間前の食事会のことだ。わたしが肋骨を折られた、あの。わたしは心のなかで、
(抑えて、抑えて、抑えて、抑えて、抑えて……)
と呪文のように自分に言い聞かせなければならなかった。
「エミール会の手配してくれたらしいね。で、さ。お礼をしようと思って。今日一緒に昼食でもどう?」
鼻を鳴らして嫌味を言いたい衝動に駆られた。お礼をしたいとは分別らしいけれど、今度の食事会ではどこの骨を折ってくれるつもりなのだと。お礼はいいから骨折の治療費と慰謝料を払ってほしい。謝罪と休養の間の逸失利益の請求はあきらめよう。
思い出すとさらに腹が立ってきた。
「お礼なんていらないわ」
半ば強迫を加えてやらせたことに対して礼などとは、まったく面の皮が厚い。この人を小馬鹿にしたような態度にはほんとうに苛々させられる。
「そう? でも昼食は断らないよね?」
「……お誘いはうれしいけど……」
それを断っているのだけれど。
「よかった。じゃ、どうする? 待ち合わせにする? 迎えに行ってあげようか?」
「………………」
シャルナークはどうしてもわたしの意を汲みとらない気らしかった。
「……待ち合わせにしましょう。お店はわたしが決めて構わないのよね?」
「うん。実は半分はそれが目的でさー。クローディアの勧めるものにハズレはなかったし」
(当然)
まあそう言われて悪い気はしないけれど。それよりあとの半分の目的がすごく気になった。だからといって訊くのは怖かった。
「あ、そうだ。人数増えるんだけどいいよね?」
「はい? ……そっちは何人になる予定なの?」
「5人だよ。クロロとオレと、……あとは会ったときに紹介するよ」
嫌な予想しかできなかった。ここで彼らがわたしをランチに誘い、仲間を紹介する理由なんか――パクノダをわたしに接触させるため以外に思いつかない。わたしが団長だったら絶対に呼び寄せる。そして自分たちを調査している怪しい子どもを探らせる。ほかのふたりについては知らないけれど。
(ちょっと、どうすんのよ……)
どう考えてもまずい展開になりかけている。
「いきなり言われても困るんだけど。ヴァカンスシーズンのモーナンカスよ? 当日に席を確保するのってすごく大変なんだから」
「クローディアならなんとかできるだろ? よろしくね」
なんとかできるだろ? この言葉ははたして大の男が小さな女の子に向けた言葉だろうか? それともドラえもんにすがるのび太の言葉だろうか? いや、のび太のそれよりひどかった――無責任さは同じ程度ながら、信頼に基づいたものではなく、むしろジャイアン的ななんとかしろ感を言外にたっぷり含んでいた。
こんな調子でプロハンター様との会話は終わったのだった。
わたしは履歴をプッシュして再び携帯電話を耳にあてた。
「イーラン! もうわたしだめかもしれない! 心が折れそう!」
――12時。快い風がどっしりしたプラタナスの葉をざわめかせてゆっくり吹き抜ける。見上げると、青い夏の空の切れ端がちらちらと葉の間に揺れている。足元の石畳はほんのりと温かかった。わたしの真後ろのテーブルからポンとワインのコルクを抜く音が小さく響いて、カメラをもった観光客らしき若いカップルの会話がぱらぱらと聞こえてきた。
わたしたちは観光客や地元のショッピング客でにぎわう街の中心部の外れ、路地の小さなレストランの、さらに小さな中庭に席をとって座っていた。
わたしたち――そう、わたしとクロロとシャルナーク、それに新たに加わったフランクリンとフェイタンとパクノダだ。パクノダがわたしの隣に座ったことに対しては作為以外の何物も感じない。
近くの広場で待ち合わせをしたわたしたちは、おそろしく目立っていた。ヴァカンスに訪れた芸能人みたいなクロロとシャルナーク、美しい肢体をセンスの良いサマードレスに包んだパクノダ。……ここまではいい。彼らはたいそう人目を引いていたけれど、モーナンカスでは悪い注目のされ方ではない。問題は、怪しげかつ暑苦しい黒ずくめのフェイタンと、怪物じみた風貌のフランクリンだった。彼らのような格好が許されるのは、無人島か逆にヨークシンのような大都会か、あるいは旅団のアジトか地獄か漫画の中か、そのくらいだろうと思われた。
彼ら幻影旅団の面々だけでもわけのわからない集団だったけれど、そこに不本意だけれどわたしという少女が入って見る者をさらに混迷させた。
知り合いには見られたくなかった。見られたらわたしの交友関係に疑問をもたれることは間違いないだろう。彼ら幻影旅団はただわたしの横にいるというだけでわたしの評価を下げさせ、わたしを暗鬱な気分にさせるのだ。
わたしはこの妙な団体と晴れない心をひきずるようにしてレストランにたどり着いたのだった。
わたしたちはアペリティフとして白とロゼのワインを注文して、初対面の人間同士の儀式に入った。
「とりあえず、自己紹介でもしましょうか。ご存じでしょうけど、わたしはクローディア。よろしく」
わたしは微笑みをつくろって言った。ところが彼らの中にはできるだけ穏やかな人間関係というものに興味のないやつもいて、わたしの努力を鼻先であしらった。
「ふん」
「フェイタン。……わたしはパクノダよ。よろしくね。彼はフェイタン。今はちょっと機嫌が悪いみたいね」
フェイタンをたしなめてパクノダが微笑みかけた。威嚇役と懐柔役というわけだろうか。
彼女の優しげな物腰にもわたしの心は――不愉快な団員による不愉快な仕打ちによって冷たく閉ざされたわたしの心は――少しもゆるまなかった。わたしがいい歳の男だったらパクノダを前にここまで理性的な気持ちでいられたかどうかはわからないけれど。
「オレはフランクリン。……オレを怖がらないんだな」
「まあね」
隠しているだけだ。内心はすごく怖がっている。でもそれは彼らが幻影旅団だからだ。それに今となっては子どもぶってフランクリンに怯える演技をする意味もない。
メニューが運ばれてきた。ワインリストもそっと置かれた。アイスバケットがふたつに水、ソーセージを軽いパイ皮にくるんで焼いたものをのせた皿、オリーヴ入りのアンチョヴィペーストの入ったボウル、焼きたてのパンも一緒だ。
「あら、おいしい」
「ね? ハズレはないんだよ」
パクノダのシンプルな称賛の声になぜかシャルナークが胸を張った。
こうして幻影旅団との昼食はなごやかに進んだ。嘘。そんなはずはなかった。
苛立っていたフェイタンはいきなり殺気をぶつけてきた。
ぶわっと肌が粟立つ。
「――視線が鬱陶しいね。気づかれないと思たら大間違いよ」
わたしは冷や汗をかきながら皮肉を言って突っぱねた。
「5対1なんて人数差でやってきた勇敢でお強い皆さんとはちがって、わたしは小心者でか弱いの。こちらで勝手に人数合わせさせてもらったわ」
彼らと会うと聞いたイーランがボディーガードをつけると言って聞かなかったのだ。わたしは反対したけれど、そうしなければジュリアンに連絡すると脅されては拒みきれなかった。食事の間だけ、と念を押してわたしも了承した。今日無事に帰宅できたら次からは拒みやすくなるだろう。
クロロは何も言わなかった。どうでもいいと言わんばかりの涼しい顔でワインを飲んでいた。だからフェイタンもそれ以上は言わなかった。けれど不快げな目つき、嘲笑を刻んだ口元は実に雄弁に語っていた。雑魚を増やして安心したか? 雑魚が何かの牽制になるのか?
「大目に見てよ。それとも普通の女の子と普通に食事したかったとでも言うの?」
それならそういう気分が楽しめるお店を紹介してあげましょうか?と続くはずだった言葉は呑みこんだ。男の自尊心を傷つけるのはよくない。
わたしはアンチョヴィペーストをたっぷり塗ったパンを口へ運びながら、メニューに注意を移した。
「干ダラのブランダードはどう?」
「ブランダードって何?」
「えーと、塩抜きした干ダラをガーリックとオリーヴオイルでペースト状にしたものよ」
これも前の世界の南仏料理。
「メインコースは何がいいかしらね。――やっぱりせっかくモーナンカスにいるんだから、モーナンカス風羊の薄切り肉を食べたいわよね。ソースは定番のオゼイユソースで」
「魚料理なら?」
「オオカミウオのワッフル包み」
わたしはメニューをめくり、チーズとコーヒーの間に目をすべらせた。
「あと、そう、デザートはジャムオムレツ以外考えられないわ」
砂色の髪がさらさらと顔にかかるのをかきあげながら、パクノダは首をかしげた。
「……あなた、ほんとうに10歳なの?」
「正真正銘」
体は。
何人かはわたしをうさんくさそうに見た。わたしだって、わたしのような10歳児がいたらどん引きすると思う。
わたしをじっと見て、パクノダの手があてもなさそうに動いた。握られて、開かれて、小指から順にテーブルに下ろされ、また宙に浮き……。本人は無自覚なのだろうか。指が軽くこすりあわされ、砂色の髪をすき、ピンと伸ばされて、ゆっくり折り曲げられる。
他人の記憶を読む能力だなんて悪趣味な能力を、彼女は何を思ってつくったのだろうか? どうしたらそんな能力をつくれるというのだろう? わたしは彼女の手の動きを視界の端に捉えながら考えた。
日ごろから他人の顔色をうかがってばかりの生活をしていたのだろうか? 他人の見られたくないものを暴くことに興奮をおぼえるたちなのだろうか? それとも最悪のタイプの覗き趣味のあらわれなのだろうか?
いずれにしても、彼女とはうまくやっていけないだろうと思われた。隠し事が多い、わたしのような人間では。