「俺は別に名前から入るなんてことをしたことはないがな」
「嘘ですね」
鈴羽は笑った。
「大学時代でも、2010年でもまず漢字に横文字のルビを振ったり、英語じゃなくてドイツ語とか他の言語で読むみたいなことしていたじゃないですか」
「ふん。やはり貴様は愚かなようだな」
「お前もロシア語読みを持ち出した時点そう変わらないだろうに」
すぐさま俺は反論したが、確かに鈴羽が言うように俺達は似ているのかもしれない。
認めたくないのだが。
紅莉栖が俺の扱いに慣れていたのもそのためか。
「さて、倫太郎さん達はどうせいがみあってばかりで話が進まないでしょうから、私が進めますね。それで、牧瀬君。その作戦はどういうものなんですか」
「おかべのおじさんあそぼうよ」
俺は紅莉栖に白衣の袖を引っ張られていた。
無下に扱う気はないが今は中鉢が考案した作戦を聞かなけばならない。
「いいですよ。倫太郎さん。後で私の口から説明しますから」
「え?」
どういう意味だろうか。
この場にいらないということだろうか。
俺の動揺を顔色から察知したのか鈴羽は取り繕うように言葉を続けた。
「その方が牧瀬君が話し易いと思うんです。現に倫太郎さん達は会う度に何かしら言い合いをしているので。それに――」
鈴羽はしゃがみこんで俺の袖をまだ握っている紅莉栖の頭を撫でた。
「今回の作戦名を決めてくれた立役者にご褒美を与えないと罰が当たりますからね」
「ごほうび?」
紅莉栖は不思議そうな顔をして鈴羽を見返す。
「そうね。岡部のおじさんと遊んできていいわよ」
その言葉を聞くと紅莉栖は目を輝かせた。
「ほんと?ありがとうおばさん」
そう言い残して紅莉栖は研究室から俺を連れて出ていこうとする。
「いいのか?本当に」
「えぇ、どうぞ行ってらっしゃい。せめて私をおばさん呼ばわりするのだけは止めさせて貰えると嬉しいです」
鈴羽は少し乾いた笑みを浮かべて手を振っていた。
流石の鈴羽もあの牧瀬紅莉栖におばさん呼ばわりされるのは納得がいってないのだろう。
事実、鈴羽が生まれるのは今から数十年後の未来なわけなのだから。
俺は鈴羽の中鉢に見送られながら研究室を後にした。
「それで何をするんだ?」
「んーとね」
そこまで考えていなかったらしく紅莉栖は辺りをキョロキョロと見回す。
俺もつられて見回したがここで遊べるようなものは当然ながら何もなかった。
「中庭にでも行くか」
一人言のようにそう呟くと俺は紅莉栖の手を握って研究棟を出た。
中庭と言っても緑があるわけでもなく無機質なテーブルとイスが数個あるだけだ。
文系の大学だともう少し色があるのかもしれないが、男ばかりのこの学校にそこまで求める生徒はいないようだった。
「紅莉栖は何が飲みたい?」
「ドクペ」
「ん?」
「ドクターペッパーって言うのみ物がのみたいの」
「そうかそうか」
まさか、この時代からそんなものが好きだったとは。驚きだ。
幸いなことにこの大学の自販機にはドクペは常備されているので俺はそれを二つ買った。
「ほら、これが選ばれし者の知的飲料だ」
「? おかべのおじさんありがと」
紅莉栖は俺が何を言ったのか理解出来ていないようだったが俺から渡されたドクペを受け取った。
「おかべのおじさん」
「ん?」
無言で紅莉栖はその缶を差し出す。
なるほど開けられないのか。
俺はその缶を開けると紅莉栖に渡した。
「ありがと。かんを開けられるなんて、おかべのおじさんは大人だね」
「はは。そうかありがと」
俺は礼を言いながらドクペに口を付けた。
久しく飲んでいなかったせいか大分懐かしく感じた。
日は高く燦々と降り注ぎ風も程よく吹いている。
絶好の昼寝日和だ。
そんなことを考えながらもやはり俺は二人の話の内容が気になっていた。
クルーゼック。
元々どんな意味なのだろうか。
俺は手元にあった携帯の辞書でその言葉を検索する。
「なるほど……」
鈴羽が似ていると言った意味が分かった気がした。
「なぁ、紅莉栖」
「ん?なぁに」
「さっきのクルーゼックってこんな字だっけ?」
俺は携帯の画面を紅莉栖に見せる。
「うん。そうだよ」
紅莉栖は頷く。
「кружекはドイツ語に直すとsteinsか」
これは果たして偶然なんだろうか。
作為的な何かを感じとってもなんら不思議なかった。
穿った見方をすれば俺の運命石の扉を捩った結果かもしれない。
全くいくらの俺でも自分の口癖を作戦名に持ってこようとは考えない。
もし、持ってくるとしたら、そこには不退転の決意があるのだろう。
「ねぇ、おかべのおじさん」
「ん?なんだ」
「なんでわたしはこうやっておかべのおじさんといっしょにいるんだろうね」
「なんでだろうな」
「わたしゆめの中でもおじさんといっしょにいたことがあるの。その時のおじさんはなんだかこわい顔をして――ないてた」
「……そうか」
「それでね。わたしが平気? って聞くとおじさんはわらってさっきまでないてたのがウソだったみたいによく親ゆびを立ててたの」
「……うん」
「聞いてるおじさん?」
「聞いてるよ」
「それでね。よく分からないんだけど、またちがう時に見たゆめだとなんか黒いかっこうをした人たちがたくさんきてとてもこわい思いをしたのをおぼえてる。
でも、その時はすずはのおばさんがたすけてくれたの」
あの時のことを言っているのだろうか。
「それでね。わたしはとっさにおじさんをさがしたの。なきそうな顔をしてるんじゃないかって思って――。そんなゆめを見たのなんでかな?」
「さぁな。もしかしたら紅莉栖は預言者になれるかもな」
「正ゆめってやつ?それはそれでおもしろそう」
「そうだな。でも、それは正夢なんかじゃないんだ。現実にそんなことは起きないから」
起こさせないから。
例えあの時の思い出が全て無くなったとしても。
あの日紅莉栖と会ったことが無かったことになっても。
「そうなの?よげんしゃって言うゆめもおもしろそうだけど、わたしは物り学しゃになりたいの。まだパパにはないしょだけどね」
「そうか。それは中鉢も喜ぶだろうな」
いや、案外紅莉栖の方が筋が良くて喜ぶどころか嫉妬してしまうかもしれない。
「ねぇ。なんでパパのことをなかばちってよぶの?パパの名前はちがうよ?」
「それは秘密だ。多分紅莉栖がもう少し大人なったら分かることだよ」
俺は残っていたドクペを一気に飲み干した。
紅莉栖が俺のいた時代のことを話しても特に驚きはなかった。
RSは誰にでもあるものだ。
別に俺にだけ身に付いた特別な力というわけではない。
「さて、そろそろ話は終わったのかな」
「まって。まだわたしの話がおわってないの」
立ち上がって研究室の方を見た俺を紅莉栖が掴んだ。
「あのね。一つ聞いてもいい?」
「一つと言わず何個でも聞いてくれ」
「あのさ、どうしてわたしのことを紅莉栖ってよぶの?」
「それがお前の名前だからだ」
「それだけなの?」
幼いながらも俺に探りを入れるその視線は昔と変わっていなかった。
もし、紅莉栖と同年代の俺がいたら怖くて逃げ出していることだろう。
紅莉栖の言葉の真意はなんなのだろうか。
「だって、なんかほかの人がよぶ紅莉栖と、おかべのおじさんがよぶ紅莉栖はなんかちがうもん」
「そうか。そうかもな」
「なにかあるの?」
「さぁな。そこは大人の秘密だ」
そう言って俺は紅莉栖の頭を撫でた。
何か言いたそうだった紅莉栖だが、それが気持ちよかったのか何も言わなかった。
本当は言ってもよかった。
けど、それはまたいつか言うことにしよう。
「さて、もう話は終わったのかな」
「どうだろうね。はい」
俺の手に何かが渡された。どうやらドクペ一本を飲むことは出来なかったらしい。
流石にまだ子供か。
「あげる。もうのめないから」
「ありがとう」
俺はそう言ってドクペに口を付ける。
「あっ!」
その様子を見ていた紅莉栖が何かに気づいたような声を上げた。
寸での所で俺はドクペを吹き出しそうになるのを堪えた。
「ど、どうしたんだ」
「か、かんせつキスしちゃった……」
紅莉栖は、顔を真っ赤にして俯いていた。
全く自分がしたわけでもないのに。
「あ、そうだな。悪い悪い」
「べつにいいけど」
謝る俺に対して紅莉栖は首を横に振った。
「そうか。ありがとな。お」
俺が視線をあげると研究棟から鈴羽と中鉢が出てくるのが見えた。
どうやら話が終わったらしい。
俺は二人を見つけると紅莉栖の手を繋いで二人の方へ歩いていった。
「おぉ、鈴――」
「まず、貴様がなぜ紅莉栖と手を繋いでいるのか説明してもらおうか」
俺と鈴羽の間に中鉢が割り込んだ。
その目はどこか血走っている。
「ま。大したことない」
そう言って俺は手を離す。横目で残念そうな紅莉栖の顔が見えたが今は気にしないことにしておく。
「それでどういう話になったんだ?」
鈴羽の方を向く。
「うーん、それがですねぇ……。大分考えたんですが」
どうも鈴羽は歯切れが悪かった。
私達はどうやら一度死ななきゃいけないみたいです。
「え?」
俺の思考は停止した。
あと一話になります。
何かあれば遠慮なくお願いします。