「ほらー鈴太郎。こっちこっち」
俺が手を叩くと鈴太郎はその音が鳴る方向に歩を進める。
「なに?ぱぱ?」
鈴太郎は俺に向かって小首を傾げる。
正直可愛い。
口がどうしても緩んでしまう。
鈴羽が鈴太郎を生んでから早四年。
世界は依然不況のままだったが俺達は幸せに暮らしていた。
秋葉の会社も依然として順調だった。
秋葉曰く、昔に言ったが見えてる落とし穴に落ちる奴はいないからな。と笑っていた。
そういえば、そんな秋葉にも娘が生まれた。
留美穂という名前だったかな。
それがどうしてフェイリスと名乗るのかは甚だ謎なのだが、まぁそれは追々分かるのだろう。
秋葉の娘が生まれたのも俺達と同じ病院だった。
秋葉も案の定仕事が手に付かず出産予定日の数日前からずっとそわそわいていたのを思い出す。
しかも渡井さんも産休を取っていたので、俺が秘書の代わりをすることになっていた。
俺が電話を取る度に病院からの電話じゃないのか?と聞かれたりと随分とナーバスになっていた。
きっと秋葉も親バカになるだろう。
秋葉の言動が二年前の自分と被った。
一方の渡井さんも八月に出産した。
漆原さんは秋葉や俺と違いやけに落ち着いている気がした。
秋葉に様子を見て来いと言われた俺一目でそう感じた。
「落ち着いてますね…」
「いえ、そりゃ、毎日願掛けてたらもう怖いものなんてありませんよ」
漆原さんがそう言って笑った顔もどことなく緊張の色が走っていたのは忘れられない。
鈴羽はいつの間にか教授になっていた。
というのも鈴羽の研究室の教授が一身上の都合で大学を辞めてしまったらしく、繰り上げのような形で教授の席に座ったのである。
「まだ、教授なんて柄じゃないんですけどね」
鈴羽はそう言ったが満更でもなさそうだった。
俺も素直にその事実は嬉しいし、祝福してやりたかった。
しかし、俺は紅莉栖が生まれた日以来あの考えから抜け出せないのだ。
世界線の矛盾。
このままだと鈴羽も秋葉も2000年に死んでしまう。
縦しんばその事実を変えたとしても2010年に紅莉栖が死んでしまう。
この二つを回避する方法を鈴羽にバレること無いように考えていたが特に画期的な方法は生まれなかった。
1997年にタイムリープマシンなんて都合のいいものがあるわけない。
それに俺、ダルそして牧瀬紅莉栖が揃ってない時点でそんな代物は生まれなかったのだ。
「ぱぱ。どうしたの?」
鈴太郎が心配そうに俺の頭を撫でる。
鈴太郎の顔を見る度に俺は勇気づけられる。
この子の未来を守らなければいけない。
既にこの問題は二人だけの問題ではなくなっていたのだ。
俺はふと時計を見る。
午後五時。
鈴羽からの連絡はない。
今日は早く帰ってくるのだろうか。
この時期は五時と言ってもまだまだ日が沈む気配はなく、西日が目に痛い。
「ただいま帰りました」
「おかえり」
噂をすれば主と言うが本当に鈴羽が帰ってきた。
鈴羽は俺の顔を見て少し驚く。
「あら、今日は全休でしたっけ?」
「まぁ、秋葉も暇だって言っていたし、来ても無駄だから来る位なら俺の娘の世話しろ。って言われたから大人しく家にいたんだよ」
あぁ、秋葉さんらしいですね。と鈴羽は着ていた服をハンガーにかけた。
それから俺達は早めの夕食を取る。
今日はこの後少し秋葉の家に行かねばならない用事があったので三人で出かけた。
鈴太郎も秋葉の家は広くて大きいから気に行っているらしく行く時はいつも上機嫌だ。
俺の家から秋葉の家までの道も街灯が付いたせいか随分と明るくなった。
こんなに明るければ変なことなど起きるはずがない。
「――?」
俺達の前に大男が現れた。
長髪に無精髭といういかにもホームレスに似た風貌をした大男。
しきりに俺に話掛けているらしいが向こうは酔っ払っているのか発音が明瞭ではないせいで聞き取れない。
「岡部さん」
俺が辟易していると鈴羽が俺の前に立った。
流石鈴羽。
こういう手合いに慣れていて話を聞くのか上手なのだろう。
そう思っていた俺の期待はすぐ裏切られた。
「はっ!」
鈴羽は大男の体がくの字に折れるほど強烈な一撃を鳩尾に打ち込む。
酔っ払っていたせいもあってか大男は成す術もなくその場に倒れこむ。
「さ、行きましょ」
茫然とする俺と鈴太郎に対して特に何もなかったかのように振舞う鈴羽。
俺は絶対鈴羽と喧嘩はしないと誓った。
「おおおお」
鳩尾を殴られた大男は一気に正気に戻ったらしい。
しきりに呻いていた。
「あの……大丈夫ですか?」
流石に心配になったので俺はその大男に問うた。
「あぁ、平気なんだが……一体何が起きたんだ?」
そう答えた大男の顔に俺は既視感を覚える。
どこかで見たことがある。
そう2010年に……。
「もしかして、あなたは……MRブラ…じゃなくて天王寺か?」
「あん?どっかで会ったことあったか?」
大男もといMRブラウンこと天王寺裕吾は俺を訝しむような目で見る。
「俺は最近ってか今日こっちに帰ってきたばっかりだから知り合いなんているはずがねぇんだが……」
「い、いや顔がいかにも天王寺って顔をしていたからな」
明らかに苦し紛れもいい所だったが、MRブラウンは納得していたので一安心した。
「というか、なんであんたいきなり殴ったんだ……」
MRブラウンは鈴羽を睨む。
「え?だってこの人今にも襲ってきそうじゃありませんでした?」
キョトンとした顔で鈴羽は言う。
鈴太郎も俺も、勿論MRブラウンも呆気に取られていた。
「私、間違ってましたか?」
「いや、そんなことないありがとう。助かった鈴羽」
ならいいです。と鈴羽は頷く。
「それで、天王寺さんはどうしてこんな所をうろついていたんですか?」
鈴羽にそう聞かれ若干口が引きつりながらもMRブラウンは答える。
「いやな、久々にこっち帰ってきたのはいいんだが、どうにも知り合いも少ねぇし、やることなくて酒を煽って、気づいたらあんたに殴られてた」
「へぇ。それはそれは。つまり、あなたはホームレスってこと?」
「う……あんた意外にはっきりと言うんだな」
図星だったようで口には苦い笑みが広がっている。
そういえば鈴羽が1975年に一人で跳んだ時も鈴羽の最期はMRブラウンが看取っていた。
どうやら俺が一緒に跳んだ所で世界線の誤差の範囲の内でしかないようだ。
その時俺は秋葉の家に行く途中だったことを思い出す。
「鈴羽……そろそろ秋葉の家に…」
「待って下さい。倫太郎さん。流石に今になって少し罪悪感が出てきました……。せめて家の手配位はしたいです」
「なら、俺達の家の隣空いてるからそこに住めばいいんじゃないか?」
それは名案ですね。倫太郎さん。
指をパチンと鳴らしてそれは妙案だとでも言うように鈴羽は俺を見る。
「良かったですね。天王寺さん。家が決まりましたよ」
「お、おう」
急展開もいい所で自らの住まいが決まってしまったMRブラウンはただ頷くしかなかった。
「それじゃ、私達これから行く所があるので失礼しますね」
「お、おい、あんた」
「なんですか?」
「い、いや、その住所を教えてくれよ……。じゃなきゃそこに辿りつけない」
あぁ、すみません。鈴羽はそう言うとポケットからメモ帳を取り出しページを一枚破ると、サラサラとペンを動かし我が家の大家の住所を書いた。
「多分ここの大家さんは夜遅くまで起きてる方ですから丁寧にお願いすれば何とかなると思います」
MRブラウンは、悪い。と一言礼を言うとその住所を探して歩いていった。
「さ、向かいましょうか。余り遅いと秋葉さん達も心配しちゃいますからね」
「そうだな」
俺は鈴太郎の手を引いて秋葉の家へと足を進めた。
「で。その大男はお前の知り合いなのか?」
鈴羽は秋葉の奥さんと一緒に子育てについて応接間で仲良く話してる横の部屋で俺は先ほどのことを秋葉に話していた。
「勘がいいな。実はな……」
俺はそこで2010年の時の思い出を秋葉に語った。
「なるほど。その天王寺って人が部屋を貸してくれてブラウン管の店をやっていなければ、岡部達はこの時代に来なかったのか」
相変わらず秋葉は理解するのが早い。
「それで、その話を俺にしてなんの意味があるんだ?」
「俺がこの時代に来たのに世界が変わってないと思うんだ……」
うん?秋葉は俺の言葉に興味を惹かれたのか顎で続きを促す。
「俺は俺のいた世界における2010年の未来を変えるためにここに来たのは話したな?」
「あぁ、なんか世界線がどうとか言ってたな」
「俺の目標は世界線を越えて未来を変えることなんだ」
「成程。つまり今現在岡部がこっちに来たのにも関わらず、世界線の変動は世界から見たら誤差の範囲で、結局このままだと未来は変わらないってか?」
秋葉の言葉に俺は頷く。
そして俺は禁断の言葉を紡ぐ。
言葉にしたら現実になりそうで。
それでも誰かに聞いて貰いたくて。
「このままだと……2000年に鈴羽は死ぬ」
秋葉も俺の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかったらしく珍しく動揺していた。
「それは本当の話なのか……いや、そんなこと聞くのも野暮ってもんか……」
秋葉は万年筆で机をコツコツと叩きながら何かを視認している。
「いまいち世界線なんて概念は想像つかないが、それってつまり2010年にしか存在しないずの岡部達が2000年に存在している矛盾を世界が正しているという認識でいいのか?」
「多分……」
俺は曖昧に頷く。
流石に面と向かって秋葉も死ぬなんてことは言えなかった。
「まぁ、俺には何も出来ない。出来ることがあったら教えてくれ」
そう言うと秋葉は表情を緩ませる。
「それよりさ……最近鈴太郎くんどうだ?勿論留美穂は可愛いが俺は男の子が欲しかったな」
「あぁ、最近鈴羽に似て運動するのが大好きみたいだ」
そうかそうか。そりゃいいな。秋葉は笑う。
「俺ももっと構ってやれればいいんだが、いかんせん仕事がな……」
俺はちらりと秋葉の机を見る。
会社で処理しきれなかった仕事であろう書類が束になって重なっていた。
社長というのも楽じゃないはずだ。
俺は秋葉の目の下に薄らとしたクマが見えて居た堪れない気持ちになる。
「そろそろ帰ることにするわ。鈴羽も仕事あるだろうし」
「そうか?分かった。夜だし、一応車出すか?」
俺は秋葉の申し出を断って三人で歩いて帰ることにした。
「そういや、目的は済んだのか?」
帰り道で鈴羽に問う。
「はい。それはばっちりと」
鈴羽は満足気に頷く。
ママ友とでも言うのだろうか。
鈴羽はもう仕事に復帰をしているので、そういう子育ての知り合いが多くなかった。
だから一カ月に数回秋葉の家で副島さんと子育ての話をしながらお茶でも飲むことになったのだ。
理想としては昼の方が勿論いいのだが、鈴羽は大学の講義もあるので、余り遅くならない程度に集まることとなったのだ。
俺自身は秋葉とは毎日のように顔を合わせているから特になんの感慨も湧かない。
しかし、鈴羽は副島さんと話すのをとても楽しみしているらしく、秋葉の家に行く日はいつも機嫌がよかった。
秋葉に聞いた所によると、副島さんも似たような感じで、いつ来るのか?と窓から外を見つめてそわそわしているらしい。
俺は、副島さんがそわそわしている情景を思い浮かべながら帰り道を歩く。
家にさしかかった時自分の家の横に誰か立っていた。
「どうも。岡部さん」
MRブラウンだった。
向こうからしたら当然なのだが、さん付けで呼ばれるとこそばゆい。
「どうかしたんですか?」
「さっき、大家と話をつけて、隣に住むことになったみたいだ」
これからよろしく。
MRブラウンに頭を下げられた。
「あら、よろしく。天王寺さん」
隣にいた鈴羽が頭を下げる。
俺はその様子を見て感じた。
どうやら、世界は、俺の願いを嘲笑うかのように順調に収束しているようだ。