真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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第9話:王道を行く者

 

 

 

 

「―――こんな馬鹿げたことがあるものかっ!!」 

 

 年齢的に既に六十を超えたと思われる老人が、洛陽が宮中にある自分の執務室にて椅子を全力で蹴り上げた。

 激しい勢いで蹴り飛ばされた椅子は、盛大な音をたてて壁に激突し床に転がる。

 ハァハァと肩で荒い息をつき、憤怒の形相でここにいない誰かを睨みつける彼の姿に、部屋の隅に控えていた従者達が怯えながら床に視線を下ろす。十常侍の筆頭として冷静沈着が服を着たように宮中では振舞っている主―――趙忠が、ここまで激怒した姿を長い間侍ってはいるものの見たことが無かった。

 綺麗に整っている白髪を右手で掻き乱しながら趙忠は、今朝の出来事を思い出す。

 

 政敵である十常侍の張譲が珍しくにこやかに話しかけてきたかと思えば、趙忠の配下達が私腹を肥やしていることをそれとなく弾劾してきたのだ。別にそれは構わない。何故ならばこの時代、もはやまともな官吏の方が数少ない。多少の不正を働いたところで趙忠程の権力を持てば、もみ消すことは可能。問題は、それらの情報をこと細かに張譲が知っていたことだ。

 

 情報の価値を、趙忠は知っている。

 この宮中においては、情報こそが最大の武器。

 それ故に、趙忠ほど情報の管理を徹底している者はいないといっても過言ではないだろう。

 

 それなのに何故、張譲側にそれが漏れてしまっていたのか。

 疑問を抱きながらもその場をなんとか乗り切った趙忠だったが、自分の執務室に戻り改めてその事実を知ると目の前が真っ暗になった。

 

「ふざけるなっ!! ふざけるなっ!! あの朱凶だぞっ!? 数百年の歴史を持つ暗殺一族だぞ!? それを、それをそれをそれを―――!!」

 

 

 まさか、自分が秘密裏に雇っている朱凶が暗殺に失敗したうえに、絶対に手出しをするなと厳命していたはずの張譲の屋敷に襲撃をかけるなど、青天の霹靂もいいところだ。

 

 激怒する理由、それは飼い犬に手を噛まれた―――というのもあるが、最大の理由は朱凶の中でも名の知れた婁子伯が撃退された為だ。顔を合わせたことは無いが、中華にその名を轟かせる化け物、婁子伯でさえも一蹴される。やはり自分の見立ては間違っていなかった。

 李信永政という怪物とは敵対すべきではない。仮に事を構えるにしても、最大限の出来得る限りの準備をしてからでなければ、戦にもならないということを趙忠は改めて実感できた。

 そう。結局のところ彼の怒りの感情の根本となってるのは、恐れ。それを誤魔化すために怒り猛っているにしか過ぎない。

  

「くそっ……使えぬ奴らめ。しかもよりにもよって張譲にこちらの情報を流すことになるとは……」

 

 奥歯を砕けんばかりに噛み締めて、趙忠が未だ治まり切らない怒気を隠そうともせず部屋中を歩き回る。

 ぼさぼさになった白髪を揺らしながら部屋の中を行き来していた彼だったが、突如として扉が開く音が聞こえ反射的に振り返った。

 十常侍の趙忠の執務室に、入室の声掛けもせずに入ってくるなど正気の沙汰ではないが、部屋に現れた女性を見て平静を保つように、露にしていた怒気を飲み込んだ。

 

「あはははっ。苛立っているねぇ、趙忠の大将」

「おおっ……夏惲(かうん)か。話を聞いておらんのか? これが、苛立たないでいられるものか」

「ああ、さっき聞いたよ。随分とまぁ、あのお嬢さんに手酷くやられたってねぇ」

「忌々しい小娘だ。小娘は小娘らしく大人しくしていればいいものを」

「もう小娘って年齢でもないけどさぁ。大人しくしていればいいってのには同感だねぇ」

 

 趙忠と対等に話をしている夏惲という女性はどこか不思議な雰囲気を纏っていた。

 十常侍は良くも悪くもそれなりに他者を圧倒する気配を放っているが、特に張譲は別格であり、それには及ばずとも趙忠もまた並の者と比べるまでも無く強い圧力が身体中から滲み出している。

 それと比較すると夏惲は、何も無い。まるで街にいるそこらの一般人と見間違うほどだ。身長は女性にしては高く、痩せ型。容姿に関しては特別に優れているというわけでもなく、目を惹かれる要素が微塵もない。

 だからこそ、そんな人物が趙忠という老人と対等に話をしているということに違和感を抱いてしまう。

 

「しかし、まぁ……あの李信って奴は化け物だねぇ。あの婁子伯を撃退するなんて、想像以上さぁ」

「……アレには関わるな。あれほど厳命したというのに、本当に使えぬやつらよ」

「あはははっ。結構重用してたってのに酷い言われようだねぇ、朱凶も」

「ふん。もはや奴らの利用価値は無いに等しい。精々利用し尽してやるわ」

 

 朱凶の行く末に苦笑いしながら、夏惲は言葉を選びながら相手を落ち着かせるよう会話を続ける。

 彼女に不平不満を聞いて貰えた為か、趙忠もまた暫く経つと冷静さを取り戻し、そんな己を恥じるように己の仕事へと戻っていった。仕事が溜まっている彼に暇を告げると、夏惲は執務室を後にする。

 宮中の廊下をゆっくりと歩きながら、彼女が考えるのは張譲達のことだ。

 

「いまいちよくわかんないなぁ。あのお嬢ちゃんの考えていること」

 

 李信永政。

 あの十常侍筆頭である張譲が傍に侍らせている少年。

 それは数年前まで全てに無関心であった彼女とは思えない行動だ。そのせいか、張譲と李信の関係はあることないこと噂となって宮中中を駆け回っている。生憎とさすがに皇族の方にまではそんな下種な噂は流れていないようだが、この宮中で働いている官吏ならば誰しもが一度は聞いたことがあるだろう。

 基本的に不正を許さず厳罰に処する張譲にしては、自分の周囲に流れる悪評をそのままにするのは少々おかしい。特に趙忠と敵対している彼女は、どんな些細なことでも致命傷となる筈のそれを放置するなど正気の沙汰ではない。

 

「……それが狙いなのかなぁ?」

 

 例え、己の悪評に直結すると理解していても傍に置く。

 それはつまり、張譲にとっては李信がその危険性と秤にかけても側近とする価値がある。

 周囲の敵対する者達にそう考えさせるため。只者ではない―――自然と皆が李信のことをその様に評価する。実際に、李信と会ったことがない者まで、彼のことを恐れている節があった。あの張譲の懐刀として、李信永政の名前は轟いている。

 

 だが、果たしてそんな必要があるのか。

 以前見たことがあるが、はっきり言ってあれは化け物だ。こんな時代に何故存在するのか分からないほどに逝かれている。戦場帰りの武官でさえも、可愛く見える程だ。言ってしまえば、箔をつけるための噂話など必要ないだろう。

 そんな相手を碌な官位も与えずに傍に侍らせているだけ。体の良い護衛といっても良い。才ある者を愛し、重用する張譲にしては無駄にしすぎている。もしくは噂どおり、寵愛しすぎるあまり目が曇っているのかもしれない。

   

 己の命を守る為に、単純に傍に置きたいが為に、李信を護衛にしていると考えたがそれもいまいち筋が通らない。先日見た張譲は、別段変わった様子は見られなかったからだ。

 張譲は、保身を第一に考える他の十常侍とは覚悟が違う。命を賭けて宮中で政敵と見えない刃で斬り合っている彼女が、今更命惜しさに李信をただ護衛のためだけに使用するものだろうか。

 

「……いや、或いは命が惜しくなったと私達に思わせるため?」

 

 張譲が怖ろしかったのは、勿論彼女の政治的手腕もあるが、死すら恐れぬあの覚悟だ。

 趙忠派の者達の喉笛を、油断すれば噛み切るぞと発している執念は餓狼の如し。

 そんな彼女が命惜しさに保身に走ったとすれば、趙忠派としても随分と余裕がでてくるが―――それで生み出される油断を狙っている可能性も無きにしも非ず。

 もしくは、そうこちらに思わせておいて、本当に保身に走っているだけかもしれない。愛するものが出来れば人間は命が惜しくなるのも当然。それも完全には否定できない。

 

 

「う、うむぅ……よぅわからんなぁ。頭がこんがらがってくるわぁ」

 

 思考の迷宮に入り込みそうになった夏惲は、嘆息すると泥沼に片足を突っ込みかけていた自分に呆れ果てる。

 幾ら考えても現状では、相手の思惑など一から十まで理解することは不可能だろう。凡庸な者ならば、思考を辿る程度は容易いことだが、相手は厄介極まりない張譲なのだ。こうして此方を悩ませることさえも相手の思惑かもしれない。

 

「これは一度実際に言葉を交わしておいたほうがいいかねぇ……」

 

 夏惲は廊下を歩きながら、自分の予定を思い出しながら近いうちに会うことになる李信の顔を思い浮かべた。  

  

「まぁ、流石にいきなりは殺されはしないだろうし。気軽に会ってみましょうかぁ」

 

 全ては直接会ってから。

 そう決断した彼女は、あはははっと高い笑い声を残しながら自分の執務室へと戻っていくのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある昼下がりの洛陽。

 先日から昼食をよく食べに来ている飯処。司馬徽達と一緒に談話をした場所であるのは記憶に新しい。本日も満員御礼となっており、李信は窓際の小さな食卓で昼食を取っているところであった。 

 

 窓の外に見える人の流れを視線で追いながら、見事な味わいの炒飯をレンゲで口に運ぶ。

 何度か咀嚼しながら丁度良い味付けに感嘆しつつ、食べ終わったらまた宮中に戻らねばならないことに溜息を吐く。

 いい加減戦場にでも出て槍働きでもしたいものだが、張譲曰く―――もう少し待て、とのお達しがあり悶々とした生活を続けている毎日だ。そんな李信にとって先日の暗殺騒ぎで、今の自分の力量を大体把握できたことが唯一の救いとなっていた。

 

「おーっほっほっほっ!! 早く行きましてよ、華琳さん」

「……慌てないで、麗羽。まだ十分時間があるわよ」

 

 多くの人が行き交う通りでさえも耳に届く少女の高笑いに加え、どこかで聞いた記憶があるまた別の少女の呆れ声が聞き取れた。

 どこかで聞いた覚えが―――ではないと、李信はすぐにその声の主を思い出す。短い邂逅ではあったが、彼の心に十分に刻み込まれた覇者の資質。覇王としての格を備えた人の上に立つ者。曹操孟徳その人が、疲れた表情を隠し切れずに街路を歩いていた。

 

 そして、曹操の前を行くもう一人の少女がいる。

 年齢体格ともに曹操と同程度で、髪の色も同じく綺麗な金色。敢えて違う点を挙げるとすれば、曹操に比べて随分と長く伸びている髪くらいだろう。くるりっと巻き髪となっているそれがまずは第一印象として目に留まるはずだ。そして一目でわかる程に贅を尽くされた豪奢な服装。太陽の光を反射させ煌びやかに光り輝いている。

 

 当然この時分街路は人通りで溢れているが、そんな二人の少女が歩く先は不思議なことに次々と人の波が割れていく。まるで何か怖ろしいものを見た、という表情で道を明けていく街の住人達。

 一瞬曹操孟徳の影響かとも考えた李信だったが、人々の視線を追ってみれば、その行く先はもう一人の豊かな金髪の少女であった。

 幼いながらも覇者としての風格を湛えている曹操を差し置いて、人々から恐れられる少女に少しの興味が湧く。

 

「―――あら?」

 

 思わず凝視してしまった李信の視線に気づいたのか、通りを歩いていた曹操と飯屋の窓から覗いていた李信の目が合った。

 にこりっと微笑んだ彼女は足取りを変更し、飯屋の暖簾を潜ってくる。自分達平民とは明らかに格が違う少女の登場に、建物で食事をしていた者達は会話を止め、結果としてシンっと静まり返る室内。

 難癖をつけられないように誰もが視線さえも我関せずと明後日の方向を向いている様は、平民との力関係を如実に現している。

 

「お久しぶりです、李信殿。お変わりないようで何よりです」

「一ヶ月ぶりくらいか、曹孟徳。そちらも元気そうで安心した」

「はい。あれからの御活躍、お父様からお聞きしております。かの朱凶を退けた、と」

「あー、それか。噂ほど大きなことをしたわけじゃないんだけどな」

「御謙遜を。張譲様の屋敷に侵入した朱凶の一族を壊滅させたとか」

「……話がどんどん大きくなってるぞ、おい」

 

 曹操―――華琳の言葉に、呆れ顔で李信が呻く。

 人の口に戸は立てられぬ、とはよく言ったものだが、李信が婁子伯を倒した噂は即座に洛陽中に広まった。

 最初のうちこそ正しい話が伝わっていたが、伝聞を繰り返すことによって噂話はメダカが鯨になっていく。遂には、何故か李信が朱凶の一族を壊滅させたというところまで大きくなってしまっていた。

 

「確かに正確ではないのでしょうが、全てが間違っているということもないのでは?」

「……まぁ、詳しいことは言えないけどな」

 

 くすくす、と微笑む華琳に李信は言葉を濁す。

 ここまで市井に広まっているのに疑問を覚えるが、恐らくは張譲の手の者がそれとなく噂を喧伝しているのではと予想を立てた。

 これほどまでに洛陽の街に話が広がってしまえば、流石の趙忠も噂が沈静化するまでは迂闊に手を出せなくなるだろうと踏んでのことだろう。もっともそこまでしなくても、趙忠は彼女に手を出そうと現在のところ考えておらず、今回の襲撃事件は婁子伯の暴走だったのだが―――その答えに辿り着くのは如何に張譲といえど不可能であった。 

 二人がそんな会話を続けていると、先に行っていた筈の金色の髪の少女が華琳の声を頼りに探していたのか、店の敷居を大股で越えて入ってきた。室内を軽く見渡し、人の多さと然程清潔とは言えない内部の様子に、多少眉を顰めながら嘆息する。

 

「どこに行ったのかと思えば、このような所で何をしているのかしら?」

「……御免なさい、麗羽。少し知り合いがいたのよ」

「華琳さんの知り合い?」

 

 金色の髪の少女―――麗羽と呼ばれた彼女は、華琳と向かい合っていた李信を一目見ると驚いたように目を見開く。

 

「華琳さんに男の方のお知り合いがいるとは珍しいですわね」

「貴女も名前くらいは知ってるでしょう。李永政殿とはこの方よ」

「……李永政? 残念ながらご存知ありませんわ」

 

 李信の名前を聞いても顔色一つ変えることなく言い切った麗羽は、おーっほっほっほ、と相変わらずの高笑いをする。

 その姿に頭が痛いとばかりの仕草で華琳は額に手を当てて溜息を漏らした。相手が誰であろうと自分の調子を崩さない学友に、呆れると同時に尊敬を抱いてしまう。

 確かに宮中に轟いている彼の名前だが、未だ官位を持たない麗羽や華琳の耳には届かないというのが実際のところだ。ましてやあの麗羽が世間の噂話に耳を傾けるとは思えない。しかし、李信を自身の目で見てこの対応。はっきりと言って、普段通りの自分を保てることができる人間は相当な凡愚か稀代の天才か、そのどちらかであろう。

 

 華琳の目から見て、この学友の彼女はどちらに区別されるか。それは考えるまでも無いことであった。

 

「申し遅れましたわ。私は―――袁紹。字は本初。華琳さんのお友達なら、私も宜しくしてあげますわ」

 

 麗羽が名を名乗った瞬間、店内で静まり返っていた客が一瞬ざわめいた。

 それも一秒にも満たない時間であり、彼らは華琳が入ってきたときよりも関わりあいになるのを避けるべく頭を下げ自分たちの手元だけをじっと見つめてる。その姿に李信は、然もありなんと胸中で相槌を打った。

 容姿だけではわからなかったが、袁紹本初という名前を聞いてようやく住人達のこの態度に納得がいく。

 

「かの名門汝南袁氏とは知らず失礼を致しました。既に曹操殿からご紹介に預かりましたが姓は李、名は信。字は永政と申します」

 

 席から立ち上がり礼を取る李信の姿に満足げに頷く麗羽。

 

「おーっほっほっほ!! なかなかわかってらっしゃる方ですわね」

 

 そんな少女の姿に、改めて確信した店内の者達の身体が緊張で強張っていく。

 無理も無い、と李信は思った。何故ならば目の前にいるこの少女は、言葉にした通りの名門の御息女。いや、名門どころか、名門中の名門。この後漢において四代に渡って三公を輩出した名門貴族の後継者と名高い人物だ。宦官が権力を持つこの時代ではあるが、彼らを持ってしても袁家を無視できないほどの権勢を誇るほどである。あの張譲をして、袁家にはあまり関わるなと忠告してくるのだから、その厄介さは理解できるであろう。

 

 李信としても出来れば今のところこれ以上の繋がりは持ちたくないというのが本音であったが、この状況からどうやって逃れようか頭を回転させているところ、先に口を開いたのは麗羽であった。

 

「李信さんとおっしゃいましたね。貴方は誰かしら忠義を誓っている方はいらっしゃるのかしら?」

「……いえ。特には」

 

 一応は張譲の下にいるとはいえ、忠義を誓っているかと言えば、そうではない。

 あくまで協力者という関係にしか過ぎないのだが、それをわざわざ口に出すのは憚られる。

 

「そう。宜しかったら私の下で雇って差し上げても宜しくてよ?」

「―――ちょ、ちょっと待ちなさい、麗羽!? 貴女何を言ってるの!?」

 

 麗羽のとんでも発言に、目を剥いて食って掛かる華琳。

 だが、肝心の彼女はそんな友人の対応も全く気にせずに高笑いを続ける。

 

「そうですわね。前将軍程度ならば、用意してあげますわ」

「っ!?」

 

 たかが十二、三の子供の戯れと一笑に付すのは容易い。

 だがこの少女が、袁紹本初が口に出すのであれば、それは現実味を増す。それを知っている華琳は言葉を失った。

 一介の官吏にしか過ぎない李信を仮にも将軍職にあてがおうなど普通に考えれば不可能だ。だが、恐らくは袁家の力を持ってすればそれすら可能とする。

 売官制度というものがこの時代にはある。それは文字通り官職を金で買うことができるという制度だ。それは三公という官職さえも買うことが可能であるが、当然それには相応しい大金を必要とする。

 

 宦官や外戚とも肩を並べることが出来る袁家―――いや、純粋な資金力でいえば、彼らなど歯牙にもかけない圧倒的な差があった。古くから漢王朝に仕える名門の汝南袁氏とはそこまでの力を持っているのだ。

 しかし、初めて会ったばかりの男にこれほどの好待遇。普通に考えれば有り得ない。つまりは、麗羽は最初から李信の名前を知っていたということだ。

 

 ―――この狸め。

 

 思わず胸中で舌打ちを打った華琳と、一拍遅れて李信もまたそれを悟る。

 だが、破格の待遇で誘われた彼は、一瞬も迷わずに決断を口に出す。

 

「勿体無きお言葉。ですが―――」

「―――御嬢様、此方におられましたか」   

 

 李信が断りを入れようとした瞬間、それに割って入ったのはしゃがれた男の声だった。

 暖簾を潜って姿を現したのは、枯れ木のように細い腰の曲がった老人。杖を突きながら覚束ない足取りで麗羽へと近づいてくる。好々爺のような笑顔は、見ている者の毒気を抜いてしまう印象を与えてきた。

 

「あら、沮授さん。どうかしましたの?」

「時間が迫ってきたのに御嬢様が来られぬと、顔良と文醜が心配しておりましたぞ」

「……もうそんな時間でしたの」

 

「……はい。それよりもこのような場所にお一人で来られるのは控えて戴きたい、姫」

 

 二人の会話に割って入った新たな人物に、反射的に誰もが声のした方角へと視線を向けた。 

 店内の人間は沮授と呼ばれた老人の他に、もう一人若々しい男が入り口付近に居ることに声を聞いて漸く気づく。細い目の、蜥蜴のような雰囲気を纏った陰気な青年であった。

 姫っと呼んだのは彼であったのだろうが―――この場に現れたのはその二人だけではなかった。

 

「紹嬢様。勝手にどっかに行くのは止めて欲しいっすよー」

 

 ひやりっとその台詞だけで室内の空気を氷点下まで下げた人物が一人。

 燃えるような赤い長髪をうなじあたりで紐で縛り、眠たそうに目尻がとろんっと下がった少女。気を抜けば今にもその場で居眠りをしてしまうのではないかと思わせるほどに、彼女は怠惰な気配を放っている。空気の温度を下げる圧力を発した同一人物とは思えない差がそこにはあった。

 だが、店内の人間は確かに悟る。コレには関わるな。貴族だから、官位が遥か上だから、そういったものではなく、子供と大人。いや、子猫と虎ほどの差を感じさせる。この少女と敵対するくらいならば、飢えた人食い虎の前に出されたほうがまだましだ。自然とそんな風に思ってしまうほどに異常であった。異端過ぎていた。強き者。武人。戦場を知ってなお生き残る兵。それの中で生まれ育つ千人に一人―――否、万人に一人の逸材。天から中華に落とされた怪物の一人。怠惰で眠たげな様子など仮初の姿にしか過ぎなく、吐き気がするような血の香りが充満していく。

 

 だが違う、と華琳は息を呑んだ。 

 この少女だけではない。老人も蜥蜴のような雰囲気の青年も、この三人は明らかに常人が持つ雰囲気を超越している。

 外見からは、少女は武官であり男二人は文官だと推測された。周囲の人間を圧する気配を放つ少女はともかくとして、文官である筈の老人と青年が纏う気配も尋常ではない。あの華琳をして、瞠目させるほどに。文官であるはずが、その圧力は下手をしたら将軍級のそれに匹敵している。それを証明するように、華琳含むこの場にいる者達の目には本来の三人より一回りどころか二回りは大きく見えた。

 

「田豊さんに張郃さんまで。心配をかけてしまったみたいですわね」

「……出来れば軽はずみな行動は控えて頂きたいものです」

「うちは別にいいっすけどねー。沮授の爺さんの寿命が縮まるかもしれないっすから気をつけて欲しいっすよ、紹嬢様」

 

 気難しそうな田豊とは正反対の張郃は眠たげに答える。

 その二人の諫言に、嫌な顔一つ見せずに麗羽は鷹揚に頷くと、その場から踵を返す。

 

「それでは、今回の返事は次回会った時に聞かせていただきますわ。またお会いしましょう、李信さん」

 

 場末の食事処とは思えない、花薫る匂いを残して麗羽はシンと静まり返った店内から外へと出て行った。

 沮授と田豊は、外に出る前にちらりっと李信へと視線を送るものの何も言わず主に付き従って行く。張郃は、にへらっと笑顔を見せると手を振った後、他の二人と同様に麗羽の後を追った。

  

 四人の姿が消えてからも、店内の空気は未だ冷たい状態が続いていた。

 それが溶けるまでに要した時間は、数分も必要とした。非日常の出来事が終わりを告げたことに、確信を持てなかった彼らだが店内の空気が普段と同じようになると、ようやく安堵の溜息を漏らしそれぞれの会話に戻っていく。

 

 

「……噂とは随分と違った人物だな」

「そうね―――いえ、そうですね。麗羽の噂は色々と聞いていますが、どれもこれも的外れかと」

「ああっと、普通の言葉遣いで構わんぜ。丁寧な言葉遣いってのは苦手でな」

「……宜しいので?」

「ああ。俺としてもそっちの方が話しやすくて助かるしな」

「有難う、助かるわ。遠慮なくそうさせて貰うから」

 

 張郃の気配に当てられた華琳の緊張が解けるまで待っていた李信が、気軽にそう話しかけた。突然だったためだろうか、思わず素となった華琳に苦笑した李信の対応に、ようやく本来の自分を取り戻したのか嘆息を一つ。

 

「化け物っていうのは探せば意外といるものなのね」

「それには同感だな。あれは相当にできるっつーか、やばい」

「あの李信殿にそこまで言わせるほど? 参ったわね……麗羽のやつどれだけ隠し玉をもっているのよ」

 

 カリっと右手の親指の爪を無意識の内に噛んだ華琳の内心は複雑である。

 学友であり、将来的には敵となると見据えている相手の手の内を今のうちに見ることが出来たのは幸運だが、その手札があまりにも凶悪すぎた。或いは、麗羽なりの挑発なのかもしれない、と華琳はそう感じた。

 

「袁本初が袁家の後を継げば衰退するのは間違いない。宮中で噂されているが、どこの馬鹿だ、それを流したのは」

「さぁ? 確かに麗羽の行動だけを見ていればそう判断されるかもしれないわね」

 

 あの高飛車で驕り高ぶった態度を常に取っていれば、甘く浅く見られるのは当然だ。ましてや華琳や張譲のように、人を圧する覇王としての風格を備えているわけではない。

 彼女はあくまでも人としての範疇に止まっている。だが、多くの者が勘違いしているが彼女にはそれで十分なのだ。

 

「かもしれないな。だが、袁本初もまた王の器だ」

「それは認めるしかないわね」

 

 華琳のような覇王足る器を持っているわけではない。

 袁紹本初は、言ってしまえば空の器。本人自身は多少優れた能力しか持ってはいない。だが、その器は果てしなく大きく深い。それを満たすのは本人でなくても良いのだ。数多の配下の者達によって、その器は満たされていく。そして、幾らその器に入れようとも溢れかえることはない。即ち彼女は覇王の器ではなく―――人に戴かれる王。覇道ではなく、王道を行く王。

 

「広大で肥沃な土地。莫大な資産。王の器に優れた人材……大丈夫か、袁家」

「その気になれば国を盗れるかもしれないわね」

 

 くすりっと微笑とともに不敬にも程がある発言を零す華琳をたしなめる気持ちは李信にはなかった。

 なぜならば、彼もまた同じようなことを考えていたからである。今はまだ弱まったとはいえ漢の王朝の威光も強く、大丈夫のはずだ。だが、これから先どうなるか予想できない。

 万が一、袁家が謀反を考えたらどうなるか。果たして止めることが可能な勢力があるだろうか。

 少なくとも現時点では存在しない。そこまでの私兵と資金力を彼らは擁している。

 

 人によっては対抗馬として、涼州の馬騰や江東の孫堅をあげるものもいるかもしれない。

 だが、そのどちらともが中原より遠く、しかも勢力的に見ても圧倒的に袁家よりも下である。個々としての能力は勝るかもしれないが、兵数自体が違いすぎる。桁が違うといっても良い。確かに武将の質も重要だが、戦争とは数が基本となる。相当な運に恵まれ優れた武将が率いれば千の兵で一万の軍に勝てるかもしれない。だが、十万の大軍勢に勝てるであろうか。それが二十万になったらどうか。如何に策を練ろうが質の良い兵士を揃えようが、勝てる訳がない。

 

 しかも袁家はこれよりさらに躍進を遂げるであろう。

 近い将来、袁家は一つの国となると断言しても構わないだろう。

 少なくとも華琳はそう予想をしていた。いや、それはもはや確信である。

 そして、自分が覇を唱えるためには、その袁家を滅ぼさなくてはならない。

 ぶるりっと、華琳は己の確信に背筋を振るわせた。一体それはどれだけ困難なことか。

 

 今の彼女には何も無い。

 自分の手足となる武官も文官も。尖兵となる兵士も。土地も無ければ守るべき民も居ない。

 まさしく無位無官の小さな覇王。

 

「―――それでこそ、私の全てを賭ける価値がある」

 

 少女とは思えない烈々たる笑みを浮かべた華琳は、静かにそう呟く。

 誰にも聞かれることの無い小さな宣言は空気に溶ける前に李信の耳に届き―――彼は少しだけ眩しそうに華琳を見つめるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




基本的に真恋姫無双(萌)以外に出てきたキャラはオリジナルで登場してます。
趙忠とかおじいちゃんになってますしね、この話ですと。
李信もすでにオリキャラ化していますが、もういっそのことそんな感じで読んでいただいたほうがよさ気な感じです。

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