真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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恋姫飛翔の章
蛇足之6:大斧と神槍


 

 

 

 

 狂っている(・・・・・)

 目の前で行われている容赦のない虐殺を見て、少女は失望の溜息をつく。黄巾の乱と呼ばれた未曾有の反乱は、首魁三人を討ち果たしたとはいえそれで終結するような簡単なものではなかった。各地に散り散りとなった残党は、小規模な反乱を繰り返しており、盗賊行為や山賊行為などにも志がない者達の多くが手を染めている状況となっていた。それらを平定するために漢王朝や地方の貴族豪族が兵を出している状態が続いていて、彼女もまた討伐隊の一員として従軍している一人であった。

 

 目の前の惨劇は黄巾の残党を匿っていた村である。確かに反乱を犯した者を匿うのは罰せられる行為となるに違いないが、もう少しやりようがあるのではないか。そう思った彼女ではあるが、口に出すことはできなかった。

 

 小柄な少女であった。こんな絶望の現場には到底相応しくはない幼い容姿の彼女は、ただ両の拳を強く握り締めることしか出来なかった。淡い薄紫の髪を左頭頂部で結んだ、精々が十四、五の年齢にしか見えない少女。露出の多い服に髑髏の髪飾り―――そして彼女の傍らの地面に突き刺してある少女よりもなお巨大で禍々しい形の戦斧が見る者に相反する印象を与えてくる。

 

 淡々と村人を殺しまわっているのは、山賊や盗賊といった類の人間ではない。彼らはれっきとした漢王朝の正規兵。そして命令を出しているのは彼女の上司でもある車騎将軍楊奉。ただの騎都尉でしかない彼女にこの状況を止める手段も方法もありはしなかった。

 黄巾の乱で多大な戦果をあげたものもいれば、虚しい結果となった者もいる。楊奉もまたたいした戦功をあげることができず、残党狩りで少しでも結果を残さねばならない。そういった考えから楊奉の残党狩りは一際厳しいものとなっている―――のであれば、どれほどよかったことか。彼らはただ漢王朝のために黄巾賊の残党を狩りつくそうとしているだけだ。その過程で例え民がどれだけ傷つこうが、死のうが構わない。少女が狂っていると称したのも間違いではなく、そんな歪んだ忠義が彼らを動かしている。

 

「何をしている、徐晃よ」

 

 汚泥に塗れた耳障りな声が少女―――徐晃の耳に届く。振り向いた先にはまだ若く見える甲冑姿の女性がいた。いや、若いと言うよりは幼いといった表現の方が相応しい、徐晃よりも僅かに年上の少女らしき人物だ。すらりとした肢体に腰まで伸びる長く滑らかな浅葱色の髪。大きな瞳が無感情に赤く輝いている。彼女こそが、徐晃の上司でもある車騎将軍楊奉。流石は長い間将軍位についている才女だけあり、放つ気配はそこらの兵とは一線を画すものがある。いや、見掛けどおりの年齢ではありえない貫禄と雰囲気を纏っている。

 そして形ばかりの拝手とともに軽く頭を下げる徐晃を見る楊奉の目には温かみというものが一切なかった。氷点下に達する視線に射抜かれながらも徐晃は年齢とは不相応な冷静さを持ってその場に佇む。将軍位の重圧を受けながら気圧されることもなく顔色一つ変えない少女もまた、並々ならぬ人物である証左となるであろう。

 

「私は何をしているか、と聞いたぞ」

 

 何故目の前で行われている征伐に参加しない。そういった意味合いのこもった再度掛けられる問いに、徐晃はやはり沈黙を保つ。それが彼女の無言の抗議であることを、楊奉は気づいていた。自分の圧に微塵も怖れる様子を見せない徐晃に、舌打ちを一つ。ここまでの無礼を上司に働くなど厳罰ものであろうが、外見とは真逆で出鱈目な戦力を誇る彼女は非常に使える。そのためならば多少の無礼は目に瞑っても致し方なし、と無理矢理に自分を納得させると徐晃に背を向けて去っていく。

 

 それを見送った徐晃は、どこか憂いを帯びた視線を空へと向けた。彼女には志があった。漢王朝のために命を投げ出す覚悟すらあった。だが、実際に配属された楊奉の下で経験したのは、そんな彼女を失望させるに十分な非道無道。彼らには彼らなりの忠義があるのだろうが、自分とは決して交わらないそれに、今回の遠征にてもはや未練は完全に断ち切れた。

 

 徐晃には憧れている男がいた。現在こそ人の領域外に居座っている彼女ではあるが、数年前まではただの一般人と変わらない存在だった。劉弁の手が入る前の漢王朝は汚職にあふれ、市民の暮らしも楽には行かない者も多かった。徐晃がすんでいた司隷河東郡の陽県にある村も酷いものだった。唯でさえ貧しかった村は流行り病によって父も母も、親戚も村にすむほぼ全ての人間が命を落とした。辛うじて生き残った彼女も後は死を待つだけ。そんな状態だった徐晃は北方へと向かう際に偶々道を逸れて立ち寄ったある部隊に命を救われた。それは偶々だったのかもしれない。だが、彼女はそれに天命を感じた。

 生き残った自分はこの人のために命を使うべきだと。だが、ただの幼い村娘の彼女が北方を主戦場とするその男の役に立てる訳がない。その時から徐晃の全てが始まった。寝食を惜しんで日々鍛錬の日々。時には実践を積む為に民の生活を脅かす山賊の討伐も行った。彼女には才があった。あらゆる人間を後方へと置き去りにする絶対の戦いの天稟が。天に寵愛された至高の才覚。それら全てを研磨することに時間を費やし、僅か数年で徐晃は憧れの男と肩を並べて戦えるだけの世界へ踏み込んでいた。そして漢王朝の門を叩き武官として勤めることになったが現実はそこまで甘くない。自身の願いとは裏腹に、徐晃は楊奉将軍のもとへと配属されることとなった。

 

 空を見上げる彼女の視線の先には、一羽の鳥が羽ばたき北方へと飛び去っていく光景があり、何故かそれを見た瞬間徐晃の心がふっと軽くなったのを自覚した。そうだ。もう我慢する必要はない。この任務を最後に旅に出よう。鳥のように、自由に。自分の意志で行こう、北へ。

 

 そんな気持ちを抱き、遥か彼方へと消え去った鳥の姿を見ていた徐晃であったが―――不意に何度も瞬きし、目を擦る。パチパチと何度も繰り返す彼女は首を捻った。何故そんなことをしたのか。それは見えたからだ。空の彼方に、鳥ではなく龍の姿が(・・・・)。だが、それは一瞬だ。空に浮かんでいた巨大な龍は、気がつけば消えており残されたのは雲一つない蒼天。疲れからくる幻視なのかも……と結論付けた徐晃は、せめて助けることができる民だけは助けようと、惨劇の繰り広げられる目の前の村へと足を進めるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李信に率いられた―――漢王朝李信軍は歴史上類を見ないほどの精強な軍であったと言い伝えられている。その屋台骨を支えたのは四傑と呼ばれる軍師。そして、一龍五虎将(・・・・・)と褒め称えられる一騎当千の武将達。そのうちの一人。姓は徐。名は晃。字は公明―――真名は香風。遥か未来まで名を残す虎子が自分の天命と出会うのはもう間もなくであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「ふぅ……」

 

 畑を耕していた男が、一息つくように大きく伸びをしながら滴り落ちる汗を手の甲で拭った。空を見上げれば太陽が惜しみなく眩い光を大地へと降り注がせている。為れない農作業による疲労は随分と自分の体力を削っているようで、体中が悲鳴をあげている状態でもあった。今まで気にも留めていなかった農民達の苦労が身に染みてわかるとはこういうことを言うのだろう。

 

「韓暹さーん!!」

 

 しばしの休憩をと、近くの切り株に腰を下ろした男の名を呼ぶ声が聞こえ―――韓暹は村の方角から手を振りながら駆け寄ってくる少女に自然と視線を向ける。ニコニコと、敵意など微塵も見せない、汚れを知らない純白という言葉が似合う少女であった。粗末な服を着てはいるが、それでも素朴で可愛らしい彼女は、韓暹と親子ほどに歳の差が見受けられる。もっとも韓暹は結婚をしてはおらず、子供などいはしないのだが。

 

 そんな年下の彼女に、実のところ頭が上がらない韓暹であった。理由は簡単で、つい最近この村の近くで行き倒れていた彼を救ったのが、少女だったからだ。この御時勢、縁もゆかりもない道端で倒れている怪しい男を何のためらいもなく助ける人間は少ないだろう。警戒心をもって当然なのに、少女は損得抜きで韓暹を村へと連れ帰り、世話をしてくれた。そんな訳で、傷が癒えてから恩返しの意味も含めて農作業を手伝うことにしたのだが、何分初めてのことばかり。逆に多くの村人に迷惑をかけながらも、ようやく慣れ始めてきたところでもあった。

 

「お仕事お疲れ様です。これ、よかったら食べて下さい」

「ああ。いつもすまねぇな……お、こいつは美味そうだ」

 

 笑顔のまま差し出された竹包みを開いてみれば、中には握り飯が幾つか入っている。丁度良い休憩になるかとそれを頬張れば程よい塩味が効いた肉体労働後には絶妙に身体に染み渡る味付けに、反射的に零れ落ちる美味いという言葉。若干不安そうだった表情が、再度笑顔へと変わると少女は手を振って村へと戻っていった。それを見送った韓暹は竹筒に入った水を一口飲むと、畑仕事の続きをするために切り株から腰を上げて―――その動きがピタリと止まる。村へと戻っていった少女と入れ替わるように、一人の女性が韓暹の方へとゆっくりと歩んできたからだ。

 

 まるで蒼天のような美しくも長い髪。切れ長の目に細い眉。宝石を思わせる紫に輝く瞳に、染み一つない白い服。手に持つは、韓暹がこれまで一度として見たことがない長大の槍。歩む姿に乱れはなく、人の目を惹き付ける引力を放つ、立てば芍薬歩けば牡丹歩く姿は百合の花。そんな表現が似つかわしい美しい女性であった。こんな田舎町は愚か、都会であったとしてもこの女性に匹敵する美貌を持つ者を見つけることは出来ないだろう。少なくとも韓暹がこれまで生きてきた中で一、二を争う美人であることに間違いはなかった。自然と彼女の歩く姿に目を奪われていた韓暹だったが―――突如としてその姿が消失する。馬鹿な、と呆けたように口を開いて周囲を見渡す。瞬きすらしていなかったというのにまるで蜃気楼が如く女性を見失ったのだ。

 

「私をお探しか」

 

 ヒヤリっと身体中の汗が一瞬で冷たくなる悪寒と美声が背後から耳朶を打った。自身の真後ろから散じられる透明かつ零度の気配に呼吸すらまともに出来ない恐怖を感じる。この圧力はそう、戦場で幾人か出会った事がある規格外の怪物達と同格の存在。そんな化生染みた女がこちらの生殺与奪を握っていることに、自然と頬が引き攣っていく。

 

「何、だ……お前は、一体」

「私か? 私は先日よりこちらの村にお世話になっている者だ」

 

 連れ二人と一緒に、と。美しき武芸者は、ふっと笑みを浮かべる。そういえば昨夜少女との食事の折に、旅の者達が三人ほど訪れていると聞いた記憶がある。その連中の一人なのであろうか。それを思い出しながら、自分の声が擦れているのは間違いなく恐怖からくるものであることが信じられない気持ちで一杯であった。韓暹は、こう見えてもそれなりの戦場を経験してきた自負がある。そこらの盗賊山賊、自称腕がたつ程度の連中ならば一捻りで倒すことができる自信があった。それが木っ端に打ち砕かれるほどの圧倒的な実力差。ただ背後を取られただけで分かる、歴然とした格の違い。だが、何故彼女はこのような対応を取っているのか。生憎と心当たりは―――。

 

「まだ二、三日程度の滞在ではあるが、この村の者達は実に気持ちが良い者達ばかりだ。うむ……だからこそお主に忠告しておきたいことがある」

「……忠告?」

「お主はすぐにでもこの村から立ち去ったほうが良い」

 

 平然と言ってくる女性に、恐怖を上回る怒りが湧き上がってくる。何故、ただの旅の途中で寄った何の関係もないお前にそんなことを言われなければならないのか。震える声で、彼女に対しての反乱の言葉を紡ごうとしたそれより速く。

 

「急がねば、この村が破滅するぞ……なぁ、黄巾賊の者よ(・・・・・・)

 

 決定的なその台詞に、一瞬で韓暹の怒りは沈静化する。先程まで感じていた恐怖を越える怖気がヒタヒタと彼の背筋を駆け上って行った。

 

「な、なんのことだ……」

 

 なんとか否定しようにも、震える声を誤魔化すことが出来なかった。それが事実であったからだ。彼は元々、二人の弟分と一緒に盗賊業に実を窶していた。だが、ある日偶々見た―――黄巾の乱の発端となった張三姉妹の芸を見て感動し、古参の追っかけとして過ごしてきた過去がある。彼女達の為にと、黄巾の乱にも参加し……反乱に失敗した彼は弟分二人と散り散りになり、つい先日ついにこの村の近くで行き倒れとなったのだ。黄巾賊として参加したことは村の人間に話してはいないというのに何故ばれたのか。

 

 戦々恐々とする韓暹であったが、女性からして見れば、推測することは容易い事であった。韓暹が行き倒れていたということは村の人間との雑談の中で聞けたことであり、一人で旅に出る者など珍しく、逆に一人で旅に慣れている者ならば行き倒れるなどそうそうないだろう。身分の高い世間知らずという可能性もあるが、どう見ても韓暹はそういった類の人間ではない。ならばこの時機に行き倒れるなど高確率で黄巾の乱に関係した人間となるはずだ。可能性があるとすれば、官軍の逃亡兵か、義勇兵、そして黄巾賊。逃亡兵、義勇兵ならばこんな寒村に残らずにとっとと故郷へと戻ればいいはず。ならば消去法で残されるのは黄巾の乱に参加した逆賊のみだ。まぁ、もっとも女性からして見れば、韓暹の顔つきがどう見ても悪人顔っぽく見えたという見も蓋もない答えなのだが。結果論的には実に大当たりであった。

 

「この村に引き篭もっているお主は知らぬことかもしれんが、近頃この周辺で官軍が黄巾賊の残党狩りを行っている」

 

 ギュっと心臓を鷲掴みにされたような衝撃が身を包む。

 

「しかも、だ。黄巾の者を匿っていた村人は当然として、その村ごと逆賊として処罰された、との噂も聞いている」

「は、はぁっ!? なんだ、そりゃ!?」

 

 女性の言葉に、感じていた恐怖も忘れて大声を上げる韓暹。それも無理の無い話だ。確かに罪人を庇った者に処罰が下るのは仕方のない話かもしれない。だが、関係のない村人までその罪科が及ぶのは流石に無茶苦茶ではなかろうか。

 

「確かに、道理が通らぬ話ではある。だが、相手は車騎将軍楊奉―――ただの民が逆らえる相手ではない」

 

 楊奉。その名を聞いたことはある。狂信的なまでの漢王朝への忠信故に、如何なる苛烈な手段方法でも逆賊への罰を執行する最悪の将軍だ。そんな相手がこの近くに来ているのか、と韓暹は口内が自然と緊張からか乾いていくのを実感していた。

 

「この村の者達は皆気持ちが良い者ばかりだ。私のような旅の者にもよくしてくれる。故に、お主にはいらぬ忠告をさせてもらった」

 

 どのような選択をえらぶかはお主の自由だ。そう言い残し、女性は韓暹の肩をポンと叩くとこの場を後にする。歩く後姿すらも美しい彼女が遠ざかっていくのを黙って見送っていた韓暹だったが、どこか決意を決めた眼差しで空を見上げるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「明日には旅立つなんて急すぎじゃないですか韓暹さん!!」

「すまない、黄春」

 

 決心した韓暹の行動は迅速であった。謎の女性からの忠告を受けた彼は、その日の夜に村長の下へと訪れると翌日には旅立つ旨を告げる。それに難色を示したのが村長の孫娘の黄春であった。黄巾の乱にて父親を亡くした彼女にとって韓暹に亡き父の面影を抱いていたのかもしれない。

 

「この村には、お前には世話になった。だからよ、俺のせいでお前達に迷惑をかけるわけにはいかないんだ」

「迷惑だなんて……そんな」

「……隠していたが俺は黄巾の乱に参加していた。漢王朝に反乱をおこした逆賊ってわけだ」

「―――っ!?」

 

 黄春へと、韓暹は罵倒されることを覚悟して自分が黄巾の生き残りであるということを告げる。父親を亡くした原因の一因は自分にもある、と。それに二の句が継げなくなる黄春に頭を下げると韓暹は村長の家を出たその時、彼の行く手を阻むか弱い力が加わる。何かと思えば涙を堪えた黄春が彼の手を引っ張っていた。

 

「黄春……放してくれよ」

「……」

「この近くに来ている官軍の連中は本当に危ない奴らなんだ。俺がここにいたら最悪の事態になっちまうかもしれねぇ」

 

 だからわかってくれ。何度も説得を試みる韓暹に対して黄春は無言で首を横に振って答えとする。確かに黄巾の者達は父がなくなる原因であるが、それでもすべてが憎いというわけではない。それに韓暹には父の面影を見ている彼女にとって、どんな判断を下せばよいか自分の心もわからない。だが、そんな黄春も覚悟を決めて自分の本心を口に出そうとした時―――扉を叩く音が聞こえた。誰かの来訪かと思う間もなく室内の人間の許可も得ずに扉が開く。外にいたのは村人の男性。そして、彼の後ろには数人の兵の姿があった。

 

「す、すまない……春ちゃん、長。この人たちに喋っちまった」

 

 震える声で謝罪を告げる男と冷たい眼差しで室内の三人を順に見やる兵士達。ぞっとするほどに彼らの眼差しには人を見る温度が見つけられない。

 

「既にお前が黄巾賊の一味であることは調べがついている。大人しく縄につけ」

 

 抑揚のない口調で告げてくる兵士に、韓暹は背筋を這う嫌な予感が止まらない。今まで見てきた官軍の兵士とは異なる雰囲気と気配。しかも恐らくは末端の兵だというのに感じる力量は自分と同等以上。そして感じる自分達に対して、いや―――漢王朝に反する者への容赦の欠片も無い敵意。そのことを悟った韓暹の動きは素早かった。自分の腕を掴んでいる黄春を振り払うと彼女を背後から抱きすくめ、隠し持っていた短剣を首に当てる。

 

「韓、暹さん!? な、なにを!?」

「うるせぇ!! 黙れ!!」

 

 大声で怒鳴り散らすと兵士達に短剣を見せびらかすようにして黄春の頬をペチペチと軽く叩く。

 

「こいつの命が惜しければとっととどきやがれ!! くそ……誰にも話してないってのに何故俺のことがばれやがった!!」

 

 知らなかったとはいえ黄巾賊を匿っていたと知られれば間違いなく長と黄春は罰せられるであろう。だが韓暹が逆賊であることを知らなかった体にすれば罪も軽く出来るかもしれない。このわずかな時間で判断を下した韓暹であったが、現れた兵士達は官軍でも最悪の部類に入る者達だった。

 

「女は?」

「賊を始末する過程での犠牲は問わないとの将軍からのお達しだ」

「はっ」

 

 簡潔に言葉を交し合う兵士の姿と話の内容に頬を引き攣らせる韓暹は、剣を引き抜いた兵士達とは逆の位置へと黄春を突き飛ばす。短い悲鳴をあげて転がった彼女が見たのは、即座に兵士達へと体当たりをしかけて屋外へと逃亡を図る韓暹の姿だった。だが、外へと出た彼を待っていたのは数え切れない兵の姿。誰も彼もが韓暹に僅かに劣るか同等。戦士としても一級品の腕前の持ち主ばかりだ。止まらぬ冷や汗を隠しきれない韓暹だったが、突如として人垣が割れて道が出来た。そこを歩いてやってきたのは豪奢な鎧を着た吹雪が如く冷たい雰囲気を身に纏う―――車騎将軍楊奉。

 

「ふん。情報通りいたか、薄汚い黄巾賊の生き残りが。そいつの名は?」

「はっ……韓暹という名だそうです」

「韓暹? 確か黄巾指導者の親衛隊にそんな名前の奴がいたと記憶しているが」

「他の残党からの情報から考慮するに同一人物かと」

「これはいい。随分と大物が網にかかったようだ」

 

 くはっと嫌な笑みを浮かべて笑う楊奉に、それを見ながらも韓暹は身動きが取れなかった。噂に聞くよりも若いが、強い。感じる将軍としての圧力に息を呑む。ろくでもない噂しか聞いていないが、この若さで将軍位にいるのも理解できる存在感を発している。さらには彼女の周囲を囲っている側近の者達は明らかに韓暹よりも上手の者ばかりだ。

 

「韓暹さん!!」

 

 まずい、まずいと混乱の極みに達している韓暹を追って外へと出てきた黄春の姿を一瞥した楊奉が隣の副官へと目線で問い掛ける。あの娘は何だ、と。

 

「逆賊を匿っていた家の者かと」

「そうか。ならば始末しても構わん」

「はっ」

 

 平然と言い切った楊奉の言に従って、傍にいた兵士の一人が黄春へと何の躊躇いもなく斬りかかる。同時に自分へと迫りくる兵士の剣撃を短剣で受け止め蹴り飛ばすものの、少女への魔手を阻止せんと韓暹が動くには遅く、遂に何が起こっているのかわかっていない黄春へ剣が振り下ろされた。

 

 が―――何かが拉げる破壊音がこの場に響き渡る。血飛沫を撒き散らしながら吹き飛ばされる兵士。黄春へと斬りかかった筈の兵士が顔面を強打され周囲を囲っている兵士への位置へと叩き戻された。何事かと思えば、黄春の背後にて、得意げに笑みを浮かべ槍を手に持つ蒼髪の佳人の姿があることに皆が気づく。今の今まで誰もいなかったはずのそこに何時の間に現れたのか。敵か味方か不明だが、此方の兵士を血祭りにあげたのは間違いなくこの女性だ。ならばと警戒心を露にする官軍兵士の姿を見ながら、蹲っている黄春の手を取って立たせると、未だ心ここにあらずといった彼女を家の中へと誘導する。

 

「す、すまねぇ……嬢ちゃん。あいつを助けてくれて」

「なに。このような無体見過ごす訳にもいくまい」

 

 お主一人だったならば遠慮なく見捨てたが。と笑う女性に韓暹は頬を引き攣らせるが、それも仕方ない話かと自分を納得させる。なにはどうあれこの前の黄巾の乱に参加した身。逆賊として罰せられるのは当然のことだ。

 

「……何者だ、女」

「ふっ。罪もない少女を手にかけようとする外道の貴様らに名乗る名などあると思うか」

「ふざけた奴だ」

 

 本気か冗談かわからない蒼髪の女性の返答を聞いた楊奉は、鼻で笑いなが言葉を続ける。

 

「まぁ、いい。我らに逆らうというのならお前も逆賊に違いない。構わん、殺せ」

 

 だが、楊奉の言葉と同時に旋風が巻き起こった。この場にいる者誰一人として女性の動きを見切れた者はおらず、彼女の前方の地面に線が引かれており槍を片手に持ちながら数百の敵兵を前にして余裕の笑みを崩すことはない。

 

「その線より此方にくるということは、私と敵対することを意味する。もしも命が惜しければ、そのまま引き下がることをお勧めしよう」

 

 平然と言い切る佳人の姿に躊躇は一瞬だ。兵士達が各々の武器を手に線を踏み越えた瞬間―――蒼い光が疾った。瞬きする間に喉を、胸を、顔面を貫かれ地に伏する兵士達。それを為したであろう女性は、槍を構えたまま元の位置から動いていないようにも見えた。いや、単純にあまりにも速過ぎたが故にそう見えてしまっただけのこと。信じられないことだが、目の前で起こったのは紛れもない事実。 

 

「……あれも怪物の類か。ならば怪物には怪物をぶつければよい」

 

 焦燥を微塵も見せずに楊奉が叫んだ。徐晃(・・)と。

 割れる。割れていく。兵士達の軍勢が、その少女の歩みによって左右に開かれる。将軍の命に従って、ぽっかりと開いた空間を来るは巨大な戦斧を肩に担いだ徐晃公明。味方の兵士からも怖れの色を向けられる楊奉軍に所属する怪物が姿を現した。パチリっと弾けるのは女性と徐晃の放つ戦意であり、両者ともが互いの尋常ならざる力量を瞬時に悟る。

 

「シャン……ん。私は……姓は徐。名は晃。字は公明。貴女は?」

「貴殿には名乗らねばならないか。我が姓は趙。名は雲。字は―――子龍。これなる愛槍は龍牙という」

 

 趙雲子龍と名乗った槍使いの名を、徐晃は一人繰り返す。その名はどこかで聞いたことがある。だが、官軍の一員というわけではないはずだ。王朝に仕える人間全てを知っている訳ではないが、趙雲程の力量の持ち主が噂にならないはずがない。

 

「……趙子龍殿。ここは引いて貰えない?」

「ふふっ。その問いの答えはわかっているのではないですかな? これで引けるようなら最初からこの場に立とうとは思いませんぞ、徐公明殿」

「……うん。そうだね」

 

 轟、と物騒な音が鳴り響く。徐晃が片手で戦斧を振り回した結果巻き起こされた旋風が、周囲にいた官軍兵士を強かに打ち据える。ただの豪腕というわけではない。音を立てて少女の幼い肉体から飛散する冷たくも透明な重圧。それらが周囲全ての人間を地面へと押さえつけようと降り注ぐ。全身に鳥肌が立ったことを自覚した趙雲は、眼前に聳え立つ徐晃という名の強敵に胸中にて感謝の念を送る。まさかこれほどの使い手が楊奉軍にいるとは考えてもいなかったからだ。勝敗がどちらに転ぶかわからない相手との戦いは久方ぶりで、血が沸き肉が踊るとはこのことだ。

 

「さぁ、やれ。徐晃よ。漢王朝の力と言うものを見せ付けてやれ」

「……お断りします」

 

 楊奉の宣言をあっさりと拒絶すると、今まで向かい合っていた趙雲へと背を向けて―――楊奉と彼の配下達へと戦斧を突きつけた。まさかの裏切りに絶句する全ての兵士と、将軍楊奉。だが、流石と言うべきか楊奉はすぐさま我を取り戻すと忌々しげに此方に武器を向けている徐晃へと疑問をぶつけた。

 

「……徐晃。貴様何をしているのかわかっているのか?」

「はい。勿論です」

「ならば、何故だ。何故反旗を翻す?」

「……これまでの行為を思い返して下さい、将軍」

 

 きっとそれでもわからないのでしょうが。それこそが理由です。

 徐晃の台詞に、彼女の予想通り思い当たるふしがないのだろう。何故ならば彼女が為してきたことを彼女自身が正義によるものだと確信しているからだ。幾つもの村を焼き、村人を殺してきたことへの一切の後ろめたさも持っていない。漢王朝への歪んだ狂信。楊奉と徐晃の漢王朝への忠義は決して交わらない平行線なのだ。

 

「そうか……もう良い。徐公明……貴様も反逆者として誅殺する。未来永劫、逆賊としてその名を刻め」

 

 完全に逆賊として認識された徐晃であったが、不思議と後悔はない。いや、もっと早くこうしていればよかったという気持ちすら湧いてくる。

 

「なんともはや……宜しいのですかな?」

「……うん」

「ふふっ。変わった御方だ。だが、肩を並べて戦うのに貴殿程頼りになる相手もそうはないでしょうな」

 

 感謝いたしますぞ、と礼を告げる趙雲であったが、それに首を横に振るのは徐晃だ。趙雲が楊奉の非道に立ち向かう姿を見たからこそ徐晃も覚悟を決めることが出来たのだから。彼女の覚悟など知ったことかと幾人かの兵士が瞬時に突撃を敢行した。複数人による攻勢を巨大な戦斧の僅か一振り、右払いで纏めて薙ぎ倒す。胴体を真っ二つにする脅威の豪腕に、後続の動きがピタリと止まった。

 

 両者ともにそれぞれの武器を構えて敵兵を睨みつける。この場にいる兵士は雑兵とはいえ数百を越えており、如何に人間離れをした二人であっても苦戦は免れない。或いは数百ならば二人が協力すれば何とかなるかもしれないが、村の外にいる兵士達もあわせればその数は軽く千を超える。官軍の正規兵、しかも精兵と噂される楊奉軍相手では実際のところなかなかに厳しいというのが本音であった。それを考慮すれば楊奉を狙った速攻の電撃作戦を取るのがもっとも勝率の高くなる戦法ではないか。だが、相手も然る者。自分が狙われると悟ったのか、即座に兵士達で自分の周囲に囲いを作る。

 

「無駄に戦いを挑むな。兵を集合させた後に、物量で押し潰すぞ。わざわざ化け物の土俵で争うことはない」 

 

 最強の配下に裏切られたというのに激昂せずに、作戦を述べる楊奉の姿は冷静沈着に見える。いや、或いは最強の手駒だからこそ、裏切ったときの対策を考えていたのかもしれない。

 

「楊奉様!!」

 

 ある種の均衡状態がここに生まれ、そして然程時間を経ずして村の外から兵士達が集まってきた。どうしたものか、と趙雲が突破口を探そうとするなか、外から来た兵士達の表情に焦りの色が見えるのに徐晃は気づく。自分達などに構っていられない。彼らからはそのような焦燥感を―――いや、違う。あれは恐怖(・・)だ。民を殺すことに躊躇いを持たない楊奉麾下の兵士達が、あそこまで脅えているのは一体どんな理由があるというのか。

 

「……何やってんだ、楊奉将軍」

 

 それは静かな声だった。感情を見せない平坦な男の声にも聞こえたが、怒りを押し殺しているが故の冷たい声なのだと誰しもが理解した。趙雲、徐晃という猛者二人を前にしながら、この場にいた楊奉軍の兵士達は一斉にそちらへと目を向ける。その声にはあらゆる人間を惹き付け、怖れさせるという相反する力があった。徐晃の時とは比較にならない圧力が満ち溢れ、この場から逃げ出すという行為すら忘れさせる真の怪物の到来。

 

「李信……将軍か」

 

 楊奉の搾り出す言葉は小さな声だった。だが、それは周囲の全ての兵士のみならず、趙雲と徐晃の耳にさえ届く。李信の姿を知らぬ者でも、対峙しただけで理解出来る外れ具合。本来の姿よりも遥かに巨大で雄々しく見えるその姿。さらに彼のみならず、華雄と高順の副将二人に加えさらには方天画戟を肩に乗せる呂布の姿まである。彼らの背後には精強な李信軍の兵も付き従い―――いや、一人だけ場違いな小さな少女がいた。李信の影に隠れるようにして歩いてくる三角帽子の少女。徐晃よりもさらに幼い龐統の姿に、一瞬誰しもが幻でも見ているのかと自分の目を疑ってしまう程であった。

 

「俺は何をやってるのか、って聞いたんだけどな」

 

 李信が喋るだけで空気が沸騰したかのように熱せられ、肌を焼く勢いで煮え滾る。灼熱色に周囲一帯を焦がし続ける圧力が、呼吸をすれば肺が焼けたと悲鳴をあげる勘違いを引き起こす。

 

「この村は黄巾の残党を匿っていた。今はそれの対応にあたっているところだ」

 

 平然と言い切る楊奉の言葉に一寸の淀みも詰まりもない。李信の放つ圧力を前にしても迷いなく言い切れるこの女性に、元部下である徐晃は得も言われぬ薄気味悪さを感じた。

 

「ああ、そうだな。それがあんたの役目だろうさ。だがな、六つの村を焼き討ちにしたのはどう考えてもやりすぎだ」

 

 李信の言葉にピクリと楊奉の眉が動く。この男にどこまで把握されているのか警戒心を高めたのか、彼女の纏う雰囲気が徐々に変化していった。  

 

「成程。良く調べている。だが、付け加えさせてもらおうか。その村全てが黄巾の残党を匿っていた。漢王朝に仇なす大罪だ。それを処罰して何が悪い?」

「それがやりすぎだって言ってんだろうが、楊奉」

 

 烈火の怒りが轟々と全てを燃やし尽くす大炎となって李信の肉体から吹き荒れる。匿った村の者だけならいざしらず、その村全ての人間―――それこそ女子供関係なく裁判にかけることもなく皆殺し。そんなことが許されるものか。

 

「やりすぎ? くくく……ははははっ」

 

 李信の威に全ての兵が呑まれる中で、楊奉のみが薄く笑う。何がおかしいのか、最初は我慢していたのか小さな声だったそれが次第に彼女の口から零れ落ちていく。

 

「ははははっ!! はーはっはっはっはっは!!」

 

 やがて楊奉の狂笑は誰もが聞こえるほどに大きく、高らかに村中に響き渡った。どこか李信を馬鹿にしたかのような笑い声に、華雄達の目に剣呑な色が混じっていく。いや、華雄達だけではない。配下の全ての殺意を乗せた視線を一身に受けてそれでも楊奉の嘲笑はとどまるところを知らない。

 

「笑わせてくれる!! なぁ、李信将軍!! お前がっ!! お前がそれを言うか!! どの口で我らにやりすぎだと語るか!!」

 

 ああ、そうだ。我らは六つの村を焼き滅した。それでも全ての村人を合わせたとしても精々が千を超えた程度。たった千人だ。それだけの犠牲で漢王朝に仇なした天下の大逆人どもの生き残りを誅殺できたのだ。だが、我らの行為などお前たちに比べれば可愛いものだろうが。北方の飛将軍李信とそれに付き従う狂信者どもよ。

 

「お前たちが一体どれだけの異民族を滅ぼした!! どれだけの反乱に組みした漢民族を殺した!! どれだけの黄巾賊どもを滅殺した!!」

 

 千か? 万か? 十万か? 

 お前たちに比べれば我らなど可愛いものだ。お前たちこそが誰もが認める英雄だ。人殺しの英雄だ。息を吸うように人を殺し続ける英雄だ。お前たちのような殺戮狂に我らを非難する権利があるとでも思っているのか。

 

 あざ笑う楊奉への答えは三つの破滅的な斬光であった。

 華雄の戦斧が右首筋を。高順の剣が心臓を。呂布の方天画戟が頭頂部めがけて振り下ろされる。相手は同じ官軍。しかも将軍位にあろうと知ったことか。我らを、我らが将軍を侮辱する貴様の行為、万死に値すると知れ。

 

「まぁ……そうだな。単純に奪った命の数ってことに関しては反論の余地はない」 

 

 ピタリっと李信の返答で三人の刃が止まった。薄皮一枚切るか切らないかの位置で静止する三つの干戈。後少しでも何かがあれば彼女達の武器は怒涛の津波となって楊奉の命を飲み込むであろう。

 

「敵も味方もお前の考えている(・・・・・)以上(・・)に俺は殺してきたし、殺されてきた」

 

 それは事実だ。今世のみならず前世も併せれば李信は間違いなく何十回も地獄に堕ちるだけの罪科を重ねてきた。始皇帝の金剛の剣としてあらゆる敵を打ち砕いたと言えば聞こえはよいが、つまるところ戦国七雄と呼ばれる国々を滅ぼしたということだ。その過程において何百万何千万の敵兵を殺し、何万何十万の味方を殺されてきた。秦が各国に戦争を仕掛けていた時代、自国において英雄扱いされていた李信ではあるが、逆に言えば他国からは比例して憎悪されていたということだ。大将軍李信ほど多くの人間に死を望まれていた武将はいない。ありとあらゆる戦場を駆け回り、幾度の敗北を重ねながらも決して死ぬことはなく、最後には戦場に勝利を齎す彼を列国は憎悪と畏怖を込めて何時しか戦狂いの悪鬼と呼ぶようになった。他六国で李信に恨みを持たない者はいないだろう。李信の死は敵対した列国全ての願望であり、夢ですらあった。

 

 そんな李信には、決して譲らぬ最後の意地がある。

 戦場の酸いも甘いも、人の闇も奈落も見続けた彼の最後の一線。無抵抗の一般人は殺さない。甘いと言われようがなんと言われようが、それだけは戦国の世を生きた彼が……いや。戦国の世を生き抜いた彼だからこその矜持。

 

「はっ……ご立派なものだな、李信よ。流石は漢王朝の英雄とそれに従う怪物どもだ。自分の意志でこれほどの殺戮を行うか。だがな……」

 

 強いが故に、足下(・・)を見れんのがお前達だ。

 決して朽ちず曲がらず折れずの不屈の心をもって戦い続ける李信軍。だが、本来人とはそこまで強い生き物ではない。人を殺すということに一体どれほどの苦痛と後悔に苛まされるか。弱い、弱いのだ。人は弱い生き物だ。だからこそ、楊奉は徹底的な漢王朝への忠誠を兵士に叩き込んだ。国への忠誠心を高め抱かせ、人を殺すことへの負の感情全てを国の為と転化させる。

 

「漢王朝のために己を殺して戦う我らの行為!! それを愚弄するか!!」

 

 三つの死が眼前に揺蕩っているなか楊奉は雄叫びを上げる。自分は李信達のように英雄英傑の世界へ到達することは出来ないだろう。だからこそ、自分なりに漢王朝のために戦っている。己の心情を噴出させる楊奉へ向かって歩み寄る李信。それを見た華雄達三人は武器をおさめて李信の背後へと後退する。

 

「漢王朝のため(・・)に? 笑わせるなよ。あんたは自分の行為を国に押し付けているだけだ」

「……なに?」

 

 漢王朝への逆賊を殺す。それは全て国のため。聞こえはよいが、結局のところはそれは自分達が犯した虐殺を漢王朝へとなすりつけているだけだ。一切の責任を負わず、国の為に自分たちは働いているのだと思い込んでいる。意識してやっている分、余程性質が悪い。誰かに、何かに寄りかかるのは悪いことではない。だが、常にその状態では見えるものも見えなくなっていく筈だ。現に民への虐殺に対して一切の疑問を覚えていない。とは言っても李信は楊奉の全てを否定するわけではない。一部は理解できるからだ。李信やそれに付き従う人間のほうが少数派だ。むしろこんな連中が大多数であったならば漢王朝がとっくの昔にどうかなってしまっている。

 

「有無を言わさず逆賊として処罰するな。せめて裁判は受けさせろ。何の為に法があると思ってんだ」

 

 反乱に組した罪は重い。本人のみならず家族親類も下手をしなくても処罰される。匿った人間も当然だ。だが、村一つ滅ぼすのは行き過ぎている。 

 

「承服はできん。漢王朝に対する逆賊を処罰するためならば私は如何なる手段でも方法でもとろう」

 

 今更変われるものか。変わるものか。国を存続させるために国に叛する者全てを殺す。その過程で民がどうなろうが知ったことか。これまでの我らの為してきた全てを否定されるわけにはいかない。

 

 対峙するだけで肌を焼く李信の圧を全身に感じながら一向に引く様子が見られない楊奉だったが―――張り詰めた空気が破裂するのは些細な原因であった。李信達の重圧に耐える楊奉とは異なり、彼女の配下達はそこまでの経験も精神もなく、自分の主を守らんと側近の一人が剣を抜いて李信へと襲い掛かる。相手方の将軍を人質にすれば有利になるといった浅はかな考えの結果だったが、剣を振り下ろしてきた楊奉兵を華雄や兵が動くよりもはやく李信は殴りつける。何かが潰れる音を残して、顔面を強打された兵は地面に叩きつけられながら転がっていく民家の扉を勢いよく打ち破って姿を消した。それが切っ掛けとなって両軍の兵士がそれぞれの武器を手に一触即発の均衡状態を形作るも、それは一瞬だ。

 

 待て―――という両将軍の静止の命令にピタリと両軍兵士が動きを止める。それでも次何かあれば官軍同士の戦争が勃発するのは目に見えて明らか。ピリピリとした空気が充満するここで、この場でもっとも幼い龐統が楊奉の眼前へと歩を進めた。

 

「楊奉将軍。私は龐統。字は士元と申します。若輩者ではありますが李信様の軍師を勤めさせて頂いています」

 

 自分の前にやってきた年端もいかない子供の姿に訝しげに眉を顰める。

 

「率直に申し上げます……ここは引いて頂けないでしょうか」

 

 何を言っているこいつは。冷たい眼差しを送る楊奉に、何時もの慌てふためく様子を全く見せずに逆に堂々とした姿で相対している。

 

「李信様率いる独立遊撃軍。我らにはある一つの権限が与えられているのを御存知でしょうか」

「……権限だと?」

「はい。独立遊撃軍が組織された当時、常に北方の異民族によって漢王朝は侵略の憂き目にあっていました。洛陽より遠く離れた地域。恐ろしい侵攻速度の騎馬民族。彼らに対抗するために我らに与えられた権限それは―――」

 

 戦争の自由(・・・・・)

 刻一刻と変化する情勢戦況に対して李信軍は独自に戦いを展開することを許されている。本来であれば許されるはずのないこの権限。劉弁に寵愛され、張譲を後ろ盾する李信にだからこそ与えられた理外の特権。勿論全ての相手に戦争を吹っ掛けて許されるはずもなく、漢王朝に仇なす相手に限られる。つまるところ、異民族に対してのみ振るわれる権限なのだが―――。

 

「即ち我ら李信軍と争うということは、漢王朝と敵対することを意味します」

 

 ぞっとするほどに冷たく鋭く。龐統士元の言葉は楊奉の心を抉っていく。甘く見ては駄目だ。こんな姿形をしていながらこの少女は怪物達の軍の軍師を勤めているのだから。

 

「黄巾賊の残党を処罰するためとはいえ、六つの村を焼くのは幾ら将軍でも目に余る行為。民は国であり、民こそ国。国を支える無辜の民を虐殺する貴女の行為は、漢王朝に仇なすものと判断して差し支えないかと思われますが、如何ですか?」

「……物はいいようだな。お前のそれは所詮は拡大解釈にしか過ぎない。例えそうであったとしても幾らでも弁明のしようはある」

 

 楊奉の返答に、龐統は本当に不思議な表情でこてんっと首を倒した。

 

「はい。そうです。ですが―――」

 

 貴女に弁明できる機会があると思っているのですか?

 

 トプンと楊奉の足が何かに沈んだ気がした。見渡せば、今の今まで見えていた景色が一変している。亡者たちが楊奉を底なし沼へと引きずり込もうと群がってきた。どこまでも陰惨で凄惨な死屍累々とした地獄絵図。その幻覚を見せてきたのは眼前に佇む幼い少女―――龐統士元。李信を前にして、死を目の前で突きつけられても退かなかった楊奉が、この日初めて一歩後退した。ここからの選択肢間違えればこの光景が現実となるのだと第六感が痛いほどに危険信号を鳴らし続けている。

 

「……我らを、殺すというのか」

「楊奉将軍次第であります」

「……一人も残さず始末できると思っているのか」

「逆にお聞き致します」

 

 出来ないと思っているのですか?

 

 本来であれば官軍同士の争いは御法度だ。故に漢王朝に忠誠を誓う楊奉軍には迷いがある。ここで争って本当にいいのかと。だが、李信軍は違う。彼らが忠誠を誓っているのは李信に対してだ。同じ官軍といえど争うことに微塵の躊躇いもない。それに加えて兵数の違い。楊奉軍はおおよそ千人に対して李信軍は三千。さらに錬度と戦場の経験の多寡の差もある。どう考えても楊奉達に勝ちの目はない。全滅させるのは容易い事だ。そして全滅させてしまえば死人に口なし。楊奉のこれまでの行動を考慮すれば壊滅させたとしても、多少強引にだが漢王朝に叛意があった故の誅殺という形に持っていくことが可能。それなりの処罰を李信といえど受けるかもしれないが、十分にどうにかできる範囲だと龐統は確信を持っていた。

 

「……わかった。お前の提案を飲もう」

 

 全軍退け。楊奉の命令により、村を占拠していた兵士達が撤退を開始する。側近が見せる不満の表情を無視する楊奉は彼らを引き連れ無言のままこの場から立ち去っていく。例え戦ったとしても九割九分九厘の敗北の可能性と、万が一勝ったとしても相手は劉弁と張譲の寵児。どう考えても無事で済む未来が見えない。ようするに対峙した時点で楊奉は詰んでいたのだ。村から離れた楊奉は一度振り返り、見えなくなった李信達を脳裏に描く。

 

「李信将軍か。思っていたような男ではなかったな」

 

 英雄として在ろうとする男ではなかった。血と暴力に狂った男でもなかった。

 

「あいつらは私が思っていた以上に、真っ当に狂っているよ」

 

 常人では一日も精神が持たないであろう地獄のような戦場に住みながら正気のまま狂気の道を行く者。果たしてそれに何時まで耐え切れるのか。いや耐え切れるのだろう、きっと……死ぬその時まで。

 

「……怪物め」

 

 

 

 

 

 

 

 

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「星殿、御無事ですか!!」

「星ちゃん。怪我はないですかー?」

 

 楊奉達が立ち去った後、李信軍の中から女性と少女が姿を現し戦闘体勢を解いた趙雲の下まで小走りで駆け寄ってきた。少女は頭に奇妙な人形を乗せた金髪の少女―――かつて荊州の南陽で李信軍と黄巾賊との争いを眺めていた程昱仲徳である。もう一方の女性は、程昱よりも頭一つ背が高い女性らしい身体つき。やや茶色懸かった黒髪と若干釣りあがった眉と目。どこか厳しそうな雰囲気を持っていた。

 

「ああ。私は大事ないぞ……稟、風」

 

 趙雲―――真名は星。彼女の真名を呼べるということは、気が置けない友であるのだろう。そして、趙雲もまた程昱の真名である風と女性の真名の稟と口にだしたということは、互いの関係性を如実に表していた。

 

「すみません。官軍を連れて来るのに遅くなりまして」

「いや、むしろ十分に速かった。奴らの行動が私たちの考えているよりも余程迅速であっただけだ」

 

 稟の謝罪に趙雲は溜息をついて応えた。申し訳なさそうな表情の彼女を庇うつもりではなく、事実その通りだからだ。趙雲達の見立てでは、楊奉がこの地に来るまでもう二、三日の余裕があったはずだ。それを考えれば程昱と稟の二人が他の官軍に助けを求めに旅立ってから想像以上に早く戻ってきてくれたため、ぎりぎりのところでこの村はすくわれたのだ。

 

「しかし、まさか李信将軍を呼んで来るとは……」

 

 顔には出さずとも驚いている趙雲は、窮地を助けてもらった李信軍をじっと眺める。相手は車騎将軍楊奉故に、生半可な助けでは意味がないことはわかっていたが、まさかすぎる大人物をよくぞ引っ張りだしてこれたものだと、二人の手腕に心底感嘆する。

 

「ええ、まぁ……その。ただの偶然なんですけどね」

 

 事実稟の言葉通り、ここに李信を呼べたのは奇跡的な偶然だ。本当は伝手を頼りに他の清廉潔白な人物に助けを求めに行っていたのだが、途中立ち寄った町にて李信が近場に駐留していることを小耳にはさみ、予定を変更して彼のもとへと参じることとした。実際に会ったことはないが、噂通りの将軍であるならば、きっと自分達の願いも無下にはされないだろうと考えての行動だったが―――彼女達は賭けに勝つことが出来たのだ。

 

「……ところで、星ちゃん。そちらの方は?」

 

 程昱が趙雲の横にいる徐晃の姿に、誰彼と問う。

 

「ああ、此方の方は徐晃殿だ」

「徐晃……? 確か楊奉将軍麾下に名を馳せた徐公明殿という御方がいたと記憶していますが」

「うむ。楊奉とは手を切って私に……いや、この村を守る為に力を貸してくれていた」

「―――なんと」

 

 あの将軍の部下に、そのような義に溢れた武人がいたのかと二人は驚きの声を上げる。

 

「……名乗りが遅れました。シャンは、徐晃。字は公明」

「これは御丁寧に。私は―――戯志才とお呼びください」

「公明様ですね。風は、程昱。字は仲徳と申します」

 

 程昱の名乗りに、稟こと戯志才は一瞬キョトンとして―――頬を引き攣らせた。

 

「風……あ、貴女……」

「なんですか、稟ちゃん。友の窮地を救って頂いたお方に偽名を名乗るのは失礼だと思いましたからねー」

 

 ぐぬぬ、と歯噛みして何か悔しがっている戯志才を、適当に受け流している程昱。二人の様子に、苦笑する趙雲と、意味不明な徐晃。

 

「いやはや、しかしよくあの楊奉相手に言い切ったな。普段のお前とは大違いだな、龐統」

「うん。僕らの威嚇にも表情一つ変えなかったあの婆さん(・・・)をよく引かせたね」

「……うん。凄い」

「あ、あわわ……」

 

 長への説明が一段落ついたのか李信が華雄と高順、呂布、龐統を引き連れて趙雲達の方へと近づいてくる。楊奉相手にあれだけ言い切った龐統は、華雄達に褒められている今のほうが何故か混乱の極みに達していた。

 

「でもさぁ、あいつ面倒臭そうなやつだったよね。サクっとやっちゃうわけにはいかなかった?」

「馬鹿か、高順。相手は車騎将軍だぞ。相当な理由がない限りそのような真似できるわけないだろう」

「……そのわりに華雄が一番早く斧を突きつけていた」

「い、いや……あれは三人ともほぼ同時だっただろう!?」

「うーん。僕の見立てでは呂布の言うとおり華雄が速かったね」

「出鱈目を言うな!!」

 

 思わず大声をあげた華雄は、冷静になるためにも深呼吸をして一度コホンと咳払い。

 

「実際さ、車騎将軍ってどれくらい偉いの?」

「まさかお前……知らないのか」

「いや、だってさ……官位にそんなに興味あるわけじゃないし」

「あろうがなかろうが、そこは勉強しておけ。呂布でもそれくらいは知ってるぞ」

 

 華雄は言ってみた後に、疑問を覚えた。口にだしはしたが本当に知っているのか。知っているよな、といった眼差しを隣の呂布へと向けると―――肝心の彼女は華雄から視線を逸らした。

 

「……凄く偉い。でも李信が一番」

 

 駄目だこいつらは。突如襲ってきた頭痛を抑える為に額に手を当てて深い溜息を漏らす。

 

「ええっと……軍官の頂点が大将軍です。それに次ぐのが驍騎、車騎、衛将軍の三つとなります。つまりは楊奉将軍は文官で例えるなら三公(・・)に匹敵する地位に在る御方です」

「滅茶苦茶偉いじゃん!!」

 

 龐統の説明に想像以上の官位だったのか、高順が思わず声を上げた。そんな相手に武器を突きつけていたとは。斬首の刑に処されても不思議ではないが―――まぁ、元々はあちらが李信を侮辱してきたのが悪いのだから仕方ないとあっさりと高順は肩をすくめ、呂布はそれを聞いてもとくに何の感想もないのか平然としている。

 

「ってことは、もしかしてあの婆さん……李信より偉かったりする?」

「お、お前は……李信の官位すら知らんのか」

「い、いやだってさ!? 僕達がしてたことって異民族の討伐ばかりでしょ!? 官位なんてあっても仕方ないというか、気にしてないというか……」

 

 必死に弁明をする高順に、こいつが副将で本当に大丈夫かと心の底から思う華雄は何度目かの溜息をついて龐統への肩に手を乗せた。説明を頼むという合図に、龐統はこくりっと頷く。

 

「李信様は実のところ正式な官位を戴いている訳ではありません。高順様が仰ったとおり、北の地にて異民族の討伐を行っているという点では度遼将軍に近いのですが……」

 

 それでも車騎将軍よりは格落ちである。官位だけ見れば楊奉の方が李信よりも高い。

 

「この度起きた黄巾の乱。これによって李信様は四方面のうちの一つの指揮官を任されました。これによって一時ではありますが驍騎将軍の官位を漢王朝から拝命されました」

「驍騎将軍? あれ、それってもしかしてさっき言ってたやつ?」

「はい。つまりは楊奉将軍と李信様は現在ほぼ同格であると考えて宜しいかと」

 

 おー凄い。高順が笑いながら李信の背中をバンバンと音が鳴る程強く何度も叩く。それのお返しにと、李信は高順の頭に一度拳骨を落とした。涙目で頭を押さえる高順を無視して、李信は趙雲達の前で足を止めた。 

 

「この度は私たちの願いを聞き届け下さり感謝の言葉もありません」

「深く御礼申し上げます」

「いや。此方こそ俺達官軍の問題に巻き込んで悪かった」

 

 戯志才と程昱の感謝の言葉に、此方の問題であったと逆に謝罪をする李信。

 

「おお。なんとも懐の広い御方ですな。噂に偽りは無しと言う事ですか」

 

 自分の発言で李信の注目を集めた趙雲は、将軍の前であるということも気にせずに薄く笑みを浮かべて見つめ返す。先程まで死線の上にあった彼女から匂い立つ戦場の香り。されど。趙雲子龍は絶佳の如く美しさを兼ね揃えている。

 

「手前は姓は趙。名は雲。字は子龍と申します。以後、お見知りおきを」

「俺は知っているとは思うが李信。字は永政という。それにしてもたいした腕前だ。その名覚えておくぞ、趙子龍。それと……」

 

 趙雲の横にいる徐晃へと視線を移動させる。趙雲とほぼ同格と判別できる少女の姿に、こんな小さな村に華雄達級の武人が二人もいるとは予想だにしていなかった。ふわぁ……と目をぱちぱちと開け閉めを繰り返す徐晃だったが、李信に見られていることに気づき、慌てて拝手の礼をとる。

 

「姓は徐。名は晃。字は公明です。楊奉将軍のもとで騎都尉を努めていました」

「楊奉のもとで?」

 

 ならば何故ここに残っているのか。そんな疑問がありありと顔に出ていたのか、徐晃を庇うように趙雲が彼女の前に立つ。

 

「徐晃殿はこの村の為に楊奉将軍と袂を別ったのです。彼女がいなければこの村は李信将軍が到着するまでに災禍に襲われたことでしょう」

 

 民家の周囲に転がっている幾つもの死体を順に見ながら李信が応える。

 

「この者達を殺めたのは私達ですが……罪に問われることになるのでしょうか?」

「……そこはどうなる龐統?」

「あの……流石にこの場で無罪放免というわけには、いかないです。洛陽で裁判を受けて頂かなければならないかと」

 

 幾ら無体を働こうとしていたとはいえ官軍の兵士をこれだけ殺して無罪放免というのは流石に無理がある。だが、趙雲としてもはいそうですかと素直に裁判を受けにいく気になれはしない。

 

「そこで一つ取引をしませんか?」

「取引……と申されるか」

「はい。私たちとしても、楊奉将軍の行為を上層部に訴えたいと思っています。それの証人となって頂きたいのです。代わりと言っては何ですが、子龍様と公明様の裁判は無罪になるように全力を尽くしますので」

 

 悪くはない提案だ。ここで龐統の取引を無視することもできるが、李信には先程場を治めて貰った恩がある。それに楊奉に関しても、これからもあのような蛮行を行うのならば放っておく訳にもいかない。それに李信達の力があれば裁判を受けたとしても無罪になるのはほぼ確実であろう。それは同士討ちをした徐晃であったとしてもだ。考えた結果、龐統からの提案を拒否する選択肢は浮かばなかった。趙雲が念のためにと戯志才と程昱の表情を窺うと、彼女達も頷いている。二人がそう判断を下したのならばまず間違いはないはずだ。

 

「それにしても……徐晃といったか。あの楊奉に物申したか。たいした度胸だ」

 

 対峙してみてわかったが、楊奉もまた一廉の者。彼女のみならず千の配下と敵対することを選ぶことが出来る者は中々いないだろう。

 

「あ……はい。でも……結局は何も出来ませんでした」

 

 項垂れる徐晃。この村は偶々うまくいった。だが、これまでの村は見捨ててきたに等しい。貴方(・・)ならばこんな真似はさせなかったはず。後悔しかない彼女ではあるが、確かに状況的にはそうかもしれない。徐晃がしたことは、数人の兵士を斬っただけ。もしも李信が来ずにあのまま続けていれば今頃どうなっていたか。

 

「だが、お前の行動がこの村を救う一助となった。俺達が駆けつける時間を稼いでくれたんだからな」

 

 お前の五常に感謝する。李信は徐晃に感謝の言葉とともに頭を下げた。嘘偽りのない憧れの将軍の礼に、言葉もなくぽかぽかと心が温かさえ感じる。

 

「悪いがお前も俺達に付き合って洛陽に帰還してくれ。悪いようにはしないことを俺の名において約束する」

「……はい」

 

 一も二もなく頷いた徐晃。そして趙雲達三人の了承を得た李信は帰還の準備をするためにこの場から離れていった。しばしの間、趙雲達四人の間に沈黙の帳が舞い降りる。いや、時折徐晃がなにやら、ふわぁと夢見心地で声をあげている姿が不気味であった。

 

「……気をつけたほうが良いですよ、星殿」

「そうですねー。でも星ちゃんだけじゃなくて稟ちゃんと風もですけど」

「む……どういうことだ?」

 

 完全に李信達の姿が見えなくなったことを確認した戯志才と程昱の忠告に趙雲が若干驚いた顔を見せる。

 

「別に李信将軍が私達を謀る、とかそういった意味合いではありません。あの御方はそのようなことはしないでしょう。ですが……」

「軍師の士元様は風達に嘘を吐かれましたからねー」

 

 まぁ、些細なことですが。

 平然と言い切った程昱とそれに頷く戯志才。説明を続けてくれ、と趙雲は彼女達の言葉を促す。

 

「厳密に言えば嘘とはいえませんが、この場で無罪放免とする訳にはいかない、という判断がです。はっきりと言いますが、李信将軍にはそれだけの力があります。漢王朝の上層部にも影響するだけの圧倒的な権力が」

「無闇にその権力を奮えば何かしらの軋轢を起こすかもしれないという点では、士元様の見立ても正しいとは思いますが……今回はおそらくは私達を洛陽まで連れて行く方便ではないでしょうか」

「ええ。私達……というか、星殿ですね」

 

 一目見ただけでわかる武人として完成された趙雲。漢王朝に属しておらず流浪の身であるならば、人材を欲している李信達にとっては喉から手が出るほどに必要な相手だろう。だが、趙雲達は楊奉が村を焼いて回ったという事実を知ってしまっている。幾ら李信達が楊奉を退け趙雲達の味方をしたといっても、官軍への印象は最悪に近い。故に、洛陽までの道程でその印象を払拭してしまおうという企みがあるのではないか。それについては戯志才と程昱も同じ理由であると言える。この村への道すがら、龐統とは様々な話をした。ただの世間話に見えて、その実戯志才と程昱の底を見極めようとする眼差しであった。

 

「まぁ、悪いことではないということだな。それならば遠慮なく一緒に行かせて貰おう」

 

 朗らかに笑う趙雲に、わかりましたと戯志才と程昱は静かに頷き、対する徐晃は全く三人の話を聞いておらず、既に姿が見えない李信の後姿を見つめ続けていた。

 

 

 ちなみに騒動の発端となった韓暹はというと完全に忘れ去られており―――その後名前を変えてこの村にて永住したとかしなかったとか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 李信軍のみならば最速の行軍で短期間で洛陽へ帰還できるのだが、趙雲達四人の客人がいたためゆっくりとした道程であった。夜の帳が下り、李信軍は夜営の為の準備を始める。戦争中ならば幹部の人間は作戦立案などで忙しいが、現在の状況では特に差し迫ってやることもなく、夜営の準備を手伝い始める。それに意外な目を向けるのはまだ入隊したばかりで李信軍に馴染めていない徐晃と、客扱いの趙雲達三人である。嬉々として指示を出しながら準備を率先して行う将軍―――しかも漢王朝最強と名高い李信永政の姿に言葉もないとはこのことだ。

 

「……李信将軍は変わった御方ですね」

「そうですねー。将軍位にあるお人が夜営の準備をして回るなんて話は聞いたことがないですよ」

 

 夜営の準備が終わり、夜の闇の中で映える焚き木を囲っている戯志才が、受け取った配給に舌鼓を打ちながらそう独り言ちた。彼女の言に同意するのは程昱であり、趙雲もまた無言で肯定する。徐晃も頷くと同時に一口食べた配給があまりにも美味かったのか一瞬目を見開いた後、次々と頬張っていく。これまで従軍していた楊奉軍の料理とは全く違って純粋に味が良い。頬をパンパンにする彼女はどこか小動物的で観ていて微笑ましい姿を見せてくれる。

 

「よう。どうだ、うちの飯は?」

 

 夜営の準備が完了したのだろうか。李信が華雄や高順、龐統に呂布を引き連れて趙雲達の下へと姿を表した。座っていた彼女たちは一斉に立ち上がって礼を取ろうとするが、それより速く李信が軽く手を振る。

 

「公式の場じゃない限り、そんな畏まらんでもいいぞ。余計な肩がこるだけだ」

 

 俺のな……と笑う姿は、やはり官軍の将らしからぬものがある。だが、彼女達としても気を使わなくても良いのは非常に助かるためそれを口に出すことはなかった。

 

「悪いな、徐晃。あまり居心地がよくないだろ?」

「い、いえ……皆さんにはよくして頂いています」

「本当か? もし困ったことがあれば俺にでもいいし、うちの連中の誰にでもいいから声をかけろ。誰であっても悪くはしないはずだ」

 

 有難うございますと頭を下げる徐晃に対して満足気に頷くと李信は彼女達と同じ焚き木を囲んで腰を下ろす。龐統から受け取った配給の品は他の人間と同じ物であり、文句一つ言わずにそれを食べ始める。あっと言う間に食べ終わると、持ってきていた瓢箪から盃に酒をなみなみと注いでそれを一息で飲み干した。

 

「おぉ……李信将軍は酒を嗜まれますか」

「ああ。人並みにはな」

「何を仰いますか。見事な呑みっぷり。余程お好きと見えますが」

「……昔から戦場に行った時には呑んでたからな。まぁ、呑みすぎなければ悪いもんじゃない」

「酒は呑んでも呑まれるな……それには同意致します」

 

 良かったらお前も一杯どうだ、という李信の言葉に―――即座に焚き木を囲っている円からの離脱を試みたのは華雄と高順だ。常に李信の傍にいる呂布すらも珍しく立ち上がると華雄達と同様にこの場からの撤退を試みていた。唯一李信の傍に残っているのはあわわと混乱に陥っている龐統のみ。彼女達の不自然さに疑問を覚えつつ趙雲は杯に李信から酒を注いで貰う。

 

「お前たちは?」

「私は酒は飲まない様にしておりますので」

「風も下戸ですのでお気持ちだけで結構です」

「……頂きます」

 

 戯志才と程昱は断りを、徐晃だけが盃を差し出してきたのだが李信は彼女の姿を見て果たしてこの少女は成人しているのかと一瞬疑念を持つものの、まぁいいかと相変わらずの大雑把ぶりを発揮して新しい配下へと将軍手ずから酒を注ぐ。

 

 そして二人が同時に盃の酒に口をつけ、咽がゴクリと音を立てた瞬間の出来事であった。

 

「ごほっ……ごほっごほっ……熱っ!?」

 

 酒好きの趙雲が盃を地面に置くと何度も咳き込み始める。彼女の言葉通り咽が焼けるように熱い。何かしらの毒が入っているというわけではなく、趙雲が今まで飲んできた酒が足元にも及ばぬほど度数が異常に高いというだけだ。中々咳き込みが止まらない麗しの美女の姿に、離れていた三人が憐れみの視線を送っている。

 

「やはり無理だったか」

「あれはちょっとねぇ……僕はもう二度と飲みたくないよ。うまいまずいって話じゃないもん、あのお酒」

「……うん」

 

 長い付き合いの三人は、既に李信が好んで飲んでいる酒の洗礼を浴びていた。彼女達も戦場を生きる身。戦争中、戦争後、宴会で勝利の美酒に酔いしれることも多いが、李信の酒に対する味覚だけは理解できなかった。

 

「俺は好きなんだけどな、麃公酒(・・・)。まぁ、最初は俺も一口飲んだだけでぶっ倒れてたけど」

 

 カカカッとかつてを思い出して笑いながらも新たについだ酒を飲み干していく。今の自分ならば前世で尊敬した麃公将軍とも美味い酒が飲めるのではないか。決して叶わない夢を脳裏に描きつつ、ようやく咳きがおさまった趙雲が二度目の挑戦を試みようと盃を手にとる姿を見て彼女の不屈の精神に、おぉと感嘆の声を上げた。

 

「その意気やよし。周りは掛け声で盛り上げていくぞ」

 

 となーりーのじじーいのー金○はー。

 さぁ俺に続けと、誰もが聞いた事のない掛け声を高らかに一人歌い始める李信の姿に、目を丸くする戯志才と程昱。ハァッと深く溜息をつきながら華雄と高順が機嫌が良さげの自分達の将へと近づくと肘鉄を入れる。ごふっと咳き込んだ李信に睨まれる二人だったが、そんな李信の視線などどこ吹く風の副将二人。

 

「そのろくでもない掛け声は止めろと何度も言ってるだろう」

「うん。もうちょっとましなやつにしなよ。あっちの可愛い二人も固まってるでしょ」

「ろくでもないとは失敬な奴らだな、おい。これは数百年の由緒ある掛け声なんだぞ」

 

 ぎゃあぎゃあと言い合う三人の姿はまるで子供のようにも見える。いや、ようではなくむしろ子供だ。恥も外聞ない三人の様子はますますと白熱していく。

 

「……いつもこのような感じなのでしょうか?」

「え? あ、その……はい。私も李信様の御傍に置いて頂いてそこまで長くはないですが……何時もこのような感じです」

 

 どうやって仲裁に入ろうかと思案している龐統へと戯志才が声をかけると、若干困った顔で肯定する。漢王朝でも名高い李信軍の長と幹部の見せる姿とは思えない様子に戯志才は僅かに感じていた緊張が解け、完全に毒気を抜かれた気分となった。そんな戯志才の耳へとゴホゴホッと何度も咳き込む音が聞こえる。そちらに目を向ければ、趙雲が何口か飲めたものの盃の酒は一向に減っている様子は見られない。酒を好み、強いと自負している趙雲でさえも顔に赤みが差し目の焦点が怪しくなってきていた。

 

「……ご馳走様でした」

 

 そんな中で、驚愕する事態が引き起こされる。注目を浴びていなかった徐晃がペコリっと頭を下げ感謝を述べた。何事かと思えば、彼女の盃には酒が残っておらず一気に飲み干していたという事実に、現在進行中の趙雲と過去味わったことがある華雄達は平然としている徐晃に戦慄を感じずにはいられない。

 

「凄いな、徐晃。この酒を残さなかったのはお前が初だぞ。味はどうだった?」

「……少し辛かったですけど、シャン……わたしには美味しく感じました」

 

 大笑いしながら大層嬉しげに徐晃の背をバンバンと音がするほど強く叩く。今まで一度も彼女のような反応をしてくれるものはおらず、麃公酒に関してのこれまで積もりに積もった鬱憤が一気に晴れ渡っていく気持ちであった。

 

「よしよし、飲め飲め」

 

 徐晃の前にて座り込んだ李信が空になった盃へと注ぎ、上機嫌の彼は小さな徐晃の頭をわしわしと力強く撫で付ける。撫でられていることに嫌な顔を一つせず、淡々と盃の酒を減らしていく徐晃。彼女の姿に見栄や嘘は見当たらない。どうやら本当に旨いと思っているようで、李信軍の面々は引き攣った表情のまま、二人の姿を眺めている。しばらく後に徐晃は李信軍に入隊することになるのだが、それ以前から徐晃は李信のお気に入りの存在となったのか、公私問わず一緒に酒を飲みに行く姿を見かけるようになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 洛陽への帰還後、楊奉の行った所業に関しては上層部に連絡をいれ、その関係で李信達は二、三日ほど忙しく動き回っていた。趙雲達もまた、証人としてしばらくの時間を拘束されはしたものの考えていたよりも丁寧で迅速な対応をされたことを少々意外に感じるのであった。もっとも李信の客人にもあたる彼女らにそう雑な対応など出来るはずも無い。そんな中で洛陽での仕事が一区切りついた李信含む幹部達が、趙雲達三人に礼をいうべく彼女達の宿泊している宿へと足を運んだ。

 

「悪いな。お前達のおかげで随分と助かった」

「いえ、たいした力添えも出来ず申し訳ない」

 

 李信の感謝に趙雲が首を振る。事実、趙雲や戯志才、程昱がいなかったとしても裁可は全くといって良いほどかわらなかったのではないかとも思えた。それは事実なのだが、それを素直に言うほど李信軍の人間は空気が読めないということはなかった。

 

「そ、それでは……お約束通り此方が感謝の品となります」

 

 相変わらずの人見知りを発揮する龐統が袋を三つ抱えて前に出る。チャリっと耳に聞こえる金属音と袋にパンパンと詰まったそれは大層な額だと予想が出来た。

 

「有り難く」

「ありがとうございますー」

 

 戯志才と程昱が受け取ったが、趙雲は何かしら考え事をしているのか袋を受け取らずに空を見上げていたのだが、何か思いついたのか機嫌よさげににんまりと笑顔を浮かべた。

 

「そちらは遠慮させて頂きます。代わりと言ってはなんですが……李信将軍。貴方と手合わせをお願いしたい」 

 

 趙雲の申し出に、正気かと驚きの顔を見せる華雄と高順。呂布は一度趙雲の全身を確認するも、すぐに興味をなくしたのか欠伸を一つ。龐統は、あわわと傍にいる李信を見上げ主の答えを待っている。

 

「いや、まぁ……別にいいけどな」

「それでは是非にでも!!」

 

 それが褒賞になるのかと眉を顰める李信だったが、返ってくる趙雲の興奮した返事に首を捻る。手合わせをするならばこのようなところではなく、広い場所でやらねばならない。幸いにも宮殿の中の一部にある練兵場は李信達が好きに使っても良いという許可を貰っているためそちらを利用するかと皆で移動を開始した。しばらく歩き練兵場へと到着すれば驚いたことに、李信軍の兵達が休みだというのに各々訓練をしている姿が見受けられる。そんな彼らの注目を浴びつつ、練兵場の中心にて遂に李信と趙雲がそれぞれの干戈を手にとって対峙した。

 

「なぁ、高順。もし良かったら賭けでもしないか?」

「賭け? どんなの?」

「もちろん、李信と子龍の戦いがどうなるか、だ」

「いやいや。それって賭けになるの?」

 

 華雄の賭けの誘いに呆れた様子を見せるのは高順だ。それに頷くのは胡軫である。

 

「その賭けはちょっと無理っぽいでごぜーますよ、姉御。その賭けならあたしは隊長に全つっぱしますでごぜーますが」

「僕も李信に全賭けするけど……」

 

 俺も、私も、僕も、儂も、と……周囲の李信軍の者達もまた同様だ。それを聞いていた華雄は、自分の頬を掻きながら若干困った顔を見せる。

 

「まぁ、そうなるか。自分で持ち出してなんだが、確かに賭けにはならんな」

 

 単純な勝敗、では。せめて李信に傷一つでもつけることができれば趙雲の勝利という条件下ならばまだ賭けは成立するだろう。しかし、華雄の見立てでは―――それでも厳しい。確かに趙雲の力量は凄まじい、の一言だ。純粋に、強い。恐らくはこの場でまともに彼女と渡り合えるのは、呂布は別格として、華雄と高順くらいではなかろうか。李信軍の古強者の面々を凌駕する戦闘者。それほどの高評価でありながらも、彼女たち配下の者達からの自身の将へ対する信頼は篤い。例え如何なる相手であろうとも李信に敗北はない。必ずや自分たちに勝利を見せててくれるといった狂信染みた絶対の信望を捧げている。

 

 いや(・・)まて(・・)

 

 だが、華雄は己の心中に湧き出た得も言われぬ不安に身を苛まされた。皆が李信が勝つと信じている。自分もまた同様だ。それに嘘偽りなど微塵もない。ならば何故(・・・・・)、自分はこんな賭けを口に出したのか。最初から賭けにならないことを理解していながら、どうしてこのような賭けを持ち出したのか。背中を奔る理解不能な怖気に眉を顰め、華雄は目の前の練兵場にて距離をおいて佇む二人に厳しい視線を送るのであった。

 

 一方若干離れた位置にいた戯志才と程昱だったが、華雄達の賭け事のことが聞こえたのか、ふむと短く戯志才がつぶやいた。

 

「何やら面白そうなことを話し合っているみたいですね。それならば私達も見習って賭けをすることとしましょうか」

「賭け事ですかー? でも、あちらも成立はしなかったみたいですよー。風達二人で賭けても同じ結果になると思いますけど」

「友達甲斐がないですね、風。貴女は李信将軍に賭けるというのですか?」

「はいー。確かに星ちゃんは強いですよ。風が知る限り中華において十指に入る武人と評価しています」

 

 ですが、それでも星ちゃんは人の範疇です(・・・・・・)

 李信将軍に伍するとは思いません。

 

 平然と表情一つ変えずにそう言い切った程昱であったが、戯志才はゆっくりと首を振った。

 

「ならば私は星殿に賭けましょう」

 

 彼女の言葉に、程昱は珍しくも驚いたのか軽く目を見開いて首をこてんと横に倒した。

 

「大穴狙いですかー、稟ちゃん」

「そうですね。ですが……十分に賭けになる大穴だと思います」

 

 戯志才が言い終わった瞬間の出来事であった。刹那、誰も彼もが目を見張る。耳を劈く金属音。金属同士が激しくぶつかりあった故に生じる不快な激音が木霊した。今の今まで居たはずの場所から姿を消した趙雲が、李信の間合いへと踏み入った状態で龍牙をまっすぐと突き出した体勢でいたのだから。突き出された鋭い槍の切っ先は、李信の大矛の刃で受け止められていたが、彼の表情はただ驚愕という言葉に相応しいものに染まっている。

 

「御見事、流石は李信殿!! 我が槍をここまで容易く受け止めるとは!!」

 

 心底感嘆した表情と言葉を残して、今度は誰もが見える速度でいっそ軽やかに後退し間合いを外す。そんな趙雲に追撃を仕掛けることもなく、李信はただただ驚きを隠せぬまま彼女の動きを見送っていた。ヒュっと軽く龍牙を振るいながら、誰もが見惚れ蕩けさせるような笑みを浮かべ―――趙雲の肉体から噴出するのは台風を連想させるほどに荒れ狂う颶風。四方八方へと無秩序に狂い荒ぶり、あらゆる存在を調伏する。呼吸すら困難に感じる重い空気の中、驚嘆するのはともに旅をしてきた程昱であった。趙雲が強いのは知ってもいたし、理解もしていた。先程言葉に出したとおり広い中華において十指に入ってもおかしくはない。名が広まっていないのは、彼女の若さゆえにだと思っていたが、思っていたのだが……。

 

「改めて名乗らせてもらいましょう!! 北方の(・・・)飛将軍(・・・)、李永政!! 我こそは常山が武人。姓は趙!! 名は雲!! 字は子龍!!」

 

 中華七槍全て(・・・・・・)を降した者(・・・・・)

 神槍(・・)。趙子龍。それが今貴公の前にいる者だ。

 

 キラキラと初めて玩具を与えられた子供のように瞳を輝かせて吼える趙雲に、程昱はようやっと友の普通ではない姿に納得をする。趙雲の出身は冀州の常山。李信がここ数年で転戦を繰り返していた北方の幽州、并州に近しい場所だ。となれば、彼女も幼い頃より李信の活躍は嫌と言うほどに耳にしているはず。北方の漢民族においては絶対の英雄。それが飛将軍李信という男である。まだ故郷にいた頃より武を志していた趙雲ならば、李信を夢見、目標にしていたとしてもおかしくはない。つまりは趙雲は、我が友は、憧れの人物と矛を交えることが出来ている。ならばこそ、普段の冷静沈着な彼女の姿とはかけ離れた、あの興奮にも納得がいくというものだ。

 

 事実、程昱の推測は当たっていた。趙雲子龍は郷里にて修行に励んでいた頃より李信の名声を聞き及んでおり、その修行時代から彼に憧れ、武の到達地点として見定めていたのだ。二年ほど前から故郷を離れて武者修行の旅に出て、各地の名だたる武芸者に挑み続けてきていた。

 

 ならば何故、趙雲の名前が世間にそこまで知れ渡っていないのか。程昱は若さ故に、と考えたがその推測は間違っていた。単純に彼女は戦いを挑む際に自分の名前を名乗ることが少なかっただけだ。本来の武芸者ならば、自身の名声を高めるためにも必ず名乗りを上げる者が大多数。だが、趙雲は自身の名が知れ渡ることにより、自分が逆に世間一般の有象無象に挑まれる立場になることを嫌ったのだ。勿論、その中には強い者もいるかもしれない。無名の未だ見ぬ手練れが存在するやも知れない。それでも、それはきっと期待するのも馬鹿らしいほんの僅かな可能性であろう。

 

 故に彼女は自分の名を名乗らずにひたすらに中華に名だたる強者に戦いを挑み勝ち続けてきた。既に死去している侯選を除き、中華七槍と称えられる槍使いの頂点の悉くを打ち倒し、人知れず神槍と呼ばれるにまで至った怪物。李信と呂布の孤高の領域を目指し高みへと登り続ける求道者―――それが彼女、趙雲子龍だ。

 

「さぁ、李信殿!! 見てください!! 見せて下さい!! 私の槍を!! 貴方の矛を!!」

 

 至高の領域を体感させてくれ。

 

 趙雲の身体が弓から放たれた矢が如く、その場に残像を残して跳ね進む。先程よりもさらに早く、速く神槍の刺突は李信の胸元へと吸い込まれていった。されど、ギャンっと耳障りな衝撃音が耳を打ち、趙雲の龍牙は一度め同様に受け止められる。防御されるのは当然と考えていた趙雲の動きは素早かった。今度は間合いを外すことなく、その場で繰り出される無数の連突が襲いくる。突く速さ、引く速さ、どちらともが今世にて李信が戦ってきた槍使い全てを凌駕する神速の世界の住人。いや、桁が一つどころか二つばかり違う異世界の住人であった。

 

 速さに特化している故に、一撃一撃の重さはそこまででもない、勿論そこらの達人級の腕前の持ち主を一突で屠れる威力を秘めてはいるが、それでも李信の防御を突破するには至らない。だが、その攻防の最中くるっと趙雲の手首が返される。突きではなく払いへの変化。風を切る鈍い音をたてながら水平に龍牙が払われる。その急激な変化に慌てる様子を微塵も見せず、瞬時に身を沈ませてやり過ごしたと同時に下方向からの大矛の掬い上げを放ち、趙雲の槍を上方へと大きくかち上げた。腕ごと持っていかれそうな衝撃に歯を食いしばって堪えるが、瞬時に自分の頭を割り砕こうと大矛の鋒が凄まじい勢いで振ってくる。並みの者ならば何が起きたか理解する間もなかったであろう。腕の立つ者であっても恐怖で動くことは適わなかったはずだ。だが、趙雲は僅かな恐怖も躊躇も見せることなくその鋒を瞬き一つせずに軌道を確認、認識し、一寸の見切りを持って必要最小限の後退のみで回避しきった。

 

「ふはっ!! あぁ、あぁ―――なんとも容赦の無い御方ですな!! 私のような美女であっても問答無用ですかっ!!」

「―――自分で美女っていうか。自画自賛もここまで躊躇いがないと気持ちいいもんだ」

 

 まぁ、美女ってのには異論はないけどな。

 その言葉。有り難く受け取りましょう。

 

 互いに無言の会話で大矛と龍牙が火花を散らす。趙雲の揶揄するような台詞ではあるが、口角を吊り上げて笑う姿はこの戦いを心の底から楽しんでいる証左でしかなかった。対する李信もまた表情から驚愕の色は抜け落ちて、純粋に笑っていた。目の前にいる自分を怖れぬ勇敢な挑戦者の存在を完全完璧に受け入れて、もはやこれが手合わせだということを忘れたのか容赦のない攻撃を仕掛け始める。あくまでも軽い手合わせ程度を予想していた彼の想像の遥か上。血が沸き肉が躍る。なんとも甘美で、極上のひと時を提供してくれる趙雲に深い感謝の念を抱くほどであった。

 

 趙雲の言葉通り容赦のない唐竹一閃。全てを断ち切る一直線の振り下ろし。左肩から右胴を切り裂く袈裟懸け。それとは対象の右肩から左胴へ抜ける逆袈裟。右胴から左胴へと切り抜く右薙。逆胴となる左胴から右へと切り払う左薙。右下から左肩へと跳ね上がる右切上。左下から右肩へと放たれる左切上。股下から胴体を裁断すべく振るわれる逆風。それが一息つく間もなくほぼ同時に趙雲の眼前にて披露された。

 

 決死の覚悟でそれらを回避しつづけるのは趙雲だ。速度だけならば李信にも匹敵する彼女ではあるが、単純な膂力ならば圧倒的に及ばない。それに元々槍は、防御することに向いているという訳ではなく、相対した敵の武器を巻き上げ払い流すという操法に重きを置いている。趙雲が得意としているのは相手の攻撃を後退しながら体を左右に開いて躱し反撃する抜き技に、敵の得物に龍牙を巻きつかせて払い落とす巻き落とし。直接相手の武器を狙って叩き落す技術などもあるが―――それら技術を使う余裕が全くと言って良いほど存在しなかった。僅かな手合わせで速度は互角されど膂力、技術、経験は比べるのがおこがましいほどの差が嫌というほどに身体が理解してしまったからだ。それで趙雲を責めるのはいささか酷であろう。李信の技術は正式な武の手解きを受けたわけではないが、前世においては幼い頃から自分よりも格上の相手との死闘に加え、さらには数百の戦場での戦いを経験したことを加味すれば彼に勝る者を探す方が難しい。

 

 そんな化け物の連撃を紙一重で回避しきる趙雲もまた人外の領域に足を踏み入れかけているモノ。カッと鋭い呼吸を吐き出すとともに、李信の攻勢を呑み込もうと火勢の連突きが放たれる。見える刺突は霞む速度の一撃のみで、実際は一瞬五連の音が後からついてくる鋭利な津波の大瀑布。しかし、それでも李信のかざす大矛の防御を破るには至らない。速度は互角でも数百の戦場を超え、千を上回る殺し合いを踏破してきた大将軍の死へ対する嗅覚と直感を凌駕することが出来ないのが現状であった。それが限界。これが現実。目の前の光景こそが目の逸らし様がない絶対的な彼方と此方の力の差だ。

 

 ならばそれを穿ち貫くまで。

 

 思考が加速。ありとあらゆる筋肉を弛緩させ―――秒後には全身の肉体を限界を越えて働かせる。ぎりぎりと悲鳴をあげる身体を無視して、趙雲が声にならない咆哮をあげて繰り出すは先程よりも更なる領域速度の刺突。しかも、しかもだ。放たれる六連突が不規則な軌道を描きありえない角度から李信へと襲いくる。六連の刺突のうち半分が龍指(・・)と呼ばれる槍使いの秘技。龍指一度だけならば中華七槍級の達人ならば使いこなすことできるであろうが、目にも留まらぬ六連撃でそれらに龍指を織り交ぜて放とうなど人の限界を越えた神技だ。

 

 龍巣(・・)。我が極限。とくと御覧じよ。

 

 それはまさしく龍の巣に閉じ込められたかのような圧迫感と危機感を李信にすら味あわせる一手であった。迫りくる六種の龍の牙を前にして―――李信は初めて後退した。大きく距離を取って、趙雲から逃げ出した(・・・・・)。シンと静まり返る練兵場で向かい合うのは激しく呼吸を乱す趙雲と、今の今まで喜びに満ち溢れていた表情が完全完璧に抜け落ちた李信の二人。能面のような、どこか冷たい面持ちで黙って趙雲を見つめる姿に、彼を知る李信軍の面々も驚きを隠せない。強き者と戦う李信は何時だって楽しげだ。強者へ対する期待と興奮。自分にどこまで喰らいついてきてくれるのか。未知なる相手との戦いを楽しんでいる。そんな彼が、こんな姿を見せるのは誰も彼もが初めてで、どこか不気味な気配を感じさせられた。 

 

「はぁっ……随分、と……様子が変わられ……ましたな。我が槍は、貴方に脅威を……抱かせるに、足りましたか?」

「……」

 

 李信が返すのは沈黙だ。そして次の刹那には無造作に、何の躊躇いもなく大矛を薙ぎ払っていた。集中していた趙雲の秒を十に分割したよりもなお短い意識の空白をついての一撃に、疲労もあって回避が困難だと判断した彼女は槍の柄で間一髪で受け止める。だが、受け止めると同時にきたるのはかつてない衝撃。ぶわりっと趙雲の身体が軽々と弾き飛ばされる。空が地に、地が天に。真逆となった視界のなかで、空中に弾き飛ばされたと気づいた彼女であったが、優れた平衡感覚が正しい世界へと肉体を導いた。なんとか地面に着地した趙雲だったが、李信へと視線を向けて、思わず呆けたような声が出た。

 

 自分が先程までいた場所から軽く十メートル近くは飛ばされていたからだ。なんとも非現実的な圧倒的なまでの威力に頬が引き攣り、さらに李信を中心として黒くて暗い闇が現出し始めた。戦場を生き、戦場を支配する者。大将軍李信の肉体が、大型の獣の如く疾駆する。十メートルはあった距離を瞬き一つで零として、宙に翻った怪物が振りかぶった大矛を趙雲目掛けて振り下ろす。もはや防御や紙一重で回避するなど頭の片隅にも残っていない彼女は、とにかく間合いを外すべく自慢の脚を持って退避する。続けざまに解き放たれる李信の嵐にも似た大矛の連斬が、容赦なく襲い掛かってくるものの―――それに違和感を持つのは当の本人である趙雲その人である。確かに李信の攻撃は苛烈で決死の思いで避けねば命を落とす程のもの。

 

 だが、逆に言えば死ぬ気で(・・・・)回避に徹す(・・・・・)ればなんと(・・・・・)かなっている(・・・・・・)。趙雲が最善の一手を取り続ければ、常に自分の限界を越え続ければ、光明が見えるという実に絶妙な死線を踊らされている。何故だ、どうしてだ。何の意図があってこのような真似を。死が眼前で狂々と舞っている光景の中、趙雲は確かに見た。目まぐるしく動く視界の端で、李信の能面のような無表情が喜怒哀楽どれに当てはまるかわからない、何とも言えぬ表情に歪むのを。この場の誰一人としてそれに気づいた者はいず、気づいたとしてもそれが何を意味するか理解出来なかったであろう。だが、二人の戦場にて身を躍らせている趙雲は気づいた。彼女だからこそ理解した。その一瞬で、一目で、李信の表情が何を意味しているのか。

 

 ああ。ああ……あぁ。あぁ……あぁああああああああああああああああ!!

 

「ふざ、けるなぁぁあああああああああああああああ!!」

 

 死線に立たされている事を忘れるほどの怒り。いや、死んでも死に切れない屈辱。こいつは、この男は。趙雲子龍と戦っているはずのこの男は。李信永政は。天下無双の飛将軍は。なんとふざけたことを。なんて真似をしているのか。死ぬ気で戦いを挑んでいる自分に対して、どれだけ情けをかけるというのか。

 

 見るな(・・・)!! 見るな(・・・)!! 私をそんな(・・・・・)目で見るな(・・・・・)!!

 見ろ(・・)!! 見ろ(・・)!! 私を見ろ(・・・・)!!

 

 人という殻を脱ぎ捨てて、獣の如き咆哮を発する真なる神槍の遠吠えが一つ。速度特化の趙雲が死線のさなか、前傾姿勢となり、身体中の力全てをたった一つに、一撃に、一点に収束させて龍牙を李信へと放った。見るだけでわかる圧倒的な破壊力を秘めたそれを真正面から受け止めて―――弾かれるのは趙雲の槍。ぐるりっと身体が後方へと弾かれ今にも崩れ落ちそうな体勢となった。ザッと地面を踏み締めて追撃をと考えた李信の背中にひたりっと這い寄る冷たい予感。

 

 戦場で幾度も経験してきた()という名の気配に全身が包まれる。それを肯定するのは趙雲子龍。吹き飛ばされた力すらも利用し身体を回転、低い体勢の彼女の肉体の影から突如として李信へと迫り行くのは天を駆け上る昇り龍。完璧な死角からの龍牙による突き上げに、その攻撃に、その動きに何故かピタリと動きを止めてしまった李信は、ハッと気がついたときには眼前に槍の穂先が迫ってきていた。首を捻り、龍牙の直撃を避けることに成功したが、李信の顳顬から―――激しく散じる真っ赤な鮮血。動きをとめた一瞬がかする程度ではあるが、李信に傷をつけるという結果を生み出した。返り血を浴びた趙雲が後方へと大きく距離を取ると死線を潜り、死線を超えた趙雲は呼吸困難に陥りそうな程に激しく息を吸って、吐くを繰り返す。飛び散ってきた返り血が頭から頬へ。頬を伝って流れ落ちてきたそれを反射的に舐め取った。鉄臭い味わいが口内を満たし、死線を越えた興奮と李信に一矢報いた満足感に身を焦がす。一方の李信はその場で滴り落ちる血を服の袖で乱雑に拭った。

 

「馬鹿、な……李信に、血を流させただと?」

「……うそ、でしょ」

 

 李信が傷を負ったということに愕然とするのは華雄や高順のみならず、練兵場にいる人間全てであった。万を越える人が入り乱れる戦場は例外として、一対一の戦いで李信に手傷を負わすことが出来たのはただ一人。涼州で勇名を馳せた手下八部も、中華の地を脅かした異民族も、華雄や高順でさえも無傷で倒した李信が唯一苦戦した怪物―――それが呂布だ。つまりは趙雲子龍は、二人の間に割ってはいる事ができる武人だというのか。

 

 そんな思考を遮るように、誰かがヒィッと短い悲鳴をあげた。それに何事か、と思えば先程までの光景が一変し、周囲が、練兵場が黒く塗りつぶされていた。地面が底なしの沼になったのではないかと思わせる黒くて暗い漆黒の奈落がこの場にいる全ての人間を飲み込んでいく。いや、これは幻覚だ。あまりにも他とは隔絶した生物の純粋な負の感情の爆発が、この世の物とは思えない混乱と叫喚渦巻く阿鼻地獄を幻視させてきたのだ。それの発生源となっているのは、いわずもがな呂布奉先である。今にも趙雲目掛けて襲い掛からんとする姿を見せる彼女に、誰もが戦々恐々とするなかで、華雄が何の躊躇いもなく近づくと呂布の頭に手を置いて力強く撫で付けた。ギロリっと睨みつけてくる呂布の眼力はそれだけで心臓を麻痺させかねない圧力を伴っている。それを浴びながらも、くはっと楽しそうに笑うのは李信軍が副将。

 

「安心したぞ、呂布。どれだけ外れていようとお前も人であったのだな」

「……」

 

 何を言っているこいつは。胡乱気に見やる呂布を無視して、腕で彼女の頭を抱えるように自分の胸元へと押し付ける。

 

「その気持ち。その感情。お前の胸中を支配するそれは(・・・)、何か分かるか?」

 

 意味が分からないのか反応しない呂布をさらに力強く抱きしめて。

 

嫉妬(・・)だ。お前は自分と李信だけの世界に飛び込んできた子龍を妬んでいる。だが、お前はそれでいい。それがいい。昔のお前よりも今のほうが余程好感がもてるぞ」

 

 怨念渦巻く圧力を浴びながら、華雄はどこまでも自然体。

 

「まぁ、今のうちにそれに慣れておけ。なに……近い将来そこにもう一人(・・・・)割って入らせて貰うのだからな」 

「―――もう二人(・・)だと思うけどね」

 

 肩をすくめて華雄に続く高順も、呂布を怖れている様子は全くなかった。それどころか眼を爛々と輝かせ、李信を意識し続けている。二人力を合わせたとしても呂布の全力には程遠い二人。だが、決して諦める事を知らない華雄と高順の姿に―――呂布の心の中にに燃えるどす黒い嫉妬の炎は僅かに沈静するのであった。

 

 

 そして、練兵場を眺めることが出来る高台から李信達を見下ろしている人物もいた。第一皇女劉弁と彼女の近衛兵である。兵士達は自分たちが想像もできない領域の戦いに感動すら覚え、瞬き一つせずに食い入るように眼下の李信と趙雲に魅入っていた。劉弁はというと、途中までは興味を持っていなかったようだが、李信の様子が一変した頃より真剣な眼差しを李信へと送っている。

 

「ふっ……そうか。信よ……お前はそやつに王賁(・・)の影を見たか」

 

 かつての時代。戦国七雄に数えられた秦を除く他の六国を滅ぼすのに尽力した秦国最強の将軍達。後世に中華六将とまで謳われるようになった怪物の一人。名門貴族の後継のうえ中華最強の槍使いでありながらも軍略にも優れた万能の将軍。李信が三百将の頃より互いに忌み嫌いながらも高めあった生涯の宿敵(とも)ともいえる男。その王賁の影を李信は趙雲に見た。彼女の技量、覚悟、伸び代、気配。ありとあらゆるものが李信にかつての宿敵を思い出させた。

 

「全く。可愛いやつだな、お前は。素直に嬉しそうな顔をすれば良いものを」

 

 他の相手ならばいざ知らず、李信の脳裏にこびりついたのは終生いがみ合った男の姿。自分に迫りくる趙雲にそれが重なり劉弁の言葉通り、思わず顔が綻びそうになるのを必死に我慢した結果があの無表情だ。単純に趙雲は、王賁からのとばっちりを受けているに過ぎない。

 

「……嬉しいか、信。楽しいか、信。懐かしいのだろうな。ああ……お前のその姿を見るのが私の喜びである」

 

 お前の全てが私の全てだ。

 

 誰も彼もが気づかない。戦っている趙雲でさえも気づいたのは表面的なところまでだ。呂布、華雄、高順、韓遂、司馬徽に龐統、李信軍の面々でも李信の本心、本音、胸中、真意を理解できない。それに気づくことが出来るのはこの世界で後にも先にもただ一人。ともに戦乱の時代を生き抜いた不変にして永遠の友である彼女だけ。

 

「だが、自分に誰かを重ねていることに。信の手心の意味にも気づくか……中々に面白い小娘だ」

 

 そう。趙雲は李信が自分に誰かを重ねていることに気づいていた。しかも李信は、決死の覚悟で挑んでいる自分に対して劉弁の言うとおり手心を加えている。趙雲が全力を出し続ければ命を拾えるようなぎりぎりの手加減をしながら攻撃を放ち続けていた。それは趙雲の伸び代を鍛えるため。彼女の限界を突破させ続けるため。死闘の中での鍛錬を李信は趙雲に課し続けていた。彼女程の武人が、目標として定めた、憧れの男によるそれを屈辱として感じぬはずがない。

 

 もっとも……お前の感じる屈辱の意味がどちら(・・・)であるのか。それ次第でお前の価値は決まってくるぞ、小娘。

 

 もはや興味はない。物言わぬ背中がそう語っている劉弁は、踵を返してこの場から立ち去っていった。

 

 

 

 

 

 自分の呼吸が今だ通常に戻らぬことを自覚しながら趙雲は一寸たりとも李信から目を離すことはなく、彼女の視線を浴びつつも李信は無言のまま天を仰いだ。影龍指(・・・)か……とぽつりと呟きながらズキズキと痛む頭の傷が、彼の思考を鮮明に、明瞭にしていく。空一つない蒼天を見上げた李信の脳裏に思い出されるのは、かつて宮中で曹操孟徳とであったときの会話であった。生きながらにして死んでいる。未完の覇王にかけられた言葉を思い出す。そんなつもりはなかったが、年月が経つに従ってどこか自分が寝惚けていたのではないか、と自嘲した。

 

 自分が秦の六大将軍として過ごした黄金の日々。それに比べればどこか心の火が燃え上がっていないことに意識せずとも気づいていた。呂布との戦いのみが李信を遥かなる過日へと誘ってくれる。傲慢に聞こえるかもしれないが、それ以外の相手に心が沸き立つことは滅多にないのが事実であった。それほどまでに、李信が生き抜いてきた戦乱のあの時代は全身全霊をかけて戦いに明け暮れる凄まじい日々だったのだ。自分は決して有り得ないと理解しつつもそれの代わりとなるものを自然と求めていたのかもしれない。

 

「……悪かった」

 

 かつて手も足も出なかった三大天の廉頗もこのような気持ちであったのか。そして、自分にそれを気づかせた趙雲に王賁のみならず少年時代の自身も重なった。昔の血気盛んであった自分がこのような真似をされればどう思ったであろうか。いや、考えずともわかる。馬鹿にするな、とおおいに憤ったに違いない。故に李信は素直に謝罪を口にした。

 

「その謝罪……受け入れる理由はありませぬ」

 

 何故ならば、趙雲がここまで憤怒に燃えている理由はただ一つ。自分の弱さ(・・・・・)に対してだからだ。手を抜いた李信へではなく、それをさせてしまった自分の力の無さ。それに怒りを覚えた。李信が自身の思考行動を反省している以上に、彼女もまた中華七槍を打ち倒しどこか自分が驕っていた事に気づかされた。

 

「ですが、敢えて言うならばただ一つ。私に誰かを重ねるのは止めて頂きたい。貴方の前にいるのは、この私。趙子龍であるのですから」

「……それについては言葉もない」

 

 戦いの中で趙雲に王賁の姿を重ねていたことは紛れもない事実。彼女が李信に食らいついて来れる実力者であったのがまたこんな現状を作り出してしまった。ガシガシと自分の頭を掻きながら李信は、空に向けていた顔を趙雲へと向ける。改めて見る彼女は怪我こそないものの限界ぎりぎりの動きを続けていたため疲労によって満身創痍にも見えた。

 

「一つ確認するが、まだやるか?」

「無論。我が心は、身体はまだやれると猛け吼えていますぞ」

 

 にやりっと笑みさえ浮かべる神槍はどこまでも頼もしく、逞しく。

 

「そうか。それなら、これまでの侘びだ。俺の全力(・・・・)を見せてやる」

 

 ゆらりっと両手で大矛を握り締めて空に掲げる。それだけの行動で趙雲には李信の肉体が数倍に巨大化したと幻覚さえ見せられた。身体が、精神が、萎縮していく自分を叱咤して、彼女もまた龍牙を構えた。

 

「子龍。お前に一つ言いたいことがある」

 

 静かに、李信は離れた愛しい敵に向かって穏やかに語りかけた。

 

「俺が勝ったら、軍に入れ」

 

 理由も、理屈も、道理も、意味も事情もなにも知らん。お前の全てを俺にくれ。

 

「有り難きお誘い。ですが……それは無理かと」

 

 何故ならば私が勝つからです。

 

「くっ……ははは。カカカっ!! 良い女だな、お前は。なぁ、趙雲(・・)

「恐れながらもう一声頂きたい」

「ふはっ……ああ、訂正しよう。最高に良い女だよ、お前は」

「はい、知っております。李信殿」

 

 だから死ぬなよ。

 

 怨、と世界が闇に染まった。大将軍李信の全力全盛の開放。呂布の時同様、或いはそれ以上の喜びを胸に李信は趙雲を愛すべき闘争相手だと認識した。天に向かって掲げる大矛は、まるで龍が鎌首をもたげたかのような光景で、指一本を動かすどころか直接喉を掴まれたのではと思わせる重圧を放ち続け、声を出すことも出来ない状況がここにはあった。渦巻く戦意、殺意に狂気。圧倒的な力を持って万象全てをひれ伏せさる最強の武将の鬼気が迸る。

 

 対する趙雲は、ふぅぅと深い呼吸を一つ。意識を、精神を、心を研ぎ澄ましていった。これ以上ないほどに、戻れなくなっても構うものかと自分自身を深淵へと導いていく。自分の感覚の余分となるもの全てを閉ざし、必要な器官にそれら全てを回す。世界が色をなくしていく。無音の世界へと到達する。これまで一度たりとも入れなかった、いやあるとも考えていなかった領域へと趙雲子龍はついに侵入した。

 

 そして、二人の争いの開始は実に些細なものだった。カタンっと緊張に耐え切れなかった誰かが武器を落とした音と震動。それが静かなる均衡を崩す切っ掛けとなる。

 

 趙雲の肉体が確かに消え失せた。衝撃も何もなく、彼女の身体は初動が最高速度となって神速の世界へとたどり着く。いや、それはもはや神速などという類の速度ではなかった。

 

 神速とは文字通り神が如き速度。

 だが、今の趙雲の動きはその表現を遥かに逸脱している。ならば、この状態の彼女をなんと称すればよいのか。敢えて言うならば、もはやこれは神の領域の迅速なり。即ち―――神域。中華におけるありとあらゆる武人を超越した最速が、龍牙を持って李信へと肉薄する。彼女の姿はまさしく地上に顕現した流星。神域に至った趙雲の槍は、彼女の異名通り神をも殺す槍となって戦場を支配する鬼神を穿つ。

 

 

「―――ルァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 

 それでも、忘れること勿れ。

 趙雲が立ち向かうは、人にして天を否定せんとした武神龐煖を倒した者。人では不可能のはずの春秋戦国時代の統一を成し遂げた三皇五帝を越えし現人神始皇帝の金剛の剣。趙雲が神をも貫く槍だとしても、当の昔に既にそれを為した人を逸脱した個の最強にして天下の大将軍だということを。神槍が李信を貫こうとする中、天から堕ちてくる大矛が力も技術も速度も一切合財全てを無視して振り降ろされる光景を趙雲は確かに見た。それはさながら黒く眩く輝く彗星の如し。この一撃の前にはあらゆる存在が無意味無価値となって散る。

 

 そして李信の大矛は趙雲の全てを凌駕し、彼女ごと地面に叩き落とした。瞬間、凄まじい轟音が練兵場のみならず洛陽を揺らす。事情を知らぬ者は天変地異の前触れかと怖れ慄き、事情を知っている者もまたその凄惨たる爆撃染みた一撃に驚天動地の心境であった。あまりの衝撃の大きさに大きく立ち昇る砂埃。李信と趙雲を包み込み、二人がどうなったかわからずに、戦いを見ていた者達は口から心臓が飛び出そうになるのを抑えながらじっと砂塵が治まるのを待っている。数十秒が経ち少しずつ視界がはっきりとしてくる中で、観客の視線がようやく現れた李信の背中へと集中した。

 

 大矛を振り下ろした体勢で微動だにしない彼の足元に―――趙雲はいた。地面に仰向けになりながら龍牙で李信の攻撃を受け止めたのであろうか、半ばから真っ二つに砕き折れた龍牙が悲壮感を煽る。だが、生きている。李信の大矛は倒れている趙雲の頭の上に振り下ろされており、間一髪のところでその魔手から逃れることに成功していた。見下ろす李信と見上げる趙雲。

 

「……凄まじい、ものですな。これが……貴方の……本気ですか」

 

 かふっと吐血する趙雲は全身の服の至る所が破れ、数え切れない裂傷を負っている。李信の一撃を受け止めきれずに大地に叩きつけられた結果、もはや指一本動かす余力もなかった。それも当然であろう。大地を震撼させる大将軍本気の一撃だ。身体中がばらばらになったと一瞬勘違いを趙雲がしたとしても羞じることなどあろうか。

 

 大矛を引き、手元に戻した李信は見上げる趙雲に背を向ける。強かった。見事だった。如何に言葉で褒め称えようが結果は李信の圧勝だ。それらの言葉は無粋にしかならない。ならば口に出す台詞は一つだけ。

 

「趙雲。俺は何時までもお前を待っている」

 

 期待と興奮が去っていく李信の背から溢れてやまない。千の言葉を紡ぐよりも余程雄弁に彼の背中が趙雲を欲していると語りかけてきていた。それを眼で追いながら―――神槍は静かに眼を閉じるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

「星ちゃん遅いですねー」

「確かに。少々時間がかかり過ぎているようですが」

 

 李信と趙雲の手合わせから五日が過ぎた。趙雲の身体が完治とまではいかないまでもある程度動けるようにようやくなった彼女達は旅を再開させようと準備を終え洛陽の東門へと集まっているところであった。幸いにも乏しくなった資金を、今回の褒賞で賄えたため随分と旅が楽になったとホクホク顔の程昱と遅刻している趙雲のせいか難しい表情の戯志才の二人が百万都市洛陽の行き交う人を眺めながら時間を潰している。戯志才と程昱が集合場所に来てから既に随分と時間が経っており、ここまでの遅刻は流石に趙雲といえどこれまでなかったことに一抹の不安を覚えたその時であった。

 

「すまない、二人とも。遅くなった」

「ようやく来ましたか、星殿……ところでその格好は?」

 

 人波をかきわけて現れた趙雲に返答した戯志才であったが、彼女の姿に素直に疑問をぶつけた。何故ならば、趙雲は旅支度を全くしていなかったからだ。旅慣れている彼女だからこそ、このような軽装などありえない。ならば何故と疑問を覚える戯志才とどこか察した表情の程昱に向かって―――神槍は深々と頭を下げた。

 

「すまぬ、それしか言えないが許されるならば幾らでも二人には謝罪しよう」

 

 私は二人とともに行かない。

 

「稟……お主が曹孟徳殿に仕えるまで。風……お主が日輪を見つけ出すまで。それまで二人の護衛として友として一緒にいることを約束しながら、それを違える事に謝罪の言葉もない」

 

 趙雲子龍が一度した約束を破る。それは武人としても許されぬことであるし、自分の誇りを汚すことに他ならない。だが、それでも……それでもだ。

 

「如何なる約束も、決意も、誇りよりも―――武へ対する想いの方が遥かに重い」

 

 常山で生まれ、師のもとで武に染まり育てられ、旅に出て以降も強敵達との戦いを経験した。

 そして遂には飛将軍李信との全身全霊捧げての闘争。そのなんと美しく、輝き、眩くも身を焦がす甘露なひと時。それを経験して、体験してはっきりと理解した。心がそれを受け入れた。

 

 

 武が趙子龍(・・・・・)の全てだ(・・・・)

 

 

 

 一寸の迷いなく語りきった趙雲の下げる頭を見ていた戯志才であったが、ふぅとどこか困った表情で笑みを浮かべた。

 

「謝る必要はありませんよ、星殿。逆にこれまで護衛して頂いた感謝を私達の方こそ言わねばなりません」

「そうですよー、星ちゃん。今まで有難うございました」

 

 だから頭をあげてください、との戯志才の言葉にようやく趙雲は頭を上げる。責められなかったことに幾分かの後ろめたさを感じながらも、二人の気遣いに感謝の念を送る。そして三人は別れの挨拶を幾つか交わすと、趙雲は来た時同様に雑踏に紛れて姿を消していった。友を見送った戯志才と程昱であったが、趙雲の姿が消えてからしばしの沈黙が訪れる。やがて、ふとした調子で戯志才が独り言のように呟いた。

 

「それにしても残念でした。星殿ならば或いは……とも思いましたが」

「或いは……とはどういうことですか、稟ちゃん」

 

 独り言染みたその真意を見極めることが出来なかったのか、程昱が聞き返す。しばらく口を閉ざしていたが、一分が経ち二分が経ち、やがてようやく戯志才は若干の恐れを乗せて言葉を発した。

 

「星殿……趙子龍。私はあの人ほど武に狂っている(・・・・・・・)武人を知りません」

 

 何時如何なるときも冷静沈着。どこか世の中を斜に見て捉えている彼女ではあるが、その本質は武へ対する執着心に溢れている。それは先程の会話でも理解出来ることだ。それに加え、李信との争いで見せた闘争本能。どれだけの力の差があろうとも全力でぶつかっていく彼女に友であったとしても恐れを感じずにはいられない。

 

「……兎に角、二人旅では危険過ぎます。一緒に行ける隊商がないか探してきますね」

 

 ここで待っていてくださいと戯志才は程昱を置いて人波の中に歩み去っていく。戯志才がいなくなって一人残された程昱だったが、先程の台詞を思い返す。武に狂っている……なるほど。言い得て妙だがそれは的を射ている。確かに趙雲はその言葉こそが相応しい。思わず納得がいく程昱だったが、だからこそ惜しいと思った。後一歩だ。後ほんの僅かなところまで戯志才は辿り着いていた。

 

「……詰めが甘いですねー、稟ちゃん」

 

 いや、或いは自分もまた李信と以前出会えてなかったならば同じ判断を下したかもしれない。それを考えれば戯志才への評価は些か厳しいものであろう。確かに趙雲は強い。武へ対する想いも尋常ではない。闘争への本能はもはや狂っていると称するしかないであろう。だが、それでも足りない。絶対的に不足している。李信は違う。違うのだ。あの男はそんな表現でおさまるような怪物ですらない。力、技術、速度、心、それら全てが人の枠組みに入れて考えるべき存在ではないのだ。ガチガチと歯がかみ合い音を立てる。自然と這い上がってくる悪寒から守るためにも両腕で自分の身体を抱きしめた。あの男は。あの人は。あの将軍は。あの天蓋の存在は―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 武が狂って(・・・・・)いるのです(・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――風」

 

 カタカタと震える自身を抱きしめていた程昱がハッと顔を上げれば、その視線の先には何時の間にか戻ってきていた戯志才がいた。彼女は目を大きく見開き、信じられないものを見たといった様子で程昱を見つめている。

 

「稟ちゃん……どうかしましたか?」

 

 尋常ではない様子の戯志才に、出来るだけ何時もの調子を取り繕って問い掛ける程昱であったが、肝心の友はまるでその問いかけが聞こえていないように―――。

 

何故笑って(・・・・・)いるのですか(・・・・・・)?」

「―――え?」

 

 戯志才の言葉に反射的に自身の口元に手を当てる程昱。笑っていた。確かに哂っていた。程昱仲徳は、狂った三日月のような笑みを浮かべて嗤っていた。何故。どうして。それが理解不能であったのは一瞬で、明晰な彼女の頭脳は瞬時にそれの答えを導き出す。

 

 ……ああ、そうですか。そうなのですか。

 

 理解してしまえば後は簡単だ。それを否定する材料はなく、自身が出した答えに間違いはないだろう。この笑みが意味するところ、それは頂点を見たことへの興奮。そしてそこへと挑戦することが出来る歓喜。その瞬間、震えていた身体はピタリっと止まった。自身の震えは、恐怖から来るものではなかった。ああ。ああ……ああ、稟ちゃん。貴女のせいです。貴女の責任です。

 

 ……いいえ、誤魔化しようはもはやないですね。貴女のおかげです、稟ちゃん。貴女が言わなければ、指摘しなければわからなかった。至らなかった。自分自身では永遠に気づかなかったでしょう。

 

 これは、そう―――ただの武者震いでしかなかったのだ。最強への、極点への、畢竟へ至った存在と相見えることへの感謝であり、感動であり、魂が揺さぶられるほどの衝撃が全身を包む。もはや李信への恐れはない。怖れる必要などない。畏れることなど微塵もなかった。逆だ。もはや逆の気持ちしか抱けない。日輪を夢に見、求め欲し探し続けてきたのはきっとこのためだったのだ。本来であれば日輪に仕えるだけで満足できたのかもしれない。

 

 だが、彼女は出会ってしまった。至強へと至った頂を見つけてしまった。軍師としての本能が、自身をそこへと挑戦させようと心臓を叩き、吼える。よくぞ、よくぞ、よくぞ……自分の前へと現れてくれた、と万感が胸に迫り、感極まるほどの喜び。ある種の狂喜とも言えるそれが沸々と溶岩のように全身から噴出し、全てを熱し焦がす。この気持ちをなんと表現すればよいのか。ああ、これはあれだ。あの言葉こそが相応しい。初めてその言葉を知ったとき意味が分からなかった。馬鹿らしいとさえ思った。きっと自分には一生縁がない言葉なのだろうと理解すらしていた。自分の範疇から無意識のうちに排除していたその言葉。それは―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 心が躍る(・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 きっとこれこそが、この気持ちこそが、この感情こそが、そうなのですねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数多の軍師が名を残したこの時代においてなお、最高の軍師として名を馳せた大将軍李信の四傑筆頭である龐統士元。謀神とも謳われた正真正銘の人知を逸した智の超越者。そんな彼女を傍に侍らしていた李信でさえも、怪物(・・)と称えた軍師が二人いる。そのうちの一人―――程昱仲徳が今ここに目覚めの産声を上げた瞬間であった。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 




韓遂>我、下克上される。

《四傑》        《一龍五虎将》
①龐統士元       ①徐晃公明
②           ②
③           ③
④           ④
            ⑤

・二度に渡って逃げ出した程昱さんですが、相性的には主人公とはいいんですよね。勝手な作者の判断ですが。軍師としての能力抜きにして単純な相性だけならば
①程昱仲徳
②賈詡文和
③張昭子布
になると思います。

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