真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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第25話:豫州黄巾討伐

 

 

 

 

 

 

 

 

 官軍と黄巾賊の争いが続いている中原地域。特に勢力の強い地方である豫州潁川では、黄巾党指導者波才が挙兵をした。この男所謂天才と呼ばれる類の人間であり、武官文官としての能力は一級品。あらゆる能力が高い領域でまとまっている稀有な人物でもあった。そんな彼の行動は素早く、豫州の黄巾党を僅かな時間で纏め上げ、皇甫嵩と朱儁が豫州へと征伐に乗り出した情報を聞くや否や、二人の将軍が合流する前に朱儁軍へと攻勢を仕掛けたのだ。慌てたのが朱儁率いる討伐軍である。奇襲を受けた彼らは持ちこたえることが出来ず撤退し、それを容赦なく追撃をかける波才の勢いは凄まじく、皇甫嵩までもが勢いに呑まれ彼女もまた軍を退かざるを得ない状況に陥ったのだ。結果、二将軍は長社にて籠城を余儀なくされるのであった。しかし、城に籠もった官軍を見逃すはずもなく、波才は大軍を持って長社を取り囲み攻城戦を仕掛け、もはや官軍の命運は風前の灯火と思われた。

 

 

「……落ち着かん。心がざわついているな」

 

 既に夜の帳が降り、攻城の手を止め見張りのみを残して多くの兵士が休んでいる時分。長社を取り囲んだ黄巾賊の大軍から少し離れた場所に構築した兵站の補給地にて、砦の門に背を向けた波才が見張りの兵士とともに夜風に身を任せていた。瓢箪に入れてある水を口に含み、口内潤してからゆっくりと嚥下する。僅かな水が身体中に染み渡っていくが、落ち着く為に飲んだはずの水だったが、妙な胸騒ぎはおさまる事はなく気分が晴れることは一向になかった。目の前に広がる一面の草原。広がる草原の草花が夜風にゆれ、音を立てるそれが波才の心を表しているかのようであった。

 

 現状の結果だけを見るならば、波才率いる豫州黄巾賊の圧勝であり、士気の高低は比べるまでもない。だが、それはあくまでも薄氷の上を慎重に渡り小さな勝利の光明を引き寄せたからだ。もしももう少しでも朱儁への攻勢が遅れていたならば、彼女は皇甫嵩と合流して此方が官軍の勢いに呑まれて敗北を喫していたであろう。彼の才は誰もが認めるところではあるが、それでも皇甫嵩と同戦力でぶつかって勝てると思っているほど驕ってはいない。彼女もまた自分を超える天才であることを骨身に理解しているからだ。その皇甫嵩が、籠城以外の手を打っていない筈がない。何かしらの逆転の策を練り、実行するはずだ。それを見破り、打ち破らねば黄巾党の頭上に勝利旗が掲げられることはないだろう。本来ならば大将である波才は休むべきであったが、どうしても休む気になれず目が冴えていたこともあり、黄巾党が陣を敷いている重要な地点に顔を出しているところであった。

 

「波才様」

「ご苦労。見回りか?」

「はい。今のところは異常はありません」

 

 見回りの兵士を労いつつ、渇いた喉を潤すためにもう一度瓢箪に口をつけ水を流し込む。彼の姿を見た兵士は目をしばたたかせた。

 

「波才様は酒をたしなまれないのですか?」

「酒か。普段は飲むさ。しかも前後が不覚になるくらいにな」

 

 ははははは、と大きく笑った波才に黄巾の兵士は首を捻る。

 

「ならば何故水を?」

「なに。確かに今は順調だ。このままいけば我らの勝利は揺るがぬだろうさ」

 

 事実、この豫州黄巾党の皆がそう思っているであろう。相手は長社に引きこもるばかり。近いうちに攻城戦は終わり、官軍を殲滅できるはずだ。

 

「だが、相手は皇甫嵩将軍。漢王朝でも指折りの戦上手だ。油断、慢心……見落とし。それらを極力削っていかねばならん。故に今は酒を断っている」

 

 波才より攻城戦が終わるまでは酒の禁止を言いつけられ、それに対しての不満が黄巾党のなかでもそれなりに聞かれていた。酒を飲むことは悪いことばかりではない。身体を暖め活力をもたらし、憂さを散じて士気をあげる。戦場において兵士にとっては酒は重要なものであるといえた。だが波才の言を聞き、酒が飲めない事に関して不満を持ったことに兵士は自分を恥じた。そんな時、まるで波才の言葉に呼応するかのように遠くにて兵の、馬のいななく声が聞こえ始める。

 

「波才様、今のは……!?」

「……官軍だ。夜襲とは、随分とおもいきった真似をする」

 

 急いで本陣に戻らねば、と考えた波才の動きが止まった。嫌な予感がチリチリと背筋を焼いてくる。果たしてこのまま本陣に戻って良いのか。奴らは何を考えている。皇甫嵩ともあろう将軍が単純に夜襲を仕掛けて終わりなのか。そこまで思考して、一つの答えに辿り着いた。

 

「狙いは兵糧か」

 

 黄巾党としても飯がなければ戦えない。運が悪いことにこの周辺には村や町がなく食料の補充が難しい。対してあちらは長社にて恐らくは十分な兵糧を備えているはず。後は此方の兵糧を焼き払えば、何時までもこの場にとどまることは出来ない。

 

「今すぐ本隊へと伝令に走って援軍を要請してこい。敵兵の数はわからんが、ここを焼かれれば我らの敗北となる」

「は、はいっ!!」

 

 何かあったときは副将や補佐の者達に対応は任せてある。それに官軍がここに兵糧があることを知っているのかわからないが、万が一に備えたほうが良いのは英断のはず。大量の物資が山のように蓄えられているこの拠点の簡易ではあるが城門を閉め、波才は兵士を呼び寄せ陣組んだ。ここは平原、身を隠す場所がない故に、官軍としても一気呵成に攻め入ることは分かっていたが―――それでも敵の動きは速すぎた。平原の彼方から官軍が姿を見せたと思ったら、波才が守る拠点へと躊躇いもなく攻勢を仕掛けてきたのだ。まるでここに兵糧が隠されている事を知っているかの動きに疑念を覚えるものの、そんなことにかまけている暇はない。何故ならば、既に城門が破られようとしている光景を目の当たりにしているからだ。疾風迅雷を体現した官軍に、開いた口が塞がらない。これまで戦ってきた官軍の兵士とは目に見えて錬度の高さが違っている。夜の闇の中でも映える赤い鎧で統一された兵団は、少数ながら死すら怖れずに黄巾賊へと特攻を仕掛けてきていた。一兵卒とは思えない彼らの強さに、内心では動揺するものの、指揮官が揺れれば軍全体に行き渡る。努めて冷静な表情を崩さずに、自軍へと指示を出し続けた。

 

「良いか、皆の者よ!! この戦いは敵兵を倒すことが目的ではない!! 時を稼ぎ、援軍がくるまで持ちこたえることが目的だ!! 我らに求められているのはそれだけだ!! それが我らの勝利であるぞ!!」

 

 波才の鼓舞に、黄巾党の皆が自分を奮え立たせる雄叫びを上げた。もっとも今攻め入ってきている赤備えの兵士達相手にそれを為すことがどれくらい難しいのか波才自身が気づいている。それでも己の心を叱咤して、腰元の剣を引き抜いた。それと同時に城門が破壊される音が響き渡り―――彼の視界に飛び込んできたのはようやく少女という枠組みを外れた若い女。黒髪を靡かせ、巨大な剣を振り回し、縦横無尽に戦場を駆け回る剣鬼。

 

「曹孟徳が配下、夏侯元譲!! 貴様らの首級貰い受ける!!」

 

 黄巾賊が構える武器毎叩き斬っていく怪物が、目に見える全ての敵を打ち倒そうと吼え猛る。彼女の隙を突こうとした者も、何処からか飛来した瞬矢によって脳天を貫かれ地に伏せた。その正確性、間断なく次々と放たれる矢が黄巾賊の屍の山を気づいていく、どこから来るか分からない攻撃に彼らは皆脅え竦んでいた。そして、そんな彼らは夏侯惇の良い獲物にしかならず、彼女の後から続く赤備えの兵士達もまた容赦なく敵兵を仕留めていく。

 

「落ち着け!! 兵数はまだ此方の方が勝っている!! 冷静に対処―――」

 

 波才の指揮を遮る一頭の馬が場内へと疾駆してきた。最初に見えたのは、赤備えの兵士とは対極の蒼。月光を反射させる鎌を携えた爛々と蒼天の如き瞳を輝かせた少女の姿。だが、不思議と彼女―――曹操孟徳の姿から目を離せない。異常なまでの引力を放つ彼女に、波才はここが戦場であることを忘れ呆然と見惚れてしまった。だが、彼もまた並々ならぬ傑物である。数秒の時間を奪われはしたものの、迫り来る曹操へ対応する為に改めて周囲の兵士に指示をだした。

 

「槍部隊、陣を崩すな!! 受け止めよ!!」

「了解しました!! 波才様!!」

 

 波才の指示にしたがって、長槍を構えた黄巾の兵士が前へと出て単騎駆けしてくる曹操へとそれぞれの穂先を向けた。だが、幾人かの兵士を貫く不可視の狩人の飛矢が突き刺さり陣形を崩す要因となったそこに、短い呼吸音とともに薙ぎ払われる大鎌。小柄で細身な曹操の一撃は、されど自分へと迫り来る槍を断ち切り、幾人かの兵士の首をとばした。自分達の大将の一騎駆けに奮い立たない配下の者達ではなく雄叫びをあげながら曹操の後へと続いていく。中でも夏侯惇は、華琳様に何をするかーと吼えながら湧いて出てくる敵兵を潰していた。そして、曹操はくるりっと周囲を見渡して、彼女の瞳が波才を見るや否や、口元を深く歪める。浮き足立つ兵士には目もくれず、曹操はただ波才へと向けて馬を走らせた。

 

「―――あなたが指揮官ね。悪いけど、その首頂くわ」

 

 波才が曹操の一撃を受けることが出来たのは防衛本能からくる反射であった。だが少女の細腕から放たれた一撃とは思えない超重量級の威力のそれに、彼の身体が軽々と吹き飛ばされ陣地の土の上を転がっていく。痛みを堪えて立ち上がるも、その姿に曹操が僅かに驚いた表情を見せる。

 

「見事。私の攻撃を受けて息があるのは賞賛に値するわ。あなたの名前は?」

「……人の名を聞くのならば、まずは名乗るのが礼儀ではないか」

「―――ええ、そうね。失礼したわ。私の名は曹操。曹孟徳」

「聞いたことがあるぞ、その名。十常侍の親戚を殴り殺し洛陽から遠ざけられた不運の若き俊英の名と記憶しているが」

「失敬ね。あれは相手の罪へ対して刑を執行しただけよ。それに栄転といってほしいわね」

 

 くすりっと笑う曹操に対して、向かい合っているだけで冷や汗が止まらない波才。なんとかしてこの窮地を乗り越えねばならないというのに、曹操の蒼天の瞳はそんな彼の心を全て見通しているかのようであった。

 

「無駄よ、波才様(・・・)。先程あなたそう呼ばれていたわね。まさか兵糧を焼きに来て豫州黄巾指導者と遭遇するとは思わなかったわ」

「―――っ」

 

 舌打ちの一つでもしてやりたい心持ちの波才だったが、目の前で鎌を夜天に向けて掲げる曹操の姿に目を奪われた。それは龍が空に向かって鎌首を持ち上げた姿を連想させる光景でもあり、知らず知らずの内に波才は曹操という覇王の器に心を掴まれたことを自覚する間もなく、彼は逆転の一手を練る思考を放棄していたことに最後まで気づくことはなかった。

 

「その首級。我が覇道の礎としてあげる。心置きなく旅立ちなさい」

 

 艶やかに笑う曹操の鎌が一閃。 

 豫州黄巾指導者波才―――騎都尉曹操孟徳により討ち取られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

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 曹操孟徳が奇襲を仕掛けたのとほぼ同時刻。

 長社を包囲していた黄巾賊の本陣には皇甫嵩の軍による夜襲が行われていた。だが、黄巾賊一党も波才からの命により注意を怠ってはいなかった故に、崩れることはなく逆に官軍の攻勢を押し返し始めている。次々と討たれて行く官軍の兵士達が及び腰になった時の事であった。

 

「退かれよ」

 

 凛とした声が暗闇の中に響き渡る。それが誰が発した声なのかすぐに敵味方問わず理解した。その発生主へと誰もが自然と視線を集中させ、自ずと官軍の兵士達は道を開けて行く。誰もが息を呑み目を奪われる美しい武将の姿がそこにはあった。磨きに磨きこまれた刃の如き美しさ。或いは、夜天を駆け抜ける稲妻のような勇壮の美。長く煌く黒髪が、戦場の風になびいている。金色に輝き深く澄んだ瞳。こんな場所にいなければ名門貴族の令嬢と間違えられてもおかしくはない完成された美。だが、決してそれを考えさせない完成された武。相反した二つを内包する戦場に舞い降りた女神か。或いは天より落ちた静かなる武神か。手にした巨大な青龍偃月刀が月光の光を反射しており、容易く掲げる彼女の姿に誰もが見惚れ、惹かれた。

 

「……何者か!!」

 

 周囲全ての兵士を魅了した生きる武神の歩みに我を忘れていた副将―――馬元義が己を奮い立たせる意味も込めて力強く誰彼と問うた。

 

 

「貴殿らの命。中山靖王劉勝が末裔、劉玄徳が腹心……この関羽が貰い受ける」

 

 関羽雲長。彼女の名前とともに黄巾官軍両方に漣が広がっていく。彼女の名を知る者は生憎といなかったが、誰もがただならぬ者であることを悟ってはいた。そして、自分たちでは到底及ばぬ傑物であることもまた。

 

「笑わせおる!! たかが小娘が何をほざくか!!」

 

 斬って捨てよ。関羽が並々ならぬ者であることなど一瞬で看破した馬元義ではあるが、このままでは敗北は必至。流れを取り戻そうとする馬元義の命とともに、黄巾賊の群れが一斉に関羽へと襲い掛かった。彼らには信仰があった。国をよりよくするために命を賭ける覚悟があった。ただの農民などではなく、本物の戦士であることは疑いがなかった。

 

 だが―――敵陣が割れた。真っ二つに、圧倒的な個による進撃が全てを破壊する。

 

 そこにいるのはただの一人。完成された個。完全な武。後の世にて英雄多き乱世にあって、なお武神と称される将。刀槍の森が、僅か一人を飲み込み潰すことが出来ない。逆に彼女の武威に恐れ戦き、後退までし始める始末だ。それも当然、既に事切れた数百の黄巾賊の兵士が彼女の周囲には転がっているのだから。

 

「なんだ、この武は!? これが、これが人に許された力だというのか!!」

 

 此方の兵数は圧倒的だというのに、それを歯牙にもかけない関羽が青龍偃月刀を振るう度に人が消し飛んでいく。関羽雲長のそれは、個人的な武勇でどうにかできる範囲を超えていた。文字通りの一騎当千。恐怖が黄巾賊の兵士全てに伝染していく。

 

「見事だ、関羽よ!! だが、戦場を一人で支配できると思うな!!」

 

 怯み脅える黄巾賊の中から一騎が名乗りを上げる。その男は堂々とした面持ちで矛を携え夜天へとかざし馬を駆ける彼の身体は風となり、馬上から地に立つ関羽へと矛を振り下ろした。騎馬対歩兵。そこに生まれるのは絶対の有利不利。されど関羽は焦りを微塵も見せずに青龍偃月刀をいっそ軽やかに切り上げ―――馬ごと襲い掛かってきた男を真っ二つに両断した。この日を切っ掛けとして武神と敬われることになる関羽雲長と彼女の主である劉備玄徳の名は中華に轟くこととなった。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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 孫堅軍を吸収し豫州へと荊州宛城から発ち北上を開始していた李信軍ではあったが、その途中で新たな黄巾賊と会敵する。その敵数はおよそ三万程度。敵意が薄く、李信軍の姿を見るや否や、恐怖にも似た怯えを見せ始めた。

 

「……どこかで見覚えがある軍じゃな。公覆、目が良いお主なら分かるのではないか?」

「ああ。恐らくは先日討った揚州黄巾の残党ではないか」

 

 張昭と黄蓋の会話の通り、李信軍の前に姿を現したのはつい先日首魁二人を討たれた揚州黄巾賊の残党であった。流石に十万の兵を全滅させたわけではなく半分以上が逃げ散っていったのだが、再び集合し徒党を組むとは誰もが予想もしていなかった。あれだけの一方的な戦いを見せ付けられてなお戦う気概を持てるのは、むしろ天晴れと褒め称えたくなるほどだ。だが、それでも先日の戦の恐怖は残っているだろう。彼らの脅える姿は至極当然ともいえた。

 

「うむ。もっとも誰かしの纏め役はいるじゃろう。幾ら信仰に厚いといっても、指導者がいなければこうも早く兵を再編することなぞできはせん」

 

 張昭の読みは的中していた。李信軍の追撃を受けて散り散りとなった揚州黄巾党であったが、彼らは新たな指導者の下李信軍を足止めすべくこうして集結したのだ。しかし、所詮は逃亡兵によって大多数が構成されている軍。合戦が開始するとすぐに黄巾賊は崩れ始めた。

 

「に、逃げるな!! 戦え!!」

「ここは退きましょうぞ、張燕様!!」

 

 必死に軍を立て直そうとする指導者張燕だったが、それが無理だと判断したのか彼もまた三万の兵士とともに撤退を始める。それを逃すような李信軍ではなく、逃亡している部隊の後続の兵士を次々と討ちながら追撃を開始した。先日の戦の巻き戻しを見るかのような一方的な殺戮。それでもなお逃げる黄巾賊。敵将も悲鳴をあげながら無様に逃げ延びようとするそれに、孫堅軍もまた功を得ようと血気盛んに追い討ちをかけた。既に数千の兵が討たれた現状を知りながら馬を走らせる張燕は―――不気味に笑う。

 

「良いぞ、ついてこい。化け物どもよ。目に見えた餌は美味かろう。お前達のような存在と真正面からやりあうなんざ、真っ平御免だ」

 

 黄巾へ対する信仰は皆無。黒山賊と呼ばれる賊の頭領である彼は、黄巾党を隠れ蓑として略奪虐殺を繰り返してきた。そんな彼が離散した揚州黄巾党の残党を吸収し、李信軍との戦いの状況を聞いた結果理解できたことは、彼の軍とは正面からあたっても絶対に勝てないということだ。ならばどうすればいいか。真正面からやりあわなければいい。一万という、自分たちから見れば大人数とはいえない李信軍をどうにかして削ればよい。そしてそういった搦め手は山賊である自分達の得意技でもある。

 

 逃げる。必死になって逃亡する。黄巾兵が背後から裂かれ、貫かれ、断たれ、撃たれ、潰され、刺され、穿たれ、突かれ、斬られ、削られる。無残で凄惨な光景が広がっていくなか、やがて黄巾賊はある場所へと逃げ込んだ。両側を高い崖で挟まれた一本の狭路。進む軍は細くなり、身を隠す場所も無ければ進む道も前か後ろの二箇所のみ。伏兵、奇襲、計略を用いるのにうってつけの地形となっていた。

 

 これが敵の誘いであることは明々白々。それを悟ることはできるだろう。だが、ここまで黄巾賊を追い込んでいながら、敵将の首が見えている状況で、果たして軍はその勢いをとめることが出来ようか。出鱈目な強さを誇る李信軍だからこそ、誘いに乗るに違いない。何を仕掛けてこようと、数万の伏兵が待ち受けていようと、それら全てを粉砕する圧倒的な突破力を秘めた李信軍が止まる筈がない。

 

 狭路を張燕が抜け切ったその瞬間のことであった。左右の崖の上から降り注いでくるのは巨大な岩石。丁度狭路の出口を塞ぐように幾つもの岩が落とされてきた。それは道を抜けようとしている黄巾賊を(・・・・)押し潰し(・・・・)完全に出口を塞いでしまった。それはまさに惨憺たる有り様だ。まさか味方がまだ抜けていないというのに策を仕掛けるなど誰もが想像にしていなかったことであろう。だが、これが張燕の策でもあった。李信軍と、李信を罠に嵌める為に撒いた餌。李信軍と戦い破れた振りをし、追いつける範囲で撤退する。そして狭路において味方が抜けきった状態ではなく、その途中で巨岩を落とす。黄巾賊二万人近くを生贄前提にした罠。それが高いとは思わない。噂に、揚州黄巾賊から聞いた李信軍ならば、これだけの被害に目を瞑ってもお釣りが来るはず。後は、もう一つの出口近辺に伏せていた兵で出口を塞ぎ、両側の崖から油を撒き散らし火攻めとする。如何に凶悪な強さを誇る李信軍とて、火の脅威には勝てまい。歪む口角を自覚しつつ、張燕は笑いを抑えきれない。あの北方の飛将軍を倒したのがただの山賊である自分であるということが面白くて仕方がない。そんな中、崖の上に伏せていた兵士が焦燥の声を上げた。

 

「張燕様ぁ!!」

「如何した? やつらが抵抗しているのか?」

「い、いえ!! 李信軍、見当た(・・・)りません(・・・・・)!!」

「な、なんだと!?」

 

 想定外の報告に張燕は顔を引き攣らせながら現状の把握へと急ぐのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 時間が少し遡り、黄巾賊が丁度狭路へと逃走を開始した頃。李信軍と孫堅軍もまたその経路へと足を踏み入れようとしていた。一方的な戦いの結果に、血と殺戮に興奮している孫堅軍の義勇兵が我先にとそちらの狭路へと特攻を仕掛ける。視野は完全に狭くなっている兵士達を一瞥、クンっと鼻をならした李信が眉を顰めた。そこで大きく息を吸うと―――。

 

「全軍、止まれ!!」

 

 李信軍一万と、孫堅軍二千の兵士全てが反射的にそれに従った。華雄や呂布といった李信軍の幹部のみならず孫堅ら将も同様だ。狭路の奥へと逃亡する黄巾賊を見送りながら、李信は何故か周囲を見渡す。そんな将軍の姿に、孫堅の表情には不満がありありと出ていた。

 

「何故とめた、李信将軍!! このまま奴らの喉笛を噛み千切ってやれただろうによ」

「文台様、少し静かにしてくだされ。ですが、主の言うとおりではないでしょうか。これが敵の罠である事は重々承知しておりますぞ。ですが、李信将軍率いる軍とわしら孫堅軍が力をあわせれば如何なる策でも打ち破れると……」

 

 孫堅を宥める張昭が、代わりにと李信へと進言するも肝心の彼はそれを聞いているのかいないのか。既に黄巾賊の最後続は遥か先へと消え去って、それを追おうとする気配は微塵もない。ならばせめてわしらだけでもと張昭が文台へと献策しようとした瞬間、李信がちょいちょいと彼女を手招きする。一体なにかと思いつつも李信の下へと馬を寄せた張昭の頭頂部に軽く打ち下ろされた手刀。スパンっと小気味良い音が響き渡り、ふぎゃっと涙目になって頭を押さえる張昭の姿に目を白黒させる孫堅軍一向。いや、孫堅だけは面白そうに腹を抱えて笑い出した。

 

「一体なにをするのじゃ!? 如何に李信将軍とはいえ、無礼では―――」

「酔ってるぞ。多少は落ち着け」

 

 真剣な表情の李信の進言に、張昭は言葉が詰まった。二の句が告げないとはこのことだ。李信の言葉を冷静になれば理解出来る。確かに、普段の自分ならば絶対にしない思考でもあったからだ。李信軍と行動をともにすることによって、自分たち本来の力を随分と大きく錯覚してしまっていることに今だからこそ気づいた。よく考えずともわざわざ敵の策略に乗る必要性など一切ないのに、敢えてそこを突っ切り打ち破ろうとする。自分たちの力を過信してしまった結果の答えだ。もっともそれの原因は一緒に行動をしていた李信軍の馬鹿げた戦闘能力にあるのだから、皮肉な話である。だが李信のそれだけの発言で真意を見出し、普段の自分を取り戻す張昭の姿に、ほぅっと感嘆の声が漏れる。

 

「……優秀だな、張子布。出来ればうちに欲しいくらいだ」

「な、なにを仰るか!?」

 

 思いがけない李信の台詞に、面食らったのは張昭子布である。漢王朝最強と目され、実際に見れば納得が出来る将軍の賞賛にカァっと燃えるように頬が赤く熱く染まった。孫堅の最古参の配下として、幹部として辣腕を振るってきた彼女は様々な美辞麗句には慣れている。されど、ここまで裏表のない褒め言葉を受けて嬉しくない筈がなかった。

 

「おいおい。うちの婆に色目を使ってんじゃ……いや、李信将軍。良かったらこの婆いるか?」

「文台様何を!!」

「ちなみに結婚とかしてんのか? してるなら別に側室でも構わんけどな。最悪子だけでも構わんが」

「構いますぞ!! わしを差し置いて話を進めないでくだされ!!」

「うるせぇ。お前もいい歳だろうが。オレの親心がわから―――てっ、悪かったな、伯符。そんな冷たい目でみるなよ」

「……何のことかしら、母様」

「馬鹿、お前。親殺しできそうなくらい冷たい目してんぞ。おちつけ」

「あら。落ち着いてるわよ、私は。ええ。落ち着いてるわ」

「だから怖ぇって。なんだよ、お前。もう少し昔の余裕を持てよ!!」  

 

 そんな会話をする孫呉一党。その会話を聞く李信に疑問が一つ。遥かに年上に見える孫堅から婆扱いされる張昭についてだ。張昭の見掛けはどうみても十代半ば。冗談で婆扱いされているのかとも思ったが、確かにそれくらいの年齢にしては貫禄と冷静さが群を抜いている。ならば韓遂らと同様の若作りか、と勝手に納得してもう一度鼻を鳴らす。策略の匂いを嗅ぎ取った李信が自軍へと指示を出すと別方向へと突き進む。その先から伏兵が現れるものの、さして数は多くない。呂布を先頭とした騎馬隊が瞬く間に殲滅してみせ、策が失敗したと理解したのか今度こそ散り散りとなっていく黄巾賊残党に李信軍が追撃を仕掛け始めた。その光景を見ていた黄蓋が、恐ろしいものでも見るかのように吐息を漏らす。 

 

「……強いだけではなく、策略を見破る眼力もあるか。あれは一種の怪物ですな」

「実際、たいしたもんだな。あらゆる面において飛びぬけて、突き抜けてやがる。一体どんな才能と経験を積めばあんな領域に辿り着けるってんだろうな」

「そうね、母様。でも、本当に恐ろしいのは李信殿じゃないと思うわ」

 

 あん? と聞き返した孫堅。それに頷くのは張昭子布だ。

 

「伯符殿の言うとおりじゃ。げに恐ろしきは一兵卒までが骨の髄まで李信軍であるということ。目の前にあれだけの功が転がっていながら、圧倒的な軍に所属していながら……あの状態で何の疑いもなく李信将軍の命に従う完全な統制」

「ええ。誰一人として不平や不満を持たず、ただ李信殿のために命を捧げる。もしも万が一李信殿が命を落としたとしても―――彼らは最後の一人まで死兵となって敵兵に喰らいついていくでしょうね」

 

 現状では孫堅軍では手も足も出ない圧倒的な錬度を誇る最強の軍の攻勢を眺めながら―――孫策は張昭へと馬首を寄せた。

 

「ところで、子布。別に私は貴女がいいのなら一緒でも(・・・・)いいのよ?」

「伯符殿までなにを仰るか!! わしはまだ結婚など考えてはおりませぬ!!」

「別に結婚だけが全てじゃないと思うけど。そろそろ子布も女としての幸せを掴んだら?」

「まだわしはそんなに焦る歳では―――」

「いや、十分に焦る歳だろ。なぁ、婆」

「ぐ、ぐぬぬぬ……」

 

 戦場近いこの場所で、そんな会話が為されていたとかいなかったとか。

 ちなみにこの日完全に敗北を悟った張燕は、僅かな手勢を引き連れて根城のある黒山へと逃げ帰ったのだが―――それを知る者は本当に極僅かであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・予定をだいぶ削って後2-3話で黄巾編は終了となります。

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