真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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第24話:孫呉の王

 

 

 荊州の丁度真東。中華の南方に位置する揚州。そこの最東端の海沿いに位置する場所に呉郡と呼ばれる地域がある。元々は会稽郡の一部であったが、百二十九年の時にそこから分割される形で置かれるようになった計十三県を管轄する郡だ。随分と南方に位置しているため、この地域の者達は中原の民からは田舎者(・・・)扱いされることが多い場所でもある。そもそも中原とはどういった意味なのか。中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のことを指し、異民族から隔てられる文明の中心地という意味合いを持つ。そしてそこを中心として南方へと文明が発展していったため、漢民族にとっては中原は民族の発祥の地という想いが大変強い。そのため南方に住む者達をそういった目で見てしまうのは致し方のないことであろう。

 

 さて、その呉郡を―――いや、揚州を語る上で欠かせない人物がいる。その名を孫堅文台。若かりし頃は呉郡にて漁師をして暮らしていた女性だ。とある日何時もどおり彼女は父と共に漁に励んでいると海賊が近辺の村々を襲っている姿を目撃する。孫堅は海辺に降りると一人である(・・・・・)にも関わらず(・・・・・・)賊を撃退する為に兵士を率いている様に振舞った。そしてたった一人で海賊達へと攻勢を仕掛けたのだ。村を荒らしていた海賊は孫堅もまさか一人で百を超える自分達へと向かってくるとは思わず、彼女が兵士を率いていると思い込み急いで逃走を開始した。だが孫堅はわずか単身で海賊を撤退させたことを良しとせず、逃げる彼らをさらに追いかけ、賊の頭領のみならず海賊達を皆殺しにしたのだ。警備隊が駆けつけたときには孫堅は死体に覆われた海辺にて、愉しそうに笑っていた。あまりの逸脱ぶりに、警備隊たちが恐怖を覚えたほどであったという。そして彼女はその功績が認められ村を警備する尉に任命された。

 

 だが彼女がその程度の官でおさまるはずもなく、時代が彼女を後押しするかのように様々な出世の糸口となる事件を巻き起こしていく。会稽妖賊の許昌が反乱を起こし、自ら陽明皇帝を名のる事件が起き、彼の下には数万の人々が集まり一大勢力を誇るようになった。この事態を受け、孫堅は呉郡の司馬に任命され、鎮圧を命じられるが彼女は義勇兵を募って千人ほどの兵力を手に入れると他郡の官兵と協力して許昌を攻撃し、見事鎮圧に成功した。

 こういった様々な功績を得て、県令の補佐官などを歴任しいつしか県丞なども転任するようになると、孫堅の満ち溢れる才覚と器に惹かれ、多くの優秀な武官文官が彼女の下へと集い始め、揚州に孫堅ありと他の州にまで彼女の名は広まって行くこととなった。孫堅は集まってきた者たちを手厚く待遇し、彼らを身内のように扱ったので、結束が強固になっていきその地の一大勢力となるのにさして時間はかからなかった。

 

 そんな孫堅が此度の黄巾党反乱の討伐に参加表明を出したのには理由がある。鎮圧軍における四大将のうちの一人―――朱儁。朱儁と孫堅は同じ揚州出身であり、孫堅の優れた手腕を知っており今回の反乱を鎮める為にも何とかして自分の手元で用いたいと思った故の大抜擢であった。その要請を受けた孫堅は自分の配下のみならず、義勇兵を募集し二千の兵団を組織し、黄巾の勢力が強く朱儁が派遣された豫州潁川方面へと合流すべく出発した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 黄巾賊の勢力がもっとも強い地域として二つ上げられる場所がある。豫州黄巾軍と冀州黄巾軍の二つであり、そのため漢王朝は此方の方面に皇甫嵩、朱儁、盧植の三将軍を派遣していた。だが、甘く見ていたわけでもなかったが、黄巾党の数と信仰心を過小評価していたのもまた事実。それが、たかが農民と侮ったツケが現在の状況となって牙を向くことになっていた。豫州潁川へと朱儁に合流するために凄まじい速度で北上していた孫堅文台と彼女の配下二千の兵士は、足をと(・・・)めていた(・・・・)。眼下に行進する黄巾を被った超大軍を目撃したからである。

 

「おいおい……なんだ、こりゃぁ。地平の彼方まで黄巾どもで埋まってやがるぜ」

 

 健康な小麦色の肌。長身で豊満な肉体。紫紺の長い髪。一顧傾城かくやの容貌だが、女性として粗暴な言葉遣いではあるものの、それが彼女には相応しいと思わせる何かがある。見る者全てを問答無用で惹き付ける、強烈な引力を自然と放っている彼女こそが孫堅文台。江東の虎と諸国に名高い彼女が珍しくも驚愕の表情で、崖の上から行進する黄巾党の集団を見下ろしていた。

 

「馬鹿げた大軍じゃ。三、四……五万はおるぞ」

 

 孫堅とは対照的な小柄で透き通るような白い肌の文官服の少女(・・)らしき人物がやけにふるめかしい言葉で主の発言に追従する。ごくり、と無意識のうちに息を呑んでいたが、それに気づく余裕など微塵も存在していなかった。

 

「ねぇ、子布。こいつらって……」

「うむ……恐らくは豫州の黄巾賊と合流する予定じゃろう」

 

 張昭子布。こんな幼い容姿ではあるが、孫堅に仕える者としては最古参の一人である。そして、彼女に問い掛けたのもまた少女。ただし張昭に比べて随分と大人っぽいのだが。小麦色の肌に、紫紺の長髪。あらゆる点で孫堅に似ている少女ではあるが、それも当然。何故ならば彼女の名前は孫策伯符。孫堅にいる三人の娘の内の一人であり、後継者候補と目されている彼女だが蒼く輝く両の眼が、自分達が率いる軍よりも遥かに多い軍勢を見て、僅かに揺れていた。 

 

「……こやつらは一体どこから沸いて出てきた? 儂らと同じ南方から北上しているようだが」

 

 孫堅や孫策と同じほどに長く伸ばした薄い紫の髪を後ろで縛った妙齢の美女。孫堅に匹敵する女性的な身体つきの彼女が、鋭い眼光で他三人と同様に行進を続ける黄巾賊を睨みつけていた。

 

「恐らくは……揚州じゃな。わしらが討伐した黄巾賊の数があまりにも少ないとは思ってはおったのじゃ、公覆よ」

 

 張昭の返答に黄蓋公覆は、ギリっと歯を噛み締める。孫堅一党とその他の勢力によって揚州から黄巾党は一掃されはしたが、情報にあったよりは明らかに数が少なく指導者である彭脱の姿も消えていたのは知っていたが、まさか未だこれほどの桁外れの人数がいるとは。しかも五万もの軍勢が豫州黄巾党と合流すれば、そちらで戦っている皇甫嵩・朱儁の敗北へと繋がるのではないか。だが、この軍勢を止めようにも孫堅率いる兵士は二千。しかも半分以上が戦いになれていない義勇兵だ。どう足掻いたとしても勝利の目など存在しない。

 

「文台様!! 決して突撃など考えぬようにお願いしますぞ!!」

 

 厳しい口調で、今にもこの場から馬を走らせようとしていた孫堅を戒めたのは張昭子布その人であった。それに出鼻を挫かれたのか孫堅は、あからさまに舌打ちを一つ。

 

「うるせぇな、婆。流石にここまで分が悪いってのに何も考えずに突っ込むかよ」

 

 ……絶対に嘘だな。この場にいた三人の胸中に浮かぶ確信。だが、喜んで死地へと飛び込む戦闘狂の孫堅が張昭の言葉とはいえ止まるのは珍しい。一人であったならば特攻を仕掛けたのかもしれないが、今の彼女には従える二千の兵士がいる。それを思い出したのであろうか、普段よりも随分と冷静さを保っているな孫堅に張昭は安堵の吐息を漏らした。

 

「とにかく、わしらだけでは対応できませぬ。朱儁将軍へとこの事を知らせる為にも急ぎましょうぞ」

 

 張昭の言葉を合図に孫堅軍は、黄巾賊に見つからないように注意して北上を再開させるも彼女達を驚かせる事態がその先々で起こっていた。多くの城や街が黄巾賊によって落とされていたのだ。彼女たちが見た五万の軍勢は、後続でしかなく、それ以上の数の兵が豫州へと続く道筋にて略奪殺戮の嵐が吹き荒れ、戦争の恐ろしさをまだ若い孫策は初めて実感することとなった。殺し犯され奪われる。これが戦。これが戦場。なんとも恐ろしく凄惨な現実だ。

 

「―――おい、子布!! 既に汝南に入ったぞ!! 潁川まで距離がない!!」

「おぬしに言われんでもわかっておるわ、公覆よ!! ここまで入りこまれているとは……わしとて想定外じゃ!!」

 

 揚州から豫州へと入り、汝南にて馬を走らせる孫堅軍一向。彼女達の行く先々で黄巾賊の暴虐が繰り返されている。戦おうにもおよそ五万からなる彼らの進撃を如何にして止めれば良いのか。それにこの五万を足止めできたとしても、すぐに後続の黄巾賊が合流し合わせて十万からなる部隊へと変貌する。質を押し潰す兵数に、流石の張昭といえど頭を回転させ続けてはいるものの、対抗できる策など思いつかない。単純な数が違いすぎている。ガリっと奥歯を噛み締める張昭だったが、その時先頭を走る孫堅が眉を顰めた。次いで気づいたのは黄蓋、孫策、一番遅れて張昭という順だ。チリチリと肌を焼くのは大規模な鉄火場の気配。一瞬新たな街が蹂躙されているのかとも思えど、決して一方的な殺戮では散じられない戦場の気配が押し寄せてきていた。孫堅たちが開けた場所へと到着してみれば、彼女達の視界に映ったのは官軍と黄巾賊が交戦している最中の光景であった。

 

「官軍と黄巾が戦っているのか!?」

「でも……官軍が寡兵よ!! いえ……一万近くはいる!!」

「伯符殿、されど黄巾はおよそ五万!! 対抗できるとは思えませぬ!! 恐らくは豫州潁川に行かせぬよう黄巾賊を足止めしようとしておるのじゃろう!!」

 

 黄蓋と孫策が驚愕に声を上げ、張昭は冷静に無謀だと評価を下した。一万の兵士で五万の敵を相手取って足止めしようなど不可能に近い。ましてや彼ら黄巾賊はここまでの道程で多くの街や城を落としてきた。その勢いたるや凄まじいものがあり、生半可な技量差程度ならば覆してしまうであろう。

 

「……いや、ちょっと待て」

 

 焦燥に囚われている三人とは対照的に、孫堅が戦場を見渡しながら眼を爛々とぎらつかせながら笑った。

 

「あれは、相当にやばいぞ(・・・・)

「やばいって……そんなの言わなくてもわかってるわよ、母様!!」

「……待て。文台様の言うとおりだ。見てみろ、伯符殿」

 

 黄蓋の真剣な声色に、改めて両者がぶつかり合っている戦場へと視線を戻す。何を見ろというのか。次々と蹴散らされ、殺されていっているではないか。いや―――違う、と孫策はようやく気づいた。粉砕されていっているのは一方的に黄巾賊の方だ。人が飛び、陣形に風穴を穿たれ、一瞬毎に戦の趨勢を官軍へと傾けていく姿は悪鬼羅刹の行軍にしか見えない。

 

「なに、あの軍!? 出鱈目に強いわよ!!」

「いや、見るのじゃ!! 官軍の掲げる旗を!! あれはまさか―――」

 

 戦場においてなお揺ぎ無い李の旗を見て孫堅は、くはっと獰猛な笑顔で腹の底から雄叫び染みた咆哮をあげる。

 

「北方の飛将軍!! 李信将軍かっ!!」

 

 ドンっと離れていても耳に届く爆撃音。李信の大矛が恐怖に顔を歪める黄巾賊を打ちのめす。だがそれは終わりがない戦い。切りのない争い。敵兵はおよそ五万。ここにいる者達だけでなく、後から後から合流してくるそれらは無限に存在するのではと思わせる蝗が如き集団。荊州からの転戦の連続。誰もが疲労困憊で万全な状態とは言い難い。今すぐにでも武器を手放し崩れ落ちればどれだけ楽であろうか。そんな甘い誘惑が頭をよぎるも、李信軍の誰一人としてそれに屈するものはいなかった。立て。立って戦え。進んで殺し続けろ。我らが将軍の背に続き、例え死するとしてもその時は前のめりとなって死ね。余計な考えを思考するな。ただ、我らが戴く飛将軍とともに行け。戦力比は数倍で、黄巾賊は後続でさらに五万が後から続いている。こんな状況で勝てると思っているのか。ああ、思っているさ。間違いなく。我らはただ我らの長に従うのみ。李信と先頭とし、それに続くは呂布と華雄。高順と胡軫。一万の兵すらも悪鬼となって黄巾賊を押し潰す。阿鼻叫喚の地獄絵図。死兵となって突き進む彼らは、黄巾党の信仰をも粉々に消失させていった。

 

「潰せ!! 潰せ!! そいつを潰せぇぇええ!!」

 

 悲鳴とも聞き取れる黄巾賊の将の声。荊州黄巾党指導者彭脱であろうか。そこにあったのは信仰ではなく、ただの一人間としての恐怖しかなかった。そして、それは黄巾を率いる頭がそこにいるのだという事実を、吶喊してくる李信軍へと知らせる合図に他ならない。

 

 黄巾賊も孫堅軍も強かに打ち据える天風が吹き荒ぶ。直下から揺さぶられるような大震。あらゆる存在の気力を飲み込み押し潰す崩壊の始まり。揺れが大気を撃ち震わし、鳴動として大地を蠢かせる。中華全域が鼓動したのではないかと思わせる音が鼓膜を打った。それでもなお震動はおさまらないこれはなんだ。この現象は一体何なのだ。いや、わかっている。これは鬼神の行進だ。見ろ、奴が。鬼神が配下を引き連れて、我ら黄巾を奈落へと導く為にやってきたぞ。

 

「ばけ、ものがっ!!」

 

 このままでは間違いなく突破される。本陣までの防御など薄紙に等しい、最強にして最悪の突破力を誇る李信軍をどう止めろというのか。顔を引き攣らせ思考が停止している彭脱へと、そんななか馬首を寄せる女性が一人。

 

「困りましたねぇ。工夫がないただの単純な突撃ゆえに―――手強く強い」

「趙弘か!! 何か策はないか!? あの化け物どもを止める手は!!」

「んー。一応ありますよぉ」

「なっ!? あるのか!? 本当に!?」

「ええ、まぁ……はい」

 

 自分で問うておきながら、まさか本当に策があるとは思わなかった彭脱は驚きも露に目を剥いた。

 

「あの軍を真正面から止めることが出来る存在は……まぁ、中華にはいないでしょうねぇ。ですが、先にも言った通り、アレはただの突撃ですぅ。荒れ狂う猛獣をしとめるのにいきなり頭を狙う必要などありませんよぉ」

 

 まずはあの馬鹿げた突撃力を生み出している()を封じます。

 趙弘の指揮に従って、黄巾賊の陣形が動き始める。本陣への守りを厚くするのではなく、両翼を開き李信軍を両側から挟み込む形を取った。賊軍のその動きに、遠目で見ていた張昭が声を張り上げる。

 

「―――まずい。敵には相当に手強い軍師がおるぞ!! 一目で李信軍の弱点を見破りおったのじゃ!!」

「弱点だと?」

 

 李信軍の圧倒的な突破力に目を奪われていた黄蓋が、張昭の台詞に我を取り戻す。

 

「あの突撃は言ってしまえばわしら孫堅軍と同様じゃ。わしらは文台様を先頭として敵兵を蹂躙するが、李信軍も似た様なものじゃろう。我らが主を守ろうとする兵の心が彼らの力を何倍にも引き上げるそれは―――あくまでも仮初の力にしか過ぎん」

 

 かつて程昱が李信軍の突破力の秘密を語っていたが、士気の高さはつまるところ主を守る為に発揮されているもの。主ではなく、自分を狙われれば素の力しか発揮することが出来ない。両翼から挟み込まれ、李信ではなく兵士達自身を削られれば、自ずと敵中に彼一人残されることなり、圧倒的な数によって飲み込まれて終わるであろう。

 

「さぁ……終わりですよぉ。磨り潰してください」

 

 くすりっと笑みを浮かべた趙弘の合図で、黄巾賊が李信軍へと挟撃を仕掛けた。戦争において挟み込まれるということは最悪な状態の一つだ。左右からの敵兵による同時攻撃が李信軍へと襲い掛かり、一気に何百もの兵士が弾き飛ばされた。

 

「はぇ?」

 

 そう―――吹き飛ばされたのだ。黄巾賊の方が(・・・・・・)。呆然と何が起きたかわからない趙弘。それも当然だ。遠目で見ていた張昭ですら一瞬理解が及ばなかったのだから。確かに左右からの挟撃で攻勢を仕掛けたというのに、兵士達は自分たちの素の力しか発揮できないと言うのに、何故こうまで一方的になるのか。

 

 ことは単純だ。確かに李信軍の兵士達は両側から攻撃されたことによって彼ら本来の力のみしか振るうことが出来ない。だが、それで十分だ。元々が李信とともに数多の戦場を潜り抜け、死地を踏破し、官軍最強の名をほしいままにしている彼ら。例え彼ら素の力しか出せないのだとしても、それだけで黄巾賊など容易く屠れる怪物だらけの集団なのだ。

 

 これは決して趙弘の読みが見当違いであったわけではない。李信軍を戦うことを選択すればあらゆる軍師が選択する策であったろう。例え諸葛亮孔明であろうと、荀彧文若であろうと、程昱仲徳であろうと、張昭子布であろうと―――必ずこの方法を取った筈だ。否、これが李信軍と真っ向から戦う上で最良の選択であるからだ。だが、その最良の策でさえも彼らを止めるには能わず。

 

 そもそもの地力の桁が違っていることに気づくべきであった。

 

 僅かたりとも李信軍の攻勢を緩めることが出来なかった趙弘が混乱の極めに達して正気を取り戻すのにかかった時間はおおよそ十秒。次なる一手を打ち出そうにも失った十秒はあまりにも貴重で、既に本陣の防御は崩壊寸前であった。だが、彭脱と趙弘を守らんと直属の親衛隊が李信達との間に割ってはいられ相打ち覚悟の特攻に、馬の足を止められた。敵陣で速度が失われるということは、命綱を断たれるに等しい状況だ。それでも敵の首魁はもはやすぐそこ。ならば、と李信は馬から飛び降り地面へと降り立ち身を前へ前へと走らせた。主を守らんとする親衛隊の剣が、槍が李信の身体を切り裂き、串刺しにしようと迫り来る。だが、李信は退かず飛び込んだ。傷つかぬ確信はなく、彼らの一撃が致命へと至る攻撃となるかもしれない。それでも、身体が雄叫びを上げている。いける、いけ。貫き、穿て。自分の命を脅かす敵兵の攻撃全てを薙ぎ払い、弾き飛ばす李信の一振り。切り結び、撃ち交わすそれら全てを歯牙にもかけない純粋なまでの破壊の一閃。大矛の斬撃が空間に炸裂の音を響かせて、矢継ぎ早に繰り出される李信の攻勢が蒼天に血の雨を降らせながら単騎で数百の兵を鏖殺せん。颶風が吹き荒れ、名状しがたい力の波が大将軍の咆哮とともに発せられこの戦場にいるあらゆる敵兵の動きを縛り付けた。

 

「は、はははは……これが、李信。敵対するべきじゃ、なかったですねぇ」

 

 趙弘は笑った。怪力乱神。天地を滅ぼす鬼神の類。何者も寄せ付けない天下無双の絶対の才覚。馬鹿らしくなるほどの戦場での経験と死地の踏破。付け入る隙など一寸も存在しない完全無欠の死神。ああ、血に塗れるその姿すらもなんと美しいものであろうか。圧倒的な無謬の殺意を真正面からうけて、彼女は自らの死を受け入れた。迫り来る李信の大矛を最後の最後まで見つめながら、彼女は愛おしげに微笑んで逝った。揚州黄巾指導者彭脱。及びその補佐趙弘―――討ち死に。

 

 まるで龍を連想させる特攻が、黄巾を食い尽くしていく光景を孫堅率いる全員が呆然と愕然と見ていた。言葉もないとはこのことだ。当の昔に人を逸脱した怪物の戦う姿に恐れと、怖れと、畏れを抱く。決して届かぬ至強の極地を示して見せた男の姿。それに見惚れる一人の女。人知を逸した鬼神が如きその力。天魔すらも調伏するであろう人の域を超えた技量。決して折れず曲がらずの不撓不屈の鋼の心。そのどれもがただ眩しい。美しい。輝いている。なんて素敵で、羨ましくも荒々しいのか。欲しい。欲しいのだ、あの男が。自分の物にしたい。者にしたい。ああ、ああ、ああ―――この日この時この場所で。孫呉の王は恋をした。生まれて初めての恋をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 首魁二人を討たれた黄巾賊は、その事実が伝わると蜘蛛の子を散らして四方へと逃亡した。後続となる五万の賊軍もまた、彭脱と趙弘が討たれたのを聞くとあっさりと瓦解した。信仰心が高い者達は李信軍へと立ち向かってきたがその数は総勢の一割ほど。数でも質でも負けている彼らに勝利の目など決してなかった。そしてさらに追撃を仕掛ける李信軍とそれに合流した孫堅軍の二軍によって、瞬く間に駆逐され揚州黄巾党は壊滅へと導かれることとなった。

 

 パチパチと焚き木が爆ぜる音がする。時分は薄闇が舞い降りる頃、荊州宛城近辺まで追撃を行っていた李信達と孫堅らは、黄巾賊によって荒らされた跡地を利用して幕舎を建てた。強行軍に強行軍を重ねていた李信軍の兵士達も流石に疲労からか、勝利の宴に参加しはしたもののやがて見張りを残してほぼ全員が夢の中へと誘われていく。そしてそれは孫堅軍も同様だ。彼女達の軍もまた、朱儁達に危機を知らせようと休む間もなく北上していた上に、すぐさま戦闘に参加。そのまま荊州まで黄巾賊を追撃したのだから疲れも溜まるのは当然であった。そんな中、李信軍本陣へと姿を見せるものがいた。孫堅を含めた、孫策、張昭、黄蓋の四人である。許可を得て、四人が陣幕へと足を踏み入れると同時に幾つかの視線が突き刺さる。此方を値踏み、威嚇、底を見極めようとするそれらが心地よい。口角が歪んでいくのを抑えきれない孫堅を、背後に従う張昭ははらはらと落ち着きなく見守るのみだ。くれぐれも無礼がないようにそれはもうしつこく繰り返した張昭だったが、孫堅が言うことを聞いたことなど数えるほど。だが、今回ばかりは相手への失礼は孫家の致命と為り得る。官位としても雲の上。天下無双にして最強の飛将軍李信に不敬を働けば、首が飛んだとしてもおかしくはない。

 

「……お初にお目にかかる。姓は孫。名は堅。字は文台。以後お見知りおきを」

 

 頼む頼むぞ、ともはや呪いの域に達した張昭の願いが届いたのか実に珍しくもまともな挨拶をした孫堅に内心で滂沱の涙を流す。

 

「孫文台が娘。孫策。字は伯符であります。李信殿、ご指導ご鞭撻のほどを宜しくお願いします」

「孫堅が配下。張昭。子布……李将軍への拝謁、感謝致しますぞ」

「同じく。黄蓋、公覆。お見知りおきを」

 

 孫堅達によるただの挨拶。それだというのに、ピリっとした緊張感が漂い始める。それの発生源は勿論孫堅であり、獰猛な視線を李信へと送り続けていた。あらゆる人間を惹き付ける引力と、敵対する者を押し退ける斥力。相反する二つの圧を発する彼女の姿に、味方だというのに反射的に臨戦態勢を取らされた華雄達。呂布のみは眠たげに欠伸を噛み殺してはいるものの、手に持つ方天画戟を握り締める力が強くなっていた。南方に孫堅文台あり。江東の虎などと噂されてはいるが、ここまでのものであったかと歴戦の兵揃いの李信軍の幹部達でも驚きに身を震わせる。対しての張昭、黄蓋も似たようなものであった。華雄達の強さは明らかに飛びぬけており、真っ向から戦えば拠点に残してきた若手の孫堅軍の者達では相手にもならぬ力量の怪物揃い。少なくとも辛うじて渡り合えるのはここにいる黄蓋と拠点で皆の補佐をしている最古参の程普くらいではなかろうか。それに加え呂布奉先―――李信と肩を並べる生きながらにして伝説となった少女。これは完全に別格だ。純粋な強さという意味では完璧に突き抜けている。戦ったとしても良くて数合持たせられるかといった埋めようがない溝が横たわっていた。

 

「文台殿らの助勢に感謝する。おかげで大した被害もなく黄巾賊を討伐することが出来た」

 

 李信の台詞に、それが此方への気遣いであることに皆が気づいていた。例え孫堅軍がいなかったとしても確かに被害はもう少し追加されたかもしれないが李信軍のみで如何様にも出来たであろう。そもそも一万の軍勢で総勢十万からなる賊軍をどうにかしてしまっている時点であまりにも外れすぎている。戦争の基本となる兵数をも凌駕する圧倒的な質。それもここまで桁外れであると、乾いた笑いしか出てこない。

 張昭としては、黄巾対策にと拠点防衛の為に置いてきた若者達をつれてくるべきであったと後悔していた。彼女達と同年代でここまで優れた武将がいることを、中華は広いことを教えるためにも実際に目で見て理解させなければならなかった。特にこれからの時代を担っていくであろう周瑜を、孫権の補佐として残したのは手痛い失敗であったことを認めねばならない。噂にきくのと実物を見るのと、実物を見るのと実際に力量を感じるのとでは受ける印象、力に天と地の差が生じてしまう。もしも李信軍と事を構えることになった際には、それが決定的な齟齬となって敗北の引き金と為り得る可能性も出てくるはずだ。

 

「うむ!! では文台殿、下がってもらって構わぬぞ。我らも休ませて貰うのでな」

 

 そんな様々なことを考えていたせいか孫堅と李信の会話が終わっていた。慌てて隣にいる黄蓋を見やれば、キョトンとした表情で張昭を見返す。それにほっと薄い胸を撫で下ろす。もしも孫堅が礼儀を欠いた対応をしていれば、黄蓋がこのような対応でいるわけがない。普段は適当なところもあるが、力のいれるべきところはわかっている彼女が止めてくれていたはず。

 

「……ここまでが公式の場ということでよろしいか?」

 

 安堵したのも束の間、このまま下がればよいというのに孫堅が口角を歪ませて言葉を発する。彼女の確認に、李信が頷くと口元の笑みの深さが最高潮へと達した。顔は見えずとも背から立ち昇る熱い気配に、張昭が表情を強張らせる。このような状態の孫堅がなにを言い出すか、古い付き合いの彼女は言葉に出さずとも悟ってしまったからだ。

 

「文台様、お待ち下され!!」

「うるせぇぞ、婆。これまで我慢してたんだ。ちょっと黙ってろ」

「黙りませぬ!!」

 

 縋りつく張昭を片手で押し退け、孫堅はもはや一切隠すことのない戦意を滲ませて笑う。哂った。高らかに嗤った。江東の人喰い虎。その名が伊達ではないことを彼女の放つ尋常ではない重圧が証明している。

 

「なぁ、李信将軍。一手御教授願おうか。血が滾って仕方ない。このまま帰るなんざ、生殺しもいいとこだ」

 

 願う立場でありながら一切引く気が見えない孫堅。そして、顔面蒼白の張昭が謝罪の言葉を紡ぐよりなお早く。

 

「―――無礼だぞ、孫文台!! 我が主に何を言うか!!」

 

 烈火の怒りを示したのは傍らに控えていた韓遂である。自分のことならば如何なる恥辱にも耐えられるが主の李信のことに関しては別だ。一生涯尽くすと決めた李信に対して、このような対応許せるものか。まさに忠臣といった姿を見せる韓遂―――だが外見は鉄仮面の黒尽くめだ。怪しさ爆発の彼女を胡乱気に見るも謝罪や先程の言の撤回をする様子は微塵もない。

 

「まぁ、待て韓遂。孫堅殿ほどの武人ならば、彼女の発言も理解できなくはない」

 

 怒りも露な韓遂を止めたのは華雄であった。彼女もまた李信と初めて会った際に、似たようなことをしたのだから孫堅の気持ちも言葉通りわからないでもないのが本音である。李信という怪物に触れれば二種類の武人に分かれるのではなかろうか。即ち、関わりあいを避ける者か頂へと挑む者へと。

 

「だが、我らは荊州黄巾討伐から連戦の日々を送っていた。今日の今日というのは勘弁してやって貰えないか」

 

 明日以降ならば李信も喜んで受けるであろう。華雄の折衷案に、韓遂も致し方なしと黙り込む。孫堅のことを考えた華雄の発言に感謝しつつ、これで彼女も引き下がるであろうと気が緩む張昭を嘲笑かのように孫堅はそれでも引くことはなかった。

 

「今だ。今以外にあるものか。機会があるからといって引くのは腑抜けのやることだ。オレは―――」

 

 孫堅の発言が途中で止まった。いや、止められた。背後からの不意打ちで、孫策が腰から引き抜いた鞘つきの剣を仮にも母親の後頭部におもいっきり叩きつけたのだ。流石の孫堅もまさかの背後から、しかも娘に攻撃されるとは予想だにしていなかったのかまともに受けてぐらりっとその場に沈み込んだ。完全に振り切った手加減なしの一撃に、戦々恐々とするこの場にいる一同。にこりと微笑む姿は天女もかくやという姿であるのに、恐ろしい。倒れた孫堅へと慌てて駆け寄る張昭と黄蓋だったが、一体どんな身体的構造をしているのか叩かれた後頭部をさすりながらゆっくりと立ち上がる。視線に力あるならば、確実に二、三度殺せるほどに燃え上がった瞳で娘の孫策を睨みつけた。

 

「何の真似だ、伯符」

「その言葉そっくりそのまま返すわ。母様こそ暴走しすぎよ。華雄殿が明日以降ならって言って下さってるのだからそれで満足するべきでは?」

「おい……だから今言っただろうが。今やれる機会があるってのに―――」

「そうね。でも、それでも引くのが()というものでしょ。今の母様はただの()よ。ああ、それもそうね。だって母様は江東の人食い虎って呼ばれているのだし」

「あぁ? なんだと、雪蓮(・・)。お前は誰に何を言ってるのかわかってんのか」

 

 孫策伯符―――真名は雪蓮。普段ならば他に人がいるところでは決して使わないそれで孫策を呼ぶということは孫堅の理性が飛び掛っているということだ。だが、然もあらん。孫策の言葉は幾らなんでも親に向かって言う発言ではない。轟々と全てを焼かんと燃え上がる大灼熱の超熱波が孫堅から滲み出る。それの対象となっている孫策は―――しかしども艶やかに笑うのみ。それに違和感を抱くのは最古参の宿将二人。確かに孫策伯符は孫堅の血を引く優秀な後継者だ。だが、母である孫堅の威圧をまともに受けてここまで平静を保っていられたであろうか。いられたはずがない。この少女は本当に―――孫策伯符なのであろうか。何かがあれば爆発する寸前の空気のなか、動いた人物がいた。

 

 気がつけば睨み合う親子の丁度中心にて、呂布が方天画戟を片手に眠たそうに欠伸を一つ。ちらりっと孫堅と孫策を一度見て己の干戈を持ち上げた。

 

「……これ以上続けるなら恋が相手をする」

 

 面倒臭いからとっとと帰れ。こんなところで親子喧嘩をするな、という意味合いを込めた呂布の放つ気配も凄まじい。言葉通りこれ以上この場に居残るなら自分が戦うといった意思表示。孫堅文台の圧をも呑み込む、純粋な戦人の殺気は周囲全ての空気の色を塗り替えていく。戦わずとも問答無用で相対する全ての人間を遥かな深淵へと叩き込む中華最強のうちの一人。最強が二人という矛盾を成立させてしまう至強の強者。

 

「ははははっ……はーはっはっはっは!! 面白いじゃねぇか。なぁ、呂奉先!! お前がオレの相手をしてくれるのかよ?」

 

 こくりっと可愛らしく頷く呂布の姿はどこか小動物的だ。だが、放つ存在感は李信にも勝るとも劣らない。呂布と孫堅、孫策の三つ巴のような形となったそこは並の者では立ち入れない気当たりの不可侵領域を形勢し始めた。だが、呂布の様子はどこかおかしい。孫堅よりも孫策の方を注視している素振りを見せており、それに不満を持つ孫堅が呂布の頂点の気配を身に受けながらも眼光鋭く一歩を踏み出す。

 

「おい、奉先よ。どっちを向いてやがる。相手を間違ってるんじゃねぇぞ」

「……間違ってない。貴女は強い。でも恐くはない(・・・・・)

 

 呂布の評価に誰もが驚く。彼女の口から強い(・・)という言葉を聴いたのは何時振りであろうか。そしてそれに続く恐くはないとはどういうことか。飢えた虎の如き様相を呈する孫堅に、一体どんな意味合いを持って発したのか誰もが思いつかなかった。

 

「恋の印象に残るのは、こっち」

 

 孫策へと獲物を狩る狩人のように冷たい視線を送る呂布。それを受けても孫策の笑みに変化はない。

 

「気にいらねぇな。オレよりも雪蓮の方が格上ってことかよ」

「格ならば貴女の方がまだ上。強さだけじゃない……この娘にあるのは凄い違和感」

「はっ!! オレにはそれがないっていうのか、呂奉先」

「ない。貴女にあるのは……強さだけ。昔の恋と一緒。貴女は確かに特別な強さ。でも……孤高の頂には辿り着けない恋達から(・・・・)見れば(・・・)結局はただの人」

「くっ……はっはっはっは!! 聞いたか、おい!! 戦う前からここまで虚仮にされたのは初めてだ!!」

 

 シャランっと綺麗な音を響かせて、ついに江東の人喰い虎が己が獲物を引き抜いた。猛獣が自分の牙を、爪を構える姿を連想させる孫堅を呂布は一瞥。

 

「……敗北を知らない貴女は、本当の意味での強さに至れない」

「敗北? はっ……それは弱者の考えだ。全勝することに越したことはないだろうがっ!!」

 

 踏み込み、唐竹一閃。神速一斬。脳天へと振り下ろされたあらゆる武人を置き去りにする神懸かった斬閃を呂布は右手一本で持った方天画戟で受け止めた。あまりの衝撃と圧力にぶわりっと砂埃が舞い跳んだ。ギリギリと金属同士が噛み合い劈くかなきり音。互いの膂力は凄まじく、互いに一歩も引かない膠着状態。

 

「お前が馬鹿強いってのはわかってる。何時もならその方天画戟を一度か二度でも振るえば決着がつくんだろうよ。大抵は受けれず防げずで終わってたんだろうがな」

 

 呂布を押し潰そうとさらに両手に力を込める。ビキビキと筋肉が悲鳴をあげてそれでも、くはははと哄笑する孫堅文台。

 

「オレが大抵(・・)なんてうちにはいるかよ!!」

 

 笑う。嗤う。嗤うのは江東の人喰い虎。呂布奉先など如何なる者ぞ、と。されど対する呂布には一切の変化は見られない。

 

「……やっぱり」

 

 幾ら力を入れても押し込めず、逆に圧される状態に孫堅の哄笑が止まる。

 

「貴女は……恐くはない」

 

 右手一本の方天画戟が力一杯振るわれて、膠着状態は一瞬で瓦解。孫堅の身体が弾き飛ばされ陣幕を突き破り外へと叩き出された。驚愕を隠せない張昭と黄蓋が、慌てて陣幕の外へと飛び出すと、既に体勢を整えた主がいる。彼女の瞳は爛々と輝いており、未知なる強者の強さを知って喜びに満ち溢れていた。一度として力負けしたことがない孫堅が、こうまで力の違いを見せ付けられ次なる一手に逡巡したのか、彼女の放つ戦意が一瞬揺らいだのを呂布は嗅ぎ取る。

 

「―――て、思ったよなぁ(・・・・・・)!!」

 

 しかし、それすらも罠であった。自身の戦意を相手に読ませ、油断を誘う究極の駆け引き。先程とは正反対の逆風一閃。だがそれすらも呂布の本能が容易く見切る。考えての行動ではなく、如何なる状態からでも自分に届く切っ先を判断し、対応する。至高の闘争本能。ならば、その見切りの本能すらも押し潰す手数で凌駕するのみ。呂布の方天画戟よりも小回りが利く宝剣が剣戟を繰り返し互いの間合いにて火花を散らす。呂布の間合いの更なる内に踏み込む孫堅の攻勢を悉く避け、防ぐ。

 

「オレはなぁ―――勝利(・・)だけで十分だ!! 敗北が、敗走が!! 次なる勝利へと必ずしも結びつくわけじゃねぇだろう!!」

 

 僅かな対峙でわかったはずだ。孫堅文台は確かに強い。恐らくは歴史に名を刻み込むことが可能な存在。だが、ここにいる呂布奉先は既に伝説の域に到達した武人。強さの格が異なっている。

 

「オレが負けるということは、孫家の全てが否定されるということだ!! 負けるか!! 負けるものか!! 死んでも勝つ!! それがこのオレ、孫文台の生きる証明だ!!」

 

 若かりし頃より常に最強であり続けた。不敗であり続けた。決意がある。決心もある。覚悟もあった。相手は格上―――だが、それが面白い。これが初めての経験だ。この程度の壁乗り越えてみせる。ぶち壊してみせる。そうだ。それがこのオレ、孫堅文台の生き方だ。

 

 孫堅の想いの篭った右薙ぎを呂布は方天画戟の柄で受け止めて―――これまでとは異なる異様な威力に息を呑む。今度は先程の孫堅と同じような結果がそこには生まれ、呂布奉先の小柄な身体が彼方へと弾き飛ばされた。

 

「呂奉先!! 勝利の中になにを見てきた!! お前は敗北でなにを知った!! 精神の未熟さか!? 己の傲慢か、それとも過信か!! 肉体の弱さか!! 技術の不足か!!」

 

 一撃一撃が加速し、重さを増していく。あの呂布奉先が防御で手一杯となっている現実に、官軍の将と戦っているというとんでもない状況に関わらず損得勘定抜きで張昭と黄蓋は主を誇るように両手を力強く握り締めた。

 

「そんなものは、自己を知っていれば敗北の必要などなく気づくんだ!! 勝利はただの結果でしかない!! 勝利の中でも恐怖や焦燥、過信を知ることなど幾らでも出来るんだよ!! 勝利が己を成長させる!!」

 

 負け知らずなのは戦闘の結果だけの話だ。これまで心は幾つもの敗北を喫してきた。数え切れない勝利を積み重ね、孫堅文台は至強の頂へと手をかける。

 

勝った者が(・・・・・)一番強い(・・・・)!! それが戦の真理だろうが!!」

 

 呂布の肉体全てに襲い掛かる刃の軍勢。孫堅の容赦ない連撃が繰り出され―――遂に孫堅文台は万夫不当の頂点へたどり着いた。

 

「……訂正する。貴女は、恐い(・・)

 

 言葉とは裏腹に呂布の眼差しはまるで子供の駄々を受け止める大人の貫禄を秘めており、それを見た孫堅はぞっとした。例えるなら真冬に裸で外を出歩くような、小さな子供が一人で宵闇の世界に取り残されたかのような恐怖感。頂へと登頂したと思った孫堅が改めて見上げれば未だ頂点が見えない遥かなる巨山が聳え立っている。自分の全てを掛けた今ここがまだ数合目でしかないことを認識し、そして気づいた。目の前で防戦一方となっていた呂布が―――初めて方天画戟を両手(・・)で握りなおしたことに。怨念渦巻く膨大な殺意と殺気。自分の敵に値すると認めた孫堅文台へと天下無双の全力が唸りを上げた。

 

 が―――ドンっと激しい地震が巻き起こされる。

 発生源は大矛を地面へと叩き付けた李信であった。皆の注目を一身に浴びた彼は、頭をガリガリとかきながら周囲全ての戦意をかき消すと呆れの嘆息が漏れ出でた。

 

「喧嘩までなら許すがな。殺し合いまでいくなら話は別だ」

 

 大矛を担ぎ上げ肩をトントンと叩きながら真剣な表情で呂布と孫堅を順番に見やる。李信から噴きあがるのは呂布をも凌駕し圧倒する大将軍の威。離れているにもかかわらず、自分が死んだという幻覚すら見させられる桁外れの重圧。この瞬間、張昭はこの男とは絶対に敵対してはならないと本能の域にまで危険信号を刻み込まれた。

 

「それ以上続けるのなら俺が相手をしてやる」

 

 それは逆に孫堅が喜ぶのではないか、と思った皆であったが―――存外に当事者である彼女は落ち着いていた。先程までの熱烈な気配は消え失せて、剣をおさめると一礼する。極限にまで燃え上がっていた精神が鎮火され、幾ら孫堅といえど大炎を再度燃え上がらせるには厳しいのであろう。謝罪を告げて、孫堅は孫策、張昭、黄蓋を引きつれ自分達の陣幕へと帰還していく。沈黙が続く四人であったが、遂に我慢が出来なくなったのか、孫堅は楽しそうに嬉しそうに高らかに笑った。

 

「はーはっはっは!! おい、見たか。伯符!! 子布、公覆!! あれが最強、天下無双の李信と呂布だ!! なんていう化け物どもだ!!」

 

 最強の看板に偽りはなく、天下無双の称号に不足はない。

 あの強さ。雰囲気、気配に存在感。それら全てが人を超越した者の在り方だ。

 

「滾る、血が滾るぜ。なぁ……なんて面白い奴らだ」

 

 あれら二人を面白いと評価できるのは孫堅くらいじゃなかろうか。少なくとも張昭も黄蓋も、関わずにいられるならそちらのほうを選ぶであろう。あれだけの怪物を相手取ってこの反応、主の器と頼もしさを再認識するに至った張昭達だったが、次なる孫堅の言葉に我が耳を疑った。

 

「くくくっ……なぁ、伯符。おまえ弟か妹が欲しくないか?」

 

 何を言っているこの女。

 

「飛将軍李信。オレは結構な好みの顔だったしな。強さ的にも中華において比類なき傑物だ。孫家に血を残すのにも丁度いいだろう?」

 

 とんでもない発言ではあるが、張昭と黄蓋はそれに否定できなかった。彼ほどの優秀な血を孫家に加えられるならばそれに越したことはなく、逆にアリではないかという考えまで湧き出てくる。それに奔放な孫堅の手綱をあの男ならば握れるかもしれないという淡い期待も抱いてしまう。

 

「とりあえず朱儁将軍に合流するまで、李信将軍と一緒に行くとするか」

 

 孫堅の言葉に頷く宿将二人。こうして孫堅率いる軍は李信軍と行動をともにすることとなった―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何を言っているの、母様。子供から(・・・・)大切な者(・・・・)を取り(・・・)上げる(・・・)なんて(・・・)

 

 孫堅ら三人が三人とも孫策へと振り向いた。孫堅と呂布の争いが行われたゆえに忘れていたが、孫策の様子にも違和感があったのだ。微笑む彼女は、これまでとは一線を画する奇妙な気配を纏わせている。どこが、とは確信を持って言えないが、それでも孫策の雰囲気はどこか危うい。

 

「なんだ、伯符。お前……何か不満でもあるのか」

 

 そういえばさっきおもいっきり頭を殴ってくれたよな、と狂暴な笑みを浮かべるも孫策伯符には通用しない。指向性のある圧力をさらりと受け流す技術に、成長しすぎだろと半ば呆れる母がいた。

 

「ええ、母様。弟も妹もいらないから」

 

 はっきりと言い切る孫策に眉を顰める孫堅だったが―――。

 

「その代わりに孫とか抱きたくない?」

 

 思いもかけない娘の発言に面食らうのも一瞬で―――もたらされるのは今日一番の大爆笑。腹を抱えて蹲る孫堅と、続くまさかの発言に思考を停止させる張昭と黄蓋。まじまじと孫策の顔を見るも、冗談で言っている様子は微塵もなく、かつてない本気なのだと理解させられた。

 

「孫伯符。必ずや李信将軍の血を孫家に齎すことを誓います」

 

 妖艶豊麗艶麗な美しき少女―――孫策伯符。この首にかけて、と微笑む彼女の神聖なまでの覚悟がこの場にいる三人にそれの重さを指し示した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 孫呉の王(・・・・)は恋をした(・・・・・)生まれて(・・・・)初めての(・・・・)恋をした(・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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