真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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第22話:劉弁と趙忠

 

 

 

 

 

 コツコツ、と歩く音が聞こえる。

 洛陽が宮中の謁見の間にて平伏している趙忠は、自身が震えているのを自覚していた。音が近づくにつれ、謁見の間の空気が鉛のように重さを増していく。呼吸すら止めて、自分の存在をも消し去ったほうがましだと思えるほどの途轍もない重圧が彼の肉体を押し潰してくる。コヒューと擦れた呼吸音が意識せずに口から漏れ出でるのは果たして恐怖からくるものであろうか。生まれたばかりの子牛が如く、小刻みに震える老人を気にも留めず、漢王朝第一皇女劉弁が玉座へと腰を下ろす。室内の空気が全て凍結してしまったと錯覚を覚える凍て付く圧を身体から滲ませ、少女は眼下に平伏している趙忠を一瞥。

 

「面を上げよ」

 

 声をかけられただけだというのに、ビクンっと身体が大きく揺らぐ。劉弁の命に従わなければならない。それを理解していながら、趙忠は顔を上げることは出来なかった。劉弁の、彼女の姿を視界に映すことを本能が心の底から拒否している。自分の命令を聞かなかったというのに、皇女は特に気にすることなくもう一度同様の言葉を投げかけた。面を上げよ(・・・・・)、と。

 

「―――っ!!」

 

 恐怖は消えていないが、それでも趙忠は命に従って劉弁へと面を上げた。そして、秒後には自分の行動に疑問を覚え―――愕然とした。今のは自分が意識して取った行動ではない。劉弁の言霊とでもいうべき力が篭った命に、趙忠の本能が従った。否、従わされた。仮にも十常侍の筆頭として、海千山千の魍魎染みた者達を相手取っていた自分がここまで格の違いを思い知らされたのは始めてのことだ。

 

 改めて劉弁を目にした趙忠は、ガチガチと自分の歯が音を立てるのをまるで他人事のように聞いていた。これまで禁中にある自室よりほとんど出てこなかった彼女と遭遇したことは数えるほどだ。その時でさえも傍を通っただけで背筋が凍る気配を滲ませていたが、今の彼女はまるで別人ではないかと思わせるほど。これまで仕えて来た皇帝など赤子同然の存在感を発するそれは、人の形をしただけの何か(・・)。齢にして十二か三そこらだというのに直視するのもままならない億千万の怨念を背後に従えて、一切の救いを必要としていない混沌を纏いし魔王がそこにいる。

 

「この度は大儀であったな、趙忠よ」

「は、ははぁっ!! い、いえ、そのようなことは……」

 

 気の利いた言葉一つ出てこない己を自覚しながら、それでも舌が回らない。それにこの存在を前にして上っ面の美辞麗句を並び立てたとしても意味は無く、不興を買うだけではないのかという漠然とした予感が身体を支配している。つい先日政敵である張譲が、劉弁と自分同様二人で謁見していたがその後の彼女は萎縮するどころか熱く燃えている姿を見せていたことが信じられない。何故、どうしてこんな化け物と相対してそのような気持ちを抱くことが出来るのか。

 

「趙忠よ。余計な問答はいらぬ。長らくこの漢に仕えたそなたに聞こう」

「……はっ」

「漢王朝はいつまで持つ(・・・・・・)と考えている?」

「……」

 

 劉弁のあまりといえばあまりの問い掛けに、言葉が詰まる趙忠。皇女とは思えぬ、そしてあるまじき発言に、どう答えれば良いのか判断に迷った彼はお為ごかしの返答をしようとし―――それでも物言わぬ劉弁の力ある視線にそれを飲み込んだ。

 

「……恐れながら、長くは、ないかと」

 

 結局趙忠がなんとか捻り出したのはそのような言葉であった。彼の答えに、そうだな、と短く頷いた劉弁に怒りも呆れの色も見られない。

 

「既に漢には中華を統べる力はなくなっている。長くても二、三十年以内にはこの王朝も時代の波に飲み込まれ消え行くだろう」

 

 余の代で歴史ある国が終わりを告げるか。なんとも面白くも複雑なものだ。

 趙忠からしてみれば全く面白くもないが、劉弁の言うとおり漢が滅びるのも時間の問題といっても過言ではないだろう。それほどまでにこの国の土台は腐りきっている。

 

「さて、趙忠よ。何故漢がこのような状態になっているかわかるか?」

 

 気軽に投げかけられたその質問に、ごくりっと緊張のあまり息を呑む。漢王朝が衰退して行っている原因など、わかりきったことだからだ。まるで自分を弾劾するべくここに招集したのか、と一瞬思えど肝心の皇女様の視線にはそのような非難は見られない。自分が衰退の理由を理解しているのか、否か。それを見極めようとしている。

 

「……始まりは、外戚と宦官の権力争いに端を発したのではないか、と」

「うむ。続けよ」

「幼い皇帝の擁立……そして後見となった皇太后による政治への関与。親族である外戚の助けを得るために高い地位を授けて、結果多くの外戚による政策への参加。彼らの横暴により王朝は混乱を極めました」

 

 まだ小さな皇帝では止められる筈もなく、外戚勢力による政治への参加は漢王朝を混迷へと導いた。だが、それは確かに始まりでしかなかったのだ。

 

「そして八代皇帝順帝の時代に皇太后の外戚として力を持った梁冀。彼の人物によって漢王朝は腐敗の一途を辿ることになったのではないかと思われます」

 

 梁冀とは八代順帝が幼帝であったため後見人としてこの皇帝を補佐することになった梁皇后の一族であり八代皇帝から、九代皇帝沖帝、十代皇帝質帝、十一代皇帝桓帝の四代の皇帝に仕えることになり、この四代の皇帝は全て幼い皇帝であったため外戚である梁冀が後見人として専横を振るうに至った。梁冀による専横は漢王朝が衰退する大きな原因の一つになったのは間違いない話であった。

 

「そして……」

 

 言葉を続ける趙忠は、次に言い放つ台詞を考えながら緊張のあまり口内がからからに乾いていることを気にする余裕もなかった。

 

「十一代皇帝桓帝より強い力を持ち始めた我ら宦官と外戚の争いの結果が……今現在の、漢王朝を作り上げてしまった―――」

 

 最後まで碌に言えずに趙忠は反射的に頭を垂れた。恐らく劉弁は趙忠が言わずともそれくらいのことは理解しているはずだ。そして、これまで彼が行って来た多くの非道を、汚職を知っているに違いない。実際に趙忠は自分の敵となる多くの官僚を追放して来た。自分の意のままになる汚職官僚を抱きいれて、漢王朝での立場を揺るぎないものにしたのは覆しようがない事実だ。思えば随分と好き勝手に生きてきたものだ、と趙忠はこんな時でありながら自身にあきれ返った。栄華を極めた我が人生遂に終わりを迎えるときがきたのか。それを裁くのが人知を超えし魔王の如き天上人。これほどの存在に罰せられるのならば逆に清々しい気持ちすら感じられる。

 

「理解しているのならばそれでよい。趙忠よ……これからは余の下で励め(・・・・・・)

「―――はっ?」

 

 呆然と、非礼に値する呆けた声を出して趙忠が下げていた頭を思わず上げた。今なんといったのだこの皇女は。罰するわけでもなく、弾劾するわけでもなく、ただ自分の下で変わらず励めと言ったのか。漢王朝の腐敗を促進させた自分を前にして、何故そんな態度でいられるのか。

 

「多くの者を陥れ、罷免させ、無実の者を罰したそなたのこれまでの振る舞いは確かに褒められた物ではない。が……見事だ(・・・)。ただの一宦官がこれほどまでの高みに昇り、座し続けた手腕は感服に値する」

 

 もっともその対象になったものはたまったものではないだろうがな、と笑いながら発言する劉弁は実に愉しそうだ。一方の趙忠は、一体何を言われているのか頭が皇女の発言を理解してくれない。唖然と、開いた口が塞がらない様子で彼女を見上げ続けている。

 

「我が母にして第十二代皇帝である劉宏は良くも悪くも普通だ(・・・)。現状から漢王朝を立て直す事など不可能であろう。故にこの国を、漢を―――復興させることは余にしか出来ぬ」

 

 既に十数年の命の王朝を復興させることが出来ると傲岸不遜にも言い放つ少女。これが彼女以外の口から出た言葉ならば、趙忠は鼻で笑った。だが、この逸脱した存在ならば、現実を理解していながらも出来ると断言する劉弁ならば可能なのではないか、と心のどこかが期待している。

 

「明日よりこの国の中枢は新しき体制に生まれ変わる。否、余が生まれ変わらせて見せよう。これまでの派閥、軋轢など全て捨て、余の下で漢復興への道を邁進して貰うぞ。勿論、今いる全ての官僚を切るなど愚かしい真似はせん。趙忠よ、そなたは愚かではあったが無能ではない。新しき王朝でも大役を担い、それを為すことを期待している」

 

 ドクンドクンと心臓が早鐘を打つ。それは劉弁という未だ少女の域を出ない歳の皇女へ対する恐怖のみならず、尽きることのない希望故にであった。しかし、ああ、だがしかし―――それでも頷けない。頷くには後一歩が足りていない。これまで歩んで来た血塗られた怨嗟の道を簡単に外れることなど、犠牲にして来た者達が許すものだろうか。許されざる我欲に満ち溢れた趙忠の人生。新しき皇帝に請われたからと言って、それが認められるだろうか。犠牲になった者達が絶対にそれを認めはしないだろう。

 

「恐れながら、申し―――」

「趙忠よ」

 

 趙忠を遮って、劉弁が朗々と謳うように言葉を紡いでいく。

 

「人とは実に面白いものだ。戦場、宮中問わず命をかけて戦う者達がいるがそれらが胸に抱くのはそれぞれの想いだ。大義の為に戦うもの。仲間の為に戦う者。愛する者の為に、私利私欲の為に、復讐の為に……それ以外にも想いは人の数だけあるであろう。しかし誰も間違っていない。それらは人の持つ感情からの行動であるからだ。それを否定するつもりはない。例えば、そなただ趙忠」

 

 彼によって一体どれだけの者が罷免され、無実の罪によって罰せられただろうか。漢王朝を正常な状態へと戻そうと努力した士大夫ら清流派と呼ばれる者達を弾圧し、終身禁錮の刑に処しもした。様々な賄賂を平然と受け取り、汚職の限りを尽くす。厳罰を受けてもおかしくはない。受けなければおかしいほどの行為を行って来た。

 

「重ねて言うが、そなたの行い。それもまた人の持つ感情からの行動である。愚かしいとは思うが、それを否定するということは人間の感情……即ち人の本質の否定へと繋がる」

 

 人の本質。人間は欲望に溺れ、人を欺き、そして憎悪し殺す。人が人である限り戦は決してなくならないことを中華の歴史が証明している。現に統一国家秦であったとしても、自分がいなくなった後にすぐに滅びを迎えてしまった。だが、それを継いだ漢王朝は様々な苦難がありはするものの、確かに数百年続く一つの国家として中華を統べて来た。この中華を統一するという行為は、決して間違ってはいなかったのだと、劉弁は確信を抱いていた。そんな漢でさえも、このような現状に陥っている。

 

「人の持つ凶暴性、醜悪性、残虐性……それは人の持つ側面である。だが、それ以上の暖かな優しさと光を人は持つ。決してそれは特別な人間にのみ与えられたものではない。人は皆一様に己を輝かせる確かな光を己の中心に煌かせている。光り輝く人の想いを、次の者が受け継ぎさらに力強く輝かせる。だが、それが出来ないものも確かにいる。己の有り様を見失い、見つからず、もがき、苦しむ。結果、人は闇へと落ちるのであろう」

 

 それが光と闇の境界線だ。十常侍でいうならば、趙忠と張譲がその良い例だ。本来であれば、張譲もまた趙忠と何ら変わりはしない闇へと落ちた人生を歩む筈であった。だが、彼女は己が光である李信と出会ったのだ。出会えた張譲と出会えなかった趙忠。僅かそれだけが、彼と彼女の行く道を別った分水嶺の選択肢だった。

 

「だが、それもまた人の(・・・・・・・)側面にしか(・・・・・)過ぎない(・・・・)。光も闇もあくまで人の本質の一部である。渾然一体……それら二つはどちらかを忌み嫌うべきでなく、光と闇を持って人を為す」

 

 劉弁が玉座から立ち上がる。

 

「人の本質とは―――中庸だ」

 

 生まれ、育つ過程においてそのまま成長するものもいる。だが、光や闇に染まる人間もまた多い。人を癒し、救うのまた人。人を騙し、殺すのもまた人。尊く思う行為も、憎むべき行為も人の本質に他ならない。

 

「己の行為を非道と自覚していたか、趙忠よ。己の闇を理解しているそなたを余は受け入れよう。そなたのこれまでの歩みにおける誹りを全て余が引き受けようぞ」

 

 階段を降る音を響かせて、劉弁が趙忠と同じ地平に立ち尽くす。だが、見上げる彼から見る皇女の姿はあまりにも巨大。かつて初めて見た時の李信よりもなお、大きく雄大で―――禍々しい。光と闇が綯い交ぜとなった混沌を背に渦巻かせて睥睨する姿はただただ圧巻。

 

「改めて問うぞ、趙忠よ。余に仕えよ。これまでのそなたの行為筆舌に尽くしがたく、許しがたいものである。故に、そなた自身の手によって漢王朝復興への標を建てよ」

「……是非もなく」

 

 趙忠は今度こそ反する言葉を持たず、静かに頭をたれた。この皇女には決して勝てない。いや、勝つとか負けるといった土俵などには上がることなどできないだろう。人のあらゆる悪意と憎悪を背負い、億千万の混沌を纏いながら、美しくも眩い輝きを放つ超越者。相反したそれを完全に支配下においてなお、平然と泰然とそして艶やかに笑うことが出来るのは、中華の気が遠くなる過去と現在、果てのない未来において劉弁が最初で最後の存在となるであろう。そんな漠然とした予感に全身が包まれる。

 

「弁殿下……貴女様は、一体何者、なのですか……」

 

 だからこそ、漏れ出でた素朴な疑問。彼女は間違いなく漢王朝第一皇女の劉弁だ。それでも、一体どうすればこのような存在として生れ落ちるのか。

 

「余か? 余は劉弁。この漢王朝第一皇女の劉弁である」

 

 そして、やはり彼女の返答は予想を上回るものではなかった。

 

「だが、名乗りをあげるとするならばこう答えたほうがよいかもしれん」

 

 形の良い顎に手を当てて、見上げる趙忠を睥睨しながら予想を覆す言葉を続ける。

 

「余こそが三皇五帝を超えし者。唯一無二の真なる皇帝(・・)である」

 

 三皇五帝とは、古代中国の神話伝説時代の八人の帝王のことを指す。三皇と五帝に分かれ三皇は神、五帝は聖人としての性格を持つとされる理想の君主。三皇五帝より尊い存在という意味で、それまで使われて来た王という君主の称号ではなく、皇と帝を合わせた皇帝(・・)と言う新しい称号が作られたのが統一国家秦の時代である。

 

 漢王朝が使用している中華の支配者としての意味での皇帝とは明らかに違う。今ではただの冠としての意味合いしか持たないその単語。だが、この少女の口から出る言葉には重みがある。趙忠はここでようやく悟った。これまで漢王朝に君臨して来た王は、皇帝という言葉に支配されただけの君主でしかない。だが、劉弁は違う。逆に彼女は皇帝という称号を完全に支配している。劉弁が語る、三皇五帝を超える者―――それは決して誇張でもなんでもない。この世において彼女以外に比肩する者もなく、比類する者もなし。並び立つ者など絶対に存在しえぬ、正真正銘本来の意味合いを持つ皇帝なのだ。

 

「―――この趙忠。揺ぎ無い忠誠を弁殿下に捧げる事を誓います」

「うむ。期待しているぞ」

 

 満足気に頷いた劉弁は軽やかな足取りで階段をのぼると、玉座へと再び腰を下ろした。では、下がってよし……という彼女の退室を促す声に拝手の礼とともに謁見の間を去ろうとした趙忠へと、思い出したかのように言葉を投げかける。

 

「趙忠よ。先程も言ったとおり、これまでの派閥軋轢を全て捨てさせるとは言ったもののすぐに出来るとは考えておらん。だが、そなたたちが一つだけ絶対に遵守するべきことがある」 

「はっ……」

「信に……李信に手を出すことは絶対に許さんぞ」

 

 劉弁の言葉に一瞬理解が及ばなくなったのは当然だ。予想外もいいところ、まさかの人物の名前が挙がって思考が停止する。いや、それも先日の論功行賞のことを考え見れば納得がいくのだが。

 

「張譲の懐刀として信の名は有名であるそうだな。そしてそれはそなたたちからして見れば随分と忌々しい存在であろう。煮え湯を飲まされたことなど幾度もあると聞く」

 

 だが、それら全てを忘れよ。

 劉弁の発言に、何故そこまで李信のことを気にするのか表情に出ていたのだろう。趙忠の顔を見て彼女は、ふっと僅かに口角を緩ませた。

 

「余と信は決して切れることのない友愛を持って繋がっている。あいつの苦悩は余の苦悩であり、喜びもまた余の喜びである」

 

 李信の喜怒哀楽全てが、自分の喜怒哀楽と同義。

 平然と言い切る劉弁の姿に薄ら寒い得体の知れない何かを感じ取る。

 

「信の味方は余の味方であり、信の敵は余の敵となるであろう。良いか、趙忠よ。信を害することは余と敵対することと知れ」

 

 ここまで。ここまで李信という男は劉弁に愛されているのか。大切にされているのか。彼女を構成している混沌がゆらゆらと室内を、宮中を、洛陽を覆っていく。轟く雷鳴、大粒の雨がパラパラと降ってくる幻さえ見させられ、粘つく空気。重力が数十倍に重さを増して、立っているという行為すらも難しい。全てを呑み込む津波が如く、押し寄せる熱波が体力と精神をまるで鑢で削るかのようにこそぎ取っていく。見ろ、見ろ、見ろ―――我らを見ろと、誰かが鬨の声を上げる。都を震撼させる圧とともに、轟雷もかくやという喚声が迸った。いる。いた、そこに見える。確かに視えたのだ。劉弁の背後、そこに渦巻く混沌の中から現れ出でるのは李信同様……或いはそれ以上の背負う者達。尊敬し、崇拝し、盲信する多くの兵と民。それ以上の憎悪と悪意を撒き散らす負の感情のみで構成された闇の集団。それの対象になっていながら、それを背負っていながら何の苦痛も気負いもない彼女の姿こそが、皇帝という存在なのだと本当の意味で認識するに至った。

 

「……仰せのままに」

 

 これだけの死が蠢く空間でそれだけを必死に搾り出した趙忠もまた、そこらの有象無象とは異なる一廉の人物の証左であった。確実に寿命が縮まるこの領域において、劉弁は楽しそうに笑っている。

 

「上に立つ者が友を優することを不安に思うか? 確かにそうであろうな。王としては公私を分けねば示しがつかぬだろうしな」

 

 心の片隅に浮かんでいたほんの僅かな憂慮を言い当てられて頬を引き攣らせる趙忠。だが、確かにそうだ。彼女はやがて漢王朝を統べる者となるがそんな時に、国よりも友を優先されては非常に困る。

 

「それは人の範疇の話だ。先程も言ったぞ? 余こそが三皇五帝を超えた者である、とな。それ即ち―――中華における神である」

 

 あらゆる者を屈服させる混沌を無秩序にばら撒きながら、劉弁の笑いはとどまるところを知らない。

 

「古来より神とは我が儘な存在であろうが」

 

 悪びれもせず劉弁は可憐な少女の顔をして、趙忠に向かって隠すことのない本音でそう語る。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみにその後状況を知った李信に頭を叩かれた劉弁であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……趙忠。何をぼーとしている?」

 

 突如として自分に掛けられた張譲の問いに、ハッと白昼夢から醒めた趙忠は幾度か頭を振って未だはっきりとしない意識を覚醒させる。周囲を見渡してみればここは洛陽の宮中にある軍議場であり、この場にいる皆が一体何事かといった様子で趙忠を窺っていた。それに、数年前の夢を見ていたことを悟った彼は、何でもないと答えて何故自分がこの場にいるのかを思い出そうと試みると、すぐさまそれの答えが脳裏に浮かんで来ることとなった。

 

 話し合っている内容は、最近中華全域に点在する黄色い頭巾を被った集団―――黄巾党についてだ。一年ほど前から見られるようになってきたが、その当時は特に略奪などをするでもなく中華全域を移動しているだけであったが、その人数がここ一年で三十万を超えたと報告があり、更には昨今突如として漢王朝へと牙を剥き始めたのだ。彼ら黄巾党は蒼天已死。黃天當立。歲在甲子。天下大吉―――蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉という標語を掲げ襲撃を繰り返し始めている現状が見られ、張角、張宝、張梁の三人を首魁とし漢王朝においてかつてない大反乱と目され始めていた。

 

「全く。まさか昨年の張純の乱に引き続いて、このような反乱が起きるとはな。予想外もいいところだ」

「うむ。だが、此度の乱は張純の時の比ではないぞ。あの時でさえも十万という数が揃っていたというのに、今度はそれを遥かに超える」

「今すぐにでも手を打たねば、この漢王朝を揺るがす乱となるであろう」

 

 かつての涼州で起きた韓約の乱の時とは異なり、ここに集まった官僚全員が真剣な表情で黄巾党についての対策を話し合っている。以前との違いの大きさに、張譲は劉弁の手腕に舌を巻く。完全に洛陽の官僚全てを抱きこみ、意識を改善させていることに驚愕、の一言だ。自分がどれだけ努力しても結局は趙忠との政治争いにしかならなかったが、皇女と一官僚という立場の違いもあるのだろうが、劉弁は漢王朝の復興への道を確実に歩んでいる。その政治的手腕、恐れ怖れ畏れられながらも敬われる魅力。揺らぐことのない絶対の決意。それら全てが超越者としての輝きを放っている。流石は李信が主と認める者である―――と悔しさを滲ませながらもそれは賛同せねばなるまい。特に中華全域を駆け巡る独立遊撃部隊の隊長となってからは、洛陽に帰還することが少なくなり会う機会も減ってしまった。戦場を行く者と宮中を戦う場とする者。彼ら二人正反対の戦場を主とする故に、それは仕方ないといえば仕方のないことなのだが―――。

 

「弁殿下には頻繁に会いに行っているではないかっ」

 

 腹立たしさを抑えきれずにガンっと机の足を蹴るが、返ってくるのは固い感触。痛みに思わず呻き声を上げて蹲りつま先を押さえる張譲の姿に、何をやってるんだこいつは……と周囲の人間の視線は冷ややかだ。

 

「張譲はとりあえず放っておけ。今のこいつはあてにはならん」

 

 此方は完全に復活した趙忠が、痛みにもがいているかつての最大の政敵を尻目に軍議を進めるべく口を開く。かつては虎視眈々と自分の政治生命を脅かして来た餓狼の如き存在感を見せ付けていたというのに、このポンコツ具合は如何したというのか。いや、こんな姿を見せるのはきっと李信に関係することだけだろう。そうでなければ以前の好敵手があまりにも哀れだ。

 

「皆の言う通り、もはや僅かな猶予もなかろう。一刻も早く鎮圧し、漢王朝復興への道を歩まねばならん」

 

 はっ!! と軍議場にいる全ての者が熱く燃える意志を示し、声を上げた。それに満足そうに頷いた趙忠は、自分を見てくる官僚を順に視線を移動させながら視界におさめ、次なる一手を紡ぎだす。

 

「では、諸君らに聞く。此度の反乱において総大将を勤めるのは誰が良いと思う?」

 

 十常侍筆頭の問い掛けに、皆が静まり返った。漢王朝には数多くの将軍がいるが、一体誰が相応しいのか。考えること数秒。一人の文官が何の躊躇いがあるのか、と堂々と答えを示しだした。

 

「李信将軍。彼こそが総大将に相応しいと思われますが、如何か?」

「ほぅ。李信殿をか」

「数年前の韓約の乱から始まり、北方の異民族の平定。昨今では張純の乱をも最小の被害で鎮圧する第一功。彼以上に相応しい者などおりますまい」

 

 男の言葉に多くの官僚がそうだ、と賛同する。その中にはかつて趙忠派と呼ばれ李信を忌み嫌った者も多くいた。数年を経て以前の派閥の垣根は取り払われ、劉弁の下洛陽は政治が回っている。敵であったときは恐怖しかなかったが、味方ともなれば李信ほど頼りになる武官などそうはいない。そして彼の比類なき功績も考慮すれば、確かにまだ若いとはいえ総大将に相応しいともいえた。

 

「ふむ……そうだな」

 

 彼らの言うことはわかる。そして理解出来るし、自身も李信に総大将を任せることになんら不平不満はない。張純の時でさえも一万の兵士で賊軍を壊走させたのだ。総大将ともなれば、動かせる兵士の数はその数倍。今回に限ってはさらに官軍の数は膨れ上がる。それだけの兵を自在に操れるのならば黄巾党など一瞬で鎮圧することが出来るかもしれない。

 

「よし、では……李信将軍を此度の鎮圧軍の総大将に―――」

「―――それは止めておけ」

 

 ほぼ決まりかけた決定に待ったをかける者がいた。先程まで痛みのあまり蹲っていた張譲である。いや、今も痛いのか少し涙目になっている。このポンコツめ、と思いながら一応は自分と同格の張譲の言葉だ。彼女の意見も聞かねばならない。 

 

「それはどういう意味だ、張譲よ」

「言葉通りの意味だ。李信を今回の乱の総大将に据えるのは止めた方が良い」

「それは異なことを。お前と李信の関係を見れば、推挙する理由はあっても止める理由はないように思えるが」

「普段ならばそうであろうな。今回でなければ喜んで全身全霊を持って推挙したであろうよ」

「……今回でなければ?」

 

 意外なところからの反発に訝しげにしている趙忠の瞳が怪しく光った。

 

「李信軍の強さ。それは李信本人にもあるが、あいつの直属兵にも起因する。超精鋭の連中の中に他の官軍を混ぜてみるがよい……動きを妨げられ逆にろくな動きが出来なくなるのが目に浮かぶぞ」

 

 それに黄巾党は数十万の信徒を三十六の塊に分け、一単位を方とし軍事組織化していると聞く。その反乱組織が中華全域に散っているのだ。もしも仮に黄巾党が一箇所に集まっているならば李信を総大将とするのもありではあろう。李信軍が怖れられるのは独立遊撃部隊としての一面を持つからであり、異民族へと対抗するための神速の行軍もまた武器である。総大将を勤めるということはそれら李信軍の持つ長所全てを投げ打つことになってしまう。

 

「それによく考えよ。李信のことだ……例え総大将におさまったとしても、間違いなく黄巾党へと軍の先頭で突っ込んで行くぞ」

 

 ははは、そんな馬鹿な。

 誰かが張譲の心配を笑うが―――彼を知っている者は十分にそれが有り得ると表情を引き攣らせた。鎮圧軍の総大将が先陣切って特攻をしかけるなど絶対にあってはならないことだ。いや、そもそも将軍が先頭を行くこと事態がおかしいのだが。万が一李信が倒れれば、それで鎮圧軍は瓦解する。それを考えれば彼を総大将に据えることは確かに止めた方が無難である。

 

 もっとも張譲からして見れば、李信を先陣とした全軍突撃で黄巾党の集団を蹴散らしてしまう未来が見えるのだが―――口にした通り今回に限っては総大将よりも普段通りの李信軍で動いたほうが彼にとってはやりやすいだろう。独立遊撃部隊としての役割でそのまま今回の鎮圧に乗り出せば、中華全域に点在している黄巾党を各個撃破することが可能となる。

 

「皇甫嵩殿。朱儁殿。盧植殿。この三人に各方面の大将を勤めて貰い、黄巾賊を鎮圧して頂く。李信には彼ら本来の役割である独立遊撃部隊として動いてもらった方が良いかと思うが、皆の者は?」

 

 張譲の意見に反対の声はあがらなかった。彼女が挙げた三人の将軍も優秀であり、しっかりとした実績をもっているからだ。侮るわけではないが、反乱軍あいてならば十分に対処可能な人物と皆に期待されていた。

 

「では、各将軍には殿下から任命式を行って頂く。此度の反乱を最小限の被害で静めるように各々が全力を尽くすことを期待している」

 

 趙忠の台詞を合図として今回の軍議は終わりを告げた。

 こうして、漢王朝と黄巾党による戦争が始まりを迎えることとなるのだが―――その頃北方で異民族へ対する警戒に当たっていた李信はなんとも言えない予感に襲われていた。張純の乱以降、急激に異民族の侵入が無くなってきたのだ。それは果たして自分達の存在故なのか……それは多少は関係しているのだろうが、それが全ての原因ではないことを薄々感じ取っていた。中華より遥か北方……異民族の領域において李信の本能をも刺激する新たな怪物が目覚めの産声をあげたのだが、彼がそれを知るのはまだ先のこととなるのであった。

 

 

 

 

 

 




・「人の本質は光だ」って台詞はその後の覚悟も含めて読んでて感動しました。
・このSSにおけるラスボスが決定しているのでタグを少し弄りました。

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