真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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黄巾の章
第21話:反乱の予兆


 

 

 

 

 

 

「ふんふんふんふんふーん」

 

 何やら機嫌良さそうに鼻歌交じりにとある街の目抜き通りをゆっくりと歩いていく少女がいる。薄桃色の呉織で着飾り、艶やかな茶色の髪を飾り布でまとめ総髪にしていた。細い肩には、薄く蒼い肩掛けを羽織っている。化粧っけが全く見られないが、年の頃は精々が十五、六。まだ自分には必要ないと判断してのことであろう。小奇麗に整った身なりは、一目でそれなりの名家の娘ではないかと推測することができる。容姿自体も傾国の美女―――とまではいかないまでも十分に人目を引くことが可能ではあるのだが、唯一気にかかる点があるとすれば、右耳に大きな傷があるということだろうか。主役を張るような絢爛な花ではなく、道端でひっそりと咲く野花を連想させる少女でもあった。両手を後ろで組んでゆっくりと通りを歩いていく少女は、やがて目的の場所までたどり着く。そこは街の規模を考えたとしても随分と大きな屋敷であり、明らかに街の名士が住んでいる場所であることは一目瞭然。だが彼女は一切気後れすることもなく屋敷の門番に、お疲れ様です、と声をかけて素通りしていく。屋敷へとあがり、廊下を進んでいくうちに二人の年配の男女の姿が視界に映った。

 

「……彧はまだ部屋に閉じこもっているのか?」

「ええ。どうやら相当に今回の件は矜持に傷がついたようで……」

「無理もない、か。能力を活かす機会すらも貰えなかったのならば仕方あるまい」

 

 難しそうな顔をしている男と心配な表情の女。二人の間の重い空気を理解していながら、少女は全く気にも留めずに二人の傍へと歩み寄っていき、拝手の礼を取った。

 

「こんにちは、おじ様。おば様」

「ん? ああ……攸か。今回は本当にすまないね」

「うちの彧が迷惑をかけて申し訳ないわ。有難うね、公達ちゃん」

「いえいえ。可愛い桂花のためですから」

 

 二人の暗い雰囲気を吹き飛ばす、朗らかな少女―――荀攸公達の笑顔に、疲労を滲ませていた二人の間の空気が吹き飛ばされ、肩に圧し掛かっていた重さが少し軽くなった錯覚を覚える。そんなおじ達の姿に、無理もないだろうなぁ、と胸中で荀攸は二人の苦心に賛同せざるを得なかった。

 

 ここ豫州潁川郡にはとある名家が存在する。荀一族(・・・)。その中でもっとも名が知られている者として旬淑があげられるであろう。彼は儒学に精通し、沖帝・質帝・桓帝時代の漢王朝でもっとも権勢を誇っていた梁冀一族を批判し、清廉な道を貫いた。そのため神君(・・)とまでに褒め称えられ尊敬を集めたという。また彼には八人の子供がおり、皆が優秀であったため八龍(・・)と称され彼らの名声は中華に轟いた。そして、今ここにいる男性こそが八龍の一人荀緄である。そして三人の話題にあがった彧とは―――荀彧文若。真名は桂花。彼らの子供である荀彧も幼い頃から神童と呼ばれ、将来を期待されていたのだが……つい先日仕官した名門袁家から数ヶ月もせずに帰ってきてしまったのだ。何故辞して帰ってきたのか最初は黙して語らず、自分の部屋に引きこもっていたのだが根気よく問い掛けていく内にようやくその理由が判明した。名門汝南袁氏に迎え入れられたは良かったが、彼女の能力を活かす機会も得られずに燻っている毎日に嫌気が差したと言う。もっとも、その点に関しては袁家が悪いとも言い難いところがある。何せ漢において四代に渡って三公を輩出した名門中の名門貴族。彼らが抱えるのは途方もない数の文官武官であり、人材の宝庫。そんな連中が上の者の目に留まろうと必死に日々の献策に走っているのだ。その中で結果を残そうと思えばとてつもない努力と労力が必要となるであろう。もっとも、荀彧ほどの天才ならばそれでも何時かは芽が出たやも知れないが―――何分毒舌な上に男嫌いの性格が災いし、その分敵となるものも多かった。結果出る杭は打たれ、ろくな結果を残せずに失意のまま袁家を去ることとなった。

 

 おじ夫婦に暇を告げて、荀攸は廊下を行き本来の目的地へと漸く辿り着く。それは友である荀彧の私室であった。入るよ、と一度声をかけて相手の了承を得ることなく入室する。礼儀がなっていないと思われるかもしれないが、二人の関係はその程度を気にするような浅い仲ではなかった。

 

 部屋の中にいるのは机の前に座って書物を読んでいる一人の少女。彼女こそが荀彧文若。才能溢れる荀一族においてなお、才覚を煌かせる正真正銘の天才。年齢は荀攸と同年代くらいだろうか。金に近い茶色の髪と容貌は流石親類だけあって荀攸に良く似ている。穏やかそうな荀攸と違って若干吊り目になっているため、気の強そうな印象を見る者に与えてくる……もっともそれは間違ってはいない。更なる特徴として、猫耳を連想させる頭巾を被っているのがより人目を引いている。そんな荀彧は目を通していた書物から入室してきた荀攸へと視線を上げた。

 

地花(・・)……久しぶりじゃない」

「うんうん。久しぶりだね、桂花」

 

 互いに真名を交わした者同士。荀彧にとっては親類以上の関係を結んでいる数少ない友人、それが荀攸である。そして荀彧が言った久しぶり、という言葉は決して冗談でも嫌味でもなく、荀彧が袁家に仕官してこの屋敷を離れていたため荀攸と会うのは実に数ヶ月ぶり以上になるのだ。荀彧が生家に帰還したという文を洛陽(・・)にいた荀攸が受け取り知ったため、この豫州潁川郡へと彼女も先程戻ってきたばかりという状況であった。久方ぶりとなる再会に、荀彧の様子をさり気無く観察すると、なるほど表情に以前のような溌剌とした色が見られない。目の下にも濃い隈も見られる。机や部屋中に山のように積み重なっている書物を見る限り、寝る間も惜しんで勉学に励んでいるのであろう。少しまずい状況かな、と荀攸は内心で臍を噛む。天才ゆえの挫折を知らない荀彧にとっては、今回の件は随分と堪えているようだ。おじ夫婦からの手紙にあった状況以上に、現状はあまりよろしくない方向へと進んでいる。

 

「桂花……悪いんだけど、少し出かけようか」

 

 ニコニコと笑顔を振りまく荀攸は、座っていた荀彧の手から書物を取り上げると傍にあった机の上にと綺麗に積み上げる。あまりに急な彼女の誘いに、流石に眉尻を寄せて疑問を覚えるのは荀彧だ。

 

「どこへ出かけるって言うのよ? それに私には外出する時間なんてないんだけど」

「一人で根をつめても碌なことにはならないよ。それに今から行くところは絶対に桂花のためになる場所になるはずだから」

 

 珍しくも絶対に引かない意志を込めた荀攸の言葉に、荀彧は仕方ないしといった表情を浮かべる。彼女自身も今のままではどうにもならないことを頭のどこかでは理解していたのだろう。そんな彼女は、荀攸へとどこへいくのか、ともう一度訪ねると、荀攸公達は笑顔を消さないままよりそれを深くして一言。

 

「……洛陽にいこうか(・・・・・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 漢王朝の首都でもある洛陽。そこは言ってしまえば天然の要塞である。洛陽が位置する場所は盆地であり、周囲は巨大な山に囲まれている状態だ。洛陽の北側には邙山、南側には伏牛山があって大軍での侵入が難しくなっており、かといって東西の平地は細く西には函谷関(・・・)、東には虎牢関の二大要塞が設置されて、どのような大軍がきたとしても攻略することはほぼ不可能な難攻不落の防御基地としても知られている。さらに加えて、洛陽が位置する盆地には黄河によって運ばれた肥沃な土もあるため農業生産性が非常に高く、傍には渭水や洛水という河が流れているので灌漑も可能というとんでもない立地な場所でもある。つまりは十分な兵で東西の函谷関と虎牢関を守っていれば、数年どころか数十年単位で籠もることが可能という完璧な都ともいえた。ちなみにかつて中華を統一した国家である秦は、函谷関を越えて西の長安をさらに行った場所に首都咸陽を置き、この肥沃な土地が大国秦を支えていたともいえる。

 

「……す、凄い人ね」

「うんうん。そうだね」

 

 そんな虎牢関を越え、洛陽へと到着した馬車から降り立ったのは荀彧文若と荀攸公達の二人である。目の前に広がる大都市の光景に驚きを隠せない荀彧は、視線があちらこちらへと彷徨っていた。見渡す限りが人、人、人で埋め尽くされており、整備された道が縦横に走っている。都市の入り口ということもあり、道に沿ってずらりっと並ぶ商店露店の数も凄まじい。これに比べれば自分の故郷の町など可愛らしいものである。

 

 それも当然。司隷には合計しておおよそ三百万の民が住んでいるが、そのうちの三分の一がここ洛陽にて生活しているからだ。まさに文字通りの百万都市。それに数年前に比べて、政策の転換もありこの首都も以前よりも遥かに住みやすく改善されている。豫州も人口だけならば司隷よりも遥かに多い。おおよそ倍の六百万という民を抱えているが、流石に一都市に百万人などという巨大都市があるはずもなく、荀彧が初めて目にした首都の巨大さに目を見張るのも無理なかろう話だ。絶え間なく響き渡る喧騒も、普段ならば頭痛の一つでもしたかもしれないが、ここまでのものだと逆に新鮮味に溢れている。

 

 通りを行く荀彧は左を見ては目を見張り、右を見ては小さくではあるが驚きの喚声をあげた。初めて見る光景に彼女の目はきょろきょろと忙しなく周囲一帯を見渡しており、ありとあらゆる人や物に興味を向けている。もしも荀攸が隣にいなかったならば、祭りに来た子供が如くあちらこちらへとふらふらと彷徨っていたかもしれない。初めての体験に心を躍らせていた荀彧だったが、しばらくして落ち着くと自分の傍でニコニコと見守っていた荀攸の存在を思い出して、自分の子供のような行動に顔を赤くする。

 

「……有難う、地花」

 

 突然の感謝の言葉に首を捻る荀攸。

 

「おかげで丁度良い気分転換が出来そう。その為に私を連れて来たんでしょ?」

 

 洛陽という百万都市をこの目で見た荀彧は自分がどれだけ自身を追い詰めていたのかようやく思い至ることが出来た。これまで挫折知らずの人生を歩んできた自分が生まれて初めて躓いた故に、それを忘れようと勉学に励んでいたのは良いが、それはあまりにも過ぎた行動であった。適度な生き抜きも必要だと、きっと荀攸はそのことを教える為にこの洛陽につれてきたのではないか。それについての感謝の礼を述べたのだが、肝心の荀攸はキョトンとした表情で荀彧を見返していたものの―――そのことについて考えが至ったのか苦笑して首を横に振った。

 

「違う。違うよ、桂花。確かに洛陽に行くと言ったけど、目的の場所は他にあるよ」

「……」

 

 どうやら自分の早合点だったようで、荀彧の顔に別の意味での朱が差す。くすくす、と笑う荀攸に連れられて洛陽の通りをゆっくりと歩いていく。中心に近づくに従って少しずつ人波が減っていき、やがて二人が到着した場所を見て、荀彧はごくりっと緊張のあまり口の中の唾液を無意識の内に飲み込んだ。彼女達の前にあるのは、あまりにも巨大な屋敷……いや、下手をしたら洛陽の王宮にも匹敵するほどの建物であった。小さな町ならばそのまますっぽりと入ってしまうのではないか、と思わせるほどの広大な敷地のそこに、荀攸は何の気負いもせずに向かっていく。気圧されていた荀彧は慌てて彼女の後を追い、百段以上もある階段を駆け上っていった。途中にあった門の左右には幾人かの兵士がおり、ピリピリとした緊張感を発していた。

 

「こんにちは、皆さん。警備お疲れ様です」

「おお、荀攸殿。お帰りになられましたか」

 

 そんな兵士へと荀攸は気軽に挨拶をすると、兵士達は緊張感を消失させ相好を崩して返答をする。人当たりが良い荀攸の姿に、男相手には一生無理だろうなと自分の性格を省みるが、治す気などもとよりさらさらありはしない。黙っている荀彧の姿に気づいたのか、兵士達が訝しげに彼女へと視線を向ける。その視線を浴びた荀彧は反射的にだが、男の注目を浴びたことにより表情を曇らせ荀攸の背へと姿を隠した。

 

「すみません。この娘は私の親類で荀彧と言います。先生(・・)に御紹介をと思いまして」

「ああ、そうでしたか」

 

 荀攸殿の親類ならば安心できるものです。笑顔で答えた兵士達に別れを告げ、荀攸に先導された荀彧は華美な廊下を歩き、やがて大きな扉の前にて足を止めた。

 

「先生に取次ぐから少し待っててね、桂花」

「ええ……わかったわ」

 

 バタンっと扉の中へと姿を消した荀攸を見送った荀彧は突如として心細さに襲われた。普段ならばそのようなことを感じることはないのだが、流石に知らぬ土地のこれほどまでに大きな建物で一人ぼっちと言うのは落ち着かない。気まずさに全身が包まれているその時、扉の向こうから僅かに漏れ出てくる声を彼女の耳が拾った。気になった荀彧が扉に近づいてみると、扉内部から様々な男女入り乱れる声がかすかにだが漏れ出できていた。

 

「まだだ!! 確かに北方の異民族は数年前より大人しくなってきてはいる!! しかし、だからこそ今が国内の異民族の駆逐の機会ではないか!?」

「それこそ悪手だ。漢に恭順している奴らを駆逐してどうするというのか。下手に手出しをして謀反を起こされては適わんぞ」

「張純の乱を抑えることが出来たのは大きい。しかも、あれだけの大規模な反乱に対して官軍の被害は最小で過んでいる。この機会を利用して国内の安定を図るべきだ」

「それはそうだが、やはりまずはまだ残っている足元の芽を摘むべきではないか?」

「うむ。地方の豪族や貴族が力を持ちすぎているのも問題だ。彼らの力を削ぐことを第一に考えるべきだ」

 

 様々な意見が部屋の中で飛び交っている。扉を挟んでもなお伝わってくる熱量に、荀彧の身体がぶるりっと震えた。ここまでの論じ合いを果たして自分は袁家で行えたであろうか。最初は様々な献策を行っていたが、途中からは無駄だと悟り無意味な時間を過ごしていた。最後までこの中で行われているような熱意を持って袁家に仕えていたならば―――或いは何かが違ったのかもしれない。

 

「準備ができたよ、私についてきてね」

 

 ギィっと扉が軋む音がして開け放たれた。ぶわりっと押し寄せてくる熱い風が荀彧の身体を撫で付ける。扉が開いたことにより、部屋の中にいた者達が一斉に彼女の方へと振り返った。そこにいたのは老若男女年齢問わず様々な者達がいて、だがここにいる誰しもが新たにやってきた荀彧の()を見通そうと値踏みしてきていた。袁家にいた十把一絡げの連中とは明らかに違う雰囲気と熱情を持っていて、さしものの荀彧も気圧されるように一歩後退する。特に男性からの視線に関しては普段ならば文句の一つでも出たかもしれないが、彼らのあまりにも真剣な姿と荀攸の紹介ということもあり彼女は寸前で飲み込んだ。

 

 シンと静まり返った室内の空気を気にもせず、荀攸は荀彧を連れて彼らの間を行く。そして、最も上座となる場所に座っていた一人の女性の下へと案内すると同時に膝を折り拝手の礼を取る。

 

「ただ今帰りました。先生」

「うむ。よく帰った、荀攸。変わりはないかのぅ?」

「はい。この度はご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 

 女性―――司馬徽徳操は読んでいた書簡から視線を上げ、荀攸へと目を合わせると軽く頷いた。座っているだけだというのに小さな身体から滲み出る圧力に袁家でもこれほどの人物を見たのは数えるほどだと、荀彧は驚愕のあまり吐息を漏らす。

 

「そして此方が今回御紹介しようとお連れしました荀彧です」

「―――ご紹介に預かりました。荀彧。字は文若、と申します」

 

 突然の荀攸の振りにも、一瞬呆けていたもののなんとか詰まらず自己紹介をした荀彧の姿に、司馬徽はまるで彼女の内心を読み取っているかの如く薄く微笑む。

 

「お主のことは荀攸から聞いておる。ワシは司馬徽。字は徳操じゃ。好きに呼ぶと良い」

「……司馬徽? ま、さか……水鏡女学院の!?」

 

 聞き覚えがある名に脳内の情報からそれを探し出そうとするのにかかった時間は一秒を切っていた。それほどに司馬徽はここ数年で中華全域に名前を広めていたからだ。優秀な人材を何人も輩出した水鏡女学院の設立者にして、そこで教鞭を執る教師。数多の有力者からきた仕官の誘いを断り続けた正真正銘の賢者。あらゆる者達からの仕官の願いを袖にした司馬徽が何故このようなところにいるのか。

 

「水鏡女学院は既に閉め、今はここで(・・・)指導者の役割を担っておるところじゃ」

「そんな……まさか」

 

 司馬徽の発言に驚きを隠せない荀彧の反応は当然と言えば当然である。そんなことは初めて耳にしたのだが、情報が伝わるのが遅いこの時代においてはそれも仕方のないことであろう。戦争や政変などの大きな出来事に関してならば人の噂話にもあがるのだろうが、たかが学院が一つ閉鎖した程度のこと、余程そのこと限定で網を張っているか独自の情報網を持っている者でなければ耳にすることはなかったはずだ。事実、荀彧はここ数ヶ月は袁家のもとで過ごしていたがそれについては聞いたことはなかった。上の者達ならばそれについての情報を目にしていたかもしれないが、荀彧の立場では知らされておらず、荀家に帰ってからも引きこもって独学の毎日。水鏡女学院が閉鎖したということを知る機会など得られるはずもなかった。

 

「お聞きしたいことがあるのですが……宜しいでしょうか?」

「うむ、許す。何が聞きたいのじゃ?」

「有難うございます。その……そもそもここは(・・・)、一体何なのですか?」

 

 荀彧の問い掛けに、司馬徽は荀攸へと視線を向けると、その視線を受けた彼女は舌を微かに覗かせてテヘッと小さな笑みを返してきた。説明を忘れていたわけではなく、荀彧を驚かせる為に敢えてしていなかったのであろう事に気づいて嘆息一つ。

 

「ここの屋敷……というかもはや城みたいなものじゃが、元々は十常侍の趙忠殿の物であったが弁殿下へと謙譲された場所である。そこを利用して官僚育成機関(・・・・・・)を殿下が立ち上げたのじゃ」

「……官僚、育成機関?」

「うむ。漢王朝を立て直すのに必要なものは幾つもあろう。そのうちの一つである人材の発掘育成を主とする機関じゃ」

 

 そんな機関が作られていたのか、と。僅か数ヶ月の間に随分と新たな流れに乗り遅れていることを自覚した荀彧は、無駄に時間を浪費していたことに後悔の念を抱く。もっとも重ねていうことになるが、荀彧も色々と都合がよくない時機が続いていたのだから仕方がないといえば仕方がない。それにこの育成機関が大々的に表に出されたのも丁度荀彧が袁家に仕官したばかりの頃だ。以前より人材の発掘には力を入れていたものの、優秀な人間には限りがある。それを見越してここを作り上げたのだが、様々な問題障害を解決し形になったのはここ最近。今では全国より入門の応募があるが、百人に一人入れるかどうかという敷居の高さだ。もっとも、試験以外にも面接もあり、将来性の高さを期待されて特別に許可される人間もいる。それを行うのが司馬徽であった。彼女ほど人の才能の有無を見極めるのに優れた人間はいないことを彼女の過去の功績が証明している。

 

「荀攸が太鼓判を押すほどの逸材。それに……うむ、なるほど。お主ほどの才ある者ならば入門試験など不要じゃろうな。もしも望むのならば受け入れるが、如何する?」

「……」

 

 なるほど、と荀彧はここに来てようやく荀攸の狙いを理解するに至った。最初から彼女は荀彧をこの官僚育成機関に入れることが目的だったのだ。部屋の中を改めて見渡すと、年齢性別問わず様々な文官候補が此方を注視してきているのは変わらない、新たな同門となる少女が如何ほどのものか見極めようとする彼らには、誰かを貶めようなどという邪な気持ちは一切見られない。そこだけ見ても袁家とはだいぶ異なっている。きっと彼らはこれからの漢王朝を立て直すための土台となって各地に散っていくのだろう。荀家の自分の部屋に篭っているだけでは決して知ることが出来なかった新たな可能性を見て、荀彧は心を覆っていた暗雲が晴れ渡っていくのを実感していった。

 

「過分なお言葉感謝致します。ですが、謹んでお断りさせて頂きます」

 

 シンっと静まり返る室内。選ばれた者のみが入門できるこの育成機関。しかもその長からの誘いを一蹴する者を彼らは初めて見た。あまりにも自然と、凛とした答えに、彼女の言葉を最初は理解できている者がいなかったほどである。対して司馬徽は、ほぅと短く呟くと、白扇でパシンと自身の左掌を軽く叩く。

   

「理由を聞いてもよいかのぅ?」

「この機関で己を磨くのは大変魅力的です。ですが、徳操殿は先程こう仰られていました……弁殿下が(・・・・)立ち上げた(・・・・・)と。つまりはここは完全に漢王朝の色に染まっていると判断しました」

「……うむ。それは正解じゃ」

「私は漢王朝を否定するつもりはありません。ですが……ここにいては漢の官僚としての道しか歩めない。私の主は私自身が決めたいと思っています」

 

 自分が王と戴く存在は自身で決める。

 はっきりと言い切った荀彧を見る周囲の人間の視線が厳しくなったのは当然だ。ここにいる者達は漢を救うべく、皆が救国の士とならんために日々切磋琢磨している。知らないとはいえ、荀彧はこの場にいる全ての人間に喧嘩を真正面から売ったようなものであった。だが肝心の司馬徽は、そうかと短く呟くにとどまった。

 

「それも仕方あるまい。どうやら何も知らずに荀攸に連れて来られたようじゃしな」

「すみません、先生。事前知識がない状態の方が受ける衝撃が大きいかなぁ、と思いまして」

「それで振られてしまっては仕方なかろう。まぁ、それに……自分の主は自分で決める。うむ、それには大いに納得ができるというものじゃ」

 

 ワシもそうだったしのぅ。

 過去を思い返し、くふっと笑った司馬徽が周囲の弟子達の敵意を抑えるべく手を軽く振った。それを合図として渋々といった様子ではあるが、彼らの負の感情が治まっていく。合図一つで自分たちの不満を抑制できるのだから、この機関にいる者達の優秀さが見て取れるというものである。

 

「ワシも本来であるならば主とともに戦場を駆け抜けたいと思っておるが……その主からここを頼まれては断りきれぬ。全く難儀なものじゃよ」

 

 韓遂は李信軍の軍師としてついていけているというのに自分は洛陽で過ごす。それに不満を覚えないではないが、ここで優秀な人材を育成することが李信の役に立つのならば全力を尽くす気持ちに揺らぎはない。とはいっても、やはり心では主と一緒に中華を回りたいと願っている。人の心とは実に難しいものだ、と韓遂の勝ち誇った顔を思い浮かべて、白扇を折らんばかりに両手で握り締めた。しかし、韓遂はどちらかといえば天才肌。感覚に従って行動することが多い彼女は人を指導するのにはあまり向いていない。逆に司馬徽は努力を積み上げて理論で動く秀才。彼女のほうが人を指導するのには向いているのは否定できない。逆に韓遂にこの育成機関を任せたらとんでもないことになるのは火を見るより明らか。結局のところ適材適所となるのは仕方がないことだ。

 

「本日くらいは泊まっていくがよい。荀攸、お主の部屋に案内せよ」

「はい。では、失礼致します」

 

 荀彧と荀攸が一礼し、部屋の外へと出ようと扉を開けて一歩踏み出したその時―――二人してドンっと扉の向こうにあった壁に顔をぶつけた。二人ともが何事か、と痛む鼻を押さえながら見上げればそこにいたのは二人よりも頭二つ分は大きい青年の姿。ぶつけた箇所が痛いのは当然で、甲冑姿で背には巨大な矛が一振り。だが、自分の身体が燃えているのではないかと勘違いするほどの熱量が、打った箇所を通じて伝わってくる。袁家で様々な武官を見たが、それらの比ではない超越者。その青年の姿を見た荀攸が、珍しくも慌てて洪手の礼を取った。それに続いて、部屋にいた全ての生徒たちが膝をつき礼をとる。

 

「失礼致しました、殿」

「荀攸か。一度帰郷したって聞いてたが、戻ってきてたのか」

「はい。本日帰還致しました」

 

 大矛の青年―――李信の言葉に、パァっと笑顔を浮かべて返答をする荀攸とは対照的なのが荀彧である。元来男嫌いの彼女がここまで男に密着してしまえばどうなるか。罵詈雑言の嵐を李信にぶつけたとしてもおかしくはない。それに普段ならば荀攸は気づいた筈だ。だが、敬愛する李信に気を取られ何時もより一瞬だがそのことへの対応が遅れた。だが、この場所で李信へ対する非礼は最悪の事態となる。まずい、と荀攸は頬を引き攣らせ、隣にいる荀彧の口を抑えようと行動を開始するもそれよりも早く―――。

 

「……失礼、致しました」

 

 はぇ? と荀攸の口から疑問が飛び出るのは当然だ。普段の荀彧では絶対にありえない謝罪の言葉が聞こえてきたが、既に飛び掛った荀攸は軌道を変えられるはずもなく勢いよくぶつかって二人して床に転がっていく。突然の事態に目を白黒させる李信に、かかなくてもよい恥をかいた荀攸は、慌てて荀彧を連れてこの場から去っていく。幾分か離れた、自分の部屋へと逃げ込むように駆け込んだ荀攸は、普段の彼女ならば絶対に見せない落ち込んだ様子で肩を落としていた。

 

「あうぅ……格好悪いところ見られちゃったよぅ」

 

 常に笑顔を浮かべて、如何なるときでも平静を保っている荀攸の姿は大変珍しい。というか、恐らくは初めて見たのだが―――それの原因は恐らく先程ぶつかった男なのだろう。しかも、荀攸が殿()などと呼ぶ程の相手。一体何者だろうか、と多少の興味が湧くのも当然だ。

 

「地花、あの人何者?」

「変な娘だと思われてないかなぁ……それとも面白い娘だと思って貰えたかなぁ。ううん……でもそれは今までの私の印象とはちょっと違ってるし……」

「……」

 

 なにやら完全に別世界で妄想に耽っている荀攸の頭をおもいっきり引っぱたく。スパンっと激しい音をたてて、その衝撃で荀攸はようやく我を取り戻した。 

 

「で、地花。さっきの人、何者なの?」

 

 涙目になった彼女を尻目に荀彧はもう一度質問を繰り返す。

 

「もうちょっと手加減してよ、桂花。いたたたっ……」

「それは悪かったわね。今度からは手加減してあげる。それで?」

「……えっと、あの方は李信様。字は永政。名前は聞いたことあるんじゃないかな」

「―――はぁ!?」

 

 名前を聞いたことがあるない、などの話を通り過ぎている。果たしてその名を知らぬ者がこの広大な中華とはいえ、どれほどいるだろうか。南の方ならば居てもおかしくはないが、その男の名は今や漢王朝で随一の猛将として知れ渡っている大人物だ。

 

「官軍最強の将軍……李信。通りで……」

 

 むしろそれ程の将軍であったならば、受けた存在感にも納得が出来る。袁家でも彼のことは随分と話にあがっていたが、それはどうやら過大評価でも何でもなかったことを実際に目で見てようやく理解することができた。一人納得している荀彧へと、今度は先程のことで気になっていた疑問を荀攸が今度は口にした。

 

「それにしてもさっきは吃驚したよ。また桂花が何かとんでもないことを殿にいうんじゃないかって」

「……とんでもないことってなによ」

「いやだなぁ……そんなことを私に言わせないでよ」

 

 あの状況だったならば、普段であれば普通の男なら心が折れる具合の罵詈雑言を発していたはず。それなのに謝罪をすぐに口に出したのだから彼女をしっている荀攸からしてみれば信じられない気持ちで一杯だ。今でも先程は自分の聞き間違いだったのではないか、とも思っているくらいである。

 

「別に……私は確かに男は嫌いよ」

 

 両腕を組んで、ふんと鼻を鳴らす。事実彼女は物心ついてから異性に対して忌避感しか持っていなかった。それは今でも変わらない。だが、この育成機関で弁論を交わしている者達を見て少しだけ意見がかわった。彼女が嫌い(・・)なのは男性である。憎い(・・)のは、自分を女だと侮って下に見る者。此方の足を態と引っ張ってくる者だ。数ヶ月という短い期間ではあったが袁家での苦労が、彼女を少しだけ成長させていた。

 

 それに先程あった李信という男。文官である畑違いの自分でも一目でわかる凄まじい錬度。単純な才能ということもあるだろうが、決してそれだけでアレほどの高みに昇ることは不可能のはずだ。日々の絶え間ない鍛錬がそれの根幹となっているのは気のせいではないだろう。自分とてそうだからだ。余人よりも遥かに優れた文官としての才能があるが、磨かなければ路傍の石と同じ。そして、才能だけで袁家で腕を奮えると思っていた驕り。そのことに対して今は反省しかない。故に、努力を怠らない者は尊敬に値する。それが例え、自分が嫌いな男であっても、だ。もっともだからといって男嫌いを治す気などさらさらないが。

 

「そう? 少し変わったね、桂花。うん。良くなったと思う」

「……私のことはいいの。それより貴女は李将軍に仕えてるの?」

「まだまだ見習いだけどね。将来的には殿の軍師になれたらいいな、とは思ってるけど」

 

 照れたように笑う荀攸は、普段が大人びて見える分、歳相応に見えて大層可愛らしい。並々ならぬ気持ちを抱いているのはなんとなく理解できた。親友を取られたような気持ちになって、李信のことが少しだけ憎らしい。そんな中、あ、そうだ、と声を上げる荀攸。

 

「桂花もよかったら殿に仕えない?」

「……悪いけど、男を主とするのは絶対に嫌よ」

 

 李信の姿を思い返して、少しだけアリ(・・)かなと思ってしまった自分を律するように荀攸に断固拒否の返答をする荀彧であった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 荀家二人がそのような話をしている一方。軍議場に残された李信は、とりあえず室内の微妙な空気をコホンっと咳払いをして霧散させると外で待っていた呂布を呼び寄せて司馬徽のもとへと歩み寄っていく。

 

「大遠征からの無事の御帰還、心より御喜び申し上げるのじゃ」

 

 そんな彼へと、司馬徽は深々と平伏し祝いの言葉を述べる。李信が今更異民族との争いでどうこうなるとは考えていないが、それでも戦場では何が起こるかわからない。見たところ大きな怪我もしていない様子に、心の底から安堵する。

 

「ああ、なんとかな。それより此方こそここをまかせっきりにして悪いな」

「主の願いこそがワシの望み。何も悪く思う必要などありはしないのじゃ。して……此度は何かワシに用が?」

 

 李信が遠征より帰還したと連絡があったのはつい先程だ。それこそ荀彧達がくる少し前。様々な雑事があるだろうにこうまで素早く自分の下へと来るなど本来ならばありえるはずがない。悲しいかな、頼りにされている自覚はあるが、そこまで女として李信に大切にされている自信は全くなかった。そこらは華雄や高順、韓遂達と見事に横並びになっている。過ごした時間の多さで区別されないのは有り難いことだが、一体どうすれば彼に愛されるのか……未だ糸口さえ発見できていない。ただ今現在隣に立っている呂布だけは自分たち四人とはまた別の扱いをされているのだが、それもまた女性として愛されているとは言い難い。むしろ同等の戦友や好敵手といった枠組みではないか、と司馬徽は読んでいた。

 

「ああ……それなんだが。呂布」

「……恋」

「いや、あのなぁ……」

「…………恋」

「その件は何十回もやった。いいからさっさと紹介しろ」

 

 自分の真名を何とか呼ばせようとする呂布の策略をばっさりと斬り捨てて、本来の目的を果たすべく強引に話題をそちらのほうへと誘導しようとする李信。シュンっと悲しげな表情の呂布の姿は大層保護欲をかきたてるが、残念なことに李信には通じず仕方なしといった様子で自分の影に隠れていた幼い少女を司馬徽の前へと押し出した。

 

「ねね……挨拶」

「はい、ですぞー!! 恋殿!!」

 

 姿を現したのは小柄な、それは大層小さな少女であった。薄い緑の髪の毛をおさげにし、頭には黒い帽子を被っている。黄土色に輝く瞳には、年齢に見合わない確固足る決意の光が見て取れた。容姿的には精々二桁の年齢になったかどうか。そこまで幼い少女を何故このような場所につれてきたのか。誰もが疑問に思うに違いない。

 

「ねねの名前は陳宮。字は公台ですぞ。司馬徽殿、これから宜しくお願いする、です!!」

「……宜しく」

 

 陳宮広台―――真名は音々音。呂布と陳宮と名乗った少女があわせて頭を下げるが、肝心の下げられた方の司馬徽としては何が何だかわからない状態である。一体なにを宜しくすれば良いのか、助けを求めて主へと視線を向ければ、頭に手をあてて天を仰いでいた。

 

「あー、とな。呂布がそこの陳宮という子供を拾ったはいいんだが、恩返しで呂布の軍師になるって言って聞かないんだ。流石にこのくらいの歳の子供を戦場には連れて行くのもアレだしなぁ……で、お前にこの娘の世話を頼みたい」

「……ワシに?」

「この手のことに関して頼りになるのはお前だけだしな」

「―――ワ、ワシだけ!? う、うむ!! そうか!! なに、このワシに任せよ!!」

 

 ちょろい、とこの場にいる全ての者が声には出さずに心の中で呟いた。幾ら主かつ好いている相手だからといって、こうまで簡単に引き受けるのは如何なものか。仮にも中華全域から優秀かつ将来有望な才覚を持つ者のみ入門を許可される最高の官僚育成機関の長とも思えない軽さだ。他の門下生から不平不満がでるのでは、と思われるかもしれないが、基本ここにいる者達は司馬徽や李信に心の底から敬服している者のみ。その二人が決めたことならばある程度のことならば受け入れてしまう。それに、ここにいる彼らだからこそ気づいた。陳宮という幼い身体から目を焼かんばかりに迸る眩い輝き。超新星の如き煌く閃光。満ち溢れ、それでもなお余りある膨大な才気。これに気づかないようでは入門の許可などおりるはずもなく、間違いなくこの幼い少女は近い将来中華に名を轟かせる軍師足りえる存在になるであろう、と誰もがそんな予感をひしひしと感じていた。

 

 李信としては別に軍師としては連れて行ってもいいかな、と少し思ってはいたのだが他の面々から大反対を食らってしまったのである。彼らからしてみれば陳宮の年齢で人の膨大な数の生死が蠢く戦場を見せるのは気が引けるのと、李信軍のように北方をあちらこちらへと移動する軍隊ではこの程度の年齢の陳宮では体力的に厳しいと言われればよく考えずともその通りである。自分の適当さに若干呆れはするものの、李信の人生自体とんでもないものであったのだから他の人間の常識があまり当てはまらないのは仕方のないことだ。何せ李信が初の実戦を経験したのは陳宮よりもほんの少しだけ年上の頃であったし、数万の軍勢同士がぶつかりあう戦場にでたのもそれくらいだ。今思えばよく生きていられたなぁ、と李信は過去を振り返るのであった。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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 漢王朝の首都洛陽に存在する皇帝が住まう宮中。そのさらに最奥にある禁中。出入りがすることが出来る者が極僅かに限られた場所の一画―――漢王朝の第一皇女劉弁の私室。それに相応しい広さと豪華絢爛な飾りが施された部屋の内部には二人の人物がいた。一人はこの部屋の主でもある皇女劉弁。彼女がここにいることは何らおかしいことではない。彼女の私室なのだから当然だ。問題となるのはもう一人―――李信の方である。漢王朝第一皇女にして皇帝にもっとも近き少女の部屋に入室できる者など数え切れるくらいだ。いくら将軍位にある李信とはいっても本来であるならば絶対に来訪することは不可能な場所であるが、それを劉弁自身が認めてしまっている。

 

 例え劉弁が認めたのだとしても、普通ならば他の人間が絶対に入室を拒絶するのであるが、覚醒して既に数年を経た今洛陽の官僚全てを掌握し認められている彼女の命令に従わない者はほぼいない。病弱の身で臥せっている劉宏が現皇帝であるのだが、彼女よりも余程皇帝らしく辣腕を振るい漢王朝復興への道を突き進んでいる。日々戦場にて暴れまわっている李信であるが、洛陽に戻ってきた際には劉弁の命により彼女の私室に招かれ過ごすことが日常となっていた。仮にも男と女が二人っきりで、しかも私室で密会……というには堂々としすぎているが、そんな状態で過ごすという事実は、漢王朝にとっても醜聞に為り得るものである。だが、それを黙認しているのは何も劉弁の命令だけによるものではない。彼と彼女の二人の間の空気が、男女を匂わせる雰囲気を超越してしまっているということが、この関係を認める要因の一つとなっている。市民としても、北方の異民族を壊走させる負けしらずの大英雄である若き将軍と皇女の並々ならぬ関係など、逆に嬉々として良い話ではないかと受け入れてしまっていた。

 

 やけに煌びやかな装飾がなされた机を前に次々と山積みになっている書簡を処理している劉弁の姿に、寝台に腰を下ろした李信は欠伸を噛み殺しながら視線を送っている。韓約の乱の論功行賞で出会ってから既に数年の月日が流れているが、自分はその年月に相応しいだけの成長をしているというのに、目の前の主は一向にその気配が見られない。そろそろ年齢は十六か、七を迎えるだろうに、彼女の身体つきは張譲とどっこいどっこいだ。そういえば、年齢不詳の一人目である張譲は一体何歳になったのだろうか、そこは地味に気になる疑問だが、女性に年齢のことを聞くのはあまり宜しくない事を流石の李信も理解はしていた。ちなみに李信の周囲で年齢不詳は何人かおり、張譲を初めとして韓遂や司馬徽などもそれにあたる。三人が三人とも見た目だけならば十代でも通るのだから人とは実に摩訶不思議なものであった。愚にもつかないことを考えているせいか、抑え切れない二度目の欠伸を噛み殺したその時、劉弁が書簡を処理する手をとめて寝台に座っている李信の傍らへと歩いて行き腰を下ろした。

 

 

「随分と疲れているようだな、信」 

「ああ、それはな……今回もなかなか大変だったぜ」

「なんでも烏桓と一戦交えてからそのまま張純が起こした反乱へと雪崩れ込んだらしいな」

「おかげで休みなしの行軍だ。その代わりにしばらくはあいつらにも休みを与えといたけどな」

 

 将軍となった李信が指揮する直属の軍には約一万の兵士がいる。軍師として、韓遂と司馬徽。副将に華雄と高順。副将補佐の胡軫。突撃隊長として一千の騎馬隊を従える呂布。そして数年前の涼州からともに戦乱を潜り抜けてきた生え抜きの古強者が所属する親衛隊百名。加えて北方の異民族の侵入を潰して回り何十もの戦場を経験している兵士達。所属する誰もが歴戦の勇士であり、単純な話兵卒一人とっても他の官軍における千人将級の力を持っていると称しても過言ではない。特に親衛隊百名の壁を抜ききって李信へと迫り行ける者など中華広しといえど、呂布くらいなものではなかろうか。その呂布でさえも、そう易々と彼らを倒しきることは出来はしない。もっとも、肝心の李信が殆どの戦場で軍の先頭を行くのだから親衛隊としても非常に困っているというのが現実であった。特に呂布と並んで二人で突撃を仕掛けることが多く、これでは突撃隊長が二人ではないか、と嘆いている韓遂の姿を戦場では良く見かけることができる。それがもっとも味方の被害を抑えることができるのだとしても、見ている軍師側からしてみれば毎回心臓が悲鳴をあげるというものだ。

 

「お前には何時も負担をかけることになって悪い。だが、今回の張純の反乱を制することができたのは大きい」

「あー、結構ぎりぎりだったけどな。相手の策にも半分引っかかったようなもんだし」

 

 張純が反乱を起こす前に李信達は、侵入してきた異民族の討伐の為に派遣された地域で実際のところかなりの時間を必要とした。単純に数が多かった上に、相手が時間稼ぎに徹していたのが原因なのだが、韓遂がこれは何かあると気づき情報を探らせてみたところ張純が大規模な反乱をおこしたという。かなりの無茶をして異民族を壊走させたあと休みなしで遼東郡まで軍を走らせたのには流石に本人としても相当無理をしたという自覚がある。だが、劉弁の言うとおり今、そこまでの被害を受けずに反乱を潰すことができたのは漢王朝にとってはとても有利な状況に働く。もっとも、全く反乱に関係がない民一万が賊軍によって虐殺されたことが被害がそこまでではない、といえるかどうかは人によるだろうが。とにかく、今回の張純の乱には農民だけでなく多くの人種が参加していた。それこそ北方の異民族に南方の蛮族などの多種多様な面々など、そういった者達を鎮圧できたということは、暫くは漢王朝への反乱は途絶えるであろうことは予測がついた。ここまでの大規模な乱が即座に鎮圧されたのだ。これ以降の者達もそう易々とは漢王朝へ牙を向くようなことはしないはず。もしあるとしたら、それは何も考えていない愚か者達くらいであろう。それに数年をかけて李信が北方の異民族の侵入をつぶしまわったことも大きい。おかげで彼らもまた漢への敵対を避け、講和を結ぶ部族や、従う者達も多く出てきている。これで数年の時は稼ぐことができるはずだ。

 

 その時これからのことを考えている劉弁の肩にコツンと何かがぶつかった感触がして、何かと隣を見れば珍しくも李信が目を瞑って居眠りをしていたため寄りかかってきたところであった。鼾をかいて、完全に入眠している姿に、珍しいと驚きを持って劉弁は目を見開く。李信が誰かに眠っている姿を見られるなど滅多にあることではない。人が近づけば気配で自然と目を覚ます生粋の武人。戦争尽くしであった前世の影響であろうが、眠りが浅いのは戦場だけでなく日常に置いてでもだ。すくなくとも張譲や、戦場で常に一緒にいた華雄達でも彼のこんな姿を見れたものはいない。いくら疲れているからとはいえ。傍に人がいるというのに無防備な姿を見せるなど絶対にありえないことであった。そんな李信を見た劉弁は、口元を綻ばす。熟睡している李信を引っ張り倒すと自分の膝へと頭を乗せる。彼の頭を撫で付けながら劉弁の表情はとても穏やかだ。今このときばかりは彼女が背負う混沌の闇もなりを潜めていた。

 

「……お前のおかげで随分と時間が出来た」

 

 それは言葉通りの意味だ。本来であれば漢王朝は既に崩壊寸前であったとしてもおかしくはない。病弱な劉宏の崩御が切っ掛けとなり、外戚や宦官の権力争いが巻き起こる。やがて不平不満が爆発して大規模な反乱、異民族による侵略などが重なって滅びを迎えることになったはずだ。それが今は緩やかにではあるが、快方に向かっている。とはいっても、既に崩壊寸前だった王朝を立て直すなど即座には不可能だ。如何に劉弁であろうとも、一人ではどう足掻いても無理難題であろう。故に今は優秀な人材の発掘、育成に力を入れている訳だ。それも李信がいたからこそ出来た方法である。もしも彼がいなかったならば、北方の異民族や王朝への反乱をここまで被害が少なく抑えられなかったであろうし、育成機関を作って官僚を育てるなど時間がかかる政策を取ることもなかった。

 

「いつだってお前は私を支えてくれる。こんな世界に放り出されて……それでもともに居てくれるのはお前だけだよ、信」

 

 李信が洛陽にいる間は、二人で過ごす時間がそれなりに多く取れるようにしてはいる。といっても、仕事を蔑ろにしているわけではなく、李信が帰還する前後にあわせて公務を一気に終わらせて時間を作るようにしているだけだ。そんな貴重な時間のなかで、二人は様々な話をしている。前世のこと。今世のこと。同じような話題もでるが、李信との会話は飽きることは一切ない。これほどまでにゆっくりと会話ができることは、前世において統一戦争の後半からは殆ど出来ない状態だった。それだけでも生まれ変わった価値があるというものだ。

 

 そしてつい先日に話題にあがったことがひとつある。劉弁が戯れに問いただした結婚について、そろそろ良い女性はいないのか、と。それに明確な答えが返ってはこなかったものの、張譲や韓遂、高順に司馬徽などを多少は憎からず思っているのではないか。この男、前世から通じて女心に大変鈍い。まぁ、逆に鋭い李信のほうが気味悪いが。そのようなことを話していると、今度は逆に李信から問われたことが一つ。

 

 ―――お前は嫁さん、というか婿は貰わないのか?

 

 その答えは最初から決まっている。元々が、自分の血を残す予定は立てていない。皇族としての後継者ならば劉協がいるし、彼女の子供に継がせれば問題はない。後継者に関してはそれで通るはずだ。漢の時代に生を受けて十数年。女性としての意識が強くなってはきたものの、誰かと夫婦になるなどまだ拒否反応が強くでるのは、前世の記憶がある以上当然であろう。

 

 それに―――わが玉体。お前以外に触れさせてやるものか。

 

 自分の膝に頭を乗せて鼾をかいて眠っている李信から感じる熱と重さ。この数年で随分と体格に差がでたものだ、と自嘲気味な笑みが口元に浮かぶ。今の自分の姿はまさに少女そのもの。といっても、生憎と女性的な特徴は完全にないのだが……それに比べて李信の体格は実に立派になった。今世では年齢的には数歳の差があったはずだから、今の李信は二十を越えたあたりであろうか。六尺に届く長身と鍛え上げられた鋼の肉体。乱雑に切られた黒髪と野性味溢れる顔つきがやけに色気を誘う。二十そこらの若造の雰囲気ではないだろう、と思ったがそこらは前世の経験にもよるものかと一人納得をする劉弁。何やら妙な気分になってきた彼女は、これはいかん……と顔を横に何度も振って正気を取り戻す。ふぅ、と吐息を漏らす劉弁は、李信など比べるまでもなく少女と言う瑞々しい果実でありながらも色気の塊であった。

 

「……とにかく、今は出来る限りのことをせねばな」

 

 現状十常侍含む官僚を掌握しているとはいえ、彼女はあくまでも皇女にしか過ぎない。病弱の身であるとはいえ皇帝が存在しているのだから彼女主導による政策全てを通すことはまだできない。正式に皇帝ともなればそれも可能であるのだが、そこがなかなかに悩ましい所でもある。だが、さすがに皇帝を暗殺をするのはいらぬところに波風をたてる結果に繋がる可能性もある。特に劉弁の威光が届いているのはあくまでも洛陽のみ。一度でも謁見すれば彼女の格を理解させることができるのだろうが……遠方の州にはなかなかそれも難しい。兎にも角にも、数年をかけて優秀な人材を育成し、地方再生の要となる人物を数多用意し首を挿げ替える。その結果、漢王朝にとっては不要な人材が多く排出されることになるだろう。そういった輩が、不満を持つ各地の名門貴族などと連携し漢王朝へと反乱を起こす―――までは予想が出来る。だが、その頃には李信を中心とする官軍が再編され、一新されているはず。後はそれを鎮圧すれば漢王朝復興への道筋となるはずだ。

 

「それにしても……皆が勘違い(・・・)している」

 

 くっくっく……何が面白いのか、李信の髪を梳きながら一人小さく笑い声をあげる。勘違いしているとは、何か。自分と李信の関係のことか? 否、違う。李信将軍(・・・・)の力量についてだ。彼は強い。個としても将軍としても間違いなく漢王朝最強と称しても誰からも異論はでないことだろう。だが、劉弁が知る本来の李信にはまだ及んではいない。

 何故ならば、まだ自分が李信(・・・・・・・)に号令を発して(・・・・・・・)いないからだ(・・・・・・)。劉弁が皇帝となって、皆の前で李信に命令を下す。そうすることによって初めて大将軍李信は完全なる復活を遂げる。

 

 そしてもう一つ(・・・・)。李信が使用している武器についてだ。彼が愛用しているだけあって決して悪い武器ではない。むしろ大金を払って専用に作っている大矛だ。だが、それでも足りない。李信の領域に武器がおいついていないのだ。そのため毎回戦場に替えの予備武器を幾つも持ち歩いているという。劉弁としては、出来るだけ万全な状態で李信を戦場に送り出したいとおもっているだけに、その点に関してはなんとかならないか現在考えているのだが―――李信に相応しい武器などそう簡単に見つかるわけもなく足踏み状態が続いていた。いや、そもそも今の李信の力に耐えうる武器などあるのだろうか。

 

 考えるもそれに相応しい武器は一つだけだ。それはかつての統一国家秦において最強と謳われた中華六将の前身でもある六大将軍(・・・・)の王騎が愛用し、李信へと受け継がれた大矛。李信の晩年まで使用していた、並の者では持ち上げることすら出来ない超重兵器。それに匹敵する武器でなければ李信が振るう力には耐え切れないだろう。本格的に何か手を考えねばと思う劉弁であったが、その武器関係の情報が書かれていた書簡の次に見た書簡に書かれていたある情報がふと脈絡なく頭に浮かんできた。最近黄色い布(・・・・)を頭に巻いた集団が中華全域にちらほらと見られるようになってきた、と。だが、彼らは特に略奪などをする訳でもなく中華全域を移動しているとのこと。その正体も目的も不明と少し気味が悪い集団ではあったが、反乱を起こそうという気配も見られないため優先順位を下げている案件でもあった。だが、このように突然浮かんでくるということは、虫の知らせとでもいうべきもの。ただの勘でしかないが、少し詳しく調べさせるかと、李信の頭を撫でながら思い直すのであった。

 

 そして、劉弁のその考えは吉となる。

 僅か一年の後には黄色い頭巾の集団は莫大な人数となっていた。それは劉弁の予想を超え、理解を超え、中華全域に渡って数十万という数に膨れ上がっていったのだ。そして、何時からかその集団はこう呼ばれることとなった。黄色い頭巾を特徴とした集団。即ち―――黄巾党と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・そろそろ突っ込まれそうなのでタグに精神的BLと追加しました。
・一尺=約30cmと日本的に解釈して下さい。

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