真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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蛇足之3:天下無双

 

 

 

 

 

 中華全域を駆け巡る独立遊撃部隊飛信隊。要請があった地域に派遣されあらゆる戦場の勝利に貢献する漢王朝最強の遊撃部隊―――といえば聞こえはいいが、その実ほとんどが北方における異民族との争いに駆り出されている。そんな彼らは、ある任務を終えて洛陽へと帰還する途中に立ち寄った街でとある噂話を聞いた。街の近くにある今は廃村となったそこに盗賊が住みついてしまったらしい、というものだ。一度討伐隊が向かったもののあっさりと負けてしまったとのこと。次の討伐隊を組むまで時間もかかる為、自分たちの任務ではないが、洛陽への帰り道ついで、盗賊程度討伐してしまおうと決断し翌日飛信隊の面々はその廃村へと出発した。

 

 緑豊かな山間に、鳥の声が一つ高く木霊する。飛信隊が行く空には雲ひとつない晴天が広がっており、中天に差し掛かった太陽は、暖かな日差しを地上の李信達へと惜しむことなく降り注いでいる。穏やかで優しい風が汗ばんできた身体を心地よく撫でていき、そのあまりの気持ちよさに馬上でありながら居眠りの一つでもしたくなる陽気でもあった。

 

「いい天気だ。このまま続いてくれたら助かるんだけどな」

 

 くあっと軽い欠伸をしながら一人ごちた李信に、ウムっと頷くのは韓遂だ。彼の隣に馬首を並べ、並行して走らせている彼女の騎乗は実に巧みだ。運動神経が壊滅的だとは思えない腕前に、そのあたりがどうも不思議でならない李信だったが、馬に乗れないよりは良いか、と無理矢理自分を納得させている。

 

「天気が良いのは良いことだが……我にはなかなかにこの日差しは辛いものがある」

「いや……まぁ、そうだろう」

 

 正体を隠すためとはいえ相変わらずの怪しさ爆発の格好。黒尽くめの服に、鉄仮面。もしも夜の暗い時分に出会えば反射的に叩き斬る自信があるほどの不審人物ぶりを発揮している。とはいっても、韓遂は涼州の反乱の折に李信に討ち取られたことになっている為、流石に素顔のまま出歩くのは不都合が生じる。彼女の顔を知っているのは限られているとはいえ、危険を減らすためには仕方のない格好だ。

 

「で、軍師様。今回の盗賊の件については作戦とかってある?」

「うむ……どうも話を聞く分に大勢が住み着いたというわけではないようだ。ごく少数……されど討伐隊を退けたということは、それなりの力量を持つ者が混ざっておるやもしれん。まぁ、そこらはこの部隊ならば問題はなかろう。隊を二つにわけ、廃村を包囲しつつ逃げ場を無くして殲滅する」

「捻りはないけど、十分でごぜーますね」

「ああ。では、二つの隊はどうわける?」

 

 戦力で重要となる数さえ勝っていれば、奇策に頼らずとも正攻法が一番有効だ。ましてや飛信隊の白兵戦における力は漢王朝で随一と言われているのも決して大袈裟なものではない。隊の中心となる百名は、華雄とともに涼州にて異民族と戦ってきた古強者。しかも大規模な韓約の乱において漢陽守城戦を戦い抜いた生粋の戦士。彼ら百人の力量は、それぞれが他部隊の将軍級の腕前と言っても過言ではない。さらには追加で飛信隊に加えられた新兵も、普段の練兵と戦場による経験で一線級の兵士へと成長している。

 

「ふははははっ!! 勿論、我と主の二人っきり―――」

 

 スパンっと頭を高順に叩かれた韓遂が、ぎゃわっと甲高い悲鳴をあげた。顔は仮面で隠されているものの、後頭部まではさすがに防げない。真面目にやる、と怒られた韓遂は仮面で見えないが涙目になって痛む後頭部を摩りながら流石にふざけすぎたか、と若干の反省をした。

 

「我、華雄、高順の三人と親衛隊から五十。主と胡軫と親衛隊五十。あとは隊を半分ずつが適当であろう」

「……妥当な組み合わせだね」

「それが無難だな」

 

 基本あまり作戦を考えずに突っ込む華雄と高順を抑え指揮するための韓遂。地味に二流程度とはいえ軍師の真似事ができ、様々な援護や援助が出来る胡軫が李信の補助にあたる。戦力的にも、人間関係の兼ね合い的にもこれが一番おさまりがよいというのも確かなことだ。華雄と高順のどちらかを李信につけても片方が面白くないというのがあるためだ。かと言って、李信、華雄、高順ともなれば、残った韓遂と胡軫では戦力的にやや不安が残る。もっとも、命の危険がある戦場においては流石にどんな振り分けをしたとしても文句がでることはないのだが。

 

 飛信隊が一刻ほど馬を走らせると目指す先はなだらかな丘陵が連なり、街道がうねる線を描いて遠くまで伸びていた。その途中、街道を少し脇へ逸れた所へ、幾つかの建物が集まっているのが見えた。建物群の向こうには、荒れ果てた広い畑が見受けられ、それら建物を囲っている長くも朽ち果てかけている囲いもあるようだ。多くの建物があるのだが、煙の一つも上がっていない。遠くから見る分には、建物の荒れ具合がわからないが、それら廃村の周囲には動くものが何一つとしてないようだ。街道から少し逸れた平地にあって、粗末な柵に囲われた集落―――あれが目的の廃村であろう。

 

 街道脇の廃村に近づくにつれ、柵に囲われた建物郡の姿も顕になってきた。背の低い木造の建物の多くは壁板が剥がれ、大きな穴が幾つも開いている。簡素な屋根も地板が剥き出しになって野ざらしな状態だ。幾つもの建物が幾つも向かい合わせに立っているものの、若干斜めに傾いているようにも見えた。廃村の入り口にもかつてはあったであろう看板などももはや文字が見えないほどに劣化してしまっている。

 

 入り口に兵を置き、華雄隊を時計周り、李信隊を反時計周りで廃村の外側から中の様子を窺いつつ逆側まで周る事にした。合流地点は廃村の逆の入り口ということを決め、それぞれの部隊が出立する。いつ戦闘になってもいいように、意識を集中させ、村の内部の気配を感じ取りながら馬をゆっくりと走らせるのだが―――。

 

「……おかしいな」

「そうだね。人の気配が全くないよ」

「見た感じ、誰かが拠点としている様子も見られない……むむぅ」

 

 華雄と高順が首を捻る。言葉にした通り、村の中に盗賊がいるような気配が微塵も感じられない。それに如何に少数とはいえ人が住む以上生活の痕跡が残る。それがあまりにも見られないのだ。或いは既に盗賊達はこの廃村から離れてしまったのではないか、と眉を顰めた韓遂達がとにかく李信と合流しようと考え始めた矢先の事であった。華雄と高順が突如として下馬し、華雄が戦斧を両手で握り締め上段に構え、高順が剣を抜き払った。何事か、と韓遂が二人の視線の先を追って―――息を呑んだ。

 

 ぼろぼろの村の柵。そこに腰掛けた一人の少女がいた。肩程度まで伸びた赤に近い桃色の髪。ピョコンっと天に向かって伸びる二房の髪が印象的だ。冷徹にも見える全てに興味がないかのような無感情な表情を浮かべた幼いながらも人をひきつける容貌。その危うさは、老若男女問わず魅了する異様で不思議な雰囲気を纏っていた。ところどころが破れ、ろくに修繕もされていない白と黒の直裾袍、とてつもなく長い紫紺の布を首に巻いている。彼女の傍らには、少女よりもなお長大な柄と、その穂先には巨大な刃。三日月状の月牙と呼ばれる横刃が、穂先の横に取り付けられた希少な武器。方天戟の亜種―――それを人は方天画戟と呼んだ。

 

 ケタケタと何かが笑う。クスクスと何かが嗤う。キヒヒと何かが哂う。

 ああ、それは地獄の亡者だ。それは冥府より来る死神だ。如何なる強者も死へと導き、魂すらも喰らう悪鬼羅刹の頂点の頂点。人類の極点へと至ってしまった絶対強者。周囲を満たす頭がおかしくなるような笑い声。それは幻聴にしか過ぎない。現実には何も笑っていないし、叫んでもいない。それでも聞こえるのはつまり、自分たちが今まさに生と死の境界線。死という名の崖っぷちに立っていることに他ならない。

 

 ポタリっと音がしたと思えば、それは汗が地面へと滴り落ちる音であった。韓遂は勿論、あの華雄や高順も同様で、飛信隊の面々すらも平常心を保っている者はおらず……事実この少女に呑まれていない者はいなかった。韓遂すらも、この少女の存在感に緊張を隠せずにいた。何故ならば、目の前にいる少女が本来の彼女よりも数段大きく見えるからだ。これほどの経験、馬騰と会った時すらなかった。いや、馬騰どころの話ではない。この少女は―――李信にすらも比肩する(・・・・・・・・・・)

 

「……何か用?」

 

 百を超える武装した兵隊を目の前にしながら、少女は揺らぐことなく問い掛ける。純粋な疑問を口に出しただけだというのに、華雄も高順も戦闘体勢を崩すことはなかった。彼女から目を離してはだめだ。一瞬の油断が、命取りとなるほどの格の違い。それが此方と彼方と此方の間には埋めがたい溝として大きく開いている。一体この少女は何者なのか。何故こんな廃村に一人いるのか。ぐるぐると数多の疑問が浮かんでは言葉になる前に消えていく。

 

「……お前は、何者、だ!?」

 

 結局華雄の口からでたのはそんな台詞だった。その問いかけを受けた少女は暫く天を仰ぎ見ていたが、それに対する答えを導き出すことが出来なかったのか、首をこてんっと横に倒した。

 

「……恋は恋」

 

 恋とは何ぞや、と一瞬解らなかった飛信隊の面々であったが、それが少女の名前であり一人称であることに遅れて気づく。

 

「……この地に盗賊なる者が、住み着いていると聞いた。お前はそれを知らないか?」

「……盗賊?」

 

 華雄の搾り出す声に少女は一瞬考え込む仕草を見せるものの、何かに気づいたのか。あぁと短い声を上げた。

 

「……それ恋のこと。最近商人を襲ったことがある」

 

 これだけの漢王朝の兵を前にして平然と言い放つ少女の胆力や如何ほどのものか。華雄達の方が一瞬なにを言っているのか解らなかったほどだ。

 

「―――そうか。ならば、悪いが縄についてもらうぞ」

 

 華雄と高順がジリジリと間合いを詰めていこうとする。二人の気当たりとでもいうべき圧が、少女の肌を痛いほどにピリピリと打ち、それを見ていた飛信隊の皆が言葉も見つからない。隊でも李信に次ぐ彼女達が、手加減を一切しない本気の威圧をしているのだ。相手が只者ではないのは一目でわかるが、この少女はそれほどのものなのか、と。

 

「それは無理。だってお前たちは……弱いもの(・・・・)

 

 涼州でも名を馳せ、今では北方の異民族にすらも怖れられる華雄達を弱い()と言い切る少女。彼女は別に意識してその言葉を発したわけでもなく、煽る意味合いで口にしたわけでもない。ただ純粋に、心からの本心で忠告を兼ねてそう言ったのだ。だが、それが武人にとっては最大の挑発となることをこの少女は知らなかった。それだけの話だ。

 

「―――ッ!!」

 

 身体中を満たす憤怒に身をまかせ、華雄と高順が先駆けて少女へと襲い掛かろうとしたその時。

 

「―――落ち着けぃ、馬鹿者達が!!」

 

 彼女達の足を止める戒めの雄叫びが響き渡った。

 馬上で真剣な表情を見せる韓遂は、一種の腹を決めた人間を思い起こさせる。

 

「そのまま行けば無駄死にぞ(・・・・・)!! おぬし達二人でも、そやつには及びはせぬ!! それは(・・・)人ではない(・・・・・)

 

 言葉にせずともそれにはこの場の全員が同意する。見ているだけで寒気が止まらないのだ。多くの戦場を駆け抜けてきた飛信隊の面々でさえも、これほどの化け物と出会った事は一度としてなかった。戦ったとしても勝利する光景が微塵も見えず、果たして戦闘という行為に持っていくことすらできるか怪しいものだ。

 

「だが、化け物を打ち倒すのもまた人である!!」

 

 鉄仮面を放り投げ、黒尽くめの服を投げ捨てた。身軽となった韓遂が、ギリギリと少女を睨みつける様は異常であった。彼女から何か被害を受けたわけでもないというのに、その瞳には少女を絶対に討ち取るという強い想いが乗っている。

 

「良いか、飛信隊よ!! 我ら一人一人ではそやつには決して及ばん!! 故に力を合わせよ、我ら飛信隊の真骨頂を見せ付けてやれ!!」

 

 それほどまでの化け者を相手に韓遂は戦う(・・)という選択肢を選んだ。決して退かぬという不退転の意思をその胸に刻み、飛信隊へと指示を出した。だが、その指示に従う飛信隊の面々は動きが鈍い。それも当然である。相手は人型の天災。勝利の道筋が全く見えない怪物だ。こんな存在を前にして何故退かない。何故戦うのか。いや、隊長である李信を呼びに行ったほうが良いのではないか。そんな疑問が沸々と湧いて出てきた。

 

「馬鹿者どもがぁぁあああああああああああああっ!!」

 

 そして二度に渡る韓遂の怒号。これまで戦場をともに何度も渡り歩いてきた軍師の一度として聞いたことがない怒りに満ち溢れたそれに、飛信隊の皆が身をすくませるのも一瞬。

 

「理解しろっ!! いいや、理解しているはずだっ!! こいつは、こやつは……李信殿を殺せる(・・・・・・・)ものである(・・・・・)、と!!」

 

 それは、韓遂のその絶叫に別の意味で身体が凍った。

 

「こやつもまた人にして人の枠組みをはずれし者!! 人外の到達者!! 我が主と、李信殿と伍する頂点よ!! その怪物を、その存在を自覚してながら、お主達は李信殿を呼べというのか!?」

 

 紛れもない怒り。戦う前から勝利を諦めた部下の、兵士達への怒りに憤慨しながら韓遂は続ける。

 

「飛信隊の()は誰か!? 李信殿だ!! 我らは手足!! 手や足がなくとも生きてはいける!! 李信殿だけが飛信隊で唯一無二の存在だ!! その李信殿に危機が迫ろうとするのを、易々と見過ごすつもりか、お主達は!!」

 

 武将としては恐らくそこらの兵士にすら劣るであろう韓遂が、自らの腰から剣を引き抜き少女へと向ける。

 

「李信殿と出会う前に、この少女は殺さねばならん!! 討ち取らねばならん!! この少女こそ、我らが主の唯一の天敵(・・)と知れ!!」

 

 自分達の隊長に危険が迫る。それを知った兵士達の顔つきがかわる。今の今まで戦うことに難色を示していた彼らはすでに覚悟を決めていた。

 

「そやつは強い。驚異的だ。恐らくは李信殿すらも殺し得る領域の怪物であるっ!! だが、我ら飛信隊に命じる……一人で、いや二人でかすり傷一つでもよい!! それのみを目標とせよ!!」

 

 それぞれがそれぞれの干戈を手に取った。隊長の敵を討ち滅ぼすために。隊長の命を守る為に。常に隊の最前線で矛を振り続けてきた李信を守るのは自分たちだといわんばかりに。

 

「お主たちは、死ぬだろう!! 我が策にて、我が命にて!! だが、おぬし達の死は決して無駄死になどではない!! それは李信殿の道筋を照らす確かな光となる!! よいか、我の為に死ぬ必要はないぞっ!!」

 

 そこで大きく韓遂は息を吸った。

 

「―――李信殿の為に戦い、そして死ね!!」

 

 了解だ、軍師殿。

 飛信隊が奮起の雄叫びをあげ、華雄と高順もまたその身が爆ぜる。ただ威力のみを追求した戦斧の一閃。全てを賭けた全力全開の振り下ろし。超重量の爆撃が少女へと向かって牙を向く。だが、キィンと心許ない金属音が響き渡り、ふと軽くなった自分の手に覚える違和感。くるくると華雄の視線の隅っこで何やら回転している何かがあった。脳が現実の処理においつかない。何故ならば回っているそれは……柄の半ばから断ち切られた戦斧のそれであったからだ。長らく苦楽をともにした相棒の最後に呆けてしまうのは無理もない。それは一瞬のことですぐさま我を取り戻す。

 

 だが、追撃となる少女の一撃が迫り来ようとしている今このとき、その一瞬すらもが命取りとなった。この時、華雄は死んだ、と思った。防ぐことも回避することも出来ない絶対死。自分の死を理解した彼女が次に取った行動は―――少女に向かって飛び掛ることであった。例え身体を分断されたとしても命をかけて喰らいつく。僅かなときでも少女の動きを止めてしまえば他の者が続いてくれる。そんな想いが彼女を突き動かした。だが、華雄への攻撃の手を止めると、少女はその場から横へと跳び下がった。秒後、少女が今までいた空間を高順の剣が薙いでいた。すまん、高順……そんな気持ちを込めて視線を送るもそれに反応することはない。肝心の彼女は、ただただ虚ろな瞳で己の敵を見やっている。特殊な呼吸音が傍にいる華雄にも伝わってきており―――潜った(・・・)ことを華雄は瞬時に理解した。

 

 予備の武器となる剣を抜いて、高順とともに少女へと再度の突撃を繰り返す。その間際飛信隊からの援護となる矢の嵐が降り注ぐものの、慌てもせずに方天画戟を数度振るうと自分に迫ってきていた矢全てを弾き落とす。そこに生じる僅かな隙を狙って華雄の剣が唸りをあげた。右側面からの横一直線の横薙ぎを、軽々と呂布は方天画戟の柄で受け止め、振り払う。踏ん張ることすらできない圧倒的な膂力差により、彼女の身体が弾き飛ばされ地面へと転がった。次いで自分の背後から気配も感じさせずに踏み入ってきた高順へと振り向きながらの一閃。それを地面ギリギリにまで上体を低くしやり過ごすと、遂に化け物の間合いへと侵入することに成功したが―――高順が剣を振るうよりも早く、少女の前蹴りが彼女の肉体を蹴り飛ばす。剣の横っ腹で受け止めたとはいえ受け止めることなど出来はせず数メートルは飛ばされた地面へと墜落。血反吐を吐きながらも、華雄と高順は即座に立ち上がった。

 

 彼女達の姿に首を捻るのは少女である。遠くから放たれた投槍を方天画戟で切り落とすと、自分を襲う違和感に疑問を生じざるを得ない。少女は強かった。いや、強すぎた。この世に生を受け、物心ついたその頃より彼女は絶対の強者であり、視界に映るもの全てが弱者。自分の出身がどこであったのかも思い出せないが、ただ自分と同等の存在を、ただ自分と遊べる強者を求めて広大な大陸を旅して過ごした。それから十余年、未だ自分が満足できる存在と出会えなかった彼女が、これまで全ての敵を一撃で屠ってきた自分の攻撃を受けて命がある者が二人。確かに全力ではなかったし、本気でもなかった。ただの戯れ程度の攻撃しかなかったが、それでも希少だ。これほどの力量を持つ者は、記憶を遡っても数えるほど。それでも―――少女の表情を動かすには至らない。

 

 続けて幾度も自分を狙ってくる投槍を若干面倒臭そうに弾き落としながらも、ちらりっと韓遂を見やる。先程の檄といい、隊の者に指示を出している姿といい。この場でもっとも厄介なのは彼女である。それを理解した少女の動きは素早かった。地面を軽く蹴りつけた少女の身体が疾駆する。矢の雨も投槍も軽々と潜り抜け、地をかける猛獣。そして赤い獣が飛翔した。驚異的な跳躍力が、飛信隊の面々を飛び越えて、後方にいた韓遂の手前へと少女を導く。驚愕も顕にする兵士も韓遂も置き去りに、方天画戟が軍師を狙う。瞬時の判断で馬から飛び降りた韓遂の選択は正解であった。何故ならば、その一拍子後には少女の刃が馬を両断していたからだ。血飛沫があがり、地面へと身体を投げ出した韓遂に降りかかり、もはや逃げ出すこともできなく地面に座り込む彼女へと少女が方天画戟を振り上げた。

 

 させるものか、と飛信隊の兵士が少女へと武器を片手に立ち向かおうとするも―――遅い。少女が刃を韓遂にむかって振り下ろす方が速いであろう。それを悟っていながらも飛信隊は止まらない。そんな中、自分へと迫ってくる方天画戟の切っ先を見ていた韓遂の心は意外にも落ち着いていた。もはや死は避けられない。それは事実であり現実だ。だが、もとよりこの命は李信に救われたもの。二度目の生だ。なにを失うことを怖れる必要があるか。せめて、この命最後の最後まで敬愛し、尊敬する我が主の為に。地面に倒れていた韓遂が突如として振り下ろされる方天画戟目掛けて勢いよく立ち向かった。それは自身の身体を利用して、相手の武器を一瞬でもいいから妨げようという決死の行動であった。文字通りの命がけ、命を燃やし費やした韓遂の賭けでもあった。その一瞬をついて飛信隊の誰かが少女を殺せれば御の字だ。いや、そこまでの命の重さはあるまいて、と苦笑する。せめて腕一本、傷一つ……その程度の爪痕でも残すことが出来れば―――主が勝つ(・・・・)。そうこの身体、この想い、この肉体、髪の毛一本に至るまで、全て。全ては―――李信のために。

 

 声なき韓遂の咆哮が少女の全身を強かに打ち付けるもそれで止まるような彼女ではない。何の感慨もなく遂に振り下ろされた方天画戟が―――それより更に強大な威力の大矛に弾き飛ばされる。少女の肉体が衝撃に耐え切れず、その場から馬車馬に弾かれたように彼方へと転がっていった。シュウっと金属同士が噛み合って生み出された焦げ臭い匂いを嗅ぎながら、呆然と韓遂は前に立つ李信を見つめる。三度命を救ってもらった。それには感謝しかない。それでも、来てしまった。間に合わなかったのだ、自分達は。無傷の少女と李信を出会わせてしまった。どちらも人類の極点に達した者同士。底知れないというには二人がそうだが、韓遂からしてみれば少女の方がそれにあたる。普段から李信とともにいるが故に、彼の力量、才覚全てを知っているつもりだ。逆に少女のほうは何も知れない。何も解らない。純粋に、ただ強い。中華における絶対強者。そんな二人を戦わせてなるものか。

 

「ま、待つのだ……主よ!! 我らは、我らはまだ負けておらん!! あやつは我らに任せて―――」

 

 ガンっと響くのは李信が韓遂の頭を殴りつけた音であった。

 はぎゃっと抑えて蹲る韓遂に嘆息しつつ、彼は立ち上がった少女へと視線を送る。

 

「馬鹿か、お前たちは。無駄に命を散らすなよ」

 

 ぶんっと大矛を軽く振って握りを確かめる。

 僅か一合のぶつかり合いで理解した。何故、韓遂がここまで取り乱しているのかを。華雄や高順までもがあそこまで疲弊しているのか。手にもたらされた軽い痺れが、少女が尋常ではない相手であることの証左であった。

 

「待つのだ、待って……」

 

 涙目で未だ李信を止めようとする韓遂の気持ちも理解出来る。だが、ここは譲れない。譲れるものか。自分はここにいる。今ここにいるのだ。かつての(・・・・)時のように(・・・・・)手遅れになる前に間に合った。

 

「韓遂、華雄、高順。それにお前たち。心配するな。俺を誰だと思っている」

 

 大矛を肩に引っ提げ、余裕綽々といった表情で李信は笑う。

 

 天下の大将軍(・・・・・・)になる男だ(・・・・・)

 心配。懸念。憂慮。不安。煩慮。怖れや恐れ。それら全てを一掃し、配下に安堵と安心をもたらす李信の存在感。それを口ではなく、彼の物言わぬ背中が雄弁に語っていた。

 

 そうか。ならば、良いのか。わが主よ。お主に任せても。頼っても良いのか。

 言葉にせずとも伝わる思い。想い。誰よりも頼りになる背中を見送った韓遂は、自分の弱さ、愚かさ、女としての想いを抱きながらも、くしゃりっと顔を歪ませた。

 

「飛信隊全員!! 隊長李信殿に―――拝手!!」

 

 韓遂の喊声に、飛信隊全ての人間が恭しく礼を取る。

 全員の想いを引き連れて、とうとう人にして人為らざる者同士が対峙した。李信と少女……互いに向かい合い顔を合わせるものの、二人ともがかつてない衝撃を受ける。これまで戦ってきた者達を遥か後方に置き去りにする強き者。いや、強い弱いという表現の前に、二人ともが住んでいる世界が違っていた。二人はただ一人で完成され、完結に至っていた。数え切れないほどの民が住む中華において強さ(・・)という意味合いでは孤独であった彼と彼女。至強の頂の上にて全てを見下ろしていた怪物二人が、ようやくこの日この場所にて邂逅した。

 

「……強いね(・・・)、貴方」

 

 少女がぽつりと呟いた。言葉数は少ないものの、明らかに華雄達に比べて対応が異なっている。彼女は確かに李信に敬意を払っているようにも見えた。見掛け同様、まだ少女の年齢を脱していない彼女に、李信の内心は複雑だ。

 

「お前もな。まさかこの時代で―――武神(・・)の領域に足を踏み入れかけている奴に出会えるとは思ってもいなかった」

「……武神?」

「こっちの話だ。まぁ……随分とあいつとは様子が違うみたいだけどな」

 

 かつての宿敵とは正反対とも言える姿。だが、擁する実力はまぎれもなくかつて李信が幾度も苦渋を舐めさせられた武神を思い出させる。向かい合っている今現在、久々に感じる勝敗がどちらに転ぶかわからない緊迫感がひしひしと伝わってきていた。ただ、純粋にこの少女は強い。スっと少女が方天画戟を背後に引き自身の姿で隠したかと思えば―――地面がボっと爆発した。それは彼女が地面を蹴りつけた際に発生した衝撃。土が舞い跳び、それが落ちるよりもなお早く、少女の方天画戟が半円を描いて李信の左側面を狙って打ち払われた。彼女の肉体が死角となって突如として出現したように見える方天画戟が、間合いと長さを狂わせて襲い掛かってくるものの、慌てる様子を微塵も見せずに大矛でそれを受け止めた。大矛と方天画戟がかみ合い生じた金切り音に、反射的に誰もが身をすくませるが、防がれたということに僅かに表情を変化させた少女のその後の行動は流れる流水であった。方天画戟で大矛を引っ掛けると内側に捻り込むようにして相手から武器を奪おうと試みるも―――膂力は互角。

 

 ギチギチと互いの武器と肉体が悲鳴をあげながらもピクリとも動かない。李信がそれを無理矢理に振り払い、上段からの縦一閃。軽く後ろにとんで一寸の見切りを持ってそれを回避する少女は、目の前を暴風を撒き散らして通過していった大矛の刃が見えていながら平然としていた。大矛が地面に着弾、爆発。大地を抉る破砕の鉄槌が砂と土を吹き上げさせ、それを目くらましとして飛び出す少女が身体ごと叩きつける刺突となって李信へと迫り行く。三度の金属音が高鳴り、驚愕もあらわに今度こそ表情を大きく変化させたのは少女だ。大矛の切っ先が方天画戟の切っ先と重なり合ってピタリと静止している。たまたまや偶然でこのようなことが出来る筈もなく、起きることもない。自分との戦いのさなかに狙ってやったという恐るべき神業を見ながら―――少女は笑った(・・・)。童女のように愛らしく、獣が如く狂暴に。

 

 

 飛び下がるのも同時。準備運動は終わりとでもいうのか、この日初めて二人は本気で、真剣で、全力の戦闘体勢を取る。普段では有り得ない間合いの距離を取り、測りつつ互いの筋肉の動きや纏う空気すらも把握し、隙ともいえない隙を狙い探る二人。周囲にて見守っている者達は、呼吸も出来ない緊張感に呑まれていた。まるでここが深い深い、深淵の水の底と思わせるほどに空気が重い。指先一つ動かす労力すらも今の皆には一苦労な状態だ。

 

「……李、信とか言った? 貴方に一つだけ頼みがある」

 

 限界極限に張り詰められた糸。後一つ何かが起こればそれが切れる。誰もが固唾を呑み、身動きを許さない中、少女が体勢を低く取っていく。地に着くほどに身体を低く。それは射られる寸前の弓矢を連想させた。

 

「……簡単に、死なないで」

 

 李信はそれに、返事をすることはなかった。正確に言うならばその余裕がなかったからだ。獲物に襲い掛かる猫科の肉食獣の姿そのままに、目が離せない。鼓動音、呼吸音、筋組織の萎縮音、筋肉の配置、骨格一挙動毎の所作。目に見る限り、耳に聞く限り、彼女の備える技量が全く把握できない。視線が合いながらも互いに覗き込む瞳の奥底にあるものが読みきれない。次なる瞬間は先程の巻き戻し。少女が大地が踏みつけた衝撃で地面が抉れ―――今度はそれが上空へと飛び散るよりも早く、その時には既に李信の間合いへと踏み入っていた。その動きや赤い閃光。放たれた矢どころか、音さえも彼女の後からついてくる。それは咄嗟の判断だ。眼前を大矛で遮った李信の目の前を煌く方天画戟の斬閃を寸でのところで受け止める。一瞬の判断の迷いが生死をわける前世今世あわせても指折りの怪物の圧力に、李信の額から珠の汗が飛び散った。

 

 対する少女は、膨大な重圧を背にさらに一歩。李信を押し込む桁外れの膂力に、さしもの彼も後ろへと一歩たたらを踏む。同時に、少女の肉体が一瞬身を沈めて反転し、李信の両脚を刈り払うすれすれの踵をなんとか跳び避け―――その身体が地に着くよりも迅速なるすくいあげの一撃が彼の真下から昇竜の勢いで放たれた。地に足がつかず不安定な状態の李信が迎え撃つも、膂力が互角であるならば結果は火を見るよりも明らか。事実、大矛と方天画戟の打ち合いは、後者に軍配があがる。拮抗するのは瞬間で、李信の肉体が玉を放り投げるように弾き飛ばされた。だが、彼の動きは軽やかだ。くるりっと宙で身体を捻り地面に着地。腕に残る痺れに眉を顰めつつも、追撃を仕掛けてくる少女へと大矛を向けた。余計なことを考えている暇もない。余裕もない。一瞬どころか刹那の時が互いの勝敗を決定する究極の闘争。それに身を置く李信は無心の世界へと没入していく。

 

 それとは対極なのが少女であった。生来口下手で口数も少ない彼女は、別にそれでよいと思っていた。必要もないと思っていた。その彼女が、自分以外が全て弱者と思っていた少女が、この時ほど自分の性格を恨まずにいられなかった。今の彼女にあるのは感謝だ。目の前の男へ対する、自分と戦える存在へ対する億千万の感謝を言葉で紡ぎたかった。だが、言えない。思いつかない。それが歯がゆい。しかし、それが自分だ。ならば今は自らが誇る力で語ろう。

 

 さらなる加速。一条の赤閃となった少女の肉体。今度は武器ごと李信を断つ。それだけの速度と威力と覚悟を秘めた方天画戟の切っ先を向けた吶喊。次いで振り下ろされる袈裟懸けの方天画戟。回避不能と思われた神速のそれは、李信の肉体を斜めに両断するはずだったそれは、抉ったのは空気と地面のみ。肝心の彼の肉体を傷つけることはかなわなかった。バッと見上げれば空中に身を翻す好敵手の存在が見え、頭上最上段からの切り下ろしが少女の頭蓋を砕かんと放たれた。しかし少女も驚くこともなくそれに対応する。自分の武器の柄で攻撃を受け止めるものの、返す刀での片腕片足を斬りとばす狙いの斜め切り上げ。それも避けることを見透かしていたのか、首を飛ばす横薙ぎ、少女が回避と防御を繰り返すものの、それでも止まらない李信の一撃狙いの急所攻撃。矢継ぎ早の連撃に、今度は少女の方が後退をせざるを得ない。反撃を封じる刹那の間で繰り出される追撃に、防戦一方となる少女。

 

 少女はかつてない強敵の存在に身を震わし、驚愕する。彼女はこれまで誰かに師事したこともないし、武を習ったこともない。純粋に、生まれついての超越者であった。人を遥かに超える膂力、速度、反射神経、五感、そして認識力と理解力。故に彼女には手に取るようにわかるのだ。向かい合えば、戦いを前にすれば、彼女の優れた全ての感覚が、自然と相手の行動を教えてくれる。それは一種の心眼ともいえるある種の究極。相手の心が、肉体が何を次の一手とするか読めてしまう。それに加え、彼女の全てを後方へと置き去りにする肉体さえあれば彼女に勝るものはなく、比肩する者などいないのが当然だ。李信に対してもそうだ。少女は彼の行動が読めている。次なる挙動が何なのか未来予知にも似た感覚で覚ることが可能だ。それでも……それでもだ。それでも、李信の攻撃を完全に避け切ることができていない。己の両手で握っている方天画戟を持ってしても、彼の大矛による連撃を防ぐことで手一杯だ。反撃を試みようにも、合間合間に隙もなく下手に攻勢に出れば叩き潰されるのが必然。最速にして最悪の致命打を繰り出し続けている。

 

 このままでは呑まれる、そう判断した結果―――流水の如き攻撃のさなかに僅かに覗いた隙、李信へと反撃を仕掛ける玉響、それが相手の罠であった事に気づいた。無理矢理に方天画戟を引っ張り、左胴へと襲い掛かってきた大矛の刃を受け止めるも、無理な体勢で受ければどうなるかわからない少女でもない。地面を蹴りつけ自ら横に跳ぶことによって大矛の威力を逃がし、流す。今度は少女が先程の李信のように空中で身体を捻り見事に着地。彼女のしなやかな肉体が、ほぼ全ての衝撃を逃がしていることに気づいているのはこの場で戦っている李信だけであった。

 

 李信の戦いを見慣れている飛信隊の面々でさえも、呆けた様子で目の前で行われている怪物達の饗宴に息を呑む。戦場で生き、戦場を支配する李信の姿。これまで見てきた彼の姿は、まだ本領ではなかったことに愕然とした。これが李信の、隊長の全力なのか。今まで見てきた彼の力は、鬼神の如きその力は―――少女という好敵手の出現によって最高にまで高められている。先程の打ち合いにしてもそうだ。李信が繰り出したのは合計二十五にも及ぶ爆撃の斬閃。それらが僅か数秒の内に行われた。極限に圧縮された時間のなかで彼と彼女は生と死を繰り返していた。全てが見えたわけではないが、李信の大矛は確かに相手の命を奪うという点では、全身の筋肉を最大限にまで利用した、人は愚か人外の域に達したであろう彼の最高にして最速の連撃を繰り出していた。だが―――生きている(・・・・・)。いや、それどころかたいした手傷すら負っていない少女もまた、やはり怪物。

 

「……これが。これが人の戦いなの?」

 

 彼方と此方。その差は決して埋めようがないほどに広く深い。最強同士の出会いと闘争。その結果が目の前の光景であり、高順をして畏怖という感情を隠しきれない。目指す果ては自分が考えているよりも遥かに高い頂の上。愕然とする彼女へ背後から華雄が首に腕を回してぐっと自身の胸に押し付けた。

 

「そうだ。あれが私達の目指す先だ(・・・・・・・・)

 

 華雄の瞳には恐怖はなかった。畏怖もなかった。ただ、自分の求める男の強さを知れた女としての喜びだけがあった。それを引き出しているのが自分ではないことに若干の不満はあれど、それでも李信の全力を見て知れて、純粋に歓喜の念に包まれていた。

 

 二人の思考会話を邪魔する雷撃染みた破壊音と衝撃音が鳴り響く。発生源は言わずもがな、二人の怪物。二頭の化物。ありとあらゆる武人を置き去りにする両者全力全開の斬撃、刺突、薙ぎ払いがぶつかり合い両者ともが弾き飛ばされる。それでも二人は嬉々として互いの命を削りあう。全てを叩き付け合う。何人たりとも立ち入れない不可侵領域をそこにいる二人は形成していた。

 

 だが、次第に形勢はある一方へと偏りつつある。有利となっていっているのは李信のほうだ。元来強い者と戦えば戦うほど自身の力量を底上げしていく武の結晶。戦闘のさなかに成長していく理不尽の塊。それが少女との戦いで十全に発揮され、彼女を追い詰めていった。攻守が互角の手数であった戦いは、李信の一撃一撃が重さを速さを増していくことによって比率を変えていく。つまりは李信の攻勢が多くなり、少女がその火勢に飲み込まれていく状態だ。腕に痺れがはしり、身体中が悲鳴をあげる。これ以上の攻撃は受けきれないと、彼女を長年支えてきたもっとも近い友である肉体が彼女の想いとは裏腹に裏切ろうとしていた。ドゴンっと響くさらなる凶悪な衝撃に―――方天画戟で辛うじて直撃は防げどついに小柄なその肉体が消し飛び廃屋の壁を突き破って姿をけした。シンっと静まり返る戦場で、勝利したのは我らが隊長李信だというのに、肝心の彼は大矛をおさめることなくジっと廃屋へと消えた少女を見たままだ。それを前にしているからだろうか、勝ちどきを上げる気にもなれない。いや、本音を言おう。皆が悟っているのだ。このままではあの怪物は終わらない。それが皆の共通認識であった。 

 

 その時ピシリっと揺れた気がした。家が、廃村が、周囲一帯が、中華全域が。パラパラっと廃村全域の壁の塗料が剥がれおちていく。村の地面に幾つものヒビすら入っていき始めた。ひび割れが増えるに従って、少女が姿を消した廃屋が傾き始め彼女を埋め立てるようにして、完全に崩れ落ちる。舞い上がる砂埃が全ての人間の視界を封じ―――。

 

「―――ァァァアアアッ!!」

 

 それはまさしく獣の咆哮であった。意味を為していない、甲高い少女の雄叫びが鼓膜を打ち振るわせる。聞く者の戦意も敵意も存在すらもかき消す天蓋の獣の容赦ない威圧が李信の身体を四方から叩きつけられた。ただの雄叫び、言ってしまえばただの()だ。それでもそれは不可視でありながら李信の意識を刹那失わせるほどの大質量の荒波。激しい空気振動に伴う大気密度の変動に、脳が揺さぶられ視界の全てが揺らいでいた。周囲の温度さえも変化させたのではないか、と思わせるそれはグツグツと空気を煮立たせる。未だ震える視界で空を仰げば、太陽を遮る影一つ。そして赤い塊が降ってきた。地を揺らす少女の肉体が、李信を飛び越えて後方へと降り立つと、方天画戟を器用に苛烈に振り回す。咄嗟に後方へと離脱し、水平に薙ぎ払われた超重兵器の間合いから脱出。その際に生じた空気がぶわりっと遠く離れたはずの李信の身体を撫で付ける。耳鳴りが未だ残される万全とはいえない状況で、赤い獣が眼前へと躍り出た。全身の回転運動全てを利用した方天画戟の袈裟懸け、逆袈裟、打ち下ろしに振り上げ、右薙ぎ払いに左薙ぎ払い、コレまで以上に速く、重く、鋭い。先程までとは完全に逆となる光景だ。一切の容赦も油断も隙もない獲物を食い尽くす獣の攻勢に、ところどころで薄皮一枚斬られる程度ではあるが手傷を負いながらも回避と防御を繰り返す。

 

 意識がとんでいる事によって箍が外れたか。獣性の解放。あらゆる枷から解き放たれた獣が本能をむき出しにして李信へと喰らいついていく。血飛沫が舞う決闘において、死が眼前に迫っているというのに李信は笑った。クカカカカっとまるで過去の死闘を思い出させる現状に、かつてないほどの絶望を持って襲い掛かってくる天蓋の獣を前にして、それでも鬼神の領域に足を踏み入れている李信は笑う。

 

 最強の個と最強の将軍。最強の獣と最強の鬼。最強の女と最強の男。

 

 少女が天蓋の獣であるならば、李信もまた天蓋の鬼。戦乱続いた春秋戦国時代において数多の大国を討ち滅ぼしてきた中華の民から称えられながらも怖れられた六人の内の一人。武神殺し。戦狂いの悪鬼。戦喰らいの戦鬼。その彼が、その武将が、色褪せることのない過去、遥かに続く未来、それら全てにおいて二度とあえるかわからない運命天命宿命の愛すべき相手に出会えた感謝と感動―――それによって本来ならばまだまだ時間と経験がかかるはずであった階段を一気に飛び越えていく。数段飛ばしではなく、数百段を一気に駆け抜けていった。それはつまり―――大将軍李信の完全復活に他ならない。

 

「―――ルァァァァァァアアアアアアアアアアッッ!!」

 

 大喝とともに打ち下ろされた大矛があらゆる技術速度暴力さえも問答無用で吹き飛ばす。赤い獣が別の廃屋へと叩きつけられ粉塵が舞い上がるも、再びそこから飛び出してきた。しかし荒れ狂う獣すらも歯牙にかけない、暴嵐を体現した李信に翻弄される。廃村に響く獣の声と方天画戟が振るわれる金属音。幾十度も攻め立てる無敵無数のそれら全てを、大将軍は手傷を負いながらも致命傷を負うことなく防ぎ続ける。その姿、なんと眩い事か。美しい事か。最強の獣の攻勢を凌ぎきるこれこそが―――完成された武の結晶。二人が全てをぶつけ合う瞬間だからこそ、本能に身を任せているからこそ、獣は見た。確かに視た。李信の背後に浮かぶ多くの存在を。優しげな長髪の少年。黒髪の美女が二人。偉そうに腕を組んで見下ろしている少年。初老の男性。真面目そうな青年。矛を肩に引っ提げて余裕の笑みを浮かべる三本の長い髭を生やした男。大きく見開いた目と、ギザギザの歯が目立つ巨漢。出っ歯の男。その男のすぐ傍に佇む長身の男性。平凡そうな男。左眼を縦断する傷がある男。強面の禿げている男。曲剣を持った冷静沈着そうな男。巨漢の二人。眼帯の男。飄々とした男。それ以外にも多くの、数え切れない数の人間がいた。いや、それ以上に彼の背に憎悪を悪意をぶつけている兵士達。地平の彼方まで埋め尽くす、尊敬と崇拝と憎悪と悪意。膨大すぎるそれを背負った男の姿に見惚れるくらいに眩暈がした。

 

 全てを焼き尽くす太陽の熱を発する李信に反射的に手を伸ばした獣が次の瞬間―――間合いへと詰め入った李信によって、首を掴まれ全力を持って大地へと叩きつけられた。地面を粉砕すると同時にひび割れ陥没する。ごぼっと口から多量の血を吹き出した彼女は、ついにその動きをとめる。

 

 地面に四肢を投げ出し得物となる方天画戟も手にはない。見上げる少女と見下ろす李信。勝敗がどうなったか一目見て明らかだ。だが、勝者の筈の李信も至る所に大小の裂傷を負っており、あくまでも致命傷がないというだけの状態である。もしも後一歩なにかが間違っていれば勝敗は逆になっていてもおかしくはない戦いであった。ピタリと地面に倒れ伏している少女の喉下に大矛の切っ先を寸止めして一息。

 

「……負けた」

 

 ぽつりっと少女が呟いた。既に先程の狂乱状態は過ぎ去っており、彼女の瞳には確かに理性の光が見て取れる。口に出したとおり、少女は自身の初めての敗北を受け入れていた。負けたくないという一心で、本能に身を任せた結果がこれだ。いや、どちらにせよ今の自分ではどうしたって勝ちの目はなかったのだろう、と目をゆっくりと閉じた。強かった。本当に強かった。夢を見ているのではないかと思うほどに最高の時間であった。短くも濃縮され圧縮され凝縮された、この世の全ての快楽を天秤にかけたとしても量るまでもない煌く光を放つ時間。だが、それもお仕舞いだ。自分は破れ、彼が勝った。彼は生き、そして自分は死ぬ。その事実に身体が、心が震える。死ぬということがここまで恐ろしいことだったとは。自分が戦ってきた者全てに与えてきた感情はこうまで悲嘆にくれるものだったとは。あと少し、李信がもう少しでも大矛を突き出せばそれで終わりだ。だが、それの気配が見られない。何故だ、と疑問を感じながら目を開けると、そこには李信の足に噛り付く子犬の姿があった。

 

「―――赤、兎?」

 

 ギョっとする少女が無意識にその子犬の名前を呼んだ。何故出てきたのか。絶対に隠れて出てこないように言いつけておいたというのに。いや、赤兎だけではない。十匹を越える子犬子猫が李信から少女を守ろうとするかのように間に割って入っていた。小さな小動物に威嚇され、流石の李信もどうすればいいか困り果てている。これだったらまだ敵意をもって攻撃してくる者のほうが対処しやすい。眉を顰めている李信へと、少女は身体を起こし座り込む。そして真っ直ぐと頭を下げた。

 

「……この子達は、助けてあげて」

 

 平伏し、動物の命を嘆願する少女にどうするべきか。完全に毒を抜かれた李信が助けを求めて華雄達へと視線を送ると韓遂が何かに気づいたのか、李信達の方へと歩み寄ってくる。

 

「お主まさか、盗賊まがいのことをしているとは……この子犬達を育てるためにか?」

「……」

 

 こくりっと頷いた少女に、青天の霹靂とばかりに皆が驚く。この少女が、誰かの為に……というか、動物達のために動いていたのか。そんな中で、通りでと李信は一人頷く。強さは間違いなく武神級。だが、あの男ほどの外れ具合ではなかった。自分以外を切り捨てて武の道を行く求道者。他人など必要としないそれとは違う。彼女にもまた守るものが、大切なものがあったのだ。戦いの最中に気づいた違和感はそこから来ていたのかもしれない。

 

「そうか。ならば、小娘!! 我らがその動物達を引き取ろう!!」

 

 突如韓遂が奇妙なことを口走り、何を言い出すんだこいつは、と思うのも束の間。

 

「洛陽にてお主も世話ができるように屋敷を用意し、世話役もつけよう!! 給金も出す、その代わりに我らに力を貸すがよい(・・・・・・・・・・)!!」

 

 なにを突然と思ったが、皆がそれは悪くないと瞬時に判断を下す。

 少女の力は驚異的だ。彼女が加わればとてつもない戦力となるだろう。しかも、李信に伍する少女がともに戦うとなれば―――李信の命を脅かせるものなどいなくなる。少女の答えは如何に、と皆が注目するなか、少女はじっと李信を見つめ続けている。一分が経ち、二分が経った。我慢強く少女の答えを待っていたものの、ついに痺れを切らして韓遂が答えを急がせようとしたその時、少女が口を開く。

 

「……わかった。貴方達に従う」

 

 もとより少女に選択肢はない。断ったらこのまま殺されるだけだ。今までだったら別にそれでも良かったが、今は死にたくないという感情が芽生えてしまった。

 

貴方の背負っ(・・・・・・)ているモノ(・・・・・)……それが貴方の強さの秘密?」

 

 少女の問い掛けに、何のことだと首を捻るも一瞬で―――驚いたのか目を見開いた李信が心底驚嘆してそれに答える。

 

見えたのか(・・・・・)

 

 個としての強さの極点にいる少女ではあるが、これはきっと将としての才能もある。驚き、感心する李信だったが、周囲は何のことだかわからず首を捻る者ばかりだ。

 

 一方の少女は、ほぅっと息を吐いた。じわじわと胸を熱くする感情が渦巻いている。それは目の前の男の強さを知ってからだ。その強さは孤独だ。数多くの死した者達の想いを双肩に乗せる彼の強さ。誰一人として同じ地平に立てやしない。彼の苦痛、苦悩は計り知れないだろう。それがわかるのは、自分もそうであったからだ。だからこそ、自分こそが彼の隣に立つ。自分が彼を満足させよう。決して孤独などにさせてやるものか。自分がそうある限り、自身もまた孤独には決してならない。中華でただ二人、ようやく出会った唯一無二の天蓋の存在。我ら二人―――その強さの目指す果ては自分たち以外は辿り着けぬ絶対の孤高。

 

「……そういえばお前の名前は?」

 

 李信のふとした疑問に、誰もがアっと短く呻いた。

 確かに彼女の名前を聞いていない。いや、恋といっていたような気もするが。正式な名前は何だと言うのか。

 

「……呂布。字は奉先。よろしく」

 

 呂布奉先。どこにも恋なる文字は存在しない。

 まさか、と皆が顔を引き攣らせるなかそれについて問うた結果―――真名かよっと全員から手荒い突っ込みを受けたとか。

 

 

 後の世にて漢王朝最強を謳われることになる飛信軍。

 その軍の突撃隊長として名を馳せる一騎当千。李信と双璧を為す二人目の飛将軍呂布が加わった瞬間であった。

  

 

 

 

 

 

 


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