真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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第15話:遼来遼来

 

 

 

 

「今日は良い天気やなー」

 

 馬上にて蒼天を見上げながら、気の抜けた声を漏らしていたのは一人の少女。陽光を浴びてキラキラと艶やかに煌く薄紫の髪を頭の後ろで軽く縛っており、馬が歩くたびに軽く上下している。服装は大変変わっており、上半身を隠すのはサラシのみで、襦裙は佩いているものの切れ目を自身で入れているのか、太腿が殆ど見えている状態だ。肩にかけるように上着を羽織っていはいるが、あまりそれに意味はないようにも思えた、比較的露出が多い―――というか、多すぎる状態は、上司でもあり友でもある賈詡からは会うたびに改めるように言われている。だが、警邏隊として出動が多い彼女にとって、動きやすい服装というのは重要である。特に少女にとっての最大の武器は速度である。防具などを着用すればその分、当然速度は低下する。故に危険度は上がるものの、このような格好を好んでしているという理由があった。

 

「張隊長。警邏も終わりましたのでそろそろ帰還のご命令を」

「あー……まぁ、待ちぃや。そない慌てても碌なことが起きへんって」

 

 馬を寄せてきた副官に、張と呼ばれた少女―――張遼はニカっと眩しい笑顔で答える。後頭部で両腕を組んで、くあっ、と欠伸を一つ。雲ひとつない空を見上げていれば自然と眠気も襲ってくる。決して手抜きをするわけではないが、常に気を張り詰めていては身が持たないということを危険な涼州にて過ごす彼女は知っているからだ。そんな張遼を追うのは馬に乗った三十人程度の兵士達。誰もが一糸乱れぬ行軍を見せ付けている。隊長である少女の部下とは思えないが、反面教師にでもしているのだろうか。副官も何時ものことのように彼女の意見を受け入れて隊長の僅か後方に下がって馬を走らせる。

 

 自分たちよりも一回り近く年下の少女を隊長としているというのに、従う兵達に不平不満や不安の色は見られない。何故ならば少女の名を聞けば誰であろうと理解し、納得するだろう。少女の名は張遼文遠。その名は涼州中に鳴り響いている。最良の太守が傅燮であるならば、文官の頂点が董卓と賈詡であり、そして武官の極地として轟いているのが華雄と張遼の二人であった。神速の機動を持って、馬を自在に操る異民族を討伐する武将。現在漢陽に所属する武官において、唯一騎馬民族を馬上において凌駕する戦士であるといっても過言ではない。見かけによらず、武と義を重んじ、侠気に満ち溢れる漢陽―――いや、涼州随一の武将である。故に彼女の直属の部下のみならず、多くの他部隊の兵士からも尊敬の念を一身に浴びるほどだ。もっとも、彼女の直属兵からしてみれば、確かに尊敬に値する上司ではあるものの一つだけ悪癖(・・)というべきものが張遼には存在するため、それだけは改善して欲しいと言葉にはしないものの願っている。

 

 張遼率いる部隊はそのまま走ること暫く。突如として先頭を行く彼女の馬の足が止まる。何事かと思った部下だったが、秒も立たずしてその理由を悟った。どこまでも続くと思われる草原の彼方、随分と先の丘を越えた遠方に、もくもくと立ち昇る黒煙。チリっと肌を焼くのは戦場の空気。

 

「―――いくで」

 

 短く、簡潔に、有無を言わせない力強さを持って張遼が馬の足を加速させた。先程までの張遼の表情とは思えない、まるで猛禽類を連想させる鋭い目つきと表情で、少女の駆る馬が爆ぜる。その速さ、部下達を置き去りにしていくほどの差があった。必死になって隊長に続く兵士達だったが、見る見るうちにその差は広がっていくばかりだ。だがしかし、丘の上に辿り着いた張遼が突如として馬を止める。幾分か遅れて隊長のもとへと辿り着いた兵士達が見たのは、荒らしに荒らされた小さな村。村の中にある家屋からは炎と黒煙が燃え盛っており、村の至る所に老若男女問わずの死体。その数は咄嗟には判断出来ないほどのもの。大人の男女、年寄りは言わずもがな、果てはまだ一桁の年齢しか生きていない子供すら血の海に沈んでいる。その原因を作り出したと思しき犯人達によって村中に残された馬蹄の跡。即ち一目でわかる異民族による略奪の痕跡に、ギリっと歯軋りをする兵士達。怒りに身を震わせている兵士達とは異なり、張遼は村の状態を観察し、そして西へと続く略奪者の逃亡の跡を確認していた。

 

「兵十名を残して、残りはウチについてこい」

 

 部下の十名に村の生き残りを探し出し、保護するように指示を出し少女の馬が紫電と化した。略奪の痕跡、鼻につく血の香り、家屋の燃えている状況から逆算すると、恐らくはこの村を襲った連中がここから逃げ出してそこまで時間はたっていない。自分ならば今からでもこの略奪者の正体を確認できる。冷静に判断した結果から、張遼は西へとひたすらに疾駆していく。部下達も隊長一人を先行させる結果になってはいるものの、置き去りにされてなるものか、と決死の覚悟で追従する。幸いにも相手の馬の足跡が残されている以上、見失う心配だけはない。だがそんな中、張遼は冷静に逃亡している略奪者を、馬の足跡からおおよその人数ではあるが予測を立てていた。

 

「……ウチらだけじゃ、相手にするのは難しいかもしれへんなぁ」

 

 風を切って走らせる中、ポツリと漏れた弱気ともいえる張遼の言葉。それも無理なかろう話だ。恐らく、敵の数は百を超え二百に届く可能性もある。対する此方は、村に十人を残したため自分を含めて二十人程。戦力比にすれば約五から十倍強。ただのならず者や盗賊程度ならば何とかなるかもしれないが、この手際のよさ、相手は相当な手練れと見える。自分達だけでは少々心許ないというのが隠しきれない本音であった。最悪略奪者の正体だけでも、と判断し半刻ほど馬を走らせただろうか。先程よりも大きな丘を登頂し、見下ろす先にてついに見つけた草原を行く異民族。その馬の扱いは一人一人が、張遼の優秀な部下を凌ぐほど。それはつまり中華の民を遥か太古より苦しめてきた脅威―――厄介極まりない羌族の民であった。

 

 離れていても分かる一人一人の高い錬度。このまま追って行ったとしても追いつけるかどうか。追いつけたとしても、部下達では馬上においては恐らく一人一殺が限度であろう。いや、下手をしたら一人も倒せぬまま殺される可能性すらある。明らかに分が悪い状況で、打つ手がないとしか判断出来ない。先程考えていた通り、襲撃者の正体が掴めただけでよしとするしかない。チッと思わず反射的に舌打ちを一つ。今度会ったときは、絶対にこの惨劇の復讐をしてやる、と西へと駆ける羌族達を睨みつけていた―――その時、二百を超える馬軍の遥か左。即ち南に聳え立つ丘陵から砂埃をあげて駆け下りてくる一団が彼女の視界の端に映りこんだ。目を細めてみれば、その一団には()の文字が縫いこまれた旗が風に靡いていた。

 

「華雄、か!?」

 

 華雄率いる独立遊撃部隊。涼州でも恐らくは漢軍最強を名乗っても許されるであろう命知らずの連中によって構成された一団。兵数としてはまだ負けているが、自分と華雄に加えて二つの部隊が合わせれば十分に勝ちの目が見えてくる。見えてきた光明に、如何に華雄と連絡を取るか即座に策を考え始めた張遼を置き去りにするかのように―――駆ける一つの流れ星。華雄の一団を後方へと置き去りにする黒毛の馬が一頭。華雄の部隊の他の人間が遅いわけではなく、飛び出したその馬に乗った少年は丘陵から駆け下りる勢いを加味したとしても、その速度が尋常ではないだけだ。騎馬を自在に操る羌族の連中はおろか、張遼すらも超えた動きはまさしく人馬一体。人と馬の理想の果てを思い知らされる躍動感で、神速の勢いを持って一直線に西へと逃げ延びようとする羌族の横っ腹を食い破ろうと迫り行く。だが、それは無謀だと、思わず叫びそうになった張遼もまた、華雄隊を援護するべく止めていた馬を走らせた。

 

 僅か一騎で二百近い敵部隊へと攻撃を仕掛ける姿は見事。後方から来る味方の兵へ対しての鼓舞効果も期待できるだろう。それでも、一騎で何ができるというのか。蹴散らされてそれで終わりだ。一番槍の手柄の為に命を落とす気なのかもしれない。例えば張遼であったとしても二百の兵を相手にしてまともにやって勝てる道理などありはしない。

 

 突出した単騎に気づいたのか、羌族の十名程が隊から抜け、近づいてくる敵へと狙いを定める。瞬時に片付け即座に合流するつもりなのであろう彼らは、それぞれの武器を手に、一騎掛けする少年へと襲い掛かった。張遼が反射的にあげそうになった怒号は―――次の瞬間には露と散り、驚愕のあまりに馬の足を反射的に止めてしまっていた。何故ならば、少年が抜いた巨大な矛を振り下ろし一閃。それで五人が文字通り馬上から斬り飛ばされた。何が起こったのか理解出来ぬまま、返す刀の切り上げられたもう一閃にて、驚愕も露にしている残り五人もまた斬られ、千切れ飛ぶ。

 

 想像を超える理解の及ばぬ結果がそこには残され、あまりに非現実的な光景を生み出した少年は速度緩めぬ勢いそのまま、羌族の一団へと突撃した。抜く手も、振るう手も霞む領域にて大矛が次々と羌族を斬り、断ち、振るわれ、叩き潰し、大軍を前にして一切の恐れも見せない黒毛の馬と少年は部隊を突き破って北方へと潜り抜けた。鞍上人なく鞍下馬なし、あまりにも完全にして完璧すぎる連携。その少年の放つ凶悪なまでの圧力と容赦ない殺戮に、分断された後続は馬が脅え混乱に陥った。前部隊もまた同様だ。まさかたった一騎で横っ腹を食い破られるとは考えてもいなかった彼らは、瞬時にどう動けば良いのか判断に迷い、部隊の長である男へと縋る視線を送る。その視線を一身に浴びる長もまた、一体なにがどうなっているのか現状の理解が追いつかない。このまま逃亡したとしても間違いなく後方から狩られて終わる。ならば、今ここでこの敵を仕留めるしかない。北へと抜けた少年が馬首を返し、再び此方へと迫り来る姿を見てそのような判断を下した長が号令を飛ばそうとするも―――それはあまりにも遅い判断であった。

 

「貴様らが足を止めたらただの案山子にしか過ぎんぞ!!」

 

 烈火の咆哮と同時に振り下ろされる巨大な戦斧。馬ごと断ち切る超重量級の斧撃が、一騎駆けした少年―――李信へと意識と注意全てを持っていかれていた羌族の背後から襲いかかった。何の躊躇いもない一撃が、肉と骨を叩き潰す音を響かせて敵兵を肉塊へと変えていく。

 

「入れ食いでごぜーますな、姉御!!」

「ん。楽ちんだね」

 

 胡軫と高順は華雄とは対照的に、確実に無駄もなく敵兵の急所を狙って片付けていく。華雄と同様に逡巡一つない彼女達の動作は、それぞれの剣を振るうごとに容易く命を終わらせていった。こんな命危うい戦場においてなお、華雄や胡軫、高順以外の隊の者達の顔に浮かぶのは凄絶な笑みだ。雄叫びをあげ、不敵な笑みを浮かべ、敵を屠っていく姿はまるで物語の悪鬼の如く。華雄隊の全ての者が、恐れも、怖れも、畏れもなく完全に統制と冷静さを欠いている羌族を次々と斬殺し、突殺し、圧殺する。各隊員の躊躇いのなさが、涼州という地域は命のやり取りが日常的に行われることを指し示している。いや、彼らの存在は涼州という過酷な地においてなお、異質異端異常な連中の集まりであった。

 

「はははっ……」

 

 その光景を呆然と見ていた張遼の口からは、乾いた笑いが漏れ出でていた。

 

「なんや、アイツら(・・・・)。なんや、アイツ(・・・)

 

 グッと握り締めるのは自身の相棒である偃月刀。

 眼下に広がるのは自分たちよりも遥かに多い異民族を前にして、平然と狩りつくそうとする狩人達の戦場だ。自分の命も相手の命にも何の価値も見出していない大馬鹿者達の戦の庭だ。

 

「張、隊長……一体、なに―――」

 

 ようやく追いついてきた副官が、張遼が見ている光景を見て驚き、次いで上官である彼女へと視線を移すと同時にヒッと短い悲鳴をあげた。彼の前には、楽しげに、愉悦を滲ませ、ただただ興味という感情のみを嬉々として全身から発している()がいる。咄嗟に止めようとした副官を振り切って馬を再度走らせた張遼は、未だ混乱の最中にいる敵部隊の最後続へと危険も顧みずに突撃を慣行した。

 

「隊長!? お待ちください!! 副長、速く止めにいかないと!!」

 

 隊の中で最も若い兵士が困惑し、静止の声をあげるものの、副官の男はどこか疲れた表情のまま首を横に振った。その姿に再度言い募ろうとした若い男を、副官は鋭い視線のみで彼の台詞を止めさせた。

 

好きにさせておけ(・・・・・・・・)。隊長が……張文遠が本性を解放した。我らに彼女を止める術はない」

 

 自分たちの隊長の無謀とも言える行動を、張遼隊の誰もが黙って見送った。その行動の意味を、真意を掴めなかった若い兵士だったが、即座に響き渡るのは自身の尊敬する上司の雄叫び。そして、彼は知る。張遼という名の少女の性質を。本質を。本領を。彼女が異民族に『遼来遼来』と忌み嫌われ、畏れられるその理由を。

 

 

「―――ウチも混ぜてや!! なぁ!! なぁぁ!!」

 

 

 新たな敵の乱入に、さらなる混乱に陥る羌族が咄嗟に放った槍の攻撃を慌てもせずに偃月刀を縦にして柄部にて苦もなく受け流すと、瞬時に手の内で回転させ、その遠心力を利用。刀刃で横薙ぎ、敵の首を落とす。襲い掛かってきた縦一直線の剣の斬撃を身体を馬上で僅かに横に移動させ避けると、背後からの右水平の太刀筋をこれまた身体を沈ませてやり過ごす。第二刃を放とうとする敵二人よりも速く、張遼の石突が空を渡る。まともにそれぞれの鳩尾に入った衝撃に、呼吸が止まり、馬上からずるりっと落馬した。休む間もなく振るわれる袈裟切り、逆袈裟、左切り上げ、右切り上げが、神速を持って一閃一殺を成し遂げる。何がおきたのか理解できていない敵兵は、良い的にしかならずに瞬時に穿たれた刺突が三人の喉下に風穴をあけた。気がつけば一呼吸の間に十名の兵を殺害したその姿―――戦場でなお映える美しき紫紺の獣。まるで人喰い虎を思わせる獣の出現に、シンっと静まり返った周囲を省みず嬉々として数多いる敵兵へと偃月刀を向け言い放つ。

 

 

「なぁぁああああ!! 一緒に遊ぼうやぁぁあああああああああああああ!!」

 

 

 

 灼熱色に燃え上がり、戦いへ対する興奮に身を震わせる獣が、ウチを見ろと言わんばかりに猛け吼える。それは羌族に対しての表現なのか、その実彼女の視線はただ遠方にて矛を振るい続けて戦場を支配する李信にのみ向いている。

 張遼の存在に気づいた華雄隊の兵達は、関わっては駄目な奴がきた―――といった様子でとばっちりを喰らわぬように彼女の周囲から戦いの場を他へと移す。好戦的かつ、強い者との戦を好む張遼文遠。それが彼女の唯一の悪癖とも言えた。

 隊長でもある華雄とも仲が良い故に、彼女の取り扱い方は誰もが承知のことであった。彼女の前に残された異民族は、初めてそこで気づいた。己の前にいる獣の正体に、ようやっと悟った全ての羌族が顔を青ざめさせる。遼来々。張遼がきたぞ。悲鳴が上がった。あらゆる異民族に恐れられる最速最悪の獣。漢陽最強の一角。太守傅燮の懐刀。今ここに数多の異名を持つ張遼文遠の武が唸る。

  

 後続部隊が張遼によって殺戮の限りを尽くされている中、まだ前部隊が相手にしている人数は少ない。僅か四人の少人数だ。華雄、胡軫、高順の少年少女と判断される歳若い兵。されど羌族の混乱がおさまってなお、彼女達の蹂躙は止まらなかった。それは純粋な力の差。格の違い。英傑の領域に足を踏み入れた怪物達の晩餐会がここに開かれている。彼女達の戦斧が、小剣が、剣が空に煌くたびに新たな命が散っていく。

 

 そしてその中でなお異彩を放つ鬼人が一人―――大矛をまるで我が手足のように扱う李信。相手が反撃を試みるより速く、回避に転じようとするより早く、防御ごと押し潰しまるで意味を為さない圧倒的なまでの爆撃染みた斬撃が瞬く間に敵兵を屠って行く。一呼吸の間で数名が斬殺され、数秒経つ頃には二十の敵兵が文字通り消し飛んでいる。この逆境を覆そうと決死の覚悟で気炎を吐き、それぞれの干戈を手に戦いを挑むものもいた。そんな覚悟を持った勇者でさえも無意味だと断じて悉くを鏖殺するは鬼人、否。鬼神の如きその力、彼の前に立つ者は一切合切全て万象全てが灰燼と消ゆ。

 

「―――ふざけんな!! なんだよ、こいつらは!! 漢朝は、こんな化け物を飼いならしてるのかよぉお!!」

 

 羌族の一人が泣き喚いて響いたその台詞。敵味方問わず多くの兵士達の耳に届きながらも、戦場の雑音に紛れて消えた。それを言い放った羌族の男もまた、李信の傍らで獅子奮迅の働きを見せる華雄の戦斧の乱舞に巻き込まれ肉体が四散する。血と臓物が撒き散らされる死山血河の頂に立つ、美しくも雄々しき華は新たな標的を求めて咆哮を上げた。張遼にも負けず劣らずの獣の女王、華雄ここに在り。

 

 僅かな時間でもはや立て直すどころか、壊滅寸前にまで追い込まれた羌族の長には既にまともな思考が残されていなかった。それは無理なかろう話だ。自身の兵よりも寡兵で一方的に殺されて行く部下達。抵抗を試みようとも、彼の想像を遥かに超える化け物が五人。策など容易く力技で突破することを可能とする怪物達。そんな連中を相手して、こんな状況で一体どんな指示を出せばよいのか。故に、次に彼のとった行動は決して責められることではなかった。つまりは―――自分ひとりでの逃亡である。全ての部下を見捨てて、たった一人馬を西へと走らせた。後方で響き渡る怒号と悲鳴。それを鼓膜に響かせながらも、彼はこの場から、化け物達から一分でも一秒でも早く遠ざかる選択肢を選んだのだ。それは生物としての本能が取らせた結果だ。無理もない。ただ単純にこんな化け物達と会敵した運の悪さを責めるしかなかった。だが、それに不満を持った男が一人。逃亡した長の姿を視界の端で捉えた戦士が、大矛を振り回して周囲の羌族を斬り飛ばした。そして、それら血が散布される空間に黒毛の馬を走らせた。戦略的撤退ならば認めよう。戦況を打破する目的ならば容認しよう。だが、仮にも一団の長が、隊長が、部下すら捨てて命惜しさに脅えて逃げる。そんな真似を認めてなるものか。

 

 

「おい……大将が、背を向けて逃げるなよ」

 

 

 まるで耳元で囁かれたと錯覚する程に、大声で怒鳴り散らされたわけでもないのに、その声は長の脳髄深くにまで入り込む。ヒィっと自然とあがった心の底からの恐怖の悲鳴。見なくてもわかる。自分の背後に迫り来る、大矛を構える悪鬼の姿が確かに想像できてしまった。そしてその想像は微塵も違うことなく現実となる。李信の手から解き放たれた大矛の切っ先が、長の右胸を貫いて巨大な風穴を開けるとやがて馬上から力なく地に落ちた。自身の血の海に沈む彼は何故こんなことになったのか、なってしまったのか、考えはしたもののその思考は数瞬後には閉ざされることとなった。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぁなぁ。あんたなんて名前なん?」

 

 羌族を殲滅した後、襲われていた村に戻ったもののやはり生存者はいなかった。華雄隊と張遼隊が協力して墓を作った後に、並んで漢陽へと帰還している途中のことであった。張遼が李信の傍へと馬を寄せて、語りかけてくる。その際にチラっと横目で華雄を見ると、彼女は無言で頷いた。それを確認してから李信は張遼へと返事を返すべく口を開く。

 

「李信だ。字は永政。よろしく頼む」

「ほぇー。李信か。ええ名前やな、うん。ウチは張遼。字は文遠ちゅーねん。よろしゅうな」

 

 裏表ない男女問わず魅了する張遼の笑顔を向けられても、特に感じることなく頷くことで答えとする。その瞳の奥には、底知れない怪しい光が灯されていることに気づいていたからだ。いや、そもそも戦場にて荒れ狂う張遼の姿を見れば、まともじゃないことくらい一目でわかるというものだ。

 

「なんや、つれないなぁ。まぁ、ええけど。それはそうと、あんた強いな。めっちゃ吃驚したで、ウチ。あんたが単騎駆けした時はなんやあの命知らずはって思うたけど、あんたほどの腕前なら納得や」

あれくらい(・・・・・)なら問題はないな。自分の腕にはそれなりの自負がある」

「ははっ。二百を超える敵兵相手に突っ込むことがあれくらい(・・・・・)、か。壊れてるなぁ、あんたも」

 

 期待を裏切らない李信の台詞。知らない人間が聞けばそれが慢心や驕りではないかと思うかもしれない。だが、先程までの光景を目にすれば、それが思い上がっている人間の言葉ではないことが理解できる。李信にとっては、敵が二百だろうが三百だろうが十分になんとかなる範囲なのだろう。それを再確認した張遼の口元が静かに緩んだ。ああ。駄目だ。本当に駄目だ。この男は絶望的に絶対的に駄目すぎた。今まで見てきた怪物級の武将達が子供に見える外れに外れた超級の化け物だ。涼州にて名を轟かせる手下八部(・・・・)や、北宮伯玉(・・・・)だろうが、馬騰も韓約でさえも、見劣りする。彼らが弱いわけではない。その強さ、十分に英傑級。例え張遼が全力で戦ったとしても、例にあげた武将全て楽には勝たして貰えない戦士達だ。いや、韓約のみは文官なので例にあげるのは正しくないかもしれないが。それでも今この場の隣にいる少年はそれら全てを超越している。それは武将としての経験と、獣としての直感だ。キヒっと唇を緩ませた張遼が本命となる言葉を繋げようとしたその時。

 

「……あまり私の副長の手を煩わせるなよ、張遼」

 

 二人の間に馬を割って入らせたのは華雄であった。邪魔をされる形となった張遼は、不満も露に眉を顰める。

 

「なんや、華雄。ウチは今この兄ちゃんと話してるんや……って、副長?」

 

 華雄の言を信じるならばこの少年が華雄隊の副長を勤めている。それはおかしい。ついこの前まで副長はもう少し年嵩の者が受け持っていた筈だ。

 

「ああ……この前の戦闘の時に、な」

「あ、そうなん?」

 

 華雄の隊の副長は結構な古株だった。それが死亡したということはかなりの痛手であっただろう。その後任についたのは目の前の李信という少年だ。この若さゆえに果たして反発はあったのではないか、とも張遼は考えたがそれはないか、と思いなおした。涼州において常に死が近いこの地域は()というものに皆が敏感だ。力こそ正義、と認めるわけではないが、少なくともそういう傾向が多いのもまた事実な部分がある。

 

「お悔やみ申しあげるわ。まぁ、それはおいといて……兄ちゃんとちょっと話したいことがあるんや。すまんな、華雄」

 

 今自分は李信と話をしている。だからお前は口をだすな、と言外に含ませた返答をする張遼。その遠慮の無さに華雄は怒るでもなく、苦笑を返す。そんな姿を意外に思ったのは張遼であった。つい先日までの常に誰にでもピリピリとした威嚇染みた圧力を放っていた華雄とは違う。言うなれば余裕のある態度。まるで地に根を下ろしたかのような巨木を感じさせる雰囲気を纏わせている。

 

「お前の気持ちもわからんでもない。だがこんな状況で始められても(・・・・・・)困るぞ。せめて漢陽までは我慢しろ」

「……しゃーないな」

 

 華雄の余裕。自信に溢れたその姿。これまでの彼女とは明らかに段階が異なっている。友人の劇的な変化に毒気とやる気を削がれた張遼は無意識のうちに偃月刀に添えていた手を放すと、李信達から自身の隊へと馬を戻し空に浮かぶ雲を数えながらも、後頭部にて手を組んでクァっと蒼天を見上げた。そんな彼女の姿にとりあえずはなんとかなったか、と安堵する華雄。しかしながら、張遼の頭の中は漢陽に戻ったら速攻で李信を訓練場へと引っ張っていこうと逸る気持ちで占領されていた。

 

   

 

 

 

 

 

 

 


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