神水戦姫の妖精譚(スフィアドールのバトルログ)   作:きゃら める

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第五部 撫子(ラバーズピンク)の憂い 第二章 2

 

 

          * 2 *

 

 

「じゃあまた学校で、克樹」

「それでは失礼します、克樹さん」

 誠とともに家を出た灯理は、玄関まで見送りに出てきてくれた笑顔の克樹に、笑顔で手を振った。

「それじゃあ駅まで」

「はい。よろしくお願いいたします」

 本格的な冬が近づき、集まったのは昼過ぎの時間だったのに、外に出るともう鈍い水色をした空は、薄暗くなり始めていた。

 一緒に出るときはたいていそうであるが、灯理は駅まで送ってくれる誠と並んで道路を歩き始める。

 一軒家が多く建ち並び、時折マンションがある、車が二台どうにかすれ違える程度の道には、人通りはほとんどない。陽射しの関係で影が差すほどの身長差がある誠と歩く灯理は、コートのボタンをもうひとつ留めて入り込んでくる冷気を防いだ。

「休戦を言い出してくれて良かったよ、中里。ありがとう」

 歩き始めてすぐ、誠はそう声をかけてきた。

 首を向けて彼の顔を見ると、安心しきった笑みを浮かべている。

 灯理は思わず、小さくため息を吐いてしまった。

「休戦が、良いことなのかどうかはわかりません」

「そんなことないだろ。オレは良かったと思うよ」

「考えてもみてください。双子を倒した敵、場合によってはもうひとりの敵が見つかって、長くてもそのふたりを倒すまでの休戦です。その後は結局、ワタシたちは敵同士に戻るのです」

「……それは、そうだが」

 怯んだように表情を歪ませる誠。

 そんな彼に冷たい視線で睨みつけたかったが、目を隠している医療用スマートギアの、無機質なカメラではそれは叶わず、灯理は彼にわかるようにため息を漏らした。

 自分から言い出した休戦だったが、終盤戦に入ったエリキシルバトルの中にあって、自分たちにとってそれが良いことなのかどうかは、灯理自身にもわからなかった。

 ギスギスした人間関係でいたくない、と思ったからこそであったが、いつかつけることになるだろう決着のとき、ためらいの原因になり得る。

 ひとつしか叶わない願いを自分のものにするためには、戦いへのためらいは致命的となりかねない。

「早めに関係をきっぱりと断ち切って、後腐れなく戦えるようにすることこそ、正解だったかも知れません」

「そうかも知れないが……。克樹も言ってたが、今度の敵は過去最強になりそうなんだろ? そいつを相手にするんだったら、いまは協力してた方がいいだろ」

「ワタシたちは結局は敵になるのです。これまでのこともありますし、自分以外の誰かが戦ってくれた方が、見えない敵の情報も入るかも知れませんし、まだ少し気が楽だ、というのもあります」

 交通量の多い国道沿いの歩道に出て、すれ違う人を気にして声を潜めて話す誠。

 歩く速度を合わせてくれる彼の渋面を見ながら、灯理は自分でも厳しいと感じる言葉を放っていた。

「それでも、ありがとう。どうなるかはわからないが、曖昧に終わるのはイヤだったからな。休戦してる間は、話し合うこともできる」

「最終的に正解になるかどうかはわかりませんが、ワタシもいまはこれでよかったと思っています。……ですが、休戦が終わった後は、容赦なく戦わせていただきますよ」

「それは構わないさ。直接ソーサラーに攻撃してくるような方法でなければ、受けて立つところだ」

「……もうあのようなことはしません」

 爽やかな笑みを浮かべる誠に、灯理も口を尖らせつつも笑んで見せた。

 唐突に会話が途切れた。

 灯理は誠に話しかけることはなく、誠も話しかけてくることはない。

 ――やはり違いますね。

 誠に駅の辺りまで送ってもらうことは度々あったが、バトルのことや日常のこと、克樹や夏姫のことなど話題は少なくなく、会話が途切れることはなかった。

 けれどいまは、意識して話題を探さなければ、話しかけるのが難しい。以前は普通に湧き上がってきた話題が、いまは何も思いつかない。

 そのことが、否応なしに以前と関係が変わってしまったことを意識させる。

 ――ワタシは、諦めたくない。

 駅までの道を無言で歩く灯理は、そんなことを思う。

 天堂翔機の元へ行く日の朝方にフレイヤを通して見た、願いの欠片。

 幻かも知れないと思っていたが、しかしあのときの体験は、克樹に負けたことでほとんど諦めていた願いを、強く意識させた。

 願いがひとりしか叶わないとわかったいま、克樹たちとは打ち解けた関係でいたいと思うのと同時に、どうしても敵として戦うときのことを考えてしまう。

 どうやって克樹を、夏姫を、誠を倒すかと想像してしまう。

 そんなことを考えている灯理は、気軽な会話を楽しめなくなっていた。

「……どうかしたのか?」

 身長差のために見下ろすように視線を落としてくる誠に問われ、考えに没頭しつつあった灯理は我に返った。

「いえ、とくには」

「そうか? んー……。たぶんだが、天堂翔機のところに行く前くらいからだったよな? 中里がどこかおかしくなったのは」

 そう指摘されて、灯理は思わず驚きに唇を丸くしてしまう。

 ――見ていないようで見ているのですね、誠さんは。

 比較的静かであまり前に出ない誠のことは、身体が大きく格闘技をやっていることもあって、慎重で注意深い克樹と違い、デリカシーに欠ける普通の男の子のような印象を持っていた。

 しかしそれはどうやら間違いだったようだ。

 克樹も気づいていないだろう灯理の変化に、彼は気づいている。

 誠から視線を外した灯理は、少し考え、それから言った。

「もしかしたらワタシは、ほんのひとときだけ、願いを叶えたかも知れません」

「どういうことだ?」

「本当に起こったことなのか、幻だったのかはわかりません。ですがあのときワタシは、フレイヤの目を通して、自分の目で――、見えていたときの目で見ていたときの色彩を取り戻していたような気がするのです。すぐに元に戻ってしまいましたが」

 医療用のスマートギアの視覚で空を仰ぎ、灯理は言う。

「まるで願いが叶う、前兆現象のようでした」

「前兆現象、か……」

「それでワタシは、以前よりも強く、願いを叶えたいと思うようになったのです」

「なるほどな」

 駅が近づき、人通りが増える中、誠は腕を組んで片手を顎に添え、しばし考え込む。

「もしかしたら、本当に前兆現象かも知れないぞ」

「……そうでしょうか?」

 もしかしたら莫迦にされたり、信じてもらえなかったりするかも知れないと思っていたので、少し驚いた灯理は誠の顔を覗き込むように見る。

「あぁ。オレが克樹と初めて戦ったとき――、えぇっと」

「克樹さんが死にかけたときのことですね」

「……そうだ」

 克樹が誠と戦ったときの話は、灯理も聞いていた。

 死にかけたことについては、克樹が気にしていないようなので、灯理も気にしないことにしている。

 自分で言ってうろたえている誠は、済ましたままの灯理に息を吐き、話を続ける。

「あのときアリシアに百合乃ちゃんが現れたんだ。あれも前兆現象だったとしたら――」

「いえ、それはおかしいですよ」

 駅のロータリーに到着し、改札に続く階段に向かって行く人々のまばらな波を避けながら、灯理はタクシー乗り場へと向かう。

 いまは一台も停まっているタクシーはなく、そこまで着いてきた誠に振り返る。

「克樹さんの願いは復讐のはずです。前兆現象だったとしたら、おかしなことになってしまいます」

「あれ? 確かに」

 克樹の願いが実は百合乃の復活である可能性も考えられたが、それはないだろうと灯理には思えた。

 彼のいまの性格を形成しているのは、奥底にあるどす黒い想いであることは、疑いようがない。

 本心では百合乃の復活を望んでいたとしても、前兆現象として現れるのはそちらではないはずだった。

「それでは誠さん。また……、克樹さんの家でお会いしたときにでも」

「あぁ。またな、中里」

 やってきたタクシーに乗り込み、誠と別れの挨拶を交わした灯理は、自宅の住所を運転手に告げる。

 ――でももし、百合乃さんが現れたのも、ワタシのと同じで、前兆現象だったとしたらどうでしょう。

 走り出した車の中で、灯理は唇に指を添えながら考える。

 克樹の願いは、口に出しても言っている復讐ではなく、潜在的には百合乃の復活を、復讐よりも強く願っている可能性もあった。

 ――いえ、でも、違いますね。

 どこまで克樹の想いに深く触れているのかは、わからなかった。それでも灯理には、どうしても克樹の願いが復活であるとは思えなかった。腑に落ちなかった。

 うつむかせていた顔を上げ、自分の考えを否定した灯理は、流れていく街並みを眺める。

 ――他の方には起こっていないようですし、判断材料が足りませんね。

 原因も理由もわからない現象について、灯理はため息を漏らして判断を保留することにした。

 

 

             *

 

 

「うぐぅ……」

 スプーンを口に運んで、微かなうめき声を漏らす克樹に、夏姫はテーブルに頬杖を着きながら微笑みを浮かべる。

 話し合いの後、ほとんど空っぽになっていた冷蔵庫に詰める食材を克樹と一緒に買いに行って、久しぶりにこの家で食事をつくった。

 二週間前なら当たり前だったことが当たり前でなくなっていて、夏姫は克樹を見つめる笑みに悲しみを混ぜた。

 ――壊れるのは一瞬だな。

 そんなことは母親が過労で倒れたときに知っていたことだったのに、改めてそんなことを思う。

 なんだか羨ましそうに克樹の食事姿をアリシアで見ているリーリエに笑いそうになりつつ、夏姫は自分のカレーを口に運んだ。

「ここのところ、まともなもの食べてなかったんでしょ?」

「……つくるの面倒だったから」

 空になったお皿に手を差し出すと、済まなそうにしながらも渡してくる克樹。

 食事内容が貧相になっていたのは、冷蔵庫の中身だけでなく、キッチンのゴミを見れば明らかだった。

 最初にここで食事をつくったときと違い、キッチンや調理道具が綺麗にされていたのには、少し驚いたが。

「別に克樹だって、簡単なものならつくれるでしょ?」

「まぁそうだけど、……面倒だったのもあるし、なんか、つくりたい気分でもなかったから」

 克樹が料理くらいつくれるのは、一緒につくったりしていたから知っていた。決して経験豊富だったりレパートリーが広いわけではないが、面倒臭がらなければそれなりのものはつくれる。

 ――まぁ、面倒になってたのは、アタシも同じか。

 ここ二週間の自分の適当にもほどがある食事内容を思い出しながら、夏姫はキッチンから戻って克樹に二杯目のカレーを渡した。

「休戦になって良かったね」

 三杯目のカレーを食べ終えて満足そうに息を吐く克樹に、笑みととにそう言った。

「僕たちの間の決着を先延ばしにしてるに過ぎないから、良いことばかりとは限らないけどね」

「……でも、休戦にならなかったら、こうやって食事をつくりに来ることもできなかったと思うよ?」

「うっ……。それは、つらいな」

 難しい顔を見せた克樹が一瞬で苦々しい表情になったのを見て、夏姫は思わず笑ってしまっていた。

 食器を洗っている間に淹れてもらったコーヒーを飲みながらダイニングテーブルで向かい合うと、夏姫は克樹に話すことがなくなっていた。

 克樹の方も身体を斜めにして、夏姫の方を真っ直ぐに見ていない。

 けれど、休戦になる前と違い、いまはギスギスした空気はない。

 口元に寄せたカップを傾ける克樹は、気まずそうな表情を浮かべている、夏姫の知っている彼だった。

「――あともうひとりのまだわかっていない参加者って、どんな人だろ」

 訪れた沈黙を打ち破って、夏姫は思ったことをぽつりと零していた。

「さぁ? まったく予測もつかないな。双子を倒した奴は、金に余裕があって、悪い人じゃないっぽいけど。もうひとりはまだ影も見えてないからね。なんでまたいまそのことを?」

 双子を倒したエリキシルソーサラーが良い人らしいのは、猛臣から聞いたという克樹の話で推測できていた。

 もうひとりについてはまったく予測がつかないと、克樹はもちろん猛臣も言っているそうだ。

「うぅーん。できれば、イヤな人だといいなぁ、って」

「……なんだそれ」

 呆れた顔を向けて熟る克樹の方に、少し身体を乗り出すようにして夏姫は真剣な目つきで言う。

「だってさ、いい人だったら戦うのためらっちゃいそうじゃない。イヤな人だったらためらいなく戦えるかな、って」

 個人的な願望剥き出しのものもあったが、リストに書かれていた願いのほとんどは切実なもので、願いを知った上で戦うのはためらってしまいそうだった。

「エリキシルバトルで、ためらってる余裕なんてないだろ。みんなそれぞれに切実な願いを持ってるんだから」

「そうだけど……。できれば容赦なく戦えるといいな、って、思って……」

「まぁ、わかるけどさ」

 苦笑いを浮かべる克樹に、夏姫は唇を尖らせて見せていた。

 ――うん、よかった。

 ぎこちなさはあっても、少し以前に戻れたという実感に、夏姫は安堵を覚えている。

 克樹との関係は、エリキシルバトルがあったとしても終わってはいない。

 そう思えた。

 ――でも……。

 笑ってくれている克樹から視線を逸らし、夏姫はうつむく。

「最終的には、アタシたちも戦わないといけないよね」

「願いを叶えるためには、それしかないだろうな。まだ正体のわからないふたり以外には知り合いばっかりで、戦いにくいのは確かだけどさ」

「うん……」

 現実を思い出して気持ちが沈み込みそうになっているとき、難しそうに顔を歪めた克樹が言う。

「でもまだ、戦えば済むだけ、マシかな」

「どういう意味?」

「モルガーナがどう動くのかがわからない」

 コーヒーを飲み干した克樹は、難しい顔をしたまま続ける。

「バトルが終盤に入ったってことは、あいつの目的達成に近づいたってことでもあると思う。最後まで介入してこないかも知れないけど、あいつの目的とか、役割次第では出てくるかも知れない」

「……魔女さんの目的って、何なんだろ?」

「不滅になることかも知れない、って天堂翔機のとこで話してただろ」

「うん、そうなんだけど、何のためになのかな、って」

「そう思えば、わからないよな」

 口を半開きにしてまばたきを繰り返している克樹には、想像も予想もできていないらしい。

 夏姫にも、不滅になりたいというのが願いだったとしても、それが何のためのものなのかはわからなかった。

「いまでも不老みたいだし、不滅ってまではいかないだろうけど、それに近い状態だよね。会ったことないからわからないけど、話聞いてる限り死にたくないからとか、長生きしたいから、って理由で不滅を願うような人じゃなさそうだな、って思うんだよね。だったら何のために、不滅を願うんだろ?」

「あいつにはあいつの理由があるんだと思うけど、そう思えば考えたこともなかったな」

 腕を組んで考え込み始めた克樹。

 自分のように、失った母親の復活そのものが願いの人もいるだろうし、灯理のように絵のために視覚を取り戻したい人もいると、夏姫は考えていた。

 モルガーナの場合、不滅そのものが目的のようには、どうしても思えなかった。

「何か、エリキシルバトルには、まだ足りないピースがあるような気がするな」

「うん、そうだね……」

 これまでの一年で様々なことがわかってきているようで、思い返してみるとわかっていることは本当に少ないことに、夏姫は気づいた。

 奇跡なんてものを起こせるエリクサーをエサに人を集めたことも、開催したのがエリキシルバトルであることも、なぜバトルという形で決着をつけさせようとするのかも、主催者の目的も、すべてわかっていない。

 夏姫も、克樹も、わかっていないことだらけだった。

 考え込んでいる克樹を見て、夏姫は考えていた。

 ――不滅を望んでいる魔女は、どんな想いでそれを願っているんだろう……。

 

 

 

「じゃあまた明日」

「うん、また」

 外はすっかり暗くなってしまったが、送らなくていいと言う夏姫を玄関で見送って、僕は家の中に戻った。

 けっこうたくさんつくってもらったカレーは、久しぶりだったのもあって美味しくて、もうそれほど残っていない。

 いつでもつくりに来てくれるという彼女の言葉に甘えて、明日も来てもらう約束をしていた。

『久しぶりだったもんね、夏姫の料理!』

 振り返った玄関先で僕の行く手を阻むように立っているのは、アリシア。

 アライズしていないアリシアに手を伸ばして、軽やかに肩まで登ってきたのを確認してから、僕はLDKに戻った。

「すっかり夏姫の料理ばっかり食べてたからなぁ、ここんとこ」

 僕も食事をつくれると言っても適当なものだけだし、味つけの方が微妙だ。

 バイトをしてるっていう喫茶店で習ってレパートリーを増やしていると言ってた夏姫の料理は、シェフの料理とかって感じではないけれど、素朴なものなのに味つけは僕がつくるのと比べものにならないくらい美味しいものばかりだ。

 ――これが胃袋をつかまれるって奴かもなぁ。

 なんて少し情けないことを考えつつも、テーブルの上のコーヒーカップを回収してキッチンへと向かった。

 カップやコーヒーメーカーのジャグを水に浸けてふと横を見ると、カレーが残っている寸胴鍋が目についた。

 ――これ、夏姫がほしいって言うから買ったんだよな。

 つい一年前にはなかったこの鍋は、僕と自分の分だけでなく、近藤や灯理の分の食事をつくるようになって、量がつくれるのがほしいと言う夏姫のために買ったもの。

 僕の家には調理器具は少なからずあったけど、両親は新婚の頃にしか使わず仕舞い込み、百合乃が生まれてからは少し使うようになって、いなくなった後はまた使わなくなっていた。

 焼くか茹でるかしかしない僕は、小さめのフライパンと鍋で充分だったが、夏姫が料理をつくるようになってからは仕舞い込んできたのを出してきたり、足りないものを買い集めたりしていた。

 そんなこんなでいまの僕の家には、独り暮らししてるとは思えないほど調理器具が充実している。

「……やっぱり、この一年でいろいろ変わったよな」

『うん、変わったよ。みんなもそうだけど、おにぃちゃんは凄く変わった』

「そんなにか?」

『うんっ。あたしはおにぃちゃんとずーーっと一緒にいたから、全部知ってるよ!』

 僕の肩に座ったアリシアの足をパタパタと動かしてるリーリエに、僕は小さくため息を吐いた。

 自分でも変わったことの自覚はあったけど、改めてキッチンを見たり、本当にずっと僕といてくれるリーリエに指摘されると、なんかずっしりときてしまった。

 一年前のようにひとりで居続けていたら、変わることはなかっただろう。その頃の僕は自分が変わってしまうことなんて想像もできなかったし、変わることを拒絶すらしていた。

 変わったことが、不快なわけじゃない。

 嬉しいと感じてる自分に戸惑ってしまうくらいだ。

 ――でもこのままってわけにはいかないんだよな。

 エリキシルバトルはまだ終わってない。

 いまは嬉しいと感じてる変化が、この後、悲しいとか寂しいと思うものになるかも知れない。

 僕にそれを受け止めることはできない。

 いや、エリキシルバトルがなくっても、自分も、夏姫たちも、時間をかけて変わっていくものなのだから、やれることをやりながら受け入れていくしかない。

「どうした? リーリエ」

『んー?』

 僕の肩からカレー鍋を覗き込んでるリーリエに気がついて、声をかけてみる。

『あたしも食べられたらいいのになぁ、って』

「……本当にな」

 リーリエもこの一年で変わった。

 仮想のものであっても一個の脳を持ち、成長していくリーリエは稼働開始から三年と経っていないわけで、変化していくのは当然。

 でも成長というのとは違う、予想もしないような変化をしてきたように感じる。

『あっ、らぁーいず!』

 肩から飛び降りながら、相変わらず舌っ足らずで、ちょっと間の抜けた声を出してアリシアを変身させたリーリエ。

『おっきくなっても、この身体じゃダメだねぇ』

 一二〇センチのエリキシルドールとなったアリシアは、ツインテールの髪が空色だとか、手が人間のそれのふた回り大きいとかはあるけど、瞳とか表情の感じは人間と遜色がない。

 けれど、食事はできない。

 見た目が人間に近くなっただけで、スフィアドールのときに備わっていなかった発声機能とか、食事を摂る機能がアライズによって手に入るわけじゃない。人間になれるわけじゃない。

 ――そもそも、リーリエは人工個性だしな。

 身体を持たない人工個性であるリーリエは、機能としては小脳なんかはそのままだけど、身体の感触とか、身体がなくては意味がない欲求――食欲とか――は抑えられていたり停止させている。

 ――でも、リーリエにはものを食べたいって欲求はあるんだろうか?

 空腹を感じ、何かを食べたいという意味での食欲はたぶんない。

 でも美味しいものが食べたいという形の、充足への欲求はあるのかも知れない、と思う。

 夏姫が高い位置にあるものを取るために置いてある踏み台に乗って、鍋を覗き込んでいるアリシア。

 そんな様子を見ながら、僕は思う。

 リーリエには百合乃の記憶はない。でも生活に必要な最低限の知識は引き継いでいた。

 だとしたら、身体はないから味覚はないけど、味に関する情報はあったりするんだろうか。疑似脳で、味を思い出すことはできるんだろうか。

「うぅーん」

『どうしたの? おにぃちゃん』

「いや、ちょっとね」

 考え込み始めて思わずうなり声を出してしまった僕に、リーリエはアリシアに不思議そうな表情を浮かべさせている。

 もし、食欲はなくても味に関する情報があるのだとしたら、疑似脳に作用するプログラムとかで、仮想的に味を感じさせたり、食事を摂ったりといった体験はさせられるだろうか。

 僕はそんなことを考えていた。

 ――ショージさんに折を見て相談してみるか。

 人工個性については、僕も僕なりに勉強はしてるけど、専門的すぎてまだぜんぜんどういうものなのかわかっていなかった。

 数少ない専門家のひとりであるショージさんに今度聞くことにして、カップを洗い終えた僕は新しいコーヒーを淹れる。

 コーヒーの入ったカップを右手に、リーリエがアライズを解いたアリシアを左手に持って二階に上がり、相変わらず薄暗い作業室に入った。

「あとふたりの参加者については、絞り込めたか?」

『おにぃちゃんの設定した要素だと、絞り込めないよー』

 愛用のフルメッシュの椅子に座り、スマートギアを被ってそう問うと、リーリエの不満そうな声が天井近くのスピーカーから降ってきた。

 猛臣からエリキシルバトルの参加者情報をもらって以来、リーリエには残りふたりの参加者の絞り込みを頼んでいた。

 すでにスフィアカップの出場者じゃないことはわかってるから、対象とするのはそれ以外のソーサラー。

 モルガーナに繋がっている可能性がある、つまりSR社周辺にいて、願いがありそうな人。そして、何より重要なのは、ピクシーバトル経験者であること。

 アリシアを充電台に座らせ、下ろしたスマートギアのディスプレイに表示した可能性のある人物リストは、僕も名前を知ってる人が多い。

 ピクシーバトル経験者を重視するのには理由がある。

 平泉夫人や、本人は認識してないようだけど夏姫、それから百合乃のような、隔絶した才能のある人物は少し事情が違ってきそうだけど、ピクシーバトルの強さで一番重要なのは、経験だと言っても過言じゃない。

 僕が灯理に勝てたのは、デュオソーサラーという特殊能力を、僕とリーリエというふたりで相手にしたのと同時に、経験の差があったからだ。

 最初からピクシードールを上手く動かせる人なんてまずいないし、バトルをさせるとなるとフルコントロールは当然のこと、セミコントロールでもかなりの熟練を必要とする。

 充分な熟練の先、スフィアカップ全国大会レベルの強さとなると、才能の差が強さの差にもなってくるけど、そこに至るまではバトルの回数が強さの差として機能する。

 残りふたりのエリキシルソーサラーが、これまで勝ち残ってきているのだとしたら、スフィアカップに出場していなくてもローカルバトルなんかで、いろんな人と戦ったことがある経験者であることはまず間違いがない。

 でもリストにある人物は、全員が全員、可能性が高いとは言えなかった。

 まだ影も見えていないひとりはともかく、双子を倒したソーサラーは経験に支えられた強さを持っている可能性が高い。

 でも、現在わかっているエリキシルソーサラー以外で、猛臣と戦って勝てそうな強さの人はいなかったし、可能性がある人物はどう考えてもモルガーナと接触がありそうになかった。

 ――夫人みたいな例もあるし、あいつの人脈はどれくらい広いかもわからないからなぁ。

 椅子の背に身体を預けて、僕はため息を吐く。

 スフィアカップ地方大会で準優勝はしてても、ソーサラー界隈ではほぼ名前を聞くことのない平泉夫人。

 しかし彼女は僕の知る範囲では最強のソーサラーだし、同じような例がないとは限らない。魔女の影響範囲だってつかめてるわけじゃない。

 でもそんなわからない要素ではエリキシルソーサラーを絞り込めるわけはなくて、僕の方法では発見できそうにない、という結論にしか至れなかった。

「終盤になれば、もう少しいろいろ見えてくると思ったんだけどなぁ。むしろ謎が増えてるよな」

 もうひとつため息を吐き出して、僕は頭を掻く。

 おそらく天堂翔機はあとふたりの参加者のことを知ってるはずだ。

 いまはまだ入院してるはずだし、モルガーナに殺されるなんて言われたら、聞き出そうとは思えない。

 でも、彼はガンで残りの時間が少ない。

「いよいよとなったら、それも手かな」

 代理で彼の入院に関して連絡があったとき、記載されていた病院の場所をスマートギアの中で開いた新しいウィンドウで確認しながら、僕は小さく息を吐いていた。

『嘘吐きと、秘密主義の人が多いんだよ、この戦いに関係してる人は』

「……どういう意味だ?」

『なんとなくそう思っただけーっ』

 適当なことを言うリーリエに微妙な気分になりながら、僕は思う。

 確かに、嘘吐きと秘密主義が多いと思う。これまでも、そしてこれからもそうだろう。

 ――この後、僕はいったいどんな奴と戦うことになるんだろうな。

 見えない敵の姿に、僕は不安な気持ちに駆られて顔を歪めていた。

 

 

 


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