○九樹宮九恵サイド
事件はその日の昼休みに起こった。
私が私の通う高校――
「たっ……、大変だ!
そう叫んで男子生徒が飛び込んできた。
運動系の部活をやっているのだろう。引き締まった体躯と、スポーツ刈りにしている頭。髪は黒。さわやか好青年といった感じの顔立ち。
ふむ、彼は私の記憶が確かなら、
彼は大声で続ける。
「しっ……、篠倉さんが屋上から飛び降りようと……!」
私はその言葉を聞いて即座に立ち上がった。
ここで私のことを誤解されても困るのだけれど、私は別に彼女の心配をしたわけではない。彼女とは別に友達というわけでもない。ただ、やはり自分の通う高校で飛び降り自殺なんてあったら、誰だって愉快には思わないだろう。それをしようとしているのがあの篠倉綾なのだから、なおのこと。
それに、これが一番重要なことなのだが、私には彼女に用がある。だからいま死なれては困る。昼食を終えたらコンタクトをとろうと考えていたくらいなのだから。
せめて放課後なら、おそらく止めはしなかったのに……。
そんなことを考えながら、私は全速力で屋上へと向かった。
◆ ◆ ◆
腰ほどまである長い髪を吹く風に遊ばせている私のクラスメイトの少女――篠倉綾はこちらに背を向け、手すりに両手をかけていた。
なるほど、確かにこれは自殺しようとしているように見えるだろう。
しかし私には
飛び降りまいと必死に抵抗している彼女の
そしてもうひとつ。彼女にとり憑いている『両の腕を持たない悪霊』の姿が。
だから私は、スカートのポケットから一枚の札を取り出し、
「――オン!」
その悪霊に思念を送る。
しかし……『完全憑依型』ではないものの、人間に憑依できるだけあって、なかなかに手ごわい。
しばし、せめぎ合いが続き――
――バリッ!!
ようやく引き剥がすことに成功した。
そのまま向かってこられたら少々マズいことになっていたのだが、悪霊は幸い、そのまま空の
視線を戻すと、意識を失ってその場に崩れ落ちている篠倉綾の姿。さて、記憶を失っているだろうから、どうやってフォローしたものか……。
しかし彼女、よくあんな悪霊に抵抗できていたものだ。普通、数秒で自分の意志を失うはずなのに。
まさかとは思うけど、この娘、一度悪霊に憑依されたことがあるんじゃ……。
まあ、それはどうでもいいか。とりあえず昼休みの間に話したいことがあるし、起こすとしよう。
私はしゃがみ込んで彼女の肩を軽く揺さぶった。
さて、どうやって『彼』のことを尋ねたものか……。
○式見蛍サイド
放課後。クラスを出ながら、僕は鈴音に話しかけた。
「あ、僕はスーパー寄っていくけど、鈴音はどうする?」
「あれ? 昨日買い物したんじゃなかったっけ?」
「したけど、大抵のものはマルツに食べられたんだよ……。アイツ、あそこまで大食いじゃなかったと思うんだけどなぁ」
そこでマルツをフォローするように口を開くユウ。
「マルツは『魔法力を多く消費したからだ』って言ってたよね」
「え? そうなの? じゃあサーラさんの場合も……?」
額に汗をかきながら鈴音。そのまま黙り込んでしまう。
「それでどうする? 鈴音」
「あ、うん。私は先に帰ることにするよ。りんとサーラさんが待ってるだろうしね」
「まあ、そうだよな」
あの二人なら人の言うことを聞かずに暴走することはないとは思うけど。マルツとは違って。……はぁ、同居人を交換してほしいなぁ、ユウとりん、マルツとサーラさん、といった具合に。いや、やましい考えは抜きにして。
ちょっと想像してみる。……うん、ユウとマルツがいるのに比べて、なんと平穏そうなことか。……ん? なんだろう。ユウはともかくとして、マルツが鈴音の家で暮らしているところを想像したら、妙にムッときたぞ。一体なんだっていうんだ?
「あ、ねえケイ」
黙り込んだ僕の袖を引っ張ってユウが校門のほうを指差す。考え込んでる間に校舎からは出たらしい。無意識に上履きから外履きに履き替えてもいるんだから、無意識下の行動ってけっこうすごい。
いや、それはともかく。
「誰だろうね? あの人」
「さあ、僕に訊かれてもな……」
校門の所には
年の頃は僕より少し上、といったところだろうか。大人びて見えるが、いくらなんでも二十歳にはなってないと思う。おそらく。
「――あれ? あの人は……」
「ん? また知ってる相手か? 鈴音。最近鈴音がらみの因縁、多くないか?」
「因縁って……。私もとっさに名前が出てこないのよ。どこかで見た覚えのある顔だとは思うんだけど……」
「知り合いに似てる、とか?」
「うん。印象としてはそんな感じ」
と、そこで金髪碧眼の少女はこちらの姿を認めたらしく、ツカツカという効果音がぴったり合いそうな歩調で歩いてくる。ここ、校内なのに無断で部外者が入ってもいいんだっけ……? まあ、ゆるーい学校だから問題ないか。あの外見のせいか、注目はすごく受けてるけど。
僕の前まで歩いてきて、彼女はようやく口を開いた。
「――見つけましたわ。あなたがわたくしの探していた『歪み』の源ですわね」
僕はその彼女の自己紹介もなにもない第一声に、しかし、絶句していた。
なんで、僕が『歪み』だって知っているのだろう……。
絶句している僕たち三人に構うことなく、彼女は続けてきた。
「初めまして。わたくしはスピカ・フィッツマイヤー。『歪み』の源を処理する者ですわ。以後、お見知りおきを」
その言葉に僕たちは、やはり絶句するしかなかった。『処理』の意味があまりにも簡単に推測できてしまったから――。
○九樹宮九恵サイド
篠倉綾から聞き出せたことは、どれもあの男――黒江のもたらした情報を裏づけるものばかりだった。彼の通う学校、よく行くスーパー、登下校の際に利用する駅。
ただ、彼の能力と、その望み、それと彼が『世界の歪みの中心』であることは彼女も知らなかったようで、まったく裏づけがとれなかった。
肝心なことのみ裏づけがとれずじまいで、私は苛立たしげな息をついた。これでは徒労とそう変わらない。
そんなことを思いつつ商店街を歩いていると、前から見知った男が歩いてきた。
黒いスーツに身を包む二十七、八歳の男性――黒江だった。
私が視線を向けると、黒江は
「やあ、お嬢さん。裏づけのほうはとれたかい?」
どうやらこちらの動きは読まれていたらしい。だからといって別に私に困ることなどないわけだけど。
「大体はね。肝心なところは分からずじまいだったけど」
「しかしお嬢さん、君はまだ私のことを信用していないようだね。本当に裏づけをしているんだから」
「信用されてると思っていたの?」
「さて、どうかな」
付き合いきれない。私が歩き出すと、彼は隣に並んで続けてきた。
「ところで《見えざる手》はどうだった? 手ごわかったかい?」
「《見えざる手》?」
頭の中で検索をかける。しかしそんな固有名詞はヒットしなかった。
それを見透かしたかのように口を開く黒江。
「今日の昼にお嬢さんが戦った『両の腕のない悪霊』のことだよ」
「なんでそのことを……!」
「私はなんでも知っているのさ。どうだい? これで私のことも信用する気になったかい?」
信用なんて、できるはずもなかった。この男は正直、恐ろしい。それでも、彼のもたらす『情報』は信用できそうではあった。
「時と場合によりけりね。それで、彼が『霊体物質化能力』という
「もちろん本当のことさ。まあ、私としてはお嬢さんの信じたいように信じてもらえれば、それで構わない」
つかみどころの無い返答だった。しかし私はそれを無視して、こう返す。
「もしそれが本当なら――私や九樹宮家は彼の敵に回ることになるわよ」
「九樹宮家はともかく、君は彼の敵にはならないさ」
「それはどうかしらね。確かに私は彼を積極的に排除しようとは思わない。でも危険と判断したら家に報告くらいはするわ」
「そうだな。確かにそうするかもしれない。けれどお嬢さん自身は彼の敵にはならない。絶対にね」
「なにを根拠にそう言うの?」
「さて。君の胸に訊いてみれば分かることじゃないかな?」
知った風なことを言う男だ。しかし、それが事実であることも、認めざるを得なかった。同時に悟る。いまになってようやく。この男は私の心を見透かしている、ということを。
「そうそう、もうしばらくしたら彼はいつも行っているスーパーに寄るんじゃないかな。彼にもう一度会いたかったら君も行ってみたらどうだい?」
肩をすくめてそう言うと、黒江はおそらく意図的に歩調をあげ、私の前に出る。そしてそのまま歩調は緩めずに、商店街の角を曲がって行った。
黒江の姿が完全に見えなくなると私は得体の知れないあの男の恐ろしさに、思わず身を震わせてしまった。
それから身を引き締めるため、背筋をピンと伸ばす。そしてわずかに胸の鼓動を高鳴らせ、ゆっくりとした歩調で彼がよく行くスーパーに向かって歩き始めた――。
○???サイド
これで私のシナリオ通り、式見蛍とお嬢さんは再び会うことになるだろう。
さて、フィッツマイヤー家の人間も彼と接触したようだし、私もこれまで以上に上手く立ち回っていかなければ。
そうそう、
それと予想外の存在、マルツ・デラードのことも、だ。
とにかく、すべての事柄が式見蛍の成長に繋がるようにシナリオを書いていかなければ――。