こうして俺の初めてとなる実戦が終了した。
辛くも危機を脱した俺達は森を抜ける為に歩いていた。
「いやー、全て白の言うとおりになったなー。私は今日本物の神算鬼謀という物を見た!いや、気絶してたから見てはいないんだけど……ともかくあんなに不利な状況を引っ繰り返すとはな!」
なんともホクホク顔で俺を褒めてくれるのだが、先ほどの戦闘は誤算ばかりで褒められた物じゃない。
凄まじい精度の気配察知で人員もきちんと把握し切れていたのに、誤算など持っての外と言える。
貰った恩恵を扱いきれていない事に唇を噛まずにはいられない。
とはいえ、売り込むべき相手に自分の卑下を晒しても仕方ないので、曖昧に受けつつ過大評価にならないように返しておこう。
「一か八かの不確かな場面が幾つかありました。今後の課題とします」
「そこまで危うい場面あったか?まあなんにしろ、お前はよくやってくれたよ」
「お褒めに与り光栄です」
「それにしても門兵だっけか?まだ裏切り者がいたとはなぁ、かなりの数処理したと思っていたんだが」
「表層の者は片付けられても、潜在的な裏切り者は始末しにくいものですから、仕方ありません」
「潜在的裏切り者?」
「不満を溜めている者や日和見主義者なんかですね。きっかけが起きなければ何も事を起こさない者達ですよ」
「ふむ、確かにそういう輩は問題が起きた後でしか処理できないな。私の足元もまだまだ磐石とは言い難い。
すぐさまで悪いのだが、またお前の智謀を借りねばならないな」
劉邦様はキメ顔で言ってきた。
「ええ、承りました。考えをまとめたいので少し黙考させていただきます」
「森を抜けるにも時間はかかる、ゆっくりと考えてくれて構わないぞ。一応森を抜ける前に声をかけよう」
「はい、お願いしますね」
時間はあるようなので、先ほどの作戦について反芻し、反省しよう。
作戦の概要と骨子について簡潔にまとめる。
概要とは、俺の持つギャップを最大限活用しようという事だった。
俺は細っこい美少女然とした外見をしているが、内に秘めた力は尋常ではない。水の入った大甕を軽々持ち上げる事が出来てしまう程だ。
その見た目からは想像もできない異常を利用して、不気味な状況、有り得ない事態を演出し、敵を怖気づかして撤退させよう!というのが作戦の肝だった。
作戦の実行項目は六つ。
1、走り回って敵の情報を集めつつ、俺と劉邦様が疲労困憊であり、俺の方は相当にどんくさいと思わせる。
2、走り回る中で適度に拓けた場所、血糊として使う小動物を探す。
3、拓けた場所で劉邦様が俺を殺す振りをして脇に挟んだ小動物を刺し殺す。
4、次いで劉邦様が自害するふりをする、そして俺が起き上がり、不気味な演出。
5、俺がチートスペックを発揮して数人を手に掛ける。
6、皆逃げ出せば最上、戦いとなった場合は俺に意識を集中させて、劉邦様から意識が逸れていれば大成功。
という流れである。
大まかには上手く行ったが、細かく見れば誤算、読みきれなかった部分が結構ある。
第1の誤算、血糊。
森の中だからそこら中に動物がいると思い込んでいた。だがあれだけの人がいて動物が逃げない筈がない訳で、さらに俺達が到着する前に盗賊の方も周囲を見て回っているだろう訳で。
兎をなんとか1匹確保できたのは正に行幸だった。
第2の誤算、敵の行動力。
敵が俺の思惑通りに持久戦を選択したから、油断が生まれたのかも知れない。
敵が劉邦様の自決前に動き出すとは思っていなかったのだ。
確かに生きていれば利用価値はある。だが何人何十人か道連れにされる可能性と、捕まえても自決する可能性を考慮するなら、命を惜しんで待つだろうと思ったのだ。
計画が大きくずれる前に、劉邦様が力ずくで悪い流れを断ち切ってくれたのは本当に助かった。しかも素晴らしい覇気も見せてくれたし、これはもう様付けで呼ぶのに是非は無い。
第3の誤算、俺の心。
これが最大の誤算である。
殺す覚悟とか上から目線で生意気言ってたが、殺される覚悟って奴は考えの外だったと気付かされた。
劉邦様が間近に迫った4人を殺し、その血風を浴びた瞬間、複雑な何かが這い上がってきた。
自分が呆然としている間に殺されていたかもしれないんだよな、俺が殺された時にやり直しが発生するのかは実はわからないんだよな、やり直せたとして再び過去を殺してしまうな、斬られると壮絶に痛いんだろうな、運悪く助かって捕らわれてたらどうなっていたんだ、等等等等。這い上がってきた感情が様々な言葉へと変換され、理解が及ぶ。
恐怖が、頭から背筋を通って全身を凍らせる。
だがとにかく演技を続けなければと、唇を強く噛んで恐怖を無理やり押し込み、凍える身体を叱咤してなんとか危機的状況を乗り切ったが……
未だ消化しきれぬ感情が胸の内を這いずり回っている。
この事態が落ち着き次第、正面から向き合わないといけない。
すごく、怖い。
第4の誤算、俺の体。
俺の予想を大幅に超えていた事に遅れて気付いたのが、誤算といえば誤算だ。
俺の傍には常に誰かいて、チートスペックの確認をしたいと思いつつも時間が取れなかった。
だがどうにか時間を捻出して確認が出来ていれば、劉邦様を守りつつ賊と戦うのは難しい!策を弄さねば!なんて無駄な右往左往をせずに済んだのだ。
死の恐怖が反転し、生への渇望によって完全にリミッターが外れた俺は最早なんというか、リアル無双状態?とでも言うべき逸脱を見せた。それなりの練度を見せた盗賊達の目すら置き去りにして動き、大の男五人の首を手応えを感じさせぬまま一閃し、適当に投げた石飛礫で人の頭を破裂させた。
とんだ化け物ぶりである。
ついでに惨劇の真っ只中での劉邦様について触れておくと、事の次第を見ていないしあまり憶えてもいないそうだ。
最後の演技の直前、大量の矢を切り払い、4人の胴体をぶった切り、覇気を乗せた咆哮を行った時に集中力と底力を使い果たし、疲労困憊になって意識を半ば飛ばしてしまったとの事。なんというか本当にすごいお人である。
その後は惨状の中で寝かせるのも……と思い、劉邦様の剣を回収した後、劉邦様の意識が戻る前に襲撃ポイント付近の森道まで移動させておいた。
だから劉邦様は俺が機転であの場を凌いだと勘違いしている。
うーん、勘違いは早めに正したいけど、言い募っても信じてくれないパターンだよね。
さて反省はここらで切り上げよう。下手に考えるとスパイラルってしまうしね。
とりあえずこれからやるべき事を考えなければ、
「木がまばらになってきた、もう少しで森を抜けるぞ」
ありゃりゃ、ちょっと反省に耽り過ぎたみたいだ。
俺は内から外に意識を切り替える。
と、100m程先の所で気配を感知。
「……この早さは馬か?」
「ん?どうした?」
「騎手ありで馬が一頭走ってきます。やってくる方角からして、盗賊の一味かと思われます」
盗賊達の中でも手練の集団が去っていった方角からやってきている事を考えると、奴らの仲間である可能性はかなり高いのだが、
「ふむ、しかし何故一人で来るんだ?」
「そこですよね。斥候というのが一番分かりやすい理由ですが……にしては無用心に近付き過ぎています」
俺達は森道脇に身を潜めて様子を窺う。
馬は森の手前で止まり、右往左往。どうやら森の中を窺っているようだ。
向こうから見えないよう慎重に顔を出し、相手の姿を見る。ふむ、腰にある立派な剣、盗賊で間違いないようだ。
「周囲にはあの一頭以外の気配はなさそうなので、踏み込んでくるならちゃっちゃと捕まえましょう」
「出来るならそうしたいが、私はまだ疲労が抜けきれてなくてだな」
「丁度良い機会です、貴方を抱いて馬を飛び降りた身体能力が紛い物ではなかった事、今ここで証明しましょう」
少し待っていると、騎兵は意を決したように森の中に入ってきた。
周囲を見回しながら、ゆっくりと歩を進めてくる。
「あっ、そういえば、馬ってどう静めればいんでしょう?」
「ん?そんなの適当に気を当ててやれば良いだろう?」
そんな訳ない、と言い切れないのがこの時代の英傑なんだよな……。
「それじゃあ騎手をどけた後の馬は劉邦様に任せますね」
「それぐらいならば任されよう」
「では」
足元に転がっている小さめの石を拾い上げる。
「三、二、一」
劉邦様にだけ聞こえるように小さく呟き、
「行きます」
敵が通り過ぎたタイミングで道を挟んだ向こう側の木に石を当てる。
ガコンと重い音が響いた瞬間、敵がそちらの方へ顔を向け、腰の剣を抜く為に綱を手放した。
木の陰から飛び出し、ジャンプ。
盗賊がようやくこちらの気配を察知して振り返ろうとするが、もう遅い。
体重を乗せただけのドロップキックが盗賊の肩口に吸い込まれ、その衝撃によって盗賊は落馬。
俺は蹴った反動を利用して空中でくるりと身を捻り、地面に着地する。
劉邦様は馬が暴れだす前に颯爽と馬の目前に立ち、覇気を当てて瞬時に馬の支配権を握ってしまった。
どちらもそこそこ人間業じゃない気がする。
俺は落馬して呻いて仰向きに倒れている盗賊にゆっくりと近付く。
警戒していたのだが、その必要が無い事に気付いた。男の両腕が折れ曲がっていたからだ。
やりすぎたかなぁとも思うのだが、出来る限り穏便に済ませた方だから許してくれ、とも思う。
もし手っ取り早いからと石を直接当てていたら……。
石を当てた木を見てみれば、木の中ほどに二十cm弱の歪な亀裂が生まれていた。
掌に収まるサイズの石を軽く投げただけであの威力。あれが身体のどこかしらに当たっていれば、確実に死んでるよね。
初撃に体重を乗せてぶつかるだけのドロップキック崩れを選択して本当に良かった。
「では尋問のお時間です」
いてぇいてぇよぉと悲痛な声を上げる男に、出来る限りの優しい声音で告げる。
男の顔色が青色から白色に変化した。
馬を従えて隣にやってきていた劉邦様も少し顔色を悪くした。
何故なのか?
「前提の確認と簡単な質問から始めましょう。
前提としまして、私の質問に素直に答えていただけると、希望と安息を差し上げます。嘘や沈黙はそちらの為にはならないとはっきり言っておきます。
では最初の質問、貴方がどういった役割を与えられているのかを教えてください」
淡々と言い切り、様子を窺う。
男は怯えた様に、
「どうか命だけは助けてください!何がどうしてこうなっているのかわかりませんが、ともかく謝りますから!どうか命だけは!!」
と言ってきた。見事な命乞いである。
「何がどうしてと言われましても、貴方のお仲間が私達を襲った責を取っていただきたいだけですよ。そしてその怪我は、貴方が上手く受身を取れなかっただけで、私達に責任はありませんよ?」
どさくさに紛れて怪我に対する責任放棄を宣言しておく。
「な、仲間?何の事です?お、俺はたまたまここを通りかかっただけで」
「嘘ですね。貴方、正規の兵でもないのに随分立派な山刀を所持していますね?そんな良い得物を持っていながら、賊が逃げた方向から無事にやってきている時点で関わりがないとは言わせませんよ」
「ぐっ、それは……」
「まあいいです、ともかく嘘をついた代償を払っていただきます」
言葉を遮り、一方的にまくし立てて何も言わせず、さっさと刑を執行する。
「ひっ」
男は身を捩る様にして何とか距離を取ろうとする。
「だけど初犯なので、警告だけにしましょう」
私は笑顔でそう言い、近くにあった拳より一回り大きな石を掴む。
そして適度に離れている木を指差し、男に対して再びにっこりと微笑む。
少し力を入れて投擲。
ギュンという音の直後、石の砕け散る音と木が折れる大音が響いた。
俺が指差していた立派に育っていた木は、完全に折れてしまっていた。
「次は貴方の胴体がああなりますので、ご注意を」
ゆっくりと手を伸ばして、木に比べて随分と細いそのお腹を、ぽんぽんと優しく触ってあげる。
男はがちがちと歯の根が合わないご様子。ついでに劉邦様の歯の根も合っていない様子。
武力の示威と美少女面のボディタッチ。飴と鞭作戦は完璧に決まったというのに、何故二人ともそんなに顔を白くして震えているのか?もしかして寒いのかな?ならちゃっちゃと終わらせる事を優先しよう。
「質問を繰り返します。貴方の役割はなんですか?」
「か、監視の為に、の、残されました」
「下手な敬語は要りませんよ。何故貴方はここまで来たのですか?状況を知らされていなかったのですか?」
「た、隊長に、監視するだけと言われた、けど、理由は知らされなくて、どうしても気になって」
「監視をする人間は貴方だけですか?」
「いや、もう一人いる。本道が見れる位置に待機してる」
「その人物がいる場所の詳細は?どうしてこちらに来なかったのですか?」
「東に、馬を走らせてすぐの場所だ、道からも見える距離だ。あいつは臆病だから、命令を破るのが怖い、隊長が取り乱していたのが怖いとついて来なかった。なあ、お願いだ、身体だけでも起こさせてくれ、この体勢は腕が痛いんだよぉ」
「……いいですよ。正直に話しているようですし、それぐらいは。ああ、一応言っておきますが、いらぬ事を仕出かせば」
「しねぇって、絶対にそんな事はしでかさねぇ!」
なんとも必死な懇願だったので、身体を起こして木にもたれ掛かるようにしてあげる。
そしてちょっと試したい事があったので、起こすついでに首の後ろのつぼを気を巡らして押してみる。
「おお、随分楽になった…………いやこれ、痛みが、小さくなってる?」
まじか。試しにやってみたってレベルの気によるツボ圧しだったんだが、実感できるほどに効果が現れるとは。
医術を調べた時に出てきた胡乱げな東洋医学の記事、気という物を見せてくれた劉邦様、ありがとう!
「正直者には希望と安息をと、最初に言ったではないですか」
当然の事です、とばかりににこりと微笑みかける。
盗賊は救いの女神に助けられた、という顔をしているが、これ明らかなマッチポンプです。
その後、男が情報を漏らす度に徐々に強くツボを圧して痛みを消してあげる。
そうすると彼は自身の知る事をすんなりと吐き出してくれた。
一味の構成員の数、目ぼしい人物の詳細、複数ある拠点の位置、襲撃スケジュール、賊同士の合言葉等々。非常に有益な情報をもたらしてくれた彼に感謝。
そろそろ聞く事も尽きてきたかな?と思ったとき、劉邦様が後ろで動く気配がした。
俺はそれを軽く手を振って抑える。これは最後まで、俺がやらなきゃいけない。
「団についてはこれぐらいですかね。ついで、貴方が何故盗賊になったのか、教えていただけますか?」
「白、それはっ」
俺を止めようと劉邦様が声をかける。
が、再び俺は手を軽く振る。
それを見て劉邦様は口を噤んでくれた。
「そんなの、普通の理由さ、どこにでもある普通のくそったれた理由よ」
男の口から出たのは怨嗟の言葉だった。
人から奪わないと生きていけないという地獄のような現実に対する、恨みの声だった。
腐りきった国や都市の上役に、奪われるばかりで立ち上がらない民に、こんな世の中に産み落とした両親に、恩を仇で返すしかない自分自身に、その憎悪は向けられていた。
自身の裡を吐き出した男は、涙を流していた。
その涙に込められた意味は分からない。
国や都市の役人連中に対する悔しさが蘇ったのか、振り返って思い知った自分の情けなさかにか、はたまた両親や故郷に対する郷愁か。
「そうでしたか、貴方の思い、受け取りました」
俺はしっかりと頷いて、にこりと微笑んだ。
男は俺の笑みを見て、目を瞑り、更に深い涙を流した。
俺はより一層強くツボ刺激し、痛覚どころか触覚さえ消し去る。
「では、おやすみなさい」
俺は忍ばせておいた包丁を取り出し、男の首の横、頚動脈を静かに一閃。
勢い良く血が噴き出すが、感覚を断っているから男は気付けない。
血の勢いは徐々に落ちていき、やがて血の流出は止まった。
彼を殺さないという選択肢はもとより無かった。
仲間のところに戻られても困るし、町や村に戻ろうにも盗賊は死罪確定という話だ。
彼には救いなど無かったのである。
脈を計り、完全に男が死んだ事を確認して、血が付かないように気を付けつつ男の死体を木の裏に運ぶ。
道から見えないかを今一度確認して、馬を引く劉邦様の所に向かう。
「……情報を引き出した手腕は見事の一言だが、殺す相手の感情に必要以上に触れるのは感心できない。そもそもお前が手を汚す必要など」
「いえ」
俺は劉邦様の言葉を遮る。
その先に続く優しい言葉を聞くわけにはいかない。
「劉邦様に仕えるならば私も為政者の一員です。であるならば彼らの現状と言うものも聞いておかなければいけませんでした。
そして何より、今の私には必要な事でしたから」
人を殺すという事実に冷静に正面から向き合う、それは理性と感情が揺れている今だからこそ出来る事だと思う。
今を逃せばきっと、惰弱な俺は人を手に掛けずとも何とかなると、先延ばしにしてしまうだろう。むしろ殺さない事は正しいんだと、考えを正当化させて凝り固まらせてしまう気がする。
人を殺さない。それは人として絶対的に正しい事だ。
けれど戦時にあって、そんな考え方をしていては、自身どころか周囲まで巻き込んで最悪の結果をもたらしかねない。
だから今の内に、手を汚す事を躊躇わないようにしなくてはいけない。
ああでも、覚悟はしていたつもりだけど、これは、
「慣れなきゃいけませんね」
お腹の中がぐるぐるする。
感情が、胃液が、爆発しそうなのを必死に抑え込んで、劉邦様に向き直る。
笑顔の一つでも浮かべて平静を装いたかったが、失敗する確信があったので、無表情に努める。
「……頭ごなしに言ってしまった。白が必要だったと言うならば、そうなんだろうな」
劉邦様はそんな様子の俺を静かに肯定してくれた。
そして頭に手を伸ばし、優しく撫でてくれる。
恐ろしく気恥ずかしいが、その手の温かさを嬉しく感じてしまい、
「すみません、もう少しだけ、そうしていてください」
色々な物を耐え切る事の出来なかった俺は、無様にも顔を俯かせ、劉邦様の温もりに縋ってしまうのだった。
「もう、大丈夫です」
「ん、そうか」
5分ほど沈黙の中で撫でられ続け、俺はどうにか落ち着く事が出来た。
「ありがとうございます」
非常に気恥ずかしいが、素直に感謝を伝える。
素直に感謝がいえないほど子供でもない。まあ顔は背けながらだけれども。
「感謝される事じゃない」
鷹揚に受け取ってもらえると思った感謝の言葉は、重たい口調で返された。
えっ、と驚き、顔を上げる。
劉邦様は唇を噛んで、眉間にしわを寄せ、目を潤ませていた。
悔しそうな、情けなさそうな、泣きそうな、そんな複雑な表情。
「すまない、本当にすまない」
おいおい、何故今度は劉邦様の方が泣きそうになってる訳?!
「あの、劉邦様?どうかされましたか?」
突然の出来事におろおろして原因を聞くしかない俺。
「いや、すまない、ちょっと反省する時間をくれ。そうだ、そろそろ移動しなくてはいけないだろ。馬も手に入れた事だし、沛県へ急ごう」
「……はい、わかりました」
原因は分からないが、劉邦様がそういうのなら従うしかない。
颯爽と馬に乗り、手を伸ばしてくれる劉邦様。その手をしっかりと掴み、引き上げてもらい、また抱きかかえられる。心なしか、襲撃前よりも強く抱きしめられてる気がする。
やはりなんだかおかしい。
「あの、劉邦様」
「ん?なんだ?」
何故か体重を少し掛けられ、密着されて、耳元で囁く様に尋ねられた。
素晴らしい肉感とか、甘い匂いとか、柔らかい声音に、頭がのぼせてしまい、疑問譜が解けてしまった。
「あの、まだ監視があるのかもしれないので、慎重に進みましょう」
当たり障りの無い事務会話でお茶を濁す。
とはいえ大事な事でもある。
「ああ、承知した」
そうして馬をゆっくりと歩かせる。
ぱかりぱかりと馬の歩く音と、心臓の音だけがする。
俺のだけじゃなく、未だ密着した劉邦様の心音も重なって聞こえる。
そのまま馬が森を抜ける直前まで、俺と劉邦様は心音だけをやり取りしていた。
未だ予断を許さない状況下にある筈なのに、あまりの心地よさに溺れてしまいそうだった。
小説を書くと忙しくなる、PCが壊れる。本当にあって慄きました。