今昔夢想   作:薬丸

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引き続き臥龍視点です。

これにて七話連続投稿終了です。


73.天意の証明

 数カ月の間、心と頭の休まる日は一日たりとて存在せず、夢か現かを彷徨うような有様で魏の対策を固め続けた。

 そうして今、あらゆる手を尽くし、今から二ヶ月程でやってくるだろう大決戦の準備の最中、雛里ちゃんの報告を受けた訳だ。

 

 頭を回転させ続けた甲斐があり、初動は多少遅れた程度でどうにか食い付けた。

 この時期に進軍してきた理由は分からないが、やるべき事はもはや一つ。

 今こそ決戦の時。

 ……

 寝不足のボケた頭で考える。

 今魏が攻めてくる理由は無い、それは確実だ。あらゆる軍師が魏が放つ一手としては大間違いの一戦だと断ずるだろう。

 けれども、一ヶ月から二ヶ月後を想定していた戦だけで見るならば、少しだがこちらの方が勝算が薄いのだ。

 とはいえ元よりこちらにとって百の内二十あった勝算が十二になったぐらいで、勝算が薄いのは変わらない。あちらからしたら誤差の範囲である。

 ……まさか僅かな差の為に?

 いや、それこそまさかか。たかが一戦の僅かな勝率の為に大局を捨てるなど、あの曹孟徳が選ぶ筈ないのだから。

 

 

 

 そうして決戦前当日、あらゆる準備が整い、赤壁にて己の数倍の軍勢を前にしている。

 

「ついに来ちゃったや」

 

 あまりの戦力差に身体が震えそうになる。けれど、幾重にも巡らせた策がこちらにはある。

 幾つかは早過ぎる開戦に間に合わなかったが、それでも十分だ。渡り合えはする。

 

「やっぱり、怖いな……けど」

 

 五十万を超える大軍勢、恐怖がない訳なかった。

 けれど私は歯を強く食いしばり、大親友との別れの光景を思い出す。

 

 数週間前、私は魏軍に潜り込みに向かう大親友の背を見送った。

 適任が私か彼女しかおらず、また軍学に特に秀でた彼女が最終的に選ばれた。

 小さい背にあまりに重い物を背負いながら、気丈に敵陣に向かっていった彼女。

 私を心配させないよう冗談を言いつつ、笑顔で向かっていった彼女。けれどその手は小さく震えていたのをしっかりと覚えている。

 ……絶対に生きて帰らせる。あの子を無事に平穏に帰すんだ。

 私は強く意志を持ち直し、本陣から指示を飛ばすのだった。

 

 

 

 そして幾ばくかの時が過ぎた。

 戦況は刻々と変化をしていく。

 まるで寄せては返す波のように、有利不利は振れている。

 敵の大軍勢に太刀打ちできているのは呉軍の水軍が強力である事、仕込んでいた策が上手く発動した事、直前に合わせた苦肉の策が嵌まり始めているからだった。

 

 だが数々の策が上手く発動しても、的確な対処によって最小限の被害に抑えられている。

 こうまで策が通るのに、少し崩れる程度の敵陣営の強固さが恐ろしい。

 少し崩れて揺らいだ程度ではすぐに持ち直され、また拮抗状態が作り出される。

 そうして今、徐々に不利に形勢が傾きだしている。

 敵が船に慣れだしている。たかだか数時間の実戦で、彼らはもう適応し始めているのだ。

 さすがは魏の精兵、敵ながら天晴と言わざるを得ない。

 

「けれどその慣れ、連環の計にてひっくり返る」

 

 発動の令は私に一任されている。

 既に各指示を出し終え、判断の多くを現場に委ね始めた私は、その時をじっと待ち続けていた。

 

「しかし、最善の可能性はほぼ潰えている」

 

 連環の計が最も効果を発するには波と風の相乗効果が必要だった。

 波だけじゃなく風でも船が揺れれば、連環による船の安定への依存は絶大なものになる。もし連環が外れた場合の落差はまさに天地がひっくり返るが如くだったろう。

 けれど今は風が凪いでいる状態だ。

 

「これが二ヶ月後であったのなら……」

 

 悔やんでも仕方ないが、それでも思ってしまう。

 敵を襲う数々の不運が私の想定を良い方向に大きく乱し、希望が見えてしまった現状だからこそ、私はそんな未熟を晒してしまう。

 

 もしもこれが二ヶ月後であったなら、風も私達の味方をしていた可能性が高い。

 地元の人間から聞き出し、また風土記にも記されていた情報が正しければ、長江の流れ、水温、気温、時間、地形、様々な要素が絡み合い、二ヶ月後のごく短い期間だけ大風が吹きやすい時期があるらしかった。

 

 けれど今はまだ時期が早過ぎるそうで、風が起る可能性は皆無だそうだ。

 勿論二ヶ月後だったからといって風が丁度良い頃合いに吹くとは限らない。

 このもしもという言葉には甘さしかないのだ。

 

 風が吹いたら作戦を発動させたら良いという甘えは許されず、私は次善の好機を見極めなければいけなかった。

 私は身を蝕む緊張と恐怖から歯を食いしばって耐え、じっと戦場を見つめ続ける。

 小康状態がしばし続いたが、ようやく苦肉の策が完全に成ったのを確認する。

 そして、

 

「今です!」

 

 私は魏を滅ぼす火を放った。

 

 

 風は起こらぬという想定の元、その分多くの燃料を用意した。

 火は燃え上がり、怒号と悲鳴が上がり、形勢は傾いた。

 が、やはり足りない。

 通常の作戦よりも燃料を多く用意したとはいえ、冬の直後であり、急な開戦に想定よりも量を確保出来なかった。

 火を巻き上げる風が無ければ今一歩届かない。

 形勢は傾いたが、このままでは持ち直される!

 

「えっ」

 

 背が小さく押された感覚、そして何かが私の頬に伝う汗を拭うようにして撫ぜていった。

 始まりはそんな小さな始まりだった。

 けれどそれを契機として、風が、大風が、戦場を蹂躙した。

 水軍を任せていた呉の兵はなんとか風をいなしているが、不慣れな魏軍はそうはいかない。

 彼らを繋ぎ止めていた連環は既に無く、船上では火が荒れ狂っている。

 船から振り落とされる者、火に巻かれる者、遁走する者、もはや魏軍の戦線は崩壊していた。

 

「やったっ!」

 

 有り得ない筈の風が吹いた事を喜ぶ。

 周囲に居た兵も多いに沸き立っている。この勝負、間違いなく蜀呉の勝利である。

 私は隣にいた桃香さまと抱き合って喜び合う。

 

「さすが朱里ちゃんだよねっ! 言ってた通り、風が吹いたよっ!」

 

 その言葉に我に返る。

 確かに冬が来る以前に、ここが戦場となる予測を立て、その予測を元に作戦を皆の前で披露した。

 今現状はまさしくその作戦通りに事が進んでいる。

 だがそれこそ有り得ぬ事態。話したそれはあくまで二ヶ月後の想定なのだから。

 不可能を覆し、作戦を成功させた原動力、それは何? 不条理な戦場を見渡し、答えを得ようとした私の目に少し違和感のあるものが映った。

 

「あっ」

 

 巻き上がる大火を受け、光り輝く白き衣に目が止まった。

 

「天の、御使い殿?」

 

 その存在を認識した瞬間、脳髄が震えた。

 天という荒唐無稽な答えに私は至ったのだ。

 

 そして今までの気持ち悪さの正体に気付いた瞬間、喜びが削ぎ堕ちた。そして恐怖と虚無感が心身を蝕み始める。

 心臓を締め上げるそれらに膝を抱えて泣き出しそうになるが、そんな事はしていられない。

 戦場は既に追撃戦に移行し始めている。

 私は喜びの声を上げる皆に新たな指示を矢継ぎ早に飛ばす。

 すると皆は張り切って了解の声を上げ、各所に飛んでいった。

 

 

 桃香さまに後の事を任せ、私は一人作戦本部である天幕に戻った。

 そして誰も居ないのを確認し、私はくたりと地面に座り込んだ。

 

「人の身で操れるのは人の行動まで。気候まで操るとなると、それはもはや神の領域。

 ……ええ、ここまで来ては認めてしまわざるを得ない。それが策と謀略によって軍を率いる軍師としてはただの敗北宣言だったとしても、知に生きる者だからこそ無知を認めぬ愚者となってはならない。

 誰も彼もが、ただ天の掌で転がされていただけだったんだ」

 

 違和感の始まりは定軍山。

 負けるはずのない場面がひっくり返されたあの戦い。

 それは人知を超えた何かが介在したからであり、先程起こった神風のような何かが起き、必殺の陣は破られたのだと仮定する。

 

 そしてあの戦いで得をしたのは誰なのかを考える。

 

 私達は実績を得たが、決定的な瞬間を逃した。

 

 ついで曹操。精兵こそ失ったが、大事な忠臣を二人失わずに済んだのだから利はあった。

 だが彼女が天に選ばれたのではないのは、今までの奇妙な敗戦と目の前の光景からして有り得ない。

 

 なら答えは一つ。

 天の御遣いを擁する呉である。

 呉の方が地も人も多く有してはいるが、魏の将を討った事はなく、魏に対しては小競り合いで敗戦が続いていた。

 そのような状況で私達が魏の柱石を討ったとしたらどうか。

 今のように対等と言いつつも結局は呉が主導している現状とは違い、完全に対等な立場となっていたのは間違いない。

 そして私達が呉と手を組んでからは、私達も天運を招来させたかのような勝利を掴み出した。

 

 常識という壁を排し、有り得ない事態を天に押し付けるという軍師として有るまじき行為こそが正しかったのだ。

 絶対のない戦場において要所で必ず勝つという不可能を可能にし、圧倒的不利を孫策さんという一人の英傑を人柱にする事で覆し、人にはどうしたって干渉できぬ自然現象を都合よく操る。

 こんなの、天にしか出来ない。

 

「天の御使いとは一体……いえ、これ以上の考えは天下二分の味方である呉の不信に繋がりかねない。だからこの考えはもうここで終わり。

 天下の傑物である曹孟徳はとんでもない存在とぎりぎりまで競い合っていた。それだけを胸に刻んで身と気を引き締めれば良い」

 

 此度の戦は制したが、まだまだ戦いは続く。

 追撃戦の内容は事前に詰めているし、後は各将軍が最善の判断をしてくれるだろう。

 しばらく指示が必要な事態は起こらないだろうから、今だけは気を抜いても……ああでも、一応最後に外を確認しておこう。

 

 

 そして天幕の外に出た私は、想像だにしない光景を見た。

 

「嘘……」

 

 燃える戦場を切り裂く一騎の影。

 黒馬を操り、橋で繋げた船から船へ、橋が無ければ飛び移り、行く手を阻む炎を鎌で切り払い、兵も壁もあらゆる障害を吹き飛ばし、それは本陣のすぐ近くまでやってきた。

 

 連環こそ繋がっていないが、本陣たる旗艦と最も近い大型船に降り立ったその存在は、少女だった。

 噂に伝え聞く可憐な絶世の容貌、包囲網の隙を見抜く戦術眼、超一流の武将でも可能か分からぬ芸当を難なくやってのける人物など、かの万能の英傑たる曹操だけだ。だから目の前に立つのは曹操、不倶戴天の敵である。と誰もが理解しているのに動けない。

 

 あまりにも見事な一騎駆けに、誰もが目を疑いつつも見惚れてしまったのだ。まるで物語の一幕を見ているかのよう。

 

 そして彼女が船の最後尾、私達と最も近い位置までやって来てようやく私達は動き出せた。

 

「親衛隊で前を固めよっ! あれは怪物である!」

 

 甘寧さんの鋭い声で皆の意識が切り替わり、本陣に残っていた兵が集結する。

 そしてあちらの船に乗り合わせていた守備隊が彼女を囲む。

 本陣に居たのは桃香さまと孫権さんと天の御遣い殿、そしてその守護を任された紫苑さんと甘寧さんだけだ。

 他の皆は追撃戦に出向いており、直ぐ様戻ってくるのは不可能だった。

 だがこことあちらはそこそこの距離があるし、あの船と繋がっている船からは続々と兵が集まり始めている。

 その隔たりに安心しそうになって、

 

「ふむ、邪魔ね」

 

 そう言って彼女は馬首を返し、船上をぐるりと回って、すぐに戻ってきた。

 彼女はその僅かな間に船と船を繋いでいた橋を崩し、船に残っていた兵を全て長江に叩き落としていた。

 あまりに自然体で戻ってきた彼女に、それがどれだけ異常な光景なのか分からなくなってしまいそうになる。

 彼女は自然体のまま、口を開いた。

 

「丁度良い。ここには三人の王と、裁定人が集っているな」

 

 桃香さまと孫権さん、そして天の御遣いを見て、彼女は言葉を続けた。

 

「私、魏王曹操は此度の戦、ひいては大陸の趨勢を担う戦いにおいて負けた事をここに認めよう。

 戦いは終結である」

 

 その言葉を聞いて、全ての音が止まった。

 

「故に、この場での無益な武力行使はやめておく事を勧める。

 まあ私の首が欲しいならご随意に。不可能でしょうけど、試したいというのならやってみるといい」

 

 挑発にも似た言葉を聞き、甘寧さんが弓兵部隊に合図を送った。

 途端に雨のごとく降る矢が曹操を襲う。数多の矢を前に彼女はやれやれといった表情をし、鎌をぐるりと振るった。それだけで矢の雨は彼女に一掠りもせずに落ちていった。

 

「無駄と分かって貰えたかしら。またやってもいいけれど、周囲に落とした貴方達の兵が、貴方達自身の矢に貫かれて終わるだけよ? というか、彼らを回収しなくて良いのかしら?」

 

 桃香さまがはっとしたように号令を出す。

 

「弓兵部隊は一切の攻撃を止めて! そして小舟を出して兵を救うのっ」

 

「ふっ、直ぐ様指示を出せなかったのは減点ね」

 

 彼女はくすりと嘲るように笑った。

 ことここに及んで、何たる余裕。

 その様に皆が気圧されて口を噤む中、私が一歩を踏み出して彼女と相対する。

 

「あら、貴方は確か、諸葛亮だったかしら? まさか軍師が前に出てくるとは思わなかったわ」

 

「……貴方が負けを認めに来たという言葉を、信じただけです。

 貴方がどうしようもなく負けたのだという事実を、ここで唯一人理解していますから」

 

「あれをただの偶然と受け入れるだけの愚物ばかりでなくて良かったわ。

 そう、私は負けた。貴方達にではなく、天に負けた」

 

 それを聞いて兵達が色めき立つ。

 多くの犠牲の果て、自分達の努力が実ったからこそこの決戦まで漕ぎ着け、そして強大な敵に勝利したと彼らは信じている。

 それは一側面としては正しいが、もう一つ上の視点から見ると、不条理の塊であったと理解できる。

 私は周囲を見渡し、皆の感情の色を見る。

 ……やはり私だけのようだ。桃香さまも孫権さんも天の御遣い殿も、顔を紅潮させて何かを言い募ろうとしている。

 しっかりとした教養を持っており、民と兵の上に立って多くの情報を得ている筈の彼女達ですら、分からなかったのだ。あるいは気付いていても信じたくないのか。

 

「私達はっ」

 

 桃香さまが反論をしようとしするが、私は彼女の袖を強く引く事でそれを遮る。

 何でっ! とその表情が訴えてくるが、私は強い意志を視線に込めて、頼み込む。

 彼女は眉間にしわを寄せ大きく口を開こうとしたが、しかし強く目を閉じ、一歩下がってくれた。

 主たる彼女の言葉を遮るのは苦しく、また主従の常識からも乖離しているが、ここで曹操と舌戦を交わすべきではないと判断する。

 余計な情報を漏らされたり、舌戦で打ち負かされたりすれば士気に多大な影響を与えてしまう。

 私は引いてくれた桃香さまに代わって一歩を踏み出し、彼女に答えた。

 

「それについてここで言及する気はありません、もはやここに至っては過程をどうのこうのと言及しても無意味です。結果も後の歴史が勝手に語ってくれるでしょう。

 ここで語るべきは戦いの過程でも結果でもなく、貴方が何故ここにやって来たのか、です」

 

「……憎くなる程に冷静ね、さすがは私を最も苦めた人物の一人か。

 二人の王たる覚悟を試したくはあったが、時間がないのもまた事実」

 

 この窮地にあって、敗戦後にあって、なお悠然とした様を見せる彼女。

 後背にある大炎も相まって、恐ろしくも神秘的に映る彼女。

 美しさ、強さ、気高さ、賢さ、全て噂に違わぬ万能の英傑に褒められた事実が、私の脳と背を震わせる。

 

「では早速語ろう。

 二人の王に言っておく事は三つ。

 一つは願い。我々は匈奴と親交を結んでいる、その国交を勝者たる貴方達に引き継いでもらいたい。その旨は既にあちらへ届いているから、後は貴方達次第。とはいえ四百年の因縁を乗り越えた交わりである、無碍にする事はしないで欲しい」

 

「なっ」

 

 彼女の声の届く範囲の全ての人間が、あまりの驚きに声を漏らした。

 しかしその驚きを意に介さず、彼女は続ける。

 

「二つは教え。我らの叡智を我が城の書庫に詰め込んでおいた。

 そこの天の御遣いがもたらした恩恵を超える知識と規模である事は実証済みである。まあ信用できないでしょうから、文官と吟味しながら有効活用しなさい」

 

 それもまた驚きである。

 呉は彼の持つ天の知識で市井の治安維持、商業全般、各種法制度、教育等、ありとあらゆる分野に大きな変革をもたらした。勿論曹操がそれを知らぬはずがないだろう、かの国の情報収集能力は群を抜く。

 なのにそれ以上の叡智と言い切るの?

 幼い頃から知を学び、今ではそれを生業としている程に知というものが好きだ。知的好奇心は人の二倍も三倍も旺盛な私が、そんな事を言われて反応しない訳がない。もはや本能に根付いていると言っても過言ではない知的探究心が、とても強く疼くのを感じる。

 

「三つは脅し。もし人道、天道に悖る行いをしたのなら、私は直ぐ様この地に舞い戻り、全てを頂くわよ」

 

 紅蓮を背景とし、艶然と笑いながら私達を見下ろすようにして彼女はそう言った。

 知的好奇心を疼かせていた私は冷水を浴びたように心根から全てが震えた。

 桃香さまや孫権さんを見るに、それは覚悟を試した発言と感じたようで、毅然とした表情と目で曹操を見つめ返していた。

 

 けれど違うのだ。

 あれは真意から出た発言であり、私達にとっては本当に脅しなのだ。

 私達が驕り、民意と神意を失った状態で彼女と相対した時、私達は絶対に勝てないと確信できる。その二つだけが曹操に勝てていた部分であり、その二つだけで勝ったようなものなのだから。

 

 私は気を引き締める。

 その心情を読み取られたのだろう、曹操は私にだけ微笑みかけた。

 そして、

 

「最後に、孫権」

 

「……なんだ?」

 

「孫策の事は私の本意ではないとはいえ、部下をまとめきれなかった私の責任である。

 改めて謝罪する。すまない」

 

「……我ら孫呉の民は未だ罪を許さず、憎しみの火はこの戦場の火を持ってしてでもまだ足りぬと憤っている。

 だが、あの姉様の結末が、過去から追ってきた我らの罰であると、少なくとも私は理解している。

 ……これで最後だと言うなら、私からも一つ良いか?」

 

「なんなりと」

 

「最後、貴方は我が姉と話していたな。あの時、何を話していたのだ?」

 

「互いの手で殺し合えなかった無念を話し、最期は自分の家族自慢よ。

 私の愛おしい家族達が後は全部やってくれるから、先に休んでるってね。

 そこには悔しさもなく、ただ誇らしさだけがあったわ」

 

「……そう、そうね。とても、姉様らしい最期だわ」

 

 孫権さんはそう言って剣の柄をぎゅっと握った。

 

「さて、言いたいことも全て伝えたし、そろそろこの舞台から退場しようか。

 再び相見える機会が訪れないことを祈っているわ。

 では、さらばっ!」

 

 彼女は見事な手綱捌きで馬の踵を返し、背を見せると同時に走り出した。私達が反応しようとした時にはそのまま船外へと飛んでいた。

 唐突で突飛な行動に驚き、意識に一瞬の空白が生まれた。はっとして船ばたに走り、彼女の姿を追えば、彼女は水面に立っていた。

 いや違う。

 そこには闇夜に紛れる黒の迷彩が施された、見た事もない特殊な形をした中型船が用意されており、そこに彼女は見事に着地をしていたのだ。

 

「回収完了なの!」

 

「よっしゃ、後は華麗に去るだけやっ! 皆必死で漕ぎまくれぇ!」

 

「全力全開だぁっ!」

 

 気合の入った声と共に船に取り付けられた車輪のようなものが回り出し、とんでもない速度で船は離脱していく。

 驚愕しつつもあれを追いかけられる手段を模索している内に、夜闇と混乱に紛れて彼女の姿は完全に見えなくなってしまった。

 

 その事に人知れず胸を撫で下ろす。

 今の人員では彼女を捕縛する事も殺す事も多大な犠牲をもってでしか実現できる気がせず、どう決着をつけようか思案していたのだ。

 多くの兵は逃した事に口惜しさを感じているようだが、これで良かったのだという確信が私の中にはある。

 技量などを見抜く目は持ち合わせていないが、彼女がなんの臆面も無く此処に姿を表した事から推察できる。

 

「えっと、私達、勝ったんだよね?」

 

「だろう。敗北宣言は受け取ったし、眼前の光景からしても間違いない」

 

 桃香さまと孫権さんの言う通りの筈だ。だが曹操の態度と去り際があまりに格好良く、あちらが負けたのだと思えない。

 

「勝った事に間違いはありません。ですからここは勝鬨をあげましょう」

 

 そうして勢いでこの変な雰囲気を誤魔化すしかない。

 

「お、おぉ〜」

 

 桃香さまが首を傾げながらも握り拳を天に掲げて声を上げる。

 周りも彼女に倣い拳と声を上げる。

 すると何も知らぬ遠くの仲間から呼応するように勝鬨が上がり始めた。

 ここに来てようやく奇妙な雰囲気も晴れ、声に張りと喜びの感情が入り始めた。

 

 ふぅ、なんとか士気を崩さずに済んだ。

 全く、覇王様には最後の最後まで煮え湯を飲まされる。




改めまして、長く更新できず申し訳ありませんでした。

次回の『そして彼女は負けるのだった』で魏編は終了となります。
次回話はそう掛からずに上げると思いますので、よろしければお暇な時に読んでやってください。

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