皆が楽しく歓談する様を微笑ましく眺めていると、遠くに気配を感じた。
少し感覚を強化して探ってみる。
「孟ちゃん早くっ! 白の料理が無くなってまうっ」
「霞っ、華琳さまをそう急かすな!」
「華琳さまは出陣前の最終確認と調整で方々を巡られてお疲れなのだ」
「霞、そう急がなくても時間もまだあるのだから、なんなら新しく作ってもらえばいいじゃない」
「ちゃうねん、今回は熟成料理ってのに初挑戦したらしくてな、長い期間下準備しなあかんけどこれがもう旨味の最高潮とかなんとか聞かされとって」
「それをっ、何故っ、早く言わないのかっ! 白が初挑戦した料理? なにそれ、それってつまりこの世の誰もまだ食した事のない料理って事でしょう? ならそれをまず一番に食べるべきは私でしょうっ?!」
「いや、白から口止めされとって。あいつに知らせると仕事を投げて来かねないから、とかなんとか」
「ぐっ、否定できない。ええい、春蘭秋蘭! 急ぐわよ!」
「「はっ」」
俺の研ぎ澄まされた聴覚がそんな遠くのやり取りを聞き取った。
そして恐ろしい速さで食堂に接近する気配が四つ、そして入口から約二十歩程の距離で速度を緩め、彼女達はゆっくりと食堂の戸口をくぐってきた。
「あら、皆勢揃いのようね」
息を切らした様子も見せず、華琳は食堂内を見渡し、そう言って艶やかに微笑んだ。
うん、勢揃いだと言って皆を見たように思えるが、少し視線がずれていた。実際は料理を見渡していたに違いない。
けれどそれに突っ込むのは無粋だろう。
「ああ、華琳も来てくれたのか。忙しいだろうから来れないものだと思ってたから、嬉しいよ」
さも今気付いたと言わんばかりの言葉を投げかけ、歓迎を表す。
「貴方からのお誘いだもの、来るわよ」
「来てやったのだから、美味い料理を要求する」
「姉者、その言い様はさすがに突っ慳貪過ぎる。
だがまあ私達も昼食を慌ただしく食べてからは飲み物以外口にしていなくてな。
出来れば極上の物を最初に腹へ迎えたくはある」
特製熟成料理へ至る完璧な連携だった。
うーん、これはさすがに例のあれを取り出さざるをえない。
ローストビーフ、熟成牛肉のお寿司、レアステーキ等を用意した。
そう、この時代では再現できないと思っていた牛肉の半生食である。
俺が今まで行ってきた私塾での畜産授業の成果が実った瞬間でもある。
この時代の肉は正直言ってあまり美味しくない。勿論食材としては最上の素材ではあるが、俺の舌からしたら不出来に過ぎる。
野生の肉は正しく血抜き等の下処理さえ出来ていればそこそこ美味しいのだが、畜産の物は未だ発展途上なのである。ただ死なないようにするのが精一杯で、飼料や育成法は試行錯誤する余裕が無いのが現状だ。
だがごく一部の例外がある、それは畜産の道に進んだ我が生徒達の牧場だ。
彼らは彼らで試行錯誤を繰り返し、そして俺が私塾を起こす度に育て上げた家畜を預けていたから、いつの間にか寄生虫の排除や掛け合わせの厳選やあらゆる研究が何百年単位で進んでいた訳である。
しかしそれらは表に出ることはなかった。皇家や極々一部の豪族や商人に囲い込まれ、独占されてきたのだ。
だが華琳が支配領域を増やしたことで、一部牧場が解放された。
俺は喜々として彼らと手紙のやり取りをし、様々な事を試してもらい、更に肉質を極化させていった。
赤身の方は割りと早いお目見えをして華琳からも高評価を頂いたのだが、霜降りについては良い肉質のものが見当たらずに、今日の今日まで披露できなかったのだ。
華琳も脂の旨味に関しては半信半疑で興味が薄く、今まで忘れていたようだ。
まあそれも仕方ない、赤身肉を披露してから一年ほど間が空いてしまった。
だがついに先日納得の行くものが育ったと連絡があり、送られてきた。
解体し、調理をしてみたが、日本で食べた一般的な牛肉レベルに至ったと確信できた。
さすがにブランド和牛程のものは後数十年以上掛けなければ届かないが、十分だ。
今回は脂に慣れない者も多いと思うので、旨味成分が増すよう熟成料理に挑んでみた。
一番食べてもらいたい人も来た事だし、そろそろ皆にお披露目しようじゃないか。
既に下準備は終わっているので、簡単に調理をすれば直ぐに完成する。
「白様、これ、本当に食べれるんですか? まだ半分は生ですよ?」
出来上がった料理に華琳に次いで最も食材、料理に精通している流琉が不安げな表情をした。すると物珍しさから覗き込んでいた皆が顔を顰める。
まあ生食なんてよっぽどの窮地じゃないと食べないだろう。
「これは生で食べても大丈夫な肉なんだ」
「白殿、この赤身の間に走るキメの細かい白いのはなんなのです?」
「脂だよ」
「脂ですか? うぅ、ならそっちは遠慮するのですよ……」
風が何か嫌なことを思い出したのか、そんな事を言い出した。
少し勿体無いとも思うが、脂はそもそも食べ慣れないと戻す可能性があるので無理には勧めない。
皆が逃げ腰になる中、華琳だけは目の前に出された料理をしっかりと見つめている。
「白、これは食べられるのよね?」
「ああ、勿論だ。とはいえ、これに限ってだけどな」
「なら頂きましょう」
「華琳さま、明日は大事な出陣の」
「白が大丈夫というのなら大丈夫なのよ」
そう言って彼女は赤身のローストビーフをぱくりと食べてしまった。
そうして数度咀嚼して、彼女は蕩けたような笑みを浮かべた。
「未知の味、未知の食感、未知の熱ね。以前食べた物はただ焼いたのみだったけれど、こっちの料理の方がより肉の甘みというのを感じたわ。
調味料を入れずとも、肉とはこれ程までに美味な物だったのね」
華琳はそう言って水を口にし、矢継ぎ早に次の料理を口に運ぶ。
一口一口しっかりと味を確かめ、違う料理を食べる時は熱めのお茶で口の中をリセットし、勢いを衰えさせること無く赤身を平らげた彼女は、そのまま霜降りに手を出した。
口に入れた瞬間、彼女の動きがぴたりと止まる。
「肉が解けていく?」
ゆっくりと十数度咀嚼して、彼女は目を閉じた。本当に上質な物なら一口サイズで十回も噛まなくても良いのだけど、そこまで行くのはまだ待って欲しい。
とはいえ彼女の驚愕の表情を見る事は叶ったので、十分な物を作ることは出来たのだろう。
「飲み込んでいないのに、口の中に美味だけを残して消えてしまった。これは本当に肉なの?」
そう不思議そうに首を傾げる姿がすごく愛くるしい。その姿に春蘭、秋蘭、桂花、凛が涎を垂らし、その言葉にその他は涎を垂らした。
そうして肉食女子達の宴が始まってから一時間後、食堂には死屍累々の惨状が広がっていた。
原因を作ったのは季衣だった。
脂質は食べ慣れていないと喉に絡みつく感覚が不快だ、しかも水を飲むだけでは流れにくいと来ている。流すには熱い飲み物が最適だが、皆同じ感覚なので用意していた熱い飲み物はすぐになくなってしまった。
丁度欲しくなったタイミングでお湯を沸かし始めた俺の姿を見て、季衣は周囲を見渡し思案した。
場に出ているのは水や華琳が飲んでいる赤ワインのような酒類だけ、他は全部飲まれてしまった。水は脂が流れにくく、酒は酔ってしまうと料理の味が不鮮明になってしまう。
なので出来れば果実や乳系の脂を押し流せそうな味のついた飲み物が欲しい。
確か暗室に飲み物が置かれていた筈だ、取りに行こう。
そう季衣は考えたに違いない。
俺は肉の試食を繰り返していたので既にこの身体でも脂に慣れてしまっており、脂の厄介さを失念していた。なので季衣は単純に冷えた水を取りに行ったのだと思い、目の前の料理と薬缶に意識を集中するため放置してしまった。
季衣は調理場の暗室に入っていき、数種類の液体を発見する。
水、果物の匂い、酒の匂い、乳の匂い、調味料の匂い。
まあ選ぶのは果実と乳の匂いのする飲み物だ。
乳の匂いのするものにはそこそこ強めなアルコールの匂いがする、果実の方は微かに…しかしこれは熟しているからこういう匂いの可能性もある。
そこまで考えて季衣はもう面倒になった。久々に満ち足りた腹に血が行き、頭がぼーっとしていたからそれ以上考えるのをやめた。
そして美味しそうで危険も少なそうな果実酒を食堂に持ち帰り、放出した。
飲みやすく、またアルコールを感じさせないそれに皆飛びついた。俺が新しい料理を作り、湯を沸かし終わって戻った時には半数が呑まれていた。
何故だろう、皆とのお別れには絶対に酒が絡んでしまう。
今回の酒は牛肉に合わせた赤ワイン以外、暗室の奥に隠しておいたのに。
本当ならあれらも移動させておきたかったのだ。
だが華琳と俺の共同制作品であるあれらを俺の独断で勝手に移動させる訳にはいかず、奥に仕舞って隠すほか無かった。
それをあの子は天性の嗅覚で的確に探しだし、生来のうっかりで間違えた。
……
まあしめやかな終わりも悪くないがこの展開も嫌いじゃないし、こういうのが俺の本質らしくて良いのかもしれない、という事で。
それから飲んでくっちゃべってして時間が経ち、残ったのは遅れてやってきた華琳、春蘭、秋蘭、霞だけになってしまった。
しかし華琳を除いた三人はへべれけの酔いどれになってしまっており、半分正気を失っていた。
この三人は酒で判断を鈍らせる事の出来ない華琳に代わり、確認や鼓舞のために行った先々で振る舞われる酒を飲んでおり、既に結構な量の飲酒をしていたのだ。
彼女らがいかな酒豪といえど、ちゃんぽんをすればそりゃ悪酔いもする。
吐くまではいかないが、それでもタガが外れかけている三人からお酒を取り上げ、水を飲ませる。
ぶーぶー文句を垂れるが、しばらくすると三人は互いに寄りかかって眠ってしまった。
そうして華琳と二人きりの静かな夜になった。
字面は良いが、そこは酒臭い死屍累々が転がる食堂であり、優雅さの欠片もない。
けれど、
「けれど、それが良い」
俺が心中で続けようとした言葉を、華琳が言った。
「大人になってもこうして馬鹿をやれる、酔って弱っている様を見せても良いと思える、潰れても後を任せられる人がいる。
とても素敵な事よね、そんな仲間がいるって。
だから私は孤独では無かった。優秀で温かい彼女達に支えられ、私の先を行っている筈の貴方が隣りにいる。
積み上げた結果の全てがここにある。だからこれが良い、これこそ我が最上」
彼女は儚げな微笑みを湛え、そう心情を吐露した。
幼き見た目の少女が、その外見相応の弱さを見せた事に、胸を激しく締め付けられる。
胸の苦しみは後悔からだろうか、哀れみからだろうか。彼女が最も向けられたくないだろう感情の正体を見つけそうになってしまうその直前、
「……らしくない事を言ったわ」
しかし儚げな微笑みはすぐさま消え、凛々しく引き締まった何時もの表情に戻る。
そして、
「これが最上なんて満足するのは私らしくない。だから今度の戦いも勝って、更に上を行くわよ」
傲岸不遜にそう言ってのける華琳。
一人で何でも出来てしまうからこそ、支えてあげたくなる我らが主君がそこに居た。
「付いてきなさいよ、白」
「仰せのままに、我が君」