皆が魏との戦の準備に奔走している頃、俺はというと、
「行くんですか?」
「んーそうだなー、旧友の墓参りでも行こうかなぁ、とか」
「彼女達が心配なのですか?」
「……そりゃあな、とはいえ心配だけじゃないんだ、俺の教え子が実戦で何処までやるのか、二百年ぶりに見てみたいと思ってな」
「そうですか、別に行くこと自体を咎めはしません。ただ」
「分かってる、戦闘には参加しない、治療も控える」
「正直、患者を前にした貴方が我慢出来るとは思えないのですが?」
「確かに患者を目の前にすると自制できるか分からんが。んーじゃああれだ、秘密裏に行く。それで前日に出来るだけ遠い場所に移動して戦場を観察するってのはどうだ?」
「……本当に戦場には関わりませんか?」
「勿論」
「そうですか、なら私も付いて行って構いませんよね?」
「ん、良いのか? 逆に助かるぐらいなんだけど。割と真面目な話、曹操とのいざこざがあってから、向こう方面の薬が切れかかってるんだわ。襄陽周辺なら色々と手に入る物も多いだろうし、行っときたいんだよ」
「そっちの理由の方が旧友のお墓参りよりもよっぽど受け入れ易いと思います」
「まあそっちも嘘じゃないんだけどな。そんじゃあ皆に先んじて、こっそりと襄陽に行きますか」
こんな感じで管輅との二人旅が決まったのだった。
俺と管輅は急ぎ襄陽へ向かった。
二人旅は慣れたもので、かなり良い速度を保ったまま旅路は進み、僅か二十日弱で襄陽に着いた。
着いたのは良かったが、襄陽は死んだように静かだった。人は建物から一切出てこず、全ての商店が店仕舞いをしてしまっていた。
まあそりゃそうだ。すぐ近くで大軍が展開していて、大決戦が行われるのは間違いない。襄陽は戦時下であるのに、薬の買い付けをしようなどとは浅はかに過ぎた。
曹操軍も薬を買い付けか徴収かしているだろうし、全く馬鹿だったよ。
なので俺達は慌てて南陽へ向かった。
あそこからも徴用はあっただろうが、都が近く交易が盛んで、今もまだ戦争ビジネスに湧いているだろうから、今から行っても何かあるだろう。
そして急いで五日を駆け、南陽についてからは目ぼしい物を漁りに漁り、五日で舞い戻れば、呉から砂埃が見えるのだった。
マジか、なんていう進軍速度だよ、どんなに急いでも後十日はかかると思ってたんだが……甘く見ていたようだ。
何はともあれ、急いで戻ってきてよかった。
そして俺は二人の総大将の宣誓を聞き、その酔狂に笑ってしまった。
理屈は分かる。
曹魏軍は表面張力に達するレベルで増えに増えた、必要にかられての事だったが、その数をまとめるには戦争と戦功しか無い。
戦の強さは影響力の強さだ。そして戦の噂が印象的であればあるほど国民は安心し、あらゆる流れが活性化する。賊も発生しにくくなり、周辺への睨みも利かせられる。
現二番手である呉との戦闘は早期決戦にて長引かせたくない。揚州交州はまだ発展途上であるが、冬でも食料が供給できると既に証明しているので、その可能性に恐ろしさを感じている訳だ。
曹魏は孫呉に表立っての大きな借りがある。故に裏の意図などをチラつかせて挑発し、領地に踏み入らせる。攻められたという口実を得、その上正々堂々と応対する事でその借りを消したかった。
もし来ないなら蜀に踏み入って攻略し、外交圧力からの属国化となる等の手段で統一をしていただろう。だけどあの覇王様は呉も完膚なきまでに下し、歴史的な完全勝利を目指した訳だ。
しかしすごいな、曹操という女傑は。
自軍八十万とはいえ先頭に立てばその威容は見えない、そして目の前には敵軍二十万が迫る。そんな極限の状況で、勝利の先を見て行動している。
只人であるなら、いや如何な傑物であったとしても目先の戦闘に拘泥してしまう。勝てるなら安全に勝ちたいというのはごく普通の欲求だ。だが常識を捨て、休息を取らせた事で五万の兵の損害が増えたとして、後に続く十年の損害と比べれば些事だと割りきったのだ。
前線に立つ将でありながら、王であり続けている。その有り様は遠い昔の覇王を思い出す、それだけで曹操がどれだけの怪物か分かろうものだ。
総大将の言葉を聞いた後、俺は荷物をまとめて観察ポイントに移動しようとしたのだが、ふと孫策から孫堅の墓の位置を聞いていたのを思い出した。
先日は南陽へ急行したから行けていなかったから、何か酒でも買って土産話でもしてやろうと思い立った。
管輅には先に観察ポイントへ行くように言い、俺は襄陽に戻って医者はいらんかねーと馬を連れて歩きまわった。二件ほど風邪の治療を行い、家族にも整体なんかを施して、対価としてそれぞれ一人分の酒と月餅なんかを頂戴した。
町中を行ったり来たりしていたので、気付けばもう日が暮れそうになっていた。
こうしちゃおれんと急いで孫堅の墓に向かう。
聞いていた場所をなんとか探し出し、それらしい物の前で酒と飯をお供えして手を合わせる。
「これが好物かも分からんが、何もないのは寂しいと思って持ってきたよ。だが、持ってきた話は極上だ、それで満足してくれよ」
そうして俺は孫堅との別れからを滔々と語り出すのだった。
気付けば完全に陽が沈み、満面の星空が広がっていた。
あちゃー話しすぎた、管輅に冷たい目を向けられて静かーに延々と説教されるなこりゃ。
などと考えていると、人の気配が近付いてきているのに遅れて気付いた。
あちらもこちらの気配を察したようで、瞬時に気配を殺されしまい、気配での判別がつかなかった。
その判断と行動の早さから雪蓮や明命辺りが思い浮かぶが、曹操側の手練細作という可能性はある。
んーどうしようか、と悩んでいると件の人物が飛び出してきた。
「えっ、先生?」
良かった、雪蓮だった。
「ん、なんだ、誰か隠れてるなーと思ったら雪蓮だったのか、お前も墓参りに来たのか?」
気楽に答えると、孫策はないわーといった感じでうなだれ、
「なんかすっごい気が抜けた、良い意味でも悪い意味でも。はぁ、先生はここで何しているの?」
「北で採れる薬が切れかけてたからな、買い付けだよ買い付け」
「それだけ?心配してきてくれたんじゃないんだ」
「建前はそう言っておかないとな。まあ我が教え子の勇姿を見に来たってのが本当の所だ」
「……正直負け戦よ?」
「俺は上手な負け方も教えた筈だ、忘れたか?」
「ちゃんと覚えてるわよ。……ねえ先生、先生が参加してくれたら」
「それはどうしたって駄目なんだよ。薄情だと思うだろうが、俺は以前他の皆に話したように世俗に関われない。だから後ろから見る事しか出来ないんだよ。
というかだ、何か今日は随分としおらしいな、全くもってらしくないぞ」
「私が弱気になるのはおかしい?」
「おかしくない、たかが二十年ちょっと生きただけの小娘が重圧で負けそうになるなんて当然の事だ」
「ありゃりゃ、私の内面ばればれね」
「けどお前は、前に進む術を知っている、前に進む為の強さを備えている、前に進まなきゃいけない理由を持っている。だから俺はお前に
対して、何の心配も抱いてないよ」
「……本当に、私の内面ばればれね。あはは、そうよね、そうなのよね。少し考えれば幾らでも負けられない理由が思い浮かぶし、そもそも負ける理由が思い浮かばないわ」
雪蓮の目が、死んだ目から次第に強い光を宿した目に変化していく。その変容はかつて出会ったばかりの頃のよう。
「先生、私は強いのよね。項羽や光武帝の次ぐらいに」
「ああ、間違いなくお前は強者だよ」
「なら負けない。いえ、勝つわ」
「おうともさ、勝ち戦を見せてくれ」
「ええ、それじゃあ母にも勝利を約束しておこうかしら」
そして雪蓮は墓の前で手を合わせ、目を閉じた。
留まるのは無粋だと思い、立ち去ろうとした所で気配を感じた。
今回は気を抜いていなかったので詳細に察知する事が出来た。
恐らく二十ぐらい、明らかな敵意を感じる。雪蓮がここに来ていると知っての蛮行か。
となるとこれは総攻撃の前触れかもしれん、早く雪蓮に伝えて本陣に戻ってもらわなければ。
そう思って雪蓮に声をかけようとした所で、身体が動かず、声も出ない事に気付いた。
なんだこれは!声なき声で驚き、身体の状態を調べようと気を巡らせるが、気が一切巡らない。思い切り力を込めてみても、微かに動くだけ、声は掠れてまともに発声できない。
ここ四百年経験した事のない事態にパニックに陥る。
だがパニックへの対処は慣れたものだ。今一度強く焦るなと心を落ち着かせ、身体の異変を放って周囲の状況を再度確認する。
敵は二十人、敵意あり、敵意が隠せないレベルの練度、馬はいない、装備の音もあまりしないから装甲は薄い。
敵の情報に安堵する、雪蓮なら俺という足手まといがいたとしても、二十人ぐらいなら簡単に蹴散らせる筈。
そして雪蓮に意識をやると、その安堵が早とちりだったと知る。
彼女は気を抜いていて、未だ近付く気配を察すること無く目を閉じて母に語りかけている。
それはしょうが無い事だった。
雪蓮は凄まじいプレッシャーから精神と感覚を極限まで張り詰めさせてた。隙を突いたとは言え俺の気配察知をすり抜ける程に高まっていたのだ。
だがその張り詰めた糸は俺が断ち切ってしまった。今は弱った心を再構築している真っ只中だろう。俺という絶対的な対象がいる事で油断に拍車がかかってもいる。
つまり、完全に俺のせいで雪蓮が危ないのだ。
そこに思い至り、血が沸騰しそうな感覚が全身を駆け巡る。
ふざけるな、俺の大切な教え子を、孫呉の命運をかけた一戦の前で、やらせるものかよ!!
しかし俺の意志とは裏腹に、身体は動いてくれない。
押し殺した気配は既にかなりの距離まで近付いてきていた。
そちらに視線だけ向ける。暗がりに浮かび上がる鏃が複数、雪蓮を真っ直ぐ狙っているのが見えた。そして鏃には何かがぬるりと塗布されていた。
毒、あれは毒だ。
この俺が毒を見間違えるはずなど無い!
灯華様に似た雰囲気を持つ雪蓮が! 灯華様の命を奪った毒に冒されようとしている!!
感情が爆発する。
身体が動いた。一歩踏み出す、すると意識が断たれそうになった。
だがそれぐらいで俺を止められると思うなよ。
脳を直接殴り飛ばされるような衝撃を感じながら、俺は再び一歩を踏み出した。
すると俺が動いた事に気付いた気配が慌てたように矢を放った。
身体は依然恐ろしく重く、断絶する意識を無理やり繋ぎ合わせているので、放たれた矢が上手く知覚できない。
なので打ち払う事は諦め、俺は雪蓮の前に身体を投げ出した。
俺が動き出した事で慌てたからか、俺の身体に届いたのは僅か三本だった。だが常人ならば一本だけでも致命傷になるとはすぐさま理解した。
俺は灯華様を亡くしてから毒という毒について勉強をしていた。この身を犯す毒についても勿論知ってる。
やべぇなーと思いつつ、だけど一応雪蓮は救えたからいいか、と気を抜こうとして、
「白!なんで!」
倒れる俺を抱きかかえる雪蓮。
「馬鹿、非常時でも気を抜くな」
どうせ無理だと思っていた悪態が小さくこぼれた事に希望を見いだせた俺は、毒によって朦朧とする意識を奮い立たせる。
俺が意識を途絶えさせればこいつはきっと俺を優先する。だからここで落ちる訳にはいかない。
「阿呆、俺は大丈夫だから、奴らを追え」
「ああ、良かった」
雪蓮が安堵の表情を浮かべる。そして二度目の矢が彼女を目掛けて飛んで来る。
だが雪蓮はその矢を剣で全て切り払った。
「そこか。お前が、お前達がやったのか! 許さん、絶対に許さんぞ!! 白、待ってて!」
雪蓮は矢が飛んできた方向を推測し、気配を探り、状況を悟った。
一流の将だ、そこからの行動は速い。懐から笛を取り出し、特定の合図を吹き、俺を寝かせて矢を抜き、毒抜きをしてくれる。
敵の気配を読むと、笛の音を聞いた襲撃犯は逃げの態勢に移っている。
運良く近くにいた巡回組がものの数十秒で駆け付けてくる。その姿を確認した雪蓮はすぐさま襲撃犯を追いかけて行った。
俺は朦朧とする意識を繋ぎ留めながら、やってきた兵に俺の馬を取ってくるよう指示をする。
顔見知りだった彼らはすぐに馬を連れてきてくれた。
南陽に行っていて良かった。俺は荷を降ろし、中の薬を指示通りに処方するようお願いする。
すると途端に例の脳を殴り飛ばすような暴力的な意識攻撃が始まった。
だが一度耐えているんだよっ! と兵に指示を出しきり、もし雪蓮に傷が出来ていたらこれを処方するようにと話して、やる事をやり終えた俺は意識を手放すのだった。