そして烏江の傍、船着場として使われているであろう広く拓けた場所までやって来た所で、俺は彼らに追いついた。
船は無いが、烏江の流れは今現在穏やかで、馬も装備も置いていけば泳いで渡れてしまう。
烏江の先は項家と縁のある者も多く、これ以上先に行かせる訳にはいかない。
「そこで止まってもらおう」
「誰だ!」
騎兵の一人が誰何の声を上げ、その声に応えようとして。
「ようやく声を掛けてきてくれたね、いつ来るのかとわくわくしていたのだが」
柔らかい男の声。
川の流れる音、風の吹く音、ざわつく兵の声、引きつる女性の声、馬の嘶き、雑多なそれらの音を通り抜け、男の声ははっきりと俺の耳に届いた。
騎兵達が声を受けて二つに割れる。
人垣の道をぱかりぱかりとやって来たのは、立派な体躯の黒き馬に跨る優男。
「気付いていましたか、ならば俺はここまで誘導された訳ですかね?」
「いや、気付いていたという訳じゃない。ただ絶対に君は来ると確信していただけさ、全ての決着をつけるために」
「そういう事でしたか。ではここでの幕引きをお望みという事ですね」
「ああ、私の策を破ってここまでやって来た君にこそ、幕を引く役目が与えられてしかるべきだ」
「あのような奇策を短時間に考え、実行に移せる貴方はやはりとんでもない戦巧者です。我らの軍は今も悪戦苦闘していると思います」
「君に破られる程度の浅慮さ。とはいえ、君に褒められるのは嬉しいなぁ」
ふふっと心の底から面白いと思っているような清らかな笑いだった。
「陛下、何やら親しげですが、こやつは……」
「親しげ、か。こうして対面するのは初めてなのだが、何故かとても親近感がある。まるで互いの夢を語り明かした友のような……。
しかしおかしいな。
赤い汗を流す馬に跨って戦場を縦横無尽に闊歩し、血風乱れる戦場にあってなお穢れ無き白き鎧、あの身長を越す大槍を軽々扱い敵をなぎ払う。なにより印象深きは顔を隠す黒き仮面。
彼こそが我が仇敵、韓信以外に有り得んのだが」
「やはり韓信!」
「構えるな。お前達は一騎当千の兵なれど、それでも千を束ねて敵わぬ相手だ」
筋骨隆々の男達が、イケメンの優男に諾々と付き従っているのはとても違和感があるが、目の前の光景は正しいのだ。
痩身の優男にしか見えないにもかかわらず、彼はこの中国全域、いや、中国の歴史の中で最強と名高い男なのだから。
彼は項羽。劉邦様と覇を競う本物の英雄。
敵とはいえ、思わず敬語になっちゃうよね。
「なあ韓信、私が君にこうも親近感を持っている理由が分かるかい?」
「……ええ、心当たりはあります」
「そうか、私には皆目検討がつかないのだが、君がそれを知っているのなら丁度良い」
「何が丁度良いのです?」
「もし私が勝ったのなら、君からそれを聞き出そう。ふむ、勝つ事に少し意欲が湧いた」
「勝つ意欲が無いとは、覇王とは思えぬ発言ですね」
「もはや私達が勝つ事は無い。ならばと私は生に対する執着を捨てたのさ」
「陛下!その様なお言葉は!」
「不敗の覇王として名実を保っていた私が負ける、それでもう大局は決するのだ。
勢いと物量は全てあちらの有利に傾き、私達はただそれに呑み込まれるのみだ。
私達は一度の敗北で、どうしようもなく負けたのだよ」
「しかし陛下さえご無事であらせられるのならば!」
「例えここでどうにか逃げ切れても、烏江を越えて争いを持ち込む事になる。
そうなってしまえば私を慕っているお前達も、戦火を免れていた親族も勝ち目のない戦いに身を投じざるを得なくなる。
それだけは、認めるわけにはいかん」
「陛下……」
「とはいえ、様々な執着を捨てた私だが、事ここにおいては勝ちたいと思う。
私と初めて剣を交わすに足る人間と対峙し、更に戦う理由も出来たのだから」
「剣を交わしたのは一度だけでしたね、乱戦の中、五合斬り合って別れてしまった」
「私の剣を三合以上受けたのは生涯で君だけだった。
私と対等に切り結べる相手と一対一で戦う、夢見ていた事がここにきて実現するか。
では早速斬り合おう。お前達、下がっていろ」
「しかし!」
「頼む、後生だ」
「……はっ」
部下と婦人達は唇をかみ締めてそれに応えた。
猛る身内に怒声ではなく懇願を返す姿に彼の本質が見える。
「待たせたな韓信、馬上で斬り合うのもいいが、どうせなら地に足をつけて戦いたい」
彼はそう言って馬をおり、剣を抜いて構えた。
「受けましょう」
俺も馬をおり、騎馬戦用の大槍を地面に突き刺し、腰に差していた剣を抜く。
「いざ参る!」
「勝たせてもらおう!」
互いの間にあった10m程の距離が一瞬で0になる。
勢いを活かしきった剣速がぶつかり合う。生まれた衝撃で髪の毛が逆立ち、甲高い音に全身の毛が逆立った。
改めて驚く。
このチートスペックの速度と力に真っ向から対抗できる存在がいるとは、彼に出会うまでは思いもよらなかった。
本当に彼は化け物である。
鍔迫り合いは一瞬、互いに剣を引いて跳び退った。
鍔迫り合いの駆け引きを嫌ったのではなく、互いに全力を振るえば剣が持たないと悟ったのだ。
時の大将軍同士の得物だ、技術の粋を集めた最上の一品の筈なのだが、それでも二人の力の前では役者が落ちるらしい。
こうなっては力対力の勝負は出来ない。
「まさか一合で剣の寿命が見えてしまうとは、君こそ時代の寵児よ」
「私も同じ事を思っていました。しかし勝負はこうなってしまうと」
「剣の損耗を考えての化かし合いになるのかな。まあそれもまた面白い」
「そうですね、では再び、参る」
再び俺は駆け出して攻める事を、彼は不動にて受ける事を選んだ。
この段階にきてしまうと攻守、先手後手による有利不利と言う物はない。
先手を取って攻める方が選択肢は多く、体のどこかに剣が当たれば即勝ちというメリットがある。しかしここでの攻めはリスクが大きい。
俺達の剣はあの一合で消耗している、斬り方を間違えれば、受け方を間違えれば簡単に折れてしまう程に。
俺達の膂力で剣を振る、ただそれだけで剣の寿命は短くなってしまう。だから避けて剣の消耗を抑える事のできる守り側にもかなりのアドバンテージがある。
これ以降は互いに動きを読み合い、相手に間違いを強要していく勝負になる。読み合いに負ければ剣を叩き折られて徒手空拳というリーチの不利を背負うか、単純に死ぬ。
俺はぎりぎりの剣どころか鞘すら存分に振るい、避けられると分かっていても攻撃をし続ける。出来るだけ素早くコンパクトに、小手先を狙って剣の損耗を抑えて戦う。
彼は回避を重視した立ち回りで、時たま鋭い突きで牽制してくる。
当たらぬ剣を振り続けて五分ほど、お互いの呼吸が噛み合ってきて速度と複雑さは増していく一方だ。
攻防の全てに視線、挙動、呼吸、声の虚実を織り交ぜ、正統剣術なんて知ったことかと蹴りも殴りも敢行し、とかく相手のミスを誘う。
そんな数十のやり取りを瞬時に交わしていても、俺達は一切の不正解を引かない。
幾重に布石を重ねて追い詰めようが、身を削って行う突飛な奇策を弄そうが、ぎりぎりのラインで生き残る。
互いの剣は刃毀れをしているし、体中に細かい傷が走っている。
それでもなお剣戟は続く。
三十分を越し、一時間に至り、そして、
パキーン
来るべくして来た終焉の音が周囲に木霊した。
彼の剣が根元から折れたのだ。
俺はその致命的な隙を見逃さず、彼の右手首を、返す刀で左手首を深く切りつけた。
血飛沫が舞い、剣の柄が彼の手を離れて地に落ちる。
得物はもうないだろうが、万が一徒手空拳で襲い掛かってくる可能性を考慮し、十歩分の距離を一足で跳び退る。
だがそんな心配は杞憂だったようだ。
彼は地面に落ちた折れた剣を見つめながら、微笑んでいた。
「大軍指揮も、個人の勇においても全て完敗だ、韓信。
ああしかし、初めての敗北だというのに何故こうも清々しいのか」
「項籍様!」
さわやかに決めているが、彼の両手首からはダクダクと血が流れ続けている。
凄まじいまでの美人がその様子に気付き、叫び声を上げて彼に近づいていく。
自分の上着を脱ぎ、彼の手首に強く強く結びつけ、止血をする。
血に濡れる事も厭わず彼に尽くすのはかの有名な美女、虞美人か。
なんとも凄惨な光景だが、美男美女は絵になる……じゃない。
俺は何を悠長に眺めているのか。
「君の勝ちだな」
俺の勝ち、と素直に喜ぶ事はできない。正直言って俺達は互角じゃなかった。力も技量も僅かに俺が劣っていた。
この身体のわかりやすい欠点は女性より高く、男性よりも低い身長にある。身長はリーチと体重を生む、それが無い俺は力に劣る。
技量もそうだ、俺は出発点が八、九年前と経験でかなり劣る。彼に比べれば、まだまだ甘い部分が存在しているのは否めない。
そんな俺が勝利できた要因は、もう一つのチートである知識にある。
治金技術がかの国よりも大分上にあった。それに尽きる。
俺達の剣は最初の剣戟で大きく損耗していたが、度合いで言うなら彼の剣の方が倍以上酷かった。
だから彼は受けを選択せざるを得なかったし、俺は攻める事ができた。
それでもあれだけの長時間いなされたのだから、彼の技量の恐るべき事よ。
「陛下!」
後方で控えていた兵士達が彼の周囲を取り囲む。
数十の憎しみを込めた目で睨まれると、さすがに少し怖い。
俺は後退し、地面に刺していた槍を引き抜いて構える。
「道を開けろ、韓信との話はまだ終わっていない」
彼はそう言って兵と馬を退かせ、貧血からふらつくのだろう、虞美人に肩を借りながら前に出た。
「韓信、剣を交えたよしみ、負けた私への同情、なんでも構わない。最後に願いを聞いてはくれまいか?」
「……お伺いしましょう」
「もうすぐ烏江亭長の命を受けた船がここに来る。それにこやつらを乗せた上で見逃してくれ」
後ろで、彼の隣で息を呑む音がした。
「何を馬鹿な!私達は最後まで陛下とご一緒する所存であります!」
涙の混じった懇願だった。
だがそれを彼は無視し、
「韓信、どうか?」
「……承りました。烏江以降に関しても、恭順するならば手厚く迎え入れる事を誓いましょう」
「そうか、ああ、これでもう思い残す事はないなぁ。
いや、最後に聞きたい事はあったが、負けて聞くのはわがままが過ぎるか」
「項羽殿、いや、項籍殿。記憶にも記録にも残っていませんが、私達は昔、間違いなく友だったのですよ」
「……本当に覚えは無いが、何故か胸にするりと入ってくる答えだ、ありがとう韓信」
彼は人好きのする笑顔で答えてくれた。
その笑顔に、俺はどうしようもなく胸を締め付けられる。
彼は次いで兵を呼び寄せた。
皆が馬を降り、彼の周囲に膝をついた。
「最後にお前達にも願いがある、静かに聞いてくれ」
「はっ」
「もう私は助からない。これはもはや確定された事だ。
それにお前達は付き合うことはない。復讐も絶対にするな。
私が望むのはお前達の幸せだ。
お前達、我が臣民が幸せであるなら、私は安らかに眠れるのだ」
「……わかりました」
兵の誰もが涙を流していた。
負けを悔やむのではなく、彼個人の死を悼んでいる。
本当は自分達も彼と一緒に死にたいのだろう、生き恥を晒してまで生きたくはないのだろう。
けれども彼がそれを願うならと、唇を噛み締めて耐えているのだ。
彼らは、どれほど篤い信頼関係で結ばれているのか。
「丁度船も着たようだな。立て、そして行け。私の遺志を伝える為に」
船が接岸したのを見計らい、彼は言った。
「はっ!」
「騅も連れて行ってやってくれ。戦場で駆るには最高の馬だ、烏江亭長に駄賃として渡してくれ」
兵はその言葉を受けて立ち上がり、馬を引いて船へ向かった。迎えの使者が何事かと船を降りてくるが、兵は彼らを押し戻しながら船へ乗り込んでいった。
彼はその後、家族一人ひとりに話しかけていった。
話し終えた人間は皆、涙を流して船へ向かっていく。
そして最後に、
「うぅぅ、項籍様…」
「虞よ、お前との別れが何より辛い。お前の事が何より気がかりだ。
ああ、しかし、幸せに、幸せになるのだぞ」
肩を貸す虞美人に彼は優しく語りかけた。
彼女は嫌だ嫌だと首を振る。
彼は困ったように笑い、彼女の肩から離れた。
一瞬ふらついたが、すぐに持ち直して彼女の正面に立ち、そのままキスをした。
「私は今幸せにしてもらった。だから次はお前が幸せになれ」
ぎゅっと彼女を抱きしめ、
「お別れだ、虞」
彼は別れを告げた。
彼女はひたすらに涙を流している。
彼は静かに離れ、彼女の背に回り、押した。
彼女は何度も彼を振り返りながら、船に乗り込んでいった。
「これで思い残す事はもうない。彼らが行ったら、首を切ってくれ」
静かな声だった。
船がゆっくりと動き出す。
船に乗った全ての人間が船の縁まで来て、涙を流しながら彼の名前を叫んでいる。
その中で一人が、よく通る声で叫んだ。
「韓信殿、陛下を友と呼んだ貴方に全てを託す!そして我々は宣誓する!陛下の死に泥を塗らぬなら、陛下の遺志を守ると!
そう劉邦殿と張良の糞野郎に伝えてくれ!」
「……全て任されよ!」
そうして船は去っていった。
「……終わりましたね」
「そうだな。ふぅ、血が出過ぎた。そろそろ意識が無くなるな」
「最後に何かありますか?」
彼は少し考え込み、そうだな、と答えた。
「劉邦には親族と兵に寛容な処置を願うと、項伯には血を残してくれと。
この身体には懸賞がかかっているのだったな、出来るなら旧知である呂馬童や項伯の功績にしてやりたい。
そして、張良には……先は部下が失礼したと伝えてくれ」
「気付かれてしまいましたか」
俺は仮面を外し、彼と向かい合う。
「気が抜けたのかい? 途中で作った声が元に戻っていた。鴻門の会で聞いた声とすぐにわかったよ」
気を抜いてしまったというより、俺は気付いて欲しかったんだろう。
「貴方の人生をめちゃくちゃにしたのは、俺です」
そして貶めて欲しかった。
「ふふっ、私はそれほどまでに強かったという事だろう?」
「ええ、恐ろしい強敵でした。全ての手を使ってなお、一騎打ちという綱渡りをせざるを得ませんでした」
「ならば良い。互いに認め合える存在がいるというのは、良い物なのだ。
そして君がいなければ、人生の半分も楽しめずに終わっていた」
俺がいなければ負けを、別れを知らなかったであろう王は、それを教えてくれたと俺に感謝すらしている。
全てを奪った俺に対して、そのような考えを持てる彼のなんたる大器か。
「そろそろ意識が持たん、後は君と劉邦に全て任せる。
さらばだ」
「ええ、また来世でお会いしましょう、項籍殿」
「来世か、もしあるならばきっと面白いに違いないな、韓信……韓信で良いのか?」
「白とお呼びください」
「そうか。では白よ、また来世で会おう」
そうして偉大な王は微笑み、眠るようにして死んだ。
俺は遠く聞こえる蹄を後方に聞きながら、彼の亡骸を抱きしめ、涙を流した。
この時代に来て二度目の涙だった。