そいつは、いつも雨の日になると、傘も持たずに外に出る。
「時雨~!風邪引くぞ。早く戻って来い!」
「うん。分かった」
雨でほとんど聞こえない。
だが、口はそう言っているように見えた。
「全く、お前はいつもいつも」
濡れた髪を拭くのは、いつも俺の役目だ。
雨の降った日は、必ずといっていいほど、こうしている。
「お前は本当に雨が好きだな」
「うん、好き。提督は嫌い?」
「服が濡れるから嫌いだ。子供の頃、服が濡れて泣いた事もある」
「あはは。変なの。どうして海軍にいるんだろうね」
「全くだ」
ドライヤーで乾かして、髪を整えてやる。
「ほら、終わりだ。もうやらんぞ」
「…それは残念だ」
「馬鹿な事言ってないで、部屋に戻れ」
「うん。ありがとう、提督」
これが雨の日の日常。
あいつ、俺を困らせようと、わざとやってるんじゃないだろうか。
しばらく晴れの日が続いた。
こうも気持ちのいい日は、お気に入りの場所で、のんびりしている。
俺だけしか知らない穴場だ。
「提督」
振り向くと、時雨がいた。
「いつもいないと思ったら、こんな場所にいたんだね」
「見つかっちゃったか」
「穴場だね。ここ」
「だったんだがな」
「ごめんね」
「いいさ」
「いつもこうしているの?」
「天気のいい日は、こうしている。ここは静かだ」
「鎮守府は賑やかだもんね」
「もう少しすれば、ここの賑やかになる」
「蝉?」
「あぁ。だけど、あいつらよりは静かだ」
「だろうね」
遠くの入道雲が、ゆっくりと動いた。
それと同時に、涼しい風が吹いた。
潮の香りのおまけつき。
「…僕もここに来ていいかな?」
「誰にも言わないならいいぞ。夕立なんかに知られた日にゃ、俺の安らげる場所がなくなる」
「もちろん、そのつもりさ。僕と提督だけの秘密」
そう言って、時雨は笑った。
何がおかしいんだか。
それから、俺が行くたび、時雨は穴場に現われた。
最近では、水筒や日傘を持参したりしている。
「暑いね」
「図書室のクーラーは涼しいぞ。わざわざこんなところに来なくても」
「クーラーは冷えすぎるんだ。ここの風が、丁度いい」
「奇遇だな。俺もだ」
何もしない。
ただ、こうやって、他愛のない会話をして、時間になったら帰る。
それだけ。
それだけの事なのに、こいつはいつだって、つまらなそうな顔を一度も見せた事が無い。
「そろそろ帰るか」
「うん」
その日は、雷鳴轟く、嵐だった。
「雨、止まないね」
「しばらくは雨だそうだ」
「あの場所にも、しばらくはいけないんだね」
「ああ。だが、お前は雨が好きなんだろう?良かったじゃないか」
「最近は雨が嫌いかな」
「そんなにあの場所がお気に入りか?」
「そんなところかな。それに、髪が濡れたら、もうやってくれないんだよね?」
「やらん」
「なら、ますますかな」
やはり俺への嫌がらせか。
「ふん。嫌なやつだ」
「え?何か気に障るようなことを言ったかな?」
「…なんでも」
新聞の天気予報に、晴れのマークは一つもなかった。
愚図ついた天気。
今にも雨が降りそうな、そんな天気。
「提督、あの場所にいかない?」
「こんな天気なのにか?今にも雨が降りそうだ」
「傘もあるよ」
「俺はパスだ」
「折角、雨が上がったのに」
「あの場所は晴れてるからいいんだよ」
「…そう。じゃあ、髪やってよ」
「もう整ってるだろう」
そう言ってやると、時雨は、自分の髪をぐしゃぐしゃにし始めた。
「おいおい」
「これでいいかな?」
「嫌がらせか?自分で直せ」
「じゃあ、髪はいいから、一緒にあの場所に行こう?」
「どっちもパスだ」
「じゃあ…提督はいつ…僕と二人になってくれるんだい…?」
「え?」
髪のぐしゃぐしゃになった時雨は、捨てられた子犬のようだった。
今にも泣きそうな、子犬。
「僕は…雨が好きなんじゃない…。あの場所が好きなんじゃない…。僕は…提督と二人になれるのが、嬉しかっただけなんだ…」
雨の日。
傘も持たずに外に出る時雨。
そうだ。
誰が呼んでも、時雨は振り向きもしなかった。
なのに、俺の声の時だけは、振り向いて返事をした。
嫌がらせだと思っていたけれど、なるほど、そうだったのか。
それに、あの場所を知ってから、雨が降っても、こいつは、一歩も外に出なかった。
「どっちもパスなら…僕と二人っきりの時間を…作ってくれないかな…?雨が降った日でも…二人になれる時間を…」
執務室の窓を、大粒の雨が叩く。
時折吹く風も、また、窓を叩く。
「今日も雨だね」
「ああ」
「やっぱり、雨は嫌い?」
「ああ」
「…ごめんね」
「だが…」
「?」
「最近は、少しだけ、好きになりつつある」
「…そっか」
「晴れたら、またあの場所に二人で行こう」
「うん」
もうそろそろ蝉も鳴く頃だろう。
そうしたら、もう少し近づいて話をしよう。
お互いの声が、良く聞こえるように。