執務室からピアノの音。
また音楽を聴いてるのね。
「入るわよ」
返事を待たずに執務室に入る。
「ねぇ、廊下まで聞こえてるわよ」
私の声が聞こえないのか、提督は書類から目を離さない。
「ねぇ!」
「ん? おや、天津風さん。いつの間に」
「いつの間に……じゃないわよ! 外まで音楽が聞こえてるの! 止めて!」
「それはすみません。いつもより音を小さくしたのですが」
「変わってないわよ……もう……」
アンプの電源を切ると、一気に静かになった。
「何回も何回も言ってるわよね?」
「すみません」
私たちの提督は、なんだか情けない。
艦娘たちには「さん」付けだし、敬語だし……。
「まったく……クラシックを聴かないと死んじゃうの?」
「クラシックじゃなくて、ジャズですよ」
「どっちでもいいでしょ!」
「いえいえ、コーヒーと紅茶くらい違いますよ」
変なところで頑固だ。
「あ! それ……またコーヒー飲んでる!」
「あ……」
「あなた……眠れなくなるからやめなさいって言ったでしょう!?」
「いやぁ……一杯くらいですし……」
「……一杯?」
「はい」
「ふーん……」
戸棚にあるコーヒービンの中身が、昨日よりも大分減っている。
「一杯……ねぇ……?」
「……すみません。沢山の方のいっぱいです……」
「もう! あなた!」
「ごめんなさい!」
こんな提督だから、放っておけない。
私がしっかりしなきゃね。
「ふぅ……やっと一息つけるわ」
「お、天津風、お疲れー」
「島風」
「秘書艦、大変そうだねー」
「秘書艦の仕事だけだったらいいんだけどね……」
「提督、ちょっと抜けてるもんねー」
「言うこと聞かないし……。はぁ……」
「でも、天津風、楽しそうだよね」
「え?」
「にひひ」
そう笑うと、島風はどこかへ行ってしまった。
「なんなのよ……」
楽しそう?
顔に出てた?
「……なんなのよ。本当に……」
一人、赤面した。
「じゃあね、司令官。また私を頼ってね!」
執務室から雷が飛び出してきた。
部屋に入ると、ピカピカな床が窓の光を反射していた。
洗濯物も畳まれている。
「これは……?」
「ああ、雷さんがやってくれたんですよ。助かりました」
「……そう」
カーテンレールの上も、綺麗に掃除されている。
本も綺麗に整頓されている。
「どうしました?」
「え?」
「探し物ですか? キョロキョロしているので……」
無意識にやることを探していた。
何か、ないか。
雷が見逃しているところがないか。
「……別に」
最近、雷をよく見かける。
執務室にもよく来ているみたいだし、食事の時だって、提督の隣に座って、食事を運んであげたりしているみたいだし。
「ん……? あなた……またコーヒーを……」
「ああ、違いますよ。これはココアです」
「ココア?」
「雷さんが差し入れてくれたんです。ホットココアは、寝る前に飲むとよく眠れるらしいですよ」
棚を見ると、コーヒーのビン自体がなくなっていた。
かわりに、ココアが置かれていた。
「これでよく眠れますよ」
「……そうね」
「もーっと私に頼っていいのよ」
「ありがとうございます。雷さん。頼りにしてますよ」
「えへへ」
なんだか、二人、いい感じ。
楽しそう。
「……私といる時とは、大違いじゃない……」
そりゃそうか。
私、いっつも怒ってるし。
雷みたいに、何でもやってあげるわけじゃないし。
「頼りにしてますよ……か……」
もしかして私は……間違ってたのかな……。
「天津風さん」
「え? なに?」
「どうしたんですか? 今日はぼうっとされて」
「……別に」
「体調でも悪いんですか?」
「何でもないわ」
「でも……僕、今日、怒られてませんが……」
「……それはいいことじゃない」
「そうですが……」
「洗濯……私がやっておくわ。マグカップもそのままでいい。私が洗う。貴方は……ジャズでも聴いていればいいわ」
「天津風さん……?」
「たまには……ゆっくりしてなさいよ。ね?」
そう言って、部屋を出た。
これで良かったのかな。
雷みたいな甘い感じには出来ないけど、私なりに精一杯やったわ。
翌日から、提督は何でも自分でこなすようになった。
朝の部屋の掃除。
洗濯。
食器も自分で洗った。
「司令官……どうしちゃったのかしら……。急に私を頼らなくなっちゃったの……」
「……」
どういう風の吹き回しだろう。
あれから、ジャズも聞こえない。
「そろそろ食事の時間ですね」
「そうね。じゃあ、私が……」
「いや、僕が作りましょう」
「え?」
「天津風さんはソファーに座っててください」
「でも……」
「大丈夫です。頑張って勉強したんです。鳳翔さんにも教えてもらってますから」
料理なんて一度もしたことないくせに。
本当にどうしてしまったのだろう。
「美味しいですか? 僕特製のカレーは」
「うん……」
「おや……美味しくなかったですか?」
「ううん。ねぇ……どうしちゃったのよ……」
「なにがですか?」
「急にこんな……掃除洗濯だって……あなた……」
提督はスプーンを置くと、真剣な顔をした。
今まで見たことない表情に、少し驚いた。
「天津風さんに……怒られなくなってしまったから……」
「え?」
「僕は……幼くして両親を亡くしました。そんな僕を引き取ってくれたのは、お金持ちの伯父でした。伯父は、僕が自分の子ではないこともあってか、一度たりとも叱ってくれたことはないんです。甘やかされて……育ってきたのです」
提督の両親が亡くなっていたのは初耳だ。
「だから……嬉しかったんです。天津風さんが、僕を叱ってくれることが。でも、とうとう愛想をつかされて、天津風さんにも叱られなくなって……」
違う、そうじゃない。
「僕は……しっかりしなきゃって……思ったんです。そうしたら、天津風さんがまた、僕に……その……振り向いて……くれるかなって……」
そういうと、提督はうつむいた。
「……違う」
「え……?」
「違うの……。私は……あなたに愛想尽きたわけじゃない。いつもいつもあなたに強く当たってて……申し訳なくなって……」
「……そうでしたか。でも、裏を返せば、それだけ僕の事を想っててくれたってことですよね?」
「!」
提督が私の手を掴む。
「天津風さん。僕、もっともっとしっかりします。だから、僕がだらしなかったら叱ってください。間違ったことがあったら、ひっぱたいてもいい。だから……」
「……ぷふっ」
「!」
「何それ。ひっぱたいてもいいって」
悪いと思ったけど、つい笑ってしまった。
肩の荷が降りた気がして、急に気持ちが楽になった。
「そ、そんなにおかしかったですか?」
「おかしいわ。でも、分かった。これからもあなたを支えるわ。私は手を緩めないからね?」
「はい。お願いします」
そう言って、笑いあった。
「もう! あなた!」
「すみません!」
あれから少しはましになったけど、やっぱり提督は提督で、どこか抜けている
「ふふ……」
「な、なに笑ってるのよ!」
「いや、やっといつもの天津風さんが見れたなって」
「あなたは変わりなさいよね……」
「あはは……」
「もっと男らしくしたら?」
「例えば……」
「そうね……。……た、例えば……その……敬語をやめてみたり……さん付けをやめてみたり……?」
「分かりました。やってみます」
「うん……」
「天津風」
「う……は、はい……」
「いつもありがとう。感謝してるよ」
「な……! ななな、なによ急に!」
「あ、あれ? 何かおかしかったですか?」
「おかしくないけど……。もう……もう……!」
「?」
このどこにもぶつけようのない気持ち。
いつか、私があなたを頼る日が来るのなら、あなたはこの気持ちを受け止めてくれますか?
「もっと男らしくなれるように努力します」
「……待ってるからね?」
「はい」
いつか……ね?