速いことはいい事だ。
耳を切るような音。
水しぶきを置き去りにし、まさに風の如し。
誰も私について来れない。
それはいい事だ。
でも、私がいくら速いからって、心まで置き去りにした事はない。
無いはずなのに、後ろを振り向くと、そこにはもう、誰もいなかった。
「ごちそうさまー」
お昼を一番に食べ終わり、一番に出て行く。
「島風ちゃんっていつも一人でいるよね」
「友達いないのかな」
そんな声が聞こえたって、関係ない。
私は風。
風はいつだって、誰かの隣に居続けたりしない。
いつだって、通り抜けていってしまう。
風っていうのは、速いってことは、そういう事なんだ。
鎮守府の隣にある小さな崖。
そこは風が強くて、危ないからって、誰も近づかない。
けれど、私はそこが好きだった。
ここは風の音しか聞こえない。
波の音も、草木の揺れる音も、聞こえない。
「友達がいないんじゃないもん。皆が遅いだけだもん」
そんな独り言を言えるのも、ここだけ。
風が全てを消し去ってくれるから。
愚痴も、悩みも、何もかも。
誰にも言えない、言う相手がいない。
お人形に話しかける女の子のように、私は風に、それらを乗っける。
「……寂しくはないよ。ただね、羨ましいだけ。私は風だから、誰も捕まえられないし、誰も捕まえようとしない。雲を掴むようなっていうけれど、風も同じ。風を捕まえようとする人はいない。だから、私は一人。ずっとずっと、一人なの……」
遠くの海面がキラキラと光っていた。
目を閉じると、蛍光色の残光が、ゆらゆらと、海の水面のように、揺れていた。
「寂しくは……ないよ……」
「島風」
鎮守府に戻ると、提督に声をかけられた。
「なんですかー?」
「お前、いつも食事終わるの速いだろ。ちゃんと噛んで食べてるのか?」
「噛むのも速いから大丈夫」
「何でも速いのがいいってわけじゃないぞ。食事はゆっくりとるもんだ。それに、ゆっくり食べれば、他のみんなとも話せるしな」
「……私は友達いないから。いらないし……」
「んー……みんなで食べると飯が美味くなるんだけどな」
「食事なんて、何処で誰と食べようが変わんないし……」
「……」
「もう行っていいですか?」
「ああ……」
私って嫌な奴。
提督は心配してくれてるのに。
でも、私には、その心配が逆に痛かった。
憐みの目線。
愚か者を見るような、そんな目線。
「……」
提督に心配されるのが嫌で、しばらくはみんなより早めに食事をとることにした。
誰もいない食堂。
返って良かったのかもしれない。
こっちの方が、孤独を感じない。
一人でいる時の方が孤独じゃないなんて、変なの。
そんな日が続いたある日。
「よう、やっと会えたな」
誰もいない食堂……の筈だったのに、何故か提督がいた。
「最近見ないと思ったら、こういう事だったのか」
提督の目が私を見つめる。
あの目、憐みの目だ。
「……だから何?」
「そこまでしてみんなとの食事を避ける理由って何だ?」
「提督には関係ないし……」
そこにいるのが辛くて、食堂を出ようとした時だった。
大きくて温かい手が、私の細い腕を掴んだ。
「待てよ。飯、食いに来たんだろ?」
「……」
「俺と食おうぜ」
「提督と……?」
「早食い対決だ」
「はあ?」
「負けた方が何でもいう事を聞く。どうだ?」
「……よく噛めって言ってたのは誰でしたっけ?」
「それはそれだ。どうだ?」
何言ってるんだろう提督は……。
こんなの受けるわけないし……。
「それとも、俺に負けるのが怖いのか? 俺より遅いから、勝てないからって逃げるんだ」
「……」
「本当はこういうの……駄目なんですからね?」
「今回は見逃してくれ、鳳翔」
「もう……」
私たちの前に、カレーが置かれた。
「美味そうだな」
「負けた方が何でも言うこと聞く……。私が勝ったら、もう構わないでくださいね……」
「ああ、約束するよ。だが、俺が勝ったら、俺の言うことに付き合ってもらうからな」
大食いだったらまだしも、こんなカレーだったら、負けるわけないじゃん。
提督、いつも食べるの遅いし、本当になに考えてるんだろう……。
「鳳翔、合図頼む」
「はいはい。それじゃあ……よーい……」
こんな勝負……さっさと終わらせよう……。
「どん!」
「いただきます」
「ふん、暢気にいただきますだなんて、私を舐めてるの?」
提督が手を合わせている間に、私は二口を一気に口へ運んだ。
すぐに三口目を口に入れようとした時、口の中に激痛が走った。
「お、どうした島風? 手が止まったが」
提督はヒョイヒョイカレーを口に運んでゆく。
私の手は止まったままだ。
「……凄く……辛いんだけど」
「そうか? 今日は5辛だぞ」
メニュー表には「今日の辛さ」という欄に「5」と書かれていた。
すっかり忘れていた。
5辛は、本当の辛党しか頼まない。
提督もその一人だった。
「もう半分も食べてしまった。ん? どうした島風、全然じゃないか」
「……っ!」
してやられた。
提督は分かってたんだ。
こうなることを。
「さて、今から何をしてもらうかでも考えながら食べるかな。島風が勝てる事はないんだしな」
ムカつく。
ムカつくムカつくムカつく……!
こんなに辛くなかったら、私が余裕で勝つはずなのに。
こんなの……!
結局、勝負には負けた。
「俺の勝ちだな」
「……こんなの無効だし! こんなに辛くなかったら、絶対勝てるもん!」
「負け惜しみか?」
「違うし!」
「だが、負けは負けだ。大人しく俺のいう事を聞け」
「ぐぬぬ……!」
「お前はしばらく俺と一緒に食事をすること。食事をしている間、俺のいう事をちゃんと聞いて、しっかりと噛んで食べるんだぞ」
なんだ、そんなことか。
めんどくさいけど、食事の間だけなら。
「……分かった」
艦娘全員の視線が私たちに向けられている。
私と提督、二人向かい合って、二人席に座っているのがそんなにおかしいのか、それとも……。
「なんか見られてんな」
「私が提督と食事をしているのがおかしいんでしょ……。私、いつも一人だし……。提督はいつも、艦娘に囲まれてるし……」
「なんだ、そんな事だったのか。てっきりお前と俺が恋仲に見えたのかと思った」
「はあ? そんな訳ないでしょう……」
「ならいいんだけどさ」
いつもこんな事言ってるのかな。
だとしたら、よくもまあ幻滅されないでいると思う。
いや、この鎮守府の艦娘が異常なのかな。
「お、来た来た。美味そうだな」
さっさと食べちゃおう。
そう思って箸をつけようとした時、また大きな手で腕を掴まれた。
「いただきますしてないぞ」
「はあ?」
「いただきますしろよ」
「子供じゃないんだから……」
「俺のいう事を聞く、そうだろ?」
「……」
大勢の艦娘が見てる前で恥をかかせるのが目的?
見かけによらずいい趣味してるね……。
「……いただきます」
「ごちそうさま」
「……」
「島風」
「ごちそうさま……」
食事中、提督は色々注意してきて、結局遅くなってしまった。
こんなに遅くまで食事をしたのは初めてだ。
「どうだ? ゆっくり食事をした感想は」
「遅い……。最悪……」
「だろうな。デザートでも奢ってやろうかと思ったが、もう時間だ」
「あーっそうだ! デザート食べてないし! もう……! 遅いって最悪……。子ども扱いされて恥かくし……」
「だったら、俺に注意されないようにしろ。そしたら、デザートに間に合うだろ」
「そうかもしれないけど……」
「次は気をつけろよ。じゃあ、また明日な」
「ちょっと待ってよ! これ、いつまでやんなきゃいけないの?」
「しばらくって言っただろ」
「しばらくっていつまで!?」
「んー……そうだな。お前が俺に注意されず、昼の時間内にデザートまで食べ終われば、終わりにしてやる」
「な……!」
「じゃあ、俺は仕事に戻るから。お前も演習頑張れよ」
そういうと、提督は去っていった。
それからずっと提督との食事が続いた。
箸の持ち方とか、肘を突くなとか、本当に細かい。
注意を受けるたびに、恥をかく。
このままじゃ、いつまでたっても終わらない。
どうにかしなきゃ……。
でも、食事の作法だとかなんだとか……分からないし……。
聞ける相手もいないし……。
「あの……島風ちゃん!」
声の主は電だった。
他の艦娘に話しかけられるなんて思ってなかったから、ちょっと驚いた。
電の後ろには、第六駆逐隊もいる。
「なに?」
「あの……あの……」
「ああもう、電は駄目ね。ねえ島風、どうやったら司令官と二人っきりになれるの?」
「へ?」
「食事だよ。私たちは司令官と二人っきりで食事なんてしたことなかったから。どんな魔法を使ったんだい?」
「暁も、レディーとして司令官と二人で食事をしたいの。お願いします! 教えてください!」
「そんなこと言われても……。私は何も……」
提督と二人で食事するって、そんなにいいことなのかな。
私にとっては煩わしいことなんだけど……。
「とにかく……私は提督と食事なんてしたくないの」
「じゃあ、どうして一緒に食事してるんだい?」
「それは……その……」
話せるわけない。
それに、こんな事話したところで笑われるだけだ。
「い、電は、島風ちゃんが話してくれるまで、ここを離れないのです!」
「え?」
「じゃあ、私も!」
「やむを得ないね」
「こういうやり方はレディーらしくないけど……」
「ちょ、ちょっと……」
この子達、本気?
面倒なことになったなぁ……。
「島風ちゃん!」
「島風!」
「……」
……ま、いっか。
言っても。
どうせこの子たちに笑われたって、気にしなければいいし。
そう、いつものように……。
「実はね……」
「じゃあ……勝負に負けて……」
「そういう事……だから、私は別に好きで提督と食事してるわけじゃないから……」
どうせ、くだらないって思ってるんだろうなぁ。
私だってそう思う。
なんであんな勝負を受けちゃったんだろうって。
しかも、食事の作法がしっかりしなくて脱せられないって……。
凄くかっこ悪いし、これが他人だったら、私だって笑っちゃうよ。
「なら、食事の作法をしっかり学びましょう」
「え?」
「鳳翔さんのところに行こう。私も鳳翔さんに教わった」
「ちょ……別に私は……」
「島風ちゃんが困っているなら、見過ごすわけにはいかないのです!」
「それに、私たちだって司令官と食事したいんだもん。利害は一致してるでしょう?」
確かに……。
恥ずかしいけど、これを利用する他ない。
それに、私にはこれ以外に方法がないし。
「……分かった」
それから鳳翔に作法を教えてもらった。
それを見てた他の艦娘も、混じって教えてもらっていた。
最初はそれが嫌だったけど、みんな私と一緒で、作法の事、あまり分かってなかったようで、一緒にああでもないこうでもないって言いあった。
私は、あまり悪くないなって思った。
みんなといる事。
案外、みんな純粋で、私の事を気にかけているようだった。
だけれど、私がこんなんだから、近づけないし、ちょっと怖いって思ってたんだって。
「睦月ね、島風ちゃんって、もっと怖いと思ってたけど、話してみたら仲良くなれそうだって思った。これからも仲良くしてくれるかにゃあ?」
素直に「うん」って言えない自分が居た。
ちょっと恥ずかしかったんだもん。
でも、嬉しかった。
そして、気が付いた。
私は風。
誰にも掴めない風。
だからこそ……。
他の艦娘がチラチラとこちらを見ている。
でも、この前みたいに、提督との食事が珍しいんじゃない。
私がちゃんと出来るか、見てくれている。
遠くに座る第六駆逐隊もガッツポーズで応援してくれている。
鳳翔も台所から優しい目線を送ってくれている。
他の艦娘も、みんなそう。
みんなみんな、私を応援してくれている。
「どうした? なんだか嬉しそうじゃないか」
「別に」
「おまたせしました」
「美味そうだな」
「そうですね。いただきます」
「!」
「なに?」
「いや、なんでも」
提督はそんな私をじっと見ていた。
作法の事、何か言いたいんだろうけれど、鳳翔に教えてもらったから完璧だもんね。
「提督、早く食べないとデザート食べれないよ」
「ん、おう、そうだな」
提督、悔しいだろうなぁ。
そう思ってたけど、それとは裏腹に、提督は笑っていた。
なに笑ってるんだろう。
気持ち悪いなぁ。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
デザートのアイスは、いつもより美味しく感じた。
いや、食事だってそうだ。
「提督、約束覚えてますよね?」
「ああ、今日限りで終わりだ。お前の食事の作法、綺麗だったぞ」
そう言うと、提督は去っていった。
それと同時に、艦娘たちが一斉に私の元へと駆け寄ってきた。
「島風ちゃん、やったね!」
「う、うん……」
「頑張ったもんね。私も見てたけど、今までで一番きれいだったわ」
「鳳翔……あ、あの……」
「ん?」
「あ……ありがとう……」
「島風ちゃん……」
「よーし、みんなで島風を胴上げよ!」
「え……ちょ……!」
こんなことで大げさだなぁ。
でも、嫌じゃない。
みんなが私を見てくれてる。
だから、私もみんなを見なきゃいけなかったんだ。
私は風。
誰にも掴めない風。
だからこそ、私が寄り添っていかなければいけないんだ。
私が、みんなに向き合わなきゃいけなかったんだ。
みんなが遅いんじゃない。
私が速すぎたんだ。
それからはみんなと食事をするようになった。
笑いあったり、ああでもないこうでもないって、くだらない話に花を咲かせながらする食事は、一人で速く食べていたあの食事とは、味が全然違うように感じた。
食事が終わり、ふと中庭を見ると、満開の桜の木の下で、おにぎりを頬張っている提督がいた。
「見ないと思ったら、こんなところにいたんですね」
「島風」
「隣、いい?」
「ああ」
芝生に小さなビニールシートが敷かれていて、私はそこに座った。
提督は、お花見でもしているようだった。
「最近、みんなと食事するようになったらしいじゃないか」
「うん」
「どうだ? 飯は美味く感じたか?」
「鳳翔のご飯はいつどこで誰と食べたって美味しいし」
「ははは、確かに」
そういうと、提督は寝転がって桜を眺めた。
「食べた後に寝転がっちゃいけないんですよ。食事の作法だけはあんなに厳しかったくせに……」
「食後の事は知りませーん」
「なにそれ……」
遠くから潮風が中庭に吹いたようで、桜の木を小さく揺らした。
桜の花びらが、その風に乗って、どこかに飛んでいった。
「提督」
「ん?」
「ありがとう」
「なにが?」
「提督のお蔭で、私にも友達が出来た。みんなと食べる事がいいことだって気が付けた。私はもう、一人じゃないんだって」
「俺がどうにかしなくても、お前ならいずれ気が付くと思ってたよ。お前は速いからな」
「どういうこと?」
「速いってことは、遅くも出来るってことだ。大は小を兼ねるじゃないけれど、一番速いお前は、誰にでも合わせることが出来るってことだ」
「……分かりにくいんだけど」
「あれ? かっこいいこと言ったつもりなんだけどな……」
「でもさ……ならどうして私にあんなことさせたの?」
「俺が島風と仲良くしたかったから」
「え?」
「それじゃ駄目か?」
「……なにそれ」
「でも、結局……俺は悪者だもんな。駆逐艦の中じゃ、島風をイジメた司令官だって、変なレッテル貼られちゃったよ」
「……」
だからこんなところで……。
「まあでも、お前の幸せそうな顔見れて良かった。じゃ、俺は行くわ」
「提督」
「ん?」
「提督は悪者なんかじゃないよ!」
「!」
「私も……提督と仲良くしたいって思ったもん……。だから……」
「なら、俺と友達になってくれよ」
「え?」
「駄目か?」
差し出された提督の手。
ああ、そうなのか。
「……いいよ」
そう言って、手を握った。
この手は、風さえも掴んでしまう手なんだ。
食事をしようと掴まれた時も、いただきますの時も……。
提督は本当に、私と仲良くしたかったんだ。
風を掴もうとしてくれてたんだ。
そして、本当に掴んでしまったんだ。
「ありがとう、島風」
「うん……」
なんだか恥ずかしくて、提督の目を見ることが出来なかった。
「また……一緒に食事……してくれる?」
「喜んで」
そう笑った提督に、私も、この桜に負けないくらい、満面の笑顔を見せた。