Fleet Is Not Your Collection   作:萩鷲

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 着任初日、私は期待で胸が高鳴っていた。着任先に、私の妹となる艦が四隻も存在すると聞いていたからだ。一人っ子で、親を早くに亡くした私としては、夢の様な出来事だ。

 提督との挨拶を終え、自身の自室となる、球磨型の部屋へと足早に向かう。妹達は、全員そこに居るらしい。緊張しながら、私は部屋へと入る。中では、四人の少女がくつろいでいた。

 

「――本日より配属となった、球磨型軽巡一番艦、球磨だ! 皆、宜しく頼む!」

 

 第一印象は大事だろう、自身が出来る精一杯の明るさで挨拶をする。

 ――しかし、返事は無い。少しこちらを一瞥しただけで、私の事など大して気に留めた様子も無かった。

 

「あ、あの……」

「うっさい。今良いとこだから、話し掛けるな」

 

 携帯ゲームを弄っていた、薄紫の髪の少女が言う。確か彼女は、二番艦の多摩だ。

 

「いや、その……」

「あー、聞いてた聞いてた。今日着任の球磨型でしょ? 知ってるから、別に自己紹介とか要らないよ。あ、ベッドは奥のが空いてるから」

 

 ベッドでごろごろしている、黒髪の少女。三番艦の、北上だったか?

 

「ええと、私、一番艦……」

「それが何か? 言っておきますけど、一番艦だからって慕ったり敬ったりするつもりは無いですから。姉として扱われたければ、相応の活躍なりを見せて下さいな」

 

 何故か北上と同じベッドにいる、長めの茶髪の少女。四番艦の、大井の筈だ。

 

「その通りだ、球磨。むしろ、俺たちの方が先輩なんだから、へりくだるとしたらお前の方だな」

 

 軍刀の手入れをしている、眼帯の少女。五番艦の、木曾だろう。

 

「はは……」

 

 ――前途多難そうだ。まず、そう思い。

 

「――やってやろうじゃないか」

 

 ――絶対、こいつらに姉と呼ばれてみせる。そんな風に、決意した。

 私は結構、負けず嫌いなのだ。

 

    ◆◆◆

 

 大湊区。その範囲は概ね東北地方全域と等しく、海岸沿いに海上警備・遊撃を主に担当する小規模な基地が点在し、それらを統轄する『警備府』がかつての大湊警備府の所在地に再建されている。これは何も大湊ばかりでは無く、同じ様に『横須賀区』や『舞鶴区』等も存在するのだが――それはひとまず置いておくとして。

 ――大湊区が第二十三番基地。基地の廊下、大きな木製の扉の前に、一人の少女が立っている。少女は、軽く服装を整えた後、一呼吸置いて扉を叩く。

 

「入って良いぞ」

 

 それから数秒して、部屋の中から男性の声が響く。少女は、「失礼する」と一言発してから、ゆっくりと扉を押す。扉の先には、それなりの広さの個室が広がっており、奥に置かれた机を挟んで向こう側に、軍服の青年男性が一人立っていた。

 

「駆逐艦、長月だ。本日付けでこの基地に配属となった。よろしく頼む」

 

 男性の姿を確認すると同時に、少女――長月は姿勢を正して敬礼し、着任の挨拶をした。

 

「君が、長月だな。話は聞いているよ。何でも、『鬼』級の深海棲艦を、たった一隻で撃沈したそうじゃないか。確かに駆逐艦を陳情してはいたが、まさかそんな実力者が送られて来るとはね」

 

 軍服の男性、いわゆる『提督』はそう言いながら長月に歩み寄り、右手を差し出した。

 

「僕が、この大湊区第二十三番基地を任されている提督、花木(はなき)史哉(ふみや)だ。こちらこそ、よろしく頼むよ」

「ああ」

 

 長月もそれに応じ、手を差し出して握手をする。提督の手は、男性としては特別大きいという訳では無かったが、長月の小さな手と比べれば、随分と大きく感じられた。

 

「さて……君のこの柔らかくふにふになおててをずっと握っていたいというのは山々なんだけど」

「――っ!?」

 

 長月はとっさに手を振り払う。

 

「司令官。着任早々上官をセクハラで訴えるのは、流石に嫌だぞ」

「ああ、済まない。つい本音が」

 

 本音かよ、と長月は思ったが、しかしこのままでは話が進みそうにないし、あくまでも多少驚いただけなので、とりあえず黙っておく事にした。

 

「それで、本題だが。君は、本基地の第一艦隊に配属となる。というか……その」

 

 そこまで言って、提督は少し言葉を詰まらせる。

 

「ここには、君を含めても、五人しか艦娘が居ないんだ」

「――は?」

 

 思わず、素っ頓狂な声を出す長月。

 

「元々ここを使っていた提督は別に居たんだが、最近艦隊ごと海外に派遣されたとかで、空いていたんだ。それで、『余らせておくよりは誰かに使わせた方が良い』という話になったらしくてね。結果、一技術士官だった僕が、少佐以上の階級の人間で比較的手が空いていたという理由でここを任される事になったのが、つい半月ほど前。それから、必死に引き抜けそうな艦娘を探したり、新人を回して貰える様に頼み込んだりして、ようやく一人目が着任したのが、数日前。つまり、第一艦隊に配属と言うよりは、まだ第一艦隊しか存在しない、と言った方が正確だし、さらに言えばその第一艦隊すら、ごく最近まで存在しなかった」

 

 長月は、基地に足を踏み入れてから、殆ど人の気配を感じなかった事を思い出す。どういう事かとは思っていたが、そもそも人が少ないだけだったらしい。

 

「とりあえず、着任予定艦は君で最後だが――第一艦隊と言えば聞こえは良いが、出撃はおろか、まだ全員の顔合わせも済んでいないような状態なんだ。そういう訳で、今日のヒトナナマルマルに、皆の顔合わせを兼ねた着任祝いを、食堂で行う事にした。勿論、君にも参加して貰うよ。それまでは、自由にしていてくれ。君の部屋は三〇四号室だ。送られて来た君の私物もそこにある。見取り図が必要なら、僕の机の上から持って行くと良い」

「了解した」

 

 長月はそう応えて敬礼し、見取り図を手にとって懐にしまうと、部屋を出ようとする。

 

「そうだ、一つ言い忘れていた」

 

 その長月の背中に、提督が声を掛ける。

 

「何だ? 司令官」

「いや、君の部屋なんだが。先に着任した艦と相部屋だから、まあ、仲良くしてやって欲しい」

 

 ――駆逐艦は数が多い。故に、当てがわれる部屋は、大抵の場合他の駆逐艦と相部屋だ。まだ人が少ないここも、例外では無かったらしい。恐らくは、後々人数が増えた時の為に、事前にそうしているのだろう。

 

「分かった。用件はそれだけか?」

「ああ、下がってくれて良いよ」

 

 その言葉を聞いた長月は、今度こそ部屋を出る。例の研究所めいた基地の白い廊下と比べてずっと目に優しい、クリーム色の壁紙で覆われた廊下を進み、当てがわれた自室へと向かう。

 

「三〇四……ここだな」

 

 自室は、提督の執務室から比較的近い場所にあった。提督の言によれば先客がいる筈なので、長月は戸を叩く。

 

「入って大丈夫だよー」

 

 それからすぐに、部屋の中から返事が返って来る。

 ――長月にとって聞き覚えのある、やけに明るい声で。

 

「まさか」

 

 そんな声で話す人間は、彼女の知る限り一人しかいない。というか、あんな能天気かつ元気の塊みたいな声の持ち主は、そうそういるものでは無いだろう。

 長月は呆れた様な、諦めた様な、何とも言えない表情をして戸を開ける。

 

「……あれ、長月じゃん」

「ああ、私だよ……皐月」

 

 ――睦月型五番艦、皐月。着任前に知り合い、共闘もした長月の同型艦。後ろで二つに纏めた黄色に近い金の髪が、黒い制服も相まって、相も変わらず目立っている。もっとも、長月の萌黄色の髪も相当に目立つので、それはお互い様であるが。

 

「相部屋とは聞いていたが、まさか相手が知り合いだとは思ってもみなかったぞ」

「そりゃボクもだよ。そもそも、同じ基地に配属されるって事すら聞いてなかったし。まあ、知らない仲じゃ無い方が色々遠慮しなくて良いから、嬉しいけどさ」

 

 ――そうは言っても、つい数日前に会ったばかりだろうが。

 長月は心の中でそんな風に突っ込むが、しかしその意見に異議があった訳でも無いので、口には出さなかった。少なくとも、一緒にいて不愉快になる相手では無い事は、確かだから。

 

「まあ、今後ともよろしく……ってとこかな?」

「そうだな。よろしく頼む」

 

 長月はそう言って軽く頭を下げ、皐月もそれに倣った。

 

「いやー、知らない所に一人放り込まれて不安だったんだけど、長月がいれば心強いよ」

「何を言うか。全く面識の無かった私に、『暇してた』程度の理由で話し掛けられる人間なら、他の艦娘と打ち解ける事くらい訳は無いだろうに」

 

 長月は呆れたような口調で言いつつ、部屋に備え付けられた二段ベットの横に置かれた段ボール箱を開く。中には、自宅から送っておいた私物が入っていた。

 

「でも、長月とは気が合うと思うんだよ、ボク」

「そうか、多分それは勘違いだな」

 

 ぞんざいな返答をしつつ、長月は私物の中から携帯電話だけを取り出し、蓋を閉じて部屋の隅に追いやった。携帯の電源を入れると、画面に時刻が表示される。

 

「十五時五十分――あと、一時間と少しか」

「ん……ああ、例の着任祝い?」

 

 提督から指示された時間は、ヒトナナマルマル――午後五時。それまでの時間は、何かしらで時間を潰す必要がある。基地付近の土地勘を掴む為に散歩でもしようかとも考えたが、一時間では不足だろう。そうなると、読書でもするか、あるいはいつかの様に皐月と話でもするか。

 

「もしかして、暇?」

 

 長月の内心を察した様で、皐月がそう声をかける。

 

「ああ、かなり暇だな。一応、私物の中に本があるが、あまり読書に興じる気分でも無い」

「そっか……そんじゃあさ」

 

 そこまで言って、皐月は自身の足元の段ボール箱を漁る。恐らくは、中には皐月の私物が入っているのだろう。

 

「――ゲームでもしない? ボク、対戦出来るゲーム、結構持ってるから」

 

 そう言いながら皐月が取り出したのは、据え置きゲーム機だった。部屋にテレビは備え付けられているし、ご丁寧にコントローラーも二つ用意されていた。確かに、これなら二人で暇を潰せるだろう。

 

「そう、だな。別に構わないぞ」

 

 長月は余り積極的にテレビゲームの類をする人間では無いが、しかし年齢相応程度にはそういう物に興味があるし、触った事もある。少なくとも今、読書よりは余程興味を惹く物である事は確かだった。

 

「じゃ、決まりだね。あ、言っておくけど、院の皆とよく遊んでたから、ボク結構強いよ?」

「そうか。私は、人とゲームで対戦するのは初めてだからな。精々、お手柔らかに頼む」

 

 そうして、二人はゲームに興じて暇を潰す事になった。

 ――それから、おおよそ一時間後。

 

「うう……」

「いつまでうな垂れてるんだ、皐月。そろそろ時間なんだが」

 

 そこには、けろりとした表情の長月と、珍しく落ち込んだ様子の皐月が居た。

 

「結構、自信あったんだけどなあ、ボク……それが、完敗って……」

「いや、皐月も強かったと思うぞ」

 

 長月のフォローが、逆に皐月の心に刺さる。二人がプレイしたのは、いわゆる格闘ゲームだったのだが、皐月は終始、長月から一本も取る事が出来なかった。それどころか、最後の方は攻撃を当てる事すら出来なくなってしまったのだ。

 

「って言うか、初めてって嘘でしょ絶対! 動きがプロだったし! あれで初めてならゲームで世界目指せるって!」

「そうか。では、目指してみるのも一興だな」

 

 冗談めかして返す長月だが、初めてというのは本当だった。対戦前にコンピューター相手にしばらく練習していたし、その時は確かに初心者の動きだったのを、皐月も目にしている。

 

「くっそー……まあ良いよ、他のゲームで勝てば良いんだ……!」

「いや、その気概は結構なんだが、時間だと言っているだろう。いい加減にしないと、遅れるぞ」

 

 そう言って、長月はゲームとテレビの電源を落とし、立ち上がって部屋の戸に手をかける。皐月も、「分かってるって」とだけ言って長月の後ろに付いた。

 

「では、行くか」

 

 そう言って長月は部屋を出て、皐月もそれに続く。食堂は二階で、二人の自室からは数分とかからない場所にあった。中に入ると、一角に数人の人が集まっているのが見て取れた。その中に提督がいる事を確認し、二人はその場に近付く。

 

「来たか。さ、座って」

 

 二人の姿を認めた司令官がそう促し、二人とも素直にそれに従う。その場には、提督と二人を含めて、六人が集まっていた。恐らくは、残りの三人が共に艦隊を組む事になる艦娘達だろう。

 

「これで、全員かいな?」

 

 その様子を眺めていた、先に席についていた内の一人――茶髪を後ろで二つに纏めた少女が、司令官にそう問う。

 

「ああ、そうだよ」

「と、なると……五人だけっちゅうのは、ほんまやったんやな。てっきり、悪い冗談かと思っとったで」

 

 艦娘と思しき少女は、軽く溜息を吐く。

 

「仕方が無いさ。新規着任の提督が、いきなり大艦隊を任される筈も無い。だが、そこは君達の活躍次第だ。うちの評判が上がれば、自然と艦は増えるだろう――と」

 

 提督は少女の言葉にそう返した後、一つ咳払いをする。その場の全員の視線が、提督に集まった。

 

「――さて。本日こうやって集まって貰ったのは、事前に伝えたとおり、第一艦隊の顔合わせの為だ。お互い親睦を深め、一刻も早く安心して背中を預けられる仲になる様に。それと、細やかだが食事も用意させて貰った。夕食時だし、腹も減っているだろう。好きに食べてくれ」

 

 提督がそう言い終わると同時に、調理室から何人かのスタッフが大皿一杯に盛られた色取り取りの料理を運び出し、艦娘達の前へと並べた。

 

「それでは、僕はこれで失礼させて貰うよ。本当なら一緒に参加したいんだけど、何分まだ仕事が山のように残っていてね」

 

 料理が並び終えられ、準備が済んだ事を確認すると、提督はそう言ってその場を後にした。スタッフも調理室へと戻って行き、その場には艦娘達だけが残される。

 しかし、まだお互い殆ど面識が無いが故に、微妙な空気がその場に流れる。誰も口を開かず、料理にも手を付けない。静寂が続き、時間だけが過ぎて行く。

 

「――ったく、空気悪過ぎや! 葬式会場かっちゅーねん!」

「全くだっぴょん! 折角の美味しそうな料理が冷めちゃうぴょん!」

 

 それを打ち破ったのは、茶髪を後ろで二つに纏めた少女と、特徴的な語尾の赤い髪の少女だった。

 

「ほら、まずは自己紹介しよや自己紹介! うちら三人は先に軽く済ませたけど、そっちの二人はまださっぱりやからな。うちからでええよな?」

「どうぞだぴょん!」

 

 早口でまくし立てて茶髪の少女が立ち上がり、赤い髪の少女が了承する。その勢いに押され、他の三人も小さく頷いた。

 

「んじゃ、行くで――航空母艦、龍驤や。こう見えても、ちゃーんとした空母なんや。まあ、期待してや!」

 

 威勢良く、少し怪しげな関西弁で、龍驤はそう名乗り上げた。

 

「じゃ、次はうーちゃんぴょん!」

 

 龍驤が席に座り直すと同時に、赤い髪の少女が元気良くその場に立つ。

 

「卯月でっす! うーちゃんって呼ばれてまっす!」

 

 そう言って、卯月は大げさな動作でぺこりと頭を下げる。

 

「次は、私だな……」

 

 卯月が席につき、今度は白髪の少女が立ち上がる。

 

「菊月だ……宜しく頼む」

 

 やや小声でそう言って、菊月は軽く礼をする。

 

「んじゃ、今度はボクかな」

 

 菊月が着席した後、皐月はそう言って長月に目配せをし、軽く頷いたのを確認すると起立する。

 

「皐月だよっ。よろしくな!」

 

 いつもの調子を取り戻した様で、皐月は元気一杯にそう名乗り、卯月に負けず劣らずの大振りな礼をした。

 

「最後は、私か」

 

 皐月が席に座り直すと、長月はそう言ってその場に立った。

 

「長月だ。駆逐艦と侮るなよ。役に立つはずだ」

 

 相変わらずの仏頂面のままで長月はそう名乗り、礼もせず再び席についた。

 

「これで、全員やな。ま、仲良くやってこや? さて――飯やな、飯」

「ぴょん!」

 

 全員の自己紹介が終わった所で、龍驤と卯月が立ち上がって料理を取りに向かう。

 

「ほれ、自分らも早よ取ったらどや?」

「早くしないとー、うーちゃんが全部食べちゃうぴょん?」

 

 龍驤と卯月はそう言って周囲を急かしつつ、席に着いて料理にがっつき始める。それを受けて、他の艦娘達も料理に手を付け始めた。

 

「結構腹空いとるからなー、仰山食わして貰うで!」

「うーちゃんも、おなかぺこぺこぴょん!」

「これはなかなか、美味そうだな……」

「長月、そっちのハンバーグ取って!」

「そのくらい自分で取れ」

 

 そうして、少しずつ騒がしくなっていく。

 さっきまでの静けさは、何処かへと消えていった。

 

    ◆◆◆

 

「うう、食べ過ぎた……」

「全く。自分の食べられる分量くらい、きちんと把握しておけ」

 

 顔合わせ兼着任祝いの食事会も済み、長月と皐月は自室へと戻って来ていた。

 

「まあ、その通りなんだけど……っと、さて」

 

 苦笑いしながらそう答えつつ皐月はベッドに腰掛けると、携帯を取り出して弄り始めた。そんな様子の皐月に「私は少し出かけてくるよ」と声を掛け、長月は部屋を出た。今なら時間もあるし、基地周辺の散歩をしようと考えながら。

 

「――おや」

「――あ」

 

 その道中で、提督と鉢合わせた。上着と軍帽を脱いだ、大分ラフな姿をしている。

 

「どうした。何か、用事でも?」

「いや……大した事ではない。少し、基地の周りを散歩しようと思っただけだ。この辺りの土地勘を、掴んでおきたいしな」

 

 特に隠す事でも無いので、長月はありのまま伝える。

 

「ふむ」

 

 その返答を聞き、提督は顎に手を当てて少し考える仕草をする。

 

「それなら、僕が車で案内しようか? 見て回るだけであれば、それでも良いだろう」

「それは、そうだが……仕事が山の様に残っているんじゃなかったのか?」

「何、大方片付いたさ。さ、着いて来い」

 

 そう言って、司令官は踵を返して歩き出し、長月もその後ろに付いた。提督は一階へと降り、そのまま歩いて基地から出る。そして、正面玄関付近に駐車された、スポーツタイプの黒のセダンに乗り込んだ。

 

「ほら、乗れ」

 

 長月もそれに従って、助手席に座る。提督は車を発進させ、ゲートを抜けて敷地から出る。

 

「しかし、艦娘一人の散歩程度に付き合うとは、案外暇なのか、司令官?」

「そうでもないさ。ただ、少々君に用事があったから、ついでにと思ってね」

 

 そんな会話を交わしながら、二人を乗せた車は海岸沿いを行く。人気は少なく、ちらほらと民家があるのみだ。

 

「用事? 何だ、重要な話か?」

「そうだな、僕からしてみれば、結構重要な話だな。まあ、頼み事だよ」

 

 角を曲がり、海岸沿いから逸れる。それまでと比べ、建物や人気が増え始める。

 

「実は、君に秘書艦をお願いしようと思うんだ」

 

 ――秘書艦とは、要するに提督補佐だ。事務処理の手伝い、艦娘目線からの作戦への助言、提督不在時の指揮代行、果ては提督の食事作りまで、様々な事を行う。雑用と言い換えても語弊は無い。

 

「秘書艦、か……だが、普通は第一艦隊旗艦が兼任するんだろう? それとも、私が旗艦なのか?」

「いや、旗艦は当面は龍驤に任せるつもりだ。だが、本人が秘書艦業務を辞退してな。別に、必ず旗艦である必要も無いし、嫌だと言う奴に無理にさせるよりは、別の人間に頼んだ方が良いと思った訳だ」

「それで、代わりを私にして欲しい、と」

「そういう事だ」

 

 赤信号に捕まって停止する。周囲を見渡すと、そこは既に街の中心部だった。首都圏とは比べ物にならないとは言え、この地域としては高いビルが立ち並び、往来には人通りも多い。

 

「だが、何故私なんだ?」

「まあ……そうだな」

 

 信号はすぐに青に変わり、再び車が発進する。街明かりと行き交う人々が、後ろへと流れて行く。

 

「まず、真面目そうである事。円滑な業務の遂行の為には、重要な要素だ。他には、成績優秀である事。何も例の装甲空母鬼の事ばかりじゃなく、君は適性検査や訓練の成績も良かったからな。それに、筆記試験も中々だ。少なくとも、秘書艦業務を遂行するに当たって支障があるとは考え辛い。理由を付けるとしたら、その辺りかな」

「含みのある言い方だな」

「いや、何。言ってしまえば、殆ど消去法なんだよ。皐月と菊月は、正直に言って筆記試験の成績がお世辞にも良くは無かった。事務処理なんかは苦手だろうし、嫌いだろう。となると、長月か卯月だが――仕事を一緒にするにあたっては、物静かな方が好ましいからね。結局、そのくらいの理由でしかないのさ」

 

 中心街を抜け、住宅密集地へと入る。海岸沿いから距離があり、一見安全そうだが――そうとも限らない事を、長月は知っている。

 

「で、どうだ。引き受けてくれるか?」

「命令であれば」

 

 素っ気ない長月の返答に、提督は苦笑いをする。

 

「別に、嫌なら断ったって良いんだぞ。卯月に頼むだけだ」

「嫌では無い。嬉しくも無いが」

 

 それでも、長月はいつも通りの仏頂面で、そう答える。

 

「そうか。まあ、引き受けてくれるならばそれで良いんだ。明日から色々と任せるだろうから、頼んだぞ」

「ああ、分かった」

 

 そこで二人の会話は途切れ、それからしばらく辺りを見て回った後、基地へと戻る。提督は、「では、また明日」とだけ言って執務室へと引っ込み、長月も自室へと向かった。

 

「ん、ああ、お帰りー」

 

 部屋に戻ると、皐月が床に寝転がってゲームをしていた。着任したばかりだというのに、途轍もなく寛いでいる。

 

「どこ行ってたのー?」

「少し、辺りを見て回っていた」

 

 長月は非常に簡潔な返答をしつつ、私物の入った段ボール箱を開く。その中から、着替えとタオルを取り出した。

 

「――さて。今度は、風呂に行ってくる」

 

 それだけ言うと、取り出した物を片手に長月は戸に手をかける。

 

「わ、ちょ、待ってよ!」

 

 しかし、皐月がそれを制した。

 

「どうした」

「いや、そういう事ならさ。折角だし、一緒に行こうよ。ボクもお風呂まだだし」

 

 そう言って皐月はゲーム機とテレビの電源を落とし、手元の段ボール箱を漁る。恐らく、着替えやタオルを探しているのだろう。特に断る理由も無いので、長月はその様子を見守る。多少手間取っている様子だったが、しばらくすると皐月は無事に着替えを探し当てた。それを確認すると同時に、長月は戸を開けて廊下へと出る。

 

「だ、だから待ってってば!」

「だから待っていただろうが。さっさと行くぞ」

 

 慌てて後を追う皐月を尻目に、長月は早足で廊下を歩みつつ、見取り図を取り出す。艦娘用の浴場は、正面玄関から向かって右の端に存在した。それを確認して見取り図を懐にしまい直し、階段で一階まで降りる。

 

「な、長月歩くの速いー!」

 

 後ろから聞こえる皐月の叫びを露骨に無視しつつ、長月は浴場を目指して進む。横須賀等の主要立地の、それも大規模な基地に比べれば圧倒的に小さい基地であるとは言え、それでも下手な学校よりは広く、部屋数も多い。見取り図が無ければ、長月でも迷っていたかもしれない。

 

「――長月ー! どこー! ってか、ここどこー!?」

 

 ――喚き散らしている皐月の様に。

 

「全く……こっちだ、こっち!」

 

 深い溜息を吐いてから、恐らく一階のどこかに居るであろう皐月に呼び掛ける。

 

「あ、そっちか」

 

 すると、思ったよりも近場の部屋から皐月がひょっこり顔を出した。その入口には、『多目的ホール』の文字。

 

「あのな……皐月。幾ら多目的だからって、入浴用途は想定していないと思うんだが」

「分かってるよそんなの! 迷っただけだって!」

 

 頬を膨らませながら反論する皐月。長月は内心、どんなに道に迷ったにしても、明らかに関係が無い部屋には入らないだろう、と思いつつも、皐月の様子があまりに必死そうだったので黙っておいた。

 

「見取り図はどうした?」

「えっと……貰ってない。このくらいの広さなら何とかなるかなー、って」

 

 その発言に長月はもう一度溜息を吐き、懐から見取り図を取り出して皐月に突き出した。

 

「え、良いの?」

「ああ。念の為、余分に貰っておいて良かったよ」

「ありがと長月! やっさしー!」

 

 見取り図を受け取った皐月は、その場でくるくると回転して全身で喜びを表現する。表彰状でも受け取ったかの様な喜び様で、相変わらず一々大袈裟だ。

 

「優しい……か」

 

 しかし、長月の興味はそれとは全く別の所にあった。

 

「きっとそれは、勘違いだよ」

 

 ――自分の様な人間失格が、間違っても優しい筈が無い。

 

「優しい人間っていうのは――お前の様な奴の事だよ、皐月」

 

 そんな事を思いつつ、長月は小声で呟く。些細な事で満面の笑みを浮かべる皐月を、どこか遠くを眺めるような目で見つめながら。

 

「何か言った? 長月」

「独り言だ」

 

 首を傾げる皐月にそう言って、長月は踵を返し再び歩き出す。怪訝な顔をしつつも、皐月もその後ろに続く。そこからは数分とかからずに、二人は目的地まで辿り着いた。艦娘用の浴場なので、男女で分かれてはいない。『ゆ』の一文字が書かれた暖簾を潜り、靴を脱いで脱衣所へと足を踏み入れる。まだ人数が少ないこともあってか、先客はいない様だ。衣服を脱ぎ、空いている籠に放り込んでいく。すっかり脱ぎ終わると、二人はタオルを片手に浴室へと続く曇りガラスの戸を引いた。

 

「おー……」

「これは……何というか、本格的だな」

 

 二人の目に入ったのは、如何にも温泉である、と言わんばかりの様相の浴場だった。全体的に岩に覆われ、浴槽の湯は微かに緑に染まっている。かけ流しなのか、岩を積み上げた壁の隙間から浴槽に途切れなく湯が注がれ、溢れ出る湯が床を濡らしている。

 

「そう言えば、この辺って温泉地だっけ。でも、ここのお風呂まで温泉だとは思ってなかったよ」

 

 皐月はそんな感想を漏らしながら、入口横に積み上げられた桶を一つ手に取る。内装は凝っている割に、桶は銭湯によく置いてある、黄色いプラスチック製の医薬品の広告が入った物だった。

 

「どうせなら、木製にでもすれば良いだろうに」

 

 とは言え、別に桶として何か不足がある訳では無い。多少ミスマッチだというだけだ。長月はぼやきつつも、皐月と同じ様に桶を手に取ると、鏡の前に置かれた椅子に座った。皐月も、その隣に座る。備え付けられたシャワーを手にとって蛇口を捻ると、適温のお湯が噴き出した。

 

「あー……温かい」

 

 皐月は立ち上がって、全身で湯を浴びる。幼く白い柔肌の上で水滴が輝き、零れ落ちて行く。長月はその光景を横目に、座ったまま軽く湯を浴びると、髪を濡らしてシャンプーを付けた。

 

「うん? 長月は、先に頭洗うの?」

「ああ。向こうで洗いそびれたからな。雨で大体流れたとは思うが、先に洗っておいた方が良いだろう。ついでだから、身体もな」

 

 そう答え、長月は目を瞑りながらやや乱暴に両手で頭を掻く。所々で指が引っかかるのは、潮風で髪が傷んでいるのか、それとも汚れの所為か。

 

「んじゃ、ボク先に入ってるね」

「ああ、そうしてくれ」

 

 そうして皐月はシャワーを止めてとてとてと歩いて行き、「いやっほう!」という妙にテンションの高い掛け声と共に浴槽に飛び込んだ。

 

「――熱っ! お湯熱っ!?」

 

 着水音と共に背後から聞こえる悲鳴に対し、長月は「阿呆か」とだけ呟いて、特に振り返る事もせずに洗髪を続ける。腰の辺りまである萌黄色の髪はすっかり泡に包まれ、それを手で梳かす様に洗う。前髪に付いた泡が胸の辺りに滴り、なぞる様に長月のきめ細やかな肌を滑り落ちて行く。

 一通り洗い終えると、手探りで蛇口を捻り、鏡の上に引っ掛かっているシャワーから湯を出す。丁度いい位置に湯が掛かり、顔周辺の泡が流される。十分に泡が落ちてから長月は目を開けて湯が出たままのシャワーを手に取り、残りの泡を洗い流して行く。次に桶にお湯を張り、タオルをその中に入れて湿らせる。十分に湿った所でタオルを引き上げ、固形石鹸を挟んで良く泡立てる。そうして泡だらけになったタオルで全身を擦り、全身を隈無く洗う。

 それが終わると、泡だらけの手でシャワーを掴んで蛇口を捻り、立ち上がって湯を浴び全身に付いた泡を洗い流す。タオルの泡や、椅子や蛇口に付いた泡もしっかりと洗い、長月はようやく浴槽に向かった。ちゃぷん、と小さな音を立てて、湯船に浸かる。湯の温度は確かに高めだったが、急に飛び込んだりしなければ問題は無い。

 

「ん、あー……もう終わったんだ。早いねー」

 

 その様子に気付いた皐月が、湯をかき分けながら長月に歩み寄って来る。大分温まっている様子で、顔が熱で赤く染まっている。

 

「そうか? こんな物だろう」

「そっかなー……まあ良いや、ボクもそろそろ、上がって洗って来ようっと」

 

 そう言って、皐月は湯船から上がり、シャワーの方に歩いて行った。一人になった長月は、壁際まで移動して、もたれ掛かかって座った。湯船はそれほど深くは無く、年齢相応とは言え絶対的には背の低い長月であっても、腰を下ろす事が出来た。

 

「はー……」

 

 長月にしては珍しい、気の抜けた声が出る。温泉という物の存在は当然知っていたし、テレビや何かで見た事は何度もあるが、入るのは初めてだった。

 

「うん、こいつは良いな……」

 

 いつも無愛想な長月も、流石に表情が緩む。まるで、疲れが湯に溶け出して行く様な感覚だ。身体に染みるとはこういう事かと、全身で理解する。そもそも、ここに来る前にかなり過酷な状況での戦闘を行ったのだから、疲労はかなり溜まっている筈なのだ。そのまま目を閉じて、じっくりと湯に浸かる。

 ――しばらく経ち、十分に暖まった長月は湯船から上がる。良く絞ったタオルで全身を拭き、丁度身体を洗い終えたらしい皐月に「先に出ているぞ」と声を掛けて、浴場から出る。脱衣所で用意していた着替えを着ると、洗面台の横に備え付けられたドライヤーで髪を乾かす。

 

「ふいー、さっぱりした」

 

 そうこうしている内に、皐月も浴場から出る。長月と同じく着替えを着て、長月の隣でもう一つ用意されていたドライヤーを使い、髪を乾かし始めた。

 

「そだ。部屋帰ったら、また対戦しようよ。今度は、別の奴で」

「良いだろう。またこてんぱんにしてやるさ」

「あ、あはは……出来れば、お手柔らかに……」

 

 取り留めもない会話を交わしつつ、ゆっくりと時間が過ぎて行く。

 ――こんなのも、偶には良いかもしれない、と。

 心にも無い事を、長月は思った。

 

    ◆◆◆

 

 微睡みから目覚め、長月の意識が徐々に覚醒する。目を擦りながら掛け布団を除け、身体を起こしてベットから降りて立ち上がる。二段ベッドの上段をちらと覗き見ると、どうやら皐月はまだ寝ている様子だ。

 

「まあ……早起きするタイプでは無さそうだしな」

 

 現在時刻、午前六時。常識外れに早い時間という訳では無いが、しかし長月や皐月の年齢を考えれば相当早い時間である。

 寝間着を脱ぎ、制服に着替える。皐月を起こさない様に気を遣いつつ、廊下に出る。部屋のすぐ近くの手洗い場で顔を洗って目を覚まし、早朝特有の肌寒さを感じながら、朝食を目当てに食堂を目指す。確か、もう開いている筈だ。

 

「――おう、長月。お早いお目覚めやな」

 

 その道中で、龍驤と出会った。

 

「龍驤さんこそ、早起きじゃないか」

「まーなあ、色々やりたい事もあるし……で、長月は飯か?」

 

 龍驤の問いを、長月は頷いて肯定する。

 

「ほんなら丁度ええわ、うちもこれから食い行こう思っとったんや。一緒に行こや」

「分かった」

 

 特に断る理由も無いので、長月は龍驤の提案を受け入れる。二人並んで、食堂に向かう。

 

「そういや、聞いたで? 自分、装甲空母鬼とタイマン張って勝ったそうやないか。噂になっとるで」

 

 道中、龍驤が話し掛けてくる。装甲空母鬼の事については、長月は他人に殆ど話していないのだが、既に大分広まっている様だ。

 

「まあ、な」

「なんや、軽い反応やなあ。凄いこっちゃで君? 『鬼』を駆逐艦が単独で撃破するなんて、そうそうあらへん。もっと、誇ってええんやで?」

 

 そう言って、龍驤は長月の肩をばんばんと叩く。皐月とはまた違った方向性の明るい人だ、と長月は思う。

 

「別に、そういうつもりでやった事では無い」

「ああ、そか……ま、ええわ。どうするかは、自由やしな。ただ――」

 

 龍驤は歩きながら、顔を長月の方に向ける。長月も倣う様にして、視線を合わせる。

 

「――そういうのに、憧れる奴もいる。その事は、覚えといた方がええ」

 

 少しだけ真剣な調子で、龍驤は言った。

 

「まあ、そんだけや。さ、飯や飯」

 

 会話を交わしている内に、食堂前まで辿り着いていたらしい。扉を開き、二人は食堂に入る。

 

「おばちゃーん! 朝定食一つ!」

「私も、同じ物を頼む」

 

 注文を受け、厨房奥で待機していたスタッフが動き出す。料理が出されるまでは少しかかりそうな様子だったので、長月達は一旦近くの席に向かい合うように腰掛けた。

 

「今日の献立は何やろなあ……っと」

 

 呟きながら、龍驤が卓上の割り箸入れに手を伸ばし、中の爪楊枝を一本取って口に咥える。

 

「うん? 何をしてるんだ?」

「ああ……これな。癖や癖。艦娘になってからすぐに禁煙したんやけど、どうにも口が寂しゅうてな。で、代わりに爪楊枝咥えてみたら、これが案外しっくり来た。それから癖になってしもた」

 

 爪楊枝を器用にぴこぴこと動かしながら、答える龍驤。

 

「――煙草?」

 

 その発言を聞いた長月が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。

 昔煙草を吸っていた? まさか、この見た目で成人済みなのか? いや、顔付きにしろ背丈にしろ、どう見ても私と同じくらいか、精々が少し歳上程度にしか――

 

「元喫煙者って、このちんちくりん歳幾つだ? ――とか考えとるやろ。飲酒に関しては黙認されとるが、喫煙は咎められるからなあ」

「――い、いや、そんな事は」

 

 完全に図星を突かれ、長月は咄嗟に否定するが、当の龍驤は「ええんや、慣れっこやから」と笑いながら言う。

 

「うち、これでも今年で二十三なんやで?」

「に、にじゅうさ――⁉︎」

 

 予想よりも遥かに歳上だった。

 

「そ、それは済まなかった! てっきり、私より少し歳上くらいかと――」

「だから、ええって。こういうの、一度や二度や無いし。それに、若く見えるって考えりゃそう悪い事でもあらへん。一々気にするより、開き直った方が楽や」

 

 思わず頭を下げる長月に、まるで気にしていない様子で言う龍驤。

 

「因みにやけど、長月は幾つや?」

「私は……今年で、十だ」

 

 長月の返答に、今度は龍驤が意外そうな顔をする。

 

「へえ――もう少し上かと思っとったわ。えらい落ち着いとるからなあ、君」

「落ち着いている――か」

 

 確かに、そう表現する事も出来るかもしれない。しかし、一見的を射ている様で、本質的には全く以って的外れだろう。

 ――感情の起伏があるからこそ、落ち着いていると言えるのだ。私は、その定義には当て嵌まらない。

 

「どないした。深刻そうな面して」

「何でもない」

 

 長月がそう返した直後、カウンターから二人を呼ぶ声がする。注文の品が出来たらしい。二人は立ち上がり、食事を受け取ると元の席に着く。手を合わせて「頂きます」と呟き、二人は食事に手を付け始めた。

 

「焼き魚と味噌汁、卵焼きとおひたしに新香、そんで飯か。まー見事なくらいに典型的な和の朝食やなあ」

 

 言いながら、龍驤は咥えていた爪楊枝を左手で二つに折って近くのゴミ箱に投げ捨てつつ、反対の手で焼き魚を解し、茶碗に乗せて白米と共に掻っ込んだ。

 

「しかし、魚か。最近は高いんじゃないのか?」

「そら、養殖やろきっと。そんでも需要に供給が追っ付いとらんから、確かに昔に比べりゃ随分高いけどな」

 

 制海権は徐々に確保されつつあるとは言え、絶対の安全が保証されている海域など何処にもない。当然、安心して漁など出来やしない。それでも時折、艦娘の護衛の下に比較的安全な海域で漁が行われている辺りは、この国の人間の魚好きが伺える。

 

「まあ、私は食べられれば何でも良いが」

「好き嫌いが無くてええ事や」

 

 ――二人がそんなやり取りをしていると、食堂の扉が開く気配がする。

 

「お、二人とも早起きだな」

 

 現れたのは、提督だった。

 

「おー、司令官。おはようさん」

「うん、おはよう。そして、長月もおはよう」

「ああ、おはよう」

 

 提督は二人に挨拶すると、「天ぷらうどん、大盛りで」と注文して長月の隣に座った。

 

「そういえば、秘書艦の業務には提督の食事作りも含まれると聞いた事があるのだが」

「ああ、別に良いよ。他に色々やって貰いたい事も多いし、頼まなくても何とかなる様な事まで頼む訳にはいかないさ。まあ、どうしても作りたいなら止めはしないが」

「そんな訳があるか」

 

 長月はばっさりと言い切り、提督は「ま、そうだよな」と言いつつも少し残念そうな顔をする。

 

「なんや、秘書艦は長月になったのか?」

「ああ、そうだ。そう言えば、龍驤さんは秘書艦業務を断ったそうだな」

 

 そもそも、長月に秘書艦業務が回ってきたのは、そういう理由だった筈だ。

 

「あー……いや、断ったっちゅうか、うーん、まあ、断ったっちゃ断ったんやけど」

 

 しかし、龍驤は微妙な表情を見せながら言う。

 

「別に、僕は隠す様な事じゃないと思うんだがな」

「分かっとるわそんな事。でも、なんや、その……まあ、ええやんか」

 

 龍驤はそう言うと、少し俯いて言葉を止めた。どことなく、顔が赤らんでいる様に見えた。

 

「――まあ、それはともかくとして。丁度旗艦と秘書艦が揃っている訳だし、今の内に連絡しておこうか」

 

 そんな様子を眺めつつ、提督は真剣そうな調子で言う。長月と龍驤は一旦箸を止め、提督の方に顔を向ける。

 

「面子も揃った事だ。近海の警備を兼ねた練習航海を、今日の昼頃――ヒトニイサンマルに実施しようと思う。ここの近辺の海域では殆ど深海棲艦が出没しないから戦闘訓練にはならないだろうが、連携の練習くらいにはなる筈だ」

「確かに、一遍合わせるくらいはしとかんとやな。いつ出撃命令が入るかも分からんし」

 

 龍驤の反応に、「その通りだ」と提督。

 

「うちのような比較的小規模な基地は、近海警備が主任務だ。だが、近海で何か異常が起こったり、大規模作戦が発令された等は、戦力の一つとして運用される事になる。それが、いざ実戦という時に碌に連携も取れないでは問題だろう。もっとも、訓練で連携については叩き込まれているだろうから大きな問題は発生しないとは思うが、万が一という事もある」

 

 そこまで提督が話した所で、カウンターから提督を呼ぶ声がする。提督は立ち上がって受け取りに向かい、注文したうどんを持って帰って来る。

 

「まあ、そういう訳だ。他の三人には、二人から伝えておいてくれ。それと、練習航海が終わり次第、長月は執務室に来る様に。やって貰いたい事があるからな」

 

 そう言って、提督は黙々とうどんを啜り始める。長月と龍驤も、食事に集中する。

 ――それから数時間後、基地近海。海を駆ける、五つの影があった。

 

「さあ仕切るで! 全艦、輪形陣! うちを中心に、配置は正面が長月、そっから番号順に時計回り!」

 

 龍驤の号令と共に、単縦陣にて航行していた艦隊が輪形陣を取る。艦隊を組んだのは昨日、合同で艦隊行動を取るのは今回が初めての彼女達だが、駆逐艦は護衛任務が主任務だ。必要な技術は、着任前から徹底的に叩き込まれている。

 

「対潜警戒を行いつつ、全艦そのまま両舷前進原速!」

 

 間隔を均等に保ちつつ、原速(十二ノット)で航行する。特にふらついたりする事も無く、概ね様になっている。

 

「良い感じや! ほな、も少し速めに行くで! 両舷前進、第一戦速!」

 

 号令を受け、少しずつ航行速度を速めて行く。

 

「菊月! 間隔が狭い! 皐月はちゃんとペースを合わせろ! 味方同士で衝突して轟沈とか、目も当てられんで!」

 

 隊列が乱れる度に龍驤が声を張り上げて指摘し、改めさせる。多少もたつきつつも、大きな問題を起こす事無く全員が第一戦速(十八ノット)まで加速した。

 

「――前方に敵影確認!」

 

 直後、長月が叫ぶ。

 

「何やて!? ――数と艦種は!」

「分からない、流石に遠過ぎる!」

 

 今回の出撃はあくまで練習航海であり、戦闘は想定していなかった。しかし、出会ってしまったからには無視する事も出来ない。万一に備え、戦闘可能なだけの装備は施されている。

 

「しゃーないな、偵察機発艦させるで!」

 

 龍驤はそう言って、腰に下げていた巻物状の飛行甲板を手に取り、勢い良く振り広げる。そうして展開された飛行甲板の上を滑らせる様に、式神状の艦載機を投擲する。すると、その姿は非雷装の九七式艦攻へと変化し、高度と速度を上げて敵艦隊へと向かって行く。

 

「――捉えた! 駆逐ロ級が三、軽巡ホ級が二! 勝てる相手やな、仕掛けるで! 長月以下四隻は単縦陣に陣形変更後、両舷前進最大戦速にて敵艦隊へ突撃や!」

「了解!」

 

 号令に従い、四人は一直線に並んで勢い良く敵艦隊へと突っ込んで行く。龍驤はその場に留まり、今度は雷装された九七式艦攻隊を発進させた。艦に比べて圧倒的に高速である艦載機は長月達を一瞬で追い抜き、一足先に敵艦隊に接敵する。

 

「艦載機の皆ぁ! お仕事、お仕事!」

 

 龍驤の威勢の良い掛け声と共に、攻撃隊が航空魚雷による雷撃を試みる。当然敵艦隊も無抵抗では無く、高射砲や対空機銃によって何機かの機体が撃墜されたが、ロ級やホ級は決して対空能力が高い艦では無く、その上空母も不在と来れば、当然捌き切れる筈も無い。雷撃は問題無く実行され、ロ級二隻に魚雷が直撃し撃沈、ホ級一隻も中破した。

 

「皆、準備は良いな!」

「勿論だっぴょん!」

「問題無い……」

「よーし、いよいよボクの出番だね!」

 

 航空攻撃が終了すると同時に、長月達が敵艦隊を主砲の射程内に捉える。

 

「各艦、砲戦用意! ――撃てぇ!」

 

 長月が叫び、一斉に主砲が発射される。睦月型主砲十二センチ単装砲から放たれた砲弾が既に半壊状態となった敵艦隊に降り注ぎ、残りの三隻全てを爆散させた。

 

「――駆逐艦長月より、空母龍驤へ。敵艦隊、全滅を確認した。そちらと合流するぞ」

『空母龍驤より駆逐艦長月へ。了解や、念の為偵察機を哨戒させつつ、さっきの場所で待機しとくで』

 

 艦隊初の戦闘は呆気なく終わり、長月達と龍驤が合流する。

 

「全く、この辺りじゃ深海棲艦なんぞ滅多に出てけぇへんっちゅう話は、一体どこ行ったんや」

「仕方無いだろう、海上である以上絶対の安全など無いのは分かり切っている。それに、実戦形式の訓練が出来たと思えば、そう悪い事でもあるまい」

 

 再び輪形陣を取り、原速で航行を再開する。

 

「そう言えばさー、ただの練習なら、あれを使えば良いんじゃないの? ほら、適性検査とかの時に使った、VRシステム」

「ああ、あれなー……何でも、装置がめっちゃ高い上にメンテナンス出来る人間が殆どおらんとかで、数が揃えられんらしいわ。当然やけど、うちの基地にゃあらへんで」

「あちゃー、そうなんだ……」

「ま、出て来るにしてもあの程度の敵な訳や。あれくらいの相手なら問題無さそうやし、もうしばらく続けるで」

 

 そう言うと龍驤は再び指示を出し、それに従って複縦陣や単横陣へと陣形を変更したりと、連携の訓練を再開する。

 ――それからは特に何事も無く、燃料が減って来た所で基地へと帰投する。基地前の桟橋から陸へ上がって格納庫で艤装を下ろし、それぞれの自室へと戻って行く。但し、龍驤と長月は自室ではなく、執務室へと向かった。龍驤は報告の為、長月は秘書艦業務の為だ。龍驤はノックもせず、「入るでー」と言いながら豪快に執務室の扉を開く。

 

「龍驤に、長月か」

「第一艦隊、帰投したで。全員、損傷は特に無し。ただ、一度敵艦隊と遭遇して弾薬と艦載機を少し消耗したから、しっかり補給する様に整備斑に伝えといとくれや」

「敵艦隊と――ふむ」

 

 近海で深海棲艦と遭遇する事は正直予想外であり、提督は少し難しい顔をするが、しかし海の上で絶対の安全など無い事は分かり切っている。特に被害が無い事もあり、そういう事もあるだろう、くらいに結論付け、疑問を頭の隅に追いやった。

 

「まあ、分かった。それと――おかえり」

「おう、ただいま」

 

 簡単に報告を終え、龍驤は執務室から出る。

 

「長月も、おかえり」

「ああ。ただいま、司令官」

 

 執務室には、提督と長月だけが残される。

 

「さて――長月には、秘書艦としての初の仕事をして貰おう。と言っても、難しい事じゃない。僕が目を通した書類を、整理して向こうの籠に入れてくれ」

 

 そう言って、提督は窓際に置かれたサイドボードの上を指差す。確かに、何枚かの書類が入った籠が置かれている。

 

「了解した」

 

 長月の反応を認めると、提督は卓上の書類に何か書き込んだり判を押したりし始め、長月はそうして目が通された書類を指示通りに運ぶ。

 

「――そういえば、長月」

 

 そんな中、唐突に提督が口を開いた。

 

「どうした」

「いや、君がここに来る前に、臨時艦隊を組んで戦闘を行っただろう? 装甲空母鬼と交戦したという、あれだ。あの時、行方不明者が三人出ていたな?」

「ああ。そもそも、その報告をしたのは私だ」

 

 幾つかの偶然と不運とが重なった、長月の初の実戦。長月自身の戦果はともかく、全体としてみれば散々な結果となった作戦だ。

 

「で、それがどうしたんだ?」

「向こうから捜索結果の報告があってな。――巻雲と浜風が、見つかった。大きな損傷は無く、無事だそうだ。装甲空母鬼と遭遇した際に、蒼龍が囮になって二人を逃したらしい。だが、無線機と羅針盤は故障、現在地も分からず、彷徨う内に燃料も尽きて帰るに帰れず。そうして漂流していた所を、捜索隊に発見されたとの事だ」

「――それは、良かったな」

 

 ――あの二人、生きていたのか。長月の感想は、率直に言ってそれだけだった。幾ら一時的に組んだとはいえ、皐月と違ってまともに会話も交わしていない相手だ。もっとも、仲間が生存していたという事が悪い事である筈も無いので、素直に喜ぶべきではあろうが。そして、提督の言い方からするに、蒼龍はまだ見つかっていないのだろう。ここまで来てもまだとなると、恐らくは、そういう事だ。奇跡的に生存している可能性は否定出来ないが、現実はそう優しい物でも無い。

 

「それと、長月に伝える様にと、向こうの提督から一つ言付けも預かっている。『済まなかった』、だそうだ」

「そうか」

 

 長月に思い当たる節はあるが、彼女はその事を気になどしていない。あんなのは、慣れっこだ。

 

「話は、終わりか?」

「ああ」

 

 そのやり取りを最後に会話は途切れ、再び静寂が訪れる。書類同士が擦れる音や、ペンを走らせる音に判を押す音、長月の足音のみが部屋を支配する。

 

「――ああ、そうだ。もう一つ、話があった。いや、話と言うか、質問かな。長月に訊きたい事があるんだが、良いか? 個人的な興味からの、質問なんだが」

 

 しばらくそれが続いた後、再び提督が口を開く。

 

「構わないぞ」

 

 手を止めずに、長月は即答した。

 

「では、訊くが――君は何故、艦娘に志願したんだ?」

 

 提督も手を動かしたまま、そんな事を問う。

 

「大した理由では無い。ただ、あいつらに個人的な()()があるだけだ」

「そう、か」

 

 この前、皐月にも似た様な事を訊かれたな、と思いつつ、長月は答えた。

 

「――それで、その()()とやらは、何だ?」

 

 ただ、提督は皐月と違い、続けて深く突っ込んだ質問をした。

 

「そんなに、気になるのか?」

「気になるな。自分の部下で、しかも秘書艦だぞ。戦いに身を投じた理由くらい、聞いておきたいだろう? まあ、無理にとは言わんがね」

 

 提督は手を止め、長月に視線を向ける。

 

「で、どうだ。話してくれるか?」

「そう……だな」

 

 長月も手を止め、提督と視線を合わせる。

 

「まあ、聞きたいというのであれば、話そうか」

 

 別に、長月はそれを話す事について抵抗があった訳では無い。特別隠す意図があった訳でも無い。

 

「まず初めに、だな――」

 

 ただ、何かがあったとすれば――

 

「――私には、さ。生まれつき、心という物が無いんだ」

 

 ――理解はされないだろう、という認識だけだ。

 

「それは……どういう意味だ?」

 

 流石に予想外だった様子で、提督は少し呆気に取られた様な表情をする。

 

「そのままの意味だよ。喜怒哀楽の一切が無い。生まれてこの方、感情という物を実感出来た事が、一度も無いんだ」

 

 ――彼女は。

 長月――もとい、『長岡つみき』という少女は。そういう人間だった。

 

「何があっても、何を見ても、何を言われても。泣けないし、笑えないし、怒れない。どうすればそれが出来るのかさえ、良く分からないんだ。私は、そんな自分が大っ嫌いで。何度も何度も変えようとして、変わろうとして。でも、どうしようもなかった」

 

 楽しい事だってあった筈だ。悲しい事だってあった筈だ。それでも何も感じなかった。『人でなし』と罵られ。『化け物』と蔑まれ。『嘘吐き』と否定され。家族とすら殆ど言葉を交わさなくなり。それでも――何も感じなかった。

 

「――艦娘になる前、深海棲艦に襲われた事がある。目の前で家族が殺され、私自身も絶体絶命。だが、それでさえ、私は何も感じなかった。流石にあれは、笑うしか無かったな。ああ、あの時初めて笑えたよ」

 

 流石の自分でも、関わりの深い人間が死んだり、生命の危機に晒されたら、何かしら感じる物があるのでは無いのかと、頭の何処かで考えていた。でも――そんなのは、ただの思い込みでしか無かったのだ。

 

「だが同時に、こいつらならもしかすると、とも思った。今この世において、恐らくは最も手っ取り早く強い恐怖を感じられるであろう相手だからな。もっと強力な深海棲艦であれば、あるいは私の心をも動かす事も出来るのではないか――と。ふとそんな風に考えて、私は艦娘になったんだ」

 

 表情一つ変えず、淡々と長月は話す。

 

「しかし、戦艦を相手にしても、『鬼』を相手にしても、私の心はさっぱり動かなかった。あとは『姫』辺りにでも期待するしか無いが、望みは薄いだろうな。かと言って、艦娘はそう簡単に退役する事は出来ないし、やるからには最善を尽くす気概だが――まあ、個人的な理由というのはそんな所だ。信じないならそれで良いし、笑いたければ笑えば良い。気味が悪ければ、遠慮無く秘書艦業務から外してくれれば良いさ。何なら、艦隊から外したって良いぞ。好きにしてくれ」

 

 もしもこんな事を言う奴が居れば、私だってそんな人間となんて関わりたくない。嘘を吐いているとすれば馬鹿馬鹿しく、本気ならば更に質が悪い。そう考えながら、長月は視線を提督から手元の書類に戻し、業務を再開する。

 

「――馬鹿を言うな。そんな事をする筈が無い」

 

 ――しかし、その手はすぐに止まった。

 

「当然信じるし、気味悪がったりもしないに決まっているだろう」

「――何故だ?」

 

 あまりにも予想外の提督の言葉に、思わず問う長月。

 

「何故だ、と来たか。まあ――そうだな」

 

 提督は、少しだけ表情を緩ませる。

 

「僕の、新人時代の上官が言っていたんだ。『自分の部下の事を端から疑ったりする様な事は、あってはならない。部下を邪険に扱うような事も、してはいけない。それが、上官というものだ』とね。言ってしまえばその受け売りさ。――君が僕の部下である以上、僕が君を疑う事は有り得ないし、君を気味悪がったりもしない。約束しよう」

 

 力強く、はっきりと。提督は断言した。

 

「だが、それはあくまで上官としてだろう。司令官は――司令官自身は、不愉快では無いのか。こんな、狂人の戯言を聞いて」

「それを話せと言ったのは僕の方じゃないか。むしろ、素直に話してくれた事に感謝するくらいの物だ。例えそれを差し引いたって、僕個人としても、不愉快だとは露程も思わんさ。いや――そもそもだ。勝手な事を言わせて貰うが、君が狂っているだの、そもそも心が無いなどと、僕は思わないな」

 

 そう言って、提督は長月と目を合わせた。

 

「何を、根拠に」

「――だって、君は、悩んでいるじゃないか」

 

 提督は立ち上がり、長月の真横へと歩み寄る。

 

「君は言ったな。感情が無い自分が嫌いだったと。そんな自分を変えようとしたと。それはつまり、悩みだろう。だが、本当に心が無いというのならば、悩んだりはしない。そんな事を気にしたりも、自分を嫌ったりもしないだろう。それらは感情が成せる技だ。本当に心が無いのであれば、自らのあり方に疑問を持ち、思い悩み、変わろうと行動するなんて事は、しない筈だ。――違うか?」

「し、しかし、私は――」

「――大丈夫だ」

 

 提督は手を伸ばし、長月の頭に乗せる。

 

「わ、わっ」

「君はまだ、僕の半分さえも生きていない。諦めるには早すぎるだろう。――なあに、焦る事は無い」

 

 提督が屈む。長月と、視線が合わさる。

 

「――大丈夫だよ、きっと」

 

 ――優しげな笑顔で、そう言いながら。提督は、くしゃくしゃとかき回す様に長月の頭を撫でた。

 

「――っ!」

 

 だが、長月はその手を振り払うと、逃げる様に執務室から退出した。

 その背中を、呆然と眺めるだけの提督。

 

「――やってしまった」

 

 提督はしばらく固まった後、酷く落ち込んだ表情で呟いた。

 

「流石に、馴れ馴れし過ぎたか? それとも、気安く頭なんか撫でたのが悪かったのか? ああ、()()()には散々女性への接し方がなってないって言われてたけど、全くその通りだよ……! しかもそこに来て子どもだぞ、どう接したら良いのかなんて分かるもんかよ……!」

 

 執務机に突っ伏して、ぶつぶつと愚痴る提督。

 

「ま、まあ――過ぎた事は仕方が無い」

 

 自分に言い聞かせながら、上体を起こす。

 

「これ以上下手に何かして心象を悪化させたく無いし――少し、放っておこうか。戻って来たら、謝ろう」

 

 提督はそう結論付けて、長月を追う事はせずに一人執務を再開した。

 

「――はあ」

 

 ――長月はと言えば、執務室から少し離れた廊下の壁に寄り掛かっていた。その顔は僅かに紅潮し、表情には戸惑いの色が見て取れる。

 

「あんな事を言われたのは、初めてだ。何なんだ、一体」

 

 提督の反応は、長月にとってあまりにも予想外で、柄にも無く動揺してしまった。

 

「そして――こんな感覚も、初めてだ」

 

 長月は、自分の胸に手を当てる。その奥に、確かに何かを感じる。

 

「――よく、分からない。何なんだ、これは」

 

 例えるなら、そう。熱を出した時の様な感覚だ。しかし、体調はどこも悪くない。そもそも、艦娘はそう簡単には風邪など引かない。

 

「まあ……良い。とりあえず、戻るか」

 

 気が付くと部屋を飛び出してしまっていたが、まだ仕事は残っている。秘書艦としての責務は、きちんと全うすべきだろう。落ち着いてきたところで、長月は執務室へと戻る。

 

「――ええ。まだ五隻ですが、その程度であれば。彼女達にとっても、良い経験になるでしょう。着任から間も無いとはいえ、連携も概ね問題有りませんし、実戦も十分に行えます」

 

 執務室の扉を開くと、聞こえて来たのは提督の声。様子を窺うと、どうやら誰かと通話しているらしい。

 

「はい、その様に。それでは」

 

 その言葉を最後に、提督は備え付けの古めかしい黒電話の受話器を置いた。

 

「お、帰って来たか」

 

 ほぼ同時に、提督が長月の姿を認める。

 

「ええと、その、何だ――さっきは、済まなかったな。会って間も無い人間が、分かったような事を言ってしまった。それに、馴れ馴れしく頭まで撫でて」

 

 そう言って、提督は頭を下げる。

 

「いや……別に、不愉快だった訳じゃない。大丈夫だ」

「そうなのか? それなら、良いんだが」

 

 ほっと胸を撫で下ろす提督。

 

「しかし……そうすると、何故急に部屋を飛び出したんだ?」

「そ、それはだな、え、ええと……」

 

 長月は、提督の質問に答えようとするが――何と説明して良いか、分からない。そんな物、こっちが訊きたいくらいだ。

 

「ひ、秘密だ」

「そうか」

 

 とりあえずそう答えた長月に、提督は然程気にした様子も無くそんな風に返す。元々、そこまで追及するつもりも無かったのだろう。

 

「まあ、それはそれとして、だ――丁度良い時に来てくれた」

 

 提督はそう言うと、立ち上がって椅子に掛けた上着を着直し、机上の軍帽を被った。

「――出撃だ。皆を呼んで来てくれ」


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