とある道化の回転方向(トルネイダー)   作:笛吹き男

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第三章 シスターズ Level3(not_Only)

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 『絶対能力進化(レベル6シフト)』は一方通行(アクセラレータ)が二万人の妹達(シスターズ)を殺害することで成立する。二万人もの少女たちが、無口な躯と成り果てるのだ。

 当然、そのことを道長昨也(みちながさくや)は知っていた。知っていて、何もしなかった。

 道長昨也はあくまで“普通の”人間なのだ。学園都市統括理事会が自ら進める実験に横槍を入れる権利も力もない。だから、道長は学園都市の非道を見て見ぬ振りをした。

 『絶対能力進化(レベル6シフト)』だけではない。学園都市では大小様々な非人道的所業が至るところで行われている。それは科学の発展の犠牲であり、そうして得られた成果の恩恵を、道長たち学園都市の住民は当然のように受けている。学園都市の『表』の人間にとって、『裏』の出来事などそれこそ夢物語のような話であり、それゆえに自らが享受するものに何ら疑問も抱かない。それが普通で、それが当然なのだ。

 道長が一人声を上げたところで、学園都市の『裏』は何も変わらない。道長一人に学園都市の『裏』は傷一つ負うことはないし、それ以前に道長自身が学園都市の『表』に異分子として淘汰されてしまうだろう。

 第一、道長だって学園都市の『裏』を把握しているわけではない。道長が知るのは『量産異能者(レディオノイズ)計画』と『絶対能力進化(レベル6シフト)』の二つだけであり、巨悪に思えるこの二つすら氷山の一角なのだ。ただ道長に分かるのは、学園都市の『裏』が『量産異能者(レディオノイズ)計画』や『絶対能力進化(レベル6シフト)』を平然と行うような場所だということだけだ。

 道長一人が動いたところで何になるというのか。道長一人抗ったところでどうなるというのか。

 道長昨也はただの学生に過ぎない。強能力者(レベル3)などという肩書きは学園都市そのものの前には意味をなさず、『回転方向(トルネイダー)』という特別性(オリジナル)一方通行(アクセラレータ)の前では無に等しい。成人すらしていない十七歳はまさしく子供であり、何の力も持ってはいないのだ。

 それに、道長の知っている『量産異能者(レディオノイズ)計画』も『絶対能力進化(レベル6シフト)』も、“誰にも”迷惑すらかけていない。

 『量産異能者(レディオノイズ)計画』によるクローン人間の製造は確かに国際法で禁止されている。けれど、言ってしまえばそれだけに過ぎない。生命を冒涜するという“ただそれだけ”の理由でしかクローン人間製造は禁止されていないのだ。クローン人間はクローン人間として扱われ、そこに人間としての矜恃も感性も生まれない。クローン人間自身が己を実験動物だと認識する以上、そこにあるのは実験動物と研究者の関係だけであり、クローン人間は特別知性が発達し人語が解せる“動物”でしかない。量産異能者(レディオノイズ)学習装置(テスタメント)によって知性を得るものの、ならば生まれたてのクローン人間は知性を持たないただの“動物”なのだ。人間を人間たらしめるものが知性であり、その知性が育て親によって育まれるものだというのならば、クローン人間は研究者によって動物として育てられた動物である。クローン人間など、ただの細胞の集合体でしかないのだ。

 そして『絶対能力進化(レベル6シフト)』はそんな“ヒトの形をした動物”を殺すことでしかない。二万匹という膨大な数ではあるものの、人間が日々気づかず殺しているバクテリアたちの数を思えば霞むような数字だ。更にはクローン人間たちを殺されて悲しむような者もいない。もともと殺されるべくして生み出されるのだ。そんな存在に人間関係など必要はなく、よってクローン人間たちは誰にも知られることなく生み出され、殺されていく。

 たとえ自分が通った通りの路地裏で御坂美琴(みさかみこと)のクローンが殺されていようとも、毎日二十人以上もの彼女らが殺されていようとも、道長には関係のないことなのだ。日々作業的に殺されていくクローンたちと同じ顔をする御坂美琴の姿を画面の向こうに見たところで、道長が動揺する必要もないはずなのだ。

 そうやって道長は自分を抑え込み、この一年過ごしてきた。近くで人が殺されていようとも、それは中東で日々起こっている紛争と同じであり、道長とは関係のない“遠い”ところの出来事なのだと。

 なのに。

 いや、だからこそ。

 結標淡希(むすじめあわき)が口にした「ミサカ一00三二号」という言葉に反応してしまったのだろう。

 派手な音を立てて身を乗り出してしまった道長に、淡希は目を細める。

 その視線に気づいて、道長は浮かした腰を元に戻した。

「――――どうしたのかしら?」

「いえ、なんでもありません……」

 分かりきった問答の後、沈黙が二人を包む。

 道長昨也は視線を落とし、結標淡希は視線を保つ。

 逃げるように俯き、かつて何度も繰り返した思考に道長は再び隠った。

 ――――一〇〇三ニ。

 次に実験に使われる妹達(シスターズ)検体番号(シリアルナンバー)が一〇〇三ニだと言うのならば、それはつまり、“それまでにに一〇〇三一人の妹達(シスターズ)が殺された”ということに他ならない。絶対能力進化(レベル6シフト)が始まって約十ヶ月。毎日二十人から三十人の妹達(シスターズ)が死んでいる計算になる。

 異常。まさにその一言に尽きる。

 正気の沙汰とは思えない所業。けれど、道長にはどうしようもない事であり、関係のない事であるのだ。道長が行動を起こす理由にはなり得ない。

 殺された一〇〇三一人の妹達(シスターズ)。これから殺される九九六九人の妹達(シスターズ)。ニ万人という、学園都市人口の約一パーセントにも及ぶ膨大な数。学園都市の百人に一人が妹達(シスターズ)であるという事実。百人に一人が、殺されているという現実。

 それはとても恐ろしいことだ。

 既に『知らなかった』ではいられない。だが、動いてしまえば『なかった』ことには、後戻りすることはできない。

 今、この瞬間、確かに殺されようとしている命がある。そのことを道長昨也は知っている。しかし、彼女を助けるということは残りの九九六八人の命も助けるということである。

 一度助けてしまえば、二度と見て見ぬ振りはできない。一人救ってしまえば、残りを見捨てることはできない。

 それは学園都市に反抗するということだ。強大な学園都市と、対立するということだ。

 たった道長一人で、“親しくも何ともない”少女たちのために、“殺されるべく生み出された存在が殺されることを許せないというだけ”の理由で、二三〇万の能力者と現行三十年先の科学力を有する実質上の独立国家、学園都市と戦う。物語の中でなら言えるかもしれない。世界を敵に回しても、たった一つを守る意思こそが大切なのかもしれない。

 けれど、現実は優しくない。

 道長昨也に学園都市に歯向かう力などなく、妹達(シスターズ)に寄せる思いもない。

 書面上でしか妹達(シスターズ)の存在を道長は認識していない。道長が知っているのは欠陥電気(レディオノイズ)試行検体(プロトタイプ)だけであり、その彼女も既に死んでいる。道長が絶対能力進化(レベル6シフト)を気にかけるのは一重に“彼女”がいたからであり、妹達(シスターズ)とは直接は関係がない。

 そしてなにより、一方通行(超能力者)を敵に回そうと考えることがあり得ない。

 道長は、妹達(シスターズ)の存在を一年前から知っていた。知ってはいたが、それはあくまで存在だけであり、いつ、どこで、どのように、妹達(シスターズ)が殺されるかまでは知らなかった。だからこそ、道長は妹達(シスターズ)を助けるか否か、などという事を考える必要などなかったのだ。

 けれども今、道長の目の前にはそれを知る存在がいる。道長には、それを知る手段が生まれてしまっている。

 選択しなくてはいけない。

 妹達(シスターズ)を見殺すのかどうか。一方通行(アクセラレータ)と戦うのかどうか。学園都市と対立するのかどうか。

 考えて、道長は自身を嘲笑する。

 こんな問題、考えるまでもない。答えなど最初から決まっているのだから。

 道長は顔を上げ、淡希を見つめる。

 淡希の表情は変わらない。最初から最後まで、薄い笑みを浮かべている。

妹達(彼女たち)がどうなろうと、知ったことじゃない」

 ニ万人の他人の命と自分の命。

 誰も知らない命と自分の命。

 殺されることが決まっている命と自分の命。

 そんなもの、端から天秤の傾きは決まっている。

「学園都市に抗う気なんてありませんから」

 道長が最後に付け加えた言葉は。余計な一言だったのかも知れない。

 

 

     2

 

 翌日、道長が目を覚ますと、いつもより天井が高かった。背中の感触も布団にしては硬く、掛布団の代わりにタオルケットにくるまっている自身に気づいた道長は、まだ動きの鈍い頭で昨日のことを思い返す。

 あの後、淡希は意外にもすぐに帰り、道長は一人でインスタントの夕食をとった後、宿題をする気にもなれず早めに寝た。ただ布団はおねしょしてしまっているため使うわけにもいかず、床で寝ることにしたのだ。

 寝る前に処方された精神安定剤を一昨日よりもしっかり飲んだためか、道長の股元は無事だった。

「……クリーニング行かなきゃ」

 射し込む日差しの中で、道長は伸びをする。

 昨晩淡希が座っていた場所には当然誰もおらず、既にその温もりも霧散している。昨日のことが嘘のように、いつもと変わらない朝を道長は迎えていた。

 朝食の支度をしながらテレビを点ける。一人きりの部屋にニュースキャスターの穏やかな声が流れ始めた。

『――ここ数日企業の撤退が相次いでいる筋ジストロフィーの病理研究において、新しい風が吹こうとしています――』

 テレビの音声を聞き流しながら、パジャマを着替えて朝食の準備をする。いつも通りのルーチンワークに身を任せ、道長は淡々と作業を進める。

 何も考えないように。

 昨日のことを思い返さないように。

 結標淡希の存在を忘れることができるように。

「――んぐ……」

 錠剤を口に含み、水で押し流す。塩素の匂いが口内に広がり、喉の奥がざらついた。

 本来、胃を荒らさないために食後に服用するべき精神安定剤だったが、道長はそれを無視した。精神安定剤は当然それそのものに精神安定効果を保持しているが、長期、または重度服用者の場合は“服用するという行為自体”が精神安定効果をもたらすからだ。

 喉を固形物が通るのを感じながら、道長は大きく息を吸った。そしてトースターから取り出したトーストを口に運ぶ。

 八月二十一日の朝のことだった。

 

 

     3

 

 道長昨也という少年は、学園都市の『裏』において少々特殊な立ち位置にいる。

 学園都市の『裏』は暴力の世界だ。誰かが助けてくれることもなく、誰かが守ってくれることもない。殺られる前に殺る。それが罷り通る無法地帯。

 しかし、そんなアンダーグラウンドすらも学園都市統括理事会の手足でしかない。もちろん、完全にコントロールできているわけではないが、学園都市の『裏』における強力な集団、又は個人は皆何らかの形で統括理事会との繋がりを持っている。そして学園都市に買われた、飼われた彼らはそうでない『裏』の住人を配下におき、手足として使い潰す。

 道長昨也は知らないことだが、学園都市の『裏』である『学園都市の闇』の中でも、『表』の捜査も受け付けず、統括理事会の意思の下で学園都市のために暗躍する者たちを特に『暗部』と呼び、『裏』の住人の内影響力がある人間は大方皆『暗部』に属しているのだ。学園都市の『裏』の住人は何らかの組織に身を寄せており、全ては最終的に統括理事会に帰結する。そしてその道筋によって様々な派閥が形成され、勢力争いが日々どこかしらで物理的に引き起こっているのだ。

 そんな学園都市の『裏』を『表』と繋ぐ存在は極めて珍しい。両者の境界に位置するためには、『裏』の侵攻を押し止める力と、『表』で振る舞うための地位が必要だからだ。通常『裏』が『表』に働きかけるときは統括理事会にまで一度命令系統を逆上らなければならず、『裏』と『表』が直接触れ合うことはない。少しでも『裏』に関わった者は『学園都市の闇』に堕ちやすく、『暗部』は言うに及ばない。

 そんな中で、道長昨也は一度『裏』にそれなりに関わり合いながら、それ以降『裏』と接触することもなく『表』で生きている。

 当然、道長自身の力ではない。

 凍結した超能力進化(レベル5シフト)の中で埋もれていた道長を引き取った男がいたのだ。

 

 冥土帰し(ヘブンキャンセラー)。それが男の他称である。

 

 その医者は患者を助けることに全てをかける。医療技術が足りなければ研き、治療設備が満足いくものでなければ開発する。誰一人見捨てることもなく、どんな危険な患者も救ってみせる。

 曰く、どれほどの致命傷を負おうとも、彼の元に“生きて辿り着きさえすれば”死ぬことはない。

 曰く、寿命すらも超越し、彼の患者になればもう死ぬことはできない。

 患者が必要とする物は何であろうと揃えあげ、“脳細胞の完全破壊による記憶喪失”という異例を除いて全ての患者を冥土から取り戻してきた男。

 “患者を救う”ということに異常なまでの執着心を持ち、“患者を救う”という偉業を常に成し遂げてきた医学界の異端児。

 尊敬はされるものの、共感を得られることはなく、その身にたった一人の追随を許すこともなく、ただ目の前に横たわる患者をひたすら救ってきた。

 差し伸べられた手は決して拒まず、任された命は有無を言わさず引き受ける彼だが、しかし“そうでなければ”何もしない。そして、確かに歪んでいるのに、それを感じさせない処世術も併せ持つ。その線引きがまた、この男の異端さを際立てていた。

 そんな彼が道長昨也を見つけたのは偶然だった。

 通常、学園都市の『裏』の出来事に『表』の公的機関が関わることはない。『表』『裏』区別なく患者を治療するこの医者でも、わざわざ自分から患者を探しに『裏』に行きはしない。いくらそこが患者“候補”に日々溢れ返る場所であったとしてもだ。

 その日、彼の“暗部用の緊急回線”に連絡が入った。至極単純な、助けを求める内容だったが、その連絡は彼を少しばかり驚かせもした。

 冥土帰し(ヘブンキャンセラー)の名は学園都市の高みに近い者にとって有名である。それは『表』も『裏』も変わらない。そして、有名過ぎた。

 一部の者なら冥土帰し(ヘブンキャンセラー)の名が学園都市統括理事会理事長アイレスター=クロウリーと引けをとらない価値を持つことを知っているだろうし、そうでない者も冥土帰し(ヘブンキャンセラー)の学園都市における異質さは理解しているだろう。

 冥土帰し(ヘブンキャンセラー)が住まう彼の城、学園都市第七学区にある彼の病院は、学園都市統括理事会理事長直々に『不可侵』と表明されているのだ。

 それを破ることは学園都市統括理事会理事長を敵に回すことになる。

 故に、冥土帰し(ヘブンキャンセラー)の存在を知りながらも学園都市の力ある者たちは彼を頼ることができない。

 そんな自分に『裏』の人間から要請が入ったのだ。その人物は『裏』での地位も力も全てを投げ捨てて“生きたい”と願ったのだろう。それでも、その人物が彼の“患者”でなくなれば『不可侵』は適応されなくなる。その先は冥土帰し(ヘブンキャンセラー)の名は守ってくれないのだ。

 『裏』の者たちが医者を必要にする原因を作り出すのは、大概が派閥争いか処分執行である。一時を冥土帰し(ヘブンキャンセラー)の元で行き長らえたとしても、その先に待つのは既に決まってしまった変わらない結末なのだ。故に、『裏』の人間が冥土帰し(ヘブンキャンセラー)の処置を受けるとき、そのほとんどが偶然によるものとなる。『裏』の人間は彼に助けを求めるなどという“無駄な”ことはしないのだ。

 だからこそ連絡を寄越した経緯に興味を持った。

 といっても、大それたものではない。彼の興味の大部分が患者の容態と事後経過であり、冥土帰し(ヘブンキャンセラー)は患者を救ってこそ冥土帰し(ヘブンキャンセラー)となる。彼の意識の片隅に残っただけだ。それでも、彼が“患者”を見つけるのには十分だった。

 学園都市の『裏』に関わることであったため、彼は自ら連絡してきた患者の元へ向かった。そうして、瓦礫の下敷きになっていた道長昨也と出会ったのだ。

 その日、道長昨也(グーフィーズ)冥土帰し(ヘブンキャンセラー)は出会い、語られることのない物語が始まった。

 そのとき以来、道長昨也は冥土帰し(ヘブンキャンセラー)の預かりどころとなり、平穏な日々を過ごすこととなる。

 八月二十一日から、およそ十ヶ月前のことだ。

 

 

     4

 

 八月二十一日も既に三分のニが終わろうとしていた。

 夏至はとうに過ぎたとはいえ、まだまだ夏の盛りである。辺りは十二分に明るく、昼間の熱気が引く様子もみられない。夏休みもラストスパートということもあり、学園都市の街は学生たちで溢れていた。

 そんな人だかりの中を、道長は歩いていた。

 午前中にクリーニング屋に出かけ、昼食は少し早めの時間に外食。学園都市の外食産業は統括理事会の助成金によって低価格高品質を実現しているため、自炊のできない学生でも十分に栄養バランスの整った食生活が送ることができるようになっている。基本的に台所に立つことがない道長は、昼は外食で済ますことがほとんどである。

 学生たちで込み合う前に店を後にした道長は、体が鈍らないためのウォーキングと食後の運動も兼ねて学園都市の散策へと興じた。

 途中、本屋の立ち読みで数時間潰し、そろそろ戻ろうかというのが今の状況だった。

 日が沈むまでまだ二時間はある。明るい街中を道長はクリーニング屋へと向かう。

 学園都市のクリーニング屋は極めて優秀で、一体どんな技術を使っているのか、五時間もあれば一仕事終えることができる。学生にとっては嬉しい限りであり、道長もその恩恵を享受するうちの一人だ。

 ところが、クリーニング屋に着いた道長を待っていたのは、諸事情により業務が遅れているとの旨だった。

「たいへん申し訳ありません」

 頭を下げるバイトの受付女学生の謝罪を受けながら、道長はどうするか考える。

 なにやら、あと二時間待てば全工程が終わるらしい。二時間どこかで時間を潰すのと二日連続で床の上に寝るのを天秤にかけ、前者に傾いたことを確認する。

「わかりました。また、後で来ます」

 再び頭を下げるショートカットの女学生に見送られ、道長は店を出た。

 予期せぬ時間が与えられたものの、幸いにも今は八月。日が落ちるまでまだ時間はあるため、二時間くらいなら気兼ねなく待つことができる。

 道長は来た道を戻り、再び本屋へと立ち読みをしに戻った。

 大型チェーンの古本屋なので中には私服姿をした学生たちがけっこういたが、普段に対して別段混んでいるわけではない。学園都市は娯楽関連物に高い税率をかけているため、漫画やエンターテイメント小説といったものが読みたい場合は、立ち読みOKな古本屋に行くのが学生たちの共通認識である。

 道長もその例に漏れずエンターテイメント小説コーナーに立ち入ると、三十分ほど前と同じように『魔術と科学が交差する物語』の続きを読み始めた。

 世界は自然科学(フィジカル)で満たされているとその身に知りながらも、魔術的(オカルト)な存在は娯楽として人々の中に在り続ける。それは、超能力すらも自然科学で再現してみせるここ学園都市においても例外ではない。もっとも、最近は仮想現実を題材にした似非ファンタジーSFが人気のようだが。

 そのまま道長は古本屋で時間を潰し、日が陰ってきたところで外に出た。

 午後も六時過ぎということで、所々に暗い影がさしている。ビルとビルの隙間などはとくにそれが顕著で、大通りから少し脇に逸れればそこは既に夜の世界だ。

 夏特有の薄ら寒い夜風を浴びながら、道長は歩道を進む。エアコンによって冷えた身体が夏の空気に熱せられ、首元を掠める生温い風が変に身体を冷ます。路地裏から吹き出る隙間風に首を潜めた道長は、そこでつんと鼻にくるすえた匂いに気がついた。

 漂ってくるその匂いは、僅かではあるものの確かに空気に染みていた。

 道長は顔をしかめ、ちらりと目をそちらに向ける。細い路地の奥は真っ暗で、その先に何があるか確かめることはできない。再び鼻孔に染みる酸っぱい匂いに鼻を手で押さえながら息を吸う。そして道長は、もう一つの匂いの存在に気づいた。

 一度気づいてしまえば、意識せざるをえない濃厚な匂い。逆になぜ先に気づかなかったのか不思議に思うくらいに独特の匂い。ねばっこくて、重たくて、生暖かい“それ”の匂い。

 “それ”は大量に溢れたとき、匂いを変える。普通に暮らしていれば決して知ることのない“それ”を、確かに道長は覚えていた。

 すぐさまこの場を離れようとして振り返った道長の肩を、誰かが掴んだ。

「――――!」

 道長は思わず腰を落としてしまう。みっともなく尻餅をついた道長の前に立っていた、胸に更級を巻いたツインテールの女だった。

 彼女、結標淡希は薄く笑って道長を見下ろす。

 夕日を背にした淡希の笑みは、暗く輝いていた。

「どうしたの?」

 淡希の妖しい声色が、そっと道長を撫でる。その暗い瞳に覗き込まれ、道長は動けなくなってしまった。

 そんな道長に対して、淡希はその白い腕を伸ばして彼の腕を掴む。そして道長が口を開く前に、淡希は彼を引っ張り上げた。

 但し、その向きは路地の奥。

 道長に腕を伸ばすと同時に彼の隣を通り路地へと歩を進めていた淡希は、そのまま道長を奥へと誘う。気づいたときには、道長は路地の中へと入り込んでしまっていた。

 有無を言う間もなく道長は路地の奥へと連れ込まれる。全身を覆う不快感が一層増すが、直接身体に触れている空間移動能力者(テレポーター)相手に為す術などない。能力が使えなくなっている道長にとって、頭に拳銃を押し付けられた状態に等しいのだ。

 淡希は道長を連れて路地を奥へと突き進む。それに従って道長の悪寒は加速度的に増していく。そうして、道長は“それ”を見つけた。

 一言で表すならば、それは“肉”だ。

 赤く染まったピンクの柔らかい腸肉が、血の海に倒れ伏す少女の腹からはみ出していた。陥没した頭蓋に、あらぬ方向に折れ曲がった手足。全身の血液が外に流れ出しているかのように辺りは真っ赤で、腹だけでなく身体中の至る所が“内側から”破壊されて、血を、肉を、骨を露出している。

 人間は所詮人体という名の“血肉”でしかない、と思わせるほどに無惨な亡骸。

 顔は膨れ上がり、もはや原型を留めていない。それでも、その死体が誰であるか道長には理解できた。

 欠陥電気(レディオノイズ)。御坂美琴のクローンにして肉体面における完全なるコピー。殺されるべくして生まれてきた実験動物。ひき肉になろうとどうしようと、それを憐れむ必要もない使い捨ての存在。そして単価は十八万円。ボタン一つで生み出される、ただそれだけの存在。

 道長はその躯に生理的嫌悪を覚える。けれども人形めいたその死体は、道長の意識を強引に揺さぶる。

 それはまるで、透明な水面を見ているような。

 “そっち”と“あっち”は確かに違うというのに、その境界線に違和感がない。一歩踏み出せば沈んでしまうというのに、それが嘘であるかのように世界が繋がっている。

 越えてはならない境界。けれど、それそのものはあやふやで。確かにそこに在るのに、そうとは思えないように自然で、不自然で。

 きっと越えれば戻ってこれない。それはとても危険な思いで。

 きっと越えれば楽になれる。それはとてま甘美な誘いで。

 おそらくは“向こう側に立っている”結標淡希を見て。

 道長昨也はその重圧に耐えられず、その場で激しく嘔吐した。

「…………おぉ……おぇ……」

 としゃりと黄色く酸っぱい液固状の内容物が地面に落ち、その一部が跳ねて血の海に飛んだ。

 重たい血の匂いに臭いすえた匂いが混じり合い、人体が出すとは思えないほど醜悪な匂いとなって辺りに漂った。

 ぜぇぜぇと荒い息を繰り返す道長の隣で、淡希は淡々と言葉を紡ぐ。

「無事、第一00三一次実験は終了したようね」

 その声に、憂いはまったく感じられない。

「まだこれを、九九六九回も続けるのよね」

 所詮はクローン、作られた命。

「あーあ、第一位も大変ね。だるいだけの作業をちまちま繰り返すなんて」

 誰も彼女たちの生存を望んではいない。

「そういえば、超電磁砲(レールガン)が今晩にでも動くのかしらね」

 御坂美琴の代用品でしかない、消耗品。

「第一位と直接やりあうようだけど、今度こそ殺されるんじゃないかしら」

 …………え?

 


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