東京/東京大神宮
夏休みは、スポーツクラブの練習と合宿と試合の予定で埋め尽くす。
そんな京太郎の計画は、夏休みが始まる一週間前に、「東京に行くぞ」という父親の一言で粉砕された。普段は自由気ままにやりたいことをやっている京太郎であったが、このときばかりは父親に逆らえなかった。
東京という響きにはそれなりに魅力はあったが、それよりもチームメイトたちとボールを追いかけているほうが楽しい年頃だ。決して彼は乗り気ではなく、溜息を吐きたくなった。
しかし、けれども。
その気持ちは、東京で出会った友達が忘れさせてくれた。
「京……くん……」
「京太郎……」
両隣から名前を呼ばれて、京太郎は身体を震えさせた。
がばりと起き上がってみれば、すぐ近くで小蒔と憧がすやすやと寝息を立てている。寝言のようだった。二人とも京太郎の布団まで侵入してきていた。
訳も分からずどきどき高鳴る心臓を抑え付け、京太郎は深呼吸する。
時刻は午前四時半。既に空は白んでいる。
――ほとんど、眠れなかった。
大会の前日も、合宿の最中でも、京太郎はいつも通り眠ることができる。そこまで神経は細くないのが彼の自慢だった。
なのに、今日はどうしても眠れなかった。
小蒔と憧と、ずっとお喋りして。霞に怒られても、声を潜ませ話し続けて。
やがて限界を迎えた二人が先に眠りに落ちても、京太郎はずっと目が冴えたままだった。一瞬だけ意識が落ちたのが、ほんの三十分前。
今更眠れないと考えた京太郎は、立ち上がった。
洗面所に向かって、顔を洗う。
「――おはよう、京太郎くん」
隣から、声をかけられた。霞だった。
「あ、おはよ、霞さん」
「早いわね」
「霞さんこそ。びっくりしたよ」
「ごめんなさい」
くすくすと霞は笑う。
彼女は、小蒔にとって親友であり姉のような存在だ。京太郎は決して口には出さないが、彼も彼女を姉のように感じていた。ちょっと、おっかないところも含めて。
「よく眠れた? ずうっと小蒔ちゃんたちとお話していたみたいだけど」
「そ、そこんとこは大丈夫。小蒔ちゃんも憧も今はぐっすりだよ」
俺は寝てないけど、なんて言ったら怒られそうだったので京太郎は誤魔化す。霞にどこまで通じているのか分からないが、正直にはなれなかった。
「京太郎くん」
「どしたの? 歯磨き粉、切れた?」
「ありがとう」
京太郎は目を瞬かせる。霞の意図が、分からなかった。
「小蒔ちゃんのこと。この旅行中、ずっと一緒にいてくれて」
「なんだ、そんなことか。俺だって小蒔ちゃんたちと遊んでて楽しかったから、お礼言われることじゃないよ」
「でも、小蒔ちゃんは京太郎くんと憧ちゃんだから、楽しかったと思うの」
霞の言葉には、熱が籠もっていた。
「良かったら、これからもずっと小蒔ちゃんと友達でいてくれる?」
「霞さん、ほんとに小蒔ちゃんのお姉ちゃんみたいだな」
「似たようなものよ」
京太郎は歯ブラシをくるくる振り回して、答えた。
「良かったら、も何もない。小蒔ちゃんと憧と俺は、ずっと友達だよ」
「――ええ。ありがとう、京太郎くん」
頭を下げて、霞は部屋に戻って行った。
彼女とも、もうじきお別れだ。後数時間もすれば、帰りの飛行機に乗り込んでいるだろう。京太郎も、帰路につかなければならない。
京太郎が部屋に戻ると、小蒔と憧が寝惚け眼で呆けていた。その様子がおかしくて、京太郎は少し笑った。
――霞さんは、俺にありがとうなんて言ってきたけれど。
本当に感謝しているのは、自分のほうだ。京太郎はそう思う。風邪を引いたとき、二人は懸命に看護してくれた。熱で意識が朦朧としていても、だからこそ、傍にいてくれた安心感は忘れられない。
翌日回復した京太郎に向かって、父親は珍しく神妙な顔つきで「身体に異常はないか」と訊ねてきた。病気にかかったら「鍛え方が足りん」、「気合で治せ」などと怒り出す父親としては、それこそ異常な対応であった。自分がどれだけ弱っていたのか、京太郎は思い知らされた。
それだけではない。
東京で過ごした時間。一緒に宿題をやった。一緒に観光した。一緒に社務所の仕事を手伝った。一緒夏祭りに行った。一緒に花火を鑑賞した。
全部、忘れがたく、失いたくない記憶ばかり。
小蒔と憧。
それに、霞、初美、巴、春。
皆女の子ばかりで、ちょっと気恥ずかしい気持ちはあるけれど。――京太郎は、そんな記憶を与えてくれた彼女たちに、感謝してもし切れない。
傍にいるとどきどきして、共に迎える明日にわくわくした。
この日の朝食は、昨日までと空気が違った。かちゃかちゃと食器と箸がぶつかり合う。ほんの僅かな咀嚼音が、無闇矢鱈と耳に鳴り響く。
左に座る小蒔の表情は、暗い。「おはようございます」の一言以来、口を開かない。
右に座る憧は、澄まし顔ではいるものの、何度も箸でおかずを掴み損ねている。食のペースも、ずっと遅い。
「小蒔ちゃん、ちゃんと荷物はまとめてる?」
「は、はい。それはもうしっかりと」
霞に訊ねられ、小蒔はやや慌てて答えた。そのまま霞は京太郎と憧に視線を送る。
「京太郎くんと憧ちゃんは?」
「ん、問題ないよ」
「同じく、すぐにでも……出発できるから」
憧の声は尻切れ蜻蛉で、静かな部屋に飲まれていった。
あれだけ元気な初美も、今日は沈黙を保っていた。巴は迂闊に言葉を発さない。春はいつも通りの無表情――その中に、京太郎は微かな寂しさを垣間見た気がした。
食事を終え、食器を洗い、お世話になった部屋を全員で掃除する。
皆、もっと手早く出来る器量の持ち主ばかりであろう。なのに、遅々として清掃は遅々として進まなかった。
「早く終わらせないと、間に合わなくなるわよ」
見かねた霞がそう声をかけても、小蒔の手は動かない。憧の足も、動かない。しかし霞は怒らず、ふぅっと小さな吐息を漏らした。
どうにもならない、どうにもできない。
そんな空気を断ち切るように立ち上がったのは――
京太郎だった。
「小蒔ちゃん」
「は、はいっ」
「憧」
「な、なによ」
名前を呼ばれた二人が、京太郎のほうへと振り向く。彼は至って真剣な顔つきで言った。
「俺、もっと二人と一緒にいたい」
京太郎は、思いつくまま、心のままに言った。
「もっともっと、遊んでいたいよ」
言われた二人は――声も出ない。小蒔も憧も、顔を真っ赤にして絶句している。しかし、京太郎は構わず続けた。
「もちろん、霞さんたちとも。――そう思ってるの、俺だけ?」
そんな、京太郎の問いかけに。
固まっていた小蒔と憧は、顔を見合わせる。
それから二人は、ぎゅっと目を瞑って叫んだ。まるで、涙を堪えるようだった。
「私もっ! もっと一緒に遊びたいですっ!」
「あたしだって、そんなの、……当たり前でしょ!」
「よし、分かった」
二人の答えに、頷いて。
京太郎はずんずんと歩き出す。そのまま部屋を出た。彼の後を、慌てて二人が追った。
「あんた、どこ行くのよっ」
「親父たちのところ」
「な、なんのために?」
「そりゃもちろん、ジカダンパンするためだよ」
京太郎はなんでもないことのように答えて、父親の部屋の戸を引いた。
部屋の丁度、京太郎、小蒔、憧それぞれの父親が揃っていた。すわなにごとか、と彼らは京太郎に視線を送る。
臆することなく、京太郎は切り出した。
「親父」
「なんだ」
「小蒔ちゃんと憧ともっと遊びたい。このままお別れするのは、嫌だ」
駆け引きも何もあったものではない。直球の要求に、部屋が静まり返った。
最初に手を叩いて笑い出したのは、憧の父だった。次に小蒔の父が笑い声を噛み殺し、立ったまま動かなくなる。
深い、深い溜息を吐いたのは、京太郎の父。
彼は、一度息子の頭に拳骨を振り下ろしてから。
「しょーがねーな」
と、息子とよく似た笑顔を浮かべたのだった。
◇
夏休みの後半、八月の最後の週。
「――須賀神社に、皆でお泊まり? 二泊三日?」
「はいっ」
「凄いのですよー、私たちも行って良いのですかーっ?」
「もちろんだぜ、はっちゃん!」
いえーい、と京太郎は初美とハイタッチを交わす。戦果を伝えられた霞は呆れ気味の苦笑を浮かべたが、小蒔が憧と抱き合う姿を見ているうちにどうでもよくなったらしい。巴と春を引き込んで、盛り上がる初美たちともみくちゃになった。
「このまま恒例行事にしちゃうのですよー!」
「次の冬休みは霧島神境にしましょうっ」
「じゃあ、春休みは奈良ねっ。シズにあんたたちのこと紹介しなくちゃっ」
次から次へと子供たちの計画は立てられていく。先ほどまでのお通夜の空気は、欠片ほども残っていない。
良かった、と京太郎は安心した。
小蒔にも、憧にも、暗い顔は似合わない。彼女たちが悲しいと、京太郎も辛くなる。まるで、心が繋がっているみたいだった。
だから、二人には笑っていて欲しいのだ。今みたいに、純粋に、何の憂いもなく笑っていて欲しい。
「……はい、ひとまずここまで。掃除の続き、やりましょう」
ぱん、と霞が手を叩いて場を取り仕切る。かく言う彼女の頬も、少し赤い。
今まで何をやっていたのか、というくらいのペースで部屋の掃除は終わった。掃除中も、笑い声と未来を語る言葉は途絶えなかった。
お世話になった人たち全員に、皆で挨拶に回る。
それから駅へと向かう車に荷物を詰めて、京太郎は一息ついた。
去年の夏休みは、終わりに近づくにつれ憂鬱になったものだ。宿題にほとんど手を付けていなかった、というのもあるけれど。やはり、休みの終わりはもの悲しかった。
だけど、今年は違う。
小蒔と憧たちが、やってくる。
たったそれだけで、京太郎の心は湧き踊る。小蒔たちの前では絶対に見せられないが、小躍りしたい気分だった。
そのくらい、京太郎は皆が好きだった。大好きだった。
――あ、これ、やばい。
目の奥が、熱くなる。急激に、視界が狭まる。
再会を約束したとは言え、一ヶ月以上はお別れだ。もうずっと一緒にいた気がするくらい、小蒔と憧が傍にいるのは当たり前になっていた。
もっとどっしり構えていよう。彼女たちにみっともないところは見せたくない。――そう思うくらいには、京太郎は「男の子」だった。
なのに、溢れ出る感情に理性が追いつかない。小蒔たちから悲しみの色は消えたというのに、こんなことでどうする。京太郎は自分に言い聞かせるが、油断すると震えた声が喉から絞れてしまいそうだった。
「京くん」
「京太郎」
背後から、名前を呼ばれる。
京太郎は大慌てで目元を拭って、振り返った。小蒔と憧が、ちょっとびっくりしたような顔で立っていた。
「京太郎、あんたもしかして……」
「泣いてなんかいないからな」
憧の言葉を遮って、京太郎はそっぽを向く。憧は、微かに笑った。
「うん。京太郎は強いから、泣いたりなんかしないもんね」
「ばかにしてるのかよ」
「ばかにしてたら、こんなところにいないわよ」
「……ふん」
鼻を鳴らす京太郎の前に、小蒔が歩み出た。
「京くん」
「なに、小蒔ちゃん。そろそろ行かないと不味いんじゃないの」
「そうですね。……でも、その前に一つだけ、お願いを聞いてくれますか」
「お願い?」
はい、と小蒔は安らかに頷く。そして、憧の右手をとった。
「私と憧ちゃんの、お願いです」
「……良いよ。聞いてやるよ」
「あの、まだ何も言ってませんが」
「小蒔ちゃんたちのお願いなら、しょーがねーもん」
父親を真似た京太郎の物言いに、小蒔たちは笑った。京太郎も、笑った。
それぞれの出発点に向かう前、小蒔と憧の先導で、一同はある場所に向かった。道中で、彼女らの意図に気付いて京太郎ははっとした。
――そこは、三人が出会った場所。
名前も知らなかった、地下鉄の駅。
「流石にホームじゃ迷惑をかけちゃうか」
「入口を背景にして……」
「ちゃんと駅名の看板入るようにしてね」
小蒔と憧は、てきぱきとポジションを確保する。彼女らの手は、しっかりと京太郎の手に繋がれていた。
「ま、記念ってことで」
「思い出ということで」
憧と小蒔が悪戯っぽく言って、京太郎ははぁ、と溜息を吐く。
カメラを手にした霞が、「準備は良いかしら?」と声をかけてくる。はぁい、と憧が元気に返事をした。
「京くん」
「なに、小蒔ちゃん」
「私、ずっとこの場所を覚えています。迷子になっていた私たちが助けられた、この場所を」
「あたしも覚えてるから」
憧が、小蒔の言葉を引き継ぐ。
「だから、もしもまたあたしたちが道に迷ったらちゃんと探しに来てよね、京太郎」
「そもそも迷うな、ばか」
「もしもの話よ」
そんなもしもは要らねぇよ、と京太郎は呟いた。そうでもしないと、また胸の中が苦しくなりそうだった。
左手は小蒔。
右手は憧。
強い力で握り合い、カメラの前で三人は笑顔を見せる。
「……俺も」
――俺も、ずっと覚えてる。そう、ずっとだ。
決して色褪せずに、記憶に残る。残してみせる。
カメラを構えた霞に、もう一度、今朝と同じことを訊ねられた気がした。
――良かったら、これからもずっと小蒔ちゃんと友達でいてくれる?
「当たり前だよ」
「京くん?」
「京太郎?」
ぐん、と京太郎は両手を振り上げる。カメラのシャッターが、切られた。
「小蒔ちゃんと、憧と、俺は――ずっと、友達だっ!」
次回:幕間/宮永咲/見知らぬ顔