東京/東京大神宮
神社の娘として、お祭りという行事は面倒の一言に尽きる。新子憧の率直な気持ちはそれだった。
地元商工会との綿密な打ち合わせ、警察消防署との連携に参加者への注意事項の周知徹底、境内の管理、市議会議員への挨拶回り、関係各所との折衝、エトセトラ、エトセトラ。祭りが終わったらもう来年の祭りの準備を始めなければならないほどだ。
もちろんまだ幼い憧が重要な仕事のほとんどに関わることはないが、祭りが近づけば家の中はてんやわんやである。何かしらのしわ寄せは必ず来るし、憧から積極的に準備を手伝わなければ怒られる。
さらに言えば、祭りの当日もゆっくりしている時間はさほどない。なのに、級友たちは祭りを思う存分楽しんでいるのだ。誘いを断るのも面倒だし、話題にも入って行きづらい。
自分の役割を終わらせた後――既に祭りが終盤に差し掛かった頃、親友の穏乃が夜店での戦利品を片手に声をかけてくれるのが憧の常だ。彼女に愚痴を聞かせて、また明日。彼女にとっては、そういう日。
「京太郎のところは、どう?」
「俺んとこも大体同じだよ。そりゃうちは憧や小蒔ちゃんところに比べたら零細神社で祭りも小さいけどさ。サボろうもんなら、親父にどやされる」
「やっぱりそうよね」
巫女服に着替えた憧は、京太郎の答えに苦笑いする。彼もまた、今日は袴に袖を通していた。
「確かに、お祭りの日はいつも大変ですね。神境の者皆で働かねばなりません」
同じく巫女服姿の小蒔が同意する。いつも一つに束ねているおさげは、今は二つ。
「それに比べたら、今日は楽なものだったわね。ほんと、こんな祭りは大歓迎よ」
関係者やお歴々の皆様方を、目的地までご案内する。憧たち三人に任された今日の役割は、それだけだった。多少勝手が分かれば問題なくこなせたし、子供が案内役を務めると言うだけでお客様は満足してくれる。「お小遣い」と称してお金を渡そうとしてくる人までいて、それを断ることが一番大変であった。
三人は、宿の縁側に並んで腰掛けていた。
ちりん、ちりんと風鈴が音を鳴らす。夕方から夜に差し掛かろうとする時間帯、しかし夏の陽はまだ高く、空気は熱せられたまま。鈴の音は、憧の胸に清涼を与えてくれた。
やや離れたところからは、祭りらしい喧噪が聞こえてくる。笛と太鼓の音はどこの祭りも同じだな、と憧は思った。
切り分けられた西瓜に塩を振って、食む。口の中に広がった甘みは、憧の頬を緩めさせた。隣の京太郎は勢いよく齧り付き、その向こうの小蒔は女の子らしく口をほとんど開けずに食べていた。その違いがあまりにもおかしくて、憧は笑ってしまった。
「京くん、口元」
「あ、さんきゅ、小蒔ちゃん」
さらっと小蒔がハンカチを取り出し、京太郎の口元を拭う。こういうことをさらっとやってのける小蒔を、憧は羨ましく思う。自分は精々憎まれ口を叩いて注意するくらいだ。
甲斐甲斐しく京太郎の世話を焼く小蒔に、面倒だなんて感情は一切見られず、むしろ嬉々として取り組んでいる。
――小蒔は、京太郎のことをどう思っているのだろうか。
昨日は、気付けば京太郎と小蒔は二人きりになっていた。自分一人、初美たちと一緒にいた。初美たちが悪いわけじゃない。彼女たちと遊ぶのも楽しい。だけど、京太郎と小蒔の二人から引き離されると、途端に心がもやもやする。
今も、小蒔と京太郎は仲睦まじくじゃれ合っている。
――考えすぎるといけない。
憧は頭を振って、残っていた西瓜を平らげた。
「ごめんなさい、待たせたわね」
丁度そのタイミングで、背後から声がかかる。振り向けば、霞たち四人が立っていた。全員、やはり巫女服だ。
「でも、これで後は全部自由時間よ。早速お祭りに行きましょう」
「その前に霞さんたちも西瓜食べていけば? まだ余ってるよ」
「うふふ。良いの、後で頂くから」
京太郎の提案をあっさり蹴って、霞は小蒔の手を取り立ち上がらせる。
「お祭りの日にゆっくりできるなんて、早々ないもの。時間が勿体ないわ」
いつも泰然自若と構える霞が、珍しく急かしてくる。言っていることは、憧とほとんど同じ。京太郎と小蒔が可笑しそうに笑った。
「霞さんに大賛成」
京太郎の頭を軽く叩いてから、憧は立ち上がる。
「折角の機会、楽しまないと損よね」
「行くですよー!」
「憧ちゃんの言うとおりですね」
「黒糖、食べてく?」
そして、一同は縁日へ。
立ち並ぶ夜店の数々、道一杯の人集り。用意する側の人間としてよく知っているはずの光景は、しかしどこか違って見える。
お給金という名のお小遣いによって、財布の中はいつになく一杯だ。かき氷もりんご飴も買い放題である。
「小蒔小蒔、何から食べる?」
「わ、私たこ焼き食べたことないんです。是非ともっ」
「じゃ、たこ焼きからねっ」
憧と小蒔が先頭を切って歩く。その後ろを京太郎、やや離れて六女仙が続く。
二人はそれぞれたこ焼きを注文する。先に小蒔の分を受け取り、憧が自分の分を待っていると、
「はい、京くん」
「じ、自分で買って食べるから」
「遠慮なさらず、どうぞ」
先日のお粥のときと同じように、小蒔が京太郎の口にたこ焼きを持っていく。小蒔は無邪気な様子で、善意だけでやっているのは憧にも分かる。
けれども、京太郎がそのたこ焼きを食べた瞬間、憧の心はかき乱れた。
――あたしも。
受け取ったお皿を片手に、京太郎へ近づいていく。
――あたしも、京太郎に。
ふらふらと、憧の足が進む。
そこで、がしりと腕を掴まれた。はっと意識を取り戻し、憧は振り返る。手の主は、初美だった。
「あっちのわたあめも美味しそうですよー!」
「あ――」
このパターンは、昨日も味わった。すぐに憧は直感した。このまま京太郎と小蒔から、引き離されてしまう。
――違う。
あの二人が、二人だけになってしまう。
自分はそれが嫌なのだと、憧はようやく理解した。しかし、初美の力は存外に強く、憧では抗えない。
だが、初美を止めた人間が別に居た。
初美の肩をがっしり掴み、連動して憧の足も止まる。
「は、はるるー?」
「ダメ」
春だった。これまでほとんど発言してこなかった彼女の突然の行動に、憧は目を白黒させた。霞や巴も、戸惑いの声を上げている。
「姫様、こっち」
「は、はい」
春に手招きされ、小蒔は素直に傍に寄ってくる。春は初美の肩を抑えたまま、さらに小蒔の手を取った。
それから憧に向かって、抑揚のない声で言った。
「行って」
「な、なにを」
「は、はるる。どうしたんですかー、打ち合わせと違うですよー」
初美たちの抗議に、春は首をゆっくり横に振った。
「フェアじゃ、ない」
その春の言葉で、憧の視界はかぁっと赤く染まった。
「行って」
春は、重ねて言った。
憧は走った。たこ焼きの一つが落ちてしまうのも気にせず、京太郎の腕を引ったくるように掴んで、無理矢理人混みをかきわけ前に進んだ。
「お、おいっ。小蒔ちゃんたちほってどこ行く気だよっ」
「うるさいばかっ、着いて来なさいよ!」
言葉とは裏腹に、憧に向かう宛てなどない。
――クラスメイトの女の子が、隣のクラスの誰某くんが良いだとか、最近よく噂している。学年が上がって、そういう子が増えてきた気がする。早熟な子なんかは、付き合っている男の子がいるらしい。
憧からすれば、信じられない話だ。よく穏乃と一緒に聞き役に回っているが、決して自分の話はしない。できるはずもなかった。
気になる男子なんて、いなかったのだから。
夜店から離れ、辿り着いたのは社の奥。
一般人は立入りを禁止される区域で、当然人気はない。荒くなった息を落ち着けて、憧は連れてきた京太郎に向き直る。
京太郎は突然の憧の暴走に、驚いているようだった。
「だ、大丈夫か? すげー息切れてるぞ」
それでも彼は、労りの声をかけてくる。
「うるっさいっ」
なのに、出てくるのは反抗心に満ちた言葉ばかり。
こんなこと、思っていないはずなのに。本当は、違うことを伝えたいのに。
――ああ。
そうだ。認めよう。認めざるを得ない。認めてやろうじゃないか。心のどこかで「理解できない」と小馬鹿にしていたクラスメイトたちと、自分は同じだと。
――新子憧は、須賀京太郎が好きなのだと。
大事な小蒔に負けたくないと、思ってしまうくらいに大好きなのだと。
「憧……?」
気遣わしげに京太郎が憧の顔を覗き込もうとしたその瞬間。
遠くで、花火が打ち上がる。
はっと、憧と京太郎は空を見上げた。どん、どん、どん、と連続で夜空に花が開いた。とても、美しい花だった。
「すっげー。うちじゃ絶対無理だこれ。いやでも見せ方の問題か……?」
「流石東京、お金あるわね……何とか低予算でも作れないかしら」
若干ずれた感想を二人は抱きつつ、しばし花火を鑑賞した。お腹まで響いてくるような音の衝撃が、心地よい。
少し時間が経ったことにより、憧は平静を取り戻す。
自分のしでかしたことが恥ずかしくて、顔から火が吹き出そうだった。感情のままに動くなんて、合理的な自分らしくない。憧は、その場にうずくまりたくなった。――春が悪い。あんな急に、全て見透かしたことを言ってくるなんて。何も興味がなさそうな顔をして、とんだ食わせ者だ。
「で、なんだよ憧、何があったんだよ」
「うっさい!」
「なんだ、今日は特別当たりがきついな」
へらへらと笑いおってこの男、と憧は京太郎を憎らしく思う。そう思いながらも、彼のおおらかさを愛おしく感じるのだ。
――ああ、これは重症だ。
憧は自覚しながら、手元の容器を確認する。六つが入っていたはずのたこ焼きは、どこに落としてきたのか、もう残りは一つだけになっていた。
憧は迷いながら、しかし、手は止まらない。
「……京太郎」
「なんだよ」
「はい、あーん」
花火がもう一輪、空に咲いた。
◇
祭事は全て終わり、夜店も撤収の準備を始めた頃。
合流した七人は、宿に戻ってきていた。終始顔を真っ赤にした憧は初美たちにからかわれたが、反抗できなかった。
小蒔は相変わらず無垢に笑っていて、憧には彼女が何を考えているのか分からない。怒っているのか、悲しんでいるのか。心配になった憧に、そっと春が耳打ちしてきた。
「問題ない。これで平等」
「は、春あんたね――」
素知らぬ顔で、春は巴のところに歩いて行く。振り上げた拳の落としどころを失い、憧は溜息を吐いた。今日のところは、彼女に感謝せねばならない。
「なァ、花火しようぜ!」
声をかけた京太郎が手に持っていたのは、コンビニで売っている花火セットだった。打ち上げ式のものはないが、量だけは充分にある。
「さっきまで散々見てたのに……どこでするのよ」
「手持ち花火には手持ちの良いところがあるだろ。ここの庭でやっても良いって。ちゃんと許可はとってきた。あ、霞さんバケツありがと」
「いいえ、私もこういうの、やってみたかったの。霧島神境じゃあんまり騒がしいのは好まれないから」
相変わらず手際だけは妙に良い。憧は再び溜息を吐いて――いつもの笑顔に戻った。
「しょうがないわね、付き合ってあげるわよ。ね、小蒔」
「は、はいっ。私も是非是非やりたいですっ」
「ははー、承知しました、お姫様方」
京太郎が冗談めかして頭を下げながら、封を開けた。姫と言われた小蒔が照れ臭そうに俯く。本気ではない発言と知りながら、憧も嬉しかった。
ススキ花火を両手に暴れる初美や、絵型花火を興味深そうに見つめる霞。春はネズミ花火を無計画にばらまいて、巴は変色花火に目を奪われる。
楽しいな、と憧は純粋に思った。
厳しい中に、優しさを忍ばせる霞。一緒にお腹を抱えて笑い合える初美。皆よりもちょっと大人で頼りになる巴。よく分からないけれど、よく分かってくれている春。
そして、京太郎と小蒔。
もしかしたら、小蒔とは喧嘩するときが来るかも知れない。考えたくない未来があるのかも知れない。
でも、それでも大切な友達だ。親友であり続けたい。
二人ともっと、一緒にいたい。皆とずっと、一緒にいたい。穏乃に思うような気持ちと同じ感情を、憧は彼らに抱いていた。たった数日の付き合いは、しかし憧の心に強く刻みつけられていた。
京太郎たちも、同じ気持ちでいてくれたらな――憧は目を閉じて、そう願う。
あっという間に花火は数を減らして、残りは三本の線香花火だけになった。
憧と、小蒔と、京太郎。
霞たちに譲られて、三人が線香花火を手に取る。
「大きい花火も綺麗だけど、これも良いわね」
「だろだろ。ええっと、こういうのを何て言うんだっけ」
「風情がある、ですね」
「それそれ!」
「京太郎が風情とか語っちゃうの?」
「何だよ文句あるのかよ」
「ふ、二人とも喧嘩しないで」
ちりちりと、光が地面に落ちてゆく。
これが消えれば、今日が終わる。
今日が終われば――お別れだ。
分かっていたこと。分かっていても、納得できないこと。年齢に見合わず聡い少女である憧でも、割り切れない。
「小蒔」
「はい?」
「京太郎」
「どうした?」
ありがとね、と憧が呟いたのと同時。
線香花火は、その輝く僅かな時間を終わらせた。
ああ、と憧は思い出す。――穏乃へのお土産、買っておくのを忘れていた。
次回:七/須賀京太郎/ずっと
次々回:幕間/宮永咲/見知らぬ顔