東京/東京大神宮
京太郎が起きてこない。
事態が深刻であることに最初に気付いたのは、憧だった。そろそろ起きないと朝食の時間に間に合わないと告げられ、彼女は京太郎の掛け布団を引っ剥がした。「いつまで寝てるのっ!」と悪戯心に満ちた声は、急速に萎んでいった。
「す、須賀……?」
顔は真っ青。額に浮かぶのは玉のような汗。呼吸は荒く、苦しそうに顔を顰めている。
往診を依頼した医者の見立てでは、ただの風邪。ただし体力がかなり落ちているので、薬を飲んで安静にゆっくり休むべしとのこと。
ついでに看て貰った憧の足の怪我は、大したことはなかった。ただ、未だ少し歩きづらいのも確かである。こちらも無理な運動は控えるように、とのお達しだった。
本来であれば、東京を訪れた憧の目的は父の付き添いである。日中行われる勉強会への参加や、社務所の手伝い諸々を務める予定であった。だが、憧は父に全ての予定をキャンセルするよう頭を下げた。昨日の時点で迷惑をかけており、我が儘を言える立場でないというのは彼女自身重々承知であった。
それでもだ。
臥した京太郎の看護を務めたかった。
昨日一日、ずっと彼は気を張っていたはずだ。女の子二人を引っ張り鼓舞し、途中憧たちが眠ってしまったときもずっと起きていた。
それに、あの雨。
京太郎は、できる限り憧と小蒔が雨に濡れないようにしてくれていた。交番に辿り着いたとき、一番の濡れ鼠は彼だった。最後の行程では、背負ってまで歩いてくれた。
彼が風を引いてしまった責任の一端は、自分にある。――憧がそう思うのは、自然な流れであった。
結局、娘の真剣な眼に負けた憧の父は、苦笑しながら許可を出した。
「……ふぅ」
京太郎のおでこや脇を冷やし、憧は小さな溜息を吐く。
時刻は午前十時半を回ったところ。仰向けに眠る京太郎の胸は、ゆっくりと上下する。肌の汗を拭き取るときに熱は、異常なまでに高く感じてしまう。本当に休んでいるだけで大丈夫なのだろうか、憧は不安になってくる。
昨日は七人で泊まった広い部屋に、今は二人きり。当然彼女たちの間には沈黙のみで、時計の針が進む音ばかりが部屋の中に木霊する。漂う香りは自分の家と似ているようで違って、普段の生活環境とは異なることを強制的に意識させられる。
憧は膝を抱えて、じっと京太郎の顔を見下ろした。
「……ごめんね」
彼に向けた言葉は、部屋の中に吸い込まれて消える。元気になったら絶対文句を言ってやる、と強い決意をしながらも、憧は自分の膝に顔を埋めた。
「ただいま戻りました」
細い声とともに、障子が開けられる。憧は顔を上げた。もう慣れ親しんだ友人が、そこに立っていた。
「お帰り、神代さん」
「ごめんなさい、お一人で任せてしまって」
「ううん、このくらいヘーキ。神代さんのほうは?」
「はい、車を出して頂いたので問題なく」
小蒔はスーパーのビニール袋を掲げて頷いた。中身は食材だ。
「台所、借りてきますね」
「あ、あたしも手伝う」
「新子さんは京くんを看ていて下されば……」
「さっき寝付いてしばらく起きそうにないから。一人じゃ運ぶのも大変でしょ?」
言って、憧は立ち上がる。小蒔は「では、お願いします」と頷き、廊下を渡っていく。憧は彼女の背中を追いかけた。
憧と同じく、小蒔も京太郎の看病をすると言って聞かなかった。たおやかな彼女らしからぬ強情さに、大人たちも驚いていた。
詳しい話を憧は知らないが、小蒔の扱いが霞たちとは違うというのは、なんとなく察せられた。呼称は「姫様」で、そこにからかいは微塵もない。数多くいる大人たちも、彼女に対しては何かしらの敬意を払っているようだった。
そんな姫君が、京太郎の看病を申し出たのには都合が悪い人間もいたのだろう。やんわりと考えを改めるように諫める人間もいたが、小蒔は頑として譲らなかった。
さらに彼女は、霞たちが手伝うと言っても聞く耳を持たなかった。押し問答の後、霞が折れた。初美たちの驚いた顔が印象的だった。
たった一人、憧だけが一緒に看病することとなった。言葉を交わさなくとも、「二人で」というのは憧も小蒔も互いに分かっていた。
台所での小蒔の手際は、あまり料理をしない憧からすれば見事の一言だった。米をとぐのも、卵を割るのも、憧には真似できない。憧は小蒔が「お嬢様」だと、侮っていたことに気付かされる。
「神代さん、料理上手なんだ」
「よく霞ちゃんたちと一緒に作ったりするので、ある程度は」
憧の賞賛に、ちょっと照れ臭そうに小蒔は苦笑いした。
「これである程度かぁ」
小蒔がとても大人びて見える。憧にとっては実際年上なのだけれども。羨望と憧憬の情が憧の中に浮かんだ。
とにもかくにも、憧に手伝える部分は少なかった。自分たちが食べるおにぎり作りの手伝いと、精々食器を用意するくらい。
京太郎のために小蒔が作ったのは、卵粥だった。二人で協力して部屋に運び込む。
準備が整ったところで、京太郎が体を起こした。憧たちはすぐに傍へと駆け寄った。
「京くん!」
「須賀!」
「ん……おはよ、二人とも」
起き抜けでどこかぼうっとした声ながらも、京太郎は微笑んで言った。その顔は、まだ血の気が少ない。
「悪ィ、迷惑かけて」
「迷惑だなんて、そんなこと」
小蒔が首を横に振る。その瞳は潤み、京太郎とは対照的に頬は朱に染まっていた。
「須賀、食欲ある? 朝ご飯食べてないでしょ、あんた」
「うん、ちょっと食べる」
承知しました、と小蒔が頷きお粥が入った椀を手にする。彼女はれんげで一掬いし、京太郎の口元に持っていく。
「えっ」
「はい、あーん」
「じ、自分で食べられるって」
「あーん」
「……あーん」
小蒔に全く引く気配はなく、躊躇いがちではあったものの、京太郎は粥を口にした。恥ずかしそうにしていた彼の表情は、すぐに輝く。
「あ、美味し」
「良かった」
小蒔はほっと胸を撫で下ろす。それからもう一掬いして、京太郎に差し出していく。今度は京太郎も、すぐにかぶりついた。
「……良いなぁ」
ぽつりと呟いた憧の独り言は、二人の耳に入らなかった。小蒔の立場が、無性に羨ましかった。だが、お粥は彼女が作ったものだ。その資格は自分にない。
と思っていたら、
「小蒔ちゃん、ちょっと」
障子を開けて、霞が部屋に入ってきた。彼女は起きた京太郎を認めると、
「あ――須賀くん、起きたのね。調子は……あんまり良くなさそうね。ゆっくり休んでね」
「どうもです」
「小蒔ちゃん、ちょっと良いかしら。おじさまが呼んでるの。そんなに時間はとらせないからって。ごめんなさいね」
「分かりました。……はい、新子さん。お願いしますね」
「え、えええっ」
お粥を手渡され、憧は顔を引きつらせる。小蒔は急いで霞の後を追っていった。
取り残された憧は、お粥とれんげを手に京太郎へ向き直る。
「あ、新子?」
「…………ほら。食べさせて上げるから」
「いや、そんな嫌なら無理しなくても。自分で食べられるくらいには元気だから」
「嫌じゃない」
憧は、京太郎の言葉を強く否定して。
「嫌じゃないから……ほら、冷めない内にさっさと食べなさいよ」
お粥をすくい、京太郎とは目を合わせず、憧はれんげを押し付ける。れんげは小刻みに震えていた。京太郎はもう一口食べてから、訊ねた。
「これ、新子と小蒔ちゃんが作ったの?」
「……あたしはなにもしてない」
「そっか。ありがとな、新子」
憧の答えを、京太郎は謙遜と捉えたらしい。憧はそれ以上否定できず、京太郎と正面から向き合わないまま俯いた。
それからゆっくりと、お粥の中身は減っていった。半分くらい胃の中に入り込んだところで、京太郎は、
「ちょっと休憩させてくれ」
ストップをかけた。安心したような、残念なような、自分でも整理できない複雑な感情を持て余したまま、憧はれんげを置いた。
「さんきゅ、美味しいよ」
「ううん、……別に、このくらい」
「このくらいじゃないだろ。さっきもずっと傍にいてくれたの、新子だろ」
「お、起きてたのっ?」
「いや。なんとなく、そんな気がした。違った?」
「……違わないけど」
恥ずかしくて、どうしても京太郎と視線を合わせられない。今や彼に背中を向けてしまっている。もうこの場から逃げ出したい。
それでもどうしても気にかかることがあり、悩みに悩んだ果て、憧は京太郎に訊ねた。
「ね、須賀」
「なに?」
「なんであんた、神代さんのこと名前で呼んでるの? 神代さんも、いつのまにかあんたのこと『京くん』って呼んでるし」
「んん……なんか、小蒔ちゃんがそうして欲しいって言うから」
「ふーん」
自分でもびっくりするくらい、硬質的な声が出た。後ろで京太郎がびくりと体を震わせるのが分かった。
「なんだよ」
「二人だけ、ズルい」
「ズルいって言われてもな」
「ズルいものはズルい」
「えぇー……」
「ただいま戻りました」
押し問答の最中、小蒔が部屋に戻ってきた。憧と京太郎、二人して「お帰り」と声を揃えて言った。
「挨拶回りをしてきました。今日はもう、ずっとここにいて良いと」
「別に、遊びに行ってきても良いのに」
「京くんを放ってはいけません」
それだけは有り得ないとばっさり切り捨てて、小蒔は京太郎の傍に座る。
「ここにいます」
「……ども、ありがと、小蒔ちゃん」
「はい」
やっぱりズルい、と憧は思った。
「神代さん、あたしも神代さんのこと名前で呼んで良い?」
「えっ? も、もちろんです! じゃあ私も新子さんのこと……」
「憧って呼んで」
「はいっ」
小蒔は顔を輝かせて頷いた。それから憧は京太郎を指差して、
「あんたも」
「……オーケー、憧」
「…………うんっ、よろしく京太郎!」
憧は、何だか久しぶりに笑った気がした。
この三人でいられるのが、嬉しい。不思議な、見えないもので結ばれている気がして、心地よかった。
昼前になり、憧も丁度お腹が空いてきた。
小蒔と一緒に握ったおにぎりを食す。自分が握ったものは、小蒔のそれに比べて形がいびつで、京太郎から見えないよう隠しておく。
「でも、本当にごめんなさい京くん。こうなってしまったのは私のせいです」
「あたしたち、でしょ? 小蒔」
「憧ちゃん」
小蒔の謝罪に訂正を入れ、憧は言った。小蒔がいると、少し素直になれる。
「昨日の夜も疲れていたのに、女子会に付き合わせちゃったもんね。ほんとにゴメン」
「いーよ。このくらいで風邪引くとは、俺も思ってなかったし。うーん、鍛え方が足りなかったかなァ」
「あれだけ雨に打たれたんだから仕方ないでしょ」
「日常茶飯事だよ、あのくらい」
「それはそれでどうなのよ」
軽口を交えつつ、三人はしばし談笑に興じた。途中食欲を取り戻した京太郎は、小蒔と憧に食べさせて貰って、結局卵粥を完食した。
しかし、それでも京太郎の顔色は優れない。
小蒔に促される形で、京太郎は再び床に臥した。
間もなく、彼は静かな寝息を立て始める。先ほどまでよりも幾分か、楽になっているようだった。憧はちょっとだけ、ほっとした。
一度部屋を出て、小蒔と共に食器を片付ける。
「ありがと、小蒔。あたしじゃお粥、作れなかった」
「いいえ、私こそ。憧ちゃんがいてくれなかったら、不安できっと、何にも手がつかなかったと思います」
「……だったら、良かったかな」
憧たちが部屋に戻ると、京太郎はちゃんと眠っていた。寝苦しくもなさそうで、二人は揃って一安心する。
安心したら、今度は憧まで眠たくなってきた。
と思えば、小蒔もうつらうつらとしている。
「布団、敷こっか」
「……はい」
憧がそう提案すると、小蒔は恥ずかしげに笑った。
示し合わせたわけでもなく、憧たちは京太郎の両隣に布団を敷いた。小蒔の集中は既に切れかかっていたようで、ころんと布団の上に転がると、すぐに眠ってしまった。その様子は微笑ましくて、六女仙たちが彼女を大切にしている理由が、憧にもちょっと分かった気がした。
それにしても、と憧は思う。
京太郎が風邪で倒れたとき、小蒔はずっとおろおろしていた。ともすれば泣き出しそうなくらいだった。
しかし、京太郎を前にして、彼女はそんな素振りを一切見せなかった。風邪で弱っている相手に、不安を与えないようにしていたのだろう。そんな彼女のおかげで、憧も京太郎の前で取り乱さずに済んだ。
以前、宿題で国語辞典をめくった記憶がある。そのときたまたま見つけた献身という言葉を、憧は覚えていた。たぶん、この言葉の意味が「これ」なのだろう。
小蒔の様子を窺うと、眠る彼女の右手が京太郎の左手を握っていた。憧はどきりとした。
二人は、すやすやと眠っている。起きる気配は、欠片もない。
襲いかかる午睡の気配に抗って、憧は迷う。迷いながら、京太郎の手元を見た。自分の手と比べて、少し硬そうな指先。
――二人だけ、ズルい。
それが言い訳だとは気付かないまま、憧は京太郎の指先に手を伸ばした。
次回:五/神代小蒔/デート